Soranoha

式部小路

しきぶこうじ

泉 鏡花

序

日本橋のそれにや習える、

源氏の著者にや擬なぞらえたる、

近き頃音羽おとわ青柳あおやぎの横町を、

式部小路となむいえりける。

名をなつかしみ、尋ねし人、

妾宅と覚しきに、世にも

婀娜あだなる娘の、糸竹の

浮きたるふしなく、情も恋も

江戸紫や、色香いろはの

手習して、小机に打凭うちもたれ、

紅筆を含める状さまを、垣間かいま

見みてこそ頷うなずきけれ。

明治三十九年丙午十二月

鏡花小史

一

鳥差が通る。馬士まごが通る。ちとばかり前さきに、近頃は余り江戸向むきでは見掛けない、よかよか飴屋あめやが、衝つと足早に行ゆき過ぎた。そのあとへ、学校がえりの女学生が一人、これは雑司ぞうしヶ谷やの方から来て、巣鴨すがも。

こう、途絶え途絶え、ちらほらこの処を往来ゆきかう姿は、あたかも様々の形した、切れ切れの雲が、動いて、その面おもてを渡るに斉ひとしい。秋も半ば過ぎの、日もやつ下りの俤橋おもかげばしは、小石川の落葉の中に、月が懸かった風情である。

空の蒼々あおあおしたのが、四辺あたりの樹立こだちのまばらなのに透いて、瑠璃色るりいろの朝顔の、梢こずえに搦からんで朝から咲き残った趣に見ゆるさえ、どうやら澄み切った夜のよう。

しかし、恰好かっこうをいったら、烏が宿ったのと、鵲かささぎの渡したのと、まるで似ていないのはいうまでもない。また真まことの月と、年紀としのころを較べたら、そう、千年も二千年も三千年も少わかかろう。

ただ我々に取っては、これを渡初めした最年長者より、もっと老朽ちた橋であるから、ついこの居まわりの、砂利場の砂利を積んで、荷車など重いのが通る時は、埃ほこりやら、砂やら、溌ぱっと立って、がたがたと揺れて曇る。が、それは大空を視ながむる目に、雲はじっとしていて、月が動くように見えると一般、橋の俤おもかげはうつろわず、あとはすぐに拭ぬぐったような空気の中に、洗った姿となるのである。

ちょうど今人の形のいろいろの雲が、はらはらとこの月の前を通り去った折からである。

橋の中央なかばに、漆の色の新しい、黒塗の艶つややかな、吾妻下駄あずまげたを軽かろく留めて、今は散った、青柳の糸をそのまま、すらりと撫肩なでがたに、葉に綿入れた一枚小袖、帯に背負揚しょいあげの紅くれないは繻珍しゅちんを彩る花ならん、しゃんと心なしのお太鼓結び。雪の襟脚、黒髪と水際立って、銀の平打ひらうちの簪かんざしに透彫すかしぼりの紋所、撫子なでしこの露も垂れそう。後毛おくれげもない結立ての島田髷まげ、背高く見ゆる衣紋えもんつき、備わった品の可よさ。留南奇とめきの薫かおり馥郁ふくいくとして、振ふりを溢こぼるる縮緬ちりめんも、緋桃ひももの燃ゆる春ならず、夕焼ながら芙蓉ふようの花片はなびら、水に冷く映るかと、寂しらしく、独り悄しおれて彳たたずんだ、一人にんの麗人たおやめあり。わざとか、櫛くしの飾かざりもなく、白き元結もとゆい一結ひとむすび。

かくても頭つむり重そうに、頸うなじを前へ差伸ばすと、駒下駄がそと浮いて、肩を落して片手をのせた、左の袖がなよやかに、はらりと欄干の外へかかった。

ここにその清きこと、水底みなそこの石一ツ一ツ、影をかさねて、両方の岸の枝ながら、蒼空あおぞらに透くばかり、薄く流るる小川が一条ひとすじ。

流ながれが響いて、風が触って、幽かすかに戦そよいだその袂たもと、流は琴の糸が走るよう、風は落葉を誘うよう。

雲が、雲が、また一片ひとひら、……ここへ絣かすりの羽織、縞しまの着物、膨らんだ襯衣しゃつ、式かたのごとく、中折なかおれを阿弥陀あみだに被かぶって、靴を穿はいた、肩に画板をかけたのは、いうまでもない、到る処、足の留とどまる処、目に触るる有らゆる自然の上に、西洋絵具の濃いのを施す、絵を学ぶ向むきの学生であった。

広くはあらぬ橋の歩み、麗人たおやめの背後うしろを通って、やがて渡り越すと影が放れた。そこで少時しばらく立留って、浮雲のただよう形、熟じっと此方こなたを視ながめたが、思切った状さまして去った。

その傍かたわらに小店こみせ一軒、軒には草鞋わらじをぶら下げたり、土間には大根を土のまま、煤すすけた天井には唐辛とうがらし。明らさまに前の通とおりへ突出して、それが売物の梨、柿、冷えたふかし藷いもに、古い精進庖丁も添えてあったが、美術家の目にはそれも入らず。

店には誰も居なかった。昨日の今時分は、ここで柿の皮を剥むいて食べた、正午ひるまわりを帰り路みちの、真赤まっかな荷をおろした豆腐屋があったに。

二

学生の姿が見えなくなると、小店の向うの竹垣の上で、目白がチイチイと鳴いた。

身近を通った跫音あしおとには、心も留めなかった麗人たおやめは、鳥の唄も聞えぬか、身動みじろぎもしないで、そのまま、じっと。

秋の水は澄み切って、鮎あゆの鰭ひれほどの曇りもないから、差覗さしのぞくと、浅い底に、その銀の平打の簪が映って、流ながれが糸のようにかかるごとに、小石と相撃って、戛然かつぜんとして響くかと、伸びつ、縮みつする。が、娘はあえて、過あやまって、これを遺失おとしたものとして、手に取ろうとするのではない。

目白がまたチイと鳴いて、ひッそりと、小さな羽を休めた形で、飛ぶ影のさした時であった。

下行く水の、はじめは単に水上みなかみの、白菊か、黄菊か、あらず、この美しき姿を、人目の繁き町の方へ町の方へと……その半襟の藤色と、帯の錦にしきを引動かし、友禅ゆうぜんを淡く流して、ちらちら靡なびかして止やまなかったのが、フト瞬く間淀よどんで、静しずまって、揺れず、なだらかになったと思うと、前髪も、眉も、なかだかな鼻も、口も、咽喉のんどの幽かすかに見えるのも、色はもとより衣紋えもんつきさえ、明あかるくなって、その半身をありありと水底みなそこに映したのである。

俤おもかげはその名である。月のような日中ひなかの橋も、斉ひとしく麗人たおやめの姿を宿した。

それまで彳たたずんだ娘の思おもいは、これで通ったものであろう。可愛い唇の紅べにを解いて、莞爾にっこりして顔を上げた。身は、欄干に横づけに。と見ると芳紀ほうき二十三? 四。目色めつきに凛りんと位はあるが、眉のかかり婀娜あだめいて、くっきり垢抜あかぬけのした顔備かおぞなえ。白足袋の褄つまはずれも、きりりと小股こまたの締った風采とりなり、この辺あたりにはついぞ見掛けぬ、路地に柳の緑を投げて、水を打ったる下町風。

恍惚うっとりと顔を上げ、前途ゆくてを仰ぐように活々した瞳をぱっちりと睜みひらいたが、流ながれを見入って、疲れたか、心にかかる由ありしか、何となく弱々と、伏目になってうつむいて、袖口を胸で引き合わすと、おのずからのように、歩あしが運んで、するする此方こなたへ。

渡り越して、その姿、低い欄干を放れると、俤橋は一点の影も留めず、後になって、道は一条ひとすじ、美しくその白足袋の下に続いた。

さて小店の前を通った時、前後あとさきに人はなし、床几しょうぎにも誰も居おらず、目白もかくれて、風も吹かず、気は凝って寂しんとしたから、その柿と、梨と、こつこつと積んだのが、今通る娘のために、供物そなえものした趣があったのである。

通りかかりに見て過ぎた。娘の姿は、次第に橋を距へだたって、大きく三日月形なりに、音羽の方から庚申塚こうしんづかへ通う三ツ角へ出たが、曲って孰方いずかたへも行かんとせず。少し斜めに向をかえて、通を向うへ放れたと思うと、たちまち颯さっと茜あかねを浴びて、衣きぬの綾あやが見る見る鮮麗あざやかに濃くなった。天晴あっぱれ夕雲の紅くれないに彩られつと見えたのは、塀に溢あふるるむらもみじ、垣根を繞めぐる小流こながれにも金襴きんらん颯と漲みなぎったので。

その石橋を渡った時、派手な裾捌すそさばきにちらちらと、かつ散る紅、かくるる黒髪、娘は門かどを入ったのである。

「真平まっぴら御免を。」

一ツ曲って突当りに、檜造ひのきづくりの玄関が整然きちんと真四角まっしかくに控えたが、娘はそれへは向わないで、あゆみの花崗石みかげいしを左へ放れた、おもてから折まわしの土塀の半なかばに、アーチ形の木戸がある。

そこを潜くぐって、あたりを見ながら、芝生を歩ひろって、梢こずえの揃った若木の楓かえでの下路したみちを、枯れたが白銀しろがねの縁へりを残した、美しい小笹おざさを分けつつ、やがて、地つちも笹も梢も、向うへ、たらたらと高くなる、堆うずたかい錦の褥しとねの、ふっくりとしてしかも冷やかな、もみじの丘へ出た時であった。

向ううらに海のような、一面鏡の池がある。その傾斜面に据えた瀬戸物の床几に腰をかけて、葉色の明りはありながら、茂りの中に、薄暗く居た一人の小男。

三

紅葉もみじの中に著いちじるく、まず目に着いたは天窓あたまのつるりで、頂ャ兀はげておもしろや。耳際から後うしろへかけて、もじゃもじゃの毛はまだ黒いが、その年紀としごろから察するに、台湾云々というのでない。結髪時代の月代さかやきの世とともに次第に推移おしうつったものであろう。

無地の紬つむぎの羽織、万筋の袷あわせを着て、胸を真四角まっしかくに膨らましたのが、下へ短く横に長い、真田さなだの打紐うちひも。裾短すそみじかに靴を穿はいて、何を見得にしたか帽子を被かぶらず、だぶだぶになった茶色の中折、至極大ものを膝の上。両手を鍔つばの下へ、重々しゅう、南蛮鉄、五枚錣しころの鉢兜はちかぶとを脱いで、陣中に憩った形でござったが、さてその耳の敏さとい事。

薄い駒下駄運びは軽かろし、一面の芝の上。しかるに疾とくより聞きつけたと覚しく、娘の立姿、こぼるるもみじの葉の中へ、はらりと出でて見ゆるや否や、床几を立って、恭うやうやしく帽子を踵くびすの辺あたりまで、手とともにずッと垂れて、真平御免! と啓もうしたのである。

「ええ、御免下さいまし、甚だ推参なわけで、飛んだ失礼でございまするが、手前通りがかりのもので、」といい出いづる。

娘は上から伏目で見た、眦まなじりが切れて、まぶちがふッくりと高いよう。

その気おのずから、脳天を圧して、いよいよ頭ずを下げ、

「は、当御館おやかたにおかせられましては、このお庭の紅葉を、諸人しょにんに拝見の儀お許しとな、かねがね承ったでありまするで、戸外おもてから拝見いたしましてさえ余りのお見事。つい御通用門を潜くぐりまして、うかうかとこれへ。

実は前もってちょっとお台所口まで、お断りを申上げまして、御承諾を頂戴いたそうかにも心得ましたが、早や拝見御免とありますれば、かえってお取次、お手数てかず、と手前勘てまえかんに御遠慮を申上げ、お庭へ参って見ますると、かくの通とおり。手前の外には、こう、誰一人拝見をいたしておりますものがございません。ほい、こりゃ違ったそうな、すれば、大方、だろうぐらいに考えて風説をいたしますのを、一概にそうと心得て粗忽千万そこつせんばんな。

若いものではございませず、分別盛ざかりを通り越していながら、と恐縮をいたしましてな、それも、御門内なら、まだしも。

無躾ぶしつけにも、ずかずか奥深く参りましたで、黙って出て参るわけにも相成りませず、ほとんど立場をなくしております儀で。

ええ、どうぞ貴女あなた様、大目に御覧下さりますよう、また少々拝見の処も、あいなりますることでございましたら、御赦おゆるしのほどを、あらためてお願い申しまする。」

と句は伸びたが淀まぬ口上、すらすらと陳のべ立てた。

疾とくから何かいいたそうだった娘は、その隙ひまのないのに言ことばを含んで黙って待ったが、この(お願い申しまする)に至って、ちょいと言ことばが切れたので。ト支つかえたらしい、早急には、いい出せないし、黙っていると、低頭したままでいる。はッと急せいたか、瞼まぶたを染めた、気の毒なが色に出て、ただ、涼しい声で、

「はい、」といった。

「お差支さしつかえはないでしょうか。」と、少しずつ顔を擡もたげる。

「御免なさいな、私は、あの、この家うちのものじゃないんですよ。」

「へ、何、お邸やしきのお嬢様ではいらっしゃいません?」

「貴下あなた、不可いけないんですかねえ、私もやっぱり見に来たものなの。」

小男は胸を反そらして笑い、

「成程なッ、御夥間おなかまですかい。はははは、可ようございましょうとも。まあ、お掛けなさいまし。何ね、愚図々々ぐずぐずいや今の口上で追払おっぱらいまさ。貴女がお嬢様でも、どうです、あれじゃ厭いやとはいえますまい。」

「そう、ほんとうにお上手ね、」と莞爾にっこりした。

ちとこの返事は意外だったか、熟じっと瞻みまもってて、

「や、」帽子の下で膝をはたり。

「人形町においでなすった、――柳屋のお夏さん。」

四

「今日こんちは、今日ア、」

かみさんが、

「ああい、」といって、上框あがりがまちの障子を閉め、直すぐその足で台所へ、

「誰? おや、床屋さん、」

「へへへへへ、どうも晩おそくなりまして済みません、親方がそう申しました、ええ、何だもんですから、つい、客がございましたもんですから、」

袷あわせの上に白の筒袖、仕事着の若いもの。かねて誂あつらえの剃刀かみそりを、あわせて届けに来たと見える。かんぬしが脂下やにさがったという体裁、笏しゃくの形の能代塗のしろぬりの箱を一個ひとつ、掌てのひらに据えて、ト上目づかいに差出した。それは読めたが、今声を懸けたばかりの、勝手口の腰障子は閉まったり、下流したながしの板敷に、どッしり臀しりを据えて膝の上に頤おとがいを載せた、括猿くくりざるの見得はこれ什麽いかに。

「まあ。」

奴やっこは、目をきょろきょろして、

「へへへへへ。」

「御世話様でした。」といってただ受取ったのが、女房の解せない様子は、奴もとより承知之助。

台所に踞しゃがんだまま、女房の、藍微塵あいみじんの太織紬ふとおりつむぎ、ちと古びたが黒繻子くろじゅすの襟のかかったこざっぱりした半纏はんてんの下から、秋日和で紙の明るい上框の障子、今閉めたのを、及腰およびごしで差さしのぞき、

「可塩梅いいあんばいに帰りましたね。」

「誰さ。」

「今来やがった野郎でさ。」

これで分った。女房は頷うなずいて、

「ああ、今の。何だろう? お前さん知ってますか。」

「知ってますッて、とんだ奴やつです。」ともう一度首を伸ばして見る。

女房も振返ったが、受け取った剃刀をそのまま、前垂まえだれを挟んで、粋いきに踞しゃがみ、

「何、町内の若い衆しかい。」

「じゃ、おかみさん、こっちじゃ御存じないんですか。」

「見た事もない人さ、でもお嬢さんはどうだか。」

「へい、何てって来やがったんで。」

「ええ、御免下さいまし、こちら様のお嬢様はお内ですかッていったがね。」

若い衆しゅ、板の間に手をかけて、分別ありそうに、傾いた。白いのを着た姿は、前門の虎に対して、荒神様こうじんさまの御前立おまえだてかと頼母たのもしく見えたので。

「いったんだがね、もっともお留守だからお留守だといったら、じゃまた後ほどッて帰ったがね。」

いいいい、くるりと身をかえして立つと、踞んでいた腰を伸ばし切らず、直ぐそこに、てらてらの長火鉢。

「誰方どなたでございますえッて聞いたら、何にもいわないで、への字形なりの口で、へへへへはちと気障きざだったよ、あああ。」

と傍かたわらの茶棚の上へ、出来て来たのを仰向あおむいてのせた、立膝で、煙草盆たばこぼんを引寄せると、引立ひったてるように鉄瓶をおろして、ちょいと触ってみて、埋いけてあった火を一挟み。

番煙草と見ゆるのに、長煙管ながぎせるを添えて小取廻しに板の間へ押出した。

「まあ、一服おあがんなさい。」

さほど思案に暮れるほどの事でもないが、この間待って黙って控えた。奴やっこ、鼠のように亀甲羅宇べっこうらうを引いて取り、

「おかみさん、頂きます。」

「まずいよ、私ンだから。」

「どういたしまして、へい、後にまた来ますッて。」

「いったがね、何かい、筋が悪いのかい。」と斜ななめに重忠という身で尋ねる。

「悪いの何の! から、手のつけられた代物しろものじゃないんですよ。」

「ゆするの?」

「いいえ、ゆするも、ゆすらないも、飲んだくれ、酒ッ癖の悪い、持て余しものなんでさ。私わっしどもの社会ですがね。」

「おや、やっぱり、床屋さん。」

「床屋にも何にも、下町じゃ何てますか、山手やまのてじゃ、皆みんなが火の玉の愛吉ッていいましてね、険難けんのんな野郎でさ。」

五

「三厘もんでもありさえすりゃ、中汲なかくみだろうが、焼酎しょうちゅうだろうが、徳利の口へ杉箸すぎばしを突込つっこんで、ぐらぐら沸にえ立たせた、ピンと来て、脳天へ沁しみます、そのね、私等わっしらで御覧なさい、香においを嗅かいだばかりで、ぐらぐらと眩暈めまいがして、背後うしろへ倒れそうなやつを、湯呑水呑ゆのみコップで煽あおりやがるんで、身体からだ中の血が燃えてまさ。

ですから、おかみさん、ちょっとでもあン畜生に触るが最後、直すぐに誰でも火傷やけどをします。火の玉のような奴で、東京中の床屋という床屋、一軒残らず手を焼いてしまったんで、どこへ行っても店口から水をぶッかけて追い出すッて工合ですから、しばらくね、消えました。

多日しばらく、誰の処へも彼奴あいつの影が見えねえで、洗桶あらいおけから火の粉を吹き出さないもんですから、おやおや、どこへ潜ったろう、と初手の中うちは不気味でね。

(上げ板を剥めくって見ろ、押入の中の夜具じゃねえか、焦臭きなくさいが、愛吉の奴がふて寝をしていやあがるだろう。)

なんてって親方徒でやいが、串戯じょうだんにもいったんですが、それでもざっと一年ばかり、彼奴あいつの火沙汰ひざたがなかったんです。

すると、おかみさん、どうでしょう、念にゃ念の入いった、この夏、八月の炎天に、虚空こくうを飛んで、ごろごろと舞い戻りやがって、またぞろ、そこら転がって歩行あるくでさ。へい。」

といって煙を吹いた。顔が赤く、目が円い。この若いもの、余程おびえているのである。

余りの事に、はじめは笑って聞いていた女房は、なぜか陰気な顔をして、

「厭いやだよ、どこから舞い戻って来たんだねえ。」

「それがどうです。そら、そういった工合で、東京中は喰い詰める――し、勿論何でさ、この近在、大宮、宇都宮、栃木、埼玉、草加から熊ヶ谷、成田、銚子ちょうし。東じゃ、品川から川崎続き、横浜、程ヶ谷までも知っていて対手あいてにし手がないもんですから、飛んで、逗子ずし、鎌倉、大磯ね。国府津こうづ辺まで、それまでに荒しゃあがったんでね、二度目に東京を追出おんでてもどこへ行っても何でしょう、おかみさん。

(は、愛吉か、きなッくさい。)

と鼻ッつまみで、一昨日おととい来い! と門口かどぐちから水でしょう。

火の玉が焼やけを起して、伊豆の大島へころがり込んで行ったんですって。芝居ですると、鎮西八郎為朝ためともが凧たこを上げて、身代りの鬼夜叉おにやしゃが館やかたへ火をかけて、炎の中うちで立腹たちばらを切った処でさ。」

「ああああ、」と束ね髪が少し動いて頷く。

「月に一度、霊岸島から五十石積が出るッてますが、三十八里、荒海で恐ろしく揺れるんですってね。甲板へ潮を被かぶったら、海の中で、大概消えてしまいそうなもんですけれど、因果と火気の強い畜生で、消火半きえばんを打たせません。

しかも何です、珍しく幾干いくらか残して来たんですぜ。

何なんしろ、大島なんですからね、婦女おんなが不断着も紋付で、ずるずる引摺ひきずりそうな髪を一束ねの、天窓あたまへ四斗俵しとびょうをのせて、懐手で腰をきろうという処だッていいますぜ。

内地から醤油、味噌、麦、大豆なんか積んで、船の入る日にゃ、男も女も浪打際へ人垣の黒だかり。遥はるかの空で雲が動くように、大浪の間に帆が一ツ横になって見える時分から、爪立つものやら、乗り出すものやら、やあ、人が見える、と手を拍たたいて嬉しがるッていう処でさ。

さすがに火の手を上げなかったもんですから、そら、ちっとばかし残ったでしょう。

処で、炎天を舞い戻ると、もう東京じゃ、誰も対手あいてにしないことを知ってますから、一番自前で遣やろうというんで方々捜したそうですがね。

当節は不景気ですから、いくらも床店の売もの、貸家はあるにゃありますが、値が張ったり、床屋に貸しておくほどの差配人おおやさん、奴やっこの身上を知っていて断ったりで、とうとう山の手へお鉢をまわすと、近所迷惑。あいにくとまたこの音羽続きの桜木町に一軒明いたばかりのがあったんでさ。

そこへ談はなしを極きめましてね、夏のこッたし、わけはありません。仕事着一枚の素裸すっぱだか。七輪もなしに所帯を持って、上げた看板がどうでしょう、人を馬鹿にしやがって!――狐床。」

六

「その狐が配ったんでさ。あとで蚯蚓みみずにならなかったまでも、隣近所、奴やっこが引越蕎麦ひっこしそばを喰った徒てあいは、皆みんな腹形はらなりを悪くしたろうではありませんか。

開業の日から横町大騒ぎになりました。というは、何です、まあ、口あけのお客と、あとを二人ばかり仕事をしたッていいますが、すぐに祝酒だ、とぬかしゃあがって。店をあけたまま、見通しの六畳一間で、裏長屋の総井戸をその鍋釜なべかま一ツかけない乾いた台所から見晴しながら、箒ほうきを畳へ横ッ倒しにしたまんま掃除もしないで、火の玉小僧め、表角の上州屋から三升と提込んでね、おかみさん、突当りの濁酒屋どぶろくやから、酢章魚すだこのこみを、大皿で引いて来てね、

友達三人で煽あおったんでさ。

友達といったって、まとものものは、附合いませんや。自分じゃ仏だ、仏だといいますが、寝釈迦ねしゃかだか、化地蔵ばけじぞうだか、異体の知れない、若い癖に、鬼見たような痘痕面あばたづらで、渾名あだなを鍍金めっきの銀次ッて喰い詰めものが、新床だと嗅かぎ出して、御免下さいまし、か何かで、せしめに行った奴を、おともだち、お前さんも不景気で食えねえのか、飯はないが酒はあるてって、引摺り入れた役雑やくざとね。

もう一人は車夫くるまやでさ。生れてから七転びで一起もなし、そこで通名とおりなをこけ勘という夜よなし。前の晩に店立たなだてをくったんで、寝処ねどこがない。褌ふんどしの掛かけがえを一条ひとすじ煮染めたような手拭てぬぐい、こいつで顱巻はちまきをさしたまま畳み込んだ看板、兀げちょろの重箱が一箇ひとつ、薄汚え財布、ざッとこれで、身上しんしょうのありッたけを台箱へ詰め込んだ空車からぐるまをひいて、どうせ、絵に描いた相馬の化城ばけじろ古御所から、ばけ牛が曳ひいて出ようというぼろ車、日中ひなかは躄いざりだって乗りやしません。

ごろりごろりとやって、桜木町を通りかかって、此奴こいつも同く路地床の開業を横目で見たからぬかりませんのさ。

右のね、何ですっさ。にごり屋の軒下へ車を預けて、苜蓿うまごやしのしとったような破毛布やぶれげっとを、後生大事に抱えながらのそのそと入り込んで、鬼門から顔を出して、若親方、ちとお手伝い申しましょうかね……とね。

此奴等、そこで三人、虫拳で寄り合をつけたんでさ。」

「驚いたねえ、火の玉に鍍金に、こけだえ。まるで三題噺ばなしのようじゃないか。さぞ差配様おおやさまがお考えなすったろう、ああ、むずかしい考えものだね。」

思わず警句一番した、女房も余りの話、つい釣り込まれてふき出したが、飜ひるがえって案ずるに笑事わらいごとではないのである。

「串戯じょうだんじゃないよ。」

と向き直って、忘れていた鉄瓶を五徳の上。またちょいと触ってみたのは、これからお茶でも入れる気だろう。首尾が好いと女世帯せたい、お嬢さん、というのは留守なり、かみさんも隙ひまそうだ。最中もなかを一火ひとひで、醤油おしたじをつけて、と奴やっこ十七日だけれども、小遣こづかいがないのである。而已のみならず、乙姫様が囲われたか、玄人くろうとでなし、堅気かたぎでなし、粋で自堕落じだらくの風のない、品がいいのに、媚なまめかしく、澄ましたようで優容おとなしやか、お侠きゃんに見えて懐かしい。ことに生垣を覗のぞかるる、日南ひなたの臥竜がりゅうの南枝にかけて、良き墨薫る手習草紙は、九度山くどさんの真田さなだが庵いおりに、緋縅ひおどしを見るより由緒ありげで、奥床しく、しおらしい。憎い事、恋の手習するとは知れど、式部の藤より紫濃く、納言なごんの花より紅くれない淡き、青柳町の薄紅梅うすこうばい。

この弥生やよいから風説うわさして、六阿弥陀詣ろくあみだもうでがぞろぞろと式部小路を抜ける位。

月夜烏もそれかと聞く、時鳥ほととぎすの名に立って、音羽九町くちょうの納涼台すずみだいは、星を論ずるに遑いとまあらず。関口からそれて飛ぶ蛍ほたるを追ざまに垣根に忍んで、おれを吸った藪やぶッ蚊が、あなたの蚊帳かやへとまった、と二の腕へ赤い毛糸を今でも結えているこの若い衆、願ねがわくはそのおかえりを、半日ここで待つ気である。

七

ここにおいてか、いよいよ熱心。

「でもその、拳ぐらいで騒ぎが静まりゃ可いいんですが、酔が廻ると火の玉め、どうだ一番相撲を取るか、と瘠やせッぽちじゃありますがね、狂水きちがいみずが総身そうみへ廻ると、小力が出ますんで、いきなりその箒ほうきの柄を蹴飛けとばして、血眼ちまなこで仕切ったでしょう。

可よかろう、で、鍍金めっきの奴が腕まくりをして、ト睨にらみ合うと、こけ勘が渋団扇しぶうちわを屹きっとさして、見合って、見合ってなんて遣やったんですって。

表も裏も黒山のような人だかりだろうじゃありませんか。

晴の勝負でさ。じりじりと寄合って呼吸いきが揃ったから颯さっと引くと、ハッケもノコッタもあったもんですか。

火の玉め、鍍金の方が年紀上としうえで、私わっしあ仏の銀次だなんて、はじめッから挨拶が癪しゃくに障ったもんだから、かねてそのつもりだったと見えまさ。

喧嘩には馴なれてますから素敏すばしこい。立つか立たないに、ぴしゃぴしゃと、平掌ひらてで銀の横ッ面つらを引叩ひっぱたいた、その手が火柱のようだから堪たまりません。

鍍金の奴、目がくらんで、どたり突倒つんのめる。見物喝采やんや。愛吉も、どんなもんだと胸を叩いたは可いが、こっちあ蒼あおくなって、

(何の意趣だ。)

と突立つったち上ると、

(はり手というんだ。お行司に聞いてみねえ。)

と、空嘯そらうそぶいて高笑いをしたでしょう。

こけ勘はこけてるから、あッ気に取られて、黙ってきょろきょろしているばかり。

(可し、相撲にゃ己おれが負けた、刃物で来い。)

とこちらも銀でさ。すぐに店へ駆け出して剃刀かみそりを逆手に取って構えたでしょう、もう目が据すわって、唇が土気色。」

「どうしたい。」

「火の玉は真赤まっかになって、

(何を、何を。)

ッていいながら、左の肩で寸法を取って、尺取虫のように、じりり、じりり。

(愛吉さん。)

五合ごんつくふるまわれたお庇かげにゃ、名も覚えりゃ、人情ですよ。こけ勘はお里が知れまさ、ト楫棒かじぼうへ掴つかまった形、腰をふらふらさせながら前のめりに背後うしろから、

(愛吉さん、危あぶねえ、危え。)

ッて渋団扇で煽あおいだのは、どういうものか、余程よっぽどトッチたようだったと、見ていたものがいうんでして、見物わッとなる騒動さわぎ。

どッちを取とりおさえようにも真剣で、一人は剃刀だから危うござんす。

その内に火の玉が、鍍金の前を電いなびかりのような斜はすッかけに土間を切って、ひょいと、硝子戸がらすどを出たでしょう。集たかっていたのは、バラバラと散る。

(遁にげるかッ。)

で、鍍金の奴が飛びつくと、

(べらぼうめ、いくら山手やまのてだってこう、赤城に芝居小屋のあった時分じゃねえ、見物の居る前めえで生命いのちの取遣りが出来るかい、向う崖がけの原ッ場ぱまでついて来い、殺してやる、来い!)

というと前ささへ立って駆け出したんで、皆みんながぞろぞろとついて行くと、鍍金の奴は一足おくれで、そのあとへ、こけ勘。

ところがね、おかみさん、いざ原場はらっぱの頂上へ薄うっすりと火柱が立って、愛吉の姿があらわれたとなる。と、こけ勘はいきせい切って追いあがりましたが、遠巻にした見物も、二人の徒てあいも、いくら待っても鍍金が来なかったというじゃありませんか。

その筈はずでさ、来ないも道理。どさくさ紛れに、火の玉の身上しんしょうをふるった、新しいばりかんを二挺ちょう、櫛くしが三枚、得物に持った剃刀をそのまま、おまけに、あわせ砥とまで引攫ひっさらって遁亡フイなんですって。……

類は友だっていいますがね、此奴こいつの方が華表とりいかずが多いだけに、火の玉の奴ア脊負しょいなげを食って、消壺へジュウー……へへへ、いい様ざまじゃありませんか、お互です。」

女房怪けしからず、と剃そった痕あとに皺しわのまじった眉を顰ひそめ、

「お互ッて、じゃ今来た愛吉ッてのもちょいちょい盗やるの。」

「いずれ、そりゃね。」

「気味が悪いね、じろりと様子を見ていずれ後程、は気障きざじゃないか。」

「ですからね、何ですよ、気をおつけなさらなくッちゃ不可いけません、この頃は恐ろしく、さがり切っていやあがるんでさ。」

八

「もっともその何ですよ、開業式の日に、ばりかんなんぞ盗まれたのが、けちのついた印なんでさ。焼やけを起してあくる朝、おまんまを抜きにしてすぐに昼寝で、日が暮れると向うの飯屋へ食いに行って、また煽あおりつけた。帰りがけに、(おう、翌日あしたッから、時分時にゃ、ちょいと御飯おまんまですよッて声をかけてくんねえよ。三度々々食いに来ら。茶碗と箸はしは借りて行くぜ、こいつを持って駆出して来るから、)

ッて、両手に片々ずつ持って帰った。妙なことをすると思うと、内へ帰って、どたり大胡坐おおあぐらを掻込んでね、燈あかりは店だけの、薄暗い汚い六畳で、その茶碗のふちを叩きながら、トテトンツツトン、

不孝ものだが相談ずくで、

酒になりなよ江戸の水。

なんて出鱈目でたらめに怒鳴るんですって、――コリャコリャと囃はやしてね、やがて高鼾たかいびき、勿論唯一人ひとりッきり。

「呆あきれた奴だねえ。」

「から箸にも棒にもかかるんじゃありません。私わっしなんぞが参りますと、にごり屋のかみさんが沁々しみじみ愚痴をいいますがね、勘定はいうまでもなく悪いんです、――連つれを引張ひっぱって来りゃきっと喧嘩。

そうかと思うと、そこいらの乞食小僧を、三人四人、むくんだ茄子なすのどぶ漬のような餓鬼を、どろどろと連込んで、食いねえ食いねえッて、煮ッころばしの湯気の立つお芋を餌えに買って、ニヤニヤ笑いながら、ぐびりぐびり。

何でもそいつらを手馴てなずけて、掏摸すりや放火つけびを教えようッていうんです。かかったもんじゃありませんや。

ところがね、おかみさん、女ッてものは不思議とこう、妙に意固地なもんで。四丁目の角におふくろと二人で蜆しじみ、蠣かきを剥むいています、お福ッて、ちょいとぼッとりした蛤はまぐりがね、顔なんぞ剃あたりに行ったのが、どうした拍子か、剃毛そりげの溜たまった土間へころりと落おっこちたでさ――兇状持きょうじょうもちには心しんから惚ほれて、」

と密そっと言って厭いやな顔色がんしょく、ちと遺恨があるらしい。

「(愛吉さん、詰らないもんですが、)

なんてやがって、手拭てぬぐいや巻煙草まきたばこを運びまさ。

いつか中も、前垂まえだれの下から、目笊めざるを出して、

(お菜かずになさいな、)

と硝子戸がらすどを開けて、湯あがりの顔を出す、とおかみさん。

珍らしく夜延よなベでもする気がして、火の玉め洋燈ランプの心を吹きながら、呼吸いきで点ともれそうに火をつけていた処。

(入へえッて遊びねえ、遊びねえよ。)

ッたが、初心うぶですからね、うじうじ嬌態しなをやっていた、とお思いなさい。

いきなり、手をのばすと、その新造しんぞの胸倉を打掴ぶッつかめえて、ぐいと引摺ひきずり込みながら硝子戸がらすどを片手でぴッしゃり。持っていた洋燈ランプの火屋ほやが、パチン微塵みじん、真暗まっくらになったから、様子を見ていた裏長屋のかみさんが、何ですぜ、殺すのか、取って食うのか、生血なまちを吸うのかと思ったっていうんですぜ。

やがて何ですとさ、火の玉の野郎が台所口から廻って、のそのそ戸外おもてへ出て行くから、密そっとそのあとを覗のぞくと、新造がね、薄暗い中にぼんやり幽霊のように坐っていましたッて。

愛の奴はどこへ行ったろうと思うと、お定りのにごり屋。

(おう、媽々かかあが出来たから、今日は内で飯を喰うんだ、道具を貸してくんねえ、)

とまず七輪を一ツ運んだでさ。あとで鍋に醤油を入れてもらって、茶碗を二ツ、箸二人前。もう一ツ借込んだ皿にね、帰りがけにそれでも一軒隣の餅菓子屋で、鹿の子と大福を五銭が処買ったんですって、鬼の涙で、こりゃ新造へ御馳走をしたんですとさ。

そら、食いねえは可いが、燈あかりは点つけたそうですけれど、火屋なしの裸火。むんむと瓦斯がすのあがるやつを、店から引摺って来た、毛だらけの椅子の上へ。達引たてひかれたむき身をじわじわ、とやって、

(阿魔あま、やい、注ついでくりゃ。)

と前はだけの平胡坐ひらあぐら、ぬいと腕まくりで突出したのが飯喰茶碗。

五合ごんつくを三杯半に平げると、

(こう、向うへ行って、取って来い、)

は乱暴じゃありませんか。

打ぶたれそうだから、おどおどして、白鳥を持って立ちにゃ立ったが、極きまりの悪そうに、うつむいた、腰のあたりを、ドンと蹴上げたから堪たまりませんや。」

九

「(あれ)といってどたり横倒れになって、わッと袂たもとを噛かんで泣くと、

(三日辛抱が出来るかい、べらぼうめ、帰れ、)

とばかりで、蹴つけた脚を投出したまんま、仰向あおむけにふんぞり返って、ええ、鼾いびき。

その筈はずで、愛の奴だって、まさか焼跡の芥溜ごみためから湧わいて出た蚰蜒げじげじじゃありません。十月腹を貸した母親がありましてね。こりゃ何ですって、佃島つくだじまの弁天様の鳥居前に一人で葦簀張よしずばりを出しているんですって。

冬枯れの寒さ中毒あたりで、茶釜の下に島の朝煙の立たない時があっても、まるで寄ッつかず、不幸な奴ッちゃねえけれど、それでも、

(大島の磯へ出て、日本の船を見い見いした時にゃ、おっかあ、お前めえを思い出した、)

と今度店を持った折に、一所になろうッていったそうですが、どうして肯入ききいれるもんですか、子を見ること何とかというわけで、三日酒のまず、喧嘩をしないでいたら、世話になろうといいましたとさ。

どんなもんです。

考えて御覧なさい、第一その新造なんざ、名からして相性があわねえんです、お福なんて。

彼奴あいつが相当に、抱ッこで夜さり寝ようというのは、こけ勘が相応なんで、その夜なしの貧乏神は縁があったと見えまして、狐床の序開き、喧嘩以来、寝泊りをしていたんです。

お福ッ子は倒れたなり、突伏つっぷしていましたッて。先刻さっき餅菓子を買われた時、嬉しそうに莞爾にっこりして、酌をする前に、それでも自分で立って、台所の戸障子を閉めて、四辺あたりを見たから、その時は戸袋へ附着くッついて、色ッぽい新造の目を遣過やりすごしておいて、閉めて入ったことを、破れた透間すききから、ト覗のぞいていた、その裏長屋のかみさんが、堪たまらなくなったでしょう。」

「そうだろうともさ。」

「そこで何です。見るに見かねて、密そっと入って、お福ッ子の背中を叩いて、しくしく泣いているのを手を引いてね、台所口から連れ出したは可いいが、店から入ったんで跣足はだしでしょう。

それまで世話をして、女房かみさんがね、下駄をつまんで、枕頭まくらもとを通り抜けたのも、何にも知らず、愛の奴は他愛なし。

それから路々宥なだめたり、賺すかしたり、利害を説くやら、意見をするやら、どうやら、こうやら。

でもまあ、目白下の寄席の辻看板のあかりで、ようよう顔へあてた袖をはずして、恥かしそうに莞爾にっこりしたのを見て、安心をして帰ったそうですが、――不安心なのは火の玉の茅屋あばらやで。

奴やっこ裸火の下に大の字だから、何、本人はどうでもいいとして、近所ずから、火の元が危いんでね、乗りかかった船だ、また台所から入って見ると、平気なもんで、ぐうす、ぐうすう。

鼠が攫さらったか、それとも長屋うちの腕白がしょこなめたか、五銭が餅菓子一つもなし。

から、だらしがねえにも何にも。

そこで、火の用心に、洋燈ランプはフッと消したんですが、七輪の鍋下の始末をしなかったのが大ぬかり。

もっとも火のある事は気がついたそうですが、夜中にゃ、こけ勘が帰って来る。それまでは隣家となりの内が、内職をして起きている、と一つにゃ流元ながしもとに水のない男世帯、面倒さも面倒なりで、そのままにして置きました。さあ、これが大変。」

「失火やったかい。」と膝の進むを覚えず、火鉢を後うしろに、先刻さっきから摺ずって出て、聞きながら一服しようとする。心を得て、若い衆しゅが拭ぬぐって返した、長煙管を、ほとんど無意識に受け取って、煙草盆を引寄せる。

若いものも台所へ下流したながしの板から、橋を架けた形で乗り出し、

「お前さん、とうとう小火ぼやです。」

「ね、行やったろう、」

果せるかなと煙管をト――ン、

「ふう、」と頷うなずきながら煙を吹く。

「夜中の事で。江戸川縁べりに植えたのと違って、町の青柳と桜木は、間が離れておりますから、この辺じゃ別に騒ぎはしませんでしたが、ついこの月はじめの事ですよ。」

「私ゃもうぼけてしまって物わすれをするからね、確たしかには覚えていないが、お待ちよ、そういや、お湯屋でちらりと聞いたようにも思うね。」

「は、何なんしろ居まわり大騒動。」

十

「いずれそれ、焦ッ臭い焦ッ臭いがはじまりでさ。隣から起おきて出ると、向うでも戸を開ける。表通じゃ牛込辺の帰りらしい紋付などが立留まる。鍋焼が来て荷をおろす。瞬く間ひまに十四五人、ぶらぶらとあっちへこっちへ。暗やみの晩でね、空を見るのもありゃ、羽目板を撫でるのもあり。

その内に、例のかみさんが起きて出て、きっとだよ、それじゃ、とすぐに狐床の前へ行った時分にゃ、もう蒸気を吐くように壁を絞って煙けむが出るんで、けたたましい金切声で床屋さん、親方! とこんな時だけの親方、喚わめいても寂しんとして返事がないんで、構わず打壊せッて、気疾きばやなのががらりと開けると、中は真赤まっか、紅色べにいろに颯さっと透通るように光って、一畳ばかり丸くこう、畳の目が一ツ一ツ見えるようだッたてこッてす。

台所へ行ゆく柱なんざ、半分がた火になって障子の桟をちょろちょろと、火の鼠が伝うように嘗なめてました。と哄どッと、皆みんなが躍り込むと、店へ下り口を塞ふさいで、尻をくるりと引捲ひんまくって、真俯伏まうつぶせに、土間へ腹を押ッつけて長くなってのたくッていたのが野郎で、蹴けなぐって横へ刎はねた袷あわせの裾なんざ、じりじり焦げていましたとさ。

此奴こいつもう黒焼けかと思うと、そうじゃないんで、そら通れますまい、構わず踏んで、飛び上った人があったそうです。

すると、しゃッきりと起きました。

(や、なぐり込みに来やがったな、さ、殺せ、)というと、椅子を取って引立ひったてて、脚を掴つかんでぐンと揮ふった。一番乗りの火がかりは、水はなし、続く者なし、火の玉は突立つったったり、この時、戸が開いたのと、人あおりで、それまで、火で描いた遠見の山のようだった。蒸焼むしやけのあたり一面、めらめらとこう掌てのひらをあけたように炎になったから、わッというと、うしろ飛びに退しさっちまったそうですよ。

(来やがれ、此奴等こいつら、一足でも寄って見ろ。)

と炎を脊負しょって、突立つったって椅子をぐるぐるとまわすんですっさ。

何でも小石川の床店の組合が、殺たたみに来たと思ったんだそうで、奴やつは寝耳で夢中でさ、その癖、燃えてる火のあかりで、ぼんやり詰めかけてる人形ひとがたが認みえたんでしょう。煙けむが目口へ入るのも、何の事はありません、咽喉のどを締められるんだぐらいに思ったそうでね。

あとで聞いたら、大勢につかまって焼殺される夢を見ていた処ですって、そうでしょう。寝返ねがえりに七輪を蹴倒して、それから燃え出して、裾へうつる時分に、熱いから土間へころがって、腹を冷していたんだそうで。巡査おまわりの姿が、ずッと出た時、はじめて我に返ったか、どさくさ紛れに影が消えたそうですが、どこまで乱脈だか分りません。火の玉め、悠々落着いて井戸端へまわって出て、近所隣から我れさきに持ち出した、ばけつを一箇ひとつ、一杯汲くみ込んで提げたは可いいが、汝うぬが家の燃えるのに、そいつを消そうとするんじゃないんで。店先に込合っている大勢の弥次馬の背後うしろへ廻って、トねらいをつけて、天窓あたまともいわず、肩ともいわず、羽織ともいわず、ざぶり、滝の水。」

「大変だ、」と女房。

「そら、ポンプだ、というと呵々からからと高笑いで、水だらけの人間が総崩れになる中を澄まして通って、井戸端へ引返ひっかえして、ウイなんて酔醒よいざめの胸のすく噯おくびでね、すぐにまた汲み込むと、提げて行くんです。後からあとから人集ひとだかりでしょう。直すぐにざぶり! 差配おおやの天窓へ見当をつけたが狛犬こまいぬへ驟雨ゆうだちがかかるようで、一番面白うございました、と向うのにごり屋へ来て高話をしますとね。火事場にゃ見物が多いから気が咎めるかして、誰も更あらたまって喧嘩を買って出るものはなし、交番へ聞えたって、水で消さずに何で消す、おまけに自分の内だといや、それで済むから持ったもんです。

ところが済まないのは差配おおやの方です。悪たれ店子たなこの上に店賃は取れず、瘠やせた蟒うわばみでも地内に飼って置くようなもんですから、もう疾とくにも追出しそうなものを、変った爺おやじで、新造が惚ほれるようじゃ見処があるなんてね、薬鑵やかんをさましていたそうですが、御覧なさい。愛吉が弥次馬に水を浴びせている内に、長屋中では火を消して、天井へもつかないで納まったにゃ納まりましたが、その晩の為体ていたらくには怖毛おぞけを震って、さて立退たちのいて貰いましょ、御近所の前もある、と店立たなだての談判にかかりますとね、引越賃でもゆする気か、酢のこんにゃくので動きませんや。」

十一

「じゃ仕方がない。こういうこともあろうためだ、路は遠し、大儀ながら店請たなうけの方へ掛け合おうと、差配おおやさん、ぱっちの裾をからげにかかると、愛の奴やつのうろたえさ加減ッたらなかったそうで。

その店請というのは、何ですよ。兜町かぶとちょうの裏にまだ犬の屎くそがあろうという横町の貧乏床で、稲荷いなりの紋三郎てッて、これがね、仕事をなまけるのと、飲むことを教えた愛吉の親方でさ。

だから狐床ッてくらいなんで。鯨に鯱しゃちほこ、末社に稲荷。これに逢っちゃ叶いません。その癖奴が、どんな乱暴を働いたって、仲間うちから、いくら尻を持って行っても、うけはしないんですがね。

対手あいてが差配おおやさんなり、稲荷は店請の義理があるから、てッきり剣呑みと思ったそうで、家主の蕎麦屋そばやから配って来た、引越の蒸籠せいろうのようだ、唯今ただいまあけます、とほうほうの体で引退ひきさがったんで。これで、鳧けりがつけば、今時ここらをうろつくこともないんですが、名は体を顕あらわしますよ。

止せば可いに、この貧乏くじをまた自分で買って出たのが、こけ勘なんでさ。

(先晩の麁忽そこつは、不残のこらず手前でございます。愛吉さんは宵から寝ていて何にも知りやしねえもんですから、申訳のために手前が身体からだを退ひきます。)ッて、言ったでしょう。

差配の癖に、近所じゃ、掛売を厭いやがるほど、評判の工面の悪い親仁おやじだからねえ、これをまたのみこむ奴でさ。

(貴様は何だ、おらがの内の、汽車ぎらいな婆さんを積込んで、小火ぼやのあった日から泊りがけに成田へ行っていた男だけれど、申訳を脊負しょって立って、床屋を退散に及ぶというなら、可々よしよし心得た。御近所へ義理は済む。)

と、くだらねえじゃありませんか。

何だって意固地な奴等、放火ひつけ盗賊、ちょッくらもち、掏摸すりの兄哥あにい、三枚目のゆすりの肩を持つんでしょう。

どうです、おかみさん、そういった奴ですからね、どうせ碌ろくなこッちゃ来やしません。いづれ幾干いくらか飲代のみしろでございましょう。それとも、お嬢と、おかみさん、二人へ御婦人ばかりだから、また仕事でもしようというんで様子でも見に来うせやあがったか。

から段々落ちに、酒も人間も悪くなって、この節じゃ、まるで狂犬やまいぬのようですから、何をどう食ッてかかろうも知れませんや。何なんしろ火の玉なんでね。彼奴あいつの身体からだのこすりついた処は、そこから焦げねえじゃ治まらんとしてあるんで。へい鼬いたちが鳴いてもお呪禁まじないに、柄杓ひしゃくで三杯流すんですから、おかみさん、さっさと塩花をお撒まきなさいまし。おかみさん、」

といったが、黙っている。

「え、おかみさん。」

頸うなじを垂れて屈託そう、眉毛のあとが著るしく顰ひそんで、熟じっと小首を傾けたり。はてこの様子では茶も菓子もと悟ったが、そのまま身退くことを不得えず。もう一呼吸ひといきずるりと乗出し、

「何、また何でさ、私わっしどもが、しばらく見張っていてお上げ申しても宜いいんでさ。いよいよとなりますりゃ、内にゃ、親方も、今日はどこへも出ないでいるんで、」

「いいえね。」

と女房は、煙管の鴈首がんくびを、畳に長くうつむけたるまま、心ここにあらずでもなかったらしい。

「いくらか、飲代どころなら構いはしないけれど、お前さんの話しぶりでもその今の愛吉とかいう若い衆しゅが、火の玉だの、火柱だの、炎だの、小火ぼやだの、と厭にこだわッているから心配なんだよ。はてな、」と沈んで目を閉じる。

「へい、気になりますかね、何ぞ……」

「どうもね。心配なのさ、こうやってお前、私がおもりをしている方はね、妙に火に祟たたられていなさるのさ、いえね、丙午ひのえうまの年でも何でもおあんなさりやしないけれど、私が心でそう思うの、二度までも焼け出されておいでなさるんだからね、」

「どこで、へい?」

「一度は、深川さ、私たちも風説うわさに聞いて知っているが、木場一番といわれた御身代がそれで分散をなすったような、丸焼。

二度目が日本橋の人形町で、柳屋といってね、……」

十二

「もうその時分は、大旦那がお亡くなんなすったあとで、御新姐ごしんぞさんと今のお嬢さんとお二人、小体こていに絵草紙屋をしておいでなすった。そこでもお前火災にお逢いなすったんだろうじゃないか。

もっともその時の火事は、お宅からじゃなくって、貰い火でおあんなすったそうだけれど、ついお向うの気の違った婆さんの許とこから、夜の十二時というのに燃え出すと、直ぐにお店へあおりつけたもんだから、それという間もなし、それにお前さん、御新姐は煩っていらしったそうだし、お生命いのちに別条がなかっただけで、お嬢さんも身体からだばかり、跣足はだしでお遁にげなすったそうなんだよ。」

「へい、それで何ですか、こっちの方へお引越しなすったんですかね。」

「いいえ、三年前の秋の事さ、その後のち御新姐さんもお亡なくなんなすったそうだもの、やっぱり御病気の処へ、そんなこんなが障ってさ。

旦那様もまたそうなんだよ。火事で、それだけの身代が煙けむになった御心配から起った御病気だろうじゃないか。だからほんとに火は祟っているんだよ。」

と何となく声も打沈んでいったのであった。

この扇屋の焼けた時、新聞に黒くなって描かれた焼あとの地図も、もうどこかの壁の破れに貼はられたろう。家も残らず建揃った上、市区改正に就ついて、道は南北に拡がった、小路、新道しんみち、横町の状さまも異かわったから、何のなごりも留とどめぬが、ただ当時絵草紙屋の、下町のこの辺にも類たぐいなく美しいのが、雪で炎を撫ずるよう、見る目にも危あやういまで、ともすれば門かどの柳の淡き影さす店頭みせさきに彳たたずんで、とさかに頬摺ほおずりする事のあった、およそ小さな鹿ほどはあった一羽の軍鶏とうまる。

名を蔵人くらんど蔵人といって、酒屋の御用の胸板を仰反のけぞらせ、豆腐屋の遁腰にげごしを怯おびやかしたのが、焼ける前から宵啼よいなきという忌いまわしいことをした。火沙汰ひざたの前兆である、といったのが、七日なぬか目の夜中に不幸にして的中した事と。

当夜の火元は柳屋ではなく、かえってその不祥の兆きざしに神経を悩まして、もの狂わしく、井戸端で火難消滅の水垢離みずごりを取って、裸体はだかのまま表通まで駆け出すこともあった、天理教信心の婆々ばばの内の麁匆火そそうびであった事と。

それから、数万の人ごみ、軍いくさのような火事場の中を、どこを飛んだか、潜くぐったか、柳屋の柳にかけた、賽さいが一箇ひとつ、夜よのしらしらあけの頃、両国橋をころころと、邪慳じゃけんな通行人の足に蹴られて、五が出て、三が出て、六が出て、ポンと欄干から大川へ流れたのを、橋向うへ引揚げる時五番組の消防夫しごとしが見た事と。

及び軍鶏とうまるも、その柳屋の母娘おやこも、その後のち行方の知れない事とは、同時に焼けた、大屋の隠居、酒屋の亭主などは、まだ一ツ話にするが、その人々の家も、新築を知らぬ孫が出来て、二度目の扁額が早や古びを持って来たから、さてもしばらくになった。

「じゃ、お内のお嬢さんは柳屋さんというんですね、屋号ですね、お門札かどふだの山下お賤しずさんというのが、では御本名で。」

「いいえさ、そりゃ私の名だあね。」

「おかみさんの? そうですかね。」とちとおもわくのはずれた顔色かおつき。こんなのはその手に結んだ紅べに毛糸の下に、賤という字を書いてはってあろうも知れぬ。

「だって、私だって名ぐらいはあろうじゃないか。」と鉄漿かねつけた歯を洩もらしたが、笑うのも浮きたたぬは、渾名あだなを火の玉と聞いたのが余程気になったものであろう。

奴やっこそんな事は無頓着むとんじゃくで、

「へへへ、そりゃ何、そりゃそうですが、じゃお嬢さんは何とおっしゃるんでございますね。」

「お夏さんさ。」

「お夏さん?」

「婀娜あだな佳いいお名だろう。」

「すると姓は何とおっしゃるんで、柳屋は、何でしょう絵草紙屋をなすった時の屋号でしょう。で、何ですか、焼け出されなすってから、そこで、まあ御娼売ごしょうばい、」

「御商売?」と聞き直した目の上に、嶮も、ああ今は皺しわになった。

「深川の方で、ええ、その洲崎すさきの方で、」

女房聞くや否や、ちと高調子に、

「お前、何をいうんだね。」

「だって、おかみさんは何でしょう、弁天町に居たんでしょう。山手やまのてだってそのくらいな事は心得てるものがありますぜ、ちゃんと探索が届いてまさ。」

いささか軽かろんずる色があって、ニヤニヤと頤あごを撫でる。女房お賤はこれにはびくともせず、自若として、

「ああ、そうさ、私は、そうさ。ちっとね、お客さまをお送り申していたんだがね。落ちたといっちゃ勿体ない、悪所から根を抜いて、お庇かげさまでこうやって、おもりをしているんだがね。お嬢さんが、洲崎になんぞ、お前、そんなことを噯おくびに出したって済まないよ。素しらの堅気でいらっしゃらあね。」

