一

ひどい風だ。大川の流れが、<ruby><rb>闇黒</rb><rt>やみ</rt></ruby>に、白く泡立っていた。

本所、一つ目の橋を渡りきった右手に、墓地のような、角石の立ち並んだ空地が、半島状に、ほそ長く河に突き出ている。

柳が、枝を振り乱して、陰惨な夜景だった。三月もなかば過ぎだというのに、今夜は、ばかに寒い。それに、雨を持っているらしく、濡れた空気なのだ。

その、往来からずっと離れて、水のなかへ出張っている岸に二階建のささやかな一軒家が、暴風に踏みこたえて、戸障子が悲鳴を揚げていた。

腰高の油障子に、<ruby><rb>内部</rb><rt>なか</rt></ruby>の灯がうつって、<ruby><rb>筆太</rb><rt>ふでぶと</rt></ruby>の一行が瞬いて読める――「御石場番所」

水戸様の石揚場なのである。

番所の<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>は、半分が土間、はんぶんが、六畳のたたみ敷きで、炉が切ってある。大川の寄り木がとろとろ燃えて、三人の顔を、赤く、黒く、明滅させている。大きな影法師が、はらわたの覗いている壁に倒れて、けむりといっしょに、揺らいでいた。

番小屋のおやじ<ruby><rb>惣平次</rb><rt>そうへいじ</rt></ruby>と、ひとり息子の庄太郎とが、炉ばたで、将棋をさしているのだ。母親のおこうは、膝もと一ぱいに<ruby><rb>襤褸</rb><rt>ぼろ</rt></ruby>を散らかして、つづくり物をしながら、

「<ruby><rb>年齢</rb><rt>とし</rt></ruby>はとりたくないね。針の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めど</span>が見えやしない。<ruby><rb>鳥目</rb><rt>とりめ</rt></ruby>かしら――。」

ひとりごとを言いいい、糸のさきを噛んだ。

いきなり惣平次が、白髪あたまを振った。<ruby><rb>癇癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>を起したのだ。盤をにらんで、ぴしりと、大きな音で、駒を置いた。

「えれえ風だ。吹きゃあがる。吹きゃあがる。風のまにまに――とくらあ。どうでえ庄太、この手は。<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>ああるめえ。」

「庄太、しょた、しょた、五人のなかで――。」

庄太郎は、「酔うた、酔た、酔た」をもじって、<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>に唄った。持ち駒を、四つ竹のように、掌の中で鳴らした。

そして、炭のように黒いであろう戸外の闇を、ちょっと聴くような眼つきになって、

「なあに――。」

「おっと！　こりゃあ！　いや、風にもいろいろあってな、吹けよ、川風、上れよ、すだれ、の風なんざあ粋だが――おい、庄太、手前、砂利舟は、しっかり<ruby><rb>舫</rb><rt>もや</rt></ruby>ったろうな。」

惣平次は、いま打った駒で、取り返しのつかなくなった<ruby><rb>盤面</rb><rt>ばん</rt></ruby>を庄太郎に気づかれまいとして、何げなく、ほかの話をしかけて注意を外らすのにいそがしかった。

が、庄太郎は、二十三の青年らしい、ほがらかな微笑をひろげていた。

「うふっ！　<ruby><rb>父</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>、すまねえが、おらあ勝ってるぜ。」

ごろっと、後頭部へ両手をまくらに、引っくり返った。

「出直せ、出なおせ。」

「この風だ。今夜はお見えになるまいて。」

盤の駒をあつめながら、惣平次が、いった。

おこうが、

「<ruby><rb>久住</rb><rt>くずみ</rt></ruby>さんかい。」

針を休めて、訊くと、

「なんぼあの旦那が物好でも、こんな大風の晩に出歩くこたあねえからな。」惣平次は、将棋に負けたので、八つ当り気味に、「おらあ好かねえよ。稼業たあ言い条、こんな石場の突鼻に住んでるなんざあ、気の利かねえはなしだ。まるでお前、なんのこたあねえ。千川っぷちの渡守りみてえなもんじゃあねえか。御近所さまがあるじゃあなし、何があったって早速の間にゃあ合やしねえ。ああ嫌だ、嫌だ。この年齢になって石場の番人なんて、<ruby><rb>外聞</rb><rt>げえぶん</rt></ruby>が悪くて、人に話もできやしねえ――。」

おこうは取り合わずに、

「また愚痴がはじまったね。まあ、いいじゃないか。もう一ぺん将棋をおさしよ。今度はお前さんが勝つだろうから、それで機嫌を直すんだね。」

息子の庄太郎が、むっくり起き上って、

「ほんとだ。<ruby><rb>父</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>もおふくろも、もうすこし辛抱していてもらえてえ。おいらが一人前の瓦職になるまであ、ま、隠居仕事だと思って、この石場の番人をつとめていてくんねえよ。なあに、おいらだって、いつまでもこのまんまじゃあいねえつもりだ。おっつけ親方の引き立てで、相当の<ruby><rb>人区</rb><rt>にんく</rt></ruby>を取るようになる。そうすりゃあ、父にもおふくろにも、うんと<ruby><rb>旨</rb><rt>うめ</rt></ruby>えものを食わして、楽をさせてやらあ。」

急にしんみりと、おこうは、涙ぐんで<ruby><rb>老夫</rb><rt>おっと</rt></ruby>を見た。

「庄太が、まあ、あんなたのもしい口をきくじゃあないか。いい若い者で、悪遊びに一つ出るじゃあなし、――あたしゃなんだか、泣かされましたよ。」

「やい、庄公。」惣平次も気を取り直して、「こりゃあおやじが悪かった。てめえのような評判の孝行息子を持ちながら、<ruby><rb>不平</rb><rt>こぼ</rt></ruby>すなんてのは、有難冥利に尽きるこった。いや、おいらの子だが、庄公は感心者だ。どこへ出しても恥かしくねえ、なんと立派なもんじゃあねえか、なあ婆さん。」

