Soranoha

釘抜藤吉捕物覚書

くぎぬきとうきちとりものおぼえがき

林 不忘

一

「あっ! こ、こいつぁ勘弁ならねえ。」

いの一番に傘を奪られた勘弁勘次、続いて何か叫んだが、咆える風、篠しの突く雨、雲低く轟き渡る雷に消されて、二、三間先を往く藤吉にさえ聞き取れない。が、

「傘あ荷厄介だ。」

こう藤吉が思った瞬間、一陣の渦巻風が下から煽あおって、七分にすぼめて後生大事にしがみついていた藤吉の大奴を、物の見事に漏斗形じょうごがたに逆さに吹き上げた。面倒だから手を離した。傘は苧殻おがらのように背後へ飛んだ。あとから勘次が来ると閃くように気がついた藤吉、足踏み締めて振り返りざま精一杯に喚いた。

「勘! 傘が行くぞっ。危ねえっ!」

「あい来た!」

ひらり引っ外した勘次の頭を掠めて、白魚屋敷の練塀に真一文字、微塵みじんに砕けた傘は、それなりいもりのように貼りついて落ちもしなければ、動きもしない。蒼白い稲妻に照らし出されて刹那に消える家並みの姿、普段見慣れている町だけに、それはげに高熱の幻に浮ぶ水底地獄の絵巻そのまま。

桐油合羽でしっくり提灯を包んだ葬式彦兵衛、滝なす地流れを蹴立てつつ、甚右衛門の導くがままに真福寺橋を渡り切って大富町の通りへ出た。電光いなびかりのたびにちらりと見える甚右衛門の影と、互いに前後に呼び合う声とを頼りに、八丁堀合点長屋を先刻出た藤吉勘次彦兵衛の三人は、風と雨と神鳴りとが三拍子揃って狂う丑満うしみつの夜陰やみを衝いて、いま大富町から本田主膳正御上屋敷の横を、媾曳橋あいびきばしへと急いでいる。

天地の終りもかくやとばかり、もの凄い暴風雨の夜。

はじめ、甚右衛門に随いて戸外へ出た時、親分乾児は一つになって庇い合いながら道路を拾ったのだったが、そのうちまず第一に藤吉と勘次の提灯が吹き消される、傘は持って行かれる、間もなく三人はちりぢりばらばらになって、もう他人のことなぞ構ってはいられない、銘々くの字型に身を屈かがめて、濡れ放題の自暴自棄やぶれかぶれ、いつしか履物もすっ飛んで尻端折りに空臑裸足からすねはだし、勘次は藤吉を、藤吉は彦兵衛を、彦は甚右衛門をと専心前方を往く一際黒い固体かたまりを望んで、吹抜けの河岸っ縁、うっかりすると飛ばされそうになるのを、意地も見得も荒風に這わんばかりの雁行を続けて行くことになったのだ。

真夜中。人通りはない。礫つぶてのような雨が頬を打って、見上げる邸中の大木が梢小枝を揺り動かして絶入るように踠もがくところ、さながら狂女の断末魔――時折、甚右衛門の声が闇黒を裂いて伝わって来る。

葬式とむらい彦は一生懸命、合羽をつぶに引っかけて身軽に扮つくっているとは言うものの、甚右衛門は足が早い。ともすれば見失いそうになる。これにはぐれては嵐を冒おかしてまでわざわざ出張ってきた甲斐がないし、さりとてあまり進み過ぎては後につづく藤吉勘次が目標をなくして道に迷う。つまり、甚右衛門と親分との中間あいだに立って鎖の役を勤めようという、これは昼日中でさえ相当の難事なのに、かてて加えてこの闇くらさ、この吹降り。彦兵衛、同時に前後あとさきに気を使いながら突風に逆らって行くのだが、なかなか容易な業ではない。が、そこはよくしたもので、甚右衛門は絶えず音を立てているから、それを知辺に方向が定められる。また、彦兵衛が少し遅れると、甚右衛門は角かどに立停まって待っていてくれた。実際、弾正橋から白魚橋へ曲ろうとする地形の複雑こみいった場所なぞでは、一度ならず二度三度、甚右衛門は駈け戻って来て、氷のように冷い鼻頭を彦の脚へ擦りつけたり、邪魔になるほど、踏み出す爪先にまつわり立ったりしておいて、再び案内顔に走り抜けたくらい。

甚右衛門は犬である。鋳いかけ屋佐平次の唯一の伴侶とも、利口者として飼主よりも名の高い、甚右衛門は犢こうしのような土佐犬であった。

その犬に先達されて、藤吉部屋の三人、こけつまろびつ御門跡の裏手を今は備中橋へかかった。雨風は募つのる一方、彦兵衛はよほどさきへ行っているとみえて、

「おう――い。」

と呼んでも返事がない。橋の上で藤吉は着物をかなぐり捨てるなり、欲しがる風にくれてやった。元結が切れて、頭髪をばっさり被った勘弁勘次が、泥を掴んで追いついた。

「勘か。」

「おう、親分。」

相方何か言っているらしいが双方ともに聞こえない。とたんにぴかりっ、一時、あたりが白じらと明るくなる。

「お、あすこに彦! 勘、来い。」

「まいりやしょうぜ。」

身体を斜に風の当りを弱めながら小笠原長門守ながとのかみ様前を突っ切ると、次の一廓が松平修理太夫と和気わけ行蔵の二構え、お長屋門の傍から松が一本往来へ枝を張っている。その下に彦兵衛が立ち、彦の足許に、名犬甚右衛門がうずくまっていた。

裸体はだかの親分を見るより早く、彦兵衛は己が合羽を脱いで着せる。序でにいまいましそうに、

「こん畜生め、」と甚右衛門を蹴って「親分、この犬あきの字でさあ。ちっ、目的もなしに吠え立てやがったに違えねえ。真に受けて飛び出して来たわしらこそ好え面の皮だ。機ときもあろうにこの荒ん中を――。」

生樹の悲鳴、建物の響き。地を叩く雨声、空に転がる雷いかずち、耳へ口を寄せても根限り呶鳴らなければ通じない。と、この時、ううと唸ってまたぞろ甚右衛門が走り出した。まるで、大自然のまえに無気力な人間どもを、仕方がねえから今まで待ち合わせてやったものの、さ、顔が揃ったらそろそろ出かけましょうぜ、とでも言いたげに。

「乗りかけた船だ、突き留めねえことにゃあ気がすまねえや。」藤吉は合羽の紐を結びながら、「勘的、われ、先発。」

「あいしょ。」

あれから大川寄り、南飯田町うらは町家つづきだ、寒さ橋の袂から右に切れて、痛いほどの土砂降りを物ともせず、勘弁勘次を頭に釘抜藤吉に葬式彦兵衛、甚右衛門を追って遮二無二に突き進んだ。上柳原へ出ようとする少し手前に、そこだけ河へ食い込んでいるところから俗に張出し代地と呼ばれる埋立があって、奥は秋本荀竜じゅんりゅうの邸になっているが、前はちょっとした丘で雑草の繁るに任せ、岸近くには枝垂しだれ柳が二、三本、上り下りの屋形船やかたとともに、晩霞煙雨ばんかえんうにはそれでもなにやら捨てがたい趣きを添えていたもの。もとより山とは言うべくもないが、高いところなら猫の額でも山という名をつけたがるのが万事よろずに大袈裟な江戸者の癖で、御他聞に洩れず半ば塵埃ごみ捨場のこの小丘も、どうやら見ようによってはそうも見えるというので、一般には木槌山さいづちやまとして通っていた。

ここへ差しかかった土佐犬甚右衛門、背ろの三人を呼ぶように、さてはまた誰かに合図でもするかのように、一声高だかと遠吠えしたかと思うと、木槌の柄を作なして二、三間突き出ている土手の蔭へ走り込んだ。すると、草の間に提灯の灯が動いて、しゃがんでいたらしい人影が、すっくと起ち立った。闇黒に染む濡れた光りの中央に、頤あごから上を照されて奇あやしく隈くま取った佐平次の顔が、赤く小さく浮かび出た。その顔が、掌を口辺へ輪筒わづつにして、けたたましく呼ばわっていた。

「釘抜の衆けえ。ここ、ここ、ここでがすよ。俺あ何です、痺しびれを切らして待ってやしたがね、まま何せかにせ、どえれえ騒ぎ――ようこそお早く――へえ。え? いや、実はね、あっしが甚右を使えに出したんで――お寝入りしなをなんともはや――だが、こりゃあ途方もねえことが起りましたよ。さ、ここです。ちょいとこちらへ――。」

二

八丁堀海老床の露地の奥、気の早い江戸っ児のなかでもいなせを誇る連中が集っている合点長屋、その一棟に朱総しゅぶさを預る名代の岡っ引釘抜藤吉、乾児勘弁勘次に葬式彦兵衛、この三人が今夜の暴風雨を衝いて犬を追い慕って張出し埋地は木槌山まで出向いて来たについては、そこにただならぬ曰くがあるはず。ほかでもない――。

あれで、九つ近かったか、それとも廻っていたか。

御用筋が閑散ひまなのでいつものとおり海老床の梳場すきばで晩くまでとぐろを巻いていた三人が、さすがにもう莫迦話にも飽きが来て巣へ帰ってほどないころ、勘次は親分の床を敷き、彦は何かぶつぶつ口の中で呟きながら表の板戸を閉たてようとしていた時、その彦兵衛の足を掬すくわん許りに突然いきなり一匹の大きな四つ足が飛び込んで来た。見ると、よくこの界隈にもうろついている土佐犬で、飼主の佐平次は毒にも薬にもならない鋳掛け屋渡世の小堅人だが、どうしてどうして犬だけは大したもの、提灯に釣鐘じゃ、いや猫に小判じゃ、などともっぱら評判の甚右衛門だったが、それが、何としたことか土間に立って水気を振い落すと、彦兵衛の顔を見上げて世にも悲しげな声を絞って吠え出したのだった。