「ですからさ、皆みんなが不思議だッていってるんで。いずれこうちょいちょいこのお二階へいらっしゃる方があるッてのは、そりゃ分っていますけれど、どうもそのお嬢さんの御身分が分りませんが、ええ、おかみさん。」

十三

「ねえおかみさん、可いいじゃありませんか、町内のこッてさ、話してお聞かせなさいよ、ええ、おかみさん。」

早やいつの間にか自堕落に、板の間に腹這はらんばいになった。対手あいてがソレ者と心安だてに頤杖あごづえついて見上げる顔を、あたかもそれ、少わかい遊女おいらんの初会惚しょかいぼれを洞察するという目色めつき、痩やせた頬をふッくりと、凄すごいが優しらしい笑を含んで熟じっと視ながめ、

「こりゃお前さん、お銭あしにするね。」

「え、」

「旨うまく手繰って聞き出したら、天丼でも御馳走ごちそうになるんだろう。厭いやだよ、どこの誰に憚はばかって秘かくすッということはないけれども、そりゃ不可いけないや。」

「嘘々々、」

口を尖とがらせ、慌てた早口、

「串じょう、串戯じょうだんをいっちゃ不可ません。誰がそんな、だってお前さん、火の玉の一件じゃありませんか。ええ、おかみさん。

私等わっしたちが口を利くにゃこっちの姉さんの氏素性来歴を、ちゃんと呑込んでいなかった日にゃ、いざッて場合に、二の句が続かないだろうじゃありませんか。」

「それだよ、その事だよ、何も、押借おしがりや強談ゆすりなら、」

しかり、押借や強談なら、引手茶屋の女房の、ものの数ともしないのであった。

「別に心配な条すじじゃないがね、風説うわさを聞いたばかりでも火沙汰がありそうなのが気になるのさ。余り老込んだ取越苦労じゃあるけれどね、火事にゃ上が危いから、それとなく二階にはお寝かし申さないようにしているんだからね。」

気懸きがかりなのはこればかり。若干いくらか、お銭あしにするだろう、と眼光炬きょのごとく、賭物かけものの天丼を照らした意気の壮さかんなるに似ず、いいかけて早や物思う。

思う壺と、煙草盆のふちを、ぱちぱちと指で弾はじいて、敗軍一時に盛り返し、

「火沙汰、火沙汰! どうせ、ゆすりのかたりのと、気の利いた役者じゃありませんや、きっと放火つけびだ、放火だ、放火だ。」

ばたばた足の責太鼓、鼕々とうとうと打鳴らいて、かッかと笑い、

「何、それも、どさくさ紛れに葛籠つづら箪笥たんすを脊負しょい出そうッて働きのあるんじゃありませんがね、下がった袷あわせのじんじん端折ばしょりで、喞筒ポンプの手につかまって、空腹すきはらで喘あえぎながら、油揚あぶらげのお煮染で、お余を一合戴きたいが精充満せいいっぱいだ。それでも火事にゃ火事ですぜ。ね、おかみさん、だからどうにかしますから、お話しなさいよ。でなけりゃ、明日ともいわないで火の玉がころげ込みますぜ。放火つけびだ、放火だ、放火だ、」

と尻上りに畳みかけて、足を上下へばたばたと遣ったが、

「あ、」というとたちまち寂滅ひっそり。

むっくり飛上ったかと半身を起して捻向ねじむく気勢けはい。女房も、思案に落した煙管を杖。斉ひとしく見遣った、台所の腰障子、いつの間にか細目に開いて、ぬうと赤黒い脛すねが一本。赤大名の城が落ちて、木曾殿打たれたまいぬ、と溝どぶの中で鳴きそうな、どくどくの袷あわせの褄つま、膝を払って蹴返した、太刀疵たちきず、鍵裂、弾疵たまきず、焼穴、霰あられのようにばらばらある、態なりも、振ふりも、今の先刻さき。殊に小火ぼやを出した物語。その時の焼っ焦、まだ脱ぎ更かえず、と見て取る胸に、背後うしろに炎を負いながら、土間に突伏つっぷして腹を冷ひやした酔んだくれの俤おもかげさえ歴々ありありと影が透いて、女房は慄然ぞっとする。奴やっこは絵に在る支那兵の、腰を抜いたと同一おんなじ形で、肩のあたりで両手を開いて、一縮ひとすくみになった仕事着の裾すそに曰くあり。戸外おもてから愛吉が、足の𧿹指おやゆびの股へ挟んで、ぐッとそっちへ引くのであった。

腰をずるずるずるずると、台所の板に摺すらして、女房の居る敷居の方へ後込しりごみしながら震え声で、

「串じょう、串戯じょうだんをするな、誰だ、誰だよ、御串戯もんですぜ。藪やぶから棒に土足を突込みやがって、人、人の裾を引張るなんて、土、土足でよ、足あ、足ですよ、失礼じゃねえか、何な、何だな、誰だ、誰だな。」

障子の外で中音に、

「放火ひつけよ。」

「や!」

十四

蒼あおくなって、咽喉のどで、ムウと呼吸いきを詰め、

「愛吉さんか、まあ、お入んなさい、煙草たばこがあります。」

うろうろ眗みまわす目が坐らず、

「おかみさんもお在いでなさらあ、お入んなさい。」

「うンや、こう、お友達、お有難ありがとうよ。汝てめえにすっかり棚おろしをされちまっちゃ、江戸中は構わねえが、こちら様ばかしゃ、面つらが出せねえ、やい。

出ろ、こん畜生。

出ろ!」

というと、ぐいと引くのと同時であった。足の指に力はないが、気に打たれたか、ひょいと腰、ひょろり板の間の縁が放れて、腰障子へふッと附着くッつく。

途端に、猿臂えんぴがぬッくと出て、腕でむずと鷲掴わしづかみ、すらりと開けたが片手業わざ、疾はやいこと! ぴっしゃりと閉しめると、路地で泣声。

「御免なさい、御免なさい。」

というのが聞える。膝を立てて煙管をついて伸上った女房は、八ツ下りの日が明るく、あかり窓から、てらてらと自分の前垂まえだれにも射して、ほこりのない、静しずかな勝手を見るばかり。

戸の外で二ツ三ツ、ばたばたと音がする。

「堪こらえて下さい、堪えたまえ、愛吉さん、愛吉さん、」

「堪えた、堪えたとも。こう私あっしアな、生れてから今日ッて今日ほどものを堪えたことはねえんだ。ははははは、」

と高笑たかわらいを鼻に取って、

「へ、へ、堪えて大概てえげえ聞いていたんだ。お友達、おい、お友達、汝てめえが口で饒舌しゃべった事を、もしか、一言ひとことでも忘れたらな、私あっしに聞きねえ、けちりんも残らずおさらいをして見せてやらい。こん、畜生、」

「苦あッ」

「あれ、お前さん方、そこで喧嘩をしちゃ困りますよ。」

女房は思わず立った。

「おかみさん、」

と奴やっこ、弱い事、救すくいを呼ぶ。

「来やがれ、さあ、戸外おもてへ歩べ。生命いのちを取るんじゃねえからな、人通ひとどおりのある処が可いいや、握拳にぎりこぶしで坊主にして、お立合いにお目に掛けよう。来やがれ、」

ざらざらと落葉を蹈ふむ音。此方こなたの一間と壁を隔てた、隣の平家との廂合ひあわいへ入って、しばらく跫音あしおとが聞えなくなった。が、やがて胸倉を取って格子戸の傍わきの横町へ揉もんで出たのを、女房は次の座敷へ行って、往来に向いた出窓の障子から伸上って透かして見た。

その間に、座敷中を行ったり、来たり、勝手口から出ようとしたり、上框あがりがまちを開けようとしたり、止やめたり、引返して坐ったり、煙草を呑もうとしたり、見合わせたり、とやかく係合いに気を揉んだのは事実で。……うっかり長煙管を提げたッきり。

ト向うが勲くん三等ぐらいな立派な冠木門かぶきもん。左がその黒塀で、右がその生垣。ずッと続いて護国寺の通りへ、折廻した大構おおがまえの地続じつづきで。

こっち側は、その生垣と向い合った、しもた家やで、その隣がまたしもたや、中に池の坊活花いけばなの教授、とある看板のかかった内が、五六段石段を上あがって高い。そこの竹垣を隔てて、角家がト○の中に(の)を大く(あり)と細筆で書いたのを通へ向けて、掛けてある荒物店みせ。斜はすかけに、湯屋の白木の格子戸が見える。

椿、柳、梅、桜、花の師匠が背戸と、冠木門の庭とは、草も樹も、花ものを、枝も茎にたわわに咲かせて、これを派手に、わざと低い生垣にし、――まばらな竹垣にしたほどあって、春夏秋の眺めが深く、落葉も、笹の葉の乱れもない、綺麗きれいに掃いたような小路である。

時に、露、時雨、霜と乾いて、日は晴れながら廂ひさしの影、自然おのずからなる冬構がまえ。朝虹の色寒かりしより以来このかた、狂いと、乱れと咲きかさなり、黄白の輪揺曳ようえいして、小路の空は菊の薄雲。

ただそれよりもしおらしいのは、お夏が宿の庭に咲いた、初元結はつもとゆいの小菊の紫。蝶の翼の狩衣かりぎぬして、欞子れんじに据えた机の前、縁の彼方あなたに彳たたずむ風情。月出でたらば影動きて、衣紋竹えもんだけなる不断着の、翁格子おきなごうしの籬まがきをたよりに、羽織の袖に映るであろう。

内の小庭を東に隣となって、次第に家の数が増して、商家はないが向い向い、小児こどもの泣くのも聞ゆれば、牛乳屋で牛がモウモウ。――いや、そこどころでない、喧嘩だ。喧嘩だ!

十五

赤大名のずたずた袷あわせが、廂合ひあわいを先へ出ると、あとから前のめりに泳ぎ出した、白の仕事着の胸倉を掴つかんだまま、小路の中うちで、

「ええ、」

と小突いて、入交いりかわって、向むかいの生垣に押つけたが、蒼ざめた奴やっこの顔が、赫かッと燃えて見えたのは、咽喉のんどを絞められたものである。

女房はハッと思った。

「蚯蚓野郎みみずやろう、ありッたけ、腹の泥を吐いッちまえ。」

「う、」

と唸うなって、足をばたばたと掙もがく状さまを、苦笑いで、睨ねめつけながら、手繰って手元へドン、と引くと、凧たこかと見えて面くらう、自分よりは上背も幅もあるのを、糸目を取って絞った形。今度は更に小路の中途に突立つったたせた。

「わ、わ、」

と大おおきな口を開あいて、ふうふうと呼吸いきをはずませ、拝みたそうな手附をする。

此方こなたは屹きっと二の腕から条すじを入れた握拳にぎりこぶしを、一文字に衝つと伸のした。

女房は思わず伸上って顔を出して、またハッと思った、腹の裡うちで、

「ああ、悪い処へ……」

がらがらと車が来て、花の師匠の前で留まった。内まで引きつけでもする事か!

「さ、お立合、この泣ッ面を御覧ごろうじろ。」

と、あわや打据えんとしつつ前後あとさきを見た無法ものは、フトその母衣ほろの中うちに目を注いだ。

これより前さき、湯屋の坂上の蒼空あおぞらから靉靆たなびく菊の影の中、路地へ乗り入れたその車。髷まげの島田の気高いまで、胸を屹きと据えていたが、母衣に真白な両手が掛かかると、前へ屈かがんだ月の俤おもかげ、とばかりあって、はずみのついた、車は石段で留まったのであった。

車夫の姿が真直まっすぐに横手に立った。母衣がはらりとうしろへ畳まる。

一目見ると、無法ものの手はぐッたりと下に垂れて、忘れたように、掴んだ奴の咽喉のんどを離した。

身を飜ひるがえすと矢を射るよう、白い姿が、車の横を突切って、一呼吸ひといきに飛んで逃げた。この小路の出口で半身、湯屋の格子を、間あわいのある脊後うしろに脊負しょって、立留って、此方こなたを覗のぞき込むようにしたが、赤大名の襤褸姿ぼろすがた、一足二足、そっちへ近づくと見るや否や、フイと消えた、垣越のその後姿。ちらちらと見えでもするか。刻苦精励、およそ数千言を費して、愛吉を女房の前に描き出した奴は、ここに現実した火の玉小僧の姿を立たせて、ただひめのりの看板に、あッけなく消えてしまったのである。

女房は三たびハッと思った。

無法者が、足を其方そなたに向けて、じりじりと寄るのを避けもしないで、かえって、膝掛を取って外すと、小褄こづまも乱さず身を軽かろく、ひらりと下に下り立ったが。

紺地に白茶で矢筈やはずの細こまかい、お召縮緬めしちりめんの一枚小袖。羽織なし、着流きながしですらりとした中肉中脊。紫地に白菊の半襟。帯は、黒繻子くろじゅすと、江戸紫に麻の葉の鹿の子を白。地じは縮緬の腹合はらあわせ、心しんなしのお太鼓で。白く千鳥を飛ばした緋ひの絹縮みの脊負上しょいあげ。しやんと緊しまった水浅葱みずあさぎ、同おなじ模様の帯留で。雪のような天鵞絨とうてんの緒を、初霜薄き爪先つまさきに軽かろく踏ふまえた南部表なんぶおもて、柾まさの通った船底下駄ふなぞこげた。からからと鳴らしながら、その足袋、その脛はぎ、千鳥、菊、白が紺地にちらちらと、浮いて揺ゆらいでなお冴さゆる、緋の紋綾子もんりんずの長襦袢ながじゅばん。はらりとひらめく、八ツ口、裳もすそ、こぼれず、落ちず、香を留めて、小路を衝つッと駈け寄る姿。

かくてこそ音羽なる青柳町のこの枝道を、式部小路とは名づけたれ。

冠木門の内にも、生垣の内にも、師匠が背戸にも、春は紫の簾すだれをかけて、由縁ゆかりの色は濃こまやかながら、近きあたりの藤坂に対して、これを藤横町ともいわなかったに。

「愛吉、」

と垣の際。上の椿を濡れて出て、雨の晴間を柳に鳴く、鶯のような声をかけると、いきなり背後うしろから飛びついて、両手を肩へ。年も三ツ、三年越。火難以来ここにはじめてめぐり逢った。柳屋のお夏は二十はたちを越した。脊丈さえ、やや伸びて、楽に上から負わるるように、袖で頸うなじを包んだのである。

もっとも愛吉の身はすくんだから。

十六

「愛吉。」

と直ぐ続けて、肩越に﨟長ろうたけた、清すずしい目の横顔で差覗さしのぞくようにしながら、人も世も二人の他ほかにないものか。誰にも心置かぬ状さまに、耳許みみもとにその雪の素顔の口紅。この時この景、天女あり。寂然せきぜんとして花一輪、狼に散る風情である。

「どうしたの、まあ、しばらくだったわねえ。」

「へい、」とただ呼吸いきをつくようにいう、悪髪結の垢あかじみた袷あわせの肩は、どっきり震えた。

一たび母衣ほろの中なる車上の姿に、つと引寄せられたかと足を其方そなたに向けたのが、駆け寄るお夏の身じろぎに、乱れて揺ゆらぐ襦袢の紅くれない。ぱッと末枯うらがれの路の上に、燃え立つを見るや否や、慌ててくるりと背後向うしろむき、踵くびすを逆に回めぐらしたのを、袖で留められた形になって、足も地つちにはつかずと知るべし。

追っかけて冴えた調子、

「よく来たことねえ、愛吉、」

「へい、」

「逢いたかったわ!」

「へ、」とばかりさえ口に消えた。

お夏はいよいよ爽さわやかに、

「懐しいよ。」

といって、その前髪を、ひやりと肩。片頬かたほを襟に埋うずめた時、

「…………」

腕組をした、しかみッ面。げじげじのような眉が動いて、さも重そうな首を此方こなたに捻向ねじむけんとして、それも得えせず。酒の汚点しみで痣あざかと見ゆる、皮の焼けた頬を伝うて、こけた頤あぎとへ落涙したのを、先刻さっきから堪たまりかねて、上框あがりがまちへもう出て来て、身体からだを橋に釣るばかり、沓脱くつぬぎの上へ乗り出しながら、格子戸越に瞻みまもった、女房が見て呆気あっけに取られた。

時にお夏の背後うしろへ、密そっと寄ったは、乗せて来た車夫くるまやで。

トもじもじ立迷ったが、横合から、

「お傘を、お嬢様。」

「あいよ、」

その時袖が放れたので、愛吉は傍かたわらに人のあるのを知って、じろりと車夫の姿を見る。

格子の中うちから、

「若衆わかいしさんこちらへ。」

と声をかけて、女房は土間を下りた。

「ええ、こちら様で、」

車夫は、はじめてここがその住居すまいと心着いた風である。

愛吉が、

「寄越よこしねえ、」

で差出した手首は、綻ほころびた袖口をわずかに洩もれたばかりであるが、肩の怒りよう、眼がんの配り、引手繰ひったくりそうに見えたので。返事と、指図と、受取ろう、をほとんど三人に同時に言われて、片手に掴んだ蝙蝠傘こうもりがさを、くるりと一ツ持直したのを、きょとんとして眗みまわしたが、罷まかり違うと殺しそうな、危険けんのんな方へまず不取敢とりあえず。

「じゃ、親方、」

「む、」

と取ったが、繻子張しゅすばりのふくれたの。ぐいと胴中どうなかを一つ結えて、白の鞐こはぜで留めたのは、古寺で貸す時雨の傘より、当時はこれが化けそうである。

愛吉は、握太にぎりぶとな柄を取って、べそを掻いた口許を上へ反そらして、

「こりゃ、酷ひどいや、」

「おや、お世話様でございますね。」

と女房は格子を開け、

「貴女あなた、お帰んなさいまし。」

「ああ、ただいま、」といいながら帯をぎゅうと取出した。

小菊の中の紅くれないは、買って帰った鬼灯ほうずきならぬ緋塩瀬ひのしおぜの紙入で。

可愛かわゆき銀貨を定めの賃。

「御苦労様。」

「お持ちなすったものはこれッきりかね。」

「や、まだ台函だいばこに、お包が、」とすッ飛んで取りに駆けたは、火の玉小僧の風体に大分だいぶん怯おびえているらしい。

「酷いや、お嬢様さん、見っともねえや。こんなものをさして歩行あるいて、こりゃ、貴女ンですかい。」

「可いいじゃないか。」

と莞爾にっこりしたが、勝山の世盛よざかりには、団扇車で侍女こしもとが、その湯上りの霞を払った簪かんざしの花の撫子なでしこの露を厭いとう日覆ひおおいには、よその見る目もあわれであった。

十七

「いえ、そりゃ、あの私ンでございますよ、ほほほほ、」

と女房も寂しい微笑ほほえみ。

愛吉心着いて其方そなたを見向き、

「ええ、さようで。へへへへへ、先刻はどうも、」

とそれもこれも弱った顔色かおつき。

お夏は耳敏さとく聞きつけて、

「おや、さっきも来たの。」

女房のいらえぬ前さき、慌てて調子高に愛吉はごまかす気、

「だって、お嬢様さん、見ッともないや、」

「可いよ。」

「日、日傘をさしてお歩行あるきなさいな、深張ふかばりでなくってもです。」

「人が笑いますよ。」

「誰が? え、何奴どいつが笑うんで、」

と、すぐにひらめく眉の稲妻。

お夏は真面目に、わざと澄ました顔で、

「威張ったって不可いけません、」

「それだって、馬鹿ンつら。」

「でもさ、」

「何故なぜ、お嬢様、」

「笑う人はね、お前より強いんだもの。喧嘩をしたって負けますよ。」

といい得て、花やかに浅笑せんしょうした。お夏さん残らず、御存じ。

女房思わず吹き出して、

「ほほほほほ、」

狐床の火の玉小僧、馬琴の所謂いわゆる、きはだを甞なめたる唖おうしのごとく、喟然きぜんとして不言ものいわず。ちょうど車夫が唐縮緬の風呂敷包を持って来たから、黙って引手繰るように取った。

「さあ、お入りな。」

後姿でお夏は格子を、

「おばさん、緩ゆっくりだったでしょう、」

女房が前さきへ立って、

「お疾はようございましたこと、何は、あの此間こないだから行って見たいッて、おっしゃってでした、俤橋、海晏寺かいあんじや滝の川より見事だッて評判の、大塚の関戸のお邸とやらのもみじの方は、お廻りなすっていらっしゃいましたか。」

「いいえ、路順が悪かったから、今日は止したの。

深川からじゃ大廻りでね、内の前を二度通るようなもんですもの、出直しましょうと思って。

でも車だから、かえりはぶらぶら歩行あるきにして、行って見ようかと思ったんですがね、お茶の水辺あたりまで来ると、何だか頻しきりに気が急せいてね、急いで急いでッていうもんだから、車夫が慌ててさ。壱岐殿坂いきどのざかだッたかしら、ちっとこっちへ来る坂下の処で、荷車に一度。ついこの先で牛車に一度、打附ぶッつかりそうにしたの。虫が知らせたんだわね、愛吉、お前のお庇かげで、」

と入ったまま長火鉢に軽く膝を支ついて、向うへ廻った女房に話しかけたが、この時門口を見返ると、火の玉はまだ入らず、一件の繻子張を引提ひっさげながら、横町の土六尺、同一おんなじ処をのそりのそり。

「お入りなね、何をしてるの、愛吉、お入ンな、さあ、」

「お前さんお入ンなさいましとさ。」

女房のこのとさがちと木戸になった。愛吉入いりそびれて、またのそり。

「あら、剣舞をしてるわ、ちょいと、田舎ものが宿を取りはぐしたようで、見っともないよ、私の情人いいひとの癖にさ。」

引手茶屋の女房の耳にも、これは破天荒なことをいって、罪のない笑顔を俯向うつむけ、徒いたずらに衝つと火箸で灰へ、言ことばを消した霞に月。

「私の仲好なかよしなの、でも役雑やくざなんです。先刻さっき来た時きっとまた威張ってぞんざいな口でも利いたんでしょう、それで極きまりが悪いんだよ。」

と取做とりなすようにいいながら、再び愛吉を顧みて、

「馬鹿だわねえ。」

「さあ、お前さん、どうぞ。」といった、これならば入られる。

「ほんとうになまけもんで仕ようがないの、」

「お、」

「酔ッぱらっちゃ喧嘩するが商売なの。」

「お嬢、」

「その癖弱いのよ。」

「お嬢さん、」

と行詰って、目と口を一所に、むッ。突当ったように句切りながら、次第ににじり込んだ框かまちの上。

割膝で畏かしこまって、耳を掻いて頸うなじを窘すくめ、貧乏ゆすり一つして、

「へへへ、口の悪いッちゃねえ、お嬢ッ公。」

十八

「でも虫が知らせたんだよ。愛吉、お前のお庇かげで、そうやってさ、もうちっとで車が引くりかえりそうになりました。」

「済みませんでございます。」

「済みませんでございます。」と口真似をしたが、何となく品があった。

「人を馬鹿にしていらっしゃら、」

「先刻さっき一度来たんだって、」

「ええ、つい、その、」

額おでこをぴっしゃりで頸うなじを抱える。

「それではお前、入って待っておいでなら可いいのに、戸外おもてへ出るもんだから、また掴合いなんかするんだわ。

おばさん、この人はね、馴染なじみのない町内へ来ると、誰とでも喧嘩をするの、」

とはじめて座につき、火鉢の前に落着いた。お夏もこの時気がついて思わず袖で口を蔽い、

「まあ、」

とばかり、わずかに堪こらえて、

「ほほほ、愛吉、お前、その膝の上の蝙蝠傘こうもりがさをどうにかおしよ。」

「ややや」というと、慌てて落した、うっかり膝の上に、ト琴を抱いた姿だった、毛繻子の時代物を急いで掻い取り、ちょいと敷居の外へ出して、膝小僧を露出むきだしに障子を閉めて圧おさえつけたは、余程よっぽどとッちたものらしい。

女房は年紀としの功、先刻さっきから愛吉が、お夏に対する挙動を察して、非ず。この壮佼わかもの、強請ゆすりでも、緡売さしうりでも。よしやその渾名あだなのごとき、横に火焔車かえんしゃを押し出いだす天魔のおとしだねであろうとも、この家やに取っては、竈かまどの下を焚たきつくべき、火吹竹に過ぎず、と知って、立処たちどころに心が融けると、放火ひつけも人殺もお茶うけにして退のけかねない、言語道断の物語を聞く内にも、おぞ毛を震って、つまはじきをするよりも、むしろいうべからざる一種の憐あわれさを感じて、稲妻のごとく、胸間にひらめき渡る同情の念を禁ずることを得なかった。自分の不思議が疑団氷解。さらりと胸がすくと、わざとではなかったが、何となく無愛想にあしらったのが、ここで大いに気の毒になったので。

「まったくねえ、お前さん、溜池ためいけから湧わいて出て、新開の埋立地で育ったんですから、私はそんなに大した事だとも思いませんでしたが、成程、考えて見ると、そのお持物は、こりゃちと変でしたね。

もうね結構なものとは思わないけれど、今朝お出かけの空模様じゃ、きっと降ろうとも思われませんし、そうかって、一雨来ないでもないようだったもんですから、傘もお荷物と思って、ついそれをね、お嬢さんもまた、澄してさしていらっしゃるんだもの。」歎息するもののごとし。

「ですから、何でさ、日傘をおさしなさりゃ可いというんじゃありませんか。」

「愛吉、笑うというのにね、」

「いえさ、ですから、誰が、」と直ぐ力む。

「でも何ですよ、この辺じゃ不思議がりますよ。

私もね、ありようは持っていましてね、佃島つくだじまへおまいりをする時ぐらいしか使わないもんですからね、今でも、通用するだろうと思いましてね、」

「おばさんは通用ッていうの。」

「どうかしたんでございますか。」

「それをさ、おささせ申しましてね、暑い時でござんした。

ここへ引越して、しばらく経たって、護国寺が直ぐだといいますから、音羽々々ッて音ばかりだったでしょう。

行って見ましょうッて、お嬢さんをおさそい申して、不断のまんま、ぶらぶら片陰になって出かけたんですよ。

袴はかまを召した姉さん方が、フンといってお通んなさる。何だか背うしろが見られる処を、小児こども衆が大勢で、やあ、狐の嫁入だって、ばらばら石を投げたろうじゃありませんか。お顔もお頭つむも、容赦なんざないんですから、お嬢さんは日傘のまま路傍みちばたへおしゃがみなさる。私はね、前からお抱き申して立ってましたがね。

そら、傘からかさに化けた、というと、ろくろへポンポン当るから、気がついて、私が取ってね、すぼめて帯へさしたんです。騒ぎは、それで静まりましたけれども、その時黒子ほくろ一つないお身体からだへ、疵きずがついたろうじゃありませんか。」

十九

お夏は袖をくるりと白く、

「こんなよ、愛吉。」

いわれたその二の腕の不審紙。色の褪あせたのに歯を噛かんで、裾すそに火の粉も知らずに寝た、愛吉が、さも痛そうに、身ぶるいした。

三人斉ひとしく憮然ぶぜんとせり。

女房しめやかに口を開き、

「ですからさ、時節ですよ。何だってお前さんねえ、私なんざ話しに聞いて、何だか草双紙にでもあるように思っていました。木場の勝山様さんのお一人子のお嬢さんが、こうやって私等風情と、一所においでなさるんだもの、まったくですよ。」と年紀としだけに諭すがごとく、自らは悟りすましたようにいったのであるが、何のおかみさん、日傘が深張ふかばりになったのは、あえて勝山の流転のごとき、数の奇なるものではない。