「だからさ、庄太ひとりを柱と頼んで、末をたのしみにこつこつやって行けばいいんだよ。なにもぐずぐず言うことはないじゃないか――ほんとに、よく飽きずに吹くねえ。屋根を持ってかれやしないかしら。」

庄太郎が、小さく叫んで、腰を浮かした。

「あ、来たようだぜ、誰か――久住さんに違えねえ。」

石のあいだを縫って、跫音が、近づいて来ていた。建付けのわるい土間の戸が、外部から<ruby><rb>軋</rb><rt>きし</rt></ruby>んで開いた。

「皆さん、御在宿かな？」

番小屋を訪れるにしては、しかつめらしい声だ。しかも、武家の<ruby><rb>語調</rb><rt>ことばつき</rt></ruby>なのである。

「久住さんだ――。」

惣平次が、そそくさと起って、迎えに出た。おこうは手早く縫いものを片付けて、庄太郎が、炉の火に、<ruby><rb>焚木</rb><rt>たきぎ</rt></ruby>を加えているうちに、風といっしょに久住<ruby><rb>希</rb><rt>き</rt></ruby>十郎がはいってきて、戸口で、惣平次と挨拶を済ますと、色の変った黒羽二重の裾を鳴らして六畳へ上って来ながら、

「いや、吹くわ。吹くわ。それに、墨を流したような闇黒じゃ――こんな晩にお邪魔に上らんでも、と、大分これでも二の足を踏みましたが、またしばらく江戸を明けるでな、思いきって、出かけて来ましたわい。おう、おう燃えとる。ありがたい。戸外は、寒うての。」

久住は、大小を<ruby><rb>脱</rb><rt>と</rt></ruby>って傍へ置くと、きちんと炉ばたにすわって、手をかざした。

そして、激しく咳き入った。

二

この、水戸様の石揚場で、「お石場番所」を預かっているおやじ、惣平次夫婦は、若いころ江戸へ出て来たが、九州<ruby><rb>豊後</rb><rt>ぶんご</rt></ruby>の国、笹の関港の生れである。

笹の関は、中川修理太夫の領内で、したがって、藩士の久住希十郎とは、<ruby><rb>故郷許</rb><rt>くにもと</rt></ruby>からの<ruby><rb>相識</rb><rt>みしり</rt></ruby>だった。もっとも、しりあいといったところで、身分が違う。惣平次は漁師上りで、久住は侍――が、しかし、これも、怪しいさむらいだった。笹の関からすこし離れた<ruby><rb>焼津</rb><rt>やいづ</rt></ruby>の浜に、中川藩のお舟蔵があって、久住はそこのお荷方下見廻りという役の木っ葉武士なのだ。しじゅう船に乗って、豊後水道を上ったり下ったり、時には遠く朝鮮、琉球まで押し渡ったりする。これは、名は貿易だが、体のいい官許の海賊で、希十郎は、まず、その海賊船隊の小頭格だ。からだが<ruby><rb>明</rb><rt>あ</rt></ruby>くと、休養かたがた江戸見物に呼ばれて来て、何カ月もぶらぶらしている。そうかと思うと、ふっと、<ruby><rb>帰国</rb><rt>かえ</rt></ruby>されて、また焼津の浜から船へ乗り込んで、どこへとも知らず錨を上げる。

海で育った惣平次とは、話が合うのだった。

今度は、わりに長く江戸にとどまっていて、神田<ruby><rb>筋違御門</rb><rt>すじかいごもん</rt></ruby>ぎわの修理太夫の下屋敷から、こうして三日に上げず、この惣平次の番所へ遊びに来るのである。

いつも親子三人を前に、いろいろ話しこんで行く。海の冒険談、そういったものが主で、江戸育ちの庄太郎には、珍しかった。

それが、急に、もうじき豊後へ<ruby><rb>帰郷</rb><rt>かえ</rt></ruby>ることになったというので、庄太郎は、名残り惜しそうに、

「また海へお出になるのでございましょうね。このたびは、どちらへ？　<ruby><rb>唐天竺</rb><rt>からてんじく</rt></ruby>でございますか。それとも、<ruby><rb>南蛮</rb><rt>なんばん</rt></ruby>とやら――。」

「いや、」久住は、首を傾げて、「南蛮まで<ruby><rb>伸</rb><rt>の</rt></ruby>すことはござらぬが、しかし、それもわからぬ。どこへ参るのやら、船出した後までも、われわれ下役には、御沙汰のないのが常でな、とんと見当がつき申さぬよ。」

木の<ruby><rb>瘤</rb><rt>こぶ</rt></ruby>のような肩と、油気のない髪をゆすぶって、いつまでも哄笑がひびいた。

潮焼けしたとでもいうのか、恐ろしい赤毛である。<ruby><rb>身長</rb><rt>せい</rt></ruby>が高くて、板のような胸だ。そして、茶色の顔に、眼がまた、不思議に赤い。<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあ</rt></ruby>っていて、見慣れているから、惣平次一家の者は平気だが、誰でもはじめて会う人をちょっと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぎょっ</span>とさせる、うす気味のわるい人間だった。が、気は、至極いい。<ruby><rb>穏和</rb><rt>おとな</rt></ruby>しいのである。

風が、いきおいを増した。

おこうが、あり合わせの物に、燗をつけて出すと、久住は、惣平次と<ruby><rb>酒盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>をかわしながら、その、風のうなりに耳を傾けて、暗夜の海上――帆音を思い出すような眼つきをした。

例によって<ruby><rb>座談</rb><rt>はなし</rt></ruby>が弾んで、久住の口から、遠い国々の港みなとの風景、荒くれた男たち、略奪、疫病、変った人々の生活ぶり、などが物語られる。

尽きない。

「なにしろ、二十年も、焼津船にお乗りになっていなさるのだからな。」惣平次が、おこうをかえり見た。

「はじめてお舟蔵へ上られたころから、存じあげているのだが、いまの庄公より年下の二十歳の<ruby><rb>少年</rb><rt>こども</rt></ruby>衆だったよ。」

