一

「あっ！　こ、こいつぁ勘弁ならねえ。」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">い</span>の一番に傘を奪られた勘弁勘次、続いて何か叫んだが、咆える風、<ruby><rb>篠</rb><rt>しの</rt></ruby>突く雨、雲低く轟き渡る雷に消されて、二、三間先を往く藤吉にさえ聞き取れない。が、

「傘あ荷厄介だ。」

こう藤吉が思った瞬間、一陣の渦巻風が下から<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>って、七分にすぼめて後生大事にしがみついていた藤吉の大奴を、物の見事に<ruby><rb>漏斗形</rb><rt>じょうごがた</rt></ruby>に逆さに吹き上げた。面倒だから手を離した。傘は<ruby><rb>苧殻</rb><rt>おがら</rt></ruby>のように背後へ飛んだ。あとから勘次が来ると閃くように気がついた藤吉、足踏み締めて振り返りざま精一杯に喚いた。

「勘！　傘が行くぞっ。危ねえっ！」

「あい来た！」

ひらり引っ外した勘次の頭を掠めて、白魚屋敷の練塀に真一文字、<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>に砕けた傘は、それなりいもりのように貼りついて落ちもしなければ、動きもしない。蒼白い稲妻に照らし出されて刹那に消える家並みの姿、普段見慣れている町だけに、それはげに高熱の幻に浮ぶ水底地獄の絵巻そのまま。

桐油合羽で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しっくり</span>提灯を包んだ葬式彦兵衛、滝なす地流れを蹴立てつつ、甚右衛門の導くがままに真福寺橋を渡り切って大富町の通りへ出た。<ruby><rb>電光</rb><rt>いなびかり</rt></ruby>のたびに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちらり</span>と見える甚右衛門の影と、互いに前後に呼び合う声とを頼りに、八丁堀合点長屋を先刻出た藤吉勘次彦兵衛の三人は、風と雨と神鳴りとが三拍子揃って狂う<ruby><rb>丑満</rb><rt>うしみつ</rt></ruby>の<ruby><rb>夜陰</rb><rt>やみ</rt></ruby>を衝いて、いま大富町から本田主膳正御上屋敷の横を、<ruby><rb>媾曳橋</rb><rt>あいびきばし</rt></ruby>へと急いでいる。

天地の終りもかくやとばかり、もの凄い暴風雨の夜。

はじめ、甚右衛門に随いて戸外へ出た時、親分乾児は一つになって庇い合いながら道路を拾ったのだったが、そのうちまず第一に藤吉と勘次の提灯が吹き消される、傘は持って行かれる、間もなく三人はちりぢりばらばらになって、もう他人のことなぞ構ってはいられない、銘々<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">く</span>の字型に身を<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>めて、濡れ放題の<ruby><rb>自暴自棄</rb><rt>やぶれかぶれ</rt></ruby>、いつしか履物も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すっ</span>飛んで尻端折りに<ruby><rb>空臑裸足</rb><rt>からすねはだし</rt></ruby>、勘次は藤吉を、藤吉は彦兵衛を、彦は甚右衛門をと専心前方を往く一際黒い<ruby><rb>固体</rb><rt>かたまり</rt></ruby>を望んで、吹抜けの河岸っ縁、うっかりすると飛ばされそうになるのを、意地も見得も荒風に這わんばかりの雁行を続けて行くことになったのだ。

真夜中。人通りはない。<ruby><rb>礫</rb><rt>つぶて</rt></ruby>のような雨が頬を打って、見上げる邸中の大木が梢小枝を揺り動かして絶入るように<ruby><rb>踠</rb><rt>もが</rt></ruby>くところ、さながら狂女の断末魔――時折、甚右衛門の声が闇黒を裂いて伝わって来る。

<ruby><rb>葬式</rb><rt>とむらい</rt></ruby>彦は一生懸命、合羽を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぶ</span>に引っかけて身軽に<ruby><rb>扮</rb><rt>つく</rt></ruby>っているとは言うものの、甚右衛門は足が早い。ともすれば見失いそうになる。これに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はぐ</span>れては嵐を<ruby><rb>冒</rb><rt>おか</rt></ruby>してまでわざわざ出張ってきた甲斐がないし、さりとてあまり進み過ぎては後につづく藤吉勘次が目標をなくして道に迷う。つまり、甚右衛門と親分との<ruby><rb>中間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>に立って鎖の役を勤めようという、これは昼日中でさえ相当の難事なのに、かてて加えてこの<ruby><rb>闇</rb><rt>くら</rt></ruby>さ、この吹降り。彦兵衛、同時に<ruby><rb>前後</rb><rt>あとさき</rt></ruby>に気を使いながら突風に逆らって行くのだが、なかなか容易な業ではない。が、そこはよくしたもので、甚右衛門は絶えず音を立てているから、それを知辺に方向が定められる。また、彦兵衛が少し遅れると、甚右衛門は角かどに立停まって待っていてくれた。実際、弾正橋から白魚橋へ曲ろうとする地形の<ruby><rb>複雑</rb><rt>こみい</rt></ruby>った場所なぞでは、一度ならず二度三度、甚右衛門は駈け戻って来て、氷のように冷い鼻頭を彦の脚へ擦りつけたり、邪魔になるほど、踏み出す爪先にまつわり立ったりしておいて、再び案内顔に走り抜けたくらい。

甚右衛門は犬である。<ruby><rb>鋳</rb><rt>い</rt></ruby>かけ屋佐平次の唯一の<ruby><rb>伴侶</rb><rt>とも</rt></ruby>、利口者として飼主よりも名の高い、甚右衛門は<ruby><rb>犢</rb><rt>こうし</rt></ruby>のような土佐犬であった。

その犬に先達されて、藤吉部屋の三人、こけつまろびつ御門跡の裏手を今は備中橋へかかった。雨風は<ruby><rb>募</rb><rt>つの</rt></ruby>る一方、彦兵衛はよほどさきへ行っているとみえて、

「おう――い。」

と呼んでも返事がない。橋の上で藤吉は着物をかなぐり捨てるなり、欲しがる風にくれてやった。元結が切れて、頭髪を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばっさり</span>被った勘弁勘次が、泥を掴んで追いついた。

「勘か。」

「おう、親分。」

相方何か言っているらしいが双方ともに聞こえない。とたんに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぴかり</span>っ、一時、あたりが白じらと明るくなる。

「お、あすこに彦！　勘、来い。」

「まいりやしょうぜ。」

身体を斜に風の当りを弱めながら小笠原<ruby><rb>長門守</rb><rt>ながとのかみ</rt></ruby>様前を突っ切ると、次の一廓が松平修理太夫と<ruby><rb>和気</rb><rt>わけ</rt></ruby>行蔵の二構え、お長屋門の傍から松が一本往来へ枝を張っている。その下に彦兵衛が立ち、彦の足許に、名犬甚右衛門がうずくまっていた。

<ruby><rb>裸体</rb><rt>はだか</rt></ruby>の親分を見るより早く、彦兵衛は己が合羽を脱いで着せる。序でにいまいましそうに、

「こん畜生め、」と甚右衛門を蹴って「親分、この犬あ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">き</span>の字でさあ。ちっ、目的もなしに吠え立てやがったに違えねえ。真に受けて飛び出して来たわしらこそ好え面の皮だ。<ruby><rb>機</rb><rt>とき</rt></ruby>もあろうにこの荒ん中を――。」

生樹の悲鳴、建物の響き。地を叩く雨声、空に転がる<ruby><rb>雷</rb><rt>いかずち</rt></ruby>、耳へ口を寄せても根限り呶鳴らなければ通じない。と、この時、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うう</span>と唸ってまたぞろ甚右衛門が走り出した。まるで、大自然のまえに無気力な人間どもを、仕方がねえから今まで待ち合わせてやったものの、さ、顔が揃ったらそろそろ出かけましょうぜ、とでも言いたげに。

「乗りかけた船だ、突き留めねえことにゃあ気がすまねえや。」藤吉は合羽の紐を結びながら、「勘的、われ、先発。」

「あいしょ。」

あれから大川寄り、南飯田町うらは町家つづきだ、寒さ橋の袂から右に切れて、痛いほどの土砂降りを物ともせず、勘弁勘次を頭に釘抜藤吉に葬式彦兵衛、甚右衛門を追って遮二無二に突き進んだ。上柳原へ出ようとする少し手前に、そこだけ河へ食い込んでいるところから俗に張出し代地と呼ばれる埋立があって、奥は秋本<ruby><rb>荀竜</rb><rt>じゅんりゅう</rt></ruby>の邸になっているが、前はちょっとした丘で雑草の繁るに任せ、岸近くには<ruby><rb>枝垂</rb><rt>しだ</rt></ruby>れ柳が二、三本、上り下りの<ruby><rb>屋形船</rb><rt>やかた</rt></ruby>とともに、<ruby><rb>晩霞煙雨</rb><rt>ばんかえんう</rt></ruby>にはそれでもなにやら捨てがたい趣きを添えていたもの。もとより山とは言うべくもないが、高いところなら猫の額でも山という名をつけたがるのが<ruby><rb>万事</rb><rt>よろず</rt></ruby>に大袈裟な江戸者の癖で、御他聞に洩れず半ば<ruby><rb>塵埃</rb><rt>ごみ</rt></ruby>捨場のこの小丘も、どうやら見ようによってはそうも見えるというので、一般には<ruby><rb>木槌山</rb><rt>さいづちやま</rt></ruby>として通っていた。

ここへ差しかかった土佐犬甚右衛門、背ろの三人を呼ぶように、さてはまた誰かに合図でもするかのように、一声高だかと遠吠えしたかと思うと、木槌の柄を<ruby><rb>作</rb><rt>な</rt></ruby>して二、三間突き出ている土手の蔭へ走り込んだ。すると、草の間に提灯の灯が動いて、しゃがんでいたらしい人影が、すっくと起ち立った。闇黒に染む濡れた光りの中央に、<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>から上を照されて<ruby><rb>奇</rb><rt>あや</rt></ruby>しく<ruby><rb>隈</rb><rt>くま</rt></ruby>取った佐平次の顔が、赤く小さく浮かび出た。その顔が、掌を口辺へ<ruby><rb>輪筒</rb><rt>わづつ</rt></ruby>にして、けたたましく呼ばわっていた。

「釘抜の衆けえ。ここ、ここ、ここでがすよ。俺あ何です、<ruby><rb>痺</rb><rt>しび</rt></ruby>れを切らして待ってやしたがね、まま何せかにせ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ど</span>えれえ騒ぎ――ようこそお早く――へえ。え？　いや、実はね、あっしが甚右を使えに出したんで――お寝入りしなをなんともはや――だが、こりゃあ途方もねえことが起りましたよ。さ、ここです。ちょいとこちらへ――。」

二

八丁堀海老床の露地の奥、気の早い江戸っ児のなかでも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いなせ</span>を誇る連中が集っている合点長屋、その一棟に<ruby><rb>朱総</rb><rt>しゅぶさ</rt></ruby>を預る名代の岡っ引釘抜藤吉、乾児勘弁勘次に葬式彦兵衛、この三人が今夜の暴風雨を衝いて犬を追い慕って張出し埋地は木槌山まで出向いて来たについては、そこにただならぬ曰くがあるはず。ほかでもない――。

あれで、九つ近かったか、それとも廻っていたか。

御用筋が<ruby><rb>閑散</rb><rt>ひま</rt></ruby>なのでいつものとおり海老床の<ruby><rb>梳場</rb><rt>すきば</rt></ruby>で晩くまで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とぐろ</span>を巻いていた三人が、さすがにもう莫迦話にも飽きが来て巣へ帰ってほどないころ、勘次は親分の床を敷き、彦は何か<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶつぶつ</span>口の中で呟きながら表の板戸を<ruby><rb>閉</rb><rt>た</rt></ruby>てようとしていた時、その彦兵衛の足を<ruby><rb>掬</rb><rt>すく</rt></ruby>わん許りに<ruby><rb>突然</rb><rt>いきなり</rt></ruby>一匹の大きな四つ足が飛び込んで来た。見ると、よくこの界隈にもうろついている土佐犬で、飼主の佐平次は毒にも薬にもならない鋳掛け屋渡世の小堅人だが、どうしてどうして犬だけは大したもの、提灯に釣鐘じゃ、いや猫に小判じゃ、などともっぱら評判の甚右衛門だったが、それが、何としたことか土間に立って水気を振い落すと、彦兵衛の顔を見上げて世にも悲しげな声を絞って吠え出したのだった。