驚いて出て来た勘次が、彦兵衛と力を協せて追い出そうとしても、犬は故あるらしくますます鳴くばかり、果ては、口を利けないのがもどかしいのか、濡れ毛を人へ摺りつけておいては二、三歩戸外へ躍り出て、通りの方を白眼にらんで吠えに吠える、また家内へ引き返して来て促すように長なきする。雨の音、風の響きに混って、消えそうにして尾を引く甚右衛門の遠吼えは、この場合、下手な人間の舌以上に雄弁であった。それは、始めは何がなしぼんやりした恐怖、つぎに戦慄に似た不吉な予感、それから、こりゃあこうしちゃあいられねえといったような感じを冷水のように釘抜部屋の三人の背骨へ流し込むことができたからである。鮎肥る梅雨明けの陽気とはいえ、車軸を流さんばかりの豪雨と、今にも屋根を剥がしそうな大風の夜に、いとも哀れに泣き止まぬ犬の声は、犬が賢い名を取っているだけに、いっそう凄惨な余韻よいんを罩こめて、いかさま人の死にそうな晩だ、この濃い黒闇々あんあんの底にどれだけ多くのたましいがさ迷っていることか――あらぬことまで思わせるのだった。

が、犬は要するに犬である。その吠えるのはつまり勝手に吠えるのである。勘次が甚右衛門を抱いて抛ほうり出した後は三人安らかに夢路につこうとした。

「甚右衛門犬、戸惑いしやあがって、いい世話あ焼かせやがったの。」

釘抜は蒲団から手を延ばして煙草を吸いつけながら、こんなことを言って笑っていた。が、その言葉の終らないうちに、何者か割れそうに雨戸の根にぶつかる音がした。つづいて咬みつくような甚右衛門の声がした。それが家の周囲を駈け廻って火のつくように吼え立てたのだから、義理にも真似にも小鬢が枕についてはいない。かっとした勘次が薪雑棒まきざっぽうを引っ掴んで飛び出そうとすると、藤吉はそれを押し止めて、起きてゆっくり帯を締め直した。そして彦兵衛に戸を開けさせたが、猛り狂った甚右衛門は、血を吐くような鳴声を揚げて、からくり仕掛みたいに格子の敷居を境いに、跳び込んだり躍り出たり、眼に哀訴嘆願の色を見せて戸外へ人を誘おうとする。もはや一刻も猶予はならないと、藤吉は尻をからげた。

「おっ、野郎ども、仕度しろ。」

「え? お出ましでごぜえますか。」

「うん。」

「どちらへ。」

「はて、そいつあ甚右衛門に訊いてくんねえ。」

「だが親分、高が犬ころが逆上あがってるだけ、それにこの大暴風雨、悪いこたあ申しませんぜ、お止めなすっちゃいかがですい。」

「こう、乙に理解りけえをつけやがったのう。俺らあな、虫の報せがあるんだ。あらしがなんでえ、何で、なあんでえ! へん、紙子細工や張子はりこの虎じゃあるめえし、べら棒め、濡れて落ちるよな箔じゃあねえや。柄にもねえ分別するねえ。」

親分藤吉一流の手だ、こう真正面まともにどやしつけられては、江戸っ子の手前勘次と彦兵衛、即座に仏頂面ぶっちょうづらを忘れて、勇みに勇んで駈け出さざるを得ない。彦の合羽の裾を銜くわえて、甚右衛門が先に立った。

しかし、いざ出て来てみると藤吉も内心ちょっと後悔した。思った以上の嵐である。それに、何を言うにも相手は犬のこと、当てが外れても文句の持って行きどころがない。と言って、今さら帰るわけにはなおさら往かない。釘抜藤吉、無理にも最初はなの見得けんとくを守り立てて、乾児を励ましてここまで来た木槌山。牛に引かれて善光寺詣り、ではない、犬にひかれて目明し奉公、果してそこに、しかも釘抜自身の繩張り内に、恐ろしい凶事が潜んでいたのである。

小谷間こたにあいの、いささか風雨を避けた地点ところに、白髪頭を土に滅めり込まして、草加屋伊兵衛の血だらけの屍骸むくろが、仰向けに倒れていた。甚右衛門の飼主鋳かけ屋佐平次が弱気らしい顔を蒼くして怖さにわなわな顫えながら、それでも固く、甚右衛門が八丁堀を起して来ることを信じて、張番していてくれた。藤吉は乾児を従えて、雨に重い草を分けた。

「甚右が発見めっけて、甚右が親分を呼びに行ったのでございます。賞めてやって下せえまし。なあ、甚公――。」

傍の甚右衛門を顧みて、得意そうに佐平次が言った。藤吉は黙ったまま、彦兵衛の手から提灯を引ったくり、いつものとおり手紙でも読むように、眼を細くして足許の死人を覗き込んだ。