「まだまだね、お前さん、このくらいなことじゃないんですよ、もっともっと変っておいでなすったんですよ。」としんみり言う。

ほぼその幼馴染おさななじみとでもいッつべき様子を知って、他人には、堅く口を封ずるだけ、お夏のために、天に代りて、大いに述懐せんとして、続けてなお説いおうとするのを、お夏は軽かろく手真似で留めた。

「およしなさいな、まあ後でゆっくり。おばさん、お土産があるんだわ。

可いもの。

でも、愛吉、お前は、これね、」

とあられもない。指で口許を挟む真似、そしてその目の仇気あどけなさ。

「え、私わっしあ、私あ、もう、」と逡巡しりごみする。

「もうなもんですか。御馳走ごちそうするわ。

おばさん、良いでしょう。」

と火鉢に手をかけ、斜めに見上げた顔を一目。鬼神おにがみなりとて否むべきか。

「可ようございますとも、行って取って参りましょう。ついでに何ぞ見繕って参ります。」

愛吉は忙いそがわしく膝を立て、

「私わっしが、私が参りますよ、串戯じょうだんじゃない。てッて、飛出すのも余り無遠慮過ぎますかい、へ、」と結んだ口と、同じ手つきで天窓あたまを掻く。

「何、お前さん、晩の支度もあるんですよ。」

「おばさん、私が行ゆきましょうか。」

「御串戯ばかり、」

「だって私のお客ですもの、酒屋へなんぞお気の毒です。」

「飛んだことをおっしゃいまし、――先生様も貴女のお客じゃありませんか。」

気の毒がるのをいじらしそうに沁々しみじみといったが、軽かろく立った。酒と聞いて、気もそぞろで、この(先生様)といった言ことばは、この時愛吉の耳には入らなかったのである。

「ああ、そういえばね、」

お夏は火鉢を隔てながら、膝を摺寄せるように、裳もすそを横に。

「晩に来るって、」

女房は立ちかけたのを坐り直した。

「おや、それはまあ、まあ、貴女、お音信たよりがございましたかい。」

「途中でね、電話をかけたの、」

「直接じかに、」

「いえ、花井さんを呼んで託ことづけて貰いました。」

「花井さん、例のですか、」

「ああ、」と頷うなずく。

「それでは、その分も、」

「ああ、そうね。」

「いずれ、何も召食めしあがるようなものはありませんけれど、」

「私がいいものを買って来たの。」

女房は茶棚の上を、ト風呂敷包がそれである。

「よく、お気が着きましたねえ。御褒美ごほうびに、それこそ深張を買ってお貰いなさいまし。」

頭かぶりをふって、

「要らない。」と活溌にいった。

「でも貴女、貴女が、そんなにお気がつくんですもの。可うございます。貴女がおっしゃいませんでも、私からお強請ねだり申しましょう。」

「おばさん、気がついた御褒美なんて、不可いけないの。先生が怒るものなの。」

「へい、何でございますえ。」

二十

「何だか、怒るものよ、おばさん当てて御覧なさい。」

「…………」

黙ってつくづく見たばかり、当てものして遊ぼうには、ちと年紀としが老けていた。

「当てて御覧。愛吉、」

と唐突だしぬけにこっちを呼んだ。この時まで、お夏が女房といいかわした言ことばは、何となく所帯染みて、ひそめいて、傍聴かたえぎきするものの耳には、憚はばかる節があるようであった。

いかばかり酒に咽喉のどが鳴っても、あいにく耳が澄まされて、お夏の口から、(先生)というのを聞いて、はッと胸に応こたえたのは、風説うわさに聞いて尋ねて来た、式部小路の麗人たおやめはさる人の、愛妾おもいものであるというのである。

果してそれが柳屋のならんには、米が砂利になる法もあれ、お囲いなどとは、推参な! 井戸端の悪口穴埋あなうめにして、湯屋の雑言焼消そう、と殺気を帯びて来たのであるから、愛吉はこれは、と思った。

ト同時に、この内証話からは、太いたく自分が遠ざけられ、憚はばかられ、疎うとまれ、かつ卻しりぞけられ、邪魔にされたごとく思ったので、何となく針の筵むしろ。眉も目も鼻も口も、歪んで、曲って、独りで拗すねて、ほとんど居堪いたたまらないばかりの心地。

もうお夏の、こう隔てのない、打開けた、――、敵討かたきうちの、駈落かけおちの相談をさるるような、一の(当てて御覧)がなかったら、火の玉は転がって、格子の外へ飛んだであろう。

が、忽然こつぜんとして青天、急にその膝へ抱き上げられたように感じた。ただし不意を喰くらったから、どぎまぎして、

「酒、酒です。」

と筒抜けのぼやけ声。しかも当人時ならず、春風胎蕩たいとうとして、今日九重ここのえににおい来る、菊や、菊や――酒の銘。

お夏は驚いて目を瞪みはった。真面目に唖然あぜんたるものこれを久しゅうして、

「駄目。おばさん、この人はね、酒だか私だか分らないの。ちょいと早く呑まさないと、私を噛かじろうも知れないよ。」

「お嬢さん、」と例の敗亡はいもう。

「唯今、ですがお嬢さんは、ほんとうに何を買っていらっしゃいました。大概そんなことはありますまいが、もしか、つくと不可いけません。」

「可いのよ。先生のめしあがるもんなんざ、ねえ、愛吉、」

「まあ、貴女、」

「可いの。ねえ愛吉、お前が来ると知れているのなら、呼ばなくッてもいいんだっけね。」

首尾は大極だいごく上々吉、愛吉堪りかねて、

「御、御串戯ごじょうだんおっしゃらあ。」

「どれ、急いで行って参りましょう。」

と女房は、半纏はんてんの襟を扱しごいて立ち、台所へ出ようとして、少々気がかり、

「貴女え、」

「ああ、」

「先生がいらっしゃらなくッて、寂さみしい、寂しい、とおっしゃりながら、お憎らしい。あとで私が言附けますよ。」

「ああ、可いとも、ねえ、愛吉、姫様ひいさまがついている人なんか、ねえ。」

いささかもその意を解せず、偏ひとえに膝を揺ゆすって、

「御、御、御串戯おっしゃらあ。」

「ちょいと、愛吉さん、」

と女房優しく呼びかけ、

「よく、おもりをして下さいよ。お泣かせ申さないように、可よござんすかい。お前さん、また酒と間違えて飲んじまっちゃ不可ませんよ。」

「御、御、御、御串戯おっしゃらあ。」

勝手の戸がかたりとしまると、お夏ははらりと袂たもとを畳へ、高髷たかまげを衝つと低く座を崩して姿を横に、縋すがるがごとく摺り寄って、

「どうしたの、お前、」

とて、膝につむりを載せないばかり。

愛吉しゃッきりと堅くなって、居丈高いたけだか。腕を突揃つッそろえて、畏かしこまって、

「しばらくでえ、」

「愛吉や。」

「お嬢さん………」

二十一

「まあ、お前どこに居たんだねえ。」

「え、私わっしは何、そこらの芥溜はきだめに居たんですがね。お嬢さんは?」

「私かい、」

「何ですか、蔭で聞きますりゃ、御新造さんもお亡なくなんなさいましたッて、飛んだ事で、」と震えて蒼あおくなっていう。お夏も心が激したか、目のふちに色を染めて、

「ああ、愛吉、お前のおともだちの蔵人くらんど(軍鶏とうまる呼名)もね、人形町の火事ッきり、どこへ行ったか分らないんだよ。愛吉てば、お前、おっかさんが亡なくなっても、家うちが焼けても、まるで顔を見せないんだもの。

お前、おっかさんが亡なっては、私一人ぼっちじゃないか。人形町の内が焼ければさ、私はどこにも行く処がないじゃないか。

それだのに、ちっとも来てはくれないんだもの、随分だわ。」

愛吉は堪こらえかね、堪えかねて、火の粉が入ったようにぐッとその目を圧おさえ、

「だって、だって何でさ、加茂川亘かもがわわたるさんて――その、あの、根岸の歌の先生ね、青公家あおくげの宗匠ン許とこへ、お嬢さんの意趣返しに、私わっしが暴れ込んだ時、絽ろの紋附と、目録の入費を現金で出しておくんなすったお嬢さんを大贔屓おおひいきの――新聞社の旦那でさ。遠山金之助さんですよ。

その方に、意見をされて、私のようないけずな野郎が、お嬢さんと附合っちゃ、お前さんの何でさ、為にならねえからッて、いわれたもんで。

私もね、何ですよ。成程こいつはもっともだ、と思ったから、しかもお宅が焼けた晩でさ、そら、もうしばらく参りませんッて、お暇乞いとまごいに行ったでしょう。

私あっしも思い込んだんでさ。いえ、何でも参りません。いえ、いえ、もう御無沙汰いたしますッて、そういったら、お嬢さん、……」

としばらくものを言うあたわず、隆たかいが、ぞんざいな鼻を啜すすって、

「たった一人の、佃つくだのおふくろにまで、愛想を尽かされて、湯灌場にさえ屋根代を出さねえじゃならねえ奴を、どうお間違えなすったか、来なくッちや「来なくッちや」はママ厭いや、寂しい、と勿体至極もねえ。

涙ぐんでおくんなすった。ああ難有ありがてえこッた、と思うと、なおなおお前さん、貴女のお身体からだが大事になって、御出世の邪魔になるんだから、と万倍もお前さん、敷居を跨またがねえ気になったんでさ。

もう何ですぜ、お店たなから出て、あの門かどの柳の下でしょんぼりして、看板の賽さいころがね、ぽかん、」

と嚔くさめの出そうな容体、仰向あおむいてまたすすり、

「と面つらへ打ぶつかると、目が眩くらんで、真暗三宝まっくらさんぽう韋駄天いだてんでさ。路地も壁も突抜けてそれッきり、どんぶり大川へでも落っこちたら、そこでぼんやり目を開けて一番地獄の浄玻璃じょうはりで、汝うぬが面つらを見てくれましょうと思ったくらいでした。

すると、近間で、すりばんでしょう。私わっしあ自分でどこに居たか知りませんがね、火の手はお宅様の見当でしょう。ほい、了しまった。お暇乞はもう一晩我慢をすりゃ可よかったが、こりゃお見舞にも上られねえ。そうかと思やあお嬢さんと御病人きり。蔵人は忠義だって、羽ばたきをするばかり、袖を啣くわえて引張ひっぱり出す方角もあるまいと思いますとね。矢も楯たても堪たまりませんや。さも貴女と御新造さんが烟けむに捲まかれて赤い舌で嘗なめられていなさるようで、私わっしあ身体からだへ火がつくようだ。そうか、といってたった今お暇乞をしたもの、と地蹈韛じだんだを踏みましたが、とうとう、我慢が仕切れねえで、駆けつけると、案の定だ。

まだ非常線も張らねえのに、お門かどにゃ、枝垂しだれ柳の花火が綺麗に見えましょう。柱は残らず火になったが、取着とッつきの壁が残って、戸棚が真紅まっか、まるで緋ひの毛氈もうせんを掛けたような棚を釣った上と下、一杯になって燃えてるのを私あお宅を行き抜けにお出入の合かなったお庇かげにゃ、要害は知ってまさ。お嬢さんが生命いのちから二番目の、大事の大事のお雛様。や! 大変だ。深川の火事の時は、ちょうどお節句で飾ってあった、あの騒ぎに内裏様の女の方かたの、珠たまのちらちらのついた冠がたった一つ紛失したのを、いつも気にかけておいでなさるくらいだのに、ああ、情ない。」

お夏はこれを、うっとりとなって聞くのであった。

二十二

「せめてその骨でも拾って、腕まもりでも拵こしらえよう、」

とまっしぐらに立向った、火よりも赤き気競きおいの血相、猛然として躍り込むと、戸外おもては風で吹き散ったれ、壁の残った内は籠こもって、颯さっと黒煙くろけむりが引包ひッつつむ。

「無茶でさ、目も口も開あきやしねえ、横もうしろも山のような炎の車がぐるぐると駆けてまさ、から意気地はありません。

夢のような気です。まして棄鉢すてばちに目を眠った処を、裾すそからずるずると引張るから、はあ、こりゃおいでなすったかい。婆さんが衣きものを脱ぐんだろう、三途川さんずのかわの水でも可い、末期に一杯飲みてえもんだ、と思いましたがね、口へ入ったなあ冷酒の甘露なんで。呼吸いきを吹返すと、鳶口とびぐちを引掛けて、扶たすけ出してくれたのは、火掛ひがかりを手伝ってました、紋床の親方だったんでさ。

焼あとへね、遠山さんもおいでなさりゃ、その新聞社の探訪の、竹永丹平というのも来ました。親方と四人でね、柳の根方でしばらく、皆みんなで、お嬢さんの噂ばかりしましたっけ。夜露やら何やらで湿ッぽくばかしなって、しらしらあけの寒いのに皆みんな悄しおれて別れたでさ、それッきり。

どこへおいでなすったか、お行方は知れませんや。またもうお目にかかるまいと心じゃ極きめていたんですから、口へ出して人に聞くのも何だか気が咎めてならねえんで、尋ねるわけにもなりませんで、程たって、勝山さんの御新造が築地の何とかいう病院で、お亡なくなんなすったって、風のたよりに聞きましたが、ともかくも病院へお入んなさるくらいじゃ、立派にお暮しなさるんだろう。お嬢さんは、お手車か、それとも馬車かと考えますのが一式の心ゆかしで、こっちあ蚯蚓みみずみたように、芥溜はきだめをのたくッていましたんで。

へい、決してその、決して何でさ、忘れたんじゃありません。」

語って涙を拭ぬぐう時、お夏ははんけちを啣くわえていた。

「じゃ何、あの晩火事の時、火の中へ飛び込んだの、大変ねえ。」

「へ、何、そりゃ、そんな事はわけなしでさ。熟じっと大人しくしている時が堪たまらねえんで。火でも水でも、ドンと来た時はおもしれえんで。へ、何、わけなしでさ。殊にお嬢さん許とこの灰になりゃ、私わっしあ本望だったんです。」と、思わず拳こぶしを握ったのである。

お夏は黙って瞻みまもった。その時はじめておくれ毛がはらはらと眉を掠かすめた。

「でもお前、目をまわしたとおいいじゃないか。」

「ちょっと、眠ったんで、時々でさ。」

「だってお前、きっと火傷やけどをおしだろう。」

直垂ひたたれに月がさして、白梅の影が映っても、かかる風情はよもあらじ。お夏の手は、愛吉の焼穴だらけの膝を擦さすった。愛吉たらたらと全身に汗を流し、

「ええええ、脇腹を少し焦しましたが、」

「可哀相かわいそうに、お見せな。」

「何、身体からだ中、疵きずだらけだから、からもう何が何だか分りません。」

とはだかった胸を慌ててかくした。

「愛吉、それでもお前、無事に逢えて可よかったねえ、ほんとうによく来たねえ。」

「ですから、ですから、その上がられました義理じゃねえんで、お門口へだって寄りつく法じゃありませんがね、ちとその、」

と口籠った。妾沙汰めかけざたの一条で、いいかねたものであろう。

お夏はいささかも気に留めず、

「おいいでない。愛吉、お前がそんな事をいって来ないお庇かげで、私がどんな出世をしたのよ、どんな出世が出来たのよ。」

と詰なじるがごとく声強く、

「お前たちを袖にして出世をしたってどうするの、よ、愛吉、」

「じゃあ、ど、どうしてお嬢さん、貴女はどうしてどこにおいでなすったんでございますね。」

「芥溜はきだめよ。」

「え、」

「私もやっぱり芥溜なの。」

「飛、飛んでもねえ。」

「だって、お前も好すきなんだから可いではないか。」

と澄ましていう。

二十三

その物腰と風采は、人形町の頃よりも、三ツ四ツ年紀としもたけ、﨟ろうたさも、なお増まさりながら、やや人に馴なれ、世に馴れて、その芥溜ごみためといえりし間、浮世のなみに浮沈みの、さすらいの消息の、ほぼ伝えらるるものがあったのである。

愛吉は悚然ぞっとした。

「寒くはなくッて、」

「御串戯ごじょうだんおっしゃらあ、」

「だって素袷すあわせでおいでだよ。」

「そこへ行っちゃ職人でさ、寒の中うちも、これで凌ぐんで、」

「威張ったね。」

「へ、どんなもんで、」と今度は水洟みずばなをすすり上げた握拳にぎりこぶし、元気かくのごとくにしてかつ悄然しょうぜんたり。

「ほんとうに真面目ねえ、ああ、そう、酒気のない処で、ちと算盤そろばんでも持せて弱らしてやろうかな。」

と莞爾にっこと笑み、はじめて瞳を座敷に転じて、島田の一にぐいとさした、撫子なでしこの花を透彫すかしぼりの、銀の平打が身じろぎに、やや抜け出したのを挿込みながら、四辺あたりを視ながめて、茶棚に置いた剃刀かみそりにフト目が留まった。

「愛吉、それよりかお前、ほんとうにちょいと困っておくれでないかい。」

「困りますえ。私わっしが、何を。お嬢さん、」

「久しぶりだ、あたっておくれ、」

「お顔を、」

「ああ、私は自分じゃ不器用だし、おばさんは上手だけれど、目が悪いからッて危ながって遠慮をするしね。近所じゃ厭だし、どこへ行ってもしゃぼんをぬらぬらなすくって、暖かい、あぶらッ手で掴つかまえられて恐れるわ。困っているの、ねえ、愛吉、後生だから、」

「遣りますかね、」

「ああ、」

「や、そいつあ素敵だ、占めたもんだ。ちょうど可いいや、剃刀が来ていまさ。」

お夏は車で知っている。

「喧嘩をしたもんだから、よく知っておいでだね、おばさんは忘れて行ったに。あいかわらず、対手あいてさえありゃいがみ合うんだよ。」

愛吉は勇みをなし、

「対手あいて、対手は紋床の親方だけだ。稲荷に仕込まれましたお庇にゃ、剃刀を持たせた日にゃ対手というものはねえんですぜ。まあ、叱言こごとはあとにしてお嬢さん、ちょいとお襟をお預けなせえ。

すっ、するするッと来ら。私わっしあ伊豆の大島へ行きましたがね、から、唐人みたようなお百姓でも、刃あたりが違うと見えて、可いなアーッていやあがるんで。

こう、為朝ためともは、おらが先祖だ。民間に下って剃刀の名人、鎮西八郎の末孫ばっそんで、勢い和朝に名も高き、曾我五郎時致ときむねだッて名告なのったでさ。」

「太平楽は可いけれど、何、お前大島ッて流しものになる処じゃないの、大変な処へまあ、」

江の島をさえ知らない娘の驚いたのはさもありなん。

「で、お嬢さんはどうしておいでなすったんで?」

「あれ、芥溜はきだめをまた聞くよ。そんな事はあとにして、疾はやく困ってくれないと、暗くなる、寒くなる、さあ、こっちへおいで、さあ、」

足許から美しい鳥の立つよう、すらりと身を起す、その片手に手巾ハンケチを持っていたのを、無意識に引くと、放れぬこそ道理なれ。片端膝にかかったのを、愛吉は我れ知らずつかんでいたので。

向うへ一所に立とうとすると、足がふらふらとして尻餅の他愛なさ。畳まれたようにぐたりとなる。お夏は知らずに出ようとする。手の手巾ハンケチを愛吉が一心になって掴つかんだ、拳が凝って指がほぐれず。はッと腰を擡もたげると、膝がぶつかって蛸たこの脚、ひょろひょろと縺もつれて、ずしん、また腰を抜く。おもみに曳ひかれて、お夏も蹌踉よろめく。もつるる裳もすそ。揺ゆらめく手巾。

「おや、」

と思わず熟じっと見られた、愛吉のその顔は……

二十四

「お前しびれを切らしたね。ほほほ、」

「むむ、」

気を入れると直ぐに、よたり。

「馬鹿だね。」

「これは!」と片手を畳へ。しっかりと支つくと、直ぐにお夏がその手巾で引かれるから、これはとあせるほどなお放れず。

「だらしのない為朝だよ。」

「勢い! 和朝に、」

強そうな顔をして、やッと起きると、ひょろりでトン、足を投げてきょとんとする。

お夏は密そっと引いて見て、はらりと放した。手巾を畳に残して、隣座敷へ、すいと立った。背姿うしろすがたで忙せわしそうに、机の前なる紅入友禅べにいりゆうぜんの唐縮緬とうちりめん、水に撫子の坐蒲団すわりぶとんを、するりと座敷の真中まんなかへ持出したは、庭の小菊の紫を、垣から覗のぞく人の目には、頸うなじの雪も紅くれないも、見え透くほどの浅間ゆえ、そこで愛吉の剃刀に、衣紋えもんを抜かん心組。

坐りもやらず蒲団の上。撫子の花を踏んで立つと、長火鉢の前、障子の際に、投出されたという形。目ばかり光らす愛吉を、花やかに顧みて、

「鎮西八郎、為ちゃん。」

「や、」

「曾我五郎、時さん。」

「こいつあ、」

「泥酔のんだくれの愛ちゃんや。」

「ええ。」

お夏は片襷かただすきを、背からしなやかに肩へ取って、八口の下あたり、緋ひの長襦袢ながじゅばんのこぼるる中に、指先白く、高麗結こまむすびを……仕方で見せて、

「ちょいと、こういう風でね。」

かくて酒肴しゅこうの用足しから帰って来た女房は、その手巾を片襷に、愛吉が背後うしろへ廻って、互交たがいに睦むつまじく語らいながら、艶えんなる頸うなじにきらきらと片割月のきらめく剃刀。物凄きまで美しく、向うに立てた姿見に頬を並べた双の顔に、思わず見惚みとれて敷居の際。

この跫音あしおとにも心着かず、余念もない二人の状さまを、飽かず視ながめてうっとりした。女房の何となく悚然ぞっとしたのは、黄菊の露の置きかわる、霜の白菊を渡り来る、夕暮の小路の風の、冷やかなばかりではなかった。

明り取りに半ば開いた、重なる障子の薄墨に、一刷ひとはけ黒き愛吉の後姿うしろつき、朦朧もうろうとして幻めくお夏の背そびらに蔽おおわれかかって、玉を伸のべたる襟脚の、手で掻い上げた後毛おくれげさえ、一筋一筋見ゆるまで、ものの余りに白やかなるも、剃刀の刃やいばの蒼あおずんで冴えたのも、何となく、その黒髪の齢よわいを縮めて、玉の緒を断たんとする恐ろしき夜叉やしゃの斧おのの許もとに、覚悟を極きめて首垂うなだれた、寂しき俤おもかげに肖にて見えたのであった。

*  *  *  *  *  *  *

「所謂いわゆるその影が薄いといった形で。つまり俗にいう虫が知らせたんだろうな。」

「ええ、女房かみさんもいうのでありまするし、かような事は、先生の前じゃちといかがな儀ではありまするが、それを聞いた手前なども、またさようかに考えるので、どうも争われないものですよ。」

「いや、一々銷魂しょうこんな事ばかりです。幸さいわい病気は良いのですけれども、実に腸はらわた九廻するの思いで聞くに堪えん。が、そこで。」と問掛けて、後談を聞くべく、病室の寝床の上で、愁然しゅうぜんとしてまず早や頭こうべを垂れたのは、都下京橋区尾張町東洋新聞、三の面軟派の主筆、遠山金之助である。

「第一手前が巣鴨の関戸の邸の、紅葉の中で、不意に出会でっくわした時もそうですが、沈んだ明あかるい、しかも陰気な、しかし冴えて、冷ひややかな、炎か紅くれないの雲かと思うような四辺あたりの光景にも因りましたろうが、すらりと、このな、」

と円満にして凸凹でこぼこなき、かつ光沢のある天窓あたまを正面から自分指ゆびさしながら、相対して、一等室の椅子にかけたのは同社名誉の探訪員、竹永丹平である。

別に必要はないけれども、その着つけ、背恰好せかっこう、容貌、風采、就いて看みらるべし。……

第二回の半ばに出でたり。

この処築地明石町あかしちょう、明石病院の病室である。

二十五

探訪員は天窓あたまをさした、その指を、膝なる例の帽子の下に差入れた。このいかがわしき古物を、兜かぶとのごとく扱うこと、ここにありてもまたしかり。

さて、打咳うちしわぶき、

「トこの天窓の上へ、艶麗あでやかに立たれた時は、余り美麗で、神々しくッて、そこいらのものの精霊が、影向ようごうしたかと思いましたて。桜の精、柳の精というようにでございますな。しかし寂寞ひっそりとした四辺あたりの光景ようすが、空も余りに澄み渡って、月夜か、それとも深山みやまかと思われるようでありましたのは、天地が、その日覚悟を極きめて死にに行ゆく、美人に対する、かの同情というものを表わしたのでありましょう。

見ると、――柳屋のだろうじゃがあせんか。面と向ってついぞ言ことばを交わしたということもないのですが、先生、貴下あなたも御同然に、こりゃ社用外のさがしもので、しばらく行方が知れないのを、酷ひどく心配をいたしておりましたで、思わず膝を拍うって私てまえ。

(お夏さん。)と申しました。……

思いがけない様子でした。こりゃ理もっともだ。実は私てまえの方が思いがけないんで。お顔を覚えておりません。誰方どなた、という挨拶で、ちと照れましたがな。以前、人形町辺に居りました時分ちょいちょいお店へ参って、といってこの天窓に対して、(肖顔画にがおえなどを孫どもに買ってやりましたで存じております、)などと遣ったですて。

まず、これへ、と人様のものでお愛想。自分も拝借をしておりましたし、まだ二ふたつばかり据えてありました陶器やきものの床几しょうぎを進めると、悪く辞退もしないで静しずかに腰をかけたんですが、もみじの中にその姿で、いかにも品が佳いい。これでさげ髪だと何の事はない、もみじ狩の前シテという処ですが、島田の姉さんだから、女大名。

私てまえは太郎冠者というやつ、腰に瓢ひさごがあれば一さし御舞おんまい候え、といいたい処でがしたが、例の下卑蔵げびぞう。殊に当日はあすこを心掛けて参ったので、煙草は喫のまず、その癖、樹下石上は思いも寄らん大俗で、ただ見物も退屈、とあらかじめ、紙に捻ひねって月の最中もなかというのを心得ていましたから、(ちとお歌でもなさりませんか、)といいますとね。

どど一いつか端唄はうたなら、文句だけは存じておりますが、といって笑顔になって、それはお花見の船でなくッては肖うつりません。ここはどんな方のお邸でござんすえ、ッて聞かれたから、(こりゃ関戸とおっしゃる御華族でいらっしゃる。)と答えますと、華族さんなの。それでは町人が来ては叱られましょうッて莞爾にっこりしました。」

お夏はその時町人といった。

「痛快でがした。――

服装みなりといい、何となく人形町時分から見ると落着きが出て気高い。私てまえ最初はその関戸伯爵の姫様ひいさまと間違えて、突然低頭に及んだくらいで、天下この人に限ってはとは思うが、そこは女。

実は乗りたや玉の輿こしで、いずれ、お手車処どころは確たしかに見える。自然と気ぐらいが高くなっているのであろうと、浅はかにも考えたが―違いました。

この江戸児えどっこ、意気まだ衰えず、と内心大恐悦。大おおいに健康を祝そうという処だけれども、酒ありますまい。そこで、志は松の葉越の月の風情とも御覧ぜよで、かつその、憚はばかんながら揶揄やゆ一番しようと欲して、ですな。一ツ召食めしあがれ、といって件くだんの餡ものを出して突きつけた。」

「柳屋のに、」

と金之助は眉を顰ひそめた。

丹平泰然として、

「さよう、」

「驚きますな。」

と遠山は止むことを得ざらん体ていに、

「あの窈窕ようちょうたるものとさしむかいで、野天で餡ものを突きつけるに至っては、刀の切尖きっさきへ饅頭を貫いて、食え!……といった信長以上の暴虐ぼうぎゃくです。貴老あなたも意気が壮さかんすぎるよ。」

「先生、貴下あなたはまた、神経痛ごときに、そう弱っては困りますな。」

「何、私はもう退院をするんだから構わんが。」

とて愁うれうる色あり。

丹平は打頷うちうなずき。

「しかし、仏の像の前で、その言行を録した経を読むと同一おなじです。ここでお夏さんの話をするのは。まあ、お聞きなさい。」

と声を低うしていった。

この突当つきあたり右側の室に、黒塗の板に胡粉ごふんで、「勝山夏」――札のそのかかれるを見よ。

二十六

病室の主客しゅかくが、かく亡き俤おもかげに対するごとき、言語、仕打を見ても知れよう。その入院した時、既に釣台で舁かつがれて来た、患者の、危篤きとくである事はいうまでもない。

「実はその人を歎美して申すのですから、景気よくお話はしますけれども、第一私てまえがもうこういう内にも、(難有ありがたルビの「ありがた」はママう)といって、人の志を無にせん風で、最中もなかを取って、親か、祖父じいさんの前ででもあるように食べなすった可愛らしさが、今でも眼前めさきにちらついてならんでがすて。」

鼻を詰らせながら、掌たなそこで口を拭ぬぐって咳一咳せきばらい。

「私てまえもな、昨年一人、末ッ児を亡くしたですが、それを思い出してもこんなじゃない。」

と椅子をずらして、

「で、何でげすか、どうしても六むずヶしいと申すんで?」

「ああ、看護婦がいいます、勿論悉くわしいことは話さない。

入院した日は、何事もなく静かだったが、一昨日おとといの晩でした。

私は、はじめ串戯じょうだんかと思った。

うら若い女の声で、

(あつうあつう、)

というのです。

(暑い! 暑い、)

と聞えて、

(暑いよう、暑いよう、)というのが、夢中のようでね。

(快よくなりますよ、直じきによくなりますよ、)とひそひそすかすのが、幽かすかに聞えるから、ああ、それじゃ病人だな、と思ったんです。ひッそりしたっけが、また、

(熱いねえ! 熱いねえ、)

(もう直ぐに快くなりますからね、)

(ああ、)

と調子高に、しかし上の空のようにいって、少し気がついたか、落着いた声で、

(熱いこと!)