「まあ、それにしても、よく御無事でおっとめなすって――。」

母親のことばを、庄太は、そばから奪うように、

「おいらも、琉球へ行ってみてえな。ぶらっと見物して来るんだ。」

「話に聞けば、面白い土地のように思われるかもしれんが、なに、江戸に勝るところはござらぬよ。」

久住は、さかずきを置いて、にわかに酒が苦くなったように、ちょっと眉を寄せた。

何か思い出して、惣平次が、膝を進めた。

「お？　そう言えば、いつかちょっとお話しなすった竜の手――<ruby><rb>竜手様</rb><rt>りんじゅさま</rt></ruby>とか、あれはいったいどういうことでござります。」

「竜の手、か。いや、何でもござらぬ。」

顔の前で手を振って、炉のけむりを避けながら、

「何でもござらぬ。」

繰り返した。

おこうが、<ruby><rb>好奇気</rb><rt>ものずき</rt></ruby>に、

「竜の手――？　何でございます。」

「まあ、いわば手品――手品でもないが、<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>の魔術とでも呼ぶべきものでござろうな。しかし、切支丹ではない。」

聞手の三人は、乗り出して、久住の顔を見た。黙って、久住は、杯を取り上げた。<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>なのを気がつかずに、口へ持って行って、また、黙って下へ置いた。

惣平次が、銚子を取り上げて、満たした。

「見たところは――。」

と、言って、久住は、ふところへ手を入れた。

「ただの、細長い、魚の<ruby><rb>鰭</rb><rt>ひれ</rt></ruby>のようなものでな、ま、こんな、こちこちの<ruby><rb>乾物</rb><rt>ひもの</rt></ruby>じゃ。」

何か取り出して、親子の眼の前へさし出した。おこうは、ぎょっとして、気味悪そうに反ったが、庄太郎が受け取って、掌の上で転がして<ruby><rb>凝視</rb><rt>みつ</rt></ruby>めた。

「これがその竜の手――竜手さまですかい。」

惣平次が、息子の手から取って、

「何の変哲もねえように見えるが、どういうんでございますね。」

とみこうみして、火から遠い畳の上へ、置いた。

久住の、すこし<ruby><rb>嗄</rb><rt>か</rt></ruby>れた太い声が、言っていた。

「<ruby><rb>琉球</rb><rt>あちら</rt></ruby>の、古い昔の<ruby><rb>聖人</rb><rt>ひじり</rt></ruby>の息が、この竜の手にかかっておりますんじゃ。先ざきのことまで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ずん</span>と見通しのきく、世にも偉い御仁であったと申す。そのお方は、人の生命を司る<ruby><rb>運命</rb><rt>さだめ</rt></ruby>と、宿縁をないがしろにする者のかなしみとを、後代のものに示さんとおぼし召されて、これなる竜の手をお遺しなされた。三人の別べつの人間が、それぞれ三つの願望を祈って、それを、この竜手様が即座にかなえて下さるようになっておる。」

久住の様子が、いかにも真面目なので、三人は、笑えなかった。

口のまわりを硬張らせて、くすぐったそうな表情をした。

真剣を装って、庄太郎が訊いた。

「竜の手って、ほんとに、あの、竜の手なんですかい。」

「さよう。竜手様は、竜の手でござる。」

「竜に、手があるかなあ――。」

久住は、答えなかった。

庄太郎は、露骨に、<ruby><rb>冷笑</rb><rt>ひや</rt></ruby>かすような口調を帯びて、

「一人につき三つだけ、何でも願いごとをかなえて下さる。ふん、どうです。旦那は、何か三つ、お願いにならねえんですかい。」

三

たしなめるような眼で、庄太郎を見据えた久住は、

「いかにもわしは、わしの分を、三つだけお願い申した――そして、かなえられました。」

重々しく答えて、白い<ruby><rb>額部</rb><rt>ひたい</rt></ruby>になった。

「ほんとに、三つお願いになって、三つとも、聞き入れられたのでござりますか。」

「さよう。」

「ほかに誰か、願った人は――。」

「拙者の<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>に持っておった者が、やはり三つの願をかけて、それも三つとも<ruby><rb>応</rb><rt>かな</rt></ruby>ったとか聞き及んでおるが――。」

風が、渡って、沈黙のあいだをつないだ。大川の水音が、壁のすぐ向うに、聞えていた。

「ふうむ。」惣平次は腕を組んで、「三つしか願えぬなら、旦那には、もう用のない品でござりますな。いかがでございましょう。わたくしめに、お譲り下さりませんでしょうか。」

久住は、その、不思議な形をした、<ruby><rb>牛蒡</rb><rt>ごぼう</rt></ruby>とも見える、魚の乾物のようなものを、しばらく、指で挾んでぶら下げて、何かしきりに考えていたが、いきなり、ぽいと、火の中へ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り込んで、

「焼いたがいい。」

あわてた惣平次が、

「お捨てになるなら、いただいておきましょう。」

手で、素早く掴んで、じぶんの膝へ投げ取ると、久住は、じっと深い眼をして、その惣平次と竜手様を見較べながら、

「わしは、もういらぬ。が、あんたも、お取りなさらぬがいい。悪いことは、言わぬ。お焼きなされ。」

「願いごとをするには、どうすればよろしいので――。」

惣平次が、訊いた。

「竜手様を、右手に、高く捧げて、大声に願を<ruby><rb>唱</rb><rt>とな</rt></ruby>えるのじゃ――が、言うておきますぞ。どんなことがあっても、拙者は、知らん。」

もう一度、調べるように、手の竜手様を眺めている惣平次へ、久住は、つづけて、

「願うなら、何か尋常な、<ruby><rb>分相応</rb><rt>ぶんそうおう</rt></ruby>のことを願いなさるがいい。くれぐれも、滅茶を願うてはなりませぬぞ。」