驚いて出て来た勘次が、彦兵衛と力を協せて追い出そうとしても、犬は故あるらしくますます鳴くばかり、果ては、口を利けないのがもどかしいのか、濡れ毛を人へ摺りつけておいては二、三歩戸外へ躍り出て、通りの方を<ruby><rb>白眼</rb><rt>にら</rt></ruby>んで吠えに吠える、また家内へ引き返して来て促すように長なきする。雨の音、風の響きに混って、消えそうにして尾を引く甚右衛門の遠吼えは、この場合、下手な人間の舌以上に雄弁であった。それは、始めは何がなしぼんやりした恐怖、つぎに戦慄に似た不吉な予感、それから、こりゃあこうしちゃあいられねえといったような感じを冷水のように釘抜部屋の三人の背骨へ流し込むことができたからである。鮎肥る梅雨明けの陽気とはいえ、車軸を流さんばかりの豪雨と、今にも屋根を剥がしそうな大風の夜に、いとも哀れに泣き止まぬ犬の声は、犬が賢い名を取っているだけに、いっそう凄惨な<ruby><rb>余韻</rb><rt>よいん</rt></ruby>を<ruby><rb>罩</rb><rt>こ</rt></ruby>めて、いかさま人の死にそうな晩だ、この濃い黒<ruby><rb>闇々</rb><rt>あんあん</rt></ruby>の底にどれだけ多くのたましいがさ迷っていることか――あらぬことまで思わせるのだった。

が、犬は要するに犬である。その吠えるのはつまり勝手に吠えるのである。勘次が甚右衛門を抱いて<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出した後は三人安らかに夢路につこうとした。

「甚右衛門犬、戸惑いしやあがって、いい世話あ焼かせやがったの。」

釘抜は蒲団から手を延ばして煙草を吸いつけながら、こんなことを言って笑っていた。が、その言葉の終らないうちに、何者か割れそうに雨戸の根にぶつかる音がした。つづいて咬みつくような甚右衛門の声がした。それが家の周囲を駈け廻って火のつくように吼え立てたのだから、義理にも真似にも小鬢が枕についてはいない。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かっ</span>とした勘次が<ruby><rb>薪雑棒</rb><rt>まきざっぽう</rt></ruby>を引っ掴んで飛び出そうとすると、藤吉はそれを押し止めて、起きてゆっくり帯を締め直した。そして彦兵衛に戸を開けさせたが、猛り狂った甚右衛門は、血を吐くような鳴声を揚げて、からくり仕掛みたいに格子の敷居を境いに、跳び込んだり躍り出たり、眼に哀訴嘆願の色を見せて戸外へ人を誘おうとする。もはや一刻も猶予はならないと、藤吉は尻をからげた。

「おっ、野郎ども、仕度しろ。」

「え？　お出ましでごぜえますか。」

「うん。」

「どちらへ。」

「はて、そいつあ甚右衛門に訊いてくんねえ。」

「だが親分、高が犬ころが<ruby><rb>逆上</rb><rt>あが</rt></ruby>ってるだけ、それにこの大暴風雨、悪いこたあ申しませんぜ、お止めなすっちゃいかがですい。」

「こう、乙に<ruby><rb>理解</rb><rt>りけえ</rt></ruby>をつけやがったのう。俺らあな、虫の報せがあるんだ。あらしがなんでえ、何で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なあん</span>でえ！　へん、紙子細工や<ruby><rb>張子</rb><rt>はりこ</rt></ruby>の虎じゃあるめえし、べら棒め、濡れて落ちるよな箔じゃあねえや。柄にもねえ分別するねえ。」

親分藤吉一流の手だ、こう<ruby><rb>真正面</rb><rt>まとも</rt></ruby>に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どや</span>しつけられては、江戸っ子の手前勘次と彦兵衛、即座に<ruby><rb>仏頂面</rb><rt>ぶっちょうづら</rt></ruby>を忘れて、勇みに勇んで駈け出さざるを得ない。彦の合羽の裾を<ruby><rb>銜</rb><rt>くわ</rt></ruby>えて、甚右衛門が先に立った。

しかし、いざ出て来てみると藤吉も内心ちょっと後悔した。思った以上の嵐である。それに、何を言うにも相手は犬のこと、当てが外れても文句の持って行きどころがない。と言って、今さら帰るわけにはなおさら往かない。釘抜藤吉、無理にも<ruby><rb>最初</rb><rt>はな</rt></ruby>の<ruby><rb>見得</rb><rt>けんとく</rt></ruby>を守り立てて、乾児を励ましてここまで来た木槌山。牛に引かれて善光寺詣り、ではない、犬にひかれて目明し奉公、果してそこに、しかも釘抜自身の繩張り内に、恐ろしい凶事が潜んでいたのである。

<ruby><rb>小谷間</rb><rt>こたにあい</rt></ruby>の、いささか風雨を避けた<ruby><rb>地点</rb><rt>ところ</rt></ruby>に、白髪頭を土に<ruby><rb>滅</rb><rt>め</rt></ruby>り込まして、草加屋伊兵衛の血だらけの<ruby><rb>屍骸</rb><rt>むくろ</rt></ruby>が、仰向けに倒れていた。甚右衛門の飼主鋳かけ屋佐平次が弱気らしい顔を蒼くして怖さに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わなわな</span>顫えながら、それでも固く、甚右衛門が八丁堀を起して来ることを信じて、張番していてくれた。藤吉は乾児を従えて、雨に重い草を分けた。

「甚右が<ruby><rb>発見</rb><rt>めっ</rt></ruby>けて、甚右が親分を呼びに行ったのでございます。賞めてやって下せえまし。なあ、甚公――。」

傍の甚右衛門を顧みて、得意そうに佐平次が言った。藤吉は黙ったまま、彦兵衛の手から提灯を引ったくり、いつものとおり手紙でも読むように、眼を細くして足許の死人を覗き込んだ。

無言。ひとしきり雷鳴。灌木の繁みや草の葉から、大粒な水玉が音を立てて霰と散る。藤吉は寝呆けたような顔を上げた。

「佐平次どん――てったけのう、お前さんは。」

「へえ佐平次でございます、鋳掛屋の佐平次でございますへえ。」

「犬が見つけたてなあどういうわけですい。」

「へえ。あっしがこの犬を伴れてこの<ruby><rb>前面</rb><rt>まえ</rt></ruby>の往来を通りかかりますてえと――。」

藤吉は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つ</span>と手を振って佐平次を黙らせた。

「俺たちが来るまでお前このわたりに何一つ手をつけやしめえの。」

佐平次は頷首いた。屍体の上へ馬乗りに股がって、藤吉は灯を近づける。

草加屋伊兵衛は胸に一本の折矢を立てて、板のように<ruby><rb>硬張</rb><rt>こわば</rt></ruby>って死んでいた。傷は一つ、左襟下を貫いているその太短い矢だけだが、夥しい血が雨合羽の上半身と辺りの土や草を染めて、深く心の臓へ徹っていることを語っていた。香いを利くように藤吉が顔を寄せて、矢と傷痕を<ruby><rb>白眼</rb><rt>にら</rt></ruby>んでいると、佐平次は話を続ける。勘次と彦兵衛、右大臣左大臣のように左右に分れて、静かに<ruby><rb>仏</rb><rt>ほとけ</rt></ruby>を見守っていた。

「<ruby><rb>金春</rb><rt>こんぱる</rt></ruby>屋敷の<ruby><rb>知人</rb><rt>しりええ</rt></ruby>んとこで話が持てましてね、あっしが甚右を連れて<ruby><rb>此町</rb><rt>ここ</rt></ruby>を通ったのは四つ過ぎてましたよ。このお山の向っ側まで来るてえと、甚右のやつ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きゃん</span>と鳴いてここへ飛び込んだきり、呼んでも<ruby><rb>賺</rb><rt>すか</rt></ruby>しても出て来ねえんで――いつにねえこったが変だなあ、と不審ぶって来て見るてえと、この<ruby><rb>状</rb><rt>ざま</rt></ruby>じゃごわせんか。いや、親分さんの前だがあっしも<ruby><rb>仰天</rb><rt>びっくり</rt></ruby><ruby><rb>敗亡</rb><rt>はいぼう</rt></ruby>しやしてね、係合いにされちゃあ始まらねえから――。」

「お前さん、店は？」

「へえ、この先、明石町の宗十郎店でございます、へえ。――それでその、係合いになっちゃあつまらねえから、不実なようだが見て見ねえふりをすべえ、とあっしゃあこう考えたんでやすが、甚公の野郎が承服しません。どうあってもこの場を動かねえんで――で、あっしも観念しやしてね、甚公は八丁堀によくお邪魔に上って可愛がられているようでございますかち、親分さんをお迎え申して来い、とまあ言い含めて出してやった<ruby><rb>次第</rb><rt>わけ</rt></ruby>なんで――お騒がせして、相済みません、へえ。」

「なんの。よく<ruby><rb>報</rb><rt>しら</rt></ruby>せて下すった。」

「親分。」

佐平次が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きっ</span>となった。藤吉は顔を振り向ける。

「思いきって申し上げますが、」と佐平次は少し<ruby><rb>逡巡</rb><rt>ためら</rt></ruby>って、「あっしが駈けつけた時あまだ息の根が通ってましてね、灯を差し向けると一言はっきり口走りましたよ。」

「おお、な、何と、何と言ったえ。」

「へえ。俺にゃあわかってる、と口早にね、それだけは聞こえましたが――。」

「なに？　俺にゃあわかってる？」

「へえ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">俺にゃあわかってる</span>――して親分、ああして手で何か指さしながら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がっくり</span>なりましたよ。あああ、嫌な物を見ちまいました。」

なるほど、死人が草の上に延ばした右手人差指の先、そこに畳み提灯が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶら</span>のまんま抛り出されて、筆太に<ruby><rb>八百駒</rb><rt>やおこま</rt></ruby>と読める。

三

「弓を射たたあ親分、大時代な殺しでごぜえすの。」

勘次が口を出した。が、藤吉は答えもしないで、

「矢が、これ、折れてやがる。中ほどから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぽっきり</span>――はてな。」と<ruby><rb>独語</rb><rt>ひとりご</rt></ruby>ちながら、その矢を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐい</span>と引抜いた。わりに短い。と見ていると、矢羽の下に、<ruby><rb>勧進撚</rb><rt>かんじんより</rt></ruby>が結んである。濡れて破けそうなのを丹念に解いて、拡げた。案の定、矢文である。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">天誅</span>と二字、達者な手だ。

「弓矢と言い、この文句といい、素町人じゃあねえな。」

親分の肩越しに葬式彦が首を捻った。

「あいさ、いっそ難物だあね。」

同ずる勘次。藤吉、しきりに髷をがくつかせていた。

<ruby><rb>鬼草</rb><rt>おにそう</rt></ruby>というのが、今宵人手にかかって<ruby><rb>非業</rb><rt>ひごう</rt></ruby>の死を遂げた草加屋伊兵衛の綽名だった。鬼というくらいだから、その<ruby><rb>稼業</rb><rt>しょうばい</rt></ruby>も人柄もおよそは推量がつこうというもの。草加屋は実に非道を極めた、貧乏人泣かせの高息の金貸しであった。二両三両、五両十両といたるところへ親切ごかしに貸しつけておいては、割高の利息を<ruby><rb>貪</rb><rt>むさぼ</rt></ruby>る。これが草加屋の<ruby><rb>遣口</rb><rt>やりくち</rt></ruby>だった。貸す時の地蔵顔に取り立てる時の閻魔面、一朱一分でも草加屋に廻してもらったが最後、働き人なら爪を擦り切らしても追いつかないし、<ruby><rb>商人</rb><rt>あきんど</rt></ruby>は夜逃げか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶらんこ</span>がとどの<ruby><rb>結着</rb><rt>つまり</rt></ruby>。まったく、鬼草に痛めつけられている借人は、この界隈だけでも生易しい数ではない、と言う人の噂。

「血も涙もねえ獣でさあ。あっしゃあいつか人助けのためにあの野郎を叩っ殺してやるんだ。いい功徳になるぜ。」

「あん畜生、生かしちゃおけねえ。」

「鬼の眼にも泪と申す。草加屋伊兵衛は鬼でもないわ。豚じゃ、豚じゃ、山吹色の豚じゃ。己れ、そのうち、伝家一刀の錆にしてくれる。」

「月のねえ夜もありやす。一つ器用にさばきやしょう。」

痩浪人、遊人、そんじょそこらの長屋の衆、口ぐちにささやき合うのが、早くから釘抜連の耳にもはいっていた。だから、もっともらしく<ruby><rb>顰</rb><rt>しか</rt></ruby>めた伊兵衛の死顔を見た時、藤吉は、ははあ、とうとう誰かがやったな、という頭が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぴいん</span>と来て、格別おどろかなかったわけである。しかし、考えに止まっているうちはともかく、眼と鼻の間でこう鮮かに手を下されてみると、仮りに仏の生前がどうあろうと、また事の起りは一種の公憤にしろ、藤吉の務めはお上向きに対しても自から別な<ruby><rb>活動</rb><rt>はたらき</rt></ruby>を示さなければならなくなる。ところで、草加屋殺しの探索は、やさしいようでむずかしい。藤吉は考える。

何事もそうだが、すべて人殺しには<ruby><rb>因由</rb><rt>いわれ</rt></ruby>に<ruby><rb>意</rb><rt>こころ</rt></ruby>が見えるものだ。殺さなければならないほどの強いつよい悪因縁、これを<ruby><rb>籠</rb><rt>こめ</rt></ruby>る<ruby><rb>犯人</rb><rt>ほし</rt></ruby>のこころもち、これにぶつかれば謎はもう半ば以上解けたも同じことである。この人殺しのこころを藤吉は常から五つに分けていた。<ruby><rb>国事</rb><rt>おおやけ</rt></ruby>に関する暗撃果合いや、<ruby><rb>新刀</rb><rt>あらもの</rt></ruby>試し辻斬の類を<ruby><rb>除</rb><rt>ぬ</rt></ruby>かした土民人情の縺れから来る兇行の因に五つある。<ruby><rb>物盗</rb><rt>ものとり</rt></ruby>、恐怖、貪慾、<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>やきもち</rt></ruby>、それから意趣返しと。伊兵衛の場合はあきらかに物盗ではない。現に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぎっしり</span>詰った<ruby><rb>鬱金</rb><rt>うこん</rt></ruby>木綿の財布の紐を首から下げて死んでいるのでも<ruby><rb>目的</rb><rt>あて</rt></ruby>が<ruby><rb>鳥目</rb><rt>ちょうもく</rt></ruby>でないことは知れる。恐怖というのは<ruby><rb>途端場</rb><rt>どたんば</rt></ruby>での命のやり取りをさすものだが、伊兵衛を誰が襲ったとも考えられない。嫉妬と言ったところで、これには<ruby><rb>髱</rb><rt>たぼ</rt></ruby>がなければ話にもならない。しからば貪慾か、というに、これはその人を亡くすることによって利を獲るとの義だが、草加屋伊兵衛は独身を通した一酷な老爺、<ruby><rb>後継</rb><rt>あととり</rt></ruby>はもとより<ruby><rb>親戚</rb><rt>みより</rt></ruby><ruby><rb>縁辺</rb><rt>よるべ</rt></ruby>もない。いや、たった一人、あるにはある。甥が槍屋町に住んで八百駒という青物<ruby><rb>担売</rb><rt>かつぎうり</rt></ruby>を営んでいるが、これとても出入りはおろか節季紋日の挨拶さえなかったらしい。とはいえ、そこにある八百駒と字の入った小田原提灯が、今となっては藤吉いささか気にならないでもないが――まず、なんと言っても踏外しのないところが、第五の意趣返しであろう。そうだ、意趣返しに相違ない、と一旦は景気づいてもみるが、つぎの刹那、藤吉はまた手の着け場所のない<ruby><rb>無明</rb><rt>むみょう</rt></ruby>の<ruby><rb>闇黒</rb><rt>やみ</rt></ruby>に堕ちるのだった。

今日は六月末日、年の半期である。伊兵衛め、例によって元利耳を揃えろの、せめて利息だけは入れろの、さもなければ証文の書換えじゃのと、さんざ一日いじめ抜いて歩き廻ったことだろうが、してみるとこれは、そのいじめられた一人の仕業と決めてかかったところで、ここで困ることには、独り者の伊兵衛、普段から商売向きには人の手を借りたこともなければ藉したやつもないから、どこどこに<ruby><rb>貸金</rb><rt>かし</rt></ruby>があって証文がどうなっているのか、今日はどっちを廻ったのか、肝心の本人がこうなっているとそこいらのことが一切わからない。ことに、異志を挾んでいた者が浜の真砂のそれならなくに目当ばかりたくさんあって星のなかから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほし</span>を指せというのと同一轍、洒落にはなろうが、さて骨だ。夜更けて<ruby><rb>帰宅</rb><rt>かえ</rt></ruby>る金貸し老爺、何しに町筋を外れて木槌山のかげへ立寄ったろう？　ほかで射殺してここへ運んだものか。それにしては提灯などが落ちているのが呑み込めない。それよりも、呑み込めないと言えば、そもそも何のために古めかしい飛道具なぞを持ち出したものか。それに、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">矢は二つに折れている</span>。のみならず矢文の文字の天誅、これをそのまま受け入れていいか――。

抜いた矢を<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>に、傷口を検めていた釘抜藤吉、つぎに、七転八倒を思わせる伊兵衛の死相を<ruby><rb>凝視</rb><rt>みつ</rt></ruby>めながら、何思ったか急に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">からから</span>笑い出した。甚右衛門が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぎょ</span>っとして唸ったほど、折が折だけ、それは不気味な笑いであった。

