一

「はいっ。」

「はいっ。」

「ほらきた！」

「よいとこら！」

「はっ。」

「はっ。」

庄屋よ狐よ猟師よと拳にさざめく夕涼み。本八丁堀三丁目、<ruby><rb>海老床</rb><rt>えびどこ</rt></ruby>の縁台では、今宵、後の月を賞めるほどの<ruby><rb>風雅</rb><rt>みやび</rt></ruby>はなくとも、お<ruby><rb>定例</rb><rt>きまり</rt></ruby>の芋、栗、枝豆、<ruby><rb>薄</rb><rt>すすき</rt></ruby>の類の<ruby><rb>供物</rb><rt>くもつ</rt></ruby>を中に近所の若い衆が寄り合って、秋立つ夜の露っぽく早や四つ過ぎたのさえ忘れていた。

親分藤吉を始めいつもは早寝の<ruby><rb>合点長屋</rb><rt>がってんながや</rt></ruby>の二人までが、こう気を揃えてこの群に潜んでいるのも、なにがなし<ruby><rb>珍</rb><rt>ちん</rt></ruby>と言えば珍だったが、残暑の寝苦しさはまた格別、これも御用筋を離れての<ruby><rb>徒然</rb><rt>つれづれ</rt></ruby>と見ればそこに涼意も沸こうというもの。夢のような夜気に<ruby><rb>行燈</rb><rt>かんばん</rt></ruby>の灯が流れて、三<ruby><rb>助奴</rb><rt>すけやっこ</rt></ruby>を呼ぶ紅葉湯の<ruby><rb>拍子木</rb><rt>ひょうしぎ</rt></ruby>が手に取るよう――。

軒下の竹台に釘抜のように曲った両脚を投げ出した目明し藤吉、<ruby><rb>蚊遣</rb><rt>かや</rt></ruby>りの煙を<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>で追いながら、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から、それとなく聴耳を立てている。天水桶の陰に、しゃがんで、指先でなにかしきりに地面へ書いているのは、<ruby><rb>頬冠</rb><rt>ほおかむり</rt></ruby>でよくはわからないが<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>の<ruby><rb>勘弁勘次</rb><rt>かんべんかんじ</rt></ruby>。十三夜の月は出でて間もない。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どっ</span>と起る笑い。髪床の親方甚八と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">に</span>組の頭常吉との向い拳で、甚八が鉄砲と庄屋の構えを取り違えたという。それがおかしいとあって<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やんや</span>と<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>す。その騒ぎの鎮まったころ、片岡町の方から、あるかなしかの風に乗って不思議な唄声が聞えてきた。銀の<ruby><rb>伸板</rb><rt>のべ</rt></ruby>を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">びいどろ</span>の棒で叩くような、それは<ruby><rb>現世</rb><rt>このよ</rt></ruby>のものとも思えない女の<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>。拳の連中は気がつかないが、藤吉は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐい</span>と一つ顎をしゃくって、

「来たな！」

という<ruby><rb>意</rb><rt>こころ</rt></ruby>。勘次は<ruby><rb>頷首</rb><rt>うなず</rt></ruby>く。

「彦の野郎うまくやってくれりゃあ好えがのう。」乗り出す藤吉の足許から、

「なあに親分、」勘次が答えた。「彦のこった、大丈夫<ruby><rb>鉄</rb><rt>かね</rt></ruby>の脇差し――<ruby><rb>即</rb><rt>つ</rt></ruby>かず離れず見え隠れ、通う千鳥の淡路島、忍ぶこの身は――。」

「しいっ！」

声は近着いてくる。唄の文句は<ruby><rb>明瞭</rb><rt>はっきり</rt></ruby>とは聞き取れないが、狂女お艶から出てこの界隈では近ごろ誰でも承知の<ruby><rb>狂気節</rb><rt>きちがいぶし</rt></ruby>はお茶漬音頭、文政末年<ruby><rb>都々逸坊仙歌</rb><rt>どどいつぼうせんか</rt></ruby>が都々逸を<ruby><rb>作出</rb><rt>あみだ</rt></ruby>すまでのその前身<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よしこの</span>節の直流を受けて、<ruby><rb>摺竹</rb><rt>すりだけ</rt></ruby>の振り面白い江戸の<ruby><rb>遊</rb><rt>すさ</rt></ruby>びであった。<ruby><rb>歌詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>に<ruby><rb>棘</rb><rt>とげ</rt></ruby>があるといえばあるものの、根が<ruby><rb>狂気女</rb><rt>きちがいおんな</rt></ruby>の口ずさむ俗曲、聞く人びとも笑いこそすれ、別に気に留める者とてはなかった。

片岡町を左へ松屋町へ出たと見えて、お艶の美音は<ruby><rb>正覚橋</rb><rt>しょうがくばし</rt></ruby>のあたりから、転がるように途切れ途ぎれて尾を引いてくる――。