無言。ひとしきり雷鳴。灌木の繁みや草の葉から、大粒な水玉が音を立てて霰と散る。藤吉は寝呆けたような顔を上げた。

「佐平次どん――てったけのう、お前さんは。」

「へえ佐平次でございます、鋳掛屋の佐平次でございますへえ。」

「犬が見つけたてなあどういうわけですい。」

「へえ。あっしがこの犬を伴れてこの前面まえの往来を通りかかりますてえと――。」

藤吉はつと手を振って佐平次を黙らせた。

「俺たちが来るまでお前このわたりに何一つ手をつけやしめえの。」

佐平次は頷首いた。屍体の上へ馬乗りに股がって、藤吉は灯を近づける。

草加屋伊兵衛は胸に一本の折矢を立てて、板のように硬張こわばって死んでいた。傷は一つ、左襟下を貫いているその太短い矢だけだが、夥しい血が雨合羽の上半身と辺りの土や草を染めて、深く心の臓へ徹っていることを語っていた。香いを利くように藤吉が顔を寄せて、矢と傷痕を白眼にらんでいると、佐平次は話を続ける。勘次と彦兵衛、右大臣左大臣のように左右に分れて、静かに仏ほとけを見守っていた。

「金春こんぱる屋敷の知人しりええんとこで話が持てましてね、あっしが甚右を連れて此町ここを通ったのは四つ過ぎてましたよ。このお山の向っ側まで来るてえと、甚右のやつ、きゃんと鳴いてここへ飛び込んだきり、呼んでも賺すかしても出て来ねえんで――いつにねえこったが変だなあ、と不審ぶって来て見るてえと、この状ざまじゃごわせんか。いや、親分さんの前だがあっしも仰天びっくり敗亡はいぼうしやしてね、係合いにされちゃあ始まらねえから――。」

「お前さん、店は?」

「へえ、この先、明石町の宗十郎店でございます、へえ。――それでその、係合いになっちゃあつまらねえから、不実なようだが見て見ねえふりをすべえ、とあっしゃあこう考えたんでやすが、甚公の野郎が承服しません。どうあってもこの場を動かねえんで――で、あっしも観念しやしてね、甚公は八丁堀によくお邪魔に上って可愛がられているようでございますかち、親分さんをお迎え申して来い、とまあ言い含めて出してやった次第わけなんで――お騒がせして、相済みません、へえ。」

「なんの。よく報しらせて下すった。」

「親分。」

佐平次がきっとなった。藤吉は顔を振り向ける。

「思いきって申し上げますが、」と佐平次は少し逡巡ためらって、「あっしが駈けつけた時あまだ息の根が通ってましてね、灯を差し向けると一言はっきり口走りましたよ。」

「おお、な、何と、何と言ったえ。」

「へえ。俺にゃあわかってる、と口早にね、それだけは聞こえましたが――。」

「なに? 俺にゃあわかってる?」

「へえ。俺にゃあわかってる――して親分、ああして手で何か指さしながらがっくりなりましたよ。あああ、嫌な物を見ちまいました。」

なるほど、死人が草の上に延ばした右手人差指の先、そこに畳み提灯がぶらのまんま抛り出されて、筆太に八百駒やおこまと読める。

三

「弓を射たたあ親分、大時代な殺しでごぜえすの。」

勘次が口を出した。が、藤吉は答えもしないで、

「矢が、これ、折れてやがる。中ほどからぽっきり――はてな。」と独語ひとりごちながら、その矢をぐいと引抜いた。わりに短い。と見ていると、矢羽の下に、勧進撚かんじんよりが結んである。濡れて破けそうなのを丹念に解いて、拡げた。案の定、矢文である。天誅と二字、達者な手だ。

「弓矢と言い、この文句といい、素町人じゃあねえな。」

親分の肩越しに葬式彦が首を捻った。

「あいさ、いっそ難物だあね。」

同ずる勘次。藤吉、しきりに髷をがくつかせていた。

鬼草おにそうというのが、今宵人手にかかって非業ひごうの死を遂げた草加屋伊兵衛の綽名だった。鬼というくらいだから、その稼業しょうばいも人柄もおよそは推量がつこうというもの。草加屋は実に非道を極めた、貧乏人泣かせの高息の金貸しであった。二両三両、五両十両といたるところへ親切ごかしに貸しつけておいては、割高の利息を貪むさぼる。これが草加屋の遣口やりくちだった。貸す時の地蔵顔に取り立てる時の閻魔面、一朱一分でも草加屋に廻してもらったが最後、働き人なら爪を擦り切らしても追いつかないし、商人あきんどは夜逃げかぶらんこがとどの結着つまり。まったく、鬼草に痛めつけられている借人は、この界隈だけでも生易しい数ではない、と言う人の噂。