「お大名になりたいなどと――。」

親子三人は、声を合わせて笑ったが、久住は、苦渋な顔で、<ruby><rb>自在鉤</rb><rt>じざいかぎ</rt></ruby>の鉄瓶から、徳利を掴み出して、じぶんで注いだ。

明朝早く出発して、豊後への帰国の途につく――そういって、大小をうしろ気味に差した久住は、いつもよりすこし早めに、風に<ruby><rb>抗</rb><rt>さか</rt></ruby>らってかえって行った。

送り出して、三人が炉ばたへ帰ると、

「<ruby><rb>父</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>！」庄太郎が、にやにやして、「いいものが手に入ったぜ。さあ、これからおいらの家は、金持ちになる。おいらなんか、お<ruby><rb>絹</rb><rt>かいこ</rt></ruby>ぐるみで、あっはっはっは――。」

大の字に引っくり返って、<ruby><rb>爆笑</rb><rt>わら</rt></ruby>った。

「竜手様さまと来らあ！　竜の手だとよ、うふっ、利いた風なことを言っても、田舎ざむれえなんて、下らねえ物を持ち廻りやがって<ruby><rb>白痴</rb><rt>こけ</rt></ruby>なもんだなあ。」

惣平次は、懐中の竜手さまを取り出して、しげしげと見てみたが、

「こうっ、と。おいらは、何を願うべえかな。」

ふざけ半分の、わざと真面目な顔で、おこうを見た。

庄太郎が、代って、

「百両！――父、百両の<ruby><rb>現金</rb><rt>げんなま</rt></ruby>を祈りねえ。」

惣平次は、照れたように微笑って、その、竜の手という、汚ない乾物のようなものを、右手に高くさし上げた。

そして、おこうと庄太郎が、急に、謹んだような顔を並べている前で、大声に、呶鳴った。

「竜手様へ、なにとぞわしに、百両の金を下せえまし。お願え申しやす――。」

言い終らぬうちに、惣平次は、竜手様を投げ捨てて、躍り上って叫んだ。

「わあっ！　動いた！　うごいた！　竜手様が動いた！」

びっくり駈け寄った妻と息子へ、蒼くなった顔を向けて、

「おい、動いたぜ、おれの手の中で。」

と、不気味げに、自分の手から、畳に転がっている竜手様へ、眼を落した。

「おれが願え事を唱えると、蛇みてえに曲って、手に巻きつこうとしたんだ。」

「だが、父、百両の金は、まだ湧いて来ねえじゃねえか。」庄太郎は、どこまでも嘲笑的に、「へん、こんなこって百両儲かりゃあ、世の中に貧乏するやつあねえや。畳の隙からでも、小判がぞろぞろ這い出すところを、見てえもんだ。竜の手などと、人を喰ってるにもほどがあらあ。」

「気のせいですよ、お爺さん。そんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">からから</span>の乾ものが、ひとりで動くわけがないじゃありませんか。」

「まま、いいや。」惣平次は、口びるまで白くしていた。「動くわけのねえ物がうごいたんで、ちょいとびっくりしたんだ。おいらの気のせいってことにしておくべえ。」

夜が更けて、狭い家のなかに、斬るような寒気が、迫って来ていた。烈風は、いっそう速度をあつめて、戸外に積み上げた石を撫でる<ruby><rb>柳枝</rb><rt>やなぎ</rt></ruby>の音が、遠浪の崩れるように、おどろおどろしく聞えていた。

三人は、消えかかった炉の火を囲んで、しばらく黙りこくっていたが、やがて、日常の家事のはなしになって<ruby><rb>竜手様</rb><rt>りんじゅさま</rt></ruby>のことは、忘れるともなく、忘れた。

要するに、一時の座興である。

寝につくことになって、老夫婦は、二階へ上る。庄太郎は、階下の炉ばたに、自分の床を敷き出す。

竜手様は、部屋の隅の、茶箪笥の上へ置いて。

<ruby><rb>野猿梯子</rb><rt>やえんばしご</rt></ruby>を上って行く惣平次へ、庄太郎が、またからかい半分に、

「父よ、おめえの床ん中に、百両の金が温まってるだろうぜ、ははははは。」

惣平次は、妙にむっつりして、にこりともせず二階へ消えた。

四

日光が、風を払って、翌朝は、けろりとした快晴だった。

<ruby><rb>藍甕</rb><rt>あいがめ</rt></ruby>をぶちまけたような大川の水が、とろっと淀んで、<ruby><rb>羽毛</rb><rt>はね</rt></ruby>のような微風と、櫓音と、人を呼ぶ声とが、川面を刷いていた。

お石場にも、朝から、陽がかんかん照りつけて、捨て置きの切り石の影は、むらさきだった。

雑草が、土のにおいに<ruby><rb>噎</rb><rt>む</rt></ruby>せんで、春のあし音は、江戸のどこにでもあった。

そんな日だった。

前夜の、理由のない恐怖と妖異感は、陽光が溶かし去っていた。階下の茶箪笥の上の竜手様は、金いろの朝日のなかで、むしろ滑稽に見えた。

手垢と<ruby><rb>埃塵</rb><rt>ごみ</rt></ruby>によごれて、小さく固まっている竜の手――忘れられて、馬鹿ばかしく、ごろっと転がっていた。

朝飯の食卓だった。

庄太郎は、この一つ目からすぐ傍の、<ruby><rb>弥勒寺</rb><rt>みろくじ</rt></ruby>まえ、五間堀の<ruby><rb>逸見</rb><rt>へんみ</rt></ruby>若狭守様のお上屋敷へ、屋根の葺きかえに雇われていて、きょうは、仕上げの日だ。急ぐので、中腰に、飯をかっこんでいた。

