Soranoha

残雪

ざんせつ

原 民喜

青空に風呂屋の煙突がはっきり聳えてゐた。その左の方に外苑の時計台と枯木の梢が茫と冬日に煙ってゐた。もっと近いところには屋根の入り乱れた傾斜が、一方に雪を残して続いてゐた。雪があるので、そこの二階の縁側からは景色が立体的に見えた。立体的と云へば、この景色を眺めて争ってゐる二人の男の対比もまたさうであった。

一人はこの春さきの景色が煽情的だと云って頻りに嬉しさうに眺め廻した。一人は彼がそんなに景色にまで愛恋を感じるのがをかしいと云ってそれを笑ひこけた。そして二人はとりとめもなく、こんにゃく問答をしながら、ネクタイを結んで出勤の用意をした。

それから二人は電車に乗っても依然として争ってゐた。一体、何がそんなに問題の中心になってゐるかと云へば、ことの起りは、一人が女を大へんいいと云ひ、一人が女を大へんつまらないと云ひ出したことからであったが、――かう云ふことを問題にさすに応はしい二月の午後でもあった。

一人は、海辺で桃の花と牛を眺めながら如何に中学時代恍惚としたか、無人島の松林の蝉の声に如何に魂を奪はれたかと云ふやうな話まで揷入した。そして二人は東京駅で下車すると、八重洲口の方へ地下道を歩いた。その時、

「何とか彼とか云ひながら、男が金を稼ぐのは、つまり女房のために生活をより修飾するためなのだね。」と一人が云った。

「さうではない、それは大へん面白くないことだ。」と相手が大反対を唱へた。そこで二人のあげつらひは急激に縺れて行った。階段を降りて駅を出ると、もうお互に時間がなかった。で、一人が云った。

「つづまるところ君は肯定狂だよ、何でも彼でも、いい、いい、いい、いい、いい、いい、と云ふぢゃないか。」

「何だい、それなら君こそ否定狂さ、一から拾まで、否いや、否、否、否、否だ。」

「ハハハハハ」

そして二人は別れた。肯定狂は美人グラフへ、否定狂はダンスホールへ、それぞれ職場を持ってゐた。

底本 / Source edition

底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店
1966(昭和41)年2月15日初版発行
入力:蒋龍
校正:伊藤時也
2013年1月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/048460_000293/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/048460_000293/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/048460_000293/

原 民喜「残雪」(新字旧仮名)、底本『普及版 原民喜全集第一巻』芳賀書店、1966年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 048460_000293, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite