Soranoha

鳩

はと

原 民喜

鶉居山房と私とは路傍に屈んで洋服屋の若旦那を待ってゐた。別に用事なんかなかったのだが、待ってゐるうちに帰るのがめんどくさくなった。若旦那は今朝から留守なのださうだから、なかなか帰っては来まい。そこの通りは人通りも稀れで静かだった。私達は煙草を吸ってぼんやりしてゐた。その時学校から帰る二人連れの小学生がすぐ側を歩いてゐた。そして、小学生の肩の辺に鳩がたまたま飛んで来た。すると小学生は帽子を脱いで鳩を掬はうとした。鳩は大きな羽ばたきを残して屋根に舞上った。即ち鶉居山房はからからと噱わらひ出した。「蝶々ぢゃあるまいし、わーい、わーい。」と彼が嬉しがると、小学生はてれてしまった。これで私達は洋服屋の若旦那に逢はないで帰れる機運が生れた。ところが翌日、その洋服屋は何処かへ夜逃げしてしまったのだった。

私が洋服屋の若旦那に逢へたのは、それから四五年後のことだった。ひどい春雨が降りまくる日、思ひきって彼を訪れてみると、彼はアパートの六畳で運のよくならないのを喞ってゐた。「早い話が、君。」と彼は云った。「この部屋だって屋根が漏るんだからね。」と、彼が天井を見上げると、ひどい降りが亜鉛屋根にあたる音とともに、ぽたぽたと畳に落ちて来る。暫くの間、さうして彼は怨しげに天井と畳を見較べてゐたが、不図雨が漏らなくなったのに気づいた。

「おや、こいつは変だな、たしかに今雨は降ってゐるのだがね。」

彼が訊ねるまでもなく亜鉛屋根は烈しく鳴ってゐた。

「すると、大きな鳥でも来て屋根に留まったのかな。」さう云って彼はひょいと晴やかな顔をした。

底本 / Source edition

底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店
1966(昭和41)年2月15日初版発行
入力:蒋龍
校正:伊藤時也
2013年1月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/048495_000293/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/048495_000293/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/048495_000293/

原 民喜「鳩」(新字旧仮名)、底本『普及版 原民喜全集第一巻』芳賀書店、1966年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 048495_000293, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite