一

人影が動いた、と思ったら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すうっ</span>と消えた。

気のせいかな、と<ruby><rb>前方</rb><rt>まえ</rt></ruby>の<ruby><rb>暗黒</rb><rt>やみ</rt></ruby>を見透しながら、早耳三次が二、三歩進んだ時、橋の下で、水音が一つ寒々と響き渡った。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっ</span>とした三次、欄干へ倚って下を覗いた。大川の水が星を浮かべて満々と淀み、<ruby><rb>𣏾</rb><rt>くい</rt></ruby>を打って白く砕けている。その黒い水面を浮きつ沈みつ、人らしい物が流れていた。

「や、跳びやがったな！」

思わず叫ぶと、大川橋を駈け抜けて、三次は、材木町の<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>に立った腰を屈めて窺う夜空の下、垂れ<ruby><rb>罩</rb><rt>こ</rt></ruby>めた<ruby><rb>河靄</rb><rt>かわもや</rt></ruby>のなかを対岸北条、秋山、松平の屋敷屋敷の<ruby><rb>洩灯</rb><rt>もれび</rt></ruby>を受けて、真黒な物が水に押されて行くのが見える。

「この寒空に――ちっ、世話あ焼かせやがる！」

手早く帯を解いて、呶鳴りながら川下へ走った。

「身投げだ、身投げだ、身投げだあっ！」

起きいる商家から人の出て来る物音の流れて来るところを受ける気で、三次、ここぞと思うあたりから飛び込んだ。

人間というものは変な動物で、どこまでも身勝手にできている。どうせ水死しようと決心した以上、暑い寒いなぞは問題にならないはずだが、最後の瞬間まですこしでも楽な途を選びたがるのが本能と見えて、夏は暑いから入水して死ぬ者が多いが、冬は、同じ自殺するとしても、冷たいというので水を避けて他の方法をとる場合が多い。だから、冬期の投身自殺はよくよくのことで、死ぬのに<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby><ruby><rb>真個</rb><rt>ほんと</rt></ruby>というのも変なものだが、これにはふとした一時の出来心や、見せつけてやろうという意地一方のものや、狂言なぞというのは絶えてありえない。それに、たいがいの投身者が、水へはいるまでは死ぬ気でいても、いよいよとなると苦しまぎれに<ruby><rb>踠</rb><rt>もが</rt></ruby>いて助けを呼ぶのが普通だが、今この夜更けに、大川橋の上から身を躍らして濁流に浮いて行く者は、男か女かはわからなかったが、よほどの覚悟をきめているらしく、<ruby><rb>滔々</rb><rt>とうとう</rt></ruby>たる水に身を任せて<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>一つ立てなかった。

抜手を切って泳ぎ着いた三次、心得があるから<ruby><rb>頓</rb><rt>とみ</rt></ruby>には近寄らない。<ruby><rb>瞳</rb><rt>め</rt></ruby>を凝らして見るとどうやら女らしい。海草のような黒髪が水に揺れて、手を振ったのは救助御無用というこころか。が、もとより、へえ、そうですか、と引っ返すわけにはゆかない。強く脚を<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>って前に廻った三次、背中へ<ruby><rb>衝突</rb><rt>ぶつか</rt></ruby>って来るところを浅く水を潜って<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ抜けた。神伝流で言う水枕、溺死人引揚げの奥の手だ。藁をも掴むというくらいだから<ruby><rb>真正面</rb><rt>まとも</rt></ruby>に向っては抱き付かれて<ruby><rb>同伴</rb><rt>みちづれ</rt></ruby>にされる。うしろへ引っ外しておいて、男なら<ruby><rb>水褌</rb><rt>すいこん</rt></ruby>の結目へ手を掛けるのだが、これは女だから、三次、帯を押さえた。左手で握って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐっ</span>と引き寄せ、肘を相手の腋の下へ挾むようにして持ち上げながら、右手で切る片抜手竜宮覗き。水下三寸、人間の顔は張子じゃないから濡れたって別条ない。それを無理に水から顔を上げようとするから間違いが起る。三次、女を引いて楽々岸へ帰った。

岸に立って舟よ綱よと騒いでいた連中、総掛りで引き上げてみると、水を多量に呑んだか、なにしろ寒中のことだから耐らない。女はすでに事切れていた。

近辺の者だから、皆一眼見て水死人の身許は知れた。材木町の<ruby><rb>煎餅屋渡世</rb><rt>せんべいやとせい</rt></ruby>瓦屋伊助の女房お藤というのが、その人別であった。

三次が指図するまでもなく、誰か走った者があると見えて、瓦屋伊助が<ruby><rb>息急</rb><rt>いきせき</rt></ruby>きって駈けつけて来た。伊助、初めは呆然として突っ立ったきり、足許の女房の死体を見下ろしていたが、やがて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がっくり</span>と膝をつくと、手放しで男泣きに<ruby><rb>哭</rb><rt>な</rt></ruby>きだした。集った人々も思わず提灯の灯を<ruby><rb>外向</rb><rt>そむ</rt></ruby>けて、なかには念仏を唱えた者もあった。

そのうちに、

「畜生ッ！」

と叫んで、伊助が起き上った。眼が血走って、顔は狂気のように<ruby><rb>蒼褪</rb><rt>あおざ</rt></ruby>めていた。

「己れッ！　おふじの<ruby><rb>仇敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>だ――。」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふらふら</span>と歩き出そうとするのを、三次が抱きとめた。

「おお親分か――三次親分、お騒がせ申して、また、あんたが引き揚げて下すったそうで、まことに、あいすみません、あいすみません。だが、こ、これはあんまりでげす。こうまでして証を立てられてみちゃあ、あっしも男だ。これから、これからすぐに踏ん込んで――。」

<ruby><rb>塞</rb><rt>せ</rt></ruby>かれていた水が一度に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どっ</span>と流れ出るように、伊助は<ruby><rb>吃</rb><rt>ども</rt></ruby>りながら何事か言いたてようとする。貧乏世帯でも気苦労もなく普段からしごく晴々していた若女房の不意の入水、これには何か深い<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>がなくてはかなわぬと先刻から眼惹き袖引き聴耳立てていた<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>の一同、ここぞとばかりに<ruby><rb>犇々</rb><rt>ひしひし</rt></ruby>と取り巻いてくる。

三次、素早く伊助の言葉を折った。

「まあま、仏が第一だってことよ。<ruby><rb>地面</rb><rt>じべた</rt></ruby>に放っぽりかしちゃあおけめえ。あっしが通りかかって飛ぶ所を見て、死骸だけでも揚げたというのも、これも何かの因縁だ。なあ伊助どん、話あ<ruby><rb>自宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ<ruby><rb>帰</rb><rt>けえ</rt></ruby>ってゆっくり聞くとしょう。とにかく、<ruby><rb>仇敵討</rb><rt>かたきう</rt></ruby>ちってのは<ruby><rb>穏和</rb><rt>おだやか</rt></ruby>じゃあねえ。<ruby><rb>次第</rb><rt>しでえ</rt></ruby>によっちゃ<ruby><rb>腕貸</rb><rt>うでかし</rt></ruby>しねえもんでもねえから、さあ行くべえ。死んでも女房だ、ささ、伊助どん、お前お藤さんを抱いてな――おうっ、こいつら、見世物じゃあねえんだ！　さあ、退いた、どいた。」

二人で死体を運んで、三次と伊助、材木町通りのなかほどにある伊助の店江戸あられ瓦屋という煎餅屋へ帰って行った時は、冬の夜の<ruby><rb>丑満</rb><rt>うしみつ</rt></ruby>、大川端の<ruby><rb>闇黒</rb><rt>やみ</rt></ruby>に、<ruby><rb>木枯</rb><rt>こがらし</rt></ruby>が吹き荒れていた。

二

<ruby><rb>蔵前旅籠町</rb><rt>くらまえはたごちょう</rt></ruby>を西福寺門前へ抜けようとする<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>に、<ruby><rb>万髪飾</rb><rt>よろずかみかざ</rt></ruby>り<ruby><rb>商売</rb><rt>あきない</rt></ruby>で亀安という<ruby><rb>老舗</rb><rt>しにせ</rt></ruby>があった。

十八日の四谷の祭りには、女房お藤が親類に招かれて遊びに行くことになっていたので、<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>まえからの約束もあり、今朝伊助は、貧しい中からいくらかの鳥目をお藤に持たせて、根掛けの<ruby><rb>板子縮緬</rb><rt>いたこちりめん</rt></ruby>を買いに亀安へ<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ったのだった。

女房とはいえまだ子供子供したお藤。かねて欲しがっていた物が買って貰えることになったので、朝早くからひとりで<ruby><rb>噪気</rb><rt>はしゃ</rt></ruby>いで、煎餅の仕上げが済むと同時に、夕暮れ近く<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いそいそ</span>として<ruby><rb>自宅</rb><rt>いえ</rt></ruby>を出て行ったが、それが小半時も経ったかと思うころ、<ruby><rb>蒼白</rb><rt>まっさお</rt></ruby>な顔に歯を喰い縛って裏口から帰って来て、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わっ</span>とばかりに声を揚げて台所の板の間に泣き伏してしまった。

<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>した伊助、飛んで行ってお藤を抱き起し、いろいろと問い<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>してみたものの、ただ、