おこうが、味噌汁をよそいながら、

「つぎの仕事は、もう当りがおつきかえ。」

「親方のほうに、話して来ているようだ。」

惣平次も、口いっぱいの飯の中から、

「庄公はまだ、瓦職とは言っても、下から瓦を運ぶ組だろう。なかなか屋根へは上げてくれめえ。もっとも、高えところへ上って、瓦を置くようになりゃあ一人前だが――。」

「冗談いっちゃあいけねえ。今度の仕事から、どんどん上へあがって、瓦を並べていらあ。おらあ何だとよ、手筋がいいとよ。親方が、そ言ってた。」

「そうか。この野郎、そいつあ鼻が高えぞ。しかし職人の中で、この瓦職なんざあ豪気なもんよな。殿様が下をお通りになっても、こう、上から見おろして――まったく、家のてっぺんの仕事だからな。床柱を削る<ruby><rb>大工</rb><rt>でえく</rt></ruby>といっしょに、昔から、まず、諸職の上座に置かれてらあ。」

惣平次が、おこうを見ると、おこうは、誇らし気な眼を、庄太郎へやった。

「うんにゃ、おいらなんざあ、駈け出しだから――。」

庄太郎は、得意に、微笑して、丈夫な音を立てて沢庵を噛んでいた。

おこうが、惣平次に、

「十日ばかり、ぱっとしない日が続いたねえ。お洗濯がたまって、<ruby><rb>大事</rb><rt>おおごと</rt></ruby>だよ。」

「手隙を見て、おれが乾してやろう。」

もう起ち上って、庄太郎は、<ruby><rb>法被</rb><rt>はっぴ</rt></ruby>に袖を通した。突っかけ草履で、土間を戸口へ、

「<ruby><rb>父</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>は、今日は、暇かえ。」

「ひまでもねえが、この二、三日、お石舟のお触れもねえから、揚げ石もあるめえと思うのだよ。」

「まあ、石場で、日向ぼっこでもしていなせえ。晩、帰りに、<ruby><rb>安房屋</rb><rt>あわや</rt></ruby>の煮豆でもぶら提げて来らあ。」

思い出して、おこうが言った。

「ゆうべのように風の強い晩などは、なんでもないようでも、やっぱり、心持ちがどうかしているとみえるねえ。馬鹿らしいことを、ちょっと真に受けたりして――。」

惣平次が、訊いた。

「何だ。」

「竜の手さ。竜手さま、とか――。」

「あはははは、おらあ、すっかり忘れていた。」茶箪笥を振り返って、「百両、百両――。」

「そうだ。」庄太郎も、半分戸ぐちを出ながら、「<ruby><rb>昨夜</rb><rt>よんべ</rt></ruby>の百両は、まだ授からねえじゃねえか。今にも、ばらばらっ！　と、こう、天から降って来るかもしれねえぜ。」

妻と息子と、二人にひやかされて、惣平次は、人のよさそうな<ruby><rb>微笑</rb><rt>わらい</rt></ruby>を笑った。

「だが、この天気だ、久住さんも、およろこびで<ruby><rb>早発足</rb><rt>はやだち</rt></ruby>なすったろう――百両か。なあに、おらあその内に、ひょっこり浮いて出ると思ってる。なるほどというような廻り合わせで、手に入るんだ。それに違えねえ。」

と、また、竜手様へ視線を向けると、庄太郎は、

「ははははは、そのことよ。気長に待ちねえ。じゃ、行って来るぜ。」

踊るように弾む若いからだが、石場を通り抜けて、一つ目橋の袂から、往来へ出て行った。

おこうは食事のあと片付け、それから、家の中のこまごました女の仕事に、取りかかる。ひとまわりお石場を掃いて来て、惣平次は、陽の射し込む土間に足を投げ出して、手網の<ruby><rb>繕</rb><rt>つくろ</rt></ruby>いだ。

<ruby><rb>白昼</rb><rt>まひる</rt></ruby>の一刻一ときが、<ruby><rb>寂然</rb><rt>しいん</rt></ruby>と沈んで、経ってゆく。

もうあの、竜手様のことなど、老夫婦のあたまのどこにもなかった。

庄太郎は、弁当を持って行って、<ruby><rb>午飯</rb><rt>ひる</rt></ruby>には帰らない。

正午だ。惣平次とおこうが、さし向かいで、茶漬けを流し込む。

食休みに、雑談になって、おこうが、

「お前さんどう考えているか知らないけれど、庄太郎に、もうそろそろねえ――。」

「嫁の心配かえ。」

「早すぎるってことはありませんよ。心掛けておかなければ、ほかのことと違って、こればかりは、急に、おいそれとは、ねえ。」

「そうだ――しかし、早えもんだなあ。昨日<ruby><rb>蜻蛉</rb><rt>とんぼ</rt></ruby>を釣っていたように思う庄公が、もう嫁のなんのと、そのうちに初孫だ。婆さん、めでてえが、おれたちも、年齢を取ったなあ。」

