団欒　　石段　　菊の露　　秀を忘れよ　　東枕　　誓

  


団欒

<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>の日のまどいは楽しかりき。

「あの時は驚きましたっけねえ、新さん。」

とミリヤアドの顔嬉しげに<ruby><rb>打</rb><rt>うち</rt></ruby>まもりつつ、<ruby><rb>高津</rb><rt>たかつ</rt></ruby>は予を見向きていう。ミリヤアドの容体はおもいしより安らかにて、夏の<ruby><rb>半</rb><rt>なかば</rt></ruby>一<ruby><rb>度</rb><rt>たび</rt></ruby>その健康を復せしなりき。

「高津さん、ありがとう。お<ruby><rb>庇</rb><rt>かげ</rt></ruby>様で助かりました。上杉さん、あなたは<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>い、酷い、酷いもの飲ませたから。」

と優しき、されど<ruby><rb>邪慳</rb><rt>じゃけん</rt></ruby>を装える色なりけり。心なき高津の何をか興ずる。

「ねえ、ミリヤアドさん、あんなものお飲ませだからですねえ。新さんが悪いんだよ。」

「困るねえ、何も。」と予は<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を背けぬ。ミリヤアドは笑止がり、

「それでも、<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>は血を<ruby><rb>咯</rb><rt>は</rt></ruby>きました、上杉さんの飲ませたもの、白い水です。」

「いいえ、いいえ、血じゃありませんよ。あなた血を咯いたんだと思って心配していらっしゃいますけれど血だもんですか。神経ですよ。あれはね、あなた、新さんの飲ませた水に着ていらっしゃった<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>のね、<ruby><rb>真紅</rb><rt>まっか</rt></ruby>なのが映ったんですよ。」

「こじつけるねえ、酷いねえ。」

「何のこじつけなもんですか。ほんとうですわねえ。ミリヤアドさん。」

ミリヤアドは<ruby><rb>莞爾</rb><rt>にっこ</rt></ruby>として、

「どうですか。ほほほ。」

「あら、<ruby><rb>片贔屓</rb><rt>かたびいき</rt></ruby>を遊ばしてからに。」

と高津はわざとらしく<ruby><rb>怨</rb><rt>えん</rt></ruby>じ顔なり。

「何だってそう僕をいじめるんだ。あの時だって<ruby><rb>散々</rb><rt>さんざ</rt></ruby>酷いめにあわせたじゃないか。乱暴なものを食べさせるんだもの、綿の<ruby><rb>餡</rb><rt>あん</rt></ruby>なんか食べさせられたのだから、それで煩うんだ。」

「おやおや飛んだ処でね、だってもう三月も過ぎましたじゃありませんか。<ruby><rb>疾</rb><rt>とっ</rt></ruby>くにこなれてそうなものですね。」

「何、綿が<ruby><rb>消化</rb><rt>こな</rt></ruby>れるもんか。」

ミリヤアド<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわら</rt></ruby>より、

「<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>してはいけません。また<ruby><rb>動悸</rb><rt>どうき</rt></ruby>を高くします。」

「ほんとに<ruby><rb>串戯</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>は<ruby><rb>止</rb><rt>よ</rt></ruby>して新さん、きづかうほどのことはないのでしょうね。」

「いいえ、わけやないんだそうだけれど、転地しなけりゃ<ruby><rb>不可</rb><rt>いけない</rt></ruby>ッていうんです。何、症が知れてるの。転地さえすりゃ何でもないって。」

「そんならようござんすけれど、そして何時の汽車だッけね。」

「え、もうそろそろ。」

と予は<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>を<ruby><rb>除</rb><rt>の</rt></ruby>けてぞ立ちたる。

「ミリヤアド。」

ミリヤアドは<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>きぬ。

「高津さん。」

「はい、じゃ、まあいっていらっしゃいまし、もうねえ、こんなにおなんなすったんですから、ミリヤアドのことはおきづかいなさらないで、大丈夫でござんすから。」

「それでは。」

ミリヤアドは<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>と立ちあがり、床に二ツ三ツ足ぶみして、空ざまに手をあげしが、勇ましき<ruby><rb>面色</rb><rt>おももち</rt></ruby>なりき。