こういってね、それッきり。ひッそり陰気になったが、いや、その間、はッと思って、私も呼吸いきがつけないのでした。」

丹平もしめやかに頷くことあまたたび、

「成程々々成程なななッ。」

「二三日にさんちもう手はかかりませんから、そこに、」

金之助は扉に並べて一枚を敷いた、畳の隅、鉄の火鉢の方に目を遣って、

「編物をしていた附添のね、福崎(看護婦)というのに、(どうしたの)ッて聞くと、何も間い返すまでもない。

(苦しいんですよ、)といいます。

(不良わるいのかね。)

(いらしった時から釣台でしたから、)

それさえその時まで私は気がつかないで居たくらいで。もっとも前晩、夜更けてからちと廊下に入組んだ跫音あしおとがしましたっけ。こうやって時候が可いいから、寂寞ひっそりして入院患者は少いけれども、人の出入ではいりは多いんですから、知らなかったんです。」

「まさか自分の病院で、治療するというわけにも行かなかったものでありましょう。」

「ははあ、秘密のようですかい。」

二十七

「だから私もその、事件の場所へ立会った程な、この度のことに就いては浅からん縁がありますけれども、実は遠慮をして差控えていたのでがす。しかし、経過が、どうか。容体が、どうか。気になって、どうも心配でなりません、ところが、幸い、」

といいかけて、兀天窓はげあたまを、はッと圧おさえ、

「貴下あなたの御病気を幸いといっては恐縮千万、はははは、」と、四辺あたりを憚はばかった内証笑わらい。

「実は私も自分で幸いと思っている。」

「いや、恐縮ですが、また、さほど大した御容体でもなかったと見えまして、貴下が、こっちへ御入院という事は、まったく、今朝けさはじめて聞いて一驚を吃きっしました。勿論社の方へは暫時ざんじ御無沙汰、そんなこんなで、ちっとも存じませんで、大失礼。そこで、すぐにお見舞と申す内にも柳屋の方が主であるようで相済まんですが、もっとも向うへ顔出しをする気はないので。それでなくッても私てまえ商売などは、秘密の秘の字でもある向には、嫌われるで、遠慮をしますから、悪あしからず。」

「私はまた(何の病気、)と聞くと、

(熱が酷ひどいんでしょう、)といったばかり。

(婦人だね、)

(はい、少わかいお嬢さん、)

(幾歳いくつぐらいの、)

(二十はたちか、九でおいでなさいましょう。)

柳屋のはもうちっとになったでしょう、こりゃ少く見えたんです。

そこまで聞いて、まさか、名は? とまで尋ねるでもないから、そのままにしましたが、一体何となく継穂のない、素気そっけない返事だと思ったんですが、もっともだ。じゃ、山の井先生のために、この病院長が、全院を警戒して秘密にしたんだ。」

「そうでがすとも、ごく内証ですから、憚はばかって、自分の病院があるのに、こっちへ依頼をされたんで。この明石病院の院長は、山の井医学士の親友でがす。

もっとも他の新聞にも出ましたから、事件は、さして秘密じゃありますまいが、自分がお夏さんの世話をしておいでだった光起みつおき(山の井医学士の名)さん。

薄々青柳町に囲ってある、妾めかけだ妾だという風説うわさなきにしもあらずだったもんですから、多くは知らんにもせい、」と声をひそめる。

「どうして、私はまた、不意に貴老あなたが見えたのを、神の引合わせかと思う。ちょっと筋向うのが柳屋のだと、声をさえかけて下すったら、素通りにされても怨まない。実際そうでないと、わずか廊下を七八間離れたばかりで、一篇悲劇の女じょ主人公、ことに光栄ある関係者の一人にんで居ながら、何にも知らないで退院する処でした。あとで聞いては千載の遺憾いかんだったに、少くともその呼吸いきのある内に、時鳥ほととぎすと知って声を聞いたのは、光栄です。私はこれを一声の時鳥だといいます。あの血を吐く声が実に腸はらわたを断つようで。竹永さん、」

と面おもてを上げて、金之助は今もその音や聞ゆる、と背後うしろを憂慮きづかうもののごとく、不安の色を湛たたえつつ、

「引続きこの快晴、朝の霜が颯さっと消えても、滴って地を汚けがさずという時節。夜よが明けるとこの芝浜界隈かいわいを、朗かな声で鰹かつお――

生鰹と売って通る。鰯いわしこい、鰯こいは、威勢の好い小児こどもが呼ぶ。何でも商いをして帰って、佃島の小さな長屋の台所へ、笊ざると天秤棒てんびんぼうを投ほうり込むと、お飯まんまを掻込かっこんで尋常科じんじょうかへ行こうというのだ。売り勝とう、売り勝とうと、調子を競って、そりゃ高らかな冴えた声で呼び交すのが、空気を漉こして井戸の水も澄ますように。それに居まわりが居留地で、寂しんとして静かだから、海まで響いて、音楽の神が棲すむ奥山から谺こだまでも返しそうです。その音楽の神といえば、見たまえ、この硝子窓がらすまどの向うに見える、下の外科室の屋根を隔てた煉瓦れんが造りを。外国婦人が住んでいてね、私なんぞにゃ朗々としか聞えんが、およそ目には見えんで、各自てんではその黒髪の毛筋の数ほど、この天地の間に、天女が操る、不可思議な蜘蛛くもの巣ぐらいはありましょう、恋の糸に、心の情が触れる時、音ねに出づるかと思うような、微妙な声で、裏若いのが唱となう。ピアノを調べる。時々あの向うの硝子戸を取りまわした、濃い緑の葉の中に、今でも咲いている西洋種のぼっとりした朝顔の花を透かして、藤色や、水紅色ときいろの裾すそを曳ひいたのがちらちらする。日の赫かッと当る時は、眩まばゆいばかり、金剛石ダイヤモンドの指環ゆびわから白光びゃっこうを射出す事さえあるじゃありませんか。

同一おなじ色にコスモスは、庭に今盛さかりだし、四季咲の黄薔薇きばらはちょいと覗のぞいてももうそこらの垣根には咲いている、とメトロポリタンホテルは近し、耳馴なれぬ洋犬かめは吠えるし、汽笛は鳴るし、白い前垂まえだれした廚女おさんがキャベツ菜の籠を抱えて、背戸を歩行あるくのは見えるし……」

刻下、口を衝ついて数百言すひゃくげん、竹永は我が探訪の職に対し、生殺与奪の権を握れる、はたかれ神聖なる記者として、その意見に服し、その説に聴くこと十余年。いまだこの日のごときを知らなかった。三面艶書つやだねの記者の言、何ぞ、それしかく詩調を帯びて来きたれるや。

惘然ぼうぜんとして耳を傾くれば、金之助はその筋疼いたむ、左の二の腕を撫でつついった。

「これ実に侮るべからざるハイカラですよ。」

二十八

「竹永さん、金之助病やまいのためにこの境に処して、なお巴里パリイ、伊太利イタリイの歌に魂を奪われず。却って佃島の(鰯こ)に心を澄まし、初冬はつふゆの朝の鰹にも我が朝ちょうの意気の壮さかんなるを知って、窓の入口に河岸へ着いた帆柱の影を見ながら、この蒼空あおぞらの雲を真帆、片帆、電燈の月も明石ヶ浦、どんなもんだ唐人、と太平楽で煩っていたのも、密ひそかに柳屋のお夏を健在、と思っての事であった。」

いいかけて寂しく笑った、要するに記者の凡すべての言は、お夏に対する狂熱の勃発ぼっぱつしたものであったのである。

「それがどうです。

(熱い、熱い、熱いねえ、)

今もいいます通りね、一昨日おとといの晩は、それッきりだったが、昨日きのうの午後二時頃にはまた、

(熱いの、熱いねえ、熱いねえ、)

昼間だから、夜分のようにはないんですが、傍はたで何かいって切しきりに慰めたようだった。

(熱いわ、何て熱いんでしょう、)

とあきらめたように、しかも哀あわれにきこえた処へ、廻診の時間じゃないのに、院長が助手と看護婦長とを連れて、ばたばたと上って見えて、すっとこの室の前を通ったんだね。

そこへ私の看護婦が来ましたが、体温器を掛けにです。戸口へ立停たちどまって、しばらくその方を見ていました。

しばらくすると、皆みんな下りて行く。看護婦が入ったから、

(あすこのはわるいのかね、)

(はい、どうも不可いけませんそうです、)

……は心細い。

(気の毒だね、)

(ほんとうにお可哀相でございますよ、)と婦人おんなは相身互あいみたがい、また一倍と見える。

私は素人了簡しろうとりょうけんで、何とか、その熱が上らないだけの工夫はありそうなものと思ったから、

(やっぱり冷しているんだろうか、)

(氷嚢ひょうのうを七箇ななつでもう昼夜通していますんです。)

(七箇!)

と私は驚いた。

(お頭つむへ一箇ひとつ、一箇枕におさせ申して、胸へ二箇ふたつ、鳩尾みぞおちへ一箇、両足の下へ二箇です。)

こういいいい体温器を入れられた時は、私は思わず、人事ひとごとながら悚然ぞっとした、お庇で五分その時は熱が上ったですよ。」

丹平も呆気あっけな顔して、

「酷ひどうがすな。」

「酷いんですとも! でもまあ、氷嚢を七ツと聞いて、疾やまいに対してほとんど八陣の備そなえだ。いかに何でも、と思ったが不可いけない。

日の暮方に、また、夕河岸の鰹、生鰹、鰯こ、鰯こい――伊太利じゃ晩餐ばんさんの朗々朗ロウロウロウが聞えて、庭のコスモス、垣根の黄薔薇、温室の朝顔も一際色が冴えようという時、廊下が暗くなると、

(あ、熱々々々つつつつ、)と火がついたように、凡すべての音楽を打消して、けたたましく言い出したじゃないか。

どうです、それがお夏さんだ。

余り何だから、私は廊下へ出て、二三間、そっちの方へ行って見ました。薄暗い扉ドアに紙を貼はって、昨日きのうの日づけで、診療の都合により面会を謝絶いたし候――医局、とぴたりと貼ってある。いよいよ穏おだやかでない。

それまで見たが、名札を見ようという気もなし、扉ドアはその字が読めるようにこっちへ半ば開けてあったんですが、向うには、附添と見えて、薄汚い、そういっちゃ悪いが、それこそ穴だらけの袷あわせを素膚すはだに着た、風体のよくない若い男が、影のように立っていました。

で、することは看護ですな。昇汞水しょうこうすいの金盥かなだらいと並べた、室外の壁の際の大きな器に、氷嚢から氷が溶けたのを、どくどくと開けていました。けれども、私は、その姿の、ぼッとしたのといい、背後うしろだった形といい、折から、その令嬢というのを悩ます、病の魔のような気がして、こっちも病人だ、悚然ぞっとしましたよ。

すぐにひょろひょろと室へ入って、扉を音もなくひとりでに閉めるとね、トタンに𤏋ぱっと点ついて来たと思った電燈が、すぐに忘れものを思い出して引返したように消えたでしょう。

(熱いよ! 熱いよ!)と言うでしょう。まさに病魔だと思った奴がじゃ、竹永さん、――可哀相に愛吉ですな。」

二十九

「愛吉、愛吉、」

と二ツいって二ツ頷うなずいた、丹平の打悄うちしおれた物腰挙動ふるまい、いかにもいかにも約束事、と断念あきらめたような様子であった。

「全く病の魔と見えましてがすかな、争われないもんだ。青柳町の女房は――前ぜん申したごとくで、これをお夏さんの生命いのちを縮める鬼のように思った。覿面てきめん、その剃刀かみそりで殺やったですでな。たとい人違いにもしろでがす。」

繰返して重ねて、

「争われないもんだ、争われないもんだ。」

しばらくして金之助が、

「しかし竹永さん、奴やっこあればこそ、お夏さんは、我が柳屋の姉さんで、単に医学士山の井光起君に対するだけでは、尋常、勝山の娘に留とどまる。

奴なきお夏さんは、撞木しゅもくなき時の鐘。涙のない恋、戦争のない歴史、達引たてひきのない江戸児えどっこ、江戸児のない東京だ。ああ、しかし贅六ぜいろくでも可い、私は基督教キリストきょうを信じても可い。

私が愛吉の尻押しをして、権門に媚こびて目録を貪むさぼらんがために、社会に階級を設くるために、弟子のお夏さんに、ねえ竹永さん。……

合弟子の、山河内やまこうちという華族の娘の背せなを、団扇うちわで煽あおがせた。婦人おんなじゃ不可いけない! その鬱憤うっぷんを、なり替って晴そうという、愛吉の火に油を灌そそいで、大の字形なりに寝込ませた。

ちょうど同じ日に一足後れて、お夏さんを娶めとろうという、山の井医学士の親類が、どんな品行だか、内聞ないぎき、というので、お夏さんの歌の師匠の、根岸の鴨川かもがわの処へ出向いたのが間違の因もとです……

今までそこにふンぞり反って、暴れていた床屋の職人が、その人の使者つかいだというお夏さんを、たとい親だって好くいおうか。

まして、繻子しゅすの襟も、前垂まえだれも、無体平生から気に入らない、およそ粋というものを、男は掏摸すり、女は不見転みずてんと心得てる、鯰坊主なまずぼうずの青くげだ、ねえ竹永さん。

よくも、悪くも、背中に大蛇おろちの刺青ほりものがあって、白木屋で万引という題を出すと、同氏御裏方、御後室、いずれも鴨川家集の読人だから堪らない。ぞ、や、なり、かなかな、侍はべる、なんど、手爾波てにはを合わされて助りますかい。……あとで竹永さん、貴下あなたが探りましたね、第一、愛吉が知っていたんだね。……

お夏さんは人知れず、あの気象には珍らしい、豪家ごうけが退転をするというほどの火事の中うちでも、両親で子の大事がる雛だけ助けたほど我ままをさした娘に、いい遺のこした遺言とかで、不思議に手習をする、清書きよがき草紙に、人知れず、医学士(山の井光起)の名を書いて、惚ほれ抜いていたんだそうですな。

何と、その恋人を、しかも自分が、師匠のいいつけで煽あおがせられて、口惜くやしがって泣いた、華族の娘に取られようとは、どうです。

一人は医学士の意中を計った親類の周旋。一方はその母親から持込んだ華族の縁談。

山河内定子は、今現に、山の井医学士の令夫人だ。竹永さん。

私は蔭ながら、大おおいなる責任者だ。

私が愛吉ならきっと行やる、愛吉ならずとも、こりゃきっと行らねばならん処だ。定子を殺さねばならないわけだ。確たしかだ。

が、幸か、不幸か、二三冊読んでいるから、まさかに剃刀を逆手に取って、可愛い娘のために、その恋の敵を、暗殺しようとは思わなかった。

しかし文字もんじのあるものが、目に一丁字いっていじのない床屋の若いものに、智慧ちえをつけて、嵩こうじたいたずらをしたのが害になったんだから、なお責任は重大です。しばらく行方の知れない内も、寝覚が悪くッてならなかった。お夏さんがそうと知ったら、私が先んじて行やれば可かった。私は死んでも可い、そうすれば、まさかに人違いをするようなことはなかったろう。」

平生に似ず言ことばもしどろで、はじめの気焔きえんが、述懐となり、後悔となり、懺悔ざんげとなり、慚愧ざんきとなり、果はては独言ひとりごととなる。

体温器がばたりと落ちた。

かけ忘れて寝着ねまきの懐にずっていたのが、身を揉もんだので辷すべったのである。我に返って、顔を見合わせ、二人一所に、ははは――歎息した。

三十

「串戯じょうだんじゃないまったくです、私は基督教になっても可い。今のその根岸の歌人うたよみに降伏をして、歌の弟子になっても構わん。どうかして治してやりたいじゃありませんか。」

「いや、先生、貴下あなたは凡すべて空くうにものをお考えなすってさえその通りだ。

それから見ると、私てまえは一倍上だろうと思うでがすよ。何故なぜとおっしゃい。あの娘が、これから、わざと殺されに行こうという日、その菓子もなかの一件でしょう。悪気でしたのではなかったのですが、死のうという覚悟をした、それも二日三日と間のある事ではない、四五時間前というのに、もみじの中うちで、さしむかいに食べられた時を思いますと、我てまえもう、ここが、」

と大きな懐中物で、四角に膨れた胸を撫でつつ、

「何ともいえないので、まるで熱鉄を嚥下のみくだす心持でがすよ。はあ、それじゃ昨日きのう、晩方にも苦しみましたな。」

「ああ、そうです、」

金之助は話の糸の、乱れた苧環おだまき巻きかえし、

「その、氷嚢をあけていた、厭いやな人影が中へ入る、ひとりでに扉ドアが閉る。途端に電燈が点つくかと思うと、すぐに消えた。薄暗うすくらがりを、矢のように、上衣うわぎなしの短衣チョッキずぼん、ちょうど休憩をしていたと見える宿直の医師ドクトルがね、大方呼びに行ったものでしょう、看護婦が附添って、廊下を駆けつけて来たのに目礼をして、私は室へ戻ったですがね。停電暫時ざんじで行燈あんどうを点けるという、いや、酷ひどい混雑。

その内に、

(おお、熱い事、)

とその声が、一度不思議に婀娜あだッぽくきこえた。何となく正気でいったように思ったが、看護婦に聞くと注射をしたんだそうで、あとは昏睡こんすいですと。

それも二時間とは続かない、すぐにまた、

(熱々々々あつつあつつ!)

は情ないじゃありませんか。

(熱いよ、熱い、熱いよう、)

と夢中で泣く。それはまだしもだ、竹永さん。

(熱いなあ、熱いなあ、)

なあというに至って、私は天窓あたまからこの掻巻かいまきを引被ひっかぶって、下へ、下へ、とずり下って、寝床に沈んだが、なお聞える。

(暑いなあ、暑いなあ、)

そこで、もぐっても、くぐっても両方の肩から水を浴びるように、ぞくぞくするから堪たまらなくなって、刎はね起きて、きょろきょろ見ると、その佃の帆柱が見える硝子窓の上の方が、真暗まっくらに三寸ばかり透すかしてあったから、看護婦は、と見ると、扉ドアを細目に開けて、白い身体からだをぴッたり附着くッつけて、突当りのその病室の方を覗のぞいてね、憂慮きづかわしそうにしているから、声をかけて閉めて貰って、

(悪いか、)

(とても、)

(気の毒だ。)

(お可哀相でなりません。)

早くしておくれ、早くさ、早くさ、とその病人のじれる声は、附添が賺すかしても、重い頭かぶりを掉ふるんでしょう。

すたすたと廊下を駆ける音。

(幾人いくたりついているの、)

(三人です。)

(親たち?)

(いえ、こっちの看護婦と、向うから附いておいでなすった、それはそれは美しい、看護婦さんと、もう一人職人のような若い衆しゅが、もうつきッきりで、この間ッから夜一夜よっぴて一目も寐ねなさらないで、狂人きちがいのようですよ。)

私は愛吉とは思いも寄らない、が、先刻さっき見た一件だ。

(何だね、それは、)

(家来衆とも見えませんが、お嬢様、お嬢様といっています。多分乳母ばあやさんの児こで、乳兄弟ちきょうだいとでもいうようなんじゃありませんか。何しろ一方なりませんお主しゅうおもい、で、お嬢さんがね、あつい、あついとおっしゃる度に、額からたらたら膏汗あぶらあせを流すんですよ。

⦅水天宮様の方角はどちらでがすえ、⦆と聞きましては、一室に大勢ですから、お嬢さんの寝台ねだいの下へ、はい込んじゃ手を合わせて拝みます。

まるで夢中ですもの、すぐに忘れてはまた、

⦅モシ、茅場町かやばちょうはどっちでえ、⦆ッちゃ、寝台の下へもぐり込んで拝みます。

いじらしくッて、皆みんな見ては泣くんですよ。)

といって、涙ぐんでいるだろうじゃありませんか。」

丹平はまた溜息ためいきをした。

「ああ。」

三十一

金之助も吐いきをついて、

「看護婦も話すうちに鼻をつまらせて、

(まるで気が違ったようですよ。つい昨夜ゆうべ、夜中はちっとばかり、すやすやしておいでだったそうですが、七箇ななつもかけた氷嚢が、しばらくの内に溶けますから、始終、氷を割りますが、また夜がふけると、四辺あたりへ響きまして、カンカンッて、凄すごいようだもんですから、うるさかったと見えて、お嬢さんが、

⦅厭いやな音ねえ、⦆ッて現うつつにそうおいいなさいますと、何と思ったのか、若い衆しゅが、大きな氷の塊を取って、いきなり、自分の天窓へ打ぶッつけたんですって。一念か、こなごなに、それはもう、霜柱のように砕けましたッてね、額を斜はすッかけに打切ぶっきって、血がたらたら出たそうです。それを痛そうな顔もしないで、

⦅モシ、水天宮の方角は、⦆ッて……)

私は皆まで聞かないで、引被ってしまったが、成程愛公だ。竹永さん、」

「馬鹿め。」

「いや、」

「野郎、しようのない瓦落多がらくただが可哀相に、可愛い奴だ。先生、憎くはない。」

丹平ここでまた椅子を寄せ、

「先生、いかがです、呼ぼうじゃありませんか、ちょいとな。」

「どうして顔が見られるもんか。いじらしくッて、」

「しかし………」

遠山は頭かぶりを掉ふった。時にその眉秀でて鼻筋通り、口を一文字に結んだ、凜りんたる記者の風采は、直ちに老探訪をして伏従せしめ得たのであった。

「成程々々なな、成程なッ。いや、こりゃ私てまえ、ちと了簡が若うがした。」

「今日はなお酷ひどい、夜よがあけるともう、

(熱いなあ、熱いなあ、)

で、鰹――生鰹も、鰯こも、私の耳にゃ入らんのだ。もっとも、昨夜ゆうべは耳について、私も寐ねられないから、初中しょっちゅううとうとしていたので、とても気の毒で聞くに堪えんから、早くここを引上げようと思っていた処へ、貴老あなたが見えて、こう柳屋のと知れては、何とも口へ出していう言ことばはない。

昨夜から今日の午ひるへかけて、注射を三度したと聞いたです。

そのせいか、今は寂寞ひっそりしているでしょうがね、さあ、そうと知れると、残酷なようで申訳はないが、血を吐く声も懐かしい、これッきり、声が聞えなくなってどうします。

竹永さん、貴下あなたを今夜は帰さないよ。隣のホテルからお飯まんまが取れるから、それでも食って、病院だから酒は不可いかんが、夜とともに二人で他所よそながらお伽とぎをする気だ。

そうして貴下が、仏像の前で、その言行録を誦じゅする経文だといった、悉くわしい話を聞きましょう。

病人に代ってその人の意気の壮さかんなのを語るのは、少くとも病魔退散の祈祷きとうにもなろうと思う。」

「至極でがす。いや私てまえ望む処、先生という楯たてがありゃ、二日でも三晩でも、お夏さんの前途を他所よそながら見届けるまでは居坐って動きません。」

「私も退院の日延べをする。そこで、そこで竹永さん、関戸の邸の、もみじの下で、その最中を食べてからどうしたんです。」

「私てまえもずッと乗のりが来て、もう一ツお食あがんなさい、と自分も撮つまみながら勧めました。

(沢山)とあるから、(それじゃお土産に、)と洒落しゃれにいって、捻ひねってお夏さんに差着けると、腕かいなもちらりと透きそうに、片袖の振ふりを、黙ってこっちへ向けました、受け入れようというんでね。

(もみじを御見物と見えますが、これから巣鴨へ抜けて、)先生、あの邸はね、私どもが居た池のふちから、通天門と額を打った煉瓦れんがの石の門を潜くぐって、やはり紅葉の中を裏へ出ると、卯之吉うのきちという植木屋の庭を、庚申塚こうしんづかの手前へ抜けられますわ。

(そこから、滝の川へでもお廻りか、)と尋ねると、(上野へ、)という。

私方々の紅葉の風説なんど、出鱈目でたらめに饒舌しゃべるのを、嬉しそうに聞いていなすったっけ、少し傾いて耳を澄まして、

(可いいことね、)といった。

(はて、)私には何だか分らん。

(お囃子はやしの笛が聞えますよ。)

ちっとも聞えん。

(はてな、)と少々照れたでがす。その癖心寂しいほど寂しん――」

花にはあらず七重八重、染めかさねても、もみじ衣の、膚はだに冷き、韓紅からくれない。

「――閑としているじゃがあせんか。」

三十二

「お夏さんが、

(聞えますよ。あら、オヒャラー、オヒャ、ヒューイ、ねえ、貴下あなた、聞えましょう。)