「血も涙もねえ獣でさあ。あっしゃあいつか人助けのためにあの野郎を叩っ殺してやるんだ。いい功徳になるぜ。」

「あん畜生、生かしちゃおけねえ。」

「鬼の眼にも泪と申す。草加屋伊兵衛は鬼でもないわ。豚じゃ、豚じゃ、山吹色の豚じゃ。己れ、そのうち、伝家一刀の錆にしてくれる。」

「月のねえ夜もありやす。一つ器用にさばきやしょう。」

痩浪人、遊人、そんじょそこらの長屋の衆、口ぐちにささやき合うのが、早くから釘抜連の耳にもはいっていた。だから、もっともらしく顰しかめた伊兵衛の死顔を見た時、藤吉は、ははあ、とうとう誰かがやったな、という頭がぴいんと来て、格別おどろかなかったわけである。しかし、考えに止まっているうちはともかく、眼と鼻の間でこう鮮かに手を下されてみると、仮りに仏の生前がどうあろうと、また事の起りは一種の公憤にしろ、藤吉の務めはお上向きに対しても自から別な活動はたらきを示さなければならなくなる。ところで、草加屋殺しの探索は、やさしいようでむずかしい。藤吉は考える。

何事もそうだが、すべて人殺しには因由いわれに意こころが見えるものだ。殺さなければならないほどの強いつよい悪因縁、これを籠こめる犯人ほしのこころもち、これにぶつかれば謎はもう半ば以上解けたも同じことである。この人殺しのこころを藤吉は常から五つに分けていた。国事おおやけに関する暗撃果合いや、新刀あらもの試し辻斬の類を除ぬかした土民人情の縺れから来る兇行の因に五つある。物盗ものとり、恐怖、貪慾、嫉妬やきもち、それから意趣返しと。伊兵衛の場合はあきらかに物盗ではない。現にぎっしり詰った鬱金うこん木綿の財布の紐を首から下げて死んでいるのでも目的あてが鳥目ちょうもくでないことは知れる。恐怖というのは途端場どたんばでの命のやり取りをさすものだが、伊兵衛を誰が襲ったとも考えられない。嫉妬と言ったところで、これには髱たぼがなければ話にもならない。しからば貪慾か、というに、これはその人を亡くすることによって利を獲るとの義だが、草加屋伊兵衛は独身を通した一酷な老爺、後継あととりはもとより親戚みより縁辺よるべもない。いや、たった一人、あるにはある。甥が槍屋町に住んで八百駒という青物担売かつぎうりを営んでいるが、これとても出入りはおろか節季紋日の挨拶さえなかったらしい。とはいえ、そこにある八百駒と字の入った小田原提灯が、今となっては藤吉いささか気にならないでもないが――まず、なんと言っても踏外しのないところが、第五の意趣返しであろう。そうだ、意趣返しに相違ない、と一旦は景気づいてもみるが、つぎの刹那、藤吉はまた手の着け場所のない無明むみょうの闇黒やみに堕ちるのだった。

今日は六月末日、年の半期である。伊兵衛め、例によって元利耳を揃えろの、せめて利息だけは入れろの、さもなければ証文の書換えじゃのと、さんざ一日いじめ抜いて歩き廻ったことだろうが、してみるとこれは、そのいじめられた一人の仕業と決めてかかったところで、ここで困ることには、独り者の伊兵衛、普段から商売向きには人の手を借りたこともなければ藉したやつもないから、どこどこに貸金かしがあって証文がどうなっているのか、今日はどっちを廻ったのか、肝心の本人がこうなっているとそこいらのことが一切わからない。ことに、異志を挾んでいた者が浜の真砂のそれならなくに目当ばかりたくさんあって星のなかからほしを指せというのと同一轍、洒落にはなろうが、さて骨だ。夜更けて帰宅かえる金貸し老爺、何しに町筋を外れて木槌山のかげへ立寄ったろう? ほかで射殺してここへ運んだものか。それにしては提灯などが落ちているのが呑み込めない。それよりも、呑み込めないと言えば、そもそも何のために古めかしい飛道具なぞを持ち出したものか。それに、矢は二つに折れている。のみならず矢文の文字の天誅、これをそのまま受け入れていいか――。

抜いた矢を右手めてに、傷口を検めていた釘抜藤吉、つぎに、七転八倒を思わせる伊兵衛の死相を凝視みつめながら、何思ったか急にからから笑い出した。甚右衛門がぎょっとして唸ったほど、折が折だけ、それは不気味な笑いであった。

「親分、臭えぜ。これ。」

勘次と二人で先刻から草を分けていた彦兵衛が、こう言って高下駄を拾って来た。安物のせんの木の台、小倉の緒、麗々しく八百駒と焼印してある。藤吉はじっと見ていたが、やがて誰にともなく、