「うらみ数え日

<ruby><rb>家蔵</rb><rt>いえくら</rt></ruby>とられた

<ruby><rb>仇敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>におうみや

薬かゆすりか

気ぐすりゃ知らねど

あたきゃ<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れてゆくわいな

あれ、よしこの何だえ

お茶漬さらさら」

一つ文句のこの小唄、明暮れこれを歌いながら、お艶は今も夜の巷を行く。白じらとした月明りに<ruby><rb>罩</rb><rt>こ</rt></ruby>もって、それはさながら冥府の<ruby><rb>妓女</rb><rt>うたいめ</rt></ruby>の座興のよう――藤吉勘次は思わず顔を見合せた。拳にも<ruby><rb>倦</rb><rt>あ</rt></ruby>きてか、もう縁台の人影もいつとはなしに薄れていた。

お江戸京橋は亀島町を<ruby><rb>中心</rb><rt>なか</rt></ruby>にして、狂女のお艶が姿を現わしたのはこの年も春の初め、まだ門松が取れたか取れないころだった。鳥追笠を<ruby><rb>紅緒</rb><rt>べにお</rt></ruby>で締めて荒い黄八に<ruby><rb>緋鹿子</rb><rt>ひがのこ</rt></ruby>の猫じゃらしという思い切った<ruby><rb>扮装</rb><rt>いでたち</rt></ruby>も、狂気なりゃこそそれで通って、往きずりの人も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ち</span>と調子の外れた<ruby><rb>門付</rb><rt>かどづけ</rt></ruby>だわいと振り返るまでのこと、当座はたいして物見評判の的にもならずに過ぎたのだったが、ある<ruby><rb>好奇家</rb><rt>ものずき</rt></ruby>が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひょい</span>と笠の下を覗き込んで、「稀代の逸品でげす、拝むだけで眼の保養でげす」などと<ruby><rb>大仰</rb><rt>おおぎょう</rt></ruby>に頭を叩いてからというものは、お艶の名はその唄うお茶漬音頭とともに売り出して、こんな<ruby><rb>莫迦騒</rb><rt>ばかさわ</rt></ruby>ぎの好きな下町の人びとの間に、声を聞かざるは三代の恥、姿を見ざるは七代の不運なぞと言い<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>され、美人番付の小結どころに挙げられるほどの持て方となった。

正月のある夕ぐれ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふら</span>っと亀島町の薬種問屋近江屋の前に立って、鈴を振るような声で例の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よしこの</span>くずしを唄い出したというだけで、はたしてどこから来てどこへ帰るのか、またはどういう身分の女がなにが<ruby><rb>動機</rb><rt>もと</rt></ruby>でこうも浅間しく気が狂ったのか、それらのことはいっさいわからなかった。わからないから謎とされ、謎となっては頼まれもしないに解いて見しょうという者の飛び出してくるのは、これは<ruby><rb>当然</rb><rt>あたりまえ</rt></ruby>。それかあらぬか、地の女好きにこの<ruby><rb>探索</rb><rt>さぐり</rt></ruby>の心が手伝って、町内の若い者が三、四人、毎夜のように<ruby><rb>交替</rb><rt>かわりあ</rt></ruby>って近江屋の前からお艶の後を<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>けつけしたが、本八丁堀を<ruby><rb>戌亥</rb><rt>いぬい</rt></ruby>へ突っ切って正覚橋を渡り終ると、先へ行くお艶の姿が掻き消すように消えて失くなるという怪談じみた<ruby><rb>報告</rb><rt>しらせ</rt></ruby>を齎して、皆<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しょんぼり</span><ruby><rb>空手</rb><rt>からて</rt></ruby>で帰るのが落ちだった。

するとまた、あの正覚橋の<ruby><rb>彼方詰</rb><rt>むこうづめ</rt></ruby>には寝呆け稲荷という<ruby><rb>祠</rb><rt>ほこら</rt></ruby>があるから、ことによるとあのお艶という女は<ruby><rb>眷属様</rb><rt>けんぞくさま</rt></ruby>のお一人がかりに<ruby><rb>人体</rb><rt>にんたい</rt></ruby>をとってお<ruby><rb>徒歩</rb><rt>しのび</rt></ruby>に出られるのではあるまいかなどと<ruby><rb>物識</rb><rt>ものし</rt></ruby>り顔に並べ立てる者も出て来て、この説はかなりに有力になり、今まで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">き</span>印だの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">き</span>の字だのと呼んでいたものが、急に膝を正してお艶様さまと<ruby><rb>奉</rb><rt>たてまつ</rt></ruby>る始末。なんのことはない、裏京橋の一帯が<ruby><rb>今日日</rb><rt>きょうび</rt></ruby>はお茶漬お艶の話で持切りの形であった。

お艶が名高くなるにつけ、いっそう困り出したのが亀島町の近江屋であった。

風に混って粉雪の踊る一月から、鐘に<ruby><rb>桜花</rb><rt>さくら</rt></ruby>の散る<ruby><rb>弥生</rb><rt>やよい</rt></ruby>、青葉若葉の<ruby><rb>皐月</rb><rt>さつき</rt></ruby>も過ぎて鰹の走る梅雨晴れ時、夏に入って夏も老い、九月も今日で十三日という声を聞いては、永いようで短いのが<ruby><rb>蜉蝣</rb><rt>かげろう</rt></ruby>の命と暑さ盛り、戸一重まで秋は湿やかに這い寄っているが、半歳にもあまるこの<ruby><rb>期間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>、降っても照っても近江屋の前にお艶の姿を見ない日はなかった。陽も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そぼそぼ</span>と暮方になると、どこからともなく<ruby><rb>蹣跚</rb><rt>よろば</rt></ruby>い出てくるお艶は、毎日決まって近江屋の門近く立って、さて、天の成せる<ruby><rb>音声</rb><rt>のど</rt></ruby>に習練の枯れを見せて、往きし<ruby><rb>昔日</rb><rt>むかし</rt></ruby>の節珍しく声高々と唄い出でる。

「うらみ数え日

<ruby><rb>家蔵</rb><rt>いえくら</rt></ruby>とられた

仇敵におうみや

くすりかゆすりか

気ぐすりゃ知らねど

あたきゃ窶れてゆくわいな

あれ、よしこのなんだえ

お茶漬さらさら」

あれ、よしこのなんだえ、お茶漬さらさら――浮いた調子の<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>むにつれて、お艶の頬に紅も上れば道行く人の足も停まる、近江屋はじつに気が気でなかった。

「家蔵取られた仇敵におうみや」の近江屋は、権現様と一緒に近江の国から東下して十三代、亀島町に伝わるれっきとした<ruby><rb>生薬</rb><rt>きぐすり</rt></ruby>の<ruby><rb>老舗</rb><rt>しにせ</rt></ruby>である。高がいささか<ruby><rb>羽目</rb><rt>はめ</rt></ruby>の緩んだ流し者<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>の小唄、取り上げてかれこれ言うがものもあるまいと、近江屋では初めのうちは相手にならずに居はいたもののこっちはこれですむとしても、それではすまないという<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>はそこに世間の口の<ruby><rb>端</rb><rt>は</rt></ruby>と申すうるさい<ruby><rb>扉無</rb><rt>とな</rt></ruby>しの関所がある。近江屋はあわて出した。

慌てて追っても去りはしない、お<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>りを献ずれば、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じろり</span>と<ruby><rb>流眄</rb><rt>ながしめ</rt></ruby>に見るばかり、また一段と声張り揚げて、

「うらみ数え日

家蔵とられた

仇敵に近江屋――

あれ、よしこの何だえ

お茶漬さらさら」

近江屋はほとほと<ruby><rb>困</rb><rt>こう</rt></ruby>じ果ててしまった。

これが毎日のことだった。お艶の唄うのはお茶漬音頭のこの文句にきまっていた。立つところは近江屋の前に限られていた。そして、それが物の十月近くも続いたのである。

上り込んで動かないというのでもないし、それに狂気女の根無し言だから、表沙汰にするのも大人気ないとあって、近江屋は出るところへも出られず、見て見ぬ振り、聞いて聞かぬ心で持てあましているうちに、お艶は誰彼の差別なく行人の袂を押えてはこんなことを口走るようになった。

「あれ、見しゃんせ。この近江屋さんは<ruby><rb>妾</rb><rt>あたき</rt></ruby>の店でござんす。なに、証文？　そんな物は知りんせんが、家屋敷なら三つ並ぶ土蔵の構え、<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>から地所まで<ruby><rb>全部</rb><rt>そっくり</rt></ruby>抜いて<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>られました。はあ、<ruby><rb>妾</rb><rt>あたき</rt></ruby>の爺様の代に<ruby><rb>此店</rb><rt>ここ</rt></ruby>の先代という人に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うまうま</span>一杯<ruby><rb>欺</rb><rt>は</rt></ruby>められて――ああ口惜しい、口惜しいっ！　お返し！　お寄越し！　盗人！　<ruby><rb>詐偽師</rb><rt>かたり</rt></ruby>っ！　お返しったらお返し！　お店からお<ruby><rb>顧客</rb><rt>とくい</rt></ruby>までそのままつけて返すがいいのさ。あれ、よしこのなんだえ、お茶漬さらさら、ほほほほほ。」

後は朗かな唄声に変って、うらみ数え日、とまたも始める――。

こうなると抛擲ってはおかれない。まず<ruby><rb>最初</rb><rt>まっさき</rt></ruby>に騒ぎ出したのが、お艶の話に出て来る当の先代なる近江屋の隠居であった。さんざん考えあぐんだ末生易しい兵法ではいけないと見て、お艶の影を認め次第<ruby><rb>飛礫</rb><rt>つぶて</rt></ruby>の雨を降らせるようにと番頭小僧へ厳命を下しておいたが、その結果は、小石の集まる真ん中でお艶をして唯一得意の「お茶漬<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さらさら</span>」をやらせるに止まり、<ruby><rb>顕</rb><rt>げん</rt></ruby>の見えないことおびただしかった。

近江屋にしたところで商売仇もあれば憎み手もある。この、根も葉もない狂女の言い草にさえ、火のないところに煙は立たぬとかなんとか取り立てて、<ruby><rb>早</rb><rt>はや</rt></ruby>くも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けち</span>をつけにかからんず模様、さらぬだに<ruby><rb>口性</rb><rt>くちさが</rt></ruby>ない江戸の雀、近江屋はやっきになり出したが、それにもましてお艶は腕、いや、口に<ruby><rb>縒</rb><rt>よ</rt></ruby>りをかけてあらぬ鬱憤を洩らし始めるという、<ruby><rb>茲元</rb><rt>ここもと</rt></ruby><ruby><rb>片</rb><rt>かた</rt></ruby>や近江屋片やお艶のまたとない取組となったある日のこと――。

そのある日、湯島の方へ<ruby><rb>用達</rb><rt>ようたし</rt></ruby>に行った<ruby><rb>帰途</rb><rt>かえり</rt></ruby>を近江屋の前へ差しかかったのが、八丁堀に朱総を預る合点長屋の釘抜藤吉、いきなり横合から飛び出して<ruby><rb>藍微塵</rb><rt>あいみじん</rt></ruby>の袖を掴んだのは、言わずと知れたお茶漬音頭で時めくお艶、

「あれ見しゃんせ。この近江屋さんは<ruby><rb>妾</rb><rt>あたき</rt></ruby>の店でござんす――。」

言いかけたお艶の顔を、藤吉は笠を撥ね上げてじいっと見据えた。と、どうしたものかお艶は後を濁して藤吉の袖を放すと、折柄来かかったお店者らしい一人へ歩を寄せて、

「あれ、見しゃんせ――。」

と始めたが、このことあって以来、藤吉親分はお艶の狂気ぶりへそれとなく眼を光らせるようになって行った。

あれから旬日、その間に勘弁勘次に葬式彦兵衛の二人の乾児が尾けたり巻かれたり叩いたり、洗えるだけのことは洗って来たが、今宵の名月を<ruby><rb>機</rb><rt>しお</rt></ruby>に今度こそは居所なりと突き留めようと、さてこそ、彦兵衛が奥の手は「お後嗅ぎ嗅ぎ」流の忍びの尾行となったのだった。

明けを急ぐか、夏の夜は早く更ける。お茶漬音頭の流しも消えて、どこかの軒に入れ忘れた風鈴が鳴るころ、河を距てた寝呆け稲荷の方に当って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けんとん</span>売りの呼び声が微風に靡いていた。

「親分え――お、勘兄哥もか。」

彦兵衛が帰って来た。縁台を離れて藤吉も溝板の上にうずくまった。三人首を<ruby><rb>鳩</rb><rt>あつ</rt></ruby>めて低声の話に移った。その話がすんだ時、

「やるべえ！」

藤吉が立ち上った。

「おうさ、当るだきゃあ当って見やしょう。」

二人も起った。十三夜は満ちて間もない。その月が澄めば澄むほど、物の陰は暗くもなろう。真黒な三つの塊りが川の字形に跡を踏んで<ruby><rb>丑寅</rb><rt>うしとら</rt></ruby>の角へ動いて行ったのは、あれで、かれこれ九つに近かった。

「通う千鳥の淡路島、忍ぶこの身の夜を込めて――。」

<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の影が唸った。前なる影が振り向いた。

「勘、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">われ</span>あ常から口が多いぞ。」

「へい。」

二

鮨町を細川越中の下屋敷へ抜けようとする一廓が神田代地、そこにいかにも富限者らしい<ruby><rb>造作</rb><rt>つくり</rt></ruby>があって近所の人は一口に<ruby><rb>因業御殿</rb><rt>いんごうごてん</rt></ruby>と呼んでいるが、これこそ因業家主が通名の大家久兵衛が<ruby><rb>住宅</rb><rt>すまい</rt></ruby>。<ruby><rb>此家</rb><rt>ここ</rt></ruby>へお茶漬お艶が、近江屋を虐めた帰り毎夜のように立廻ることを見極めたのは、たしかに葬式彦兵衛が紙屑買いの<ruby><rb>拾物</rb><rt>ひろいもの</rt></ruby>であった。だから、因業が祟っていまだに独身の五十男久兵衛が、女の狂っているのをいいことにして、それこそお茶漬一杯で釣っておき、明日にも自分が表から乗り込んで行って近江屋の身上を取返してやると言いながら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あわ</span>よくばお艶の<ruby><rb>肉体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を物にしようと企んでいることは、八丁堀にはとうの昔にわかっていた。この久兵衛とお艶とどういう<ruby><rb>関係</rb><rt>かかりあい</rt></ruby>にあるのか、などと改めて四角張るのは野暮の骨頂で、片方が気違いのことだ、順序も系統もあったものではない。ただ、近江屋攻めに油の乗り出した二月ほど前に、近江屋の門口に現れた時と同じようにお艶のほうから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶらり</span>と因業御殿へ舞い込んだというだけのこと。

