Soranoha

小坂部姫

おさかべひめ

岡本 綺堂

双ならびヶ岡おか

一

「物申もう、案内あない申う。あるじの御坊おわすか。」

うす物の被衣かつぎの上に檜木笠を深くした上﨟ふうの若い女が草ぶかい庵いおりの前にたたずんで、低い優しい声で案内を求めた。南朝の暦応三年も秋ふけて、女の笠の褄つまをすべる夕日のうすい影が、かれの長い袂にまつわる芒すすきの白い穂を冷たそうに照らしていた。

一度呼んでも、内では答えがなかった。二度、三度、かれは呼びつづけながら竹の戸をほとほとと軽く叩くと、やがて内では眠そうな声がきこえた。

「案内は誰じゃ。」

「これは都の者でござりまする。御庵主に是非にお目にかからいでは叶わぬ用事ばしござりまして……。ここお明け下され。」

内ではうるさそうに黙っているので、女はかさねて声をかけた。

「お暇は取らせませぬ。およそ一晌ひととき、それもかなわずば半晌でも……。まげて御対面を折り入って頼みまする。御庵主、あるじの御坊……。」

「なんの用か知らぬが、ここは世捨てびとの庵じゃ。女子おなごなどのたずねて来るべき宿ではござらぬ。」

あるじはあくまでも情すげないのを、外の女は強情に押し返して言った。

「唯今も申した通り、是非にお目にかからねば叶わぬ用事ばしあればこそ、供をも連れずに忍んでまいりました。とにもかくにもここ明けて……。頼みます、頼みまする。」

女に似合わぬ根強さに、内でも少し根負けがしたらしい。勝手にしろといわないばかりに、あくびまじりで答えた。

「それほどの用ばしあらば、その門はとざしてない筈じゃ。勝手にあけて通られい。」

「では、ごめんくだされ。」

かれは低い竹の戸を押して、つつましやかに内へはいって来た。ゆう日をよけるために半ばおろしてある古い蒲簾がますだれの間から先ずかれの眼に映ったのは、あるじの法師の姿であった。年はもう四十あまりの小づくりな痩法師で、白の着付けに鼠の腰ごろもを無雑作むぞうさにくるくるとまき付けて、手には小さい蓮の実の珠数を持っていた。庵に住む人だけに、さすがに頭は剃りまろめていたが、それもやがて苛栗いがぐりというように生え伸びて、頤あごのあたりには薄ぎたない髭がもじゃもじゃと黒ずんでいた。彼が双ヶ岡の法師と世に謳わるる吉田兼好けんこうと知った時に、女も少し意外に感じたらしかったが、そんな色目も見せないで、かれは先ずうやうやしく会釈えしゃくした。

「安居あんごのお妨げ、何とぞお免ゆるしくださりませ。」

被衣をするりと払って、かれは狭い竹縁にあがって、あるじの兼好法師とむかい合って淑しとやかに坐った。小さい庵室の中には調度らしいものはなんにも見えなかった。すすぼけた仏壇には一体の木彫りの如来にょらいが立っていて、南向きのあかり障子のきわに小机が一脚、その上には法華経一巻のほかに硯と筆二、三本、書き捨ての反古ほごのようなものが三、四枚散らばっていた。

女の方で意外に感ずると同時に、あるじの方でもこの来客を意外に感じた。それが若い女であることは、逢わない前から大抵想像していたが、さて正面に向かい合って見ると、かれはいかにも﨟闌ろうたけたる美しいおとめであった。年はようよう十七か八か、さして化粧をしているとも見えないのに、白く照り栄えたるおもてを少しく俯向かせて、鴉のように黒い髪をこのごろ流行る茶屋辻模様の練絹ねりぎぬの小袖の肩にこぼしている姿は、然るべき公家くげか、武家の息女か、おそらく世に時めく武家の愛娘まなむすめであろうと、兼好はひそかに判断した。

「初めて御意ぎょい得え申す。われらはあるじの兼好でござるよ。お身のような御仁ごじんがなんの用ばしござって尋たずねられた。はは、ここは双ヶ岡じゃ、嵯峨野ではござらぬ。横笛どのが門かどちがいせられたのではござらぬかな。」

見掛けによらない口軽の坊さまと、女の方でも少しく打ち解けて語り出した。

「初対面の御坊の前で、まず我が身の身分苗字を名乗りませいではならぬ筈でござりまするが、しばらくお免ゆるし下さりませ。わたくしは都に屋敷を構えておりまする某さる武家の娘、少しくお願いの儀がござりまして……。」

「ほう。して、その願いとは……。和歌の添削でも乞わるるのかな。」

女がこれから持ち出そうとする問題は、なかなかそんな有り触れた手軽いものではないらしかった。かれはしばらく口籠って、床ゆかの下に鳴き弱る虫の声を聞き澄ますかのように押し黙っていたが、もともとそれを言いたいがために、わざわざ尋ねて来た以上、今さらおめおめと逡巡しりごみしている訳にもゆかないので、かれは思い切ってまた語り出した。

「御坊の筆ずさみとて、このごろ専ら世に持て囃さるる徒然草つれづれぐさという草紙、わたくしもかねて拝見しておりまする。」

「つれづれなるままに、そこはかとなく書きつけた筆のすさびが、いつともなしに世に洩れて、諸人の眼にも触れ耳にも伝えられ、何やかやと物珍らしげに言い囃さるるは、近ごろ面目もない儀でござるよ。はははははは。」

「就きましては、かの草紙のうちに説かれましたる一、二ヵ条、おろかの者にも会得えとくのまいるように委くわしくお説き明かしを願いたさに、かように推して参上つかまつりました。」

言いさして相手の顔色を窺うと、兼好は頭をなでながら軽く笑った。

「くどくも言う通り、つれづれなるままの筆すさび、もとより人に見しょうとて書き留めたものでもなければ、あらためて説き明かすほどの理屈も法もござらぬが、ともかくも、わざわざ尋ねてまいられたからは、われらもおのれが知るだけのことはお話し申そう。して、御不審の条々は……。」

「まず御坊が、かの徒然草に書かれましたる中に『よろずにいみじくとも、色好まざらん男はいと騒騒しく、玉の巵さかずきのそこなき心地ぞすべき』と仰せられました。また『世の人の心まどわすこと色慾にしかず、人の心は愚なるものかな』と仰せられたを見ますれば、この道の余儀ないことは疾とうに御存知かとも存じられまする。まだそればかりでなく『女の髪すじをよれる綱には大象もよく繋がれ、女のはける足駄にて作れる笛には秋の鹿も寄る』とも記しるされました。して見ますれば、われわれ有情うじょうの凡夫が色に狂い、恋に迷うも、まことに是非ない儀でござりましょうか。」

美しい上﨟じょうろうの紅べにさいた口から、こうした問いを露骨むきつけに持ち出されて、さすがに世馴れた兼好も少し返事に困ったらしかった。忽ちに小さい身体をゆすって大きく笑い出した。

「いしくも問われた。われら決して詐りは書かぬ。その通り、その通りじゃよ。見るところ、お身は年も若い、眉目形みめかたちもすぐれて美しい。定めて思う人もおわそう、思わるる人もあろう。迷うも狂うも今のうちじゃで、せいぜい面白う世を送られい。悟るも醒むるも扨さてそれから後のことでござるよ。」

「よく判りました。ようぞお教え下されました。」と、女はあらためて頭を下げた。「但し唯今仰せ聞けられましたは、わたくし共のような若い者共への一の御教化ごきょうげ。人の盛りを過ぎたる者の深くも迷い入りましたるは……。」

「甚だ見苦しいものじゃと存じ申すよ。さればかの草紙の中にも『四十歳よそじにもあまりぬる人の色めきたるかた、おのずから忍びてあらんは如何いかがはせん。言ことに打ち出でて男女のこと、人の上をも言い戯るるこそ、似げなく見苦しけれ』と書き申したわ。」

「その見苦しいをよく弁わきまえながらも、心の駒の怪しゅう狂い乱れて、われと手綱を引きしめん術すべもなく、あやめも分かず迷う者の上には、老いも若きも差別はござりますまい。それを救うに良き方便がござりましょうか。」

女は涼しい眼を据えて、相手の顔をじっと見つめていると、兼好は珠数をつまぐりながらまた笑った。

「そりゃもう是非がない。捨つるに如しかずじゃ。」

「捨つるとは。」と、女はその意を覚りかねたように訊き返した。

「男にもせよ、女にもあれ、それほどに迷い、それほどに溺れたら、もはや救うに道はない。その人を捨つるとあきらめて、彼が勝手に振舞わすのじゃ。それがために、この世では身を傷やぶり家をほろぼし、来世は地獄に堕つるとも、宿世すくせの業ごうじゃ、是非もござるまいよ。」

彼は悟り切ったように澄ましていた。女は少しく小首を傾けていたが、やがて何か悟るところがあったように、今まで固く結んでいた其のくちびるの蕾つぼみをひらいて、俄かににっこりと美しい笑顔を見せた。

「それでわたくしの迷いも晴れました。胸の煩らいも解けました。就きましては今一つ、御坊にすがってお願い申したい儀がござりまするが、お聞き済み下されましょうか。」

「われらに成ることならばのう。」と、兼好はやはり笑っていた。「どのようなむずかしい事でござるかな。」

「いえ、お前さまにはいと易やすいこと、文ふみを書いてくださりませ。」

「文を書け、どのような文を書くのじゃ。」

「恋文でござりまする。」

「ほう、恋文……。それならばお身、自身にはなぜ書かれぬ。」

「わたくしの恋ではござりませぬ。」

兼好はなんだか腑に落ちないように、眼をしばたたきながらしばらく思案していると、女は一と膝すすめて相手に迫るように言った。

「御坊は頓阿、浄弁、慶運の人々と相列んで、和歌の四天王と当世に申し囃さるるばかりか、文書くことは大うつ童わらべ、馬追う男も御坊日本一と申しておりまする。その御坊がつい一と筆さらさらとはしらするは、なんの雑作もないことでござりましょうに、ならぬと情すげのう仰せられまするか。」

「ならぬとは言わぬが、お身はそもいかなる人で、その文はいかようの趣意のものか。それを聞いた上ならでは……。」

「ごもっともでござりまする。さらばわたくしの身分、文の趣意をつつまず申し上げましたら、きっとお聞き済み下されまするか。」

「そりゃまだ判らぬ。ともかくも聞いた上のことじゃ。餌えさを投げいで魚を釣り寄せようとしても、そりゃ無理じゃ。試ためしに餌を下ろして見られい。」

鼻の先きで笑っているのを、女は小面こづらが憎いようにちょっと睨んだが、すぐに思い直したようにほほえみながら、まず自分の身の上を打ち明けた。

二

双ヶ岡の庵へ突然にたずねて来て、徒然草の作者に文を書けと迫っている美しい女は、将軍足利尊氏の執事としてこのごろ都に威勢を揮っている高武蔵守師直こうのむさしのかみもろなおの娘で、小坂部おさかべというかれが名は雲の上までもきこえていた。武家が跋扈ばっこの時代であるから、陪臣またものの師直の娘も内外うちとの者に姫と呼ばれて、かれは栄耀のあるたけを尽くしていた。その小坂部が供をも連れないで、ただ一人で兼好の庵へ忍んで来たのは、こういう事情がひそんでいるのであった。

かれの父の師直は塩冶判官高貞えんやはんがんたかさだの妻に恋していた。この恋物語は、その当時の太平記の作者が玉をつらねた名文をもって委しく書き伝えているのであるから、今更あらためて注釈を加える必要もあるまい。しかしその相手が人妻である以上、たとい将軍家の執事の威勢でも、横車を押すこの恋は容易に成就しそうもなかった。彼は自分のもとに身を寄せている侍従という公家女房を使いとして、道ならぬ恋の桟橋をわたそうと幾たびか試みたが、塩冶の妻は見向きもしなかった。相手があくまでも情つれないほど、師直の恋はいよいよ募って、色黒く骨たくましい坂東武者もこの頃は恋い死なぬばかりに思いわずろうている。この病いは和丹両家の典薬どもにも匙を加えようがない。加持祈祷の効験しるしもない。枕もとには重恩の家の子、老若の女房ども、新古参の盲法師、歌うた連歌れんがの者、さては田楽でんがく、ばさらの者、入り代り立ち代りに詰め切って、ひたすらその機嫌を取ることに努めているが、彼の病いはいよいよ嵩じるばかりで、半日ぐらいは物も言わずに打ち沈んでいるかと思うと、また俄かに疳が高ぶって、ただ訳もなしに焦れて狂って、相手嫌わずに叱る、罵る。果てはまくら刀にも手を掛けかねない権幕に、誰も彼もほとほと持て余して、腫物はれものにさわるようにはらはらしながら看護している。その中でただ一人、恐れ気もなくその枕もとに坐りつづけているのは、彼が愛娘まなむすめの小坂部であった。

父があまりに取り乱して、物の憑ついたように狂い立つ時には、かれは凜とした声でお鎮まりなされませと言う。その一と声が耳にひびくと、さしもの師直も我に復って、悪い夢が醒めたように忽ちおとなしくなる。それは彼が日頃から姫を又なく寵愛しているのと、姫に備わっているおのずからの強い力が彼を押さえ付けるのと、この二つの理由にほかならないことを周囲の者もよく知っているので姫が主人の枕もとに控えている間は、誰も彼も先ず安心しているが、どうかしてその姿を主人の枕もとに見いださない時には、みんなびくびくして手に汗を握っているという始末であった。

しかしそれでは際限きりがない。こんな不安な状態がいつまでも続いていては、周囲の者どもの迷惑ばかりでなく、第一に本人自身の命がたまるまい。殊にこの頃の都は一時の静謐を保っているようなものの、世はほんとうの太平に立ちかえった訳ではない。新田義貞は討たれてもその弟の義助がいる、楠正成はほろびてもその子の正行まさつらがいる。そのほかにも奥州の北畠、九州の菊池、四国の土居得能、それらはいずれも南朝に忠節を尽くそうとして、思い思いに機会をうかがっている。その時にあたって、足利将軍家の執事ともあるべきものが物狂わしいこの有様では、なんびとが将軍の帷幄いあくに参じて敵軍掃蕩の大方針を定める者があろうか。諸人の不安は実にここにあった。取り分けて小坂部はその点に就いては、かれの若い胸を痛めていた。

明け暮れに胸を痛めた結果が、かれを駆って兼好の庵へ走らせたのであった。もうこうなったらば理屈も道理もない。恋の相手が人妻であろうとも、自分の身の上が将軍家の執事であろうとも、現在の父としてはそんなことを考えている余裕もなしに、ただ一と筋に迷いつめているのである。ひと通りの意見や説教ではなんの効もないのは判り切っている。神道も仏道も儒教も軍学も、この場合にはなんの値いもない。しょせんは浮世の酸いも甘いも噛み分けて、人間というものを能く理解している人に就いて、その意見を聞きただした上で、なんとか然るべき処置を取るよりほかはあるまいと、小坂部は賢くも思い付いたのであった。

こう決心して、誰にも知らさず、供をも連れず、かれが唯ひとりで双ヶ岡の秋草を踏み分けて来た以上、自分の胸の奥にも最後の決心を秘めていないのではなかった。人間というものをよく理解しているらしい徒然草の作者が、もし自分と同じような意見をもっていてくれたら、かれは思い切ってその助言に従おうと考えていたのであった。

来て見ると、果たして彼は自分と同じ意見であったが、更にその以上に徹底したものであった。小坂部の腹では、能文のきこえの高い兼好に艶書を書いて貰って、見る眼も綾なる文章に限りなき思いを訴えてやったら、塩冶の妻の魂もおのずと揺らいで、たといその恋を容れるというほどの色よい返事はなくとも、せめては父の胸の結ぼれる解くほどの優しい慰めの返し文をうけ取ることが出来るであろう。泣く子を叱ればますます泣く。さしあたり宥なだめ賺すかして、おのずとその泣き鎮まるのを待つに如しくはない。高武蔵守師直という駄々っ子にしゃぶらせる飴は、塩冶の妻の文よりほかはない。こう考えて、かれは兼好にその艶書の起稿をひそかに頼みに来たのであるが、相手の法師は更に其の上手を越して、それがために身をそこない、家をほろぼし、未来は地獄に堕ちても是非がないと言うのであった。その意味を煎じつめると、彼は師直の恋を最後まで真っ直ぐに押し通させよと言うので、うき世の義理も法も眼中には置いていないらしかった。

あまり悟り過ぎた議論であるので、小坂部も一旦は少し驚かされた。そこまで徹底的に押し詰めて行っては、たとい父の恋は首尾よく成就するとしても、さらに他の禍いをはらみ出す虞おそれがあると、かれは危ぶんだ。執事の威勢を恃たのんで味方の人妻を奪ったなどと世に伝えられたら、父の威厳も信用も地に落ちて、その命令に応ずる者がなくなるかも知れない。塩冶とても恐らく黙ってはいまい。それから惹いてどんな内訌が起こらないとも限らない。世捨てびとの兼好法師と、世の人の上に立つ高師直とは、立場がまったく違っているとかれは思った。しかし彼がそういう意見を懐いているのは、現在の自分に取ってはまことに好都合であるから、ともかくも彼にひたすら頼んで、どうしても父から塩冶の妻に贈るべき艶書を書いて貰うことにしなければならないと、かれは最初からの決心をいよいよ固めて、まずこの法師の前で自分の身分をあかし、あわせて父の恋物語を説き明かした。

一切の事情を聴き取って、兼好は眉をしかめるかと思いのほか、珠数を持ったままでやはりにやにやと笑っていた。

「ほほう、敵にも味方にも鬼神のように恐れられている武蔵守殿が恋の病い、さりとは珍しいことじゃ。まして相手が人妻とあっては、当の御仁の悩み、はたの人々の心づかい、いかにもお察し申すよのう。就いてはお身、この兼好に恋文を書かせて、塩冶の内室に贈らしょうと思い立たれたのか。」

「さようでござりまする。それよりほかには父の病いを救う術すべもあるまいと存じまして……。初対面から押し付けがましゅうはござりまするが、父も哀れ、わたくしも不憫と思召おぼしめされて、何とぞ快うお聞き済みのほどを、幾重にもお願い申しまする。」

小坂部はあらためて手を突いて頼んだ。

「将軍家執事の息女ともあろう身が、ただ一人この庵へ忍び寄られて、若い女子おなごとしては言いにくい筈のことを初対面のわれらの前に訴えらるるは、よくよくのこととお察し申す。」と、兼好は同情するようにうなずいた。「それほどのお望みとあらば、拙つたない文ども何か書いても進ぜようが、かの内室があくまでも情つれのうて、なんの返しもなかった時には何とせらるるぞ。」

「その時には又あたらしい分別もござりましょうが、差しあたりましては御坊を頼みまするよりほかには……。」と、小坂部は取り縋るように言った。

「よい、よい。兼好たしかに頼まれ申した。われらもなま若い昔には人並に恋歌も詠んだ、恋文も書いた。しかし世捨てびとの今となって、なまめかしい恋文は手が硬こわ張って能うは書かれまい。はははははは。それも折角のお頼みじゃで、われらも一度は書いて進ぜる。但し二度は無用じゃ。一度の文で相手の返しがあれば重畳ちょうじょう、たといそれが梨の礫つぶてであろうとも、かさねて頼みには参られなよ。うき世のことが煩ささに、こうして隠れ栖んでいる身の上じゃ。二度が三度とたびかさなって、うき世のことにわずらわさるるは迷惑。それは最初から断わって置きまするぞ。よいか。」

「御迷惑は万々お察し申しておりますれば、かさねて御無理をお願い申しにはまいりませぬ。これは今度かぎり、一生に一度のお願いでござりまする。」

「では、すぐに書いて進ぜよう。然るべき料紙を持たれたか。」

小坂部は懐中から畳紙たとうをとり出して、兼好の前にひろげた。紅葉がさねの薄葉の、把る手も薫くゆるばかりなのを膝の上に置いて、兼好はしばらくじっと思案していたが、やがて机の上から筆と硯とを取り寄せて、夏毛の鹿の筆を染めて「なよ竹の」と美しい墨色で書いた。

三

なよ竹の――唯それだけを書いて、彼は小坂部の前に置いた。うやうやしく一礼して、かれはその薄葉を押し頂いて読んだ。

「なよ竹の……。」

言うまでもなく、それは和歌の上かみの句五文字である。塩冶の内室に贈るべき恋文は唯この五文字に尽きているのであろうか。定めて情を籠め思いを述べた優艶の文字が、蚕かいこの糸を吐くように縷々るる繋がっているのかと思いのほか、いっさいの文句が単にその五文字に尽きているのである。小坂部も案に相違したように、その美しい眉をひそめて幾たびが口の中で読み返していると、兼好はもう用はないというような顔をして、庭に落ち残った熟柿じゅくしの二つ三ッつが梢のゆう日にうす紅く照らされているのを見るともなしに眺めていた。

なよ竹の――小坂部は小声で繰り返していたが、やがて次の句が、かれの口からおのずと流れ出した。

あだに見し 夢かうつつかなよ竹の おき伏しわぶる恋ぞくるしき

その声に兼好は思わず見返った。彼の窪んだ眼が小坂部のさかしげな眼と出逢うと、二人は無言で会心の笑みを洩らした。

「塩冶の内室は殿上てんじょうに生い立って、上手の歌よみという噂がある。なまじいの文など書こうよりはと思案して、その古歌を書き申した。それも上のただ一句、その方がなかなかに奥ゆかしゅう見ゆるであろうと存じて……。それにつけてもお身もあっぱれの才女じゃ。武蔵守殿は武勇一遍の人じゃと思うていたに、息女に対する日ごろの仕付け方も思いやらるる。起き臥しわぶる恋ぞくるしき――さすがにようぞ説き当てられた。」

当代の歌人、日本一の文者と呼ばれる兼好に、正面からこう褒められて、小坂部はさすがに晴れがましいような顔をうつむけた。その昔、なにがしの君が大堰川のほとりで蹴鞠けまりの遊びを催されたときに、見物のうちに眼にとまるような嫋女たおやめがあった。蔵人くろうどに言い付けてその帰るあとを付けさせると、女もそれに気がついたらしく、蔵人を見かえって「なよ竹の」とただひとこと言い残して立ち去ってしまった。それは「高しとて何にかはせんなよ竹の、ひとよ二よの仇のふしをば」という古歌の心であった。なにがしの君はいよいよ心あくがれて、だんだん尋ね明かした後に、それがなにがしの少将の妻であるということを確かめたので、君は更に恋文をしたためて、その奥に「あだに見し夢かうつつかなよ竹の、おきふし佗ぶる恋ぞ苦しき」と記しるして贈ったので、女もさすがに心が折れて、君のもとへ参り仕えたという古い伝説がある。今度の事柄もその古い伝説にやや似通っているので、兼好は「なよ竹」の一句を書いた。賢い小坂部はその意を判じた。

世を捨てた才人と、世を忍ぶ才女との会見はこれで終って、小坂部はかさねて礼を述べて別れた。

「いずれ改めてお礼ながら、この歌の返しの有りや無しやもお知らせ申しにまいりまする。」

「いや、いや、それには及ばぬ。その返しがあればとて無ければとて、われらに取ってはなんの痛み痒かゆみもないことじゃ。父の殿の御病気、せいぜい気をつけて御介抱なされい。」

来た時に引き換えて、帰る時には兼好もあるじ顔して竹縁の端はしまで見送って出ると、「なよ竹の」を懐中に秘めた若い女は、ゆう日をうしろにして都の方へたどって行って、蝶のような笠の影は尾花の末に遠く隠れてしまった。

「まだ日のあるうちで仕合わせじゃ。暮れてから芒原すすきはらであのような美しい女子に出逢うたら、狐が化けたのじゃと思わるるかも知れぬ。」

兼好は独りで笑いながら机の前に戻ったが、やがて夜食の蕪雑炊かぶぞうすいでも焚く支度をするらしく、奥から土鍋と青い野菜とを持ち出して来て、庭の筧かけいの細い水を汲み始めた。門端かどばたの芒の葉が友摺れしてざわざわと鳴るのは、風の音ばかりでもないように思われたが、彼は別に見返ろうともしないで、余念もなしに鍋の粟を洗っていると、門には又もや案内を求める声がきこえた。

「御庵主に物申したい。」

呼ばれて初めて振り向くと、秋の日はいつの間にか吹き消すように暮れてしまって、門口には若い男の白い顔だけが浮いて見えた。

「なんの御用じゃ。」と、兼好は手を休めて訊いた。

「今方ここらへ年のころは十七八、都風俗のあでやかな上﨟が見えなんだか。御坊には御存知ないか。」

「おお、見えたよ。」と、兼好は無雑作に答えた。

「ここへか、この庵へか、なんの用でまいられた。」と、男は不審そうに又訊いた。

「別に用もない。通りがかりに立ち寄られたのじゃ。して、お身はその女子おなごのゆくえを尋ねてござったのか。」

「それがしは都の某さる武家の侍じゃ。主人の姫が誰にも知らさずに、二晌ときほど前から屋敷を忍び出て、今に戻られぬ、忍びの物詣でかとも存ずれど、なんとやら不安に思われる節もあるので、それがしお跡をたずねて参ったところ、そのような風俗の上﨟が双ヶ岡の方角へ笠を深うして行かれたと教ゆる者がござったので、取りあえずこちらへ辿ってまいった。して、その姫はここへ立ち寄って、道を問われたか、但しは水か薬の所望か。どうでござった。」

「いや、そのようなことではない。」

「では、何しにまいられた。」

しつこく穿索するので、兼好も煩さくなったらしい。ぬれた手で鼻の下をこすりながら無愛想に答えた。

「はて、しつこい和郎わろじゃ。ただ足休めに立ち寄られたまでじゃ。別に子細はないと言うに……。」

そのままに彼にうしろを向けて、兼好は再び鍋の粟をざらざらと洗い始めた。若い侍はもうこの上に詮議の仕様もないのと、二つには相手の無愛想に気色を悪くしたらしい。そのまま黙って行きかけたが、また立ち戻って来て声をかけた。

「して、姫はここを出ていずかたへ行かれた。」

「知れたことじゃ。京の方へ……。」

半分聞いて、侍はあわただしく引き返して行った。兼好は粟を洗ってしまって、さらに蕪を刻み始めると、どこやらの寺で入相いりあいの鐘を撞き出した。うす寒い風が岡の麓から吹きあげて来た。

「御庵主、物もう。」

また来たのかと思ったが、先刻の人とは声が違うので、兼好は手を休めて又ふり向くと、うす暗い門かどに一人の男が立っていた。これも武家の侍らしく、片手に馬の口をとっていた。

「ちと尋ねたいことがござる。武家の姫らしい十七八の……。」

「おお、見えられたよ。」と、兼好はすぐに答えた。「その女子ならば疾とうに京へ戻られた。」

「一人で見えられたか。但しはほかに道連れでも……。」

「連れはない。その姫という人が戻られると、やがてあとから若い侍がたずねて来た。」

「若い侍……。」と、侍は俄かに聞き咎めるように言った。「その侍は幾つほどで、どのような身なりでござった。くわしゅう教えてくだされぬか。」

「うす暗いので、年ごろも人相もよくは判らぬ。なんでもこのごろ流行る段だらの染小袖を着ていたらしいが……。」

「段だらの染小袖……。」と、侍は鸚鵡おおむ返しに言った。「むむ、やっぱりあやつじゃ。采女うねめじゃな。くどいようじゃが御坊、姫はその若侍と連れ立って見えたのではござらぬか。姫は一人、侍は一人、別々にここをたずねて参ったのでござるか。」

「今も言う通り、別々じゃ。姫はさき、侍はあと、唯それだけのことじゃよ。」

「しかと左様かな。」

「はて、入り代り立ち代り煩さいことじゃ。日は暮るる、京までは余ほどの路のりはある。もうよい程にして帰られい。」

兼好は彼にもうしろを向けてしまった。侍は忌々いまいましそうに薄暗い庵の奥を睨んでいたが、やがて鞭をとり直しておどすように言った。

「御坊、万一それが偽りであると知れたら、それがし重ねて詮議にまいるぞ。よいか。」

「よい、よい。いつまでもまいられい。」

相手は平気で澄ましているので、侍も張合い抜けがしたらしく、そのまま鞍の上にひらりと跨ってひと鞭あてて真っ直ぐに芒原を駈けぬけて行った。

姫が誰にも知らさずに屋敷をぬけ出たので、前の若侍がそのゆくえを尋ねて来た。それは別に不思議でも何でもなかったが、あとの侍の口ぶりには何か子細があるらしくも思われた。前後の侍はいずれも自分の名を明かさなかったが、前の侍が采女ということは、後の侍の口から洩れた。しかしその采女の身の上にどういう子細があるのか、兼好は深く考えて見ようともしなかった。彼は粟の粥を焚く方に忙しかった。

文ふみの使つかい

一

京の堀川にある高師直の館やかたでは、姫のゆくえが俄かに知れなくなったので、上下一同が不安の眉根をしかめた。しかも迂濶にそれを主人の耳に入れるのは良くないというので、小ざかしい侍女こしもと二人と侍三人とをひそかに手分けして、東西南北それぞれの方角へ捜索に出した。それらの者どもが思い思いに出て行ったあとで、桃井播磨守の屋敷まで使いに行った本庄采女という若侍が帰って来た。彼は姫が家出の噂を聞くと、誰にも告げないですぐにその行くえをさがしに出た。

采女はことし十九で、主人武蔵守の近習を勤めていた。この頃の都に威勢をふるっている者どもは、東国といわず西国といわず、すべてが「声は塔の鳩の鳴くようにて」と太平記の作者にあざけりしるされた田舎侍である。師直の一家中もその数には洩れないで、かれらが生い立った武蔵野の芒すすきをそのままという髭面ひげづらをそらせて、坂東声を遠慮会釈えしゃくもなしに振り立てるいわゆる「猛者もさ」の巣窟である中に、かの采女ばかりは都びとにも笑われないような優美の風采を具えていた。かの兼好法師に「白うるり」と書き伝えられたなにがしの僧と同じように、清く美しく滑なめらかに輝いた顔の持ち主であった。

姫が人にも洩らさず供をも連れないで、忍びやかに館をぬけ出した行くさきを、彼はおぼろげに推量していたので、ほかの者どもが当途あてどもなしにそこらの神社仏閣などを尋ね迷っている間に、最もおくれて館を出た彼が最も早く姫のゆくえを探し当てた。采女は先ず双ヶ岡を心ざして、ゆき逢う人々に問いただしながら急いでゆくと、果たしてそこの庵主から姫がたった今帰ったことを聞いた。どこで行き違ったのかとあやぶみながら、すぐに又引き返して、芒原をかき分けてゆくと、ゆう靄の底にほの白く漂う尾花の袖隠れに、笠一つが沈んでゆくのを微かに見付けたので、彼は息を切ってそのあとを追った。

すすき尾花をがさがさとゆする音におどろかされたらしく、笠の影はしばらく其処にたゆたっていると、采女はやがて追い付いた。

「姫、おわさぬか。」

笠のぬしは果たして小坂部であった。

「采女。迎いに来てたもったか。」

「姫のお行くえが俄かに知れぬとて、お館やかたではうろたえ騒いで、殿は密々に八方へ手分けして……。」

「それは笑止しょうしじゃ。」と、姫はほほえみながらも眉を寄せた。「双ヶ岡とは名を聞いているばかりで、さのみ遠くもあるまいと思うていたに、女子の足は甲斐ないもの、多寡が一晌と思うたを二晌あまりも費して、皆にも要らぬ苦労をかけた。それにしてもさすがはそなたじゃ。双ヶ岡とはよう心付きましたの。」

「この間からのお話が耳に残っておりましたので、大方そうとお察し申しました。」と、采女もほほえんだ。「して、かの一儀は術すべよう整いましたか。門口かどぐちでの立ち話、くわしいことは判りませなんだが、かの兼好という法師、なかなかの拗者すねもののようにも見えましたが……。」

「おもいのほかに快う引き受けて……。かの法師ひと癖ありげにも見えながら、なかなかの粋じゃ。すぐにさらさらと一と筆書いてたもった。」

「かの艶書を……。すぐに書いてくれましたか。」と、采女は案外らしく言った。

ゆう暮れの色はいよいよ深くなって、肩をならべてゆく二人の細い姿を黒く染めた。もと来た路を遠くふり返ると、双ヶ岡は暗く沈んで、そこの灯の影は尾花の末に隠されてしまった。肌さむい風が広野をゆすってどっと吹き寄せて来たので、二人はからだをひたと摺り寄せながら歩いた。

「して、その艶書、お読みなされたか。」と、采女はまた訊いた。

「艶書でない。歌の上かみ五文字じゃ。余人には洩らされぬが、そなたには言うて聞かそう。それはただ『なよ竹の』とあるばかりじゃ。」

「ほほう。なよ竹の……。」と、采女は口の中で繰り返した。「なよ竹の……。唯それだけでござりましたか。」

「そうじゃ。そなたには判らぬか。」

「判りませぬ。わたくしはお前さまのような博学の歌よみではござりませぬ。」

「博学……。」と、小坂部は暗い中で男を睨んだ。「ほんにわたしは博学じゃ。兼好の御坊に一度逢うたら、そなたを驚かすような博学の才女になった。そなたもこれから双ヶ岡に毎日通うて、つれづれ草の作者になりゃれ。」

「わたくしが徒然草を書きまするには、武士を罷やめて遁世せねばなりませぬ。」と、采女は笑った。

「遁世もよかろう。」と、姫も笑った。「兼好の御坊も先刻いうていたが、その時こそわたしも正真しょうしんの横笛じゃ。時頼殿の庵室へ朝な夕なに押し掛けて、いつまでも悟道の邪魔をして見しょうぞ。」

「それは迷惑。では、兼好にもならず、時頼にもならず、やはり今までの本庄采女で、いつまでも御奉公いたしまする。」

「それじゃ。それで無うては男の約束が反古ほごになる。忘れまいぞ。」

このなまめかしい対話を妨げるように、馬の音が俄かにうしろから近づいて来たので、二人は急にふり向くと、暗い中から一人の侍が鹿毛の馬にまたがって急いで来た。彼は枯れた茅かやをたばねて松明たいまつの代りに振り照していた。その火に映った侍は三十五六の小肥りの男で、諸籠手もろこての上に朽葉色の直垂ひたたれを着て、兵庫鎖ひょうごぐさりの太刀を長く横たえていた。

こっちで彼の顔を見さだめるよりも、相手の眼は捷はやかった。侍は松明をかざしながら馬上で声をかけた。

「姫ではおわさぬか。おお、采女もお供か。」

それはやはり武蔵守の家来で、去年の河原いくさには足軽大将をうけまわったのを誇りとしている荏原えばら権右衛門であった。彼はすぐに鞍壺からひらりと降り立って、姫の前にうやうやしく式代しきだいした。

「権右衛門、そなたも迎いにか。」と、小坂部は煩さそうに訊いた。

「いかにもお迎い……。」と、権右衛門と姫は采女との顔を見くらべるように燃える松明をつき付けた。「姫上がお戻りのあとへ采女が……。又その後へわたくしが……。馬を早めて引っ返して、ようようここで追い付き申した。」

「それは大儀じゃ。」と、冷やかに言った。「館でも定めて案じていよう。わたしの行くえを探しあてたら、早う戻って皆々にも伝えてくりゃれ。」

「はっ。しかしこうしてお迎いにまいりしからは、道中の御警固つかまつりませいでは……。」

「いや、わたしの道連れは采女一人でよい。そなたは騎馬じゃ。足弱と連れ立っては迷惑であろう。ひと鞭あてて京へ急ぎゃれ。」

「姫上はそれがしが確かにおあずかり申した。お身は早う立ち帰って、館の騒動を鎮められい。」と、采女もそばから追い立てるように口を添えた。

その顔を子細ありげに睨みながら、権右衛門は持っている松明を采女に渡して、ふたたび鞍の上にまたがった。采女はともあれ、彼は眼の前にある主人の命令にそむくことは出来ないので、渋々ながら鞭をとり直した。

「お先きへ御免。」

彼は自暴やけになったように、罪もない馬を残酷に引っぱたくと、おどろいた馬は彼を刎ね落としそうに跳おどって狂って、京の方角へまっしぐらに駈け出した。それを見送って、若い男と女とは思わずほほえんだ。

「権右衛門め。館へ戻って、何かあらぬ事どもを言い触らそうも知れませぬ。あやつの眼の色、何やら妬ましげに見えましたれば……。」と、采女は少しく危ぶむように言った。

「何を妬む。権右衛門が何を妬み、誰を妬むのじゃ。」と、小坂部はあざ笑った。「去年の河原いくさにも足軽大将うけたまわりながら、捗々はかばかしい矢軍やいくさも得せいで、父上の御機嫌さんざんであったを、兄上に頼んで此の頃ようように取りつくろうたほどの不覚者が、われわれの恋仲を薄々気取ったとて、ほほ、それが何のおそろしかろう。なんとでも勝手に言わして置きゃれ。但しそなたは権右衛門がそれほどに怖ろしいか。」

「いや、怖ろしいよりも憎うござる。弓矢を取っては怖ろしい奴ではござりませぬが、佞弁ねいべん利口の小才覚者、何事を巧たくもうも知れませぬ。」

「ほほ、何を巧む。謀叛むほんかの。」

「それほどの大胆者ではござりませぬ。ただ懸念なはお前さまを……。」

「わたしを……。わたしに恋か。ほほほほほほ。」

小坂部は堪らないように肩をゆすって笑った。采女はそれに釣り出されて笑った。

「いや、それほどの愚か者でもござりませぬ。」

「なりゃ、わたしに恋するは愚か者か。もう一度たしかに言うて見やれ。」

「なにさま愚か者かも知れませぬ。」と、采女はまた笑った。

「おお、よう言うた。本庄采女という侍を、あたら愚か者にしてのけたはわたしの罪じゃ。ゆるしてくりゃれ。」

憤おこるように言い捨てて、小坂部はわざと足早にあるき出した。京の町の秋の灯はもう眼のさきに黄いろくまばらに見えた。

二

「姫はどうなされたぞ。殿はいこうおむずかりじゃに……。」

四十に近い古女房が鉄漿かねぐろの口をゆがめて、暗い庭さきを眺めていた。かれは侍従といって、むかしは然るべき殿上人てんじょうびとにつかえていたが、今は世と共に衰えて、わずかに武家に身をよせて朝夕を送っているのであった。

小坂部のゆくえを探しに出た侍女こしもとどもは、なんの手がかりもなしに帰って来た。三人の侍もむなしく戻った。あとから采女と権右衛門の出たことは誰も知らないので、館やかたの内には不安の空気がいよいよ濃くなって来たところへ、権右衛門の馬の音がきこえた。彼が双ヶ岡で姫のゆくえを探しあてたという報告をうけ取って、皆もまず眉を開いた。姫が何のために遁世者の兼好をたずねたのか、それは確かには判らなかったが、大方は和歌の添削てんさくを乞いに行ったか、但しは昔物語の講釈でも聴きに行ったか、いずれにしても沙汰なしに出てゆくのは人騒がせであるというような蔭口もきこえたが、ともかくもかれが無事で帰って来ることが確かめられて、どの人の胸も軽くなった。しかし、その姫はなかなか戻らなかった。采女が一緒であるというのを聞いて、侍従はその戻りの遅いのも無理はないと察していたが、きょうも暮れ方から武蔵守師直の機嫌がよくない。さもないことに癇癪を起こして、夕餐の三宝さんぽうを打ち毀し、土器かわらけを投げ砕いたので、侍女どもは恐れをなして早々に引き退がってしまった。

こうなると、姫の戻りが待たれるので、侍従も落ち着いてはいられなかった。弓矢を取って代るべき侍どもは館の内にも大勢控えているが、あるものに魂を奪い取られて、一種の物怪もののけに憑かれたように焦れ狂っている主人を、おだやかに取り鎮めるものは小坂部のほかは無いので、侍従もひたすらにかれの戻りを待ち佗びていた。権右衛門も自分ひとりが駈けぬけて来たのを後悔して、再び馬に鞍を置かせようとしているところへ、姫と采女とはしずかに帰って来た。

侍従をはじめ、待ちかねていた家来や侍女どもがあわただしく出で迎えると、姫はかれらの質問に対してこう答えた。

「昼のほどに徒然草を読んでいたら、どうも解げせぬところがあったので、すぐに双ヶ岡まで走って来た。ほほ、増穂の芒すすきじゃ。」

増穂のすすき――その意味を、侍従はさすがに知っていた。それも徒然草の中に書かれてあることで、あるところに大勢の人があつまっている時に、ます穂の芒の議論が出た。渡辺の聖ひじりがこの事をよく知っていると或る人が語ると、その席に居合わせた登蓮法師が俄かに座を起って、すぐに蓑笠を貸してくれ、これから渡辺の聖のところへその教えをうけに行きたいと言った。あいにくに雨は降る、それほど急ぐにも及ぶまい。まず雨のやむのを待つがよかろうと、そばから注意する者があるのを、登蓮はあざけり笑って、人の命は雨の晴れ間を待つものではない、その間に聖が死ぬか、自分が死ぬか判ったものではあるまいと言って、降りしきる雨の中を忙がしそうに出て行ったというのである。小坂部も書物を読んで、何か解せないところがあったので、あすをも待たないですぐに其の教えを乞いに行ったという。それは怪しむべきことではない。むしろ尊むべきことであるかも知れないと侍従は思った。かれはその増穂のすすきの意味を家族や侍女どもにも講釈して聞かせて、姫が非凡の才女であることを今更のように説明するとと共に、自分もまた一簾ひとかどの物識りであることを暗に説き誇った。

小坂部が奥へゆくと、今まで時々物狂わしゅう呶鳴り散らしていた師直の声が急に鎮まった。やがて侍従も奥へ呼ばれた。

秋の夜寒よさむも近づいたとはいいながら、綾の小袖を三枚もかさねて、錦の敷蒲団の上に坐っている四十あまりの大男は、館のあるじの高武蔵守師直であった。さばき髪というほどでもないが、掻きあげない髪の毛のほつれかかるのを煩さがって、彼は蒼黒いひたいに白の練絹の鉢巻をしていた。その鉢巻の下には少し飛び出した眼玉が蝦蟇ひきがえるのように大きく光っていた。

「侍従、近う寄れ。」と、師直は声をかけた。

先刻とは人が違ったような、むしろ薄気味わるいほどに物静かな、柔かい声で招かれて、侍従は少しためらったが、そばには小坂部が付いているのに安心して、かれは会釈えしゃくして一と膝すすませると、師直はつづけて言った。

「お身に頼みがある。この歌をとどけておくりゃれ。」

誰にと訊き返すまでもなく、その届けるぬしを侍従はすぐに覚った。迷惑の色は見るみるかれの顔の上に湧き出した。

「ならぬというか。どうじゃ。」と、師直はかさねて言った。

その声はやはり静かであった。彼はしばらく黙って相手の顔を見つめていた。彼の物をいう時のほかは其の口を固く一文字にむすんでいたが、その大きい眼の中には怪しい笑みが泛うかんでいるのを侍従は見逃がさなかった。しかしこれはどう考えても難儀の使いであるので、侍従はわざとその意を読みかねたように黙っていた。

「はは、まだ判らぬか。それとも、どうでもならぬか。」

いつもならば戦場で千騎万騎を叱咜しったする坂東声を筒いっぱいにふり立てて、頭から噛みつくように罵りたけるわがままのあるじが、これほどの強い忍耐力をもって自分に対するというのが、侍従に取っては却って怖ろしいもののようにも感じられた。かれはいよいよ返事に困って、少し猫背の肩をすくめながら従いたずらに臆病らしい眼を伏せていると、それを取りなすように小坂部はしずかに言った。

「侍従どの。何をかくそう。ます穂の芒の正体はそれじゃ。まことは兼好の御坊に頼んで、その歌を書いて貰うて来ましたのじゃ。わたしも共々に頼みます。人目を忍んで、かのお人に……。のう、頼みましたぞ。」

侍従はますます迷惑した。師直の怒りも勿論おそろしかったが、ふだんから何かにつけて自分を優しく庇ってくれる小坂部がこう打ち付けて頼むのを、無下むげに断わるのもまた心苦しかった。もう一つには、もともと、この事件は自分が発頭人ほっとうにんともいうべきであって、塩冶の内室の世にたぐいなき艶色を自分がうかうかと吹聴ふいちょうしたればこそ、師直の胸に道ならぬ恋の種を播まいたので、下世話げせわにいう「無い子に知恵をつけた」その責任は自分にもある。勿論それに対してどんな返しをよこそうとも、それは相手の心次第で、自分は唯その使いを勤めさえすればいいのであると、かれは結局多寡をくくって素直にその役目を引き受けることになった。師直は当座の引出物ひきでものとして、かれに色ある小袖ひと重ねと練絹ひと巻とを取らせた。差しあたっての利慾に、かれもしばらくは将来の不安を忘れて、あるじと姫とにうやうやしく礼を述べて引き退がった。

「今更ながらお身の才覚には、この父もほとほと感じ入ったよ。」と、師直は侍従のうしろ姿を見送りながら、笑ましげに首をゆすった。「それにくらべると、あの女房め、眼付きばかりは小賢こざかしげでも、年甲斐もない愚か者じゃ。あの頬桁一つくらわしてくりょうとも思うたが、あやつでもさすがに猫よりもましじゃと料簡りょうけんして、かさねがさねの恩をきせて置いた。かの歌の使い、何というてもあやつよりほかには頼む者もないでのう。それに付けても、もう一度お身を褒めてやりたい。なにさま当代の文者という吉田兼好に此の文たのもうと思い立ったは、さすがはお身じゃ。日頃から物の用に立たぬは手書てかきじゃとあざけり、まして法師のたぐいは、木の折れかなんどのように思い侮っていたは師直が一生の不覚であったよ。なよ竹の――ただこの一句に無量の思いをこもらせたは奥ゆかしゅうて面白い。はは、おもしろい謎じゃ。塩冶の室はきこゆる歌よみじゃといえば、どのように返しをよこすかのう。」

わが娘からたった今教えられた「なよ竹」の講釈を、百年も前から心得ていたような顔をして、彼は笑いながら枕もとの香をつまんで、大明たいみん渡りと見える香炉に軽く投げ入れすると、うす白い煙りがたよたよとあがって、むせるような匂いが彼の大きい鼻をうった。坂東武者もこの頃は都の手振りを見習って、風流を誇るようになったのである。父の機嫌の好いのを見計らって、小坂部は甘えるようにささやいた。

「父上、わたくしにも折り入ってお願いがござりまするが……。」

「ほう、あらたまってお身の願いとは……。何なりと言え。聞こう。」と、師直は興がるように首を伸ばして、娘の白い横顔をのぞいた。

「余の儀でもござりませぬが、小坂部に夫を持たせてくださりませ。」

夜風がさっと吹き込んで来て、燈台の灯が力なくふるえて、ゆらゆらとなびいた。その弱い光りが再び元のように明かるくなった時に、師直はもう一度その灯を吹き消そうとするかのように大きく笑い出した。

「よい、よい。若い娘の言いにくい事を打ち明けてよう言うた。男の子には三河守みかわのかみがある。武蔵将監むさししょうげんがある。武蔵五郎がある。娘というてはお身一人じゃで、可愛さのあまりにいつまでも小供のように思うていたが、まことにお身ももう娘盛りじゃ。師直が今の威勢をもって婿えらみするというたら、公家ならば関白大臣、武家ならば二ヵ国三ヵ国の大名、わが望むままの婿を得らるるは知れてあるが、さて其のひとり娘をむざと手放すのが惜しゅうてのう。ついそのままに延引していたが、親の子煩悩が仇となって、あたら花盛りをやみやみと過ごさするもまた本意でない。して、お身はどのような男を持ちたいぞ。遠慮なしに言うてお見やれ。」

「言うてもよろしゅうござりまするか。」と、小坂部はあらためて念を押した。

「おお、苦しゅうない。お身は優美の生まれ立ちじゃで、婿は公家かな。」

「いえ、そうではござりませぬ。」

「やはり武家か。では、桃井、山名、細川、まずはそこらかな。」

「違いまする。」

「はて、親をじらすな。悪い奴め。師直は気が短い。早う言え。」

父は眼じりをしわめて笑った。

三

あくる日の午うまの刻すぎに、荏原権右衛門は高三河守師冬もろふゆの館やかたをたずねた。師冬は師直の甥であるが幼い頃から叔父の養い子になっていた。ことし二十一歳の若者で、武勇は養父ちちにも劣らない上に、その威勢を嵩にきて何事も思うがままに振舞っている。彼の館もやはり堀川のうちにあって、むかしは然るべき殿上人の住居であったのを無体に横領して、車寄せを駒寄せに作り変えたのであった。

「権右衛門、来たか。これへ。」

取次ぎの家来にむかって、師冬は頤あごで指図した。多血質の養父とは違って、彼は痩形の色の蒼白い眼のするどい、見るからに神経質らしい、何となく尖った感じをあたえるような男であった。武士はなんどきでも鎧を投げかける用意がなければならぬと言って、わが家に打ちくつろいでいる時でも彼はかならず直垂ひたたれを身につけていた。弓矢も鎧櫃も自分のそばを離さなかった。

「朝夕はいこう冷えまする。若殿の御機嫌はいかがでござりましょうか。」

あたえられた円座えんざを占めて、権右衛門は直垂の袖をかき合わせると、師冬は軽いしわぶきを一つした。

「おお、いかにも朝夕は俄かに冷えて来たようじゃ。都の冬も近づいたわ。その冬空にむかって北国の南朝方が又もや頭をもたげたとかいうので、きのうも今日もその注進で忙がしい。したがってお見舞にも得参らぬが、父上はどうじゃ。」

「は、やはりいつもの通り……。」

「いつもの通り……。では、相も変わらず垂れ籠めておわすのか。」と、師冬は眉をしかめた。「さながら物怪もののけにでも憑かれたような。困ったものじゃのう。」

彼はさすがに養父の秘密を知らないのであった。師直の館の中でも、ほんとうにその秘密を知っているものは、小坂部と侍従とその他二、三人に過ぎないので、余の者は皆まことの病気だと信じていた。師冬もやはり正直にそう思っている一人であった。

「御療養はあのように行き届いているに、とかく捗々はかばかしゅうがないというは……。」

と、師冬はまた言った。「そのようなことが世間に洩れきこえると、口さがない京わらんべは、やれ楠の祟りじゃの、新田の怨霊おんりょうじゃのと、あらぬ事どもを言い触らして、父上の武名を傷つきょうも知れぬ。さりとは無念の儀じゃ。もろもろの病いはおのれの心からいずるともいえば、其方そのほうたちも常に気を配って、父上の弱った心を引き立つるように努めねばならぬぞ。今朝こんちょうの注進によれば、畑六郎左衛門は湊の城を出て金津河合江口の城々を攻め落としたとある。由良越前は西方寺の城を出て、和田江守深町の庄を奪ったという。敵がかように勢いを得ては、もう安閑としてはいられぬ時節じゃ。その矢先きに父上の御病気はまことに心もとない。いや、まだそればかりでない、堀口兵部大輔も居山の城を打って出たという注進もある。」

こういう軍いくさばなしを権右衛門はもう聞き飽きていた。それが自分の務めでもあり、また相当の功名手柄を望む野心も山々でありながら、敵がいよいよこの都へ乱入して来るとあれば格別、遠い北国で一度や二度の勝敗はあまりに彼の神経を刺戟しなくなった。敵がちっとぐらい暴れ廻ったところで、誰かが又それを何とか撃ち攘はらってくれるだろう位に多寡をくくっているので、彼は年の若い師冬が熱しているほどにはこの問題を重大視していなかった。殊に主人の病根をよく知っている彼は、なんにも知らない師冬が一人で苛々いらいらしているのを気の毒に思い、おかしくも思った。

それでも若殿の手前、さすがに聞き流しにもならないので、彼も好い加減に調子をあわせて、気乗りのしない軍ばなしを一とくさり済ませた後に、さらに真面目になってささやいた。

「若殿、それがしが今日こんにち推参つかまつりましたは、ちと密々にお耳に入れ申したい儀がござりまして……。余の儀ではござりませぬ。姫上のおん身に就きまして……。」

「姫がなんとした。」

「山名殿と御縁組の儀は……。」と、権右衛門は若い主人の顔色をうかがいながら訊いた。

「まだ決まらぬ。」と、師冬は手軽く言った。「何をいうにも父上も御病気の折り柄じゃで、そのようなことを申しいずるもいかがと差し控えているが、山名の方では懇望、わしも承知、やがて表向きに取り決むる筈じゃが、それが何とした。」

「恐れながらその儀は……。相成らぬかとも存じられまするが。」

「なぜ成らぬ。」と、師冬はその眼に稲妻を走らせた。「父上不得心か、但しは姫か。」

「大殿の思召おぼしめしは存じませぬが……。」

「なりゃ、姫か。姫が不得心と申すことを其方たしかに聞いたか。」

「勿論、姫上の思召しを我々が直きじきに承わろう筈はござりませぬが、唯それがしが見とどけましたるところでは……。」

「むむ、何を見た。」

「姫上には……。」と、権右衛門は恐る恐る言い出した。「本庄采女になみなみならずお目をかけさせらるるようにも相見えまするが……。」

師冬は黙って半信半疑の首を傾けているのを、烏帽子のひたい越しに窺いながら権右衛門はかさねて言った。

「かようの讒口めいたること、甚だ心苦しゅうござりまするが、一旦それがしの眼に止まりましたる以上、いたずらに見過ごしまするは却って不忠かとも存じますれば……。して、山名殿とは、しかとお約束なされましたか。」

「おお、わしはしかと約束した。和泉介いずみのすけはわしとも日ごろ仲好しじゃで、妹をくりょうと約束した。いや、和泉介ばかりでない、彼の父伊豆守いずのかみにも言い聞かせたよ。」

「伊豆守も承知でござりまするか。」

いよいよ事面倒であると言いたそうに、権右衛門は子細らしく顔をしわめて見せると、師冬も蒼白い額に深い皺をきざませた。

「本庄采女……。どのような奴であったかのう。おお、思い出した。都落ちの平家の公達きんだちを見るような、なま白けた面つらの若侍であろうが……。かやつが妹と不義している……。たしかにそうか、相違ないな。」

「ひが眼かは存じませぬが、それがしは確かにそう見ました。」

「むむう。」と、師冬は空くうをじっと睨みながら、髭のうすい唇を少しふるわせていた。

敵にむかってはなかなかに鋭い若大将であるが、こういう場合の彼は養父ちちほどに大胆でない。一方に強いわがままな心をもちながら、また一方にはひどく気の弱いところもある。臆病らしいところもある。その性質は権右衛門もかねて心得ているので、彼が今この問題をいかに解決するかと、一種の興味をもってひそかにうかがっていた。

「若い者どもじゃ。是非もないか。」と、師冬は独り言のように言った。

「え。」

権右衛門は驚いたように額をあげると、それを抑え付けるように師冬はまた言った。

「さりとて、積もっても見やれ。高武蔵守の娘、高三河守の妹を、氏うじも系図もない若侍にむざむざと呉れてやらりょうか。不憫でも無慈悲でも是非がない。姫を叱って……いや、とくと理解を加えて思い切らするまでじゃ。」

「して、采女は……。」

「成敗せいばいか。勘当か、二つに一つじゃが、まずは勘当かな。命を取るもあまりに無慈悲じゃ。いずれにしても権右衛門。よう教えてくれた。礼をいうぞ。但し今しばらくは父上の耳に入るるな。師冬が自分で埓をあくるわ。」

「然るびょうお願い申しまする。」

ここまで運んで置けばもういいと思ったので、権右衛門は早々に若殿の前をさがった。彼は師直一家の譜代の家来ではない。若い時からただ足軽としてその組下に付いたのであるが、生まれ付き小才覚のあるのが主人の眼にとまって、乱れたる世の仕合わせには忽ちめきめきと抜擢されて、今ではともかくも足軽大将をうけたまわるほどの身分になった。こういう経歴の人間であるだけに、二股ふたまた侍というではないが、自分の主人以外、羽振りのよい諸大名にこすり付いて何かの利徳を得ようとする卑しい心がある。彼は山名伊豆守時氏ときうじの屋敷へも時どき出入りしているうちに、時氏の嫡子和泉守義氏が小坂部を懇望しているという噂を聞いた。単に懇望しているばかりでなく、すでに師冬にまで打ち明けて、その承諾を得たとも聞いたので、彼は自分もこの縁談に何か首を突っこんで、首尾よくそれを成就させて、わが主人にも自分の奉公振りを見せ、あわせて相手の山名からも相当の礼物を貰おうという下心したごころで、この頃は足しげく山名の屋敷へ出入りして、自分が万事呑み込んでいるようなことを言い立てるので、和泉守も彼を信用して、さきには引出物ひきでものとして京染めの素襖すおうと小袖をくれた。近い頃には太刀をくれた。彼が指しほこらしている身分不相応の兵庫鎖の太刀は即ちそれであった。

この意味からいって、彼が最も憎んでいるのは本庄采女であった。眼の捷はやい彼は姫と采女との関係を決して見逃がさなかった。采女という邪魔じゃま外道げどうをなんとか片付けてしまわなければ、姫と山名との縁談がなめらかに進行しないのは判り切っているので、彼はこの間からいろいろに肝胆を砕いた末にきょうはいよいよ二人の秘密を師冬の前に暴露したのであった。