「こんなに、よくなりました。上杉さん、大丈夫、<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けてみましょう。<ruby><rb>門</rb><rt>かど</rt></ruby>まで、」

といいあえず、上着の<ruby><rb>片褄</rb><rt>かたづま</rt></ruby><ruby><rb>掻取</rb><rt>かいと</rt></ruby>りあげて<ruby><rb>小刻</rb><rt>こきざみ</rt></ruby>に足はやく、<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と芝生におり立ちぬ。高津は見るより、

「あら、まだそんなことをなすッちゃいけません。いけませんよ。」

と呼び懸けながら<ruby><rb>慌</rb><rt>あわただ</rt></ruby>しく追い<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>きたる、あとよりして予は出でぬ。

木戸の際にて見たる時ミリヤアドは<ruby><rb>呼吸忙</rb><rt>いきせわ</rt></ruby>しくたゆげなる片手をば、垂れて高津の肩に懸け、<ruby><rb>頭</rb><rt>こうべ</rt></ruby>を少し傾けいたりき。

石段

「いいめをみせたんですよ、だからいけなかったんです。あの当時しばらくはどういうものでしょう、それはね、ほんとに嘘のように元気がよくおなんなすッて、肺病なんてものは何でもないものだ。こんなわけのないものはないッてっちゃ、<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の中を<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けてお<ruby><rb>歩行</rb><rt>ある</rt></ruby>きなさるじゃありませんか。そうしちゃあね、（高津さん、歌をうたッて聞かせよう）ッてあの（なざれの歌）をね、人の<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>がるものをつかまえてお唄いなさるの。唄っちゃ（ああ、こんなじゃ<ruby><rb>洋琴</rb><rt>オルガン</rt></ruby>も役に立たない、）ッて<ruby><rb>寂</rb><rt>さみ</rt></ruby>しい笑顔をなさるとすぐ、<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>が苦しくなッて、顔へ血がのぼッて来るのだから、そんなことなすッちゃいけませんてッて、いつでも寝さしたんですよ。

しかしね、こんな<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>ならば、まあ結構だと思って、新さん、あなたの処へおたよりをするのにも、段々<ruby><rb>快</rb><rt>い</rt></ruby>い方ですからお案じなさらないように、そういってあげましたっけ。

そうすると、つい先月のはじめにねえ、少しいつもより<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>が悪くおなんなすったから、急いで医者に診せましたの。はじめて行った時は、何でもなかったんですが、二度目ですよ。二度目にね、新さん、一所にお医者様の処へ連れて行ってあげた時、まあ、どうでしょう。」

高津はじっと予を見たり。膝にのせたる<ruby><rb>掌</rb><rt>たなそこ</rt></ruby>の指のさきを動かしつつ、

「あすこの、あればかりの石壇にお弱んなすッて、上の壇が一段、どうしてもあがり切れずに<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>をついていらっしゃるのを、抱いて上げた時は、私も胸を打たれたんですよ。

まあ<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>い、可い！　ここを的に取って看病しよう。こん度来るまでにはきっと<ruby><rb>独</rb><rt>ひとり</rt></ruby>でお<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>んなさるようにして見せよう。そうすりゃ素人目にも<ruby><rb>快</rb><rt>よ</rt></ruby>くおなんなすった<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>りが早くッて、結句<ruby><rb>張合</rb><rt>はりあい</rt></ruby>があると思ったんですが、もうお医者様へいらっしゃることが出来たのはその日ッきり。新さん、やっぱりいけなかったの。

お医者様はとてもいけないって云いました、新さん、私ゃじっと<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>えていたけれどね、<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に居た<ruby><rb>老年</rb><rt>としより</rt></ruby>の<ruby><rb>婦人</rb><rt>おんな</rt></ruby>の方が深切に、（お気の毒様ですねえ。）

といってくれた時は、もうとても我慢が出来なくなって泣きましたよ。薬を取って<ruby><rb>溜</rb><rt>たまり</rt></ruby>へ行ッちゃ、笑って見せていたけれど、どんなに<ruby><rb>情</rb><rt>なさけ</rt></ruby>なかったでしょう。

様子に見せまいと思っても、ツイ胸が迫って来るもんですから、<ruby><rb>合乗</rb><rt>あいのり</rt></ruby>で帰る道で私の顔を御覧なすって、

（何だねえ、どうしたの、妙な顔をして。）

と笑いながらいって、憎らしいほどちゃんと<ruby><rb>澄</rb><rt>すま</rt></ruby>していらっしゃるんだもの。気分は<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>だし、何にも知らないで、と思うとかわいそうで、私ゃかわいそうで。

今更じゃないけれど、こんな<ruby><rb>気立</rb><rt>きだて</rt></ruby>の可い、優しい、うつくしい方がもう亡くなるのかと思ったら、ねえ、新さん、いつもより百倍も千倍も、優しい、美しい、立派な方に見えたろうじゃありませんか。<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>えて<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えたような、こういう方がまたあろうか、と<ruby><rb>可惜</rb><rt>あったら</rt></ruby>もので。可惜もので。大事な姉さんを一人、もう、どうしようと、我慢が出来なくなってね、車が石の上へ乗った時、私ゃソッと抱いてみたわ。」とぞ<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえみ</rt></ruby>たる、目には涙を宿したり。

「僕は何だか夢のようだ。」

「私だってほんとうにゃなりません位ひどくおやつれなすったから、ま、今に<ruby><rb>覧</rb><rt>み</rt></ruby>てあげて下さいな。

電報でもかけようか、と思ったのに。よく早く<ruby><rb>出京</rb><rt>で</rt></ruby>て来てね。始終上杉さん、上杉さんッていっていらっしゃるから、どんなにか喜ぶでしょう。しかしね、急にまたお逢いなすっちゃ激するから、そッとして、いまに目をおさましなすッてから私がよくそういって、落着かしてからお逢いなさいましよ。<ruby><rb>腕車</rb><rt>くるま</rt></ruby>やら、汽車やらで、新さん、あなたもお疲れだろうに、すぐこんなことを聞かせまして、もう私ゃ申訳がございません。折角お着き申していながら、どうしたら<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いでしょう、堪忍なさいよ。」

菊の露

「もうもう<ruby><rb>思入</rb><rt>おもいれ</rt></ruby>ここで泣いて、ミリヤアドの前じゃ、かなしい顔をしちゃいけません。そっとしておいてあげないと、お<ruby><rb>医師</rb><rt>いしゃ</rt></ruby>が見えて、私が立廻ってさえ、早や何か御自分の<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>に<ruby><rb>異</rb><rt>かわ</rt></ruby>ったことがあるのかと思って、<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>に熱が高くなりますからね。

それでなくッてさえ熱がね、新さん<ruby><rb>四十</rb><rt>しじゅう</rt></ruby>度の上あるんです。少し下るのは午前のうちだけで、もうおひるすぎや、夜なんざ、夢中なの。お薬を頂いて、それでまあ熱を取るんですが、日に四<ruby><rb>度</rb><rt>たび</rt></ruby>ぐらいずつ<ruby><rb>手巾</rb><rt>ハンケチ</rt></ruby>を絞るんですよ。<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>いじゃありませんか。それでいて<ruby><rb>痰</rb><rt>たん</rt></ruby>がこう<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>へからみついてて、<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>ぐんですから、今じゃ、ものもよくは言えないんでね、私に話をして聞かしてと始終そういっちゃあね、<ruby><rb>詰</rb><rt>つま</rt></ruby>らないことを喜んで聞いていらっしゃるの。

どんなにか心細いでしょう。寝たっきりで、先月の二十日時分から寝返りさえ容易じゃなくッて、片寝でねえ。耳にまで床ずれがしてますもの。<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>が永いのに眠られないで悩むのですから、どんなに辛いか分りません。話といったってねえ、新さん、酷く神経が鋭くなってて、もう何ですよ、新聞の雑報を聞かしてあげても泣くんですもの。何かねえ、小鳥の事か、木の実の話でもッておっしゃるけれど、どういっていいのか分らず、栗がおッこちるたって、私ゃ縁起が悪いもの。いいようがありません。それでなければ、治ってから片瀬の海浜にでも遊びにゆく時の景色なんぞ、月が出ていて、山が見えて、海が<ruby><rb>凪</rb><rt>な</rt></ruby>ぎて、みさごが飛んで、そうして、ああするとか、こうするとかいって、聞かせて、といいますけれど、ね、新さん、あなたなら、あなたならば男だからいえるでしょう。いまにあなた<ruby><rb>章魚</rb><rt>たこ</rt></ruby>に<ruby><rb>灸</rb><rt>きゅう</rt></ruby>を据えるとか、<ruby><rb>蟹</rb><rt>かに</rt></ruby>に握飯をたべさすとかいう話でもしてあげて下さいまし。私にゃ、私にゃ、どうしてもあの病人をつかまえて、治ってどうしようなんていうことは、<ruby><rb>情</rb><rt>なさけ</rt></ruby>なくッて言えません。」

という声もうるみにき。

「え、新さん、はなせますか、あなただって困るでしょう。耳が遠くおなんなすったくらい、<ruby><rb>茫</rb><rt>ぼう</rt></ruby>としていらっしゃるのに、悪いことだと小さな声でいうのが遠くに居てよく聞えますもの。

せいせいッてね、痰が<ruby><rb>咽</rb><rt>のど</rt></ruby>にからんでますのが、いかにもお苦しそうだから、早く出なくなりますようにと、私も思いますし、病人も痰を<ruby><rb>咯</rb><rt>は</rt></ruby>くのを<ruby><rb>楽</rb><rt>たのし</rt></ruby>みにしていらっしゃいますがね、<ruby><rb>果敢</rb><rt>はか</rt></ruby>ないじゃありませんか、それが、血を咯くより、なお、酷く悪いんですとさ。

それでいてあがるものはというと、<ruby><rb>牛乳</rb><rt>ミルク</rt></ruby>を少しと、鶏卵ばかり。熱が酷うござんすから舌が乾くッて、とおし、水で<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬら</rt></ruby>しているんですよ。もうほんとうにあわれなくらいおやせなすって、菊の露でも吸わせてあげたいほど、小さく美しくおなりだけれど、ねえ、新さん、そうしたら<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>が消えておしまいなさろうかと思って。」

といいかけて<ruby><rb>咽泣</rb><rt>むせびな</rt></ruby>き、懐より桃色の絹の<ruby><rb>手巾</rb><rt>ハンケチ</rt></ruby>をば取り出でつつ目を<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>いしを膝にのして、<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>めしげに<ruby><rb>瞻</rb><rt>みまも</rt></ruby>りぬ。

「新さん、<ruby><rb>手巾</rb><rt>これ</rt></ruby>でね、汗を取ってあげるんですがね、そんなに弱々しくおなんなすった、身体から絞るようじゃありませんか。ほんとに<ruby><rb>冷々</rb><rt>ひやひや</rt></ruby>するんですよ。<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>くたびにだんだんお顔がねえ、小さくなって、<ruby><rb>頸</rb><rt>えり</rt></ruby>ン処が細くなってしまうんですもの、ひどいねえ、私ゃお医者様が、<ruby><rb>口惜</rb><rt>くやし</rt></ruby>くッてなりません。

だって、はじめッから入院さしたッて、どうしたッて、いけないッて見離しているんですもの。今ン処じゃただもう強いお薬のせいで、ようよう持っていますんですとね、ね、十滴ずつ。段々多くするんですッて。」

青き<ruby><rb>小</rb><rt>ちいさ</rt></ruby>き瓶あり。取りて持返して<ruby><rb>透</rb><rt>すか</rt></ruby>したれば、流動体の平面斜めになりぬ。何ならむ、この薬、予が手に重くこたえたり。

じっとみまもれば心も<ruby><rb>消々</rb><rt>きえぎえ</rt></ruby>になりぬ。

その口の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>早や少しく減じたる。それをば命とや。あまり<ruby><rb>果敢</rb><rt>はか</rt></ruby>なさに予は思わず<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きぬ。

「たッたこれだけ、百滴吸ったらなくなるでしょう。」

「いえ、また取りに参ります……」

といいかけて顔を見合せつつ、高津はハッと泣き伏しぬ。ああ、悪きことをいいたり。

秀を忘れよ

「あんまり何だものだから、僕はつい、高津さん気にかけちゃ<ruby><rb>不可</rb><rt>いけな</rt></ruby>い。」

「いいえ、何にもそんなことを気にかけるような、新さん、容体ならいいけれど。」

「どうすりゃ<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いのかなあ。」

ただといきのみつかれたる、高津はしばしものいわざりしが、

「どうしようにも、しようがないの。ただねえ、せめて安心をさしてあげられりゃ、ちっとは、新さん何だけれど。」

と予が顔を<ruby><rb>打</rb><rt>うち</rt></ruby>まもれり。

「それがどうすりゃいいんだか。」

「さあ、<ruby><rb>母様</rb><rt>おっかさん</rt></ruby>のことも大抵いい出しはなさらないし、<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>に、別に、こうといって、お<ruby><rb>心懸</rb><rt>こころがか</rt></ruby>りもおあんなさらないようですがね、ただね、始終心配していらっしゃるのは、新さん、あなたの事ですよ。」

「僕を。」

「ですからどうにかして気の休まるようにしてあげて下さいな。心配をかけるのは、新さんあなたが、悪いんですよ。」

「え。」

「あのね、始終そういっていらっしゃるの。（私が居る内は<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いけれど、居なくなると、上杉さんがどんなことをしようも知れない）ッて。」

「何を僕が。」

予は顔の色かわらずやと危ぶみしばかりなりき。<ruby><rb>背</rb><rt>せな</rt></ruby>はひたと汗になりぬ。

「いいえ、ほんとうでしょう、ほんとうに違いませんよ。それに違いないお顔ですもの。私が見ましてさえ、何ですか、いつも、もの<ruby><rb>思</rb><rt>おもい</rt></ruby>をして、うつらうつらとしていらっしゃるようじゃありませんか。誠にお<ruby><rb>可哀相</rb><rt>かわいそう</rt></ruby>な<ruby><rb>様</rb><rt>よう</rt></ruby>ですよ。ミリヤアドもそういいましたっけ。（私が慰めてやらなければ、あの<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>はどうするだろう）ッて。何もね、秘密なことを私が聞こうじゃありませんけれど、なりますことなら、ミリヤアドに安心をさしてあげて下さいな。え、新さん、（私が居さえすりゃ、大丈夫だけれど、どうも案じられて。）とおっしゃるんですから、何とかしておあげなさいな。あなたにゃその工夫があるでしょう、上杉さん。」

名を揚げよというなり。家を起せというなり。富の市を憎みて殺さむと思うことなかれというなり。ともすれば自殺せむと思うことなかれというなり。詮ずれば<ruby><rb>秀</rb><rt>ひで</rt></ruby>を忘れよというなり。その事をば、母上の<ruby><rb>御名</rb><rt>おんな</rt></ruby>にかけて誓えよと、常にミリヤアドのいえるなりき。

予は黙してうつむきぬ。

「何もね、いまといっていま、あなたに迫るんじゃありません。どうぞ悪く思わないで下さいまし、しかしお考えなすッてね。」

また顔見たり。

折から<ruby><rb>咳入</rb><rt>せきい</rt></ruby>る声聞ゆ。高津は目くばせして奥にゆきぬ。

ややありて、

「じゃ、お逢い遊ばせ、上杉さんですよ、<ruby><rb>可</rb><rt>よ</rt></ruby>うござんすか。」

という声しき。

「新さん。」

と聞えたれば<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せゆきぬ。と見れば次の<ruby><rb>室</rb><rt>ま</rt></ruby>は片付きて、畳に<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>なく、<ruby><rb>床花瓶</rb><rt>とこはないけ</rt></ruby>に菊一輪、いつさしすてしか<ruby><rb>凋</rb><rt>しお</rt></ruby>れたり。

東枕

<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>左右に開きたれば、<ruby><rb>厚衾</rb><rt>あつぶすま</rt></ruby>重ねたる見ゆ。東に向けて<ruby><rb>臥床</rb><rt>ふしど</rt></ruby>設けし、<ruby><rb>枕頭</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>なる皿のなかに、<ruby><rb>蜜柑</rb><rt>みかん</rt></ruby>と熟したる<ruby><rb>葡萄</rb><rt>ぶどう</rt></ruby>と<ruby><rb>装</rb><rt>も</rt></ruby>りたり。枕をば高くしつ。病める人は<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby><ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>めて、<ruby><rb>小</rb><rt>ちいさ</rt></ruby>やかにぞ臥したりける。

思いしよりなお<ruby><rb>瘠</rb><rt>や</rt></ruby>せたり。頬のあたり<ruby><rb>太</rb><rt>いた</rt></ruby>く細りぬ。真白うて玉なす顔、両の<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>に血の色染めて、うつくしさ、気高さは見まさりたれど、あまりおもかげのかわりたれば、予は<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>りもやらで、襖の<ruby><rb>此方</rb><rt>こなた</rt></ruby>に<ruby><rb>彳</rb><rt>たたず</rt></ruby>みつつ、みまもりてそれをミリヤアドと思う胸はまずふたがりぬ。

「さ、」

と<ruby><rb>座蒲団</rb><rt>ざぶとん</rt></ruby><ruby><rb>差</rb><rt>さし</rt></ruby>よせたれば、高津とならびて、しおしおと座につきぬ。

顔見ば語らむ、わが名呼ばれむ、と思い設けしはあだなりき。

寝返ることだに<ruby><rb>得</rb><rt>え</rt></ruby>せぬ人の、片手の指のさきのみ、少しく<ruby><rb>衾</rb><rt>ふすま</rt></ruby>の外に<ruby><rb>出</rb><rt>いだ</rt></ruby>したる、その手の動かむともせず。

瞳キト<ruby><rb>据</rb><rt>すわ</rt></ruby>りたれば、わが顔見られむと<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>えずうつむきぬ。ミリヤアドとばかりもわが口には<ruby><rb>得</rb><rt>え</rt></ruby>出ででなむ、強いて<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>みしが我ながら寂しかりき。

高津の手なる桃色の絹の<ruby><rb>手巾</rb><rt>ハンケチ</rt></ruby>は、はらりと<ruby><rb>掌</rb><rt>たなそこ</rt></ruby>に広がりて、<ruby><rb>軽</rb><rt>かろ</rt></ruby>くミリヤアドの目のあたり<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>いたり。

「汗ですよ、熱がひどうござんすから。」

頬のあたりをまた拭いぬ。

「分りましたか、上杉さん、ね、ミリヤアド。」

「上杉さん。」

極めて低けれど忘れぬ声なり。

「こんなになりました。」

とややありて切なげにいいし一句にさえ、<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>は三たびぞ途絶えたる。昼中の日影さして、障子にすきて見ゆるまで、空<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>く晴れたればこそかくてあれ、暗くならば影となりて消えや<ruby><rb>失</rb><rt>う</rt></ruby>せむと、見る目も危うく<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れしかな。

「切のうござんすか。」

ミリヤアドは夢見る顔なり。

「耳が少し遠くなっていらっしゃいますから、そのおつもりで、新さん。」

「切のうござんすか。」

<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>く<ruby><rb>状</rb><rt>さま</rt></ruby>なりき。

「まだ可いんですよ。晩方になって寒くなると、あわれにおなんなさいます。それに熱が高くなりますからまるで、<ruby><rb>現</rb><rt>うつつ</rt></ruby>。」

と<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>にいう。かかるものをいかなる<ruby><rb>言</rb><rt>ことば</rt></ruby>もて慰むべき。<ruby><rb>果</rb><rt>はて</rt></ruby>は<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>めしくもなるに、心激して、

「どうするんです、ミリヤアド、もうそんなでいてどうするの。」

声高にいいしを<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわら</rt></ruby>より目もて叱られて、急に、

「何ともありませんよ、何、もう、いまによくなります。」

いいなおしたる<ruby><rb>接穂</rb><rt>つぎほ</rt></ruby>なさ。<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を背けて、

「治らないことはありません。治るよ、高津さん。」

高津は<ruby><rb>勢</rb><rt>いきおい</rt></ruby>よく、

「はい、それはあなた、神様がいらっしゃいます。」

予はまた言わざりき。

誓

月<ruby><rb>凍</rb><rt>い</rt></ruby>てたり。<ruby><rb>大路</rb><rt>おおじ</rt></ruby>の人の<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>冴えし、それも時過ぎぬ。坂下に犬の<ruby><rb>吠</rb><rt>ほ</rt></ruby>ゆるもやみたり。<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>しきり、一しきり、<ruby><rb>檐</rb><rt>のき</rt></ruby>に、棟に、背戸の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>に、<ruby><rb>颯</rb><rt>さ</rt></ruby>と来て、さらさらさらさらと鳴る風の音。この<ruby><rb>凩</rb><rt>こがらし</rt></ruby>！　病む人の身をいかんする。ミリヤアドは<ruby><rb>衣</rb><rt>きぬ</rt></ruby>深く<ruby><rb>引被</rb><rt>ひきかつ</rt></ruby>ぐ。かくは予と高津とに寝よとてこそするなりけれ。

かかる<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>を<ruby><rb>伽</rb><rt>とぎ</rt></ruby>する身の、何とて二人の眠らるべき。<ruby><rb>此方</rb><rt>こなた</rt></ruby>もただ眠りたるまねするを、今は心安しとてやミリヤアドのやや時すぐれば、ソト顔を出だして、あたりをば見まわしつつ、いねがてに<ruby><rb>明</rb><rt>あけ</rt></ruby>を待つ優しき心づかい知りたれば、その夜もわざと眠るまねして、予は机にうつぶしぬ。

<ruby><rb>掻巻</rb><rt>かいまき</rt></ruby>をば羽織らせ、<ruby><rb>毛布</rb><rt>けっと</rt></ruby><ruby><rb>引</rb><rt>ひき</rt></ruby>かつぎて、高津は予が<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>に<ruby><rb>背</rb><rt>せな</rt></ruby>向けて、正しゅう坐るよう膝をまげて、横にまくらつけしが、二ツ三ツものいえりし<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に、これは疲れて<ruby><rb>転寝</rb><rt>うたたね</rt></ruby>せり。

何なりけむ。ものともなく<ruby><rb>膚</rb><rt>はだえ</rt></ruby>あわだつに、ふと顔をあげたれば、ありあけ暗き室のなかにミリヤアドの双の<ruby><rb>眼</rb><rt>まなこ</rt></ruby>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はき</span>とあきて、わが<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>を見詰めいたり。

予が見て取りしを<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>にもしかと見き。ものいうごとき瞳の動き、引寄するように思われたれば、掻巻<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ねのけて立ちて、進み寄りぬ。

近よれという色見ゆ。

やがてその前に予は手をつきぬ。あまり気高かりし<ruby><rb>状</rb><rt>さま</rt></ruby>に恐しき感ありき。

「高津さん。」

「少し休みましたようです。」

「そう。」

とばかりいきをつきぬ。やや久しゅうして、

「上杉さん、あなたどうします。」

予は思わずわななきぬ。

「何を、ミリヤアド。」

「<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>なくなりますと、あなたどうします。」

涙ながら、

「そんなことおっしゃるもんじゃありません。」

「いいえ、どうします。」と強くいえり。

「そんなことを、僕は知りません。」

「知らない、いけません、みんな知っている。かわいそうで、眠られません。眠られません。上杉さん、<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>、頼みます、秀、秀。」

予は<ruby><rb>頭</rb><rt>こうべ</rt></ruby>より氷を浴ぶる心地したりき。折から風の音だもあらず、有明の<ruby><rb>燈影</rb><rt>とうえい</rt></ruby>いと<ruby><rb>幽</rb><rt>かすか</rt></ruby>に、ミリヤアドが目に光さしたり。

「秀さんのこと思わないで、勉強して、ね、上杉さん。」

予は<ruby><rb>伏沈</rb><rt>ふししず</rt></ruby>みぬ。

「かわいそう、かわいそうですけれども、<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>、こんな、こんな、病気になりました。仕方がない、あなたどうします。かわいそうで、安心して死なれません。苦しい、苦しい、かわいそうと思いませんか。私、あなたをかわいがりました。私を、私を、かわいそうとは思いませんか。」

一しきり、また<ruby><rb>凩</rb><rt>こがらし</rt></ruby>の戸にさわりて、ミリヤアドの顔<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめぬ。その眉<ruby><rb>顰</rb><rt>ひそ</rt></ruby>み、唇ふるいて、苦痛を忍び<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>を閉じしが、<ruby><rb>十分</rb><rt>じっぷん</rt></ruby><ruby><rb>時</rb><rt>じ</rt></ruby>過ぎつと思うに、ふとまた明らかに<ruby><rb>睜</rb><rt>みひら</rt></ruby>けり。

「<ruby><rb>肯</rb><rt>き</rt></ruby>きませんか。あなた、<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>を何と思います。」

と切なる声に<ruby><rb>怒</rb><rt>いかり</rt></ruby>を帯びたる、りりしき眼の色恐しく、<ruby><rb>射竦</rb><rt>いすく</rt></ruby>めらるる<ruby><rb>思</rb><rt>おもい</rt></ruby>あり。

枕に沈める横顔の、あわれに、貴く、うつくしく、気だかく、清き<ruby><rb>芙蓉</rb><rt>ふよう</rt></ruby>の<ruby><rb>花片</rb><rt>はなびら</rt></ruby>、<ruby><rb>香</rb><rt>こう</rt></ruby>の煙に消ゆよとばかり、亡き母上のおもかげをば、まのあたり見る心地しつ。いまはハヤ何をかいわむ。

「<ruby><rb>母上</rb><rt>おっかさん</rt></ruby>。」

と、ミリヤアドの枕の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>に<ruby><rb>僵</rb><rt>たお</rt></ruby>れふして、胸に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りてワッと泣きぬ。

誓えとならば誓うべし。

「どうぞ、早く、よくなって、何にも、ほかに申しません。」

ミリヤアドは目を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>ぎぬ。また一しきり、また一しきり、刻むがごとき<ruby><rb>戸外</rb><rt>おもて</rt></ruby>の風。

予はあわただしく高津を呼びぬ。二人が<ruby><rb>掌</rb><rt>たなそこ</rt></ruby>左右より、ミリヤアドの胸おさえたり。また一しきり、また一しきり大空をめぐる風の音。

「ミリヤアド。」

「ミリヤアド。」

目はあきらかにひらかれたり。また一しきり、また一しきり、<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>深くなりゆく凩の風。

神よ、めぐませたまえ、憐みたまえ、亡き母上。

明治三十（一八九七）年一月