有名な美人の狂女がこう思いがけなく飛びこんで来たばかりかあなたの口から近江屋へ全資産引渡しの件を<ruby><rb>交渉</rb><rt>かけあ</rt></ruby>ってくれと泣いて頼んで動かないのだから、因業久兵衛、食指<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むらむら</span>と動いて悦に入ってしまった。二つ返事で<ruby><rb>承知</rb><rt>うけが</rt></ruby>ってお茶漬を出すとじつによく食べた。その後で手を出すと、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どっこい</span>この方はそう容易くは参らなかった。が、逃げられるほど追いたくなるのがこの道の人情とやら、ことにはなにしろ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">き</span>の字のこと、まあ<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>いては事を仕損じる。気永に待って<ruby><rb>取締</rb><rt>とっち</rt></ruby>めようと、それからというもの、久兵衛は毎晩お艶を引き入れてお茶漬を食わせて口説いてみるが、お艶は近江屋のことを頼む一方、狂気ながらも<ruby><rb>途端場</rb><rt>どたんば</rt></ruby>へ来るとうまく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さらり</span>とかい潜るのが<ruby><rb>例</rb><rt>つね</rt></ruby>だった。

「いけねえ。久<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てき</span>まだお預けを食ってやがらあ。」

神田代地の忍びから帰って来ると、彦兵衛はこう言って舌を出した。鼻の頭を下から擦って勘次は我事のように<ruby><rb>焦慮</rb><rt>やきもき</rt></ruby>していた。

お艶の身元については二つの論があった。ありゃあお前、番町の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さる</span>旗本の一のお<ruby><rb>妾</rb><rt>てかけ</rt></ruby>さんだが、殿の乱行を苦に病んでああもお痛わしく気が触れなすったなどと<ruby><rb>真実</rb><rt>まこと</rt></ruby>しやかに言い立てる者もあれば、何さ、<ruby><rb>札</rb><rt>ふだ</rt></ruby>の<ruby><rb>辻</rb><rt>つじ</rt></ruby>辺りの煙草屋の看板娘が<ruby><rb>情夫</rb><rt>おとこ</rt></ruby>に瞞されたあげくの果てでげす、世の娘にはいい見せしめでげす、なんかと斜に片付けて納まり返るしったかぶりもあったが、そんな詮議は二の次としても、何からどうして近江屋へこんな因縁をつけるようになったのか、これも狂気の気紛れと断じてしまえばそれまでだが<ruby><rb>事実</rb><rt>まこと</rt></ruby>近江屋には<ruby><rb>背</rb><rt>うしろ</rt></ruby>めたい筋合は一つもないのだから、狂女の妄念というのほかはないものの、それにしてもこうしつこく立たれては仏の顔も三度まで、第一客足にも障ろうというもの――海老床の<ruby><rb>腰高障子</rb><rt>こしだか</rt></ruby>へ隠居が蝦の跳ねている図を絵いてから、合点長屋と近江屋とは髪結甚八を通して相当<ruby><rb>昵懇</rb><rt>じっこん</rt></ruby>の仲、そこで近江屋から<ruby><rb>使者</rb><rt>つかい</rt></ruby>が立って、藤吉親分へ事を分けての願掛けとなった次第、頼まれなくてもここは一つ釘抜の出幕だ、親分さっそく、

「ようがす。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほまち</span>に<ruby><rb>白眼</rb><rt>にら</rt></ruby>んどきやしょう。」

と大きく頷首いて、お艶を始め因業家主の身辺には、それからひとしお黒い影がつきまとうこととなったのである。

相も変らず近江屋の前でお艶は唄う。唄いながら行人の袖を惹く。袖を惹いてはこのごろではこんなことを言う。

「<ruby><rb>妾</rb><rt>あたき</rt></ruby>には立派な<ruby><rb>背後立</rb><rt>うしろだ</rt></ruby>てがありますから、この近江屋を今に根こそぎ貰い返してくれますとさ。まま大きな眼で御覧じろ――。」

この<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>立てが大家久兵衛であることは、誰からともなく一時に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぱっ</span>と拡がった。広い世間を狭く渡る身の上とはいえ、久兵衛の迷惑言わずもがなである。が、乗りかけた船、後へは引かれない。久兵衛、その代り前へ進んで一気に思いを遂げようとした。お茶漬を食べて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひらりひらり</span>と<ruby><rb>鉾先</rb><rt>ほこさき</rt></ruby>を交し、お艶はなおも近江屋一件を頼み込んで帰る。<ruby><rb>元来</rb><rt>もとより</rt></ruby>証文も何もない夢のような話、色に絡んでおだてて見たものの、自業自得の久兵衛、とんだお荷物を背負い込んだ具合で今さら引込みもつかず、ただこの上は遮二無二言うことを聞かせようと胸を<ruby><rb>擦</rb><rt>さす</rt></ruby>って今宵を待っていた今日というこの十三日――待てば海路の何とやらで、これはまた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ど</span>えらい儲け口が、棚から牡丹餅に転げ込んで来た<ruby><rb>溢</rb><rt>こぼ</rt></ruby>れ<ruby><rb>果報</rb><rt>かほう</rt></ruby>。