「成敗でも勘当でもいい。どの道、かやつさえ片付けてしまえば天下は太平というものじゃ。」

こんなことを考えながら、彼は師冬の館の門を出ると、秋の日はあかあかと大路を照らして、路ばたの柳はその痩せた影を長く落としていた。鼻の先きへついと飛んで来た赤とんぼうを田楽扇で払いながら、権右衛門は柳の白い落ち葉を踏んでゆくと、被衣かつぎを深くした一人の女房に逢った。女房は彼を見て会釈えしゃくした。

「おお、侍従どの。どこへ行かるるぞ。」と、権右衛門も会釈しながら訊いた。

「あの、そこまで……。」

何やら詞ことばをにごして、侍従はそこそこに行き過ぎてしまった。その素振りがなんとなく怪しいので、権右衛門は幾たびか見返った。

「あの古狐め。どこへゆく。」

小夜衣さよごろも

一

「姫をよべ。」

師直は忙がしそうに家来に言いつけて、小坂部を自分の枕もとへ呼ばせた。呼ばれてかれは取りあえず父の前に出ると、家来どもはことごとく遠ざけられて、侍従のやや不安らしい蒼白い顔が黄いろい秋の灯にうす暗く照らされていた。娘がおとなしく手をつかえるのを待ちかねたように、師直は声をかけた。

「小坂部。早速じゃが、かの『なよ竹』の返しじゃ。さきほど侍従を使いに立てて、塩冶の奥へ届けて貰うたらのう。」

言いかけて、使いに立った古女房を見かえると、侍従は引き取っておずおず説明した。

「塩冶の奥方にお目通りして、かの歌を窃そっとまいらせましたら、手にとりあげて御覧ごろうじて、しばしは顔をあかめておわす。さては便りあしからずと存じて、御返事はいかがと忍びやかに御催促申せば、重きが上の小夜衣さよごろもとばかり仰せられて、そのまま奥へ……。さてその心はと重ねて問いまいらそうすべもないので、唯おめおめと戻りました。」

重きが上の小夜衣――むかしは殿上人にも宮仕えしたという侍従が、これほどの歌の心を覚りかねたのであろうか。あるいはとうに覚っていながらも、父の怒りをおそれてわざと素知らぬ顔をよそおっているのであろうか。いずれにしても、もう考える余地はない。この恋は叶わぬものと小坂部はすぐにあきらめた。侍従も薄々はきょうの不首尾を覚っているらしく、かれは若い姫の慧さかしいひとみの光りを避けるように、小さくすぼめた膝の上に自分の眼を落としてしまった。

父はと見ると、師直は待ち佗びしげに又言った。

「小坂部どうじゃ、その返しの心は……。侍従にもよう解げせぬと案じ悩んでいるが……。わしが思案では、重きが上の小夜衣――衣きぬ小袖こそでを幾つか重ねて送れという謎かと見た。それならば最いと安いこと。綾錦の装束なりとも七重八重かさねて仕立てさするは、十日か半月の間ひまにもなることじゃ。但しはほかに子細のあることか。この謎を早速さそくに判じておくりゃれ。」

正直に言おうか、言うまいか、小坂部は少し躊躇した。正直に言ってしまえば、さなきだに乱れかかっている父の心をいよいよ狂わせるばかりか、自分のためにも都合のよくないことが出来しゅったいするのは見え透いている。さりとて、正直に自分を信じている父の前で、間に合わせの気やすめを言うのも心苦しいので、かれは父の顔をじっと見つめたままで暫しその返事を考えていた。それを知らない師直は、かれもおなじくこの謎を判じかねているものと見たらしく、やや焦燥いらだって来たようにその口髭をむしりながら催促した。

「そなたにも判らぬか。日頃の才女もどうやら頼もしゅう無いものになったぞ。重きが上の小夜衣……。どうじゃ、まだ判らぬか。」

「判りませぬ。」と、小坂部はわざとらしい溜め息をついた。「衣小袖を送れとの御判断、それも面白うは存じまするが、万一その謎を解き損じて、わが心をかなたに見透かさるるも口惜しゅうござりまする。とてものことに今一度、双ヶ岡へまいりまして……。」

「兼好に判じて貰うか。」と、師直はうなずいた。「それもよかろう。あすの朝すぐに行け。」

雨とも晴ともまだ確かには決まらないので、師直の顔にもあらしの雲は湧いて来なかった。それをよいしおに、侍従はあとを小坂部にまかせて、自分はそっとそこをすべり出て、まずほっと一と息ついたが、さてこのおさまりはどうなるであろうと、かれの胸を強く圧さえている不安のかたまりはなかなか融けなかった。かれは由よしないことを師直の前で口走ったのを今さら悔んだ。どんな返事をよこそうとも、それは相手の心次第とはいうものの、こうだんだんに深入りして来ると、いよいよ事が面倒になるのをかれは恐れ危ぶんだ。かれは幾たびか恋の使いに立ったが、それはいつも不成功に終って、師直の機嫌を損じているところへ、又もや今度の使いを言い付けられた。断わり切れないでよんどころなく出てゆくと、その返事は「重きが上の小夜衣」であった。かれも実はその古歌の心を覚っているのであるが、師直の前であらわにそれを説きあかすのを憚って、好い加減に取りつくろって逃げて来た。しかもこの問題はこれぎりで消えてしまう筈はない。かれはその真相が暴露すると共に、いよいよ募って来る師直の憤怒を恐れた。

師直の憤怒、それから惹いて当然おこるべき我が身の破滅――侍従はその重い苦労に魂をおびやかされて、ひと摺れのした古女房も思案にあぐみながら、半ば夢心地でうっとりと長い廊下をあゆんで来ると、廊下の中ほどで一人の男に出逢った。

「侍従どの。」と、男は小声で呼びかけた。

呼ばれて立ち停まると、彼は荏原権右衛門であった。彼がいつもの癖で、狐のように左右を窺いながらさやいた「さやいた」はママ。

「お身にちと訊きたいことがある。さりとてこの廊下で立ち話もなるまい。お庭口まで出てたもらぬか。」

「なんの御用でござります。」

「はて、判らぬ人じゃ。ここでは話もならぬというに……。暇は取らせぬ。つい其処まで歩んでおくりゃれ。」

武勇に於いてはあまり頼もしい者とも信用されていないらしいが、小才覚ある奴としてこの頃は主人の覚えめでたい権右衛門が、こうしてわざわざ頼むのを、無下むげにふり切って逃げる訳にも行かないので、侍従は幾分の不安をいだきながらともかくも誘われて庭に降りると、権右衛門は先きに立ってかれを奥庭の方へ連れて行った。ここも然るべき殿上人の屋形やかたであったのを、去年から新しい主人に横領されたもので、庭の奥には大きい古池が薄月の下に黒く淀んでいた。権右衛門は内の灯のとどかないところまでかれを連れ出して、傘のように枝をひろげている紅葉の立ち木のかげにたたずんだ。

「さて、侍従どの。まず問いたいは、お身は先きのほど何処へまいられた。」

侍従は黙っていると、権右衛門はあざわらうように言った。

「お身、塩冶の屋敷へまいられたか。隠しても知っている。して、奥方の返しは何とあった。」

何から何まで知っているらしいので、侍従は少し慌てた。かれはうす明かるい月の光りに相手の顔を覗きながら訊き返した。

「そのようなことを誰に聞かれました。」

「誰に……。」と、権右衛門は少し言い淀んだが、やがて思い切ったように答えた。「おお、聞いたよ。殿から聞いたよ。」

「あ、殿が……。まことに其のようなことを洩らされましたか。」

狡ずるいようでも浅はかな女房は、どうやら彼の掛け罠にかかったらしい。もうこっちのものだと言わないばかりに、権右衛門は頤あごの髭をかえして又言った。

「就いては、その返しは何とあったか。心得のために訊いて置きたい。何もかも真っ直ぐに言うておくりゃれ。」

しかし相手はまだ半信半疑であるらしく、そう安々とは彼に釣り出されそうもないので、権右衛門はまた思案を変えた。彼はすり寄って嚇すようにささやいた。

「ありようは権右衛門、きょうの午ひるすぎに若殿のお館へ伺候すると、大殿と塩冶の奥方との一条、誰の口から洩れたか知らぬが、もう若殿の耳にも聞こえて、さりとは怪けしからぬ儀じゃと、かの殿にも胸を痛めておられた。それにつけても憎いは侍従という女め、由ないことを父上の前で吹聴ふいちょうして、あまつさえ忍びの文使いの役目までも引き受くる。あのような者がお側にあっては、父上のためには勿論、わが家のためにも良うない。かれめを早う追い払えと、以ってのほかの御気色であったを、それがしがいろいろに押しなだめて、まずは沙汰止みにいたしてまいった。先きほどお身にゆき逢うたはその戻りがけじゃ。諺にもいう犬も朋輩、鷹も朋輩、一つお館に奉公するお身の難儀をそれがしもむなしく眺めてはいられぬ。それがしの訴訟で、一旦は沙汰止みになったものの、日頃から癇癖の強い若殿じゃ。また重ねて何事を申し出さりょうも知れまい。それもこれも根もとは塩冶の奥の一条じゃで、その成り行きが案じらるる。またそれがために大殿と若殿とが御親子ごしんし不和の種を播くように相成っては猶々大事じゃ。のう、大きく申せばお家の大事、また二つにはお身の大事、いずれにしてもただ安閑と眺めてはいられぬ時節じゃで、それがしもこうして密々に訊ぬるのじゃが、どうじゃ、お身。これでも正直に明かしてはくれぬか。」

主家に忠義、朋輩に親切、あっぱれの武士じゃと褒められたいような彼の口ぶりを、侍従はもちろん相当の割引きをもって聴いていた。しかし三河守師冬が養父の不義を憎んで、その媒介なかだちをするかれを追い払えというのは、なにさま、さもありような話であった。追い払われて何処へゆく。それを思うと、侍従も少し途方にくれた。勿論、自分には小坂部という頼もしい保護者がある。その袖にしっかりと取り縋ってさえいれば、身の安泰は恐らく保障されることと信じていながらも、兄と名のつく師冬があくまでも自分を放逐しろと迫って来た時に、小坂部は果たして最後まで自分を庇ってくれるであろうか。侍従の不安はいよいよ大きくなって来た。

その弱味に付け込んで、権右衛門は巧みに説いた。嚇されて、賺すかされて、とうとう彼女は自分の知っているだけのことを残らず白状した。小坂部が双ヶ岡をたずねたことも、自分がその「なよ竹」の歌を持参したことも、それらの秘密をことごとく権右衛門の前に晒け出してしまった。そうして、若殿の手前はよいように取りつくろってくれと切しきりに頼んだ。

二

内輪にこういう小刀細工をしている人間があろうとは、さすがに思いもよらない小坂部は、あくる朝ともかくも館を出た。父の手前はかの双ヶ岡をたずねて、兼好法師に小夜衣の歌の説明を乞うて来ると言って出たのであるが、それはあらためて兼好の講釈を聞くまでもなかった。しかし自分としては再びかの庵いおりをたずねて、この間の礼を述べ、あわせて其の結果を一応報告する務めがあるとも思ったので、かれは諸国の大小名から進物として贈って来た修禅寺紙、有馬筆、伊勢荒布あらめの名産を中間ちゅうげんに持たせて行った。微行しのびといっても、この間とは違って表向きに父の許しをうけて出るのであるから、きょうは荷をかつぐ中間のほかに侍女二人を連れていた。

美しく晴れた朝で、さわやかな秋風がうす物の被衣かつぎをそよそよと吹いて通った。澄んだ空は一日ましに高くなって、比叡も愛宕も秋の光りの中に沈んで見えた。堀川から西へ西へと辿ってゆくと、とある四つ辻のまん中に五、六人の小供たちが立ち騒いでいた。赤とんぼうを追うのでなく、かれらはある異形いぎょうの男のあとを追っているのであった。

「御覧ごろうじませ。あれは眇目ひがらめの唐人とうじんめでござりまする。」と、中間はかの異形の男を指さして教えた。

「おお、あれが眇目の唐人か。」

その噂を聴きながらその正体をまだ一度も見たことのない侍女どもは、珍らしそうに立ち停まった。眇目の唐人――それを見るも聞くも小坂部はきょうが初めてであった。彼は蒼白い顔に長い毛をふりかぶって、身には異国風の破れた衣服きものを着て、跣足はだしでうろうろと迷いあるいていた。中間や侍女どもの説明によると、この怪しげな男はふた月ほど前から都の町をさまよっているのであった。どこからどうして来たのか知らないが、とにかく彼は大明たいみんから渡来の唐人で、何か判らない呪文じゅもんのようなことを唱えながら毎日歩いているのである。彼が眇目の名を取ったのは、左の片眼が魚の鱗うろこを挟んだような眇すがめであるためで、それが彼の怪しげな人相をいよいよ怪しく見せているのであった。

町の人達はもう見馴れているので、さのみに珍らしいとも思っていないらしかったが、小供達はやはり彼のあとを追って何かからかったりしているのを、彼は別に煩さいとも感じていないらしく、悪太郎どもが時々に投げつける小石のいたずらに対しても、彼はいつでも笑顔を以って応こたえていた。

そんな説明を聞かされながら、小坂部はしばらく其処に立ち停まって、巷ちまたにさまようかの怪しい姿をながめていると、異国の男もその眇目で若い艶あでやかな処女おとめを見付けたらしく、これも立ち停まってこちらをじっと見つめていたが、眼に見えない糸にひかれたように、やがてふらふらと歩み寄って来たので、侍女どもは気味悪そうにあわてて小坂部を囲った。中間も声を尖らせて叱った。

「ええ、おのれ、邪魔な奴。退け、のけ。」

それを耳にもかけないように、異国の男は無遠慮に小坂部の前に進み近付いたかと思うと、忽ち大地に吸い付けられたようにその両膝を折って、さながらかれを礼拝するようにひざまずいた。怪しく窶やつれた人相は彼の年齢を老ふけさせているが、おそらく四十を多く越えていないのであろう。一方の陰った眇目に引きかえって、明かるい右の眼は燃えるように爛々とかがやいているのが小坂部の注意を惹いて、かれは思わず形をあらためた。

「退け、のけ。叱っ。」

中間は犬を追うように叱り退けようとしたが、彼は身動きもしなかった。いつの間に何処で習ったのか知らないが、彼は極めて鮮あざやかな日本の詞で敬うように言った。

「おお、ここにござりましたか。わたくしはお身さまを尋ねて居りました。ようぞお逢い下された。」

いよいよ薄気味が悪くなって、侍女どもは思わず逡巡しりごみすると、中間は主人のおん大事というように姫を囲って彼の前に立ちはだかった。

「おのれ、何者じゃ。お微行しのびじゃで御苗字は申さぬが、これは当時この都に隠れもない御大身の御息女でおわしますぞ。仮りにも無礼を働いたら、おのれが首も手足もばらばらに引き放されてしまうと思え。さあ、退け。ええ、おのれ、執念しゅうねく邪魔するか。」

足蹴にでもするかと見えたので、小坂部はあわててさえぎった。

「あ、待ちゃ。見も識らぬ異国の人に、あらい折檻はせぬものじゃ。見るところ何か子細のありそうな。ともかくもわたしが訊いて見ようほどに、しばらく待ちゃれ。」

かれは恐れ気もなく一と足すすみ出て、自分を打ち仰いでいる異国の男の怪しく輝いた眼をしずかに瞰みおろした。

「聞けば異国の人のそうな。お身はまことに大明の生まれか。して、何のために此の国へは渡ってまいられた。」

「わたくしはまことに大明の人、福建というところで生まれました。わたくしは燕京の使いと一緒に日本へまいりました。」

彼の物語を綜合して考えると、彼は倭寇わこう鎮撫を依頼する明朝の国使にしたがって、日本へ渡来したのである。ここであらためて注釈を加えるまでもなく、鎌倉時代の末期から我が四国西国の人民は一種の海賊組を組織して、しばしば朝鮮や明国の海岸をおびやかした。かの八幡船ばはんせんといい、胡蝶軍と呼ばるるのが即ちそれである。明国でも多年その侵略になやまされて、幾たびか我が国に使者をつかわして其の取締り方を頼んで来たが、乱れた世にはとても完全な鎮撫の行き届こう筈もないので、倭寇の禍いは明国の沿海地方で年々くり返された。その鎮撫をたのむ使者が幾年か前にも明国の都の燕京を出発して、九州の平戸ひらとに到着したことがあったが、その当時この眇目の男もその一行に加わって上陸した。しかし彼は他に求むるところがあるので、日本の土を踏むと同時に一行をぬけ出して、まず九州一円をさまよいあるいた。それから海を越えて四国へも渡ったが、彼の求むるものは何処の山にも浦にも見当たらないので、彼はそれからそれへと流れ渡って、中国から堺の浦、浪華の津を経て、ふた月ほど前に初めて都に入り込んだのである。そうして、ここでも根よく毎晩さがし歩いているうちに、彼はきょう測らずもその求むるものを尋ね当てたのであった。

彼の求むるものは一体なんであるか。それは彼自身もあらわには説き明かさなかった。聞いている者には勿論わからなかった。しかも彼が大明の国使の一行をぬけ出して、殆んど気違いのような乞食のような悲惨な生活をして、あらゆる侮辱と艱難かんなんを堪え忍んで、異国の空をさまよい続けているという、そのあくまでも根強い執着心から推し量ると、彼の求むるその物が並大抵なものでないらしいことは容易く想像された。

「して、お身は何をたずねられまする。主親しゅおやの仇か、大切の宝か。」と、小坂部は彼に同情するようにまた訊いた。

八幡船の倭寇に主人か親かを殺されて、その復讐のために遠く渡って来たのか。あるいは大切の宝物を奪い取られて、それを取り返すために尋ね迷っているのか。恐らくそういう目的をいだいて、何物をか探し歩いているのであろうと小坂部は想像した。しかし彼は髪の長い頭を忙がわしく振った。

「違います、違います。わたくしはそんなものを尋ねているのではござりませぬ。わたくしはお身さまを尋ねていたのでござりまする。」

彼を気違いと見て、侍女どもは声をあげて笑い出した。その端下はしたないのを小坂部は眼で叱って、さらに眇目の男を屹きっと眺めた。

「さりとは解げせぬことじゃ。異国に生まれたお身が何のためにわたしをたずねてまいられた。」

「神のお告げでござる。」

こう言って彼は爪の伸びた指先きでおどろの髪をかきあげながら、畏れ敬うように再び小坂部の顔を打ち仰いだ。その敬虔の態度がいよいよ小坂部の注意を惹いて、かれも自分の足もとにひざまずいている異国の眇目の男をおのずと尊みたいような、一種の厳粛な心持になった。取り分けてかれは、相手の燃えるような片眼の光りに自分の魂を怪しく惹き付けられた。

「その神と申すは、大明国の神でおわしますか。」と、小坂部もおなじくひざまずいて訊いた。

京の町の四つ辻で、あかあかと照らす秋の月の下に、歴々の家の娘御とも見える艶あでやかなおとめと、気違いか乞食かとも見える異国の眇目の男とが向かい合って語っている。それが往来の人の眼を惹いて、いつのか間にか彼等のまわりは見物人の垣が結われた。中間は苦々にがにがしそうにその人垣を追いくずしている間に、二人の問答はだんだん進行して行った。眇目の男はその神に就いて委くわしい説明をあたえないで、単にそれは自分の信ずる神であると答えた。そうして、その神の指図によって、彼は遠い日本まで何物をか尋ねに来たのであると語った。

「その尋ぬるものが仮りにわたしであったとして、さてそれを尋ねあてたら、何とせらるるのじゃ。」と、小坂部は瞬またたきもせずに彼の顔を見つめた。

男も瞬きもせずに黙っていた。しかし彼の感情はいよいよ熱して来たらしく、その片眼は火のように輝いて見えた。

「わたしを異国へ連れて行こうとか。」と、小坂部はしずかに又訊いた。

君は頭かしらをゆるく振った。

「わたしを神への生贄いけにえにしようとか。」

男はやはり黙っていた。しかしその頭が右へも左へも動かないのを見て、侍女どもは又うす気味悪くなって来た。かれらはもう笑ってはいられなくなった。中間も何だか一種の不安を感じて来たらしく、侍女どもに眼配せして一度に起ち上がった。

「姫上。そのような気ちがいにお構い遊ばすな。さあ、お越しなされませ。」

「ほんに時も移りまする。さあ、早うおいでなされませ。」と、侍女どもは無理に小坂部を急せき立てて行った。

眇目の男はこの主従のあとを追おうともしなかった。幾年の艱難を凌いでようように尋ねあてたという獲物を、そのまま素直にやり過ごして、彼は口の中で何かの呪文を唱えながら、どこへか消えるように立ち去ってしまった。

三

双ヶ岡の庵いおりのあるじの姿は見えなかった。秋晴れのうららかな日和ひよりにそそのかされて、遁世の法師もどこかへ浮かれ出したのであろう。竹の戸はもとより閉ざしてもないので、主従は縁先きまで入り込んで幾たびか案内を求めたが、内には何の返事もきこえなかった。中間は焦れて、裏口から廻って厨くりやらしい所を覗いたが、そこにも人のかげは見えなかった。いよいよ留守と決まったので、小坂部は中間に持たせて来た音物いんもつを縁の端に置き列べさせて、自分はそっと内へあがった。かれは小机の上にある筆をとって、懐紙に「雪つもるなよ竹の」と書いて、それを丁寧にたたんで音物の上に置き添えて出た。

なよ竹の――それは兼好が小坂部に頼まれて書いた恋歌であった。雪つもるなよ竹の――これは小坂部がその結果を兼好に報告する古歌であった。むかしの歌に「雪つもる松はぞ如何に嫋竹なよたけの、おれぬ節こそ嬉しかりけれ」とある。兼好がそれを知らない筈はない。なよ竹の遂に折れなかったという報告はこれで十分であるとかれは思った。

あるじのいない庵をあとに見て、いつものすすき原を越えて帰る途中、かの「なよ竹」も「雪つもるなよ竹」も、もう小坂部の心にはなかった。かれの心を支配しているものは、異国の眇目の男から突然に投げ付けられた一種の怪しい謎であった。勿論、彼の言うことは真面目に受け入れるべきものでは無かったかも知れなかった。大明の国使にしたがって来たなどというのは跡方もない嘘かも知れなかった。しかし小坂部の疑いは、彼が何のためにそんな嘘をつくかということであった。いわれも無くして取り留めもないことを口走ったとすれば、しょせん彼を一種の気違いと認めるのほかはなかったが、小坂部はまわりの人々とおなじように、ただ無雑作に彼を気違いと決めてしまう気にはなれなかった。仮りに気違いであるとしても、彼は普通の乱心狂気でない、おそらく何かの宗教を盲目的に信仰して、その強い信仰から他目よそめには物狂わしく見えるようにもなったのであるまいか。あるいは異国の邪宗門を信仰する一種の邪教徒ではあるまいかと、小坂部は想像した。

彼が尋ねているものは、主親しゅうおやのかたきでもない、家の宝物でもない。彼ははっきりとそれを明かさなかったが、彼は自分の信仰する神の指図によって、その神の前にささげる生贄を求めているらしくも思われた。そうして、その尋ねている生贄は小坂部であるらしくも思われた。彼のものすごいほどに輝いていた片眼の光りを思い出して、小坂部は言い知れない怖れを感じた。一度魅みこんだら必ず逃がすまいとしているような、いかにも執着の強そうな眼の光りと顔の色――その印象が小坂部の胸に深く刻み付けられて、かれの恐怖はだんだんに強く大きくなって来た。

かれは黙って俯向いて歩いた。供の者共もやはり黙って付いて来た。野路を越え、田圃みちを過ぎて、もとの四つ辻へ戻って来た時には、そこにもうかの眇目の男の姿は見えなかった。

「あの気違いの乞食め。どこへ行き居ったか。」と、中間はあたりを見廻して言った。「あのような奴めが都に徘徊するは世のためにも良うござらぬ。搦め取って繋いで置くか、追い放すか。なんとか仕置きをせねばなりますまい。」

「いや、いや、捨てて置いたがよい。きょうのことは館へ戻っても、沙汰すること無用じゃぞ。」と、小坂部はかれらに言い聞かせた。

もう一町ばかりで堀川の館へ帰り着くというところで、足早に来る若侍に出逢った。彼は本庄采女であった。

「おお、お戻りでござりましたか。」と、采女は先ず声をかけた。

「采女、どこへ……。」と、小坂部は俯向いていた顔をあげた。

「若殿お館へ……。」

言いかけて、彼は供の者どもの手前を憚るらしく、そっと小坂部を眼で招くと、かれは心得て摺り寄った。二人は路ばたの柳のかげに立った。

「早速ながら兼好御坊の返事は何とござりました。」と、采女は小声で訊いた。

「兼好御坊は不在であった。」

「ほう、不在……。」と、彼は美しい顔を少ししわめた。「では、かの歌の講釈、なんとも確かには相判りませぬな。」

小坂部は無言でうなずいて見せると、采女は低い溜め息を洩らした。

「さりとは是非ない儀。実は御不在の間に大殿の御気色俄かにあしゅうならせられて……。」

「や、御病気が募られてか。」

「いや、御病気とはお見受け申されまぬが、何やら御機嫌が散々にならせられて、俄かに武者ぞろえの御用意を仰せ出されました。若殿へもそのお使いにまいりまする。」

「火急の武者揃え……。」と、小坂部もおなじく眉をよせた。「して、その敵は……。」

「判りませぬ。」

彼は不安らしい眼をして小坂部の顔を見た。

「何かの注進でもあったのか。」と、かれはまた訊いた。

「いや、なんの注進も参ったようには存じませぬ。お前さまがお館を出られますると、やがて荏原権右衛門が大殿の御前に伺候して、何か密々に言上いたして居りましたが、それから殿の御機嫌が変わらせられて、お側の者どもを遠ざけて暫し御思案の末に、俄かに仰せ出されました武者揃え……。誰も彼も寝耳に水で、敵はいずこに居ることやら……。」

これだけの報告では、小坂部に取っても寝耳に水で、何が何やら一向に判らなかった。この頃の世の習い、いつどこでどんな軍いくさが始まるやら、もとより見当は付かなかったが、それにしても余りにも火急の沙汰である。四国西国の敵は遠い、北国の敵も今日あすに都に攻め上って来ようとは思われない。殊にどこからも注進をうけ取ったというでもなく、権右衛門一人の密告に因ってすぐに武者ぞろえを触れ出すというのは、どう考えても呑み込めないことである。しかしいつまでここで評議をしていても果てしがない。殊に軍陣の機密は女子おなごどもの知るべきことでもないので、小坂部は不安ながらに采女に別れた。

館へ帰って、居間へ入って、かれは衣服を着換えようとしていると、侍従があわただしく転ころげ込んで来た。かれは侍女どもを遠ざけさせて、小坂部にささやいた。

「姫上。お前さま御不在の間に一大事が起こりました。」

「それは采女に聞きました。」と、小坂部はしずかに言った。「俄かに武者ぞろえのお触れが出たとやら。」

「そ、それでござりまする。」

「それが何とした。」

こちらが落ち着いているほど、相手は急せいた。侍従の顔には藍を染めていた。

「お聴きなされませ。権右衛門どの御前へ出まして……。」

権右衛門が父の前に出て、いったい何を言ったのであろうか。慌てている侍従を取り鎮めて、小坂部はその子細をしずかに訊きただそうとする時に、侍女がかれを呼びに来た。

「殿が召されまする。姫上お戻りならば直ぐにまいれとの御意ぎょいにござりまする。」

呼ばれて起ち上がろうとするかれの袂にしがみついて、侍従は必死の泣き声を立てた。

「一生に一度のお願い、何とぞわたくしの命乞いを……。命ばかりは……命ばかりは……お願いでござりまする。」

小坂部は呆気あっけに取られた。さっきは眇目の男といい、今は采女の使いといい、侍従のこの有様といい、何が何やら判らない出来事ばかりが繰り返されるので、かれも何だか夢のように思われたが、ともかくも侍従を好い加減になだめて、早々に父の前に出て見ると、師直の気色は想像以上に暴あらかった。彼は傷ついた虎のように哮たけっていた。

「小坂部。遅かったぞ。兼好めは何と申した。」

「あいにくに不在でござりました。」

「物の用にも立たぬはやはり手書きじゃ。」と、師直は罵った。「不在でもよい。もう何もかもみな判った。重きが上の小夜衣は『さなきだに重きが上の小夜衣、わがつまならぬつまな重ねそ』とある、新古今十戒の歌じゃ。」