「<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しい、くやしいッ！」

と泣くだけで、お藤は何とも答えなかった。

女房思いで気の弱い伊助が、途方に暮れて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おろおろ</span>しているところへ、間もなく、小間物屋亀安の番頭が、頭から湯気を立てて、<ruby><rb>豪</rb><rt>えら</rt></ruby>い<ruby><rb>権幕</rb><rt>けんまく</rt></ruby>で乗り込んで来た。

<ruby><rb>此家</rb><rt>こちら</rt></ruby>のお内儀かは存じませんが、それ、そこにいる御新造――とお藤を指して――が、私どもの店で、二十五両もする平珊瑚の細工物を<ruby><rb>万引</rb><rt>ちょろま</rt></ruby>かしたから、今この場で、品物を返すか、それとも耳を揃えて代金を払ってくれればよし、さもなければ、出るところへ出て話を付けて貰おう、それまではこのとおり、店頭へ据わり込んで動かないという言分。煎餅どころじゃない。瓦屋の一家――といっても夫婦二人だが――とんでもない騒動になった。

正直一徹の伊助が、発狂するほど驚いたことは言うまでもない。お藤は、それでも、泣きながら首を振って、あくまでも身に覚えのないことを<ruby><rb>主張</rb><rt>いいは</rt></ruby>ったが、番頭はいよいよ<ruby><rb>権</rb><rt>かさ</rt></ruby>にかかる一方、お藤は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よよ</span>と哭き崩れる。その間に立って気も<ruby><rb>顛倒</rb><rt>てんとう</rt></ruby>した伊助、この時思い付いたのが、証拠の有無という重大な一事であった。

「ねえ親分。」と伊助は三次のほうへ膝を進めて、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しが</span>ない渡世こそしているものの、<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>に<ruby><rb>背後指</rb><rt>うしろゆび</rt></ruby>差されたことのない<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>、夫の口から言うのも異なものだが、<ruby><rb>彼女</rb><rt>あれ</rt></ruby>とても同じこと、あいつにかぎってそんな大それたことをするはずは毛頭ありません。こりゃあ何かの間違えだ。いくら先様が<ruby><rb>大分限</rb><rt>だいぶげん</rt></ruby>でもみすみす<ruby><rb>濡衣</rb><rt>ぬれぎぬ</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>き</rt></ruby>せられて泣寝入り――じゃあない、突出されだ、その突出されをされるわきゃあない、とこう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>は思いましたから――。」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぽん</span>と<ruby><rb>吐月峯</rb><rt>はいふき</rt></ruby>を叩いた三次、

「だが伊助どん、待ちねえよ。ただの<ruby><rb>難癖言掛</rb><rt>なんくせいいがか</rt></ruby>りじゃすまねえことを、そうやって担ぎ込んで来るからにゃあ、<ruby><rb>先方</rb><rt>むこう</rt></ruby>にだってしかとした証拠ってものがあろうはず。」

「へえ。あっしもそこを突っ込みやしたが。」

「何ですかえ、その亀安の番頭は、お藤さんが<ruby><rb>珊瑚</rb><rt>さんご</rt></ruby>を釣る現場を<ruby><rb>明瞭</rb><rt>はっきり</rt></ruby>見たとでも言いましたかえ。」

「めっそうな！」

「そんならいってえ、何を<ruby><rb>証拠</rb><rt>たて</rt></ruby>に、お藤さんに<ruby><rb>疑</rb><rt>うたげ</rt></ruby>えをかけたんですい？」

なんでも番頭の話では、お藤が店へはいると間もなく、そこにあった珊瑚が一つ失くなったことに気がついたので、店じゅう総出で探したが見当らないから、この上はと理解を付けてお藤を奥へ<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行き、一応身柄をさぐろうとしたら、お藤はその手を振り解いて泣きながら逃げ帰ったという。

「親分、身柄調べたあひどうがしょう。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>もそこを言ってやりやした。瘠せても枯れても<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>の<ruby><rb>嚊</rb><rt>かか</rt></ruby>あへよくも――。」

「でなにかえ伊助どん。そう追っかけてまで<ruby><rb>捩</rb><rt>ね</rt></ruby>じ込んできたんだから、<ruby><rb>此家</rb><rt>ここ</rt></ruby>で、お前さん<ruby><rb>立会</rb><rt>たちえ</rt></ruby>えのうえで、改めて身柄しらべをしたろうのう、え？」

「へえ。」

「品物は、出やしめえの？」

「親分、それが出ねえくらいなら、お藤も死なずに済むはず――。」

「なに？　てえと、出たのか。その珊瑚がお藤さんの身柄から出たのか。」

「へえ。」

「ふうむ。それからどうした。」

「それから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>も呆れて情なくなって、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ずうっ</span>と口もきかずにいると、お藤は突っ伏したきりでいやしたが、夜中に走って出てとうとう――。」

「いや、お藤さんにかぎってそんな賊を働くなんてことのあるはずはねえが。」

「親分、あ、あんたがそうおっしゃって下さりゃあ、こいつも浮かばれます。」

隅に蒲団を被せてある死人を返り見て、伊助は鼻をすすった。

「しかし伊助どん。」<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぴりっ</span>とした調子で三次がつづける。「現物が出た以上、それが何よりの証拠だ。やっぱりお藤さんが盗ったものに相違あるめえ。その珊瑚はどうしたえ？」

「番頭が持って帰りやした。」

「のう伊助どん、つかねえことを訊くようだが、お藤さんは月のさわりじゃなかったかな。よくあることよ。月の物のさいちゅうにゃあ<ruby><rb>婦女</rb><rt>おなご</rt></ruby>は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふっ</span>と魔が差すもんだ。ま、気が咎めて自滅したんだろ。<ruby><rb>葬</rb><rt>とむれ</rt></ruby>えが<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>だ。」

三次は立ち上った。そして、気がついたように、

「お藤さんのどこから、珊瑚が出ましたえ？」

「へえ。帯の間から。」

という伊助の返事に、三次は蒲団を<ruby><rb>捲</rb><rt>まく</rt></ruby>って、しばらく死人の帯を裏表審べていたが、やがて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つ</span>と顔を上げると、

「伊助どん、この家に、<ruby><rb>固煉</rb><rt>かたね</rt></ruby>りの<ruby><rb>鬢付</rb><rt>びんつ</rt></ruby>け<ruby><rb>伽羅油</rb><rt>きゃらあぶら</rt></ruby>があるかえ。」

「さあ――お藤は伽羅は使わなかったようですが。」

「うん。そうだろ。こりゃあちっと詮議してみべえか。もしお藤さんが<ruby><rb>潔白</rb><rt>けっぱく</rt></ruby>となりゃあ、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>に助太刀して仇敵討ちだ。存外おもしれえ狂言があるかもしれねえ。まま明日まで待っておくんなせえ。」

口唇へ付ける<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うし</span><ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>は、<ruby><rb>寒</rb><rt>かん</rt></ruby>の<ruby><rb>丑</rb><rt>うし</rt></ruby>の日に<ruby><rb>搾</rb><rt>しぼ</rt></ruby>った牛の血から作った物が載りも<ruby><rb>光沢</rb><rt>つや</rt></ruby>も一番好いとなっているが、これから由来して、寒中の丑の日に水揚げした珊瑚は、地色が深くて<ruby><rb>肌理</rb><rt>きめ</rt></ruby>が細かく、その上、ことのほか<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>りが固いが、細工がきくところから、これを丑紅珊瑚と呼んで、<ruby><rb>好事</rb><rt>こうず</rt></ruby>な女たちのあいだに<ruby><rb>此上</rb><rt>こよ</rt></ruby>なく珍重されていた。ことに蔵前の亀安と言えばこの紅珊瑚の細工で売出した老舗、今日問題になった品も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うし</span>紅物で、細長い平たい面へ九に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">い</span>の字の<ruby><rb>紀国屋</rb><rt>たのすけ</rt></ruby>の紋を彫った若意気向き、<ruby><rb>田之助</rb><rt>たゆう</rt></ruby>全盛の時流に投じた、なにしろ金二十五両という亀安自慢の売出物だったとのこと。

伊助の口からこれだけ聞出すと、早耳三次、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そそくさ</span>と瓦屋の家を出た。

明けにも間がある。何かしきりに考えながら<ruby><rb>帰路</rb><rt>かえり</rt></ruby>を急いで、三次は花川戸の<ruby><rb>自宅</rb><rt>いえ</rt></ruby>を起した。

三

<ruby><rb>紺</rb><rt>こん</rt></ruby>の<ruby><rb>亀甲</rb><rt>きっこう</rt></ruby>の<ruby><rb>結城</rb><rt>ゆうき</rt></ruby>、<ruby><rb>茶博多</rb><rt>ちゃはかた</rt></ruby>の帯を<ruby><rb>甲斐</rb><rt>かい</rt></ruby>の口に、渋く堅気に<ruby><rb>份</rb><rt>つく</rt></ruby>った三次、夜が明けるが早いか亀安の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>を潜った。

四十あまりの大番頭が端近の火鉢に<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れて店番しているのを見て、三次は、ははあ、これが昨日瓦屋へ談じ込んで行った白鼠だな、と思った。

