Soranoha

顔の椿事

かおのちんじ

原 民喜

お仙の夫は今朝、橋から墜ちて溺れたが、救助されたのが早かったのでまだ助かりさうだった。手当は姑や隣りの人にまかせて置いて、お仙は町まで医者を迎へに走った。医者は後から直ぐ来ると云ふので、お仙はまた呼吸を切らせて山路を走った。すると家の近くの淫祠まで来たところで、隣りの主人とばったり出逢った。お仙は顔色を変へて唖者になった。隣りの主人はこれも二三秒唇を慄はせたまま、ものが云へない。が、やがて彼は頓狂な声でかう叫んだ。

「死んだ、死んだ。」

お仙の顔は暫く硬直したままであったが、ピクリと頬の一角が崩れると、妸娜っぽい微笑に変った。それからお仙はともかく隣りの主人と一緒に家へ急いだ。

家へ戻ると、お仙は直ぐに夫の顔を覗き込んだ。お仙の夫は蒲団に寝かされたまま、頭が低く枕に沈んでゐるので、何か怒ってゐるやうな表情であった。その顔を見てゐると、お仙はふと夫が生きて来さうな気がした。と、その時、お仙の夫は急に「うう……」と声を放って眼をひらいた。

「あなたや、あなたや……」とお仙は大声で泣き喚いた。

底本 / Source edition

底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店
1966(昭和41)年2月15日初版発行
入力:蒋龍
校正:伊藤時也
2013年1月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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書誌 / Bibliography
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原 民喜「顔の椿事」(新字旧仮名)、底本『普及版 原民喜全集第一巻』芳賀書店、1966年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 048450_000293, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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