「親分、臭えぜ。これ。」

勘次と二人で先刻から草を分けていた彦兵衛が、こう言って高下駄を拾って来た。安物の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">せん</span>の木の台、小倉の緒、麗々しく八百駒と焼印してある。藤吉は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と見ていたが、やがて誰にともなく、

「<ruby><rb>紛失物</rb><rt>なくなりもん</rt></ruby>はねえかな――こう、なくなり物はよう――。」

勘次が答える。

「爺あよく杖をついて歩いてるのを見かけやしたが――。」

「そうそう、」佐平次が応じた。「あの鬼草の金棒は<ruby><rb>曲木</rb><rt>まがりぎ</rt></ruby>の杖、評判でさあ。知らねえ者あございません。そう言えばあれが見えませんね。」

話声を<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に聞いて、藤吉は四、五間離れた河岸、しだれ柳の下へ出た。彦兵衛が追って来て、耳近く囁く。

「天誅とは大上段、やっぱり、<ruby><rb>武士</rb><rt>りゃんこ</rt></ruby>てえお見込みで？」

「まあ、そこいらよなあ。」

藤吉は微笑んだ。が、眼だけは笑いに加わらなかった。笑わないどころか、<ruby><rb>眈々</rb><rt>たんたん</rt></ruby>としてあたりを<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>め廻していた。

柳の根方に草が折れ敷いて、地に丸く跡を見せている――いかにも人が腰を下ろしていたような、と、その手前の土には、待つ間の<ruby><rb>徒然</rb><rt>すさび</rt></ruby>に手だけが動いて、知らず識らず同じ個処を何度も掻いたような三角の<ruby><rb>図形</rb><rt>えがた</rt></ruby>。そこからは丘の裾を越しておもての通りも窺われる。雨に首垂れた鬼百合の花が、さもここだけを所得顔に一面に咲き乱れていた。

「彦、この百合を一つ残らず引っ<ruby><rb>捩</rb><rt>ちぎ</rt></ruby>って河へ叩っ込め。」

藤吉、変なことを言う。彦は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぽかん</span>として藤吉の顔を見た。

「えこう、早くしろ！」厳命だ。<ruby><rb>不審</rb><rt>いぶかし</rt></ruby>みながらも彦兵衛、嫌応はない、百合を折っては河へ捨てた。

黒い水に白い大輪が浮んで、つぎつぎに流れて行った。

百合の花がすっかりなくなったころ、勘次と佐平次がやって来た。甚右衛門は柳の下の尻跡を嗅いでは漂々と遠吼えしている。人間四人、それを囲んで期せずしてだんまり。

「親分。」佐平次が<ruby><rb>沈黙</rb><rt>しじま</rt></ruby>を破った。「この犬あ今夜癇が高えようです。一つ、<ruby><rb>犯人</rb><rt>ほし</rt></ruby>の跡を尾けさせてみようじゃございませんか。もっとも畜類のこと、当るも当らねえも感次第でやすがね。」

「うむ。面白かんべ。そこの根っこあ誰かが据わって草加屋を待伏せしたとこ、とまあ、俺あ踏みてえんだが――嗅がせろ。」

佐平次が甚右衛門の首を掴んで、その地点へ鼻を擦りつけると、犬は万事承知して歩き出した。四人それに続いて山を出た。往来へ来ると、大声に藤吉が言った。

「彦、わりゃあ八百駒を<ruby><rb>白眼</rb><rt>にら</rt></ruby>んで来い。勘、手前はな、番所<ruby><rb>叩</rb><rt>たて</rt></ruby>えて人数を貰え、仏の始末だ。俺か、おいらあ甚右様々の供奴。宜えか、二人とも御苦労だが頼んだぜ。うん、落合う所か――こうっと、待てよ。」

「手前のお邸、へへへへ、たいしたお屋敷で。九尺二間、ついそこです。明石町橋詰の宗十郎店、へえ。」

「そうか。そいつあ済まねえのう。なにも御難と諦めてくんな。じゃ、借りるぜ――おうっ、勘、彦、用が済んだら佐平次どん方へ――待ってるぜ。彦、<ruby><rb>如才</rb><rt>じょさい</rt></ruby>あるめえが八百駒あ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やんわり</span>な。」

言うあいだにも遠ざかる親分乾児、裸体の二人は東西へ、藤吉佐平次は犬を追って、暴風雨のなかを三手に別れた。

四

御軍艦操練所に寄った<ruby><rb>肴店</rb><rt>さかなだな</rt></ruby>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">と</span>ある露地、一軒の前まで来ると、甚右衛門は動かない。佐平次は顔色を変えた。藤吉が訊く。

「だれの住居ですい？」

「お心易く願っている御浪人で、へえ、なんでも以前はお旗下の御家来だとか――こわあい方で、いや、こりゃあ大変なことになりましたわい。」

「名は？」

「<ruby><rb>御家新</rb><rt>ごけしん</rt></ruby>。<ruby><rb>逸見</rb><rt>へんみ</rt></ruby>流の弓の名人だそうで、へえ。」

「なに、弓の名人？　御家新？　ふうむ、やるな。」

藤吉は壺を伏せる手つきをした。うなずく佐平次を、甚右衛門とともに先へ帰らせておいて、藤吉、戸を叩いて案内を求めた。二間きりらしい荒れ果てた家、すぐに御家人くずれの<ruby><rb>博奕</rb><rt>ばくち</rt></ruby>こき、あぶれ者の御家新が起きて来た。やたらに天誅ぐらいやりかねないような、いかさま未だ侍の角が落ち切れないところが見える。藤吉は気を配った。

「誰だ、なんだ今ごろ。」

気さくに開けたが、御用提灯を見ると、固くなった。藤吉はさっそく下手に出て、まず宵から今までの動きを訊いてみたが、御家新、口唇を白くして語らない。

いよいよ怪しい――弓一筋の家から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐれ</span>出た小悪人、そう言えば矢文の筆つきも武張っていた。藤吉、抜いた時の要心をしながら、なおも一つ問を重ねて行った。すると御家新、苦しくなってか、こう申し立てた。