上り<ruby><rb>框</rb><rt>がまち</rt></ruby>へ腰を下ろしながら見ると、上り際の縁板の上へ出して、畳から高さ一尺ほどの<ruby><rb>紫檀</rb><rt>したん</rt></ruby>の台が置いてあって、<ruby><rb>玳瑁</rb><rt>たいまい</rt></ruby>の櫛や<ruby><rb>翡翠</rb><rt>ひすい</rt></ruby><ruby><rb>象牙</rb><rt>ぞうげ</rt></ruby><ruby><rb>水晶</rb><rt>すいしょう</rt></ruby><ruby><rb>瑪瑙</rb><rt>めのう</rt></ruby>をはじめ、金銀の細工物など、値の張った<ruby><rb>流行</rb><rt>はやり</rt></ruby>の品が、客の眼を惹くように並べてあった。台の<ruby><rb>上部</rb><rt>うえ</rt></ruby>は土間に立つと三尺ほどの高さで、<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>せ板が左右に一寸ほど<ruby><rb>食</rb><rt>は</rt></ruby>み出ているぐあいが、なんのことはない、経机の形だった。

大店だから三次もなにかと出入りすることがあったが、いちいち店の者の顔を<ruby><rb>視覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えているほどではなかったので、三次が、身分を明かして根掘り葉掘り訊き出すまでは、亀安のほうでも、昨日のことについては容易に口を開こうとはしなかった。

が、煎餅屋の女房が身投げして、それについて花川戸の早耳親分が出張って来たとあっては、何もかも割って話さざるを得ない。

昨日の午後、というよりも夕方だった。

煎餅屋の女房が買物に来て、根掛けを選んでいるうちに、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふ</span>と見ると、今まで台の上にあった<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うし</span>紅珊瑚が一つ足らなくなっている。で、小僧を<ruby><rb>励</rb><rt>はげ</rt></ruby>ましてそこらを捜して見たが見当らない。すると、前から来ていて買物を済まして、その時出て行こうとしていたお<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>ふうの粋な女が、供の下女と一しょに引っ返して来て、こういう<ruby><rb>事件</rb><rt>こと</rt></ruby>ができた以上、このまま帰るのは気持ちが悪いから、気のすむように身柄を審べて貰いたいとかなり皮肉に申し出た。店では恐縮して、奥の一間で衣類なぞを<ruby><rb>検</rb><rt>み</rt></ruby>てみたが、もちろん品物は出てこなかった。女は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふん</span>と鼻を高くして、下女を連れて帰って行った。そこで、自然の順序として、今度は、煎餅屋の女房をしらべさせて貰うことになったが、このほうは泣いて手を触れさせないばかりかそのうちに隙を見て逃げて帰った。身に暗いところさえなければ<ruby><rb>嫌疑</rb><rt>うたがい</rt></ruby>を<ruby><rb>霽</rb><rt>は</rt></ruby>らすためにもここは自分から進んで調べてくれと出なければならないところを、これはいよいよもって怪しいとあって、それからすぐに跡を追って家へ行って、<ruby><rb>夫</rb><rt>おっと</rt></ruby>立会いの上で<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を<ruby><rb>審</rb><rt>しら</rt></ruby>べてみたら、案の定、乳の下の帯の間から、失くなった珊瑚が出てきた。ともかく珊瑚が戻ったのだから、今度だけは内済にして、そのうえ別に<ruby><rb>強談</rb><rt>ごうだん</rt></ruby>もしなかったという。あの<ruby><rb>内儀</rb><rt>おかみ</rt></ruby>がゆうべ自殺したと聞いて、番頭は不思議そうな顔をしていた。

台の上には、他の物と一しょに、丸に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">い</span>の字の<ruby><rb>田之助</rb><rt>たゆう</rt></ruby>珊瑚が五つ六つ飾ってある。大きさも<ruby><rb>意匠</rb><rt>いしょう</rt></ruby>もみな同じようで、帯留の前飾りにできたものだった。三次は黙ってそれを<ruby><rb>凝視</rb><rt>みつ</rt></ruby>めていたが、そのうちに、

「その昨日の珊瑚もこのなかにありますかえ。」

と訊いた。番頭が、ありますと答えると、三次は、

「どれだか、あっしが当ててみせよう。」

と言いながら、一つ一つ手にとって指頭で触ってみたり、鼻へ当てて嗅いだりしていたが、やがて、そのうちの一つを<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>へ載せて、

「これだろう、え？」

と言って、番頭の眼の前へ突き出した。番頭はびっくりして、<ruby><rb>頷首</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。

「へえい！　こりゃ驚いた。どうして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">それ</span>だとわかりました？」

「ま、そんなこたあどうでも<ruby><rb>好</rb><rt>え</rt></ruby>えやな。それよりゃあ番頭さん、珊瑚が無えとお前さんが言いだした時、煎餅屋の女房はどうしましたえ。」