「ほんとにねえ。それにつけても、庄太郎は働き者だけに、いっそう早く身を固めてやったほうがよくはないかと、わたしゃ思いますよ――おや！　なんでしょう？」

突然、石場を飛んで来る二、三人の乱れた跫音が、耳を打った。

ふり向く間もなかった。

開け放しの土間ぐちを、人影が埋めて、走りつづけて来たらしく、迫った呼吸が、家じゅうにひびいた。

庄太郎の親方の、瓦長、瓦師長五郎と、二、三人の弟子だ。うしろから、用人らしい老人の侍が割り込んで来ようとしていた。

呑みかけの茶碗をほうり出して、惣平次は、突っ立った。おこうも、上り<ruby><rb>框</rb><rt>がまち</rt></ruby>へいざり出て、

「何でござります、何事が起りました。」

長五郎は、鉢巻を脱って、ぐいと額の汗を拭いながら、やっと、声を<ruby><rb>調</rb><rt>ととの</rt></ruby>えた。

「何とも、誰の<ruby><rb>粗相</rb><rt>そそう</rt></ruby>でもねえんで――運でごわす。」

惣平次夫婦は、唾を飲んで、奇妙に無関心に、黙っていた。

弟子の一人が、興奮した声だ。

「おらあ見ていたんだが、足が辷って、真っ逆さまに落ちたもんだ。下にまた、間の悪いことにゃあ、こんなでっけえ飛石が――。」

おこうの眼が、一時に<ruby><rb>上吊</rb><rt>うわづ</rt></ruby>った。

「あの、庄公が――庄太が――！」

「お気の毒で――、」長五郎は、ぴょこりと頭を下げた。「何と言ったらいいか、挨拶が出ねえ――。」

膝が折れて、惣平次は、がたがたと、そこの履物を掴んだ。

押し退けて、駈け出そうとした。

長五郎の背後から出て来た侍が、前に立った。

「察する、が、取り乱してはならぬ。これ、取り乱してはならぬ！」

「大怪我、大怪我、でござりますか、庄公は。」

「うむ。まず、怪我は大きい。」

惣平次の両手が、侍の袴を掻いた。

「苦しんで、おりますか、苦しんで。」

「苦しんでは、おらぬ。」

「ああよかった。それでは、たいしたことはないので――。」

「もう、苦しんではおらぬ。」静かに、「極楽――。」

「ははあ――。」と、意味が、はっきり頭へ来ると、惣平次は、上り口に腰をおろした。宙を見詰めたまま、そっと、老妻の手を取った。

ふと、長いしずけさが落ちた。

「ひとり息子でした。」惣平次の口唇が、動いた。「孝行者で――。」

誰も、何とも言わなかった。

侍が、咳をして、

「わしは、逸見家の用人だが、屋敷の仕事中に亡くなったのじゃからと、<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>より、特別の思召しをもって、破格の<ruby><rb>葬金</rb><rt>とむらいきん</rt></ruby>を下し置かれる。その使いにまいった。」

おこうと惣平次は、ぽかんと顔を見合っていた。

「一職人に対して、前例のないことじゃが、」用人は、つづけて、「百両の<ruby><rb>香奠</rb><rt>こうでん</rt></ruby>、ありがたくお受けしまするように。」

「え？」

惣平次が、訊き返した。

「<ruby><rb>爺</rb><rt>とっ</rt></ruby>つぁん、百両だ。百両――。」

長五郎が口を添えると、

「百両！　ううむ、百両、か。」

と、呻いて、突如、真っ黒な恐怖が、むずと惣平次を掴んだ。

咽喉の裂けるようなおこうの叫びが、惣平次には、聞えなかった。かれは、気を失って、ぐったりと円く、土間へ崩れた。

五

水戸様お石場番所の番人の倅で、瓦職の庄太郎というのが、仕事先の、逸見若狭守お屋敷の屋根から、誤って滑り落ちて、飛び石で<ruby><rb>頭蓋</rb><rt>あたま</rt></ruby>を砕いて死んだ――それはそれとして、その陰に、こんな<ruby><rb>面妖</rb><rt>めんよう</rt></ruby>な話がある。

――と、風のように聞き込んだ八丁堀合点長屋の岡っ引釘抜藤吉が、乾児の勘弁勘次にも葬式彦兵衛にも告げずに、たった一人で、その、本所一つ目の、岬のようになっているお石揚場の一軒家へ出かけて行ったのは、ちょうど、庄太郎の初七日の晩だった。

いかにも、奇体な話だ。

ただ、直接老夫婦の口から、詳しく聴いておきたいと、そう思ってやって来た藤吉だったが、

「御免なさい。あっしは、八丁堀の者ですが――。」

戸を開けるとすぐ、異妖に悲痛な気持ちに打たれて、藤吉は、声を呑んでしまった。

あの晩と同じに、炉に火が燃えて、煙の向うから、別人のように<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れた惣平次が、

「八丁堀のお方が、何しにお見えなすった。」

<ruby><rb>虚</rb><rt>うつ</rt></ruby>ろな、咎めるような口調だ。

「じつあ、ちょいと、見せてもらいてえ物がありやしてね。その――。」

竜の手、とは言わなかったが、老人は、すぐそれと感づいたに違いない。嫌な顔をして、黙った。

藤吉は、構わず、上り込んで、部屋の隅の壁に<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れて、坐った。

仏壇に、新しい白木の位牌が飾ってある。燈明の灯が、隙間風に、横に長かった。

惣平次とおこうは、炉を挾んで対坐したまま、黙して、石のように動かない。勝手に上り込んで、影のように壁ぎわに腕を組んでいる、見慣れない、不思議な客――いや、その藤吉親分を、ふしぎな客と感ずるよりも、藤吉の存在それ自身が、二人の意識に入っていないらしいのだ。

「あの部屋で、三人じっと<ruby><rb>無言</rb><rt>だんまり</rt></ruby>でいた時ほど、凄いと思ったことはねえよ。」

後で藤吉が、述懐した。

本所の南、五本松の<ruby><rb>浄巌寺</rb><rt>じょうがんじ</rt></ruby>に、庄太郎の<ruby><rb>遺骸</rb><rt>なきがら</rt></ruby>を埋めて、今は<ruby><rb>陰影</rb><rt>かげ</rt></ruby>と静寂の深い家に、老夫婦は、こうして、ぼんやりすわって来たのだった。

あんまり急な出来事なので、庄太郎の死を、現実に受け取ることは、なかなかできなかった。いまにも、あの元気な顔で、最後の朝、出がけに言ったように、安房屋の煮豆でも提げて、ぶらぶら<ruby><rb>帰宅</rb><rt>かえ</rt></ruby>って来そうな気がしてならない。

とにかく、これでお<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>いという法はない。これで、すべてがおわったのでは、自分たちの老いた心に、あまりにも残酷すぎる。こんなはずはないのだ――ふたりは、そう信じきっているようだった。今に、何かきっと、いいことが起る。なにもかも、とど笑いばなしになるような、素晴らしい突発事が、近く待っていなければならない。

そして、庄公は<ruby><rb>帰宅</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってくる。必ず、にこにこ笑って、かえってくる！