「紛失物なくなりもんはねえかな――こう、なくなり物はよう――。」

勘次が答える。

「爺あよく杖をついて歩いてるのを見かけやしたが――。」

「そうそう、」佐平次が応じた。「あの鬼草の金棒は曲木まがりぎの杖、評判でさあ。知らねえ者あございません。そう言えばあれが見えませんね。」

話声を背後うしろに聞いて、藤吉は四、五間離れた河岸、しだれ柳の下へ出た。彦兵衛が追って来て、耳近く囁く。

「天誅とは大上段、やっぱり、武士りゃんこてえお見込みで?」

「まあ、そこいらよなあ。」

藤吉は微笑んだ。が、眼だけは笑いに加わらなかった。笑わないどころか、眈々たんたんとしてあたりを睨ねめ廻していた。

柳の根方に草が折れ敷いて、地に丸く跡を見せている――いかにも人が腰を下ろしていたような、と、その手前の土には、待つ間の徒然すさびに手だけが動いて、知らず識らず同じ個処を何度も掻いたような三角の図形えがた。そこからは丘の裾を越しておもての通りも窺われる。雨に首垂れた鬼百合の花が、さもここだけを所得顔に一面に咲き乱れていた。

「彦、この百合を一つ残らず引っ捩ちぎって河へ叩っ込め。」

藤吉、変なことを言う。彦はぽかんとして藤吉の顔を見た。

「えこう、早くしろ!」厳命だ。不審いぶかしみながらも彦兵衛、嫌応はない、百合を折っては河へ捨てた。

黒い水に白い大輪が浮んで、つぎつぎに流れて行った。

百合の花がすっかりなくなったころ、勘次と佐平次がやって来た。甚右衛門は柳の下の尻跡を嗅いでは漂々と遠吼えしている。人間四人、それを囲んで期せずしてだんまり。

「親分。」佐平次が沈黙しじまを破った。「この犬あ今夜癇が高えようです。一つ、犯人ほしの跡を尾けさせてみようじゃございませんか。もっとも畜類のこと、当るも当らねえも感次第でやすがね。」

「うむ。面白かんべ。そこの根っこあ誰かが据わって草加屋を待伏せしたとこ、とまあ、俺あ踏みてえんだが――嗅がせろ。」

佐平次が甚右衛門の首を掴んで、その地点へ鼻を擦りつけると、犬は万事承知して歩き出した。四人それに続いて山を出た。往来へ来ると、大声に藤吉が言った。

「彦、わりゃあ八百駒を白眼にらんで来い。勘、手前はな、番所叩たてえて人数を貰え、仏の始末だ。俺か、おいらあ甚右様々の供奴。宜えか、二人とも御苦労だが頼んだぜ。うん、落合う所か――こうっと、待てよ。」

「手前のお邸、へへへへ、たいしたお屋敷で。九尺二間、ついそこです。明石町橋詰の宗十郎店、へえ。」

「そうか。そいつあ済まねえのう。なにも御難と諦めてくんな。じゃ、借りるぜ――おうっ、勘、彦、用が済んだら佐平次どん方へ――待ってるぜ。彦、如才じょさいあるめえが八百駒あやんわりな。」

言うあいだにも遠ざかる親分乾児、裸体の二人は東西へ、藤吉佐平次は犬を追って、暴風雨のなかを三手に別れた。

四

御軍艦操練所に寄った肴店さかなだなのとある露地、一軒の前まで来ると、甚右衛門は動かない。佐平次は顔色を変えた。藤吉が訊く。

「だれの住居ですい?」

「お心易く願っている御浪人で、へえ、なんでも以前はお旗下の御家来だとか――こわあい方で、いや、こりゃあ大変なことになりましたわい。」

「名は?」

「御家新ごけしん。逸見へんみ流の弓の名人だそうで、へえ。」

「なに、弓の名人? 御家新? ふうむ、やるな。」

藤吉は壺を伏せる手つきをした。うなずく佐平次を、甚右衛門とともに先へ帰らせておいて、藤吉、戸を叩いて案内を求めた。二間きりらしい荒れ果てた家、すぐに御家人くずれの博奕ばくちこき、あぶれ者の御家新が起きて来た。やたらに天誅ぐらいやりかねないような、いかさま未だ侍の角が落ち切れないところが見える。藤吉は気を配った。

「誰だ、なんだ今ごろ。」

気さくに開けたが、御用提灯を見ると、固くなった。藤吉はさっそく下手に出て、まず宵から今までの動きを訊いてみたが、御家新、口唇を白くして語らない。

いよいよ怪しい――弓一筋の家からぐれ出た小悪人、そう言えば矢文の筆つきも武張っていた。藤吉、抜いた時の要心をしながら、なおも一つ問を重ねて行った。すると御家新、苦しくなってか、こう申し立てた。