小坂部はじっと父の顔を見直した。重きが上の小夜衣を衣小袖の所望と勘違いしているほどの父にむかって、そんな講釈を誰が教えて聞かせたのであろう。ゆうべ侍従からその歌の返しを聞いた時に自分はもう意味を覚っていたのであるが、父がそれを知ろう筈はない。知らなければこそ、自分にも問い、さらに兼好法師のもとへも問いにやったのである。その父が自分の不在の間に誰から教えられたのか。権右衛門もそんなことを決して知ろう筈はない。彼はまるで無学といってもよい位の人間である。あるいは侍従がうっかりと口を滑すべらせて、父の憤怒を惹き起こしたのではないか。そうして、自分に救いを求めたのではないかと思いあたった。いずれにしても、父が小夜衣の歌の解釈を十分に会得えとくしてしまった以上、小坂部は今更それを取りつくろう余地はなかった。

師直の大きい眼も火のように晃ひかっていた。しかしそれは先刻の眇目の男のように、小坂部の胸を射透す力をもっていないらしかった。

木枯こがらしの夜よる

一

新古今十戒の歌の意味を誰が講釈して聞かせたか。父が自身にそれを発明しよう筈はないので、小坂部は先ず第一にその説明者のうたがいを、かの侍従の上に置いた。かれが父にきびしく責め問われて、とうとう其の歌の心を正直に白状してしまったのであろうと想像した。いずれにしても、父が小夜衣の謎を解いてしまった以上、今更なまじいにそれを包み隠すよりも、あからさまに何もかも打ち明けて、いっそ思い切らせる方がましであろうとも考えた。

「父上。」と、小坂部はしずかに言い出した。「小夜衣の歌の心、もう御承知とござりますれば諄くどうは申しますまい。これほどに手を換え、品を換えて、兼好の御坊にまでも頼みましたる末が、やはり小夜衣の返しとござりましては……。いかに燥っても狂うても、しょせんは望みのないものかとも存じまする。就きましては……。」

「この恋、思い切れと言うか。」と、師直はあざけるように言った。「お身に教えられるまでもなく、師直は思い切ったよ。思い切った証拠は一日か二日のうちによう判る。はは、一日か二日を過ごさぬうちじゃよ。」

今まで火のように燃え立っていた父の感情が、俄かに水のように冷えて鎮まったらしいのが、小坂部にはいよいよ不安に感じられた。一日か二日のうち――その謎をどう解いてよいかと、かれは思い煩らっていると、家来の一人が知らせて来た。

「三河守どのお越しにござりまする。」

それをしおに、小坂部は父の前を退がって来ると、長い廊下で三河守師冬に出逢った。会釈えしゃくする妹を横眼にじろりと視たばかりで、師冬は無言で奥へ通って行った。彼のするどい眼がきょうは取り分けて神経質に晃ひかっているのが小坂部の注意を惹いた。いつもの病気見舞以外に何か重大な事件が絡んでいるらしいことを、かれは早くも推量した。自分の部屋へ戻って見ると、侍従はもうそこにいなかった。使いに出た采女もまだ帰らないとのことであった。

物を書く小さい机の前に坐ったが、きょうの小坂部はいろいろ考えさせられることが多かった。途中で偶然出逢った眇目の異国の男のことも、胸の奥にしみ付いて離れなかった。塩冶の内室に対する父の心もまだ本当には覚られなかった。一日か二日のうち――その解けない謎も気がかりであった。しかも現在、かれが魂を最も強く引っ掴んでいるのは、かれと采女とのあいだに横たわっている結婚問題であった。

なよ竹の執筆を兼好法師にたのんで来て、父の機嫌のひどく好いのを窺って、かれは甘えるように父に訴えた。若い家来の本庄采女を自分の婿に決めてくれと、かれは父にねだった。この訴訟には師直も案外らしい眼を睜みはったが、相手は自分の愛娘まなむすめである。殊に場合が場合であるので、彼もさすがにそれを叱り付けることは出来なかったらしく、まずは曖昧のうちに承認の返事をあたえた。そのあいまいの口ぶりが少しおぼつかないので、小坂部は更に踏み込んで念を押すと、師直も結局たしかに承知したと言い切った。しかしそれは娘が膝づめの談判に余儀なくされたので、心の底からよろこんで承諾したのでないらしいことは、小坂部にもよく判っていたが、その以上にこの約束をたしかめる方法もないので、かれは仮りに父の詞を信用して、しばらくその成り行きを見ているよりほかはなかった。

その矢先きに小夜衣の一条が出来しゅったいしたのである。かれも侍従もあからさまにその意味を説明するを避けていたのであるが、師直はもうそれを覚ってしまった。物事がこう破裂して、かれが折角苦心して手に入れたこの「なよ竹」が、却って父の憤怒を増し、かえって父の感情を激させるような結果をもたらしては、それから惹いて自分たちの結婚問題の上にもどんな障碍しょうがいを来たさないとも限らない。父は絶望の八つ当たりに、先夜の約束を反古ほごにし、わが子の恋をも無二無三に踏みにじってしまうかもしれない。勿論、その場合には、自分にも相当の覚悟をもっていないではないが、小坂部も当然の人情として、自分の恋になんの邪魔をも生じないことを切せつに祈らない訳にはゆかなかった。

「姫上。又まいりました。」

かれの供をして双ヶ岡から戻って来た侍女の一人が、なんだか落ち着かない顔をして主人のところへ知らせに来たので、小坂部はしずかに向き直った。

「又まいったとは……。誰が……。」

「さきほど途中で行き違いました異国の眇目の男が……。」

小坂部の胸はあやしく騒いだ。

「なんという。あの異国の……あの眇目の男が……。ここの館へたずねて来たと……。」

「たずねて来たというでもござりますまいが、さっきから御門前をうろうろとさまようて、内を窺うているところを、お使いから戻られた采女どのが見咎めて……。」

彼を胡乱うろんと見とがめて、采女は一応の詮議をすると、彼は明瞭の返答を与えない。ただ自分が年来たずねていた其の人にきょう測らずもめぐり逢って、この館の姫であることが判ったので、その跡を慕うてここへ来たというに過ぎなかった。しかも采女の疑いはまだ解けないで、更にきびしく詮議しようとしているところへ荏原権右衛門も来わせた。亀田新九郎、横井弥兵衛などという若侍も出て来た。かれらは怪しい眇目の異国人を押っ取りまいて、いよいよ厳重に詮議をはじめて、結局は敵の間者かんじゃか細作しのびのうたがいを以って彼を館の内へ無理無体に引き摺り込もうとするらしいと、侍女は小坂部にささやいた。

この報告をうけ取って、小坂部はいよいよ一種の不安を感じた。見識らない異国の眇目の男――たとい先方では何と言おうとも、こちらでは何のかかりあいのない人間である以上、彼が搦め捕られようと、拷問にかけられようと、ただその成り行きにまかせて置けばよいのである。そう思いながらも、一度彼の燃えるような片目の光りに強く射られて、自分の魂を怪しく魅せられたように感じている小坂部は、彼の運命を権右衛門らの手にゆだねて置くのが、いかにも心もとないように思われてならなかった。かれはその侍女に案内させて、すぐに館の門前へ出て見ると、眇目の男はさきの姿をそのままで、新九郎と弥兵衛の二人に両腕を取られていた。権右衛門は例の兵庫鎖の長い太刀の柄に手をかけて、何か尖った声で罵っていた。采女も白い歯で下唇を噛みながら、美しい顔を少しゆがめて、自分の足もとに引き据えられている異国の男を子細らしく睨みつめていた。

姫がここにあらわれたのを見て、四人は一度に会釈したが、それはほんの型ばかりで、彼等のするどい眼はやはりその異国の男の上にそそがれていた。

「その男が何としたのじゃ。」と、小坂部は誰に訊くともなしに声をかけた。

その涼しい声が耳にひびくと、今まで俯向いて大地を睨んでいたような男は俄かに顔をあげた。小坂部はさっきと同じように、その魚のような眇目と火のような片目とを見た。彼は侍どもに捕われている手籠めの苦痛と運命の危険とを忘れたように、さながら弥陀の来迎を仰ぐような歓喜の面おもてをかがやかして無言にじっと小坂部の顔を瞰みあげているのであった。

「こやつ、胡乱うろんと見ましたで引っ捕え申した。」と、権右衛門は先ず答えた。「眇目の異国人が都の中にさまよう由はかねて聞き及んで居りましたが、館の御門前に立ち迷うて先刻より内を窺うは重々の不審と存じて、ともかくも取り押さえて吟味いたせど、あらぬことのみ口走りてちっとも埓らちあかず。さりとて彼の面付き、眼の配り、世のつねの乱心狂気ともおぼえませねば、何か子細ありげな奴、あらためて吟味いたすまでは館の内に繋ぎ置こうと存じまする。」

「それもよかろう。」と、小坂部も一応はうなずいた。「しかしその男はさきほども路で出逢うた。物狂わしい異国の人、深い子細がありそうにも思われぬ。このままに免ゆるしてやってはどうであろうな。」

権右衛門も二人の若侍も無言で眼を見あわせたが、その不得心はかれらの顔の色にありありと浮かんでいた。采女も黙っていた。

「どうでも免すことはなりませぬか。」と、小坂部はまた訊いた。

「なり申すまい。」と、権右衛門は烏帽子の懸け緒を固く締めた頤を突き出した。「異国の者どもとて油断はなりませぬ。大明の使いはしばしば西国に往来して、菊池なんどの一族と好よしみを通ずるやにも承わる。かれらの或る者が菊池にたのまれて、間者の役目を勤むるなど、世に無いこととは申されませぬ。」

「さりとはきつい思い過ごしじゃ。」と、小坂部はほほえんだ。「いかに賢うても所詮しょせんは異国の人じゃ。物の言いようも風俗も違うた都へのぼって、何程の働きがなることぞ。まして間者とも細作しのびとも確かに見きわめた証拠もないのに、あまりに物々しい詮議立ては、日本の侍の器量も推し測られて、異国への聞こえも恥ずかしい。のう、采女。そなたは何と思うぞ。」

わが名を指されて、采女も黙ってはいられなくなった。実をいえば、彼も他の人々とおなじようにこの怪しい異国の男をこのまま放してやるのを何やら不安に感じているのであったが、余人でない姫の意見に楯をつくほどの勇気をもたないので、彼は少しく躊躇しながら答えた。

「なにさま姫上の御意ぎょいもごもっとものように存じられまする。取り留めた証拠もないに異国の人を詮議の拷問のと仰々しく立ち騒ぐは、その国への聞こえもござりまする。この上にかさねて不審の事どもがあれば格別、ともかくも今日はこのままに……。」

権右衛門の眼は妬ましげに光った。

二

どの人の胸にも幾分の不満と不安とが潜んでいながらも、主人の愛娘といい、もう一つにはかれに備わっているおのずからの強い力に圧おし伏せられて、素直にかれらの捕虜とりこをゆるすことになった。掴まれていた両腕をゆるめられて、はじめて自由の身になった眇目の男は格別にそれを嬉しいとも思っていないらしかった。彼はむしろ獣のように手足をくくられて檻の中に投げ込まれても、自分の尊崇する小坂部の館にいつまでもみがれていることを望んでいるらしかった。それでも彼は立ちぎわに一言の礼を言った。

「ありがとうござります。」

四人の侍が油断のない眼を働かせて、姫の前を厳重に立ち塞いでいるので、彼は先刻のように小坂部の足もとに近づいてひざまずくことを許されなかった。彼はいたずらにその輝く眼の光りを姫のおもてに投げ付けたばかりで、からだの泥をも払わないでふらふらと立ち去ってしまった。

「不思議な奴じゃ。」と、そのうしろ姿を見送って、四人は一度につぶやいた。

彼はどこへ行くのであろう。小坂部はどこまでも彼のあとを追って行きたいような心持にもなって、暫くはうっとりと見送っていると、式台は俄かにざわめいて、義兄あにの三河守師冬が出て来た。師冬の顔の色は先刻よりも更に著しく緊張していた。彼のあとには三人の家来が付いていた。

「お帰りでござりまするか。」と、権右衛門らは門前に列んで頭を下げた。

師冬はやはりなんにも言わなかった。彼は妹と采女との顔を等分に見くらべたままで、つかつかと表へ出て行った。そのあとを二、三間追って、権右衛門は小声で訊いた。

「火急の陣触れ、何事でござりました。」

「まだ判らぬ。」と、師冬は不興らしく言った。「それにつけても父上の御病気が案じらるる。其方共も心して御介抱申せ。またそのほかにも眼に立つことがあらば、即刻にわが許もとまで注進を怠るな。よいか。」

相手の顔色が常よりもむずかしいので、権右衛門もその上に押して訊く訳にもゆかなかった。彼が委細かしこまって師冬に別れて、もとのところに引き返して来た時には、姫も侍共ももう奥へ入ってしまって、門前の柳の葉が音もなしにはらはらと散っていた。

師冬が今日たずねて来たのは、いろいろの用向きをかかえているのであった。第一には父の病気見舞、第二には山名の縁談、この二つを兼ねて館を出ようとするところへ、あたかも父の方から迎いが来て、何か火急の陣触れでもあるらしいので、彼は取りあえず出て来ると、父の容態はやはりいつもと同じようであった。そうして、あたりの者を遠ざけて、彼は父の口から意外の大事を聞かされた。

その大事は塩冶判官高貞の謀叛であった。塩冶はその初め、官方にしたがって鎌倉の足利兄弟を征伐に下って来たもので、新田義貞が箱根を攻め、弟の義助が竹の下を攻めた時に、塩冶は義助の手に付いていた。その合戦の最中に、二条中将為冬卿が武士を軽蔑したとかいうのが不平の基で、西国の小弐、大友や中国の佐々木、塩冶の一族は、にわかに味方にうしろ矢を射かけて足利方に裏返ってしまった。その以来塩冶は引きつづいて足利に付いて、いまも都に押しのぼっているのであるが、そういう裏切りの歴史をもっているだけに、足利方でもかれらに対しては多少の懸念がないでもなく、尊氏は執事の師直にむかって、ひそかにその行動を監視せよという内意を下したこともあった。その塩冶高貞が謀叛を企てたというのであるから、師冬も一旦はおどろかされた。しかも師直の説明によると、塩冶は西国の菊池、四国の土居得能、北国の新田と内密に謀しめし合わせて一度に都へ攻めのぼらせる。それと同時に、彼は都のまん中に旗を押し立てて、足利の将軍兄弟を不意討ちにするというのであった。