昼のうち、それとなく因業御殿に張り込んでいた勘弁勘次は、何を聞いたか何を見たか、いつになくあわて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふた</span>めいて合点長屋へ駈け戻ったが、それに何かの<ruby><rb>拠所</rb><rt>よりどころ</rt></ruby>でもあったかして、この夜の彦兵衛の仕事には<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐっ</span>と念が入り、あのとおり近江屋から神田の代地、そこから正覚橋の向うへまでお艶を尾けて、引続き藤吉を先頭に、かくも闇黒を蹴っての釘抜部屋の総策動となったのだった。

町医らしい駕籠が一梃、青物町を指して急ぐ。供の持つ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶら</span>提灯、その灯が小さくぼやけて行くのは、さては<ruby><rb>狭霧</rb><rt>さぎり</rt></ruby>が降りたと見える。左手に聳える大屋根を望んで、藤吉は肩越しに囁いた。

「三つ巴の金瓦、九鬼様だ。野郎ども、近えぞ。」随う二つの黒法師、二つの頭が同時に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぴょこり</span>と<ruby><rb>前方</rb><rt>まえ</rt></ruby>へ動いた。

三

水のような月の面に雲がかかって、子の刻の闇は墨よりも濃い。<ruby><rb>鎧扉</rb><rt>よろいど</rt></ruby>を下してひっそり寝鎮まった近江屋の前、そこまで来て三つの人影が三つに散った。犬の唸り、低く叱る勘次の声、続いて石を抛る音、後はまた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ことり</span>ともしない。八百八町の<ruby><rb>無韻</rb><rt>むいん</rt></ruby>の<ruby><rb>鼾</rb><rt>いびき</rt></ruby>が、耳に痛いほどの<ruby><rb>静寂</rb><rt>しずけさ</rt></ruby>であった。

この時、軒下伝いに来かかった一人の男、忍びやかに寄って近江屋の戸を叩いた。一つ、二つ、また三つ四つ――何の返事もない。時刻が時刻、これは返事がないはずだ。男は<ruby><rb>焦立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>つ。戸を打つ音が大きくなる。

「近江屋さん、ええもし、近江屋さんえ。」

<ruby><rb>近辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>かまわず板戸を揺すぶったのがこの時初めてきいたとみえて、

「誰だい？　なんだい今ごろ。」

と<ruby><rb>内部</rb><rt>なか</rt></ruby>から不服らしい小僧の寝呆け声。

「<ruby><rb>儂</rb><rt>わし</rt></ruby>だ。約束だ、開けてくれ。」

「約束？　約束なんかあるわけはないよ。」

戸を<ruby><rb>距</rb><rt>へだ</rt></ruby>てての押問答。

「お前じゃわからない。御主人と約束があるんだ。待ってなさるだろ、奥へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そ</span>言って<ruby><rb>此戸</rb><rt>ここ</rt></ruby><ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>けてくれ。」

「駄目だよ、世間様が物騒だから<ruby><rb>閉</rb><rt>た</rt></ruby>てたが最後大戸だけは火事があっても開けちゃあいけないって、今夜も寝る前に大番頭さんに言われたんだ。何てったって開けるこっちゃないよ。お帰り。朝おいで、へん、一昨日おいでだ！　誰だいいったいお前さんは？」

「誰でもいい。御主人か大番頭に会やあ解るこった。お前は小僧だろう、ただ取次ぎゃいいんだ。」

「馬鹿にしてやがる。お前は小僧だろってやがらあ。へへへのへん、だ。誰が取次ぐもんか。」

小僧しきりに家の中で威張っていると、

「何だ、騒々しい、何だ！」

と番頭でも起きて来た様子。

「あ、大番頭さんだ。」と小僧はたちまち<ruby><rb>閉口</rb><rt>へこ</rt></ruby>んで、「だって、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いとも</span>怪しの野郎が襲って来てここを開けろ、開けなきゃ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どんどん</span>――。」

「やかましい。怪しの野郎とはなんです。お前はあっちへ引っ込んでなさい――はいはい、ええ、どなた様かまた何の御用か存じませぬが、このとおり夜更けでございますから明朝改めて<ruby><rb>御来店</rb><rt>おいで</rt></ruby>を願いたいんで、へい。」

「あんたは大番頭の元七さん――。」

戸外の男の息は喘ぐ。

「へえ、さようでして、あなた様は？」

「いや、今日はわざわざお越し下されて恐れ入りましたわい。で、早速ながら彼の一件物のこってすがの、今晩先方へこれこれこうと話をつけましたが、あんたの前だが儂もえらく骨を折らされましたて。が、まあ、とどの詰り、お申入れの一札を書かせましてな、はい、これこのとおりお<ruby><rb>約言</rb><rt>やくげん</rt></ruby>の<ruby><rb>子</rb><rt>ね</rt></ruby>に持って参じましたから――ま、ちょっとこの戸をお開けなすって。」