「今夜は友達の家へ行っていま帰ったところ、その友達は鋳かけ屋で、明石あかし町宗十郎店に住む佐平次という者だが、何の用でそんなことを訊くのだ。」

見え透いた虚言うそ、藤吉はにっこりした。そしてなれなれしく、一本ずいと突っ込んだ。

「弓がおありかね?」

御家新はまた黙り込んだ。一筋繩ではいかない、こう観念した藤吉、驚いている御家新を残して、急ぎ帰路についた。

でたらめを吐いた以上、明朝と言わず今すぐに佐平次方へ口を合してくれと頼みに出かけるであろう、と思った藤吉、途中みちみちうしろを振り返って行くと、明石町の手前、さむさ橋の際へ来た時、はたして後に、御家新の姿が見えた。と、闇黒の奥で弦音つるおと、とたんに矢風、藤吉とっさに泥に寝た。間一髪、矢は傍の小石を散らしてかちりと鳴る。呼吸を潜めた藤吉の前へ、首尾を案じて男の影が、弓を片手に現れた。充分仕留めたつもりらしい、頭上立って、今や止めを刺そうとする。白刃一閃、そこを藤吉、足を上げて蹴る、起きる、暗いから所在ありかもよくは解らないが、猛然と跳りかかったら、運よく確しかと抱きついた。と思ったも束の間、敵もさる者、声も立てず顔の形にも触らせずにするりと振り切る。倒れながらも藤吉袖口を握った。走り出す男。小兵の藤吉、橇そりのように引きずられた。が、指のかかりが抜けて、闇黒から出た男は一目算に闇黒へ消えた。泥にまみれた藤吉、伊兵衛を殺したのと同じ拵えの太短い矢を拾っては、今さらのように身顫いを禁じ得なかった。

「彼男あれだ、俺にゃあもうわかってる!」

会心の笑みが、泥だらけの藤吉の顔を綻ばせた。

五

「や、親分、どうしましたえ。」

佐平次が飛んで出た。

「転んだ。白痴こけの一人相撲。面目ねえ。」

鉄瓶の湯がちんちん沸いて、佐平次の心尽し、座蒲団が三つ並んでいた。洗足すすぎをとった藤吉、気易に上り込んだ。宗十郎店は佐平次の住居。勘次彦兵衛はまだ来ていない。

「どうでした、御家新おそれいりましたか。」

「口を開かねえ。が、俺らにゃもうわかってる。」

「さいでございましょうとも。」

言っているところへ勘次が帰って、屍骸は番屋へ引き取らせたと復命した。間もなく彦も顔を見せたが、これはえらく意気込んでいた。

「八百駒あ他行だったが――。」

「他行?」藤吉が聞き咎めた。「この荒れの夜中にか。」

「あい。それで土間を覗くてえと、親分、驚いたね、草加屋の杖がころがってた。」

「ふうむ。」

「どうもこりゃあ八百駒の仕事に違えねえ。同勢四人、揃えて乗り込んで待ちやしょうか。」

「まあ、待て。」

「だが、逃ずらかる。」

「なあに、ずらかりゃしねえ。」

「はははは。」佐平次が笑い出した。「彦さん、犯人は先刻こっちへ割れてますよ。ねえ親分。」

「え? ほんとでげすか。」

「勘弁ならねえ。」

勘と彦とが同時に藤吉を見詰める。

「嘘をつくけえ!」藤吉は嘯うそぶいた。

「逸見流弓術の名人、御家新。甚右衛門が嗅ぎ当てました。」と佐平次。

「そのことよ。」と藤吉しばらく瞑目していたが、「佐平次どん、筆を三本、紙が三枚、何でもいい、あったら出して筆にたっぷり墨を含ませて、銘々に筆と紙を渡してやんな。お前さんも筆を取って。」

三人、膝に紙を伸べて、筆を持って、不思議そうに控えた。藤吉は手枕、横になっている。

「さ、みんな俺らの言うことを書くんだぞ。」

「勘弁ならねえが、」と勘弁勘次、「こちとら無筆だ。」

「勘、黙ってろ。」

「へえ。」筆の穂を舐めて三人は待っている。ところが藤吉、ぐうともすうとも言わない。いや、そのうちぐうすう言い出した。高鼾たかいびきである。

三人が三人とも、やがて持てあます退屈。

とうとう彦が、我慢し切れずに声を掛けた。

「親分え、もし、親分え。」

勘次も和した。

「御家新とやらを押せえに出張でばろうじゃごわせんか。」

大欠伸おおあくびと一緒に身を起した藤吉、仮寝うたたねしていたにしては、眼の光が強過ぎた。胡坐あぐらを揺るがせながら、縷々るるとして始める。

「矢文の天誅は欺まやかしだ。なあ、真正の犯人がなんでわざわざ己が字を残すもんけえ。土台、あの矢が弓で射たもんなら、ああ着物を破いちゃあ身へ届くわけがねえ。それに、弓ならあんなに汚なく血が出やしねえや。顔そっぽだって、もちっと綺麗に、歪ゆがんじゃいねえはず。ありゃあお前、弓矢じゃねえぜ、うんにゃ、矢は矢だが、背後から抱きすくめて手でこじりこせえたもんだ。その証拠を言おうか。仰向おうのけの胸に直に立った矢が、見事二つに折れてたじゃあねえか。手で無理をしねえかぎり、矢が折れるってえ道あねえ。」