と打傾いて、遠くへな、私てまえを導いて教えるような、その、目は冴えたがうっとりした顔を熟じっと見ながら聞き澄ますと、この邸じゃありません。

もみじを隔てて、遥はるかにこう、雲の中で吹き澄ますといった音色ねいろで、オヒャラー、オヒャ、ヒューイ、ヒヒャ、ユウリ、オヒャラアイ、ヒュウヤ、ヒュールイ、ヒョウルイヒ、と蒼空あおぞらへ響いて、幽かすかに耳に留りました。

(成程、お囃子ですな。)

と腕組をして、おつき合いに天窓あたまを突出していると、

(どこでしょう、ほんとに好いいこと。)

といって葛桶かつらおけを――じゃない――その陶器せとものの床几しょうぎをすっと立ちました。

(ええ、御近所だから、慶喜様のお住居すまいかも知れません。)

(そう、)

といって、お夏さんが空を仰いで見ましたがね……」

虹を刻んで咲かせた色の、高き梢こずえのもみじの葉の、裏なき錦にしきの帳とばりはあれど、蔽おおわれ果てず夕舂日ゆうづくひ、光颯さっと射さしたれば、お夏は翳かざした袖几帳そでぎちょう。

「ちょうど、ぱらぱらと散って来るのが、その夕日を除よけた、袂たもとへ留まったのですがね。余りに綺麗だ。これにゃ相当のワキ師があろう。

もっとも大抵禿はげていますで、諸国一見の僧になりゃ、ワキヅレぐらいは勤まろうが、実は私てまえ、狂言方だ。

楽屋で囃子の音がすれば、もう引込んで可い時分。フト気が着いたのは、悪くすると、こりゃ出家でない。色ワキをここで待合そうなどという、寸法で来たのかも知れん、それだと邪魔になる。さらば急いで参ろう、と思いますとね。

妙なことをいいました。

その大木のもみじの下を、梢を見たなり、くるくると廻って、

(いいえ、お雛様ひなさまが遊ぶんでしょう。ちょうどこの上あたりで聞えるんですもの、そうして、こんな細い、小さな音ねのするのは五人囃子が持っている、かわいい笛でなくッてさ。)

異かわったことのおおせ哉かな。お夏さんは熟じッと見ている。帯も襟も、顔なんざその夕日にほんのりと色がさして、矢筈やはずの紺も、紫のように見えましたがね。

暮れかかって来ました。夜昼を分けるように、下の土は冷たく濡れて、黒くなって、裾が薄暗く見えたんで、いや、串戯じょうだんはよして余り艶麗あでやか過ぎる。これなり天人になって、雲の上へ舞い昇られてはなるまい、と、のこのこと近く寄って、

(もう暮れ方になりましたな。)

とさそいをかけると、はっと気がついたように、

(ああ、暗くなって来た、こんな処に遊んでいるのは焼け出されたお雛様でしょうねえ。

こんなに真赤まっかで、これが炎になったらどうでしょう。そうしたら死んでしまいましょうねえ、気味が悪いようになりました。)

と、いうことが少し変だ。

気つけをと思ったし、聞きたくはあったしで、

(度々御災難でありましたな。唯今ただいまは、どちらに、)

(ついこの青柳町のね、菊畑のある横町ですよ。ちとお寄んなさいましな。母は亡くなりましたが、おばさんが居ますから、)

成程おばさんが居ますからな筈でがした。……自分は居なくなる積りだから。

(それでは、)

(さようなら、)

と挨拶をして、もう一度梢を視ながめなりに、ずッと向うへ、紅葉の下を、うしろ姿になりましてな。それっきり見返りもしなかったが、オヒャ、ヒュウイ、ヒヒャ、ユウリというのが、いつまでも私てまえ、耳の底に残るんで。独ひとりで見送っていると、大浪の裾がどこまでも畝うねった形の、低くなった方へ遠ざかって行くのが、何となく暮方で、影が薄い。

ト緋色ひいろの雲の、隧道トンネルの入口、突当りに通天門とある。あすこのもみじは、実際、そこからが自慢なんですが、足も停めず、視めもせず、アーチ形に中の透く、燃え立つ炎のような中へ、消え失うせた体ていに入ってしまった。

気になる。

私、すぐあとから駆出して、」

三十三

「件くだんの通天門を入ると、赫かッと明あかるく、不残真紅のこらずまっか。両方から路をせばめて頬がほてるようだが、それは構わん。

お夏さんは、と見るとこの一条路ひとすじみち、大分長いのにもう見えず。きょろきょろ四辺あたりを眗みまわしたが、まさか消え失せたのじゃあるまい、と直ぐに突切つッきってぐるりと廻ると、裏木戸に早や山茶花さざんかが咲いていて、そこを境に巣鴨の卯之吉が庭になりまさ。

もみじはここも名物だが、ちと遅い。紅あかは万両、南天の実。鉢物、盆石、水盤などが、霞形かすみがたに壇に並んだ、広い庭。縁には毛氈もうせんを敷いて煙草盆などが出してあり、世界が違ったように、ここは外套がいとうやら、洋服やら、束髪やら、腰に瓢箪ひょうたんを提げた、絹のぱっち革足袋かわたびの老人も居て、大分だいぶんの人出。その中にもお夏さんが見えますまい。

はてな、巣鴨の通へ出てしまったか、余り不思議だと思う。生垣の外は、馬士まごやら、牛士うしかた、牛車、からくたと歩行あるいて、それらしいのもありません。

夢かと思うと、そうじゃない。やっと気が着いた、分らないのも道理こそ。

向うに見える、庭口から巣鴨の通へ出ようとする枝折門しおりもんに、曳ひきつけた腕車くるまの傍わきに、栗梅のお召縮緬めしちりめんの吾妻あずまコオトを着て……いや、着ながらでさ、……立っていたのがお夏さんでね。車は今雇ったのじゃありません、裏道から大廻りに、もみじ邸を卯之吉の木戸まで廻らせて、ここへ待たしてあったんで。コオトなぞも預けてあったものと思われます。で、直ぐに上野へ殺されに行こうとする処だったのです。一体どこで降りましたか、」

これは探訪も知り得なかったのであった。お夏はその日、人知れず、今わのなごりを、浅瀬の石に留めたので。俤橋おもかげばしの俤の、月夜の状さまに描かれたのは、その俤を写したのである。

見よ。(この第一回を。)されば、お夏の姿が、邸のもみじに入ると斉ひとしく、だぶだぶ肥った、赤ら顔の女房が、橋際の件くだんの茶店の端へ納戸から出て来た。砂利を積んだ車がまたぐらぐらと橋を揺ゆすったので、砂塵さじん濛々もうもう、水も空も、日が暮れて月が冴えねば、お夏が彳たたずんだ時のように澄みはしない。

ちと疾はやいが晩餐ばんさん。かねてあつらえてあったから、この時看護婦が持って来たので、日はまだ鉄砲洲の帆柱の上に高い。

お夏の病室も、危あやうく物静ものしずかである。

――――――――――――――――――――

愛吉の咽喉のんどを鳴らしたその夜の酒は、日が暮れてからであった。

女房は暮合いに帰って来て、間もなく、へい、お待遠、と台所へ持込んだけれども、お夏の心づけで、湯銭を持たせて、手拭てぬぐいを持たせて、錫すずの箱入の薫の高いしゃぼんも持たせて、紫のゴロの垢あかすりも持たせる処だった。が、奴やっこは陰でなく面と向って、舌を出したから、それには及ばず。

ああまだそれから羽織るものを、もとより男ものは一ツもない。お夏は衣紋えもんかけにかけてあった、不断着の翁格子おきなごうしのを、と笑いながらいったが、それは串戯じょうだん。襟をあたって寒くなった、と鏡台をわきへずらしながら自分で着た。けれども…………愛吉は、女房の藍微塵あいみじんのを肩に掛けて、暗くなった戸外おもてへ出たが、火の玉は、水船で消えもせず。湯の中うちで唄も謡わず。流ながしで喧嘩もせず。ゆっくり洗って、置手拭、日和下駄をからからと帰り途みち、式部小路を入ろうとして、夜目にもしるき池の坊の師匠が背戸の山茶花さざんかを見て、しばらくしたのは、恐らく生れてはじめてであったろう。

その石壇の処まで来て、詩人が月宮殿かと想うように、お嬢さんの家を見た時、小ぢんまりとした二階の障子に明あかりがさした。

思わず頸うなじをすくめたが、密そっと格子から沓脱くつぬぎの下駄を覗のぞいて、すぐに遠慮して廂合ひあわいに潜くぐり込んで、ちょろりと台所へ面かおを出すと、開けてはあったが、働いても居ず、女房は長火鉢の傍かたわらに、新しい能代のしろの膳立ぜんだてをして、ちゃんと待っていた、さしみに、茶碗、煮肴にざかなに、酢のもの、――愛吉は、ぐぐぐと咽喉を鳴らしたが、はてな、この辺で。…………

――――――――――――――――――――

三十四

食事が済む、と探訪員は、渠かれ自から経典と称する阿夏品おなつぼんを誦ずしはじめた。これよりさき金之助は、事故あって、訪問の客に面会を謝する意を、附添の看護婦に含ませたことはいうまでもない。

「話の続は、今その吾妻コオトを着た処でしたな。それから、同一おなじく、それもやはり、とって置いたものらしい。藍鼠あいねずみの派手な縮緬ちりめんの頭巾ずきんを取って、被かぶらないで、襟へ巻くと、すっと車へ乗る。庭に居たものは皆一斉いっときにそっちの方。

母衣ほろをきりきりと巻き下ろして、楫棒かじぼうを上げる内に、お夏さんは乗りながら、袂たもとから白いものを出した。ヤ、最中を棄てるのかと思うと、そうじゃなかったんで、手巾ハンケチでげす。

でね、妙なことをしたというのは、もう一ツ小さな壜びんを取出して、その手巾の中へ、俯向うつむけにしました。車が二三間駆け出す内に、はらはらと、肩から胸へ振りかけたと思うと、その壜を、母衣のすかしから、白い指で、往来へ棄てたんでがす。

後で知れました。白書薇しろばらの香水なんで。山の井医学士夫人、子爵山河内定子は、いつでもこの香水の薫がする。

と、お夏さんが愛吉に教えておいたものだッて、いうじゃありませんか。

何と驚いたものでがしょう。その袖の香を心当てに、谷中やなかのくらがり坂ざかの宵暗よいやみで、愛吉は定子(山の井夫人)を殺そう。お夏さんは定子になって殺されようという、――まだもっとも、他ほかに暗号あいずも極きめてあったんではありますがな、髪を洗って寝首を掻かせた、大時代な活劇でさ。あの棄鉢すてばちな気紛れものと、この姉あねさんでなくッちゃ、当節では出来ない仕事。また出来でかされちゃ大変でがすのに、とうとう見事みんごと仕出来した。何という向不見むこうみずな寄合でしょうな。

先生。話は前後あとさきになりますが、ちょうどこの場合だから申しますがね。私てまえ、前にも申す通り、何んだか気になる。お夏さんの跡から上野へ行って、暗がり坂で、きゃッ! 天地顛倒てんどう。途轍とてつもない処へ行合わせて。――お夏さんに引込まれて、その時の暗号あいずになった、――山の井医院の梅岡という、これがまた神田ッ児で素敵に気の早い、活溌な、年少としわかな薬剤師と、二人で。愛吉に一剃刀かみそり、見事に胸をやられたお夏さんを、まあとかくしてです。私てまえ懇意な、あすこ、上野の三宜亭さんぎてい。もっともこりゃ谷中へ行く前に、お夏さんが呼び出しをかけたその梅岡薬剤兄哥あにいと二人で、休んだ縁もあったんでがすから、その奥座敷へ内証で抱え込んだ折でした。

愛吉に、訳を尋ねると、奴やっこ人間の色はねえ。据眼すえまなこになって饒舌しゃべった、かねての相談、お夏さんの謀はかりごとというのをお聞きなさい。

(じゃね、愛吉、お前、何でもかでも私のために、医学士せんせいの奥様おくさんを殺して、願いを叶えてくれるんなら、水天宮様の縁日に、頭かしらの乾児こぶんと喧嘩をするようにして暴あばれ込んで行ったって殺されるものじゃない。私がね、旨うまく都合をして、定子さんを可い処へ引出すわ。

それにゃ、本宅の薬剤師に、梅岡さんといって、大層私を可愛がってくれる人があって、いつでも先生を呼出すには、その方に手紙を出したり、電話をかけたりして頼むんだよ。やっぱりお前とおんなじように、大の姫様ひいさま嫌い。おもて向き私を御新造にしてやりたい。でも定子さんがあっちゃ何だから、ちょいと一服モルヒネでも装もりましょうか、手のもんでわけなしだって、洒落しゃれにもいっている人だから、すぐに味方して、血判をしてくれます。)

いや、遠山さん。」

と丹平苦り切った顔色がんしょくで、

「愛吉が、手負ておいの傍そばで、口を尖とがらかして呼吸いきを切りながらせいせいいって饒舌った時には、居合わせた梅岡薬剤。神田の兄いだが、目を円くして驚いた。

その筈はずでがす。隣家となりの隠居の溜飲りゅういんにクミチンキを飲ますんだって、メートルグラスでためした上で、ぴたり水薬すいやくの瓶に封。薬剤師その責せめに任ず、と遣やる人を、人殺の相談に、わけなし血判。自分の医院の奥様おくさんに、ちょいとモルヒネをなんて、から、無法極まる。

ねえ、先生。」

三十五

「これをまた真面目にうけさせる気で、口へ出した、柳屋のも柳屋の。聞いてほんとうにした奴やっこも奴だ。で、お聞きなさい。

(その梅岡さんに頼んで、いつの幾日いくか――今日だ。)と愛の野郎がいいました。すなわち一昨々日さきおととい。

そこで、またお夏さんの言ことばを愛吉がいうんですが、

(奥さんを上野まで連れ出させよう。お前、前さきへ廻って支度して、待伏せをしておいで。いい処があるかい。)

というから、愛吉が、(占しめたな! 占たな!)

(それだってお前、時の都合と、所はえ?)

トこりゃお夏さんが心あっていったんですな。考えていると、愛吉は何、剃刀で殺すぐらいは、自分うぬが下駄の前鼻緒を切るほどにも思わない。都合をして、定子阿魔あまの顔さえ見せておくんなさりゃ、日本橋でも、万世橋でも、電車の中でも、劇場しばいでも、どこでもかまわないッていったそうでさ。するとお夏さんの方は覚悟があるから、

(谷中やなかなら、墓原の森の中を根岸で下りる、くらがり坂が可い。踏切の上の。あすこいらで、笹ッ葉の下へでも隠れておいで。)

こりゃ、それ、今もおっしゃった歌の先生、加茂川の馬車新道へ、炎天にも上野まで、鉄道馬車。後を歩行あるいて通ったから、不幸にして地の理が明あかるい。

(私は梅岡さんに頼んで、こうしよう。奥様おくさんは歌が好すきで、今でもちょいちょい、加茂川ン許とこへお通いだから、梅岡さんに、――私も歌が習いたい、紅葉もみじの盛り、上野をおひろいのおともをしながら、お師匠さんへ、奥様から、御紹介おひきあわせ下さいまし。とこういって貰いましょう。

好な道だから、二ツ返事で。その日に限って、おひろいかなんか。梅岡さんが、その上野をおともという間まに、いい加減に日を暮らして、夜になって、くらやみ坂へ連れ行てかせるから、そうしたら、白薔薇の薫をあてに。)

その相談の出来たのは、お夏さんが三年ぶりで愛吉に逢った夜で。余所よそゆきを着ていた上衣うわぎだけ脱いで、そのまま寝床へ入った、緋ひの紋綸子もんりんずの長襦袢ながじゅばんのまま、手を伸ばして、……こりゃ先生だと、雪の腕かいな、という処だ。

手近な床の上の、鏡台の抽斗ひきだしから、その壜を出して、まだ封も切ってなかったそうで。これはね、ちょうどその日行合わせた山の井さんの土産でしたと。

くちが堅く入っていたのを、ト取ろうとすると、占しまっていたので、高島田にさした平打を抜いて、蓮葉はすはに、はらんばいになったが、絹蒲団にもつかえたか、動きが悪いから、するりと起き上って、こう膝を立てていましたッてね。

抜けるほど色の白い処へ、その姿だから、媚なまめかしさは媚かし、美しさは美ししで、まるで画えに描いたように見えましたって。

こりゃ何んです、小石川青柳町、お夏さんで名がついた、式部小路の内に居る、お賤しずッて女房かみさんがちょうどその時、行燈あんどうを持って二階へ上って、見たんでがすと。

ね、洋燈ランプと取替に行ったんですと。先生、話はいろいろになりますが、お賤というのは洲崎で引手茶屋をしていたんで、行燈あんどん組でね、ことにお嬢さんには火が祟たたる、とかいっていたんだから、あの陽気家を説き伏せて、残燈ありあけは行燈と取極めたんでさ……洋燈ランプはかんかん明あかるかった。

すぐに消そうとすると、

(お待ち、見えなくなるわ。)ッてくちを抜いた。芬ぷんと薫ったでしょう。

(まあ、佳いい匂においでございますこと。)

(光みいちゃんが好なの。)

光起さんの事でさ。――

(私にこの匂をさして、抱こうと思ったって、そうはいかない。)

ちとやんちゃん。もっともね、少し飲んでいたんだそうで。

(ねえ、愛吉。)

と声をかけた。奴は、ぎごちなさそうに小さくなって、半分もぐりながら、目ばかり、ぱちぱち。」

「じゃ、愛吉は、」と遠山が口を入れた。

「勿論、枕を並べて。」

遠山金之助、

「え。」

竹永丹平は、さもこそという片頬笑かたほえみ、泰然自若として、

「ま、ま、お聞きなさい。ここだ、これが眼目、此経難持しきょうなんじ、若暫時にゃくざんじ、この経は保ち難し。

もししばらくも保たんものは、ただお夏一人いちにんという処でがすから。」

三十六

「そこで女房は、

(なるほど、貴女あなたには似合いません、でございますよ。)

愛吉傍在かたわらにあり。で、その際、ちと諷ふうする処あるがごとくにいって、洋燈ランプを持って階下したへ下りた。あとはどうしたか知らないそうでさ。

勿論普通の人間じゃ寐ねられるどころではなかったが、廓出くるわでの女房かみさん。生れてからざっと五十年。一年三百六十五日、のべつ、そんな処には出会でっくわしていたんだから、さしたる大事とは思わなかったし、何が何でも人殺の相談をしようなどとは、夢にも、この私にしたって思いませんや。

その後で、愛吉の鼻のさきへ、顔と一緒に、白薔薇の壜を押つけか、何かで、

(可いいかい。この匂いだよ。もう一つはね、くらがり坂へ行ったら、奥さん! とその梅岡さんが四辺あたりを見計らって声をかけて下さるように、相談をして置くから、可いかい! この薫と、その奥さん! を暗号あいずにして、……とくれぐれもおっしゃったんで。)

と愛吉が云うんです、先生。

三宜亭で、夢中ながら目を光らせて、鼻をフンフンとやって、

(私わっしあ、固唾かたずを飲んでた処だ。符帳が合ったから飛出した、)と拳固で自分の頬げたを撲なぐりながらいうんでしょう。

いや、傍聞かたえぎきをした山の井光起せんせい、こりゃもう、すぐに電話でお呼び申した。その驚いたより、十層じっそう倍、百層倍、仰天をしたのは梅岡薬剤で、

(国手せんせいの前じゃ申しかねるが、僕はまた、三宜亭まで是非とお夏さんに呼出されて、実は相済まんが、友達に頼んでちょいと抜け出して来ると、いつも世話になると礼をいって、お小遣こづかいが沢山あるから御馳走をするかわり、済みませんが、姫様ひいさまにおっしゃるように、奥さん、といいながら歩行あるいて下さい。貴下あなたを、旦那さま、とでも、こちの人とでもいうわ。と大呑気だから、愉快おもしろい、と引受けたんで。あれから東照宮の中を抜けて、ぶらぶらしながら谷中の途中、ここが御註文と思うから、多勢人の居る処じゃ、奥さん――山の井の奥さん。時々、夫人――などというと、顔を赤くなすったッけ。

岡野へ寄ろうと、くらがり坂へかかった時は、別にそこで、という誂あつらえがあったわけではない。

いっそ、特にあの坂で、とでもいうことなら、いかにお夏さんが神色自若としていたから、といって、こちらが呑気だからといって、墓といい、森といい、暗さといい、たといそこまでは上の空でも、坂の下り口じゃちょいとでも気がさして、他ほかの路を行きましょうぐらいはいえるだろうのに。

何事もなかった。

坂を下りかかると、今から思や、礼の心であんなすったか、並んで歩行あるいていた僕の手を、ちょいと握って、そのまますたすたと、……さよう、六足むあしばかり線路の方へ駈かけ出しておいでなさる、と思うと、よろよろとなすったようだから、危い! と声をかけようと思って、ここでつい我知らず、奥さん! といった。

すると愛吉が飛出しました。

これでお助たすかんなすればよし、さもないと僕が手伝をして殺したも同然だ。)

と薬剤師、その責せめに任じて、涙ぐんでいったんでがすがね。

先生、命数、」

といった。同時に、

「命数、」

目と目を見合わせ、

「か。」

「も知れません。」

「竹永さん、貴老あなたはまたどうしてそこへ行き合わせました?」

「そりゃこうでがす。

ええ、お待ちなさいよ。」

と丹平前に屈かがんで、握拳にぎりこぶしを掌たなそこで揉もみ、

「そうだ、ただいまのその巣鴨の植木屋、卯之吉の庭で、お夏さんの車の、矢のように飛んだを見て、別にあとをつけようという考かんがえはなかったんでがすがね。懐しくッてなりますまい。

青柳町だといった待て待て、どんな処に住すまってるか行って見ようと、逆戻りにもみじへ入ると、や、ぞろぞろと人が居る、通天門を潜くぐって出ると、ばらばらと見物でさ。妙なことがあるもんで、ここで何も俗にいう死神が取着いたというわけではないから、私てまえのような筵破むしろやぶりは除外例、その死神がお夏さんを誘いざなうためにしばらく人を払ったというのじゃがあせん。私の口でいっちゃ似合いませんが、死を決すれば如神しんのごとしで、名僧のごとく、知識のごとく、哲人のごとし。女とてかわりはない、おのずから浮世の塵ちりを払って、この仙境にしばらくなごりを惜おしんだのでありましょう。

その時はそうとも思わず、ははあ、こりゃやはり自分たちと同様風説うわさばかりで、一体、実際縦覧をさせるか、させぬか、そこどころちとあやふやな華族の庭。こりゃ、遠慮をして見合せていた処へ、二人。お夏さんはともかく、私というのまでその中から顕あらわれたのを見て、卯之吉の庭に居た連中、気を揃えて推参に及んだな。

どうだ善知識だろうと、天窓あたまはこれなり、大手を振って通り抜けた――愚にもつかぬ。

あれから、今の真宗大学を右に見て、青柳町へ伸のして、はて、どこらだろうと思う、横町の角に、生垣の中が菊の盛さかり。そこに立ってただ一人視ながめていた婆さんがあった、その顔を見ると、塞ふさがったようになった細い目で、おや! といった。」

三十七

「(まあ、おめずらしい、)と莞爾にっこりしたろうではありませんか。方かたなしの皺しわになりましたが、若い時は、その薄紅うすくれないに腫はれぼッたい瞼まぶたが恐ろしく婀娜あだだった、お富といって、深川に芸者をして、新内がよく出来て、相応に売った婦人おんなでしたが、ごくじみな質たちで、八幡様寄よりの米屋に、米搗こめつきをしていた、渾名あだなをニタリの鮟鱇あんこう、鮟鱇に似たりで分かる。でぶでぶとふとった男。ニタリニタリ笑っているのに、どこへ目をつけたか、その婀娜な、腫ぼったいのをなくなすほど惚れましてな、勤めをよすと、夫婦になって、資本もとでを注つぎ込んで米屋を出すと、鮟鱇にわかに旦那とかわって、せっせと弁天町へ通う。そこで見張り旁々かたがたというので、引手茶屋の売据うりすえを買って、山下という看板をかけていましたが、ニタリ殿はますます狂う。抱えの芸妓げいしゃは、甘いと見るから、授けちゃ証文を捲まかせましょう。せめてもの便たよりにした養女には遁にげられる、年紀としは取る、不景気にはなる、看板は暗くなる、酒は酸くなる、座蒲団は冷たくなる、火は消える、声は出なくなる、唄は忘れる、猫は煩らう、鼠は騒ぐ、襖ふすまは破れる、寒くはなる、大戸を閉める、どこへどうしたろうと思う……お婆さん。

串戯じょうだんではない、何時なんどきだと思う。仲ノ町ちょうじゃチャンランチャンラン今時は知らないが、店すががきで、あかりがちらちら廻る頃を、余所よその垣越に立って、菊を見ているような了簡りょうけんだから、引手茶屋退転だ。しかし達者で可いい、どうした、と聞くと、まあ、お寄んなさいまし、直すぐそこが内だ、という二階家でさ。門札かどふだに山下賤、婆さんの本名でしょう。

豪えらいな、というと、いや、御奉公をいたしております、御主人というのは?

