Soranoha

佐渡が島

さどがしま

長塚 節

汽船はざぶ〱と濁水を蹴つて徐ろにくだる。信濃川も川口がすぐ近く見える。渺茫たる海洋がだん〱と眼前に展開する。左岸には一簇の葦の穗の茂りがあつて其先からは防波堤が屈曲して居る。葦の茂りを後にするとそれから續いた長い磯が見え出して遙かに猫の耳のやうな二つの山が兀然として聳えて居る。此は彌彦の山系である。其中腹から長い手のやうにずうつと佐渡が顯はれ出した。汽船は防波堤に隨つて屈曲して進む。防波堤の上には十人ばかり四つ手網あみを引いて居る。四つ手網が一杯に水を離れた時には佐渡は網の目から透きとほつ見(ママ)える。汽船が沖に浮んだ時に佐渡が島も海洋の只中に悠然として青く横はつた。丁度大きな馬盥に水を一杯に汲んだのが海洋であるならば鍋蓋をそつと浮べて鍋蓋の取ツ手を横から見れば佐渡が島である。波は淺草紙を揉んでのした樣に平らである。あたりを見ると海は一面の濁りである。信濃川が泥土を溶かして間斷なく吐き出して居るので此の如く黄變したものであらうがそれにしても驚く程の濁りである。わさ〱と碎くる波は綿の如く白く飜る。其白い波にも濁つた色が見える。汽船は佐渡が島の眞ン中をさして居る。だん〱水は澄んで來る。何時の間にか猫の耳の樣な山が一つに重つて居た。振りかへるともう新潟の港はどことも分らぬ。船體が漸く動搖し始めた。

余は狹い後甲板へ横に敷いた莚へ腰を卸して立膝をして居るので足の裏は直接に甲板を踏んで居る。五十格恰の男が余と相對して別な莚に胡坐をかいて居る。筋肉のきりつと緊まつた極小柄な男で汚れた白木綿の三尺帶を締めて傍に褪めた淺黄の風呂敷包を引きつけて居る。朴訥な顏をした若者が三四人と其他に二三人莚に坐して居る。乘客は皆船室へもぐり込んでしまつたのだ。此小柄な男と若者と噺をはじめた。若者は佐渡から小樽へ出稼に行つて居たのであるがもう季節に成つたので稻刈にもどつて來たのだといふと、さうか佐渡は仰山稻が出來たと大きな聲で小柄な男がいつた。彼は割合に大きな口を開いて喋舌る。其度毎に黄ばんだ反齒が抉き出しになる。俺わしは博勞だがもう先月から越後へ三度も渡るが雜用が掛つてよう儲からんといひながら其風呂敷包から梨を一つ引き出した。さうして手の平でこすつたと思つたら大きな口を開いて皮の儘むしや〱と噛りはじめた。朴訥な若者も云ひ合した樣に梨を出して皮の儘噛りはじめた。余も手拭へ括つてあつた梨を解いた。丁度拇指の爪が非常に延びて居たので其爪の尖で皮を剥きはじめた。むくといふよりも小さくはがしはじめた。ぼつり〱と鋲の頭のやうにへげる皮が莚と莚との間の甲板へほろ〱と落ちる。氣の永いことをするのうといひながら博勞が余の手もとを見つめる。みんなが余の手許を見る。余は一つ〱にはがしながら女の梨賣を憶ひ浮べる。

昨日は「ダシ」といふ嵐が越後の山から佐渡へ吹きつけたので、此汽船は昨日のうちに新潟へ來て居て今朝解纜する筈なのであつたが、今日の午ひる近くまで佐渡を離れることが出來なかつたといふことである。余はまだ午にならぬ内から會社へ行つて待つて居たのであるが退屈に堪へないので腰掛へ蓙を敷いてうと〱と眠つた。起きた時には腰掛の端には菅の爪折笠を冠つた若い女が五つばかりの子を膝へ抱いて休んで居た。女の足もとには天秤棒を横へた梨籃が置いてあつて大きな梨が堆く積んである。女は余の起きたのを見て、佳味い梨ざます、買うとくなはれといつた。余は一つ取つて籃に刺してあつた庖丁でむいて見たら液汁の滴る甘い梨であつた。立(ママ)ろに三つも噛つた。何といふ梨だと女に聞いたら、「巾着はたき」と女がいつた。さうして佐渡の土産に十も買うとくなはれと復た女がいつた。余は手拭の外に包むものがないので其兩端へ括れる丈括つた。小揚の人足のやうなのがぞろ〱と來た。一人が梨を一つむいて佳味いといつたら他の者も佳味い〱といつて噛る。堆かつた梨がめつきり減つた。梨の皮がそこらあたり一杯に散らばつた。女は一つ〱に拾つて川へ棄てた。一人の婆さんがそこへ無花果を持つて來た。小蓋のやうな箱へころ〱と入れてあつてまだ堅相な無花果である。女の膝に抱かれて乳房に縋つて居た子は無花果が欲しいといつてせがみ出した。余が三つ四つ買うてやつたら膝の上で跳ね上りながら悦んだ。さうして「盆だでがんに茄子の皮の雜炊だア、と小さな聲で怒鳴つた。女は盆踊の唄ざますといつて白い齒を出して微笑した。乘客が追々に集まつて汽船が佐渡から着いた時に梨賣が幾らも寄つて來てあたりは急に騷々しくなつた。女は隅へ蹙められたやうに成つて居たが軈て毛孺子の黒い笠の紐を締め直して、輕くなつた籃を擔いて去つてしまつた。女は終まで爪折笠は一度もとらなかつたのである。

こんなことを考へ出しながら梨はめぐし〱はがすうちに鋲の頭は落ちては落ちて甲板に積つた。曩にむいた所はだん〱錆びたやうに赤く變じた。一口噛つたら矢ツ張佳味い梨であつた。余は新潟は恐ろしく梨の安い所だといつたら、博勞は「アヽ越後は安い、俺は新發田まで行つて來たが仰山安いから俵へ二俵買うて來た。また今朝新潟の市へぶらつと行つて見たら此も仰山安いから此れだけ買うて來たといひながらまた風呂敷包から疵の入つた梨を引き出して皮の儘むしや〱と噛る。

佐渡が島は汽船の舳に當つて幾らか大きくなつたかと思ふ頃秋の日は落ちて黄昏の冷かさが身にしみて感じた。余は甲板の上をぶら〱と歩く。若者の一人は舷の欄に倚つて沖をぼんやり見ながら「ヨイトフイトサと唄つて居る。夜は眞闇になつた。舳を見ると掻きあげる波が眞白で、艫を見ると蹴返す波が眞白である。眞白な波の間には無數の燐光がちら〱と光る。遙方にぽつちりと見え出した一點の火光が一定の時間を措いてぴかりと光つては消え、消えては又ぴかりと光る。慥かに燈臺の光である。アヽ、姫崎も近うなつた博勞がいつた。左手の沖には一列の火光がちら〱と明滅する。(明治四十年)

底本 / Source edition

底本:「長塚節全集 第二巻」春陽堂書店
1977(昭和52)年1月31日発行
初出:「佐渡が島 長塚節自筆草稿」日本古書通信社
1966(昭和41)年9月
※この作品は、「佐渡が島」の前段として書かれながら、発表に先立って、著者により削除されたものです。初出で世に知られ、「佐渡が島 波の上」として底本に収録されました。
入力:林 幸雄
校正:伊藤時也
2010年7月25日作成
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書誌 / Bibliography
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長塚 節「佐渡が島──波の上」(旧字旧仮名)、底本『長塚節全集 第二巻』春陽堂書店、1977年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 048213_000118, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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