「しかし親分、」と彦兵衛、「その御家新は逸見流の――。」

「逸見流の矢は、もそっと長え。」藤吉は眼を閉つぶったまま、「関の六蔵一安かずやす三十三間堂射抜の矢、あれだ。いやに太短えもんなあ。」

「へえい! するてえと?」

「往来で殺やってあそこへ引いてった。すりゃこそ、提灯も履物も八百駒の物ばかりで、草加屋のは一つもねえ。」

「その理は?」

「決ってらあな。伊兵衛は八百駒へ行ってて先で嵐あれになって借りて来たんだ。杖は荷になると見て預けて出た――どうでえ。」藤吉は続ける。「人間にゃあ変ひょんな気性があっての、三つ四つから物を画く。形にならねえ物をかく。三つ児の魂百までだ、それが抜けねえ。ええか、もっとも十人十色、形あ違う。が、なくて七癖あって四十八癖、ぼんやりしてる時あお互えによく為体の知れねえ図面や模様を塗たくるものよ。のう、先刻からお前たちに筆を預けて、俺らあ寝た風ふりをしてたが、勘、われあ何を書けえた?」

「蚯蚓みみずの行列、はっはっは、だらしがねえや。」

「彦は?」

「屑っ籠の目でがしょう、自身にもはっきりしやせん。」

「佐平次どん、お前さんは?」

佐平次、丸めて捨てようとした。逸早く藤吉が奪った。見ると、墨黒ぐろと三角の形!

「木槌山の柳の下に、矢尻で掘ったこの印しがあったけのう。」

「それがどうとかしましたかえ。」

「や!」藤吉は佐平次の裾を指さした。赤い染点しみが付いている。「そりゃあ何だ、そりゃあ?」

「これか、」がらり巽上たつみあがりに変った佐平次、「血じゃあねえから心配するな。」

「血じゃあねえと? おう、血なら水に落ちべえさ。」

「見てろ。宜しか。」

水差の水を染点へ垂らして、佐平次、手で揉んだ。落ちない。

「見やあがれ、血じゃあねえや。」

「ほう、何だ?」

「百合だ、百合の蕊しべだ。」

「なるほど、百合の蕊なら洗ってもおちめえ。が、その百合あどこでつけた?」

「爺つぁん、耄碌もうろくしっこなしにしようぜ。木槌山の柳の下に、五万何ぼも咲せえてたじゃねえか。嫌だぜ、おい。」

「うん。そうか。だがの、百合あお前が来る前に、彦がそっくり河へ捨てたはずだ。そいつをお前、どうして知ってる?」

「――――」

眼配せ。勘が背へ廻る。彦兵衛は上框あがりがまちに立った。

「やい、何とか音ねえ出せ。」

「――――」

佐平次の手が鉄瓶を探る。が、彦がとっくに下ろしてある。

「佐平次っ!」藤吉の拳、佐平次の鬢びんに飛んだ。「眼が覚めたか、どうだっ!」

「御用!」

一声、勘次はどっかと佐平次を組み敷いていた。

押入れを捜すと、さっき藤吉を襲った弓矢が出て来た。それが佐平次の口を開いた。

浅草奥山の揚弓場女に迷った末、佐平次が伊兵衛の高息の金に苦しんでいると、女に情夫のあることが知れた。探ってみると、それが賭場で顔見知りの御家新なので、一石二鳥と出かけて今夜草加屋殺しを演じ、犬を使って疑いの矢を恋仇敵がたきへ向けようとしたのだった。伊兵衛が死際に何か言ったというのも、その指先の地へ八百駒の提灯を置いておいたのも、すべて彼の、事を入り組ませようとした肚にほかならない。犬を尾けるどころか、自分が犬を動かして御家新の家まで行ったのだが、なんとなくあぶなく思って、人もあろうに釘抜藤吉を亡き者にしようとし、そして、すぐに帰って何食わぬ顔をしていた。

引き立てられて、佐平次が腰を上げると、土間にいた甚右衛門、泣くような瞳で主人を凝視みつめた。この時、表戸がほとほと鳴って、声がした。藤吉あわてて佐平次の口を押さえた。

「おうっ、鋳かけ屋、いるか。俺だ、新だ。手慰てあそびも危ねえぜ。今し方すかねえのが来てな、どこへ行ったと言うのだ。場へ手がはいっちゃあやりきれねえから、お前んとこにいたと言っといたぞ。うまく合わしてくれ。」

家内では三人、首引っ込めて舌を出す。彦が答えた。

「あいよ、合点。」

底本 / Source edition

底本:「一人三人全集1[#「1」はローマ数字、1-13-21]時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」河出書房新社
1970(昭和45)年1月15日初版発行
入力:川山隆
校正:松永正敏
2008年5月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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林 不忘「釘抜藤吉捕物覚書──08 無明の夜」(新字新仮名)、底本『一人三人全集Ⅰ時代捕物釘抜藤吉捕物覚書』河出書房新社、1970年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 048047_000290, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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