「<ruby><rb>愕然</rb><rt>ぎょっ</rt></ruby>として突っ立ちました。」

「<ruby><rb>台</rb><rt>でえ</rt></ruby>の傍にかけてたろう、え？」

「はい。この台のそばに腰かけていましたが、珊瑚が失くなったと騒ぎだしたら、あわてて起ち上りました。」

三次はしばらく考えた後、

「この<ruby><rb>珊瑚珠</rb><rt>さんごだま</rt></ruby>あ毎日拭くんでがしょうな？」

「ええ、ええ、それは申すまでもございません。へえ、毎朝お蔵から出して台へ並べる時に、手前自身で<ruby><rb>紅絹</rb><rt>もみ</rt></ruby>の<ruby><rb>布</rb><rt>きれ</rt></ruby>で<ruby><rb>丹念</rb><rt>たんねん</rt></ruby>に拭きますんで、へえ。」

それにしては、今三次がたくさんの珊瑚の中から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">それ</span>と図星を指した問題の品に、<ruby><rb>伽羅</rb><rt>きゃら</rt></ruby>油の滑りとにおいが残っているのが、不思議であった。お藤の帯の裏にも、伽羅油の濃い染みがあったことを、三次は思い返していた。

一つ<ruby><rb>解</rb><rt>ほ</rt></ruby>ぐれれば、あとはわけはない。

眉を<ruby><rb>顰</rb><rt>しか</rt></ruby>めて思案に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っているうちに、早耳三次、急に活気を呈してきた。<ruby><rb>見得</rb><rt>けんとく</rt></ruby>の立った証拠ににわかに天下御免の伝法風になった御用聞き三次、ちょっと細工をするんだからとばかり何にも言わずに、番頭を通して奥から碁石を一つ借り受けた。それから、例の<ruby><rb>框</rb><rt>かまち</rt></ruby>の上の<ruby><rb>飾台</rb><rt>だい</rt></ruby>の前に立って、何度となく離れたり<ruby><rb>蹲踞</rb><rt>しゃが</rt></ruby>んだりして眺めていたが、やにわに台の下を覗き込んだ。

その、一寸ほど出張った上板の右の裏に、こってりと伽羅油の固まりが塗ってある。冬分のことだから空気が冷えている。油はすこしも溶けていない。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にっこり</span>笑った三次、そこへ、<ruby><rb>件</rb><rt>くだん</rt></ruby>の碁石を貼りつけた。

そうしておいて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ずっ</span>と離れたところに腰をかけて、番頭と向き合った。二、三人客がはいって来た。三次も客と見せかけるために、前へいろいろな<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby><ruby><rb>笄</rb><rt>こうがい</rt></ruby>の類を持ち出すように頼んで、それをあれこれと手にとりながら、声を潜めて言った。

「昨日煎餅屋の女房が来た時に出て行こうとした女、自身から進んで身柄取調べを受けた女、その女がお店で買った物を、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>が一つ言い当てて見せやしょうか――こうっ、<ruby><rb>固煉</rb><rt>かたね</rt></ruby>りの伽羅油だろう？　どうだ？」

「ああそうでした。なるほどそうです。伽羅を一つお買い下すった。だが親分、どうしてそんなことがおわかりですい？　それがまた、なんの<ruby><rb>関係</rb><rt>かかりあい</rt></ruby>になるんですい？」

「その女は、昨夜あとからまた来たかえ？」

「いいえ。」

「よし。」と三次は何事か決心したように、「お前さん、その女の面にゃあ見覚えがあろうの？」

「さあ。べつにこれといって言いたてるところもございませんが、なにしろ奥まで通したんですから、見れば<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">それ</span>とはわかりましょう。」

「うん。<ruby><rb>女</rb><rt>やつ</rt></ruby>が来たら<ruby><rb>咳払</rb><rt>せきばれ</rt></ruby>えして下せえよ。いいけえ、頼んだぜ。」

番頭は眼で承知のむねを示した。

それから二人は待った。

番頭と三次、来るか来ないか解らない昨日の伽羅油の女を、ここでこうして、気永に待ちかまえることになった。

来るか来ないかはわからない。が、三次は来るという自信を持っていた。しかし、いつまで経っても女は来なかった。

半時過ぎた。一時経った。その間に、女の客も二、三人あった。けれど、それらしい女は影も形も見せなかった。三次は<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れだした。ことによると大事を踏んで、<ruby><rb>午後</rb><rt>ひるすぎ</rt></ruby>までには来ないかもしれない、もうここらで切上げようかしら、こうも思ってはみたものの、死んだお藤や、伊助の狂乱を考えると、ここまで漕ぎつけて打ち切ることは、さすがに三次にはできなかった。