旦那だから申しますが、……ちとこりゃ新聞のたねとりにゃ可笑おかしないいぐさだが。

ほんとうに世の中ッてものはわかりませんもので、あの、木場の勝山さんね、分散をなすった。そのお嬢さんのお世話を、と半分聞かず、私てまえ、火鉢の前に腰を据えた。」

さて、女の主人は知れた。男の御主人は、と聞くと、これはなおの事。

ごくごく内証ですが、日本橋のお医師いしゃで、山の井光起さんとおっしゃる方、という。いよいよとなりましたろう。

いや、江戸児えどッこの医学士め、すてきなものを囲ったぞ。

フムお妾めかだ。これがお前だとちょうど名も可い。イヤサお富と、手拭てぬぐいを取る、この天窓あたまで茶番になるだろう。というと、いえ、私にも分りません、不思議なことには、久ひさしいあいだ、ついぞまだ一所におよった事もなし。

(夏ちゃん、)

と洒落しゃれにおっしゃったり、お真面目な時も、

(勝山さん、勝山さん、)と丁寧にお呼びなさる。

その癖、この通り、それはそれは勿体ないほど、ざくざくお宝をお運びで、嬢さんがまたばらばら撒まく。土地が辺鄙へんぴで食物くいものこそだが、おめしものや何か、縮緬ちりめんがお不断着で、秋のはじめに新しいコオトが出来ました。

しかしそれも旦那さままかせ。また珍らしい事には、櫛くし一枚、半襟一かけ、お嬢さんが、自分の口から、欲しいとおっしゃった事がないので。

旦那様は男の事、お気がつくようでもぬかりがあって、ちぐはぐでおかしいくらい。ついこの間も嬢さんが、深川の浄心寺、御菩提所ごぼだいしょへ、お墓まいりにおいでなさるのに、当世のがないもんですから、私の繻子張しゅすばりのをお持たせ申して、化けそうだといって、床屋の職人にお笑われなすった。――これから先生、婆さんが、その三日前に来て泊ったという、愛吉の野郎のことを話したんでがすよ。

もっとも私てまえもまた、床屋の職人というのが、直ぐに気になったから、床屋の職人? 知己ちかづきか、といって尋ねたんで。」

「お待ちなさい。」

と金之助は、寝台ねだいの上から乗出しながら、

「気に入った! ああ、そこにその人はまさに死なんとしているが、気に入った、といわねばならんですよ。

じゃ何だ、医学士はざくざく注つぎ込む、お夏さんはばらばら遣う、しかも何一つ自分から欲ほしいといったことはないのか。そうして一たびも枕をかわさぬ、豪えらいな! その清浄しょうじょうな膚はだえをもって、緋ひの紋綸子もんりんずの、長襦袢ながじゅばんで、高髷たかまげという、その艶麗あでやかな姿をもって、行燈あんどうにかえに来た雇やといの女に目まじろがない、その任侠にんきょうな気をもって、すべてを愛吉に与えてその晩……」

「…………」丹平黙然として少時不言しばらくいわず。この間のしょうそく、そもさんか、偈無可為証げにしょうとすべきなし。

三十八

ややあって丹平他をいう。

「その癖、光起さんを恋しがって、懐しがって、一日いちんちと顔を見ないと、苦労にする、三日四日となると鬱ふさぎ出す、七日なのかも逢わなかろうものなら、涙ぐむという始末。

じゃ顔を合わせればどうかというと、すねるような、くねるような、その素ッ気のなさ加減、傍そばで見る婆さんの目にも気の毒なくらい。

きちんとして、

(先生、)

(勝山さん、)

という工合が、何の事はない。大町人の娘が、恋煩いをして、主治医が診察に見えたという有様。

先生がうまい事をいいましたって。

(勝山さん、どうかその医学上の講釈を聞くのと、手習を教えてくれだけはあやまる。私は藪やぶの上に悪筆だ、)というたのだそうです。

またきっと、心臓というものはどこにあるの、なぜ御飯おまんまが肺の方へ行かないで済むの、誰の目も綺麗なのは、水晶と同じ事か、なぞとね、番ごと聞く。第一顔を見ると直ぐに清書を持出して、お目にかける。

(いや、まずいこと、私の医者のようだ、)と串戯じょうだんにいうのを真にうけては、せっせと双紙に手習をするんだそうで。

そうかと思うと、時にゃがらりと巫山戯ふざけ出して、肩へつかまる、羽織の紐を引断ひっきる、膝を打ぶつ、擽くすぐる。車夫でも待っていないと、帰りがけに門口かどぐちからドンと突飛ばす、もっともそんな日は、医学士の姿を見ると、いきなり飛出して框かまちから手を引いて、すぐそのまんまで二階へ上ろうとするから、狭い階子段はしごだん、で行詰ってどちらへも片附かずに、揉もむ。

しなだれるんじゃない、媚こびるんじゃない、甘えるの。派手なんじゃない、騒々しいので、恋も情なさけもまだ知らない、素の小児こどもかと思うと、帰ったあとを、二階から見送って、そのまま消えそうに立っている。

そこで附添いが引手茶屋の婆さんだから、ちとその、そこン処をな。

何して、いい工合に、と独りで気を揉んだそうですが、さて口へ出そうとすると、何となく、気高い、神々しい処があって、戦場往来の古兵ふるつわものが、却って、武者ぶるいで一言ひとことも出んのだそうで。

まあまあ、不思議な縁というのであろう。とても人間業わざで行くのじゃない。その内に、出雲いずもでも見るに見かねて、ということになるだろう、と断念あきらめながらも、医学士に向って、すねてツンとする時と、烈はげしく巫山戯ふざけて騒ぐ時には番ごと驚かされながら、ツンとしても美人の娼妓しょうぎのようでなく、騒いでも、売れる芸者のようでなく、品が崩れず、愛が失うせないのには舌を巻いていた処、いやまた愛吉が来た晩は、つくづく目覚しいものだったと言います。……」

それはこうである。愛吉は、長火鉢の前でただ旨うまそうに飲んでいたが、心しんもって嬉しそうな顔に見えなかつたのを「見えなかつたのを」はママ、酌をしながらお賤も不思議に思った。蓋けだし生れつき面つらが狼に似たばかりでない。腹に暗き鬼を生ずとしてある疑心の蟠わだかまりがあったのも、お夏を一目見たばかりで、霧の散ったように、我ながらに掴つかまえ処もなくて済んだその時、今そこに婆さんの顔ばかりとなったのみならず、二杯三杯と重かさなるにつれて、遠慮も次第になくなる処とこへ、狂水きちがいみずのまわるのが、血の燃ゆるがごとき壮佼わかもの、まして渾名あだなを火の玉のほてりに蒸されて、むらむらと固る雲、額のあたりが暗くなった。

「ウイ、」

と押おッつけるように猪口ちょくを措いて、

「嬉しくねえ、嬉しくねえ、へん、馬鹿にしねえや。何でえ、」

と、下唇を反そらすのを、女房はこの芸なしの口不調法、お世辞の気で、どっかで喧嘩した時の仮声こわいろをつかうのかと思っていると、

「何てやんでえ、ヘッ笑かしやがら、ヘッ馬鹿にすら、ヘッヘッ馬鹿にしやがら、ヘッ土百姓、ヘッ猿唐人さるとうじんめ、」

太夫しゃくりが出るから、湯のかわりに、お賤が、

「あいよ、お酌、」

「ヘッ、ありがとうざい、」と皆みんな一所。吃逆しゃっくりと、返事と御礼と、それから東西と。

三十九

「おかみさん、難有ありがてえ、お前めえさんの思召おぼしめしも嬉しけりゃ、肴さかなも嬉しけりゃ、酒も旨うめえ、旨えけれど可笑おかしくねえや、何てってこうおかみさん、おかみさん、」

「おや、私のことかい。」

「お聞きねえ、伺いやすがね、こう見渡した処、ざっとこりゃ一両がもんだね、愛吉一年の取り高だ。先刻さっきお湯銭が二銭五厘、安い利だが持ちませんぜ。誰が、誰がこの勘定をしやがるんでえ。ヘッ、人をつけ、嬉しくねえ。」

女房は笑って逆さからわず、

「景気がついて来ましたね、ちっとは可いい心持になりましたかい。」

「好いいにも、悪いにも何だか気になってならねえんでさ、変てこにこう胸へつッかけて来るんでね、その勘定の一件だ。」

「まあ、何をいうんですね、お嬢さんが御馳走なさるんじゃありませんか、おかしな人だよ。」といった、これはよめなかったに相違はない。

愛の口ますます尖とがって、

「分ってら、分ってらい、いや分ってます。御馳走は分ってら。御馳走でなくッて、この霜枯に活いきのいいきはだと、濁りのねえ酒が、私わっしの口へ入へえりようがねえや、ねえ、おかみさん。」

「ですから、沢山めしあがれよ。」

「なお心配だ。何が心配だって、こんな気になることはねえ。何がじゃねえやね、お前さん、その勘定の理合りあい因縁だ。ええ、知っていら、お嬢さんの御馳走だが、勘定は誰がするんで。勘定は、ヘッ、」

としゃくりをきっかけに声を密ひそめ、拇指おやゆびを出して見せ、

「レコだ、野郎がしやがるんだ。へん、異おつう旦那ぶりやがって笑かしやがらい。こう聞いとくんねえ、私わっしアね、お嬢さんの下さるんなら、溝泥どぶどろだって、舌鼓だ、這い廻って甞なめるでさ。

土百姓の酒じゃ嬉しくねえ。ヘッ、じゃ飲むなといったってそうはいかねえ。第一私あ飲む気はねえが、腹の虫が承知しねえや。腹の虫は承知をしても、やっぱり私あ飲みてえや。からだらしがねえ、またたびだね、鼠のてんぷら、このしろの揚物だ。まったくでえ、死ぬ気で飲んでら、馬鹿にしねえぜ。何をいっていやがるんでえ。おかみさん、何をいってるんだか、分りますめえ。御道理ごもっともで、私あ自分にも分らねえんだからね、何ですぜえ、無体、癪しゃくに障るから飲みますぜえ、頂かあ、頂くとも。酌ついどくんねえ、酌いどくんねえ、」

「可いから、まあおあがんなさい。」

「む、ああ、旨うめえ、馬鹿にしやがら、堪たまらねえ旨えや。旨えが嬉しくねえ、七目しちもくれんげめ、おかみさん、お憚はばかりながらそういっておくんねえ、折角ですが嬉しくねえッて。いや、滅相、途轍とてつもねえ、嬢的にそんなこといわれて堪たまるもんか、ヘッ、」

と頸うなじを窘すくめたが、

「内証だ、嬢的にゃ極内ごくないだがね。旦だんの野郎にそういっておくんねえ、私あ厭いやだ、大嫌だいきれえだ、そんな奴にゃ口を利くのも厭だから、おひかえ下さいやし、手前てめえことはなんて頼んだって挨拶なんぞするもんか。

こう小馬鹿にするぜえ、ヘッ、癪だ、こいつをおさえるにゃ呷切あおっきりだ、」とぐッと飲む奴。

「…………」

「こうおかみ、憚りながらそういっておくんなせえ、済まねえがね、私あ気に食わねえから勘定をして貰ったって、お礼なんざいわねえって、」

お賤は気が練れた苦労人、厭な顔はちっともしないで、愛想よく、

「ああ、可いともね、また礼なんぞいわせるようなお方じゃありません。」

「トおっしゃる! へへへへ、おかみさん、厭に肩を持ちますね、いくらか貰ったね。」

「貰いましたともさ、貰ったどころじゃない、お嬢さんだって、私だって、九死一生な処を助けて下すった方ですもの、」

「九死一生、」

お嬢さんと聞いたばかりでもう眼まなこを据え、

「煩ったかね。もっとも肝の虫が強いからね、あれが病やまいだ。」

「しかもお前さん、大道だったろうじゃありませんか。」

「大道で、何が大道で、ここあお嬢さんの内じゃねえかね。」

「いいえさ、こちらへおいでなさらない前にさ、屑屋くずやをしていらっした時の事ですよ。」

「屑屋? 誰が、こう情なさけねえ、人間さがりたくねえもんだ。こんななりはしてるがね、私あこれでも床屋ですぜ、屑屋は酷ひどい、」といった。

四十

「誰がお前さんを屑屋だといいましたよ。御覧なさいな、そういわれてさえ腹を立つ、その、お前さん、屑屋をしておいでなすったんじゃないか、それだもの、」

変な面つらで、

「誰が、」

「お嬢さんのことをいってるんだよ、」

「はあ、問屋か。そう屑問屋か。道理こそ見倒しやがって。日本一のお嬢さんを妾なんぞにしやあがって、冥利みょうりを知れやい。べらぼうめ、菱餅ひしもちや豆煎まめいりにゃかかっても、上段のお雛様は、気の利いた鼠なら遠慮をして甞なめねえぜ、盗賊ぬすっとア、盗賊ア、盗賊ア、」

と大音を揚げて、

「叱しっ! どこの野良猫だ、ニャーフウー」

一杯に頬を膨らし、呻うなって啼なく真似をすると、ごく低声こごえ、膳の上へ頤あぎとを出して、

「へい、ですかい屑屋ですかい。お待ちなせえ、待ちねえよ、こう旨うめえことを考かんげえた。一番、こう、褌ふんどしゃ切立きったてだから、恥は掻かねえ、素裸すっぱだかになって、二階へ上って、こいつを脱いで、」

と胸をはだけた、仕方をする気が、だらしはない、ずるッか脱げた両肌脱ぬぎで、

「旦那、五両にどうだ、とポンと投げ出しはどんなもんで。ヘッヘッ、おかみさん。」

「いくらお嬢さんだってその方にゃ苦労人でいらっしゃるから、お前さん、その袷あわせは五両にゃおつけなさりやしまいよ。」

「へい、じゃ嬢的も旦だんかぶれで、いくらか贓物ぞうぶつの価ねが分るんで?」

さては、と女房心づいて、

「まあ、お前さん、おかしなことをおいいだと思っていたが、じゃ何にも御存じじゃないんだね、私の留守のうちにお話しじゃなかったのかい、」

「何をね、」

「それだもの、ちぐはぐになる筈はずだ。屑屋をなすっていらっしゃったのはお嬢さんだよ、お嬢さんなんだよ、お前さん。」

「お夏さん、」

「あい、そうさ。」

「や! 串戯じょうだんじゃねえ、まったくですかい。」

「ほんとにも何にも、」

「あの、屑屋くずいって。踊にゃないね、問屋でも芝居でもなけりゃ、それじゃ、外ほかにゃねえ、屑い、屑いッて、籠かごを担かついだ、あれなんで?」

「ああ、そうともお前、私がお目にかかった時なんざ、そりゃおいとしかったよ。霜月だというのに、汚れた中形の浴衣を下へ召して、襦袢じゅばんにも蹴出けだしにもそればかり。縞しまも分らないような袷のね、肩にも腰にもさらさの布きれでしき当あてのある裾すそを、お端折はしょりでさ、足袋は穿はいておいでなすったが、汚いことッたら、草履さ、今思い出しても何ですよ、おいとしいッたらないんですよ。」

「おかみさん、逢ったのか、」

「そうですよ、」

「串戯じゃねえ、どこでだね。」

「氷川ひかわの坂ン処とこですよ、」

「いつ?」

「一昨年おととしの霜月だってば。」

「串戯じゃねえ、ちょいと知らしてくれりゃ可いいんだ、」

と膳の下へ突込つッこむように摺すり寄った。膝をばたばたとやって、歯を噛かんで戦おののいたが、寒いのではない、脱いだ膚はだには気も着かず。太息といきを吐ついて、

「ああ、それだ。芥溜はきだめッていったなあそれだ、串戯じゃねえ、」

「それにお前、寒い月夜のことだった。道芝の露の中うちで、ひどくさし込んで来たじゃないか。お頭つむりを草原に摺りつけて、薄すすきの根を両手に縋すがって、のッつ、そッつ、たってのお苦くるしみ。もう見る間にお顔の色が変ってね、鼻筋の通ったのばかり見えたんですよ。」

「ま、ま、待っとくんなせえ、待っとくんなせえ、」

愛吉聞くうちにきょろきょろして、得もいわれぬ面色おももちしながら、やがて二階を瞻みつめた。

「待ちねえ。おかみさん、活きてるね、大丈夫、二階に居るね。」

「お前さん、おいでなさいよ。先刻さっきからお上りなさいッて、おっしゃってじゃありませんか。旦那が御一緒じゃ厭いやなんですか。」

「そこどころじゃねえ、フウそうして、」

「あとで聞いたら何だとさ、途中の都合やら、何やかやで、まだその時お午飯ひるさえあがらなかった、お弱い身体からだに、それだもの、夜露に冷えて堪たまるものかね。」

「なぜ、そんな時、大きな声で、一口愛吉って呼ばねえんだなあ、大島に居たって聞えらあ。」

怨めしそうなが真まことである。

四十一

「もっともね、日の暮れない内から、長い間そこに倒れたようになっておいでなすったんだってね、何だとさ。

晩方、あの坂を、しょんぼりして、とぼとぼ下りておいでなさると、背後うしろからお前さん、道の幅一杯になって、二頭立の馬車が来たろうではないか。

ハッと除よけようとなさる。お顔の処へ、もう大きな鼻頭はなづらがぬッと出て、ぬらぬら小鼻が動いたんだっておっしゃるんだよ。

除けるも退のくもありゃしません。

牛頭馬頭ごずめずにひッぱたかれて、針の山に追い上げられるように、土手へ縋すがって倒れたなりに上ろうとなさると、下草のちょろちょろ水の、溝どぶへ片足お落しなすった、荷があるから堪らないよ。横倒れに、石へお髪ぐしの乱れたのに、泥ばねを、お顔へ刎はねて、三寸と間のない処を、大きな鉄の車の輪。

天へでも上るようにぐるぐるとまわって通りしなに、

(馬鹿め!)

ッて、どこの馬丁べっとうも威張るもんだけれど、憎らしいじゃありませんか。危い、とでもおっしゃることか、どこのか華族様でもあろうけれども、乗ってた御夫婦も心なし。

殿様は山高帽、郵便函ばこを押し出したように、見返りもなさらない。らっこの襟巻の中から、長い尖とがった顔を出して、奥様がニヤリと笑っておいでのが、仰向あおむけながらね、屹きっとお開あきなすったお嬢さんの目に、熟じっと留ったとおっしゃるんですよ。」

「チョッ、何たらこッてえ、せめて軍鶏しゃもでも居りゃ、そんな時ゃあ阿魔あまの咽喉笛のどぶえを突つッつくのに、」

と落胆がっかりしたようにいったが、これは女房には分らなかった――蔵人のことである。

「余程お口惜くやしかったって、そうでしょうとも。……新しい秤はかりをね、膝へかけて二ツにポッキリ。もっともお足に怪我をしておいでなすった、そこいらぞッとするような鼻紙さア。

屑の籠を引っくりかえして、

(モ死にたいねえ、)ッて、思わず音ねを出したよ、とおっしゃるんですがね、そのままお足みあしを投出して、長くなって、土手に肱枕ひじまくらをなすったんだとさ。

鵯ひよがけたたましく啼なき立てる。むこうのお薬園の森から、氷川様のお宮へかけて、真黒まっくろな雲が出て、仕切ったようにこっちは蒼空あおぞら、動くと霰あられになりそうなのが、塗って固めたようになっていたんですって。

その中へね、火の粉のようなものが、ぱらぱらと飛ぶから、火事かと御覧なさると、また白いものが、ちらちら交ったのを、霰かと見ていらっしゃると、またきらきらと光るのを、星かとお思いなさる内に、何ですとさ。見る見るうちに数が殖ふえて、交って、花車を巻き込むようになると、うっとりなすった時、緑、白妙しろたえ、紺青こんじょうの、珠を飾った、女雛めびなが被かぶる冠を守護として、緋ひの袴はかまで練衣ねりぎぬの官女が五人、黒雲の中を往来ゆさきして、手招てまねぎをするのが、遠い処に見えましたとさ。

ずッと立って行こうとなさると、直ぐに消えて、隠れていたお月夜になったそうで。

そこへ私がね、」

と仕方をして、

「テンプラクイタイ、テンプラクイタイか何かで、流して行ったんですよ、お前さん。」

「ヘッ、人の気も知らねえで、」

「いえ、ところが、私だって喰うや喰わず、昔のともだちが、伝通院うらの貧乏長屋に、駄菓子を売って、蝙蝠こうもりのはりかえ直しと夫婦になって暮している処へ、のたれ込んで、しょう事なし門かどづけに出たんですがね、その身になってもお前さん、見得じゃないけれど極きまりが悪くッて、昼間はとても出られないもんだからね、その晩も、日が暮れてから出たんでね、直ぐ上へ出りゃ久堅ひさかたの通りだし、家の数も多いけれど、一寸のばしに下へ下りて、田圃たんぼとお薬園の、何にもまだ家のなかった処を通って、氷川の坂へ、むかしの事をおもいながら、夜露と涙で、音ねがしめったのを。

どうお聞きなすったか、土手に腰をかけておいでなすって、お嬢さんが、(もし、おかみさん)ッて声をかけて下すったんです。犬は遠くで吠えてたけれど、狐の居そうな処ですもの、吃驚びっくりしたろうではありませんか。」

お夏が、すっと、二階から下りて来た。

「おかみさん、何のお話?」

フト屑屋さんの、と行きつまったから、

「氷川で御覧なすった、お雛様のことなんでございますよ。」

四十二

「そう、この人なら話が分るの。はじめから私とお雛様のことを知っているから。ねえ、愛吉、」

と膳の横。愛吉に肩を並べて腰を浮かしていたのは、ついしばらくの仮の宿、二階に待つ人があるのであろう。

お夏はその時、格子の羽織を着ていたが、年も二ツ三ツ、肩のあたりに威が出来て、若い女主人のように見えた。

二階から降りる跫音あしおとを、一ツ聞いて愛の奴、慌てて膚はだえを入れたのはいうまでもない。

「愛吉、」

「へい………」

「沢山たんとおあがりよ。おいしいものがなくッて、気の毒だね、おお、その海鼠なまこがおいしそうじゃないか。」

「ええ。一ツいかがでございます。へへへへへ。」

「そうね、御馳走になろうかね、どれ、」

女房が気を利かせて、箸箱をと思う間もなく、愛吉のを取って、臆面おくめんなし、海鼠は、口に入いって紫の珠はつるりと皓歯しらはを潜くぐった。

「おお、冷ひやっこい!」

すっと立ち――台所へ出ようとする。

「何でございます。」

「二階が寒くなったの。台じゅうが欲ほしいんです。」

「唯今、私が、」

と立って出る。お夏は、真四角まっしかくに。但しひょろひょろと坐った愛吉の肩をおして、

「大分だいぶんおとなしいのね。」

「お嬢様、ちとお叱んな……」と台所から。

「なッ!」

とだしぬけに押伏せて、きょとんとして、

「納豆、納豆ウい、納豆、納豆ウ、」

「おばさん、屑屋より、この方にすれば可よかったのね。」

女房は火を入れながら、生真面目きまじめに、

「どちらがどちらとも申されません。」

「お嬢さん、」と仰ぎさまに、酒くさい口をあけて、熟じっと顔を視みて、

「そんな時に、私わっしを尋ねて下さりゃ可いんだのになあ、」

「それだって、お前、来てくれたって、逢ったって、お酒も飲ませられないし、煙草たばこも与やれないし、可哀相だもの。」

「いえ、頂こうというんじゃねえんで、そんな時だ、私わっしあ、お嬢さんにどうにかすらあ。盗賊どろぼうでも、人殺でも、放火つけびでも何でもすらあ。ええ、お嬢さん、」

「愛吉、難有ありがとうよ、」

とかけた手で、軽く二ツばかり揺ゆすぶって、うつむきざまにはらはらと落涙した。

ただ、ここに赫かッとしたのは台十能の中である。

「二階へおいでな。」

「ええ、なに………」

「構いはしないよ。」

「ええ、なに………」

「もう、お嬢様、この方はね、」

「おっと納豆ウ、納豆なっと、納豆い、」

「あの、唯今、屑屋さんのかわりに、私の蘭蝶をお聞きなさろうという処なんでございます。」

「そうですか、ほんとに思出すわねえ、良い月夜で、露霜で、しとしとしてねえ。」

「草の中においでなすったお嬢さんのお姿が、爪先まで明あかるいんですもの。私は慄然ぞっとしましたよ。そうしてちっとばかり聞かしておくれ、こんな風で済まないけれどもッて、銀貨のお代を頂きました時は、私は掌てのひらへ、お星様が降ったのかと思いました。

追分をお好き遊ばした、弁天様のお話は聞きましたが、ここらに高尾の塚もなし、誰方どなたが草刈になっておいで遊ばしたんでしょうと、ただ、もう尊たっとくなりましてね。おんぼろの婆ばばあじゃありましてございますが、一生懸命、あんな役雑やくざな三味線でも、思いなしか、あの時くらい、隅田川の水にだって、冴えた調子は出たことがございませんよ。」

当時の光景、いかに凄絶せいぜつなるものなりしぞ。

「ああ、私も聞いている内に、ひとりで涙が出たんですもの、愛吉、おばさんはそりゃ上手だよ、」といいすてて、階子段はしごだんに、蔦つたがからんだ裳もすその紅くれない、するすると上って行った。

「ヘッ笑かしゃあがら、ヘッ旦的だんつくめえ、汝うぬが取りに下りれば可い。寒いが聞いて呆れらい。ヘッ、悪く御託をつきゃあがると、汝てめえがの口へ氷を詰めて、寒の水を浴びせるぞ、やい!」

「愛吉、おいでな、」

皆まで聞かず、上へ聞えたかと、「納豆、納豆。」

四十三

丹平は言ことばを改め、

「さて、先生、何んでも愛の奴は、その中うちでも、お嬢さんが酷ひどく差込んだというのを気にして、尋ねますから、婆さんが、その時だ。

一心不乱に蘭蝶を、語り済ましている内に、うむといってお夏さんが苦しみ出したんだそうで。いや、驚くまい事か、糸も撥ばちも投ほうり出して、縋すがりついて介抱をしたんだけれども、歯を切緊くいしばってしまったから、遊女おいらんの空癪そらしゃくを扱うようなわけには行ゆかない。

自分も打坐ぶっすわり込んで、意気地はがあせん、お念仏を唱となえ出した。

ト珍らしく人声がして、俥くるまが来たでさ。しかも路が悪いんで、下町の抱かかえ車夫にゃあがきが取れなかったものと見えてね、下りて歩行あるいて来かかった。夜目にも立派な洋服で、背は高くないが、極きまり処のきちんとした、上手めいじんが鑿のみで刻んだという灰色の姿。月明つきあかりに一目見ると、ずッと寄ったのが山の井さんで、もう立向うと病魔辟易へきえき。病人を包んだ空気が何となく溌ぱっとひらくという国手せんせいだから、もう大丈夫。――

やがてお夏さんの望みで、名が良いという今の青柳町へ、世話をする事になったに就いて、その時の縁で、お賤が、女中、乳母、兼帯のおもり役。

とここまで……愛吉にお賤が言って聞かせて、見なさい、そういう御恩人だ、といっても、奴泡を吹いて、ブウブウの舌を引込ひっこませない。

日本一のお嬢さんを妾にするたあ何事だ、妾は癪だ、恩人も糸瓜へちまもねえ、弱り目につけ込んで、すけべいの恩を売る奴は、さし込み以上の疫病神だと、怒鳴るでがしょう。

一体何という藪やぶだ、破竹か、孟宗もうそうか、寒竹か、あたまから火をつけて蒸焼にして噛かじると、ちと乱だ。楊枝ようじでも噛かむことか、割箸を横啣よこぐわえとやりゃあがって、喰い裂いちゃ吐出しまさ。

大概のことは気にもかけなかったが、婆さん貧病は治して貰った、我が朝の、耆婆扁鵲きばへんじゃくと思う人を、藪はちと気になったから、山の井さんを何だ、と思うと極きめるとね。

先刻承知だろうと思っていたのが、耳を立てて、何山の井だ、どこの藪だ。

光起さんとおっしゃって、日本橋の真中まんなかにある大藪、というと、(やや先生か)といって、愛吉が、呆気あっけに取られて、しばらく天井を視ながめていたそうだッけ。

(親分か、)と吹ッ切った。それで静まるのかと思うとそうでない。

(あン畜生、根生ねおいの江戸ッ児この癖にしやがって、卑劣な謀叛むほんを企てたな。こっちあ、たかだか恩を売って、人情を買う奴だ、贅六店ぜいろくだなの爺番頭か、三河万歳の株主だと思うから、むてえ癪に障っても、熱湯にえゆは可哀相だと我慢をした。芸妓げいしゃや娼妓じょろうでも囲いあがりゃ、いざこざはちっともねえが、汝うぬが病家さきの嬢さんの落目をひろッて、掻きあげにしやあがったは、何のこたあねえ、歌を教えて手を握る、根岸の鴨川同断だ。江戸ッ児の面汚し、さあ、合点がってんが出来ねえぞ、)とぐるぐると廻って突立つったつから、慌てて留める婆さんを、刎はね飛ばす、銚子ちょうしが転がる、膳が倒れる、どたばた、がたぴしという騒ぎ、お嬢さん、と呼んで取さえてもらおうとしても、返事もなけりゃ、寂閑ひっそりはどういうわけ?……

(もう寐ねやがったか、太え奴だ。)

とドンと襖ふすまへ打附ぶッつかって、眼まなこの稲妻、雷らいの声、からからからと黒煙くろけむりを捲まいて上る。ト、これじゃおもりが悪いようで、婆さん申訳がありますまい。

あとから夢中で駆け上った、この時でさ、――先生。

二人とも驚いたのは。

二階の二人が、クスクス笑っていたというんですものな。

気の抜けること夥おびただしい。

ちんちんをするような形で、棒を呑んでしゃっきりと立った、愛吉の前へ小さな紫檀の食卓の上から、衝つと手を伸ばして、

(親方、申上げよう、)