「何でございますか手前共にはいっこうお話がわかりませんですが――。」

「え？」

「何の事やら<ruby><rb>皆目</rb><rt>かいもく</rt></ruby>、へい。」

「げ、元七どん、しらばくれちゃいけませんよ。<ruby><rb>老人</rb><rt>としより</rt></ruby>は真にする。冗談は抜きだ。」

「ええ念のため申し上げます。<ruby><rb>当家</rb><rt>こちら</rt></ruby>は生薬の近江屋でござい――。」

「ささ、その近江屋さんから今日の午下りに大番頭の元七さんが見えて――。」

「元七と言えば手前でございますが、お<ruby><rb>店</rb><rt>たな</rt></ruby>に唐から着荷があって、今日は手前、朝から一歩も屋外へは踏み出しませんが。」

「えっ、それでは、あの――。」

「何かのお考え違いではございませんか。」

「あっ！」

と叫んで、男が<ruby><rb>地団太</rb><rt>じだんだ</rt></ruby>踏んだその刹那、程近い<ruby><rb>闇黒</rb><rt>やみ</rt></ruby>の奥から太い声がした。

「元どん、開けてやんな。」

「だ、誰だっ？」

「どなた？」

内と外から番頭と男の声が重なる。

「八丁堀だ。」と出て来た藤吉。「釘抜だよ。元さん、お前が面あ出さずば納まりゃ着くめえ。俺がいるんだ、安心打って、入れてやれってことよ。」

この言葉が終らないうちに、男は何思ったかやにわに逃げ出した。こんなこともあろうかと待ち伏せしていた勘弁勘次、退路を取って抱き竦め、<ruby><rb>忌応</rb><rt>いやおう</rt></ruby>なしに引き戻せば、男は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じたばた</span>暴れながら、

「儂はただ、頼まれただけ、両方に泣きつかれて板挾みになったばかり、苦しい、痛いっ、これさ、何をする！」

「合点長屋の親分さんで？」と中からは元七が戸を引き引き、

「どうもこの節は御浪人衆のお働きが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いっち</span><ruby><rb>強</rb><rt>きつ</rt></ruby>うごわすから、戸を開ける一拍子に、これ町人、身共は尊王の志を立てて資金調達に腐心致す者じゃが、なんてことになっちゃあ<ruby><rb>実</rb><rt>じつ</rt></ruby>もっておたまり<ruby><rb>小法師</rb><rt>こぼし</rt></ruby>もありませんので、つい失礼――さあ、開きました。さ、ま、どうぞこれへ。」

早速の機転で小僧が<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けて出す裸か蝋燭、その光りを<ruby><rb>正面</rb><rt>まとも</rt></ruby>に食って、勘次に押えられた因業家主の大家久兵衛、眼を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぱちくり</span>させて我鳴り出した。

「違う、異う、この元七とは元七が違う！」

「何が何だか手前には解りませんが、私はたしかに近江屋の元七――。」

と言いかける番頭を手で黙らした藤吉は、一歩進んで久兵衛を<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>めつけ、

「応さ、違わなくてか。お前さんとこへ出向いた元七は、寸の伸びた<ruby><rb>顔</rb><rt>そっぽ</rt></ruby>に切れ長の細え眼――。」

「大柄で色の黒い――。」

「それだ、それだ！」

勘次と彦兵衛が<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から合わせる。藤吉はにっこり笑って、

「まあさ、ええやな、それよりゃあ久兵衛さん、その証文てのをお出しなせえ。」

「でも、これと引換えに七百両――。」

「やいやい、まだ眼が覚めねえか。さ、出せと言ったら綺麗に出しな。」

出し渋るところをひったくった藤吉、燈に透かして眺めれば、これは見事なお家流の女文字。

「ええと、」と藤吉は読み上げた。「<ruby><rb>一札入申候証文之事</rb><rt>いっさついれもうしそうろうしょうもんのこと</rt></ruby>、私儀御当家様とは何の縁びきも<ruby><rb>無之</rb><rt>これなく</rt></ruby>、爾今<ruby><rb>門立小唄</rb><rt>かどだちこうた</rt></ruby>その他御迷惑と<ruby><rb>相成可一切事</rb><rt>あいなるべきいっさいのこと</rt></ruby>堅く御遠慮申上候、若し破約に於ては御公儀へ出訴なされ候も夢々お恨申す<ruby><rb>間敷</rb><rt>まじく</rt></ruby>、後日のため覚書の事<ruby><rb>依如件</rb><rt>よってくだんのごとし</rt></ruby>、近江屋さま、つや――とある。ふうん。」

久兵衛は死人のよう。思わず差し出す元七の掌へ藤吉は証文を押しつけて、

「<ruby><rb>穿鑿無用</rb><rt>せんさくむよう</rt></ruby>！　久兵衛さんはこれを届けに来なすったんだ。のう元さん、お前の方じゃあ文句はあるめえ。隠居へよろしく。締りを忘れめえぞ。」