「へん、こうなったら根較べだ。」

心の中で独言をいって、三次はいっそう腰を落着けた。黙って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じい</span>と事件の<ruby><rb>連鎖</rb><rt>つながり</rt></ruby>を見つめているうちに、三次には万事がわかったような気がした。今はただ、三次は待っていた。

四

雨だった。いつの間にか雨に変っていた。冷たい雨が音を立てて、<ruby><rb>沛然</rb><rt>はいぜん</rt></ruby>と八百八町を叩いていた。

「好いお<ruby><rb>湿</rb><rt>しめ</rt></ruby>りだ、と言いてえが、これじゃあ<ruby><rb>道路</rb><rt>みち</rt></ruby>が<ruby><rb>泥</rb><rt>ぬか</rt></ruby>るんでやりきれねえ。いや、降りやがる、ふりやがる――豪気なもんだ。」

こう言って三次が、<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>の火玉を土間へ吹いた時、

「御免なさい。」

という優しい声がして、おりから<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>る横降りを細身の蛇の目で避けながら、<ruby><rb>唐桟</rb><rt>とうざん</rt></ruby>ずくめの遊人ふうの若い男がはいって来た。三次はそっちを一眼見たきり、気にも留めずにいると、

「女物の羽織紐を一つ見せて下さい。」

と言っている。

嫌な奴だな、と思いながら、<ruby><rb>顳顬</rb><rt>こめかみ</rt></ruby>へ当てた手の指の間から、三次、それとなしに見守りだした。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のっぺり</span>した好い男で、何となく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そわそわ</span>している。そこは<ruby><rb>稼業</rb><rt>しょうばい</rt></ruby>、こいつあおかしいぞ、と、三次、早くも気を締めた。

そんなこととは知らないから、番頭はいい気なもの<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>まじりに、

「へえ――い。」

とか何とか答えながら、言われた品を取りに<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ向くと、男は思いきったように進んで、<ruby><rb>飾台</rb><rt>だい</rt></ruby>の傍へ腰を下ろした。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おやっ</span>と三次は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きっ</span>となった。番頭はまだうしろざまに紐の木箱を見立てている。

と、男の手が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">するする</span>と動いて台の下へ辷って行った。それも瞬間、まさか碁石とは知らないから台の下から取った物を見もせずに素早く袂へ投げ込むと、男は何食わぬ顔で澄まし込んだ。ちょうどそのとき、番頭が紐の小箱を持って振り返った眼の前へ並べたので、男は何か低声で相談しながら、好みの品を物色し始めたが、結局、気に入ったのが一つもないと言って、何も買わずに店を出ようとした。

今押さえようか、と三次は思った。が、昨日来たのは女だという。してみれば<ruby><rb>共犯</rb><rt>ぐる</rt></ruby>に相違ない。それならここはわざと無難に落してやって、跡を<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>けて大きな網を被せるほうが<ruby><rb>巧者</rb><rt>りこう</rt></ruby>だと考え付いて、三次、静かに男の後姿を<ruby><rb>凝視</rb><rt>みつ</rt></ruby>めていた。

傘を半開に差しかけた男、風に逆ろうて海老のように<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を曲げて、店を出て、右のほうへ行くのを見届けてから、早耳三次、台のところへ飛んで行って下を探った。

手についたのは伽羅油だけ。付けておいた碁石がない――。

三次、ものをも言わずに、出て行った男の跡を踏んだ。

<ruby><rb>捲</rb><rt>まく</rt></ruby>った<ruby><rb>空臑</rb><rt>からすね</rt></ruby>に痛いと感ずるほど、両脚が、太く冷たかった。男は半町ばかり先を行く。三次、<ruby><rb>撥泥</rb><rt>はね</rt></ruby>を上げて急いだ。

五

一度旅籠町の通りへ出て、あれから森田町天王町、瓦町を一丁目まで突っ切ったから、さては橋を渡って浅草御門へかかるかなと思いながら<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行くと、代地の角から右へ折れて、川に沿うて福井町を酒井左衛門様の下屋敷前へ出た。

これから先は武家邸が多い。こんな人間は要がないはずだ。が、左に<ruby><rb>新橋</rb><rt>あたらしばし</rt></ruby>がある。これを渡れば神田日本橋とどこまでも伸されるから、これならまず不思議はあるまい。

ところが、男はあたらし橋も渡らずに、佐竹板倉両侯の塀下を通って、佐久間町二丁目も過ぎ、角の番屋の前から右にきれた。

松永町だ。二軒目に永寿庵という<ruby><rb>蕎麦屋</rb><rt>そばや</rt></ruby>がある。そこまで行くと、男はいっそう傘を<ruby><rb>窄</rb><rt>すぼ</rt></ruby>めて、横手の路地へはいって行った。