「今夜は友達の家へ行っていま帰ったところ、その友達は鋳かけ屋で、<ruby><rb>明石</rb><rt>あかし</rt></ruby>町宗十郎店に住む佐平次という者だが、何の用でそんなことを訊くのだ。」

見え透いた<ruby><rb>虚言</rb><rt>うそ</rt></ruby>、藤吉は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にっこり</span>した。そしてなれなれしく、一本<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ずい</span>と突っ込んだ。

「弓がおありかね？」

御家新はまた黙り込んだ。一筋繩ではいかない、こう観念した藤吉、驚いている御家新を残して、急ぎ帰路についた。

でたらめを吐いた以上、明朝と言わず今すぐに佐平次方へ口を合してくれと頼みに出かけるであろう、と思った藤吉、<ruby><rb>途中</rb><rt>みちみち</rt></ruby>うしろを振り返って行くと、明石町の手前、さむさ橋の際へ来た時、はたして後に、御家新の姿が見えた。と、闇黒の奥で<ruby><rb>弦音</rb><rt>つるおと</rt></ruby>、とたんに矢風、藤吉とっさに泥に寝た。間一髪、矢は傍の小石を散らして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かちり</span>と鳴る。呼吸を潜めた藤吉の前へ、首尾を案じて男の影が、弓を片手に現れた。充分仕留めたつもりらしい、頭上立って、今や止めを刺そうとする。白刃一閃、そこを藤吉、足を上げて蹴る、起きる、暗いから<ruby><rb>所在</rb><rt>ありか</rt></ruby>もよくは解らないが、猛然と跳りかかったら、運よく<ruby><rb>確</rb><rt>し</rt></ruby>かと抱きついた。と思ったも束の間、敵もさる者、声も立てず顔の形にも触らせずに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">するり</span>と振り切る。倒れながらも藤吉袖口を握った。走り出す男。小兵の藤吉、<ruby><rb>橇</rb><rt>そり</rt></ruby>のように引きずられた。が、指のかかりが抜けて、闇黒から出た男は一目算に闇黒へ消えた。泥にまみれた藤吉、伊兵衛を殺したのと同じ拵えの太短い矢を拾っては、今さらのように身顫いを禁じ得なかった。

「<ruby><rb>彼男</rb><rt>あれ</rt></ruby>だ、俺にゃあもうわかってる！」

会心の笑みが、泥だらけの藤吉の顔を綻ばせた。

五

「や、親分、どうしましたえ。」

佐平次が飛んで出た。

「転んだ。<ruby><rb>白痴</rb><rt>こけ</rt></ruby>の一人相撲。面目ねえ。」

鉄瓶の湯が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちんちん</span>沸いて、佐平次の心尽し、座蒲団が三つ並んでいた。<ruby><rb>洗足</rb><rt>すすぎ</rt></ruby>をとった藤吉、気易に上り込んだ。宗十郎店は佐平次の住居。勘次彦兵衛はまだ来ていない。

「どうでした、御家新おそれいりましたか。」

「口を開かねえ。が、俺らにゃもうわかってる。」

「さいでございましょうとも。」

言っているところへ勘次が帰って、屍骸は番屋へ引き取らせたと復命した。間もなく彦も顔を見せたが、これはえらく意気込んでいた。

「八百駒あ他行だったが――。」

「他行？」藤吉が聞き咎めた。「この荒れの夜中にか。」

「あい。それで土間を覗くてえと、親分、驚いたね、草加屋の杖がころがってた。」

「ふうむ。」

「どうもこりゃあ八百駒の仕事に違えねえ。同勢四人、揃えて乗り込んで待ちやしょうか。」

「まあ、待て。」

「だが、<ruby><rb>逃</rb><rt>ずら</rt></ruby>かる。」

「なあに、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ずら</span>かりゃしねえ。」

「はははは。」佐平次が笑い出した。「彦さん、犯人は先刻こっちへ割れてますよ。ねえ親分。」

「え？　ほんとでげすか。」

「勘弁ならねえ。」

勘と彦とが同時に藤吉を見詰める。

「嘘をつくけえ！」藤吉は<ruby><rb>嘯</rb><rt>うそぶ</rt></ruby>いた。

「逸見流弓術の名人、御家新。甚右衛門が嗅ぎ当てました。」と佐平次。

「そのことよ。」と藤吉しばらく瞑目していたが、「佐平次どん、筆を三本、紙が三枚、何でもいい、あったら出して筆に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たっぷり</span>墨を含ませて、銘々に筆と紙を渡してやんな。お前さんも筆を取って。」

三人、膝に紙を伸べて、筆を持って、不思議そうに控えた。藤吉は手枕、横になっている。

「さ、みんな俺らの言うことを書くんだぞ。」

「勘弁ならねえが、」と勘弁勘次、「こちとら無筆だ。」

「勘、黙ってろ。」

「へえ。」筆の穂を舐めて三人は待っている。ところが藤吉、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐう</span>とも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すう</span>とも言わない。いや、そのうち<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐうすう</span>言い出した。<ruby><rb>高鼾</rb><rt>たかいびき</rt></ruby>である。

三人が三人とも、やがて持てあます退屈。

とうとう彦が、我慢し切れずに声を掛けた。

「親分え、もし、親分え。」

勘次も和した。

「御家新とやらを押せえに<ruby><rb>出張</rb><rt>でば</rt></ruby>ろうじゃごわせんか。」

<ruby><rb>大欠伸</rb><rt>おおあくび</rt></ruby>と一緒に身を起した藤吉、<ruby><rb>仮寝</rb><rt>うたたね</rt></ruby>していたにしては、眼の光が強過ぎた。<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>を揺るがせながら、<ruby><rb>縷々</rb><rt>るる</rt></ruby>として始める。