といって猪口ちょくをさして、山の井さんが、呵々からからと笑ったとお思いなさい。」

光起は藍あいと紺、味噌漉縞みそこしじま一楽の袷羽織、おなじ一楽の鼠と紺を、微塵織みじんおりの一ツ小袖、ゆき短みじかにきりりと着て、茶の献上博多の帯、黄金きんぶちの眼鏡を、ぽつりと太い眉の下、鼻隆たかく、髭ひげ濃こまやかに、頬へかけて、円い頤あぎと一面に胡麻ごまのよう、これで頬がこけていれば、正に卒業試験中、燈下に書を読む風采であった。

四十四

お夏がまた叱言こごとでもいうことか、莞爾にっこりして、

(さあ、お酌をして上げようね、)

愛吉は手術台で、片腕切落されたような心持で、硬くなって盃を出した。

お夏の手なる銚子こそおかしけれ。円く肩のはった、色の白い、人形の胴を切った形であったもことわり、天女が賜たまう乳のごとく、恩愛の糸をひいて、此方こなたの猪口に装もられたのは、あわれ白酒であったのである。

さて、お肴さかなには何がある、錦手にしきでの鉢と、塗物の食籠じきろうに、綺麗に飾って、水天宮前の小饅頭と、蠣殻町かきがらちょうの煎豌豆いりえんどう、先生を困らせると昼間いったその日の土産はこれで。丹平がここに金之助に語りつつある、この黒旋風を驚かしたものは、智多星呉ちたせいご軍師の謀計でない、ただ一盞いっさんの白酒であった。――

丹平語ことばを継ぎ、

「そこで医学士が、

(どうです、親方、いけますか、)などとおっしゃる。

お嬢さんの下さるもんなら、溝泥どぶどろも甘露だといった口にも、これはちと辟易へきえきだ、盃を睨にらみ詰めて、目の玉を白く、白酒を黒くして、もじつくと、山の井さんが大笑いして、

(いけますまいな。いや、私も弱る。大辟易だが、勝山さんは、白酒でなくッては、一生お酌は断ちものだそうだ。)

また全く徹頭徹尾、白酒でなくッては酌というものをしないのでがすとさ。婆さんがなかなおりに、

(私が助すけましょう、)

と取って飲んだのを、

(頂戴な、)とお夏さんが請け取って、ここで一杯、珍らしく三猪口ちょこ、愛吉の酌で飲んだそうで。

山の井さんは止やむことを得ず、例のごとくそこに持出して――いや、突きつけてある草紙を取って、一枚ずつ開けて見ながら、白豌豆をポツリ、ポツリ。

時々、

(旨うまい、)なんて小児こどものような洒落しゃれをいうんだ。

そうしちゃ、

(私は小児科はいかんよ。)は可ようがしょう。

お夏さんがね、ばたりと畳へ手を支ついた、羽織の肩が少しずれて、

(ああ、もう眠い、)ッて恐ろしい愛想づかしじゃありませんか。

(さあ、お寐ねなさい、)

というと、かぶりを振って、

(厭いやです、寐かして下さらなくッちゃ、)

(お婆さん、床を取っておあげ、私も、もうそろそろ帰る。)

(いいえ、先生、貴下あなたが、寐かして、)と切々きれぎれにいったが、いつになく酔っちゃいるし、ついぞないことをいうんだから、婆さん、はッと気がついて大喜び。

(さあ、愛吉さん、下へ行ってもう一杯、今度は私も頂くよ。)

善は急げで立ちかかると、愛吉、前へ立って、膠にかわが放れたようだったが、どどどど、どんというと四五段辷すべり落ちた。

(危い、)

と婆さんが段の中途でいった時、

(危いよ、)

という医学士の声がしたは、お夏が、愛吉を憂慮きづかって、立とうとして、酔ってるからよろけたんだそうでがす。

愛の奴は台所へ仁王立ちで、杓呑ひしゃくのみを遣やった。

そこいら、皿小鉢が滅茶でしょう。すぐにその手で、雑巾を持って、婆さんが一片附け、片附けようとする時、二階で、

(親方々々、)

と医学士が呼んだそうです。

上って見ると、どうでしょう、お夏さんは高島田を横に学士の膝につけて、腕かいなをかけて、横顔で寐ていたので。

(そこらに掻巻かいまきがあろう、見てくれ、)とある。

おっとまかせろナは可いが、愛の野郎、三尺の尻ッこけで、ぬッと足を出して夜具戸棚を開けた工合、見習いの喜助殿どんというのでがす。

勿論、絹の小掻巻。抱えて突出すと、

(かけてお上げ、)

というお声がかり。」

四十五

掻巻がかかると、裳もすそが揺れた。お夏は柔かに曲げていた足を伸ばして、片手を白く、天鵝絨びろうどの襟を引き寄せて、軽かろく寝返りざまに、やや仰向あおむけになったが――目が覚めてそうしたものではなかった。

愛吉は掻巻の裾に跪ひざまずいて、

(先生、酔ったんで、)

(ああ、ちと酔ったと見えるが、女も、白酒を小さな猪口で寐るようだと真まことに結構だ、)

(愛吉、)

(へい、)

(男も君のように飲んじゃ困るな。)

納豆なっとを売るわけにも行かず、思わぬ処でぎょっとする。

(ちっと控目にしないか、第一身体からだが堪たまらない。勝山さんも大層気にかけて心配してるぜ。

待て、)

といって、尻ッこけに遁にげ出そうとするのを呼び留め、学士は黄金きん時計をちょいと見た。

(少し待て、)

そのまま黙って、その微塵縞一楽の小袖の膝に、酔はさめたが、唇の紅くれなるも掻巻にかくれて、ひとえに輪廓の正しき雪かと見まがう、お夏の顔を熟じっと見ながら、この際大病人の予後でもいいきけらるるを、待つごとく、愛吉呼吸いきを殺して、つい居ると、

(こっちへ来い、)

(ええ、)

(ちっと膝をかせ。)

(先生、飛んだ御串戯ごじょうだんもんですぜ。)

(いや、私わしは時間の都合がある、婆さんは片づけものがあるだろう、すやすや寐ているから、可いか、密そっとだ、)静かな膝は、わななく枕と入れ交った、お夏の夢は、月に月宮殿をあくがれ出でて、廃駅の時雨に逢うのであろう。

立って、衣紋えもんを正した時、学士の膝は濡れていた。が、鬢びんずらの梅の雫しずくではない、まつげのそよぎに、つらぬきとめぬ露であった。――

(私は一向、そんな方はぞんざいだったが、この勝山さん娶もらおうとした時、親類が悪い風説うわさを聞いたとか言って、愚図々々ぐずぐず面倒だから、今の、山河内のを入れたんだが、身分が反対あちこちだとよかった。女世帯の絵草紙屋を棄てて、華族の女むすめを媽かかにしたというので、酷ひどくこの深川ッ児こに軽蔑されるよ。はははは、)

と恐縮をしたように打笑い、

(どうだ親方、ちっと粋なのを世話しないか。)

と上り口で振返って、爽さわやかに階下したへおりた。すぐ上って来るだろうと思うと、やがて格子戸が開いたのは、懐手で出て帰ったのである。

転寝うたたねはかぜを引くと、二階へ床を取りに行った時、女房は、石のように固くなって愛吉が膝を揃えて畏かしこまっていたのを見た。月の夜の玉川に、砧きぬたを枕にした風情、お夏は愛吉のその膝に、なおすやすやと眠っていた。

密そっと起して、先生がおっしゃった、愛吉さんもお泊り、という時、お夏はぱっちり目を開けたが、極めて鷹揚おうように無雑作に、

(…………)

枕の異かわったことは何にもいわず、

(お前もお手つだい、)

と愛吉に教えて、自分も枕など持ち出して、急いで寝床が出来ると、(このまま寝ようや、)と云ったのが、その緋ひの紋綸子もんりんずの長襦袢ながじゅばん。

同一装おんなじよそおいで。香水の瓶の口を開けていたのを、二度目に行燈あんどうを提げて上って女房が見た。が、その後のちの事は分らぬ。もっとも屏風びょうぶをたてて下りた。その後ごはいかにしけんか知らず。

ただ、真夜中の頃、みしみしと二階を一人が降りて来た。お夏の跫音あしおとではない。うとうとした女房、台所の傍かたわらなる部屋で目を覚すと、枕許を通るのは愛吉で。憚はばかりかと思うと上框あがりがまちの戸を開けた。

(おや、帰るんですか。)

(私わっしも店がございます、済みませんが、あとのしまりを、)と不思議なことをいって、戸を開けて出たと思うと、日和下駄を穿はいて来たのに、カラリとも音がせぬ。耳を澄ましていると、ひたひたと地を蹈ふむ音。およそ池の坊の石段のあたりまで、刻んできこえたが、しばらく中絶えがして、菊畑の前、荒物屋の角あたりから、疾風一陣! 護国寺前から音羽の通りを、通り魔の通るよう、手足も、衣きものも吹靡ふきなびいて、しのうて行くか、と犬も吠えず鼠もあるかぬ寂しんとした瞬間のうつつに感じた。

女房は夢かと思った。が、起き出て土間へ下りると、幻ではない。格子戸は開いたまま、大戸はしまっていたが、掛けがねが外ずれていた。

火沙汰を憂慮きづかって、行燈で寝るほど、小心な年寄。ことに女主人あるじなり、忘れてもこんな事は、とそこで何か急に恐くなったか、密そっとあけて見ると良い月夜、式部小路は一筋蒼あおい。

塵ちりも埃ごみも寐静ったろうと思う月明りの中うちに、曲角あたりものの気勢けはいのするのは、二階の美しいのの魂が、菊の花を見に出たのであろう。

女房はフト心着いた。黙って帰して、叱られはしまいか、とそこで階子段はしごだんの下に立寄って、様子を見たが、寂寞ひっそりしている。覗のぞくようにしたけれども屏風はたったり、行燈の火も洩もれず。

(お嬢さん、)と小声で呼んで見たが、答えがない。その夜に限って、上って見ようとは思わず、いつの間にか時が経たったと見えて、もう冷くなった寝床へ入って寐た。

あくる日は、平日いつより早く目が覚めたが、またお夏が例になく起きて来ぬ。台所もすっかり片づいて、綺麗に掃除が出来、朝飯が済んで、しばらくして茶を入れて、毎日飲む頃になったが、まだ下りぬ。

沸たぎり切っていた湯が冷さめるから、炭を継いで、それから静しずかに上って見た。屏風の端から覗くと、お夏は床の上に起上って、暖あたたかに日のさす小春の朝。行燈の紙真白まっしろに灯がまだ消えず。ああ、時ならぬ、簾越すだれごしなる紅梅や、みどりに紺段々だんだら八丈の小掻巻を肩にかけて、お夏は静じっとしていた。

(おや、もうお目覚。)

(ああ、今起きようと思っているの。)

女房が、不思議というのはこの事ではない。ただ愛吉が夜中に帰った時の、戸外おもてが凄すごかったもののけはいの事である。

それとなく、

(昨夜ゆうべ夜中に帰りましたね。)

(喧嘩の夢を見て、寐惚ねとぼけたんだよ。)とばかりお夏は笑っていたが、喧嘩の夢どころではない、殺人の意気天に冲ちゅうして、この気疾きばやの豪傑、月夜に砂煙すなけむりを捲まいて宙を飛んだのであった。

この意気なればこそ、三日握り詰めたお夏の襟をそった剃刀に、鎮西五郎時致ときむねが大島伝来の寐刃ねたばを合わせたとはいえ、我が咽喉のどならばしらず、いかで誤ってお夏の胸を傷つけんや。衣きていた絹は、膚よりも堅いのに。

くらがり坂で躍り出して、

(こん、畜生!)

コオトの背中を引抱ひっかかえて、身体からだを圧おしにグサと刺した。それでも気が上ずったか、頭巾の端を切って、咽喉をかすって、剃刀の尖さきは、紫の半襟の裏に留まったのである。

お夏がよろける。奥さん、と梅岡薬剤。――

啊呀あなやと、駆け寄った丹平は、お夏が刃物を引きつけるように、我を殺すものの頸うなじを、両のかいなでしっかと絞めて抱いたのを見た。その身は坂を上の方、兇漢は下に居た。

(あ、)

と一声、もっと刺せとか、それとも告別わかれの意であったか、

(愛吉、)

とお夏が呼ぶと、丹平が引放そうとする愛吉の手は、力も用いないで外ずれたが、頸を巻いたお夏の腕かいなは放れない。

掙もがいて解ほどくと、道の上へ、お夏の胸は弓なりに反そったが、梅岡に支えられた。

(国手せんせいに、国手に、)とお夏は、その時くりかえしていったのである。

愛吉は下へ、どんと尻餅をついた。そのまま咽喉のんどにあてた剃刀を挘もぎ取ったのは丹平で。

時にはじめて声を出した、江戸ッ児の薬剤師の声は異様なものであった。

(非常だ、)

(お騒ぎあるな! 引きうけました。)

兀はげ天窓あたまの小男の一言は、いうまでもなく大いなる力があったのである。

竹永丹平が病院でなお語り続ける。

「で、三宜亭で聞きますとな、愛の野郎は当日お昼過から、東照宮の五重の塔に転がっていたんでがすって。暮かかってから、のッそり出かけて、くらがり坂に潜んだんだといいますから、巣鴨じゃ、ちょうどお夏さんが、私てまえと話をしていなすった時でがす。

影も薄し、それ神々しかろうじゃありませんか。

また、青柳町で。婆さんが云うのには、その晩、件くだんの一陣の兇風、砂を捲いて飛んで返ったッきり、門口はもとより台所へも、廂合ひあわいの路地へも寄ッついた様子はなし、お夏さんも二日たって、その日の午ひる過ぎ湯に行くまで、どッこも出なかったというんですから、白薔薇と、平打の簪かんざしとで、生命いのちがけの相談、定子を殺そう、と一人は、一人は定子になって殺されようというのが極きまって、打合わせもしないで両方とも立派に覚悟をして出かけたばかりか、とうとう真ほんものにしてしまった。

生命いのちを軽かろんずること鴻毛こうもうのごとく、約を重んずること鼎かなえに似たり。とむずかしくいえばいうものの、何の事はがあせん、人殺しの飯事ままごとだ。

が、またこの飯事が、先生、あの二人でなくッちゃ、英雄にも豪傑にも、志士仁人じんじんにも、狂人にも、馬鹿にも出来ない、第一あなたにも私にも出来ませんて。

何の出来ずともの事だけれど。……」

と丹平は附加えた。

「私てまえ、愛吉が来てからの一件。また当日お夏さんがちょいと関戸の邸のもみじを見て来よう、と……もっともいつか中から行って見よう、といいながら、出ぎらいな方で行かなかったのを、お午過ぎに湯から帰ると、一人でずんずん着ものを着かえた。直じき近いのに吾妻コオトなり、頭巾なり。ちっと帰りが遅いから、気になって、婆さん、横町の角まで出ていた処を、私に会ったと云うんでがしょう。さあ、気になる。私一向遣り放ばなしで、もの事を苦にはせんから、虫が知らせたというようなわけではない。

が何だか、卯之吉の門かどから俥くるまが行ってしまったのが、なごり惜おしくって、今にもその姿が見たくてならぬ。

おかしいね。

何も三年越見なかった人なり、殊にそういう知己しりあいの婆さんが在って見れば、これをつてで、また余所よそながら尋ねられないこともないが、何となく、急に見たい。

そこででがすよ。

茶を入れかえる、といったのを振切って出て、大塚の通りから、珍らしく俥を驕おごると、道の順で、これが団子坂から三崎町、笠森の坂を向うへ上って、石屋の角でさ。谷中の墓地へ出たと思うと、向うから――お夏さん。

ちと柄がかわり過ぎた。私、目についているのは、結綿ゆいわたに鹿かの子の切きれ、襟のかかった衣きものに前垂まえだれがけで、絵双紙屋の店に居た姿だ。

先刻さっきの文金で襟なしの小袖でさえ見違えたのに、栗鼠のコオトに藍鼠のその頭巾。しかもこの時は被かぶっていました。

おまけに、並んで歩行あるいているのが、茶の中折で、絣かすりの羽織、粋づくりだけれど、お商売がら、どこか上品に見える、梅岡薬剤でがしょう。

私もし、青柳町へ寄らないで、この体ていを見ると、いよいよ戻橋もどりばしだ。紅葉の下で生血を吸う……ね。

そのなりで。思いがけない二人づれなり、ちょいとはお夏さんと見えないけれど、そこは私、通から一目で見て取った、俥を下りて、くらがり坂まであとをつけたですよ。何とももって残念千万。

や、梅岡さんの方が前さきへ行ったそうでがす。あの石段の上の床几しょうぎ、入口はいりぐちのね、あすこだ。毛氈もうせんを敷いて出してあるのに腰をかけて、待合わしていたんでがすな。

そこへ柳橋とも、芳町とも、新橋とも、たとえようのないのが、急いで来て、一所になった。紅葉の時だが、マビで、そんなにたて込まず、座敷もあいていたけれども、上らないで、男はカラカラと高談話たかばなし。

一室ひとまだとたちぎぎがしたいなぞと、気を揉もんだ女中が居たそうで、茶代が五十銭にぶ。

それから連れ立って、東照宮の方へ行ゆくのを、大勢女中がずらりとならんで騒いで見送ったのは、今しがただ、といって、三宜亭の主人がな。

奥座敷を閉め込んで、血だらけのコオトを脱がした時、目を眠っているお夏さんの、艶麗あでやかなのを見て、こりゃ、薬や繃帯ほうたいをなさるより、真綿で包んで密そっとして置く方が可いッて、真面目にいった。

もっとも夢のようだといいましたっけ。

先生、私なども、真まことと思わん、どうしても夢でがすよ、それが一昨々日さきおとといの晩だ。」

といって歎息した。

金之助は悩める右手をひしと抱いて、

「私は却って、その顔も見ないから、ちっとも夢のように思われんでなお困る。幸ひ「幸ひ」はママ貴老あなたが見えてから、あの苦しむのが聞えないから……」

「私てまえのその、御経読誦おんきょうどくじゅが、いくらか功徳がありましたもんでがしょう。」と、泣くより笑いというのである。

「ああ、どうぞあけ方までに、繰返して、もう一度その経を誦したまえ、絶えず、念じて下さい。私も覚えて念じよう。明日あす、また明後日あさって、明々後日そのあさっても、幾度いくたびも、本尊の前途を見届けるまでは、貴方は帰さん、誰にも逢わん。」

「宜よろしい。」

竹永が天井を仰いだ時、金之助も斉ひとしく見たが、例いつもよりは壁が高いと思うと、電燈がすッと消えた。

あわれな声で、

青葉しげれる桜井の、里のわたりの夕まぐれ、

と廊下で繃帯を巻きながら、唐糸の響くように、四五人で交る交る低唱していた、看護婦たちの声が、フト途切れたトタンに。

硝子窓がらすまどへばらばらと雨が当った。

廊下を馳はせ違う人の跫音あしおと。

二人は呼吸いきを詰めた。

電燈が直ぐに点ついた、その時顔を見合わせた。

木この下蔭に駒とめて、

とまた聞える。

吻ほと、といきをつく間もなく、この扉ドアが細目に開いた、看護婦の福崎が、廊下から姿を半ば。

「貴下あなた、お案じなさいました五番の方が、」

二人は肩から氷を浴びて、

「どう、」

「どうした。」

「容子ようすがかわりました。」

「そうか、」

期ごしたりといわんよう、落着いていって、丹平は椅子を放れる。

と同時である。

「大変だ、」と激はげしくいうと、金之助は寝台ねだいからずるりと落ちたが、斉ひとしく扉から顔を出して、六ツの目は向むこう、突当りの廊下へ注いだ、と思うと金之助が身を挺ていして、少しよろけながら廊下をすたすたと其方そなたへ行く。後から竹永が続いたので、看護婦も引添うた。

遠山も丹平も心はおなじ、室の外から、蔭ながら、別わかれを惜おしもうとしたのであったが。

五番の室の前へ行くと、思いがけず扉が開いていたので、思わず両人、左右の壁へ立ち別れた。

と見ると哀しき寝台を囲うて、左の方に、忍び姿で、粛然として山の井医学士。枕許に看護婦一人にん、右に宿直の国手いしゃが彳たたずんで、その傍わきに別に一人、……白衣びゃくえなるが、それは、窈窕ようちょうたる佳人であった。

その背後うしろに附添ったのが、当院の看護婦長。

入口を背せなにして、寝台の裾に、ひょろひょろとして痩やせた、三尺帯は愛吉である。

ト遠山の附添福崎が、静しずかに室に入って行って、二三語を交えたのは、病人に対する金之助の同情の節ふしを伝えたのであろう。

医学士の傍そばに居た看護婦が、一脚椅子を持って出て挨拶をした。

「お掛けなさいまし。」

金之助は辞せず、しかし入りはしないで、廊下へ受取った時、福崎は急いで遠山の病室へ行ったが、これも椅子を提げて引返して来て、

「お掛けなさいまし。」

と丹平に。自から直ちに遠山の背後うしろに来て、その受持の患者を守護する。両人は扉を挟んで、腰をかけた、渠等かれら好事こうずなる江戸ツ児は「江戸ツ児は」はママ、かくて甘んじて、この惨憺さんたんたる、天女廟びょうの門衛となったのである。

雨がドッと降って来た。

しばらくすると、宿直と、看護婦長は、この室を辞して出た。その時、後を閉めようとして、ここに篤志とくしの夜伽よとぎのあるのを知って一揖いちゆうした。

丹平すなわち、外から扉を押そうとすると、

「構いません、」と声をかけて目礼をしたのは医学士山の井光起である。向い合って右の側なる一人にんの看護婦が、

「宜しゅうございます。」

といった、渠は窈窕たる佳人であった。

「いや、御遠慮を申す、御遠慮を申す。」

と丹平は徐おもむろに。かくて自ら自分等を廊下の外に閉め出した。その扉が背せなを圧するような、間近に居たから、愛吉は身動みうごきをしたが、かくても失心の体ていで、立ちながら、貧乏ゆるぎをぞしたりける。

時に、ここを通り過ぎて、廊下の彼方かなたに欄干てすりのある、螺旋形らせんがたの段の下り口の処に立ち停どまって、宿直医と看護婦長と、ひそかに額を交えて彳たたずんだのが、やがて首こうべを垂れて、段を下りるのが見えた。

同時にそれまで、青葉の歌の声を留めて、その二人の密話を傍聞かたえぎきして取り巻いた、同じ白衣の看護婦三人。宿直の姿が二階を放れて、段に沈むと、すらすらと三方へ、三条みすじの白布しらぬのを引いて立ち別れた。その集っている間、手に、裾に、胸に、白浪の飜ひるがえるようだった、この繃帯は、欄干に本もとを留とどめて、末の方から次第に巻いて寄るのである。

渠等も、お夏のこの容体を今聞いた、無意識にうたいつるる唱歌の声の、その身その身も我知らず、

身の行末をつくづくと、偲しのぶ鎧よろいの袖の上へに、

散るは涙か、はた露か、

より低く、より悲しげに、よりあわれに、より多く頭かしらを垂れて、少しずつ、巻き込みながら繰り寄る繃帯。

遠く廊下に操あやつる布の、すらすら乱れて、さまよえるは、ここに絶えんず玉の緒の幻の糸に似たらずや。繋つなげよ、玉の緒。勿な断たちそ細布。

遠山と丹平は、長き廊下の遠き方かたに、電燈の澄める影に、月夜に霞の漾ただようなかに、その三人の白衣の乙女。あわれ、魂を迎うべく、天使来きたる矣い、と憂えたのである。

雨は篠突しのつくばかりとなった。棟に覆す滝の音に、青葉の唱歌の途切るる時、ハッと皆、ここにあるもの八九人、一時に呼吸いきを返したように、お夏の、我に返る気勢けはいを感じた。

「ああ、熱、」

驚破すわやと二人。

「何て暑いんでしょう、私はどうしたの。」

というのが、耳許に冴えた調子で聞えながら、しかも幽かすかに、折から風が颯さっと添って、次第々々に大空へ遠く消えて行くようになって、また寂しんとした。

雨はいよいよ降るのである。時もわきまえずなるまでに、夜よは次第に更けるのである。

「愛吉、愛吉、」とお夏が呼んだ。

遠山は面おもてを背けた。

「愛吉、苦しいから殺しておくれ。」

しばらくして、

「早くしておくれよ。」

答うるものはないのである。

「国手せんせい、どうすりゃ、可いの。私は国手の奥さんになりたいの、」

優しい声で、

「してあげますよ、」というのが聞えた。

「だって奥さんがあるんですもの。」

「いえ、もうありません、貴女あなたに生命いのちを救われて、山河内の家へ帰りますよ。」

遠山も耳を澄す。

お夏の声で、

「でも不可いけないの、私は、愛吉が可愛かわゆくッて可愛くッて、」

廊下の外でもはらはらと落涙する。

「可愛くッてならないの、だから奥さんになって殺されたんだわ、なぜこんなに暑いの、なぜ熱いの、私のした事が悪いから、あの、それで、ひどいの、どうすりゃ可いいんですねえ。」

答うもののあらざるを見て、遠山金之助堪こらえかねたか、矩くを踰こしてずッと入った。

蓬頭垢面ほうとうこうめん、窮鬼すだまのごとき壮佼わかものあり、

「先生!」

と叫んで遠山の胸に縋すがりついた。

「お嬢さんお嬢さん、貴女が兄さんのようだとおいいなすった、新聞社の先生ですよ。」と、いまだ全くその気は狂い果てなかった。

金之助、声高く、

「貴女のしたことは決して間違った事じゃありません!」

これに頷うなずく趣に見えたが、

「もう死んでも可ごさんす、」といって、起上ろうとするのをかの看護婦が、密そっと抱いて、

「いえ、私が死なせません。」

渠かれは窈窕たる佳人であった。この窈窕たる佳人は、山の井医学士の夫人定子であることを――ここで謂いおう。

医学士は衝つと進んで、打うちまかせたような、お夏の右手めての脈を衝と取った。

除のけよ、とあるので、附添と、愛吉は、山を崩すがごとく、氷嚢を取り棄てた。医学士は疾病しっぺいの他に、情の炎の人の身を焼き亡うしなうことのあるを知ったであろう。

丹平は、そこに掲げられた、体温の表を見て、烈はげしい地震系を描いた、噴火山のようなものだと思った。

あわれ、その胸にかけたる繃帯は、ほぐれて靉靆たなびいて、一朶いちだの細き霞の布、暁方あけがたの雨上りに、疵きずはいえていたお夏と放れて、眠れるごとき姿を残して、揺曳ようえいして、空に消えた。

内裏雛の冠かむりして、官女たちと、五人囃子して遊ぶ状さまを、後に看護婦までも、幻に見たと聞く。

明治三十九(一九〇六)年一月

底本 / Source edition

底本:「泉鏡花集成9」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年6月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第六卷」岩波書店
1941(昭和16)年11月10日第1刷発行
初出:「大阪毎日新聞」
1906(明治39)年1月1日~1月27日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、以下の個所を除いて大振りにつくっています。
「雑司《ぞうし》ヶ|谷《や》」「熊ヶ谷」「程ヶ谷」「明石ヶ浦」
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年5月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/048405_000050/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/048405_000050/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/048405_000050/

泉 鏡花「式部小路」(新字新仮名)、底本『泉鏡花集成9』ちくま文庫、筑摩書房、1996年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 048405_000050, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite