Soranoha

ゲエテの「冬のハルツに旅す」

ゲエテの「ふゆのハルツにたびす」

堀 辰雄

ゲエテの「冬のハルツに旅す」の斷章にブラアムスが附曲したアルト・ラプソディを、一週間ばかり前からレコオドでをりをり聽いてゐるが、どうもそれを唱つたオネエギンといふ女のひとの、すこし北歐訛りのある陰影に富んだ、底光りのする歌ごゑがすつかり耳についてしまつてゐる。夜など、ふと目をさますと、その歌が耳の底から蘇つてくるやうである。……しかし、ずつと病牀にゐる私は、ついおつくふにしてそのドイツ語の歌詞を分からないままにしておいたが、けさ漸く小康を得たやうなので、ゲエテの詩集をもつて來させて、それを讀んでみた。かなり難解な詩であつて、二度三度と讀みかへして、漸くその詩の意味が分かるやうになつた。手もとにある鴎外の「ギヨオテ傳」をみると、一七七七年十一月末、カルル・アウグスト公が昵近の士を連れて獵に出たとき、ゲエテは獨りハルツに旅した、そのときの詩のやうである。病牀にあつて、私はかういふ旅するゲエテの姿を描き出してゐた……

重くろしき雲の上に

輕ろやかに翼をさめて

獲物ねらふ禿鷹のごと

わが歌を翔りやらん

旅人はさう氣負ひながら、冬の朝まだき、獵に出る友人らと袂を別つて、獨り、北に向いてハルツを目ざしてゆく。雪をはらんだ雲は、さういふ彼に抗あらがふやうに、低くおもく、垂れこめてゐるのである……

旅人はをりをり二三日前に會つた一人の青年の不幸な姿をおもひうかべる。その厭世的になつてゐる青年がそれまで何度も手紙を寄こして彼に救ひを求めてゐたので、彼はこの度の放行の途中、わざわざその青年に會つていろいろ意見をしてやつたが、その甲斐もなかつたのである……

旅人の胸は、人皆にはそれぞれの道が神によつて豫示せられてゐて、或者は幸福への道に、また或者は苦艱くげんへの道に向はざるを得ないといふ事で、いふべからざる苦惱をおぼえる。さういふ人生のすがたが、いま彼の直面してゐる自然の中にもさながら見える。この山中の荒涼とした樣子はどうだらう。何物も目には入らず、只をりをり餓ゑ切つたやうな小動物だけがそのみじめな姿をさらすばかりである。――いま、旅人の目には、はるか彼方、氷つた湖の向うに、一つの町が見え出してゐる。ああ、おそらく彼處には幸福なる人々が、蘆の間にかくれてゐる雀たちと共に、憩うてゐることだらう。「己もきのふまでは彼處で彼等と共に無事な日を過ごしてゐたのだ……」

それと同時に、彼には再び、あのかはいさうな、無益に人生に抗してゐるやうな青年のすがたが、こんな心象イマアジュでまざまざと泛んでくる。

されどかしこに孤り立てるは誰ぞ。

彼れが掻き分けゆくは藪ならずや。

その過ぎし跡に灌木はふたたび枝さしかはし、

踏まれし草も身を起こせり。

何たる荒蕪の彼れを呑まんとする!

ブラアムスのアルト・ラプソディのはじまるのは此處だ。詩の氣分の高まりと共に、オネエギンの力強い獨唱は、かくして道にはぐれていつた不幸な若者に對する如何ともしがたい憐憫でいよいよ沈痛を加へる。いまは香料すら毒のやうにおもひこんでゐるもの、人を愛しすぎたがために却つて厭人的になつてしまつたもの、はじめ人から侮どられて遂に人を侮るやうになつたもの、充たされぬ自己の欲望のためにいつか自分自身をも知らず識らずの裡に蠶食してゐるそのやうな不幸なものを、一體誰が慰め得ようか?

愛の父よ、おんみの竪琴の上に

彼れの耳にも入りうべき

調しらべのひとつだにあらば

かれが心を慰めたまへ

此處から徐かに男聲合唱がアルトに絡みはじめ、低いオォケストラを伴奏にしながら、旅人の同情は遂に一つの大いなる祈りにまで高まつてゆく。……かかる不幸な若者のための莊重な祈りのうちにブラアムスのラプソディは終るが、詩人の同情はさらに、いま何處かの雪のなかに獵をしている友人たちの上に向けられ出す。彼は山林や畑を荒す野獸どもを勇ましく獵してゐる彼等の上にも神に祝福を乞ふのである。それから、最後に彼は彼自身――それらの友人から離れて只一人、かうして魂の安靜を求めつつ雪のなかに道を尋ねてゐる自分自身の上に立ち歸つてゆく。

おゝ愛よ、おんみの詩人の

このしとどに濡れし髮を

常緑の葉もて覆ひたまへ

さう祈りつつ、詩人はその愈〻困難なるハルツ登攀を續ける。そして自分が何物かから加護せられてゐるといふ信念を得つつ、幾多の艱難に耐へゆくのであつた。

數日後、旅人は遂に前人未踏のブロッケン山の絶頂を極める。きり立つた花崗石の頂きに禿鷹のやうに立つた詩人――彼の上方には明るい明るい空がある、そこからは太陽が烈しく灼きついて、外套の襞からは焦げ臭い匂ひが立つ程だ。そして足下にはぢつと動かない雲が一面に立ちこめてゐる。僅かにその隙間からすつかり雪に掩はれた山や谷がかいま見えてゐるばかり。然し詩人の心にはそのかいま見えてゐる雪に掩はれた山肌の光りの變化をみまもつてゐるだけで、色彩學に對する新しい想念を呼びさますには十分だつた。……

さらに見𢌞せば、彼の立つてゐるブロッケン山をとりまいてゐる山々、地上の富をもたらす幾多の鑛脈を潛めてゐるにちがひないそれらの山々、――詩人の飽くことを知らない自然探究の心は、かくして地質の構造、鑛物學などの上にまで擴げられて行くのである。いまこそ、彼の大いなる使命の自覺が彼の裡に目ざめつつあるのである。――

そこでゲエテの詩は終る。――「ギヨオテ傳」に據ると、詩人はブロッケン登攀後、さらに二日間ハルツを歩き𢌞つてから、狩獵の一行と落ち合つて、一しよにワイマルに歸つた。そしてこの旅から歸つた頃から、ゲエテは著しく眞面目になり、一種の超然たる内生活に入つたといはれる。

私は病牀にあつて、この僅か十一節よりなる詩を讀了するのに殆ど半日を費してしまつた。しかし、けふはこの日頃になくいかにも赫かしい、充實したやうな日のやうにおもへる。もう一度、ブラアムスのアルト・ラプソディを聽きたいのも我慢しなければならないほど疲れてゐるが、それすら生の充足からくる疲れのやうに心愉しいものがある。

底本 / Source edition

底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房
1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行
底本の親本:「曠野」養徳社
1944(昭和19)年9月20日刊
初出:「一橋新聞 第三百号」
1940(昭和15)年1月1日発行
※初出時の表題は「うた日記――ゲエテの「冬のハルツに旅す」を読んで――」です。
入力:tatsuki
校正:岡村和彦
2013年5月6日作成
2016年1月18日修正
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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堀 辰雄「ゲエテの「冬のハルツに旅す」」(旧字旧仮名)、底本『堀辰雄作品集第五卷』筑摩書房、1982年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 048306_001030, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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