「矢文の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">天誅</span>は<ruby><rb>欺</rb><rt>まやか</rt></ruby>しだ。なあ、真正の犯人がなんでわざわざ己が字を残すもんけえ。土台、あの矢が弓で射たもんなら、ああ着物を破いちゃあ身へ届くわけがねえ。それに、弓ならあんなに汚なく血が出やしねえや。<ruby><rb>顔</rb><rt>そっぽ</rt></ruby>だって、もちっと綺麗に、<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>んじゃいねえはず。ありゃあお前、弓矢じゃねえぜ、うんにゃ、矢は矢だが、背後から抱きすくめて手でこじりこせえたもんだ。その証拠を言おうか。<ruby><rb>仰向</rb><rt>おうのけ</rt></ruby>の胸に直に立った矢が、見事二つに折れてたじゃあねえか。手で無理をしねえかぎり、矢が折れるってえ道あねえ。」

「しかし親分、」と彦兵衛、「その御家新は逸見流の――。」

「逸見流の矢は、もそっと長え。」藤吉は眼を<ruby><rb>閉</rb><rt>つぶ</rt></ruby>ったまま、「関の六蔵<ruby><rb>一安</rb><rt>かずやす</rt></ruby>三十三間堂射抜の矢、あれだ。いやに太短えもんなあ。」

「へえい！　するてえと？」

「往来で<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>ってあそこへ引いてった。すりゃこそ、提灯も履物も八百駒の物ばかりで、草加屋のは一つもねえ。」

「その理は？」

「決ってらあな。伊兵衛は八百駒へ行ってて先で<ruby><rb>嵐</rb><rt>あれ</rt></ruby>になって借りて来たんだ。杖は荷になると見て預けて出た――どうでえ。」藤吉は続ける。「人間にゃあ<ruby><rb>変</rb><rt>ひょん</rt></ruby>な気性があっての、三つ四つから物を画く。形にならねえ物をかく。三つ児の魂百までだ、それが抜けねえ。ええか、もっとも十人十色、形あ違う。が、なくて七癖あって四十八癖、ぼんやりしてる時あお互えによく為体の知れねえ図面や模様を塗たくるものよ。のう、先刻からお前たちに筆を預けて、俺らあ寝た<ruby><rb>風</rb><rt>ふり</rt></ruby>をしてたが、勘、われあ何を<ruby><rb>書</rb><rt>け</rt></ruby>えた？」

「<ruby><rb>蚯蚓</rb><rt>みみず</rt></ruby>の行列、はっはっは、だらしがねえや。」

「彦は？」

「屑っ籠の目でがしょう、自身にもはっきりしやせん。」

「佐平次どん、お前さんは？」

佐平次、丸めて捨てようとした。逸早く藤吉が奪った。見ると、墨黒ぐろと三角の形！

「木槌山の柳の下に、矢尻で掘ったこの印しがあったけのう。」

「それがどうとかしましたかえ。」

「や！」藤吉は佐平次の裾を指さした。赤い<ruby><rb>染点</rb><rt>しみ</rt></ruby>が付いている。「そりゃあ何だ、そりゃあ？」

「これか、」がらり<ruby><rb>巽上</rb><rt>たつみあが</rt></ruby>りに変った佐平次、「血じゃあねえから心配するな。」

「血じゃあねえと？　おう、血なら水に落ちべえさ。」

「見てろ。宜しか。」

水差の水を染点へ垂らして、佐平次、手で揉んだ。落ちない。

「見やあがれ、血じゃあねえや。」

「ほう、何だ？」

「百合だ、百合の<ruby><rb>蕊</rb><rt>しべ</rt></ruby>だ。」

「なるほど、百合の蕊なら洗ってもおちめえ。が、その百合あどこでつけた？」

「爺つぁん、<ruby><rb>耄碌</rb><rt>もうろく</rt></ruby>しっこなしにしようぜ。木槌山の柳の下に、五万何ぼも<ruby><rb>咲</rb><rt>せ</rt></ruby>えてたじゃねえか。嫌だぜ、おい。」

「うん。そうか。だがの、百合あお前が来る前に、彦がそっくり河へ捨てたはずだ。そいつをお前、どうして知ってる？」

「――――」

眼配せ。勘が背へ廻る。彦兵衛は<ruby><rb>上框</rb><rt>あがりがまち</rt></ruby>に立った。

「やい、何とか<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>え出せ。」

「――――」

佐平次の手が鉄瓶を探る。が、彦がとっくに下ろしてある。

「佐平次っ！」藤吉の拳、佐平次の<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>に飛んだ。「眼が覚めたか、どうだっ！」

「御用！」

一声、勘次は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どっか</span>と佐平次を組み敷いていた。

押入れを捜すと、さっき藤吉を襲った弓矢が出て来た。それが佐平次の口を開いた。

浅草奥山の揚弓場女に迷った末、佐平次が伊兵衛の高息の金に苦しんでいると、女に情夫のあることが知れた。探ってみると、それが賭場で顔見知りの御家新なので、一石二鳥と出かけて今夜草加屋殺しを演じ、犬を使って疑いの矢を恋<ruby><rb>仇敵</rb><rt>がたき</rt></ruby>へ向けようとしたのだった。伊兵衛が死際に何か言ったというのも、その指先の地へ八百駒の提灯を置いておいたのも、すべて彼の、事を入り組ませようとした肚にほかならない。犬を尾けるどころか、自分が犬を動かして御家新の家まで行ったのだが、なんとなくあぶなく思って、人もあろうに釘抜藤吉を亡き者にしようとし、そして、すぐに帰って何食わぬ顔をしていた。

引き立てられて、佐平次が腰を上げると、土間にいた甚右衛門、泣くような瞳で主人を<ruby><rb>凝視</rb><rt>みつ</rt></ruby>めた。この時、表戸が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほとほと</span>鳴って、声がした。藤吉あわてて佐平次の口を押さえた。

「おうっ、鋳かけ屋、いるか。俺だ、新だ。<ruby><rb>手慰</rb><rt>てあそ</rt></ruby>びも危ねえぜ。今し方すかねえのが来てな、どこへ行ったと言うのだ。場へ手がはいっちゃあやりきれねえから、お前んとこにいたと言っといたぞ。うまく合わしてくれ。」

家内では三人、首引っ込めて舌を出す。彦が答えた。

「あいよ、合点。」