Soranoha

須磨明石

すまあかし

長塚 節

蕎麥屋

須磨の浦を一の谷へ歩いて行く。乾き切つた街道を埃がぬかる程深い、松の木は枝も葉も埃で煤が溜つたやうに見える、敦盛の墓の木蔭にはおしろいが草村をなしてびつしりと咲いて居る、柔かな葉はやつぱり埃が掛つて居るが、赤や黄の相交つた花には目立つて見えぬ、敦盛とおしろいの花といふ偶然の配合に興味を感じて名物の敦盛蕎麥へはいる、店先にはガラスの駄菓子箱があつてそれも埃である、歪んだ二疊程の座敷へ腰を掛ける、狹い土間には膝と突き合ふ計に松薪がしだらなく積んである、女房が蕎麥を呉れた、不味いこと甚だしい、淺い丼一杯だけやつと喰つた。女房の帶は落ち相である、隅の方で蕎麥を打つてる亭主は尻きり襦袢が粉だらけである、滅多に洗ふこともないと見える、然し段々俗化して行く須磨の浦にこんな野暮臭い名物が昔の儘に存して居るのは却てゆかしい心持がする、おしろいの花も蕎麥屋が植ゑてそれが段々に殖ゑてこんなに茂つたのだと思ふと一入感じがよくなる、一雨ざつと降りさへすれば松の葉もおしろいの葉も埃がすつかり洗はれて秋の涼しさは頓に催すのであらうが、蕎麥屋は依然として不味い蕎麥打つて名物の稱を恣にして居るのだと思ふと更に面白くなる、渚へ出ると海は極て穩かである、たま〱大きな波がゆるやかに來たと思つたらどさんと碎けて白い泡がさら〱と自分の足もとまで廣がつた。

網曳き

明石の淋しい檐下を辿つて來ると、おい泊らないかと後から呼び掛けるものがある、振かへると縁臺の上に寢て居た親爺が起きあがりつゝいつたのである、古ぼけた紙看板の吊つてあるみすぼらしい店だ、いくらで泊めるかと聞たら胡坐を掻きながら辨當付で廿七錢にまけてやらうといつた、辨當はいらんといふとそれぢや廿四錢でいゝといふことになつた、滅相に安いので遂泊る氣になつて覗いて見ると涼し相な一間がある、草鞋をとる、井戸へ案内してこゝで足を洗ふがよいといふ、足を洗ふと店先で茶を一杯汲んでそこへ膳を出す、さうして二階へ蚊帳が釣つてあるから何時でも行つて寢るがいゝといふのである、案に相違したが廿四錢の泊りだと思ふと不平はない。

濱で網を曳いて居るから行つて見たらどうだと亭主がいふので草履を借りて横丁から心あてに濱へ出る、闇い夜であるが海だけはぼんやり白んで淡路島がすぐ目の前に見えてともし灯がほのかに光る、淡路島は夜でも近いのである、海岸では唯わつ〱といふ騷ぎである、漁師は今一所懸命に網へたかつて居る所だ、驅け戻つてはつかまり〱よつさ〱と勢よく引つ張る、沖では聲を限りに叫ぶのが聞える、網がだん〱引き寄せられるに隨て沖の聲がだん〱に近づく、だん〱に近づいて網が太くなつて來ると漁師の活動が一層劇しくなる、網に引つからまつた鰯がしら〱と見えて來る、袋の中では今獲物が非常な混雜をして居るだらうと思ふ、あたりには人が一杯に群つて居る、小供等は手に〱小笊を持つて鰯のこぼれを拾つて居る、渚の浪にぬれながら網から盜んで居るのもある、明石の濱の小供が茲へ聚つて仕舞つたかと思ふ程うぢや〱して居る、沖からの叫び聲がとまると小船が二艘ついた、袋はもう引きつけられたのと見えて網を引く手も止つた、盥の中の鰌が人の足音に驚いたといふ樣に騷いで居やしないかと考る、闇さは闇いのに人越しだから何も分らないのだけれど騷いで居るやうな氣がするのである、漁師共は鰯を船の中へ掻き込みはじめた、細鱗は見るうちに船一杯になつた、砂濱へ掻きあげる小さな塚のやうに置いてある、此騷擾のうしろには老松が一列に聳えて、梢からは天の川が悠然たる淡路島へ淡く落ち込んで居る、靜かな宵である。

宿へかへると合宿の荷車引がほろ醉になつて饒舌つて居る、金物商で暫く四國を欺し廻つて居たが、今では此の通り發心して荷車引になつたのだといひながら剃りたての頭を叩いた、靜かな樣でも明石の瀬戸は潮時が惡いと千石積でも動きがとれぬ、いつか和船で垂水たるみから渡らうと思つて酷い目に逢つたことがある、「阿波の鳴門か音頭が瀬戸か又は明石のいや水か」といふ位だからなといふ樣なことをいつて青い頭をまたぺたりと叩いた、蚊は明石の名物である。

(明治三十九年十月十二日發行、馬醉木 第三卷第六號所載)

底本 / Source edition

底本:「長塚節全集 第二巻」春陽堂書店
1977(昭和52)年1月31日発行
初出:「馬醉木 第三卷第六號」
1906(明治39)年10月12日発行
入力:林 幸雄
校正:伊藤時也
2010年7月17日作成
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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長塚 節「須磨明石」(旧字旧仮名)、底本『長塚節全集 第二巻』春陽堂書店、1977年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 048212_000118, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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