と、固く、思いこんでいるようすなのだ。

が、日を経るにつれて、この、考えてみると<ruby><rb>根拠</rb><rt>よりどころ</rt></ruby>のない期待は、薄らぐ一方だった。<ruby><rb>万一</rb><rt>もしや</rt></ruby>の<ruby><rb>儚</rb><rt>はか</rt></ruby>ない希望が、しんしんと心を刻む痛さ、寒さに、置き代えられて来た。

おこうも惣平次も、言葉を交さなかった。口をきかなかった。何も、いうことを有たないのだった。日が、長かった。夜は、もっと長かった。

やがて、初七日の今夜だった。

通夜をするような心持ちで、壁を背に、じっと坐している藤吉に、細い、低い、押し潰れた声が、聞えて来た。

また、おこうが、<ruby><rb>涕</rb><rt>すす</rt></ruby>り泣いているのだった。

「寒い。二階へ上って、寝ろよ。」

惣平次が、言った。

「つめたい石の下で、庄坊こそ、どんなに寒いことか――。」

おこうは、こう言って、泣き声を新たにした。が、すぐに止んで、藤吉の見ているまえで、おこうの小さなからだが、すうっと伸びて起った。

「手じゃ！」人間の声らしくない声なのだ。「竜の手じゃ！　ほれ、ほれ、竜手様――。」

藤吉よりも、惣平次が、<ruby><rb>慄然</rb><rt>ぞっ</rt></ruby>としたらしかった。

「どこに、どこに<ruby><rb>竜手</rb><rt>りんじゅ</rt></ruby>さまが――おこう、どうした。」

炉を廻って、<ruby><rb>老夫</rb><rt>おっと</rt></ruby>の前へ進んで、

「貸して下さいよ、竜手様を。」おこうは、もう平静にかえっていた。「棄てやしますまいね。」

「押入れの奥に、投げ込んである。なぜだ。どうするんだ。」

泣き笑いが、おこうの全身を走り過ぎると、ふっと彼女は、不自然な、真面目な顔だった。

「思いついたことが、あるんですよ。なぜ早く、気がつかなかったろう――お前さんも、ぼんやりしてるじゃないか。嫌だよ、ちょいと！」

急に、若やいだ態度で、おこうは、娘のように、甘えた手を振り上げて、打つ真似をした。ぎょっとして、惣平次が、一歩退った。

「何を、なにを思いついたと――。」

「あれ、もう二つの願いさ。三つ叶えてもらえるんだろう？　あと二つ残ってるじゃあないか。」

「竜手様のことか。馬鹿な！　止せ！　あの一つで、おれは、おれは――もうたくさんだ。」

「そうじゃないんだよ。わからない人だねえ。」

おこうは、奇怪に、少女めいた声音になって、しなだれかかるように、

「もう一つだけ、願ってみようよ。よう、もう一つだけさ。はやく、竜手様をお出し！　さ、庄公が、今すぐ立派に生き返りますようにって、ね、願うんですよ。」

暗い隅から、藤吉は、光った眼を上げて、<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたず</rt></ruby>を呑んだ。

ひっそりと、沈黙がつづいた。

「何をいう――気でも違ったのか。」

「お出し！　竜手様をお出しってば！　しっかり、お願いするんだよ。たった今、庄太郎が生きかえって来ますように――。」

惣平次は、手を、妻の肩へやって、優しく、

「寝な。な、寝なよ、二階へ上って、よ。」

おこうが、激しく振り切って、老夫婦は、二人でよろめいた。

「おこう、お前は、どうかしているな。」

「どうもしてやしませんよ。初めの願いが叶ったのだから、二番目の願いも、聞き届けられるにきまってるじゃないか。竜手さまを持っておいでというのに、どうして持って来ない。ようし！　どうあっても、願わないか。」

眼が、血走って来た。白髪が、<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えて、顔へかかった。

はじめて気がついたように、ちらと藤吉を見て、惣平次は、平らな声を出そうとつとめた。

「いいか。死んでから、何日経ったと思う――。」

「お願いするんだよ。竜手様へお願いするんだよ。なぜ願わないか。」

おこうは、惣平次へ武者振りついて、異常な力で、押入れのほうへ引きずった。

二人の影が、もつれて、天井に、壁に、大きく拡がって、揺れた。

老いた人々の、<ruby><rb>痩脛</rb><rt>やせずね</rt></ruby>も、<ruby><rb>肋骨</rb><rt>あばら</rt></ruby>も、露わにしての<ruby><rb>抗争</rb><rt>あらそい</rt></ruby>は、見ている藤吉に、地獄――という言葉を想わせた。

「惣平！　出せ！　出して、願うんだ。」

思わず出た、藤吉の声だった。

六

偶然ではあろう。竜手様という、竜の手が、海蛇の乾物か、とにかく、伝説的な品ものを手に入れて、それに、いたずら半分の試しごころから、百両の金を祈った翌日、ちょっとした自分の不注意で、庄太郎があんなことになったのは、つまり、そういう巡り合わせだったのだろう。

その逸見家の香奠が、百両だったばっかりに、ちょうど、この願いが届くために、百両のかたに庄太郎の生命を奪られたようなことになって、そこに、言いようのない怪異が生じるものの、所詮は、偶然――すべてが、再び、そういう廻りあわせだったのだ、と、藤吉は、信じたかった。

不可思議――どうしても、人間の力で説明がつかないなどということは、この人間の世の中に、あり得ない。

一見、まことに不可思議な事件であっても、それはみな、一言の下に明かにすることができる――「偶然事」という簡単な言語で。

否、不可思議な出来事であれば、あるほど、その連鎖に、偶然の力が色濃く働いていて、いっそう解決は容易なのである。

釘抜藤吉は、<ruby><rb>漠然</rb><rt>ぼんやり</rt></ruby>とだが、いつも、こんなようなことを考えていた。岡っ引藤吉の、岡っ引らしい、これが、唯一の持論だったと言っていい。