路地の奥、<ruby><rb>素人家作</rb><rt>しもたやづく</rt></ruby>りの一軒建て、千本格子に磨きがきいて、ちょいと<ruby><rb>小粋</rb><rt>こいき</rt></ruby>な<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>だった。

これへ男の姿が消えたのを<ruby><rb>見澄</rb><rt>みす</rt></ruby>ました早耳三次、窓ぎわへぴったり身を寄せて、<ruby><rb>家内</rb><rt>なか</rt></ruby>のようすに耳を立てた。

たださえ早耳と言われるくらいの三次、それが今は、その早耳をことさら押っ立てたのだから耐らない。逐一聞える。

「誰だえ、ああ、助さんかえ、お帰り、御苦労だったね。どうだったえ。」

という<ruby><rb>怠</rb><rt>だる</rt></ruby>そうな女の声。男が答えている。

「どうもこうもありゃあしねえ。しっかり握って出て来たまではいいが、途中で見りゃあ――へん、今日みてえなばかな目に遇ったこたあねえ。ああ嫌だ。嫌だ。」

「あら、どうしたのさ、この人は。貼り付いていなかったというのかえ？」

「いんや、あったにゃあった。あったにゃあったが、これだ、ほい、見てくんねえ。」

「嫌だよこの人は。ちょいとさ、こりゃあお前さん、碁石じゃないか。」

「碁石だよ。」

「碁石だよもないもんだ。おふざけじゃないよ。碁石と知って持って来るやつもないもんじゃないか。」

「へん、はじめから碁石と知って持って来たんじゃねえや。お前が言うにゃあ昨日のうちに<ruby><rb>細工</rb><rt>せえく</rt></ruby>してあるというから、俺あ一件のつもりで剥がしてきたんだ。なんだな、やい、お前は珊瑚玉あ猫婆きめやがって、この俺を一ぺい<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>めようと<ruby><rb>謀</rb><rt>たくら</rt></ruby>んだんだな。」

「助さん、何を言うんだよ。お前さんこそ<ruby><rb>真物</rb><rt>ほんもの</rt></ruby>は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゃあん</span>と隠しておいて独占めしようっていうんだろう。大方そんな量見だろうさ。」

「なにい？」

「おや、<ruby><rb>白眼</rb><rt>にら</rt></ruby>んだね。おかしな顔だからおよしよ。忘れやしまいね、はばかりながらあたしゃ<ruby><rb>上総</rb><rt>かずさ</rt></ruby>のお鉄だ。仕事に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶき</span>があるもんかね。昨日あの店で平珊瑚を盗んで、買った伽羅油で台の下へ貼りつけといて、出がけに騒がれたから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わざ</span>と身柄を見せて<ruby><rb>威張</rb><rt>いば</rt></ruby>ってきたのも、こうやって後から、お前さんに取りに行って貰うためだったのさ。」

「それを俺が、今日行ってみると、なるほど油が強いから貼り着いちゃいたが、珊瑚でなくて――。」

「この碁石かい。」

「お鉄。」

「助さん。」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひょっ</span>とすると足がついたかもしれねえな。」

「こりゃあこうしちゃいられないよ。」

この時、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がらり</span>表の格子が開いて、早耳三次が土間に立った。

「ええ、亀安から碁石を戴きに参りました。裏表に花川戸早耳三次の身内が詰めております。まずお静かにおられましょう。」

と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ずい</span>と上り込んで、

「え、こうっ、手前らあ何だぞ、人殺し兇状だぞ。黙れっ、やかましいやい。やい、お鉄、手前と一しょに店にいた女はな、あの時番頭に異なこと言われて突っ立つ拍子に、帯の上前が台の下に引っかかって、手前の貼った珊瑚が帯の中へ落ち込んだんだ。そのために盗賊の汚名を被ても言開きができず、ゆうべ大川へ身を投げた。いわば手前が殺したようなもんじゃねえか。そればかりじゃねえ、その夫も泣きの涙で死ぬばかりだ。これも手前が手にかけたも同然だ。帯に着いていた<ruby><rb>固煉</rb><rt>かたね</rt></ruby>り油から手繰りだして、俺あすぐと手前たちの手品を見破った。だから台の下へ碁石を貼って、じつあ今朝から網を張って待っていたんだ。鉄に助か、どうだ、おそれいったかっ。」

「お前さんは、どこの誰だい。」

「俺か、俺あ早耳三次だ。」

と聞いては悪党二人、さすがに諦めがいい。手っ取り早く神妙に観念してしまった。<ruby><rb>重敲</rb><rt>じゅうたたき</rt></ruby>というから百の<ruby><rb>笞</rb><rt>むち</rt></ruby>、その上伝馬町御牢門前から江戸払いに突っ放された。

文久二年の話である。