言い捨てて矢のように走り出した。久兵衛を引き立てて勘次彦兵衛がそれに続く。小僧と元七、ぼんやり後を見送っていた。

その日の正午過ぎ、近江屋の大番頭元七と名乗る男が因業御殿を訪れて、狂女お艶へ七百両やるから縁切状を引換えに取ってくれと主人の言葉として伝えたことは、勘次の駈込みに依って逸早くわかっていたが、これで、にわかに色から慾へ鞍がえした久兵衛は、急遽自分で、家作を<ruby><rb>担保</rb><rt>かた</rt></ruby>に五百両の現金を生み出し、夕方立寄ったお艶にその金を握らせて無理に「一札入申候証文之事」を書かせ、ここで二百両撥ねようと約束通り世間を忍んで子の刻に、証文を渡して七百両受け取るべく喜び勇んで近江屋へ来て見るとこの有様。猫婆どころか<ruby><rb>資</rb><rt>もと</rt></ruby>も<ruby><rb>利</rb><rt>こ</rt></ruby>もない。

「これからその敵討ち。」松村町を飛びながら藤吉が呻いた。「久兵衛さん、お前は心掛けがよくねえから、このくれえの<ruby><rb>痛</rb><rt>いた</rt></ruby>事はけえって気つけかもしれねえが、<ruby><rb>当方</rb><rt>こちとら</rt></ruby>あその<ruby><rb>贋元</rb><rt>にせげん</rt></ruby>にちょっと心当りがあろうというもの――。」

「親分、ここだ！」

彦兵衛が立ち停まった。三十間堀へ出ようとする紀の国橋の畔、なるほど、寝呆け稲荷の裏に当って、見る影もない三軒長屋、端の<ruby><rb>流元</rb><rt>ながしもと</rt></ruby>から<ruby><rb>損</rb><rt>こわ</rt></ruby>れ行燈の灯が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちらちら</span>と――。

御用の声が間もなく近隣の<ruby><rb>熟睡</rb><rt>うまい</rt></ruby>を破った。やがて月光の下に引き出された男女二人、男は浪人者の居合抜き<ruby><rb>唐箕嘉</rb><rt>とうみのか</rt></ruby>十<ruby><rb>郎</rb><rt>ろう</rt></ruby>、<ruby><rb>額部</rb><rt>ひたい</rt></ruby>へ受けた十手の傷から血が滴って、これが久兵衛に突き合わされた時、さすがの因業親爺、顫え上って元七に化けた男に相違ござりませぬと証言した。女は嘉十郎妻お高、と言うよりはお茶漬音頭で先刻馴染の狂女お艶、足拵えも厳重に今や二人は高飛びの<ruby><rb>間際</rb><rt>まぎわ</rt></ruby>であった。五百両はそっくりそのまま久兵衛の手に返った。

「お茶漬<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さらさら</span>か。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ても</span>うまく巧んだもんさのう。」

番屋へ揚げてから、藤吉はこう言ってお艶、いや、お高の顔を覗き込んだ。

「ほほほほ、まあ、親分さんのお人の悪い！」

お高は笑った。嘉十郎は苦い顔して黙りこくっていた。

さても長い芝居ではあった。見込まれた近江屋と因業久兵衛の弱り目はさることながら、狂気の真似をし通したお高の<ruby><rb>根気</rb><rt>こんき</rt></ruby>、役者も下座も粒の揃った<ruby><rb>納涼狂言</rb><rt>すずみきょうげん</rt></ruby>、十両からは笠の台が飛ぶと言われたその当時、九カ月あまりに五百両は、もし<ruby><rb>最終</rb><rt>どんじり</rt></ruby>まで漕ぎつけえたら、瘠浪人の書き下し、なにはさて措き、近ごろ見物の大舞台であった。

月は落ちて明けの七つ。

伊達若狭守殿の控邸について、<ruby><rb>帰路</rb><rt>かえり</rt></ruby>を急ぐ親分乾児、早い一番鶏の声が<ruby><rb>軽子河岸</rb><rt>かるこがし</rt></ruby>の朝焼けに吸われて行った。

突然、葬式彦が<ruby><rb>嗄声</rb><rt>かれごえ</rt></ruby><ruby><rb>揚</rb><rt>あ</rt></ruby>げて唄い出した。

「女だてらに

お茶漬け一<ruby><rb>杯</rb><rt>ぺえ</rt></ruby>

浮世さらさら

流そとしたが

お<ruby><rb>尻</rb><rt>けつ</rt></ruby>が割れては

茶漬どころじゃないわいな」

先へ立つ釘抜藤吉、その顔が笑みに崩れた。と、とてつもない勘次の<ruby><rb>銅鑼声</rb><rt>どらごえ</rt></ruby>が彦兵衛に和して、朝の街を揺るがすばかりに響き渡った。

「あれ、よしこの何だえ

お茶漬さらさら」