が、この竜手様の一件だけは、その最後まで考え合わせると、ただ単なる偶然として、片づけ去ることのできないものがあるように、思われてならない。

「薄っ気味の悪い不思議だて――。」後あとまで、藤吉はよくこう呟いて、首を捻ったと言う。不思議ということばを、釘抜藤吉は、はじめて口にしたのだった。

偶然を、藤吉親分は、巡り合わせと呼んでいたが、そのめぐりあわせだけでは説き得ない、割りきれないものが、<ruby><rb>藤吉</rb><rt>かれ</rt></ruby>の心に残ったに相違なかった。

惣平次は、しなだれて、押入れを開けた。奥へ這い込むようにして、しばらく押入れ中ごそごそ言わせていたが、やがて、<ruby><rb>発見</rb><rt>みつ</rt></ruby>け出した竜手様を、汚なそうに、怖ろしそうに、指さきに挾んで、腰を伸ばした。

額部が、汗に冷たく、盲目のように、空に両手を泳がせて、部屋の真ん中に立った。

おこうの顔も、米のように、白く変っていた。いま何よりも惣平次の恐れている、いつものおこうのようでない表情が、眉から眼の間に漂って、すっかり、相違いがしていた。

「願いなさい！」

強い声だ。おこうが、命令したのだ。藤吉もわれ知らず起って、炉の火の投げる<ruby><rb>光野</rb><rt>ひかり</rt></ruby>のなかへ、はいって来ていた。

「ばかばかしい――。」

惣平次が、呻くと、おこうは、蒼白く笑って、

「お前さんこそ、そのばかばかしいことで、庄太郎を殺したんじゃないか。お前さんが、百両の代に殺した庄吉を、生き返らせるんですよ。さ、願いなさい！」

竜手様を持った惣平次の<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>が、高く上がった。

「どうぞ、庄太郎が生きかえって来ますように――。」

「今すぐ！」

「今すぐ！」

竜手様は、畳へ落ちて、小さくもんどりを打った。それを見つめながら、惣平次も、気が抜けたように、べたんと坐っていた。

おこうは、異様に燃える眼を、土間の戸口へ据えて、男のように、立ちはだかったままだった。

三人を包んで、深夜の<ruby><rb>静寂</rb><rt>しじま</rt></ruby>が、ひしめいた。

つと、おこうが、しっかりした足取りで、部屋を横切った。そして、石場に面した<ruby><rb>連子窓</rb><rt>れんじまど</rt></ruby>の雨戸を開けて、<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>に見入った。

湿った闇黒が、音を立てて流れ込んで来て、藤吉は、屋棟を過ぎる風の音を、聞いた。

いつの間にか、黒い風が出ていた。

七日前の晩と同じ、ひどい<ruby><rb>烈風</rb><rt>かぜ</rt></ruby>だ。大川の水が、石場の岸に白く泡立っていた。柳が、枝を振り乱して、陰惨な夜景である。この番所の一軒家は、突風に踏みこたえて、戸障子が、悲鳴を揚げているのだ。斬られるような、寒気だ。それが、河風に乗って迫って来た。積み石を撫でる柳枝の音が、遠浪のように、おどろおどろしく耳を噛んだ。おこうは窓のまえを動かない。

冷えた肩を硬張らせた惣平次は、その、<ruby><rb>老妻</rb><rt>つま</rt></ruby>の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>すがたに眼を凝らして、ちょこなんと、坐ったきりだ。

諦めたらしく、おこうが窓を締めて、炉ばたへ引っ返そうとした時である。

野猿梯子が、ぎしと<ruby><rb>軋</rb><rt>きし</rt></ruby>んで、つづいて、壁の中を掠めて、鼠が騒いだ。行燈の油が足りなくなったのか、圧迫的なうす暗がりが、四隅から、絞ってきていた。

戸を、そとから叩く音がするのだ。三人の顔が、合った。いっしょに、戸のほうを向いて、おこうが、

「何でしょう――。」

惣平次は、ちら、ちらと、藤吉へ眼を走らせて、

「鼠だ。」

戸を叩く音が、高くなった。

「庄太郎です！　庄公が来た、おう！　庄公が来た。」

おこうが、叫んで、<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>で、土間へ駈け下りた。

「おうお、庄太かい。いま開けるよ。今あけるよ。」

割れるように戸を叩く音が、家じゅうに響いた。すると、惣平次は、その怪しい場面が、たまらなくなって来たのだ。頭部を砕いた庄太郎が、墓へ埋めたままの姿で、いまここへはいって来ようとしている、竜手様に呼ばれて――。惣平次は、わが子ながら、その妖怪庄太郎の帰宅が、恨めしかった。厭わしかった。入れてはならない。そんな気がして、また、藤吉を見やると、藤吉の視線も、いつになく<ruby><rb>戦</rb><rt>おのの</rt></ruby>いて、同じ意味を<ruby><rb>返事</rb><rt>かえ</rt></ruby>して来た。

おこうの手が、戸にかかって、がたぴし開こうとしている。そとに立って、戸を叩いている「物」の、白い着衣――<ruby><rb>経帷子</rb><rt>きょうかたびら</rt></ruby>が風にひらひらして、見えるのだ。惣平次は、一直線に土間へ跳んで、おこうを押し退けようとした。が、おこうが、「何をするの！　寒いお墓から来たんじゃないか。五本松の浄巌寺から――庄太郎なんだよ！　庄太が来てるんですよ！」

戸にしがみついて、また、一、二寸引き開けた。同時に、どんと一つ、戸外から、大きく戸が叩かれた。

戸は、開こうとしている。惣平次は、六畳を這い廻って、手探りに、竜手様を捜しているのだ。戸が開くまでに、右手に握りさえすれば――あった！　戸が、あいた。

「さあさ、庄太郎や、おはいり、寒かったろうねえ。」

このおこうの声を消して、惣平次が、竜手様をかざして、三つめの、最後の願いを呶鳴った。

「庄太が元の墓場へ帰りますようにッ！」

藤吉は戸へ走って覗いたが、重い風が飛び込んで来て、炉の火を<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>っただけで、そとには、誰もいなかった。