万一それが事実であったら大事件である。きのうの味方がきょうの敵となるのは珍しくない世の中に、そんなことが決して無いとは受け合われない。しかし師冬は塩冶の人物をかなりによく承知していた。竹の下の変心は格別、その後の彼は足利方に対してふた心を懐いているらしい形跡はちっとも認められなかった。その塩冶が突然に謀叛を企てるというのは、何分にも腑に落ちない点もあるので、彼は父にむかってその証拠調べを始めると、師直もいろいろの証拠を列べ立てて説明した。しかも師冬の眼から観ると、そのいろいろの証拠の中には一つも有力と認められるものはなかった。その大部分は一種の想像説に過ぎないようなものであった。こんな薄弱な理由で、塩冶高貞ともあるべきものをみだりに謀叛人に陥おとすことは出来ないと彼は思った。

「なよ竹」や「小夜衣」や、そんな秘密をなんにも知らない彼は、かえって父の短慮を怪しんだ。こんな薄弱な証拠で味方の一人を攻めほろぼそうなどというのは、日ごろの父にも似合わしからぬ事だと思った。それも畢竟ひっきょうは病いのためで、病いが父の心を狂わせるのであろうとも考えたので、彼はまじめに父の相談相手になろうともしなかった。相手がまじめに取り合ってくれないので、師直は機嫌を損じた。将軍家のおん大事、惹いては我が家の大事を、おのれは何ゆえ疎略に存ずるかと、彼は眼の色を変えて我が子に食ってかかった。師冬も初めは好い加減になだめようとしていたが、父の権幕がだんだんに激しくなって、おのれも塩冶の贔屓をする以上、おそらく同腹の謀叛の党であろうなどと罵り哮たけるので、師冬もしまいには堪忍がならなくなった。彼の癇癪もとうとう破裂して、ここに一場の親子喧嘩が始まった。しかし正当の理屈は師冬の方にあるので、ややもすれば言い負かされそうになる師直は、骨も魂も焼け爛ただれるばかりの憤怒に眼が眩くらんで、しまいには我が子を勘当するとも言った。父の館へ出入りを差し止めるとも言った。

師冬もいよいよ昂たかぶって来る癇癪を抑えることが出来なかった。身もふるえ、唇もおののいて、もうなんにも言うことの出来なくなった彼は、無言で父の前をついと起ってしまった。この場合、山名の縁談などまるで問題にはならなかった。

あらためて説明するまでもなく、師直はかの「小夜衣」の講釈を権右衛門から教えられたのであった。侍従をおどして白状させて、彼はあっぱれの忠義ぶりを主人に見せたのであるが、その結果はおそろしいものになって現われた。これまでにいろいろに手を換え、品を換え、ついには娘や兼好の知恵までも仮りて、執念ぶかく口説き落とそうとした塩冶の妻は、どうしても心を動かそうとはしなかった。小夜衣の返歌は彼に対する最後の一偈げで、しょせん自分の望みは遂げられないものと覚りながらも、彼の根強い執着心はまだこの恋を思い切ることが出来なかった。焦れて狂って悶えて、彼はもう理非を弁別する余裕をうしなって、かの兼好が言った通り、この世では身をやぶり家をほろぼし、来世は地獄に堕おちるとも、彼は邪が非でもこの望みを押し通さなければならないといらだった末に、彼は塩冶を謀叛人に陥おとしてその妻を奪い取ろうと巧たくらんだのであった。

この非常手段は今までも時々に彼の頭の奥にひらめかないではなかったが、幾分か残っている理性の力でともかくも抑え付けていたのを、彼はいよいよ思い切って実行することになった。しかも自分がその直接の責任者となるのを避けて、わが子の師冬をそそかして彼からその口火を切らせようとしたのであるが、師冬はあたかもこちらのふところを見透しているかのように、かえって塩冶の肩を持って父に反抗するような態度を示したので、師直はまた失望した。恋には破れ、わが子には背かれ、やるかたもない悶々の情は、いよいよ彼を駆って半狂乱の人間にしてしまった。彼が持ち前の野性は遠慮なく発揮された。

「もうこの上は誰をもたのまぬ。おれのことはおれがする。師直の力を見ろ。」

彼はその日の暮れるのを待って、将軍足利尊氏の館へ出仕した。不得要領の陣触れといい、先刻までも半病人の姿であった主人が俄かに出仕するといい、これは唯事でないと見た権右衛門は、すぐに師冬の館へ駈け付けて注進すると、師冬は蒼ざめた顔をいよいよ蒼くした。彼はさりげなく権右衛門を帰したあとで、空くうを睨んで罵った。

「取り留めたる証拠もなしに味方を討つ。万一このままに塩冶をほろぼろしたら、味方はたがいに疑い危ぶんで、一身をなげうって将軍家に忠節を励むものもあるまい。父上は天魔に魅みいられたのじゃ。」

三

あくる朝、師直の家来の重なる者は三河守の館によび付けられた。師冬はおごそかに彼等に言い渡した。

「申すもいかがじゃが、父上はこの頃少しく心が乱れて居らるるようにも見受けらるる。それもみんな病いのなす業わざじゃ。就いては又しても陣触れなど仰せ出さりょうも知れぬが、師冬が沙汰するまでは一人たりとも妄みだりに動くな。敵はいずこにあるか、確かに見定めたあかつきには、この師冬よりあらためて沙汰するぞ。それまではむざと立ち騒ぐこと無用。この旨屹きっと申し渡したぞ。」

大殿も勿論おそろしいが、若殿の命令もまた重いので、言い渡された一同は委細心得て引き退がった。師冬は先ずこうして塩冶退治に対する予防線を張ったのであるが、その後二日ばかりは何の異変もないらしいので、彼も少しく安心した。将軍とても取り留めのない臆説を信じて、迂濶に塩冶を疑うようなこともあるまいと思っていた。

しかしそれは師冬の迂濶で、父の讒訴は案外に成功して、塩冶をほろぼす陰謀は暗中にだんだん進行しているのであった。

「姫上、おわすか。」

そっと声をかけて、小坂部の部屋へ幽霊のように忍び込んで来たのは例の侍従であった。もう初冬に近いこの頃の日は早く暮れて、木枯しというような寒い風の音が軒をゆすって聞こえた。

かの小夜衣の事件以来、ひどく師直の機嫌を損じて、いつどんな祟りを受けるかと、落ち着かない胸をかかえて其の日を送っているかれの顔には、悼いたましいほどの窶やつれを見せていたが、今夜はその顔の色が取り分け陰っていた。かれは顫え声でささやいた。

「姫上にはまだ御存知ござりませぬか。塩冶どの御運の末ももう眼の前になりましたように存じられまする。」

「とは又、なぜに。」と、小坂部はかれの顔をじっと見つめた。

「御存知ござりませぬか。」と、侍従はかさねて念を押した。「近々に討っ手を差し向けらるるとか申しまするが……。」

「それは定じょうか。」と、小坂部の方でも念を押した。

その狡ずるそうな眼と聡さかしげな耳とを絶えず働かせて、内外うちとのことを何かにつけて探り出そうとしている、古狐のようなこの女房が、自分よりもひと足さきにこうした機密を嗅ぎ出して来たのを小坂部は不思議にも思わなかった。それをどうして知ったかと押し返して訊くと、侍従は若侍の亀田新九郎の口から聞き出したと答えた。分別のない若侍は却って古狐の罠にかかって、大事の機密をうかうかと洩らしたらしい。それにしても何ゆえ塩冶をほろぼすのかと小坂部は一旦疑った。

「塩冶殿謀叛と申しまするが……。」

侍従もそれを疑うように相手の顔色をそっとうかがった。それと同時に、小坂部はすぐに覚った。一日二日のうち……その謎がはっきりと解けた。

「して、その討っ手はいつごろ差し向けられると聞きましたか。」

「しかとは判らぬようにござりまする。」と、侍従はひと膝乗り出して、いよいよ声を低めた。「これには若殿御不同意とか申すことで、御家来衆も板挾み、どちらの御下知に従うてよいやら案じ迷うて居るとか聞きましたが、所詮は大殿のお指図次第かと察しられまする。」

小坂部は黙って考えていた。兼好の議論からいえば、それはあくまでも徹底的であるかも知れないが、道ならぬ恋を押し通そうとして其の夫をほろぼす――それは余りに非道であるとかれは思った。兄の師冬が同心しないのも無理はないとも思った。兄も不同意、家来共も進退に迷っているという以上、父がただ一人で暴君の威を振おうとしても、その計画は容易に運ぶまいとは思うものの、今も侍従のいう通り、しょせんは父の指図次第に家来共も動き出すに相違ない。まずその前に父を諫めて、彼を未来の地獄から救わなければならないと小坂部は決心した。

侍従もその眼色で大抵推量したらしい。襟を掻いつくろって起とうとする小坂部の袂に取り付いて又訴えた。

「この事をわたくしが洩らしたなど、必ず仰せ下されますな。今の折り柄、どのようなお祟りを受きょうも知れません。」

「それはわたしも心得ています。」

小坂部はうなずいて出て行った。兄も不同意とあるからは一応の意見も諫言も試みたに相違ない。それを押し退けて横車をひき出そうとする無理非道の父に対して、女の口から更に切諫せっかんを試みようとするのであるから、並大抵のことではむずかしい。かれは強い決心を以って父の前に出ると、師直はいつの間にか寝道具を取り払わせて、紫紺地に巴の模様を白く染め出した直垂ひたたれを着て、敷皮の上に武者あぐらを掻いていた。もう疑うまでもない。父のいでたちが一切の事実を説明しているように思われて、小坂部の胸は今更のように跳った。

「いつの間にかお床を揚げさせられて、御病気御本復でござりまするか。」と、かれは何げなく訊いた。

「癒っても癒らいでも、起きる時には起きねばならぬ。」と、師直は持っている扇を膝の上に突き立てて、娘の顔を睨むように視た。「たとえばここへ敵が寄せかけたという時、病気じゃとて安閑と寝そべっていらりょうか。」

「しかしその敵は……。」

「お身たちの知らぬことじゃ……。」

「勿論、女子おなごどもの知るところではござりますまい。」と、小坂部はわざと取り鎮めて言った。「さりとて武家の妻や娘が敵の兜の星を見るまで唯おめおめとしていられましょうか。女子にはまた女子だけの覚悟もござりまする。」

師直は黙っていた。外には木枯しが又ひとしきり強く吹いて通った。

「父上。」と、小坂部は又呼びかけた。「くどいようなれど、俄かに床を揚げさせられて、そのお姿は何とも合点がまいりませぬ。御出陣でござりまするか。」

「まだ判らぬ。」と、父は叱るように言った。「軍いくさの機密じゃ、お身たちには洩らされぬ。かさねて問うな。」

「いや、お問い申さねばなりませぬ。塩冶どのに討っ手を向けられまするか。」

いつもの凜とした声音こわねにおびやかされたように、師直は少しく形をあらためた。彼は肚はらのなかで舌打ちでもしているように、その厚い唇をゆがめて顫わせたばかりで、娘の問いには何とも答えなかった。

「塩冶殿謀叛によって討っ手を差し向けらるるとか聞きましたが、それはまことでござりまするか。」と、小坂部は畳みかけて訊いた。「その謀叛は確かな証拠がござりまするか。」

師直はやはり舌打ちをしているばかりで、外の木枯しに耳を傾けているかのように顔をそむけていた。

「父上。」

「何じゃ。」と、父は煩さそうに見返った。

「塩冶殿に討っ手を向けること、兄上も御同意でござりまするか。」

「あのような馬鹿者は勘当じゃ。」と、師直は唾つば吐くように言った。「兄なぞはどうでもよい。何事も将軍家のお指図じゃ。」

「そのお指図も父上からお勧め申されたのではござりますまいか。わたくし決して諄くどうは申しませぬ。何事もお前さまのお心に問うて御覧ごろうじませ。」

小癪なことをと言いたそうに、師直は大きい眼を屹と見据えたが、その顔にはさすがに一種の暗い影が宿っていた。小坂部は恐れげもなく又言った。

「塩冶の内室の儀に就きましては、わたくしも及ばずながら父上にお味方申して居りました。それがためにも双ヶ岡までも訪ねました。その心づくしが却って仇となって、弥いやが上にも父上のお心を狂わせて、罪に罪を重ねさせまするは、なんぼう忍ばれぬ儀でござりまする。先日わたくしに向かって思い切ったと仰せられたは偽りか。思い切ったという口の乾かぬうちに、さらに悪業を増すようなお企ては、あまりの浅ましさに涙がこぼれまする。のう、父上。このお企ては屹と思い止まって下さりませ。どうでも肯かれませぬか。小坂部がこれほどお諫め申しても、あくまでも無理非道を押し通そうとせらるるなら、わたくしももうお前さまのお味方ではござりませぬぞ。」

「味方でない。」と、師直はうめくように言った。「お身も兄と一つになって、この父に背くというか。」

「背くも背かぬもお前さまのお心一つとは知られませぬか。背かせるは親の罪、子どもの罪ではござりませぬ。」

小坂部は父の顔をまともに見つめながら答えた。かれの手ごわいのは師直もかねて知っていた。ことに師冬とは違べて、かれは塩冶の内室の秘密を詳しく承知しているだけに、父に取ってはいよいよ扱いにくい相手であった。さりとて今更その決心を鈍にぶらせるなどというのは、師直としては到底できないことであるので、彼は子供らをことごとく敵としても、その初一念を押し遂げなければならないという強い執着心に支配されていた。

こうなれば、小坂部も兄と同じ筋道をたどるよりほかはなかった。父は自棄やけ半分の喧嘩腰で呶鳴った。

「もうよい。なんにも言うな。師冬の心も、おのれの心もみな判った。甥とはいいながら師冬は養い子じゃが、おのれは現在の生みの子で、兄と一致して父に刃向うとは……。おのれも勘当されたいか。」

「現在の娘なればこそ親の罪を救おうとて……。」

「ええ、黙れ、だまれ。」と、師直はまた呶鳴った。「勘当同様のおのれと詞ことばは交わすまい。行け。退がれ。早く行け、叱っ。」

彼は扇で床を叩き立てて、犬猫を追うように我が子を口穢くちぎたなく追い退けた。小坂部ももう思い切った。いわゆる「論は無益」とはまことに今の場合である。今までは生みの娘として自分を寵愛し、あわせて相当の尊敬をも払っていてくれたらしい父が、今度の問題に対してはまるで暴君の態度を取って、初めから自分を相手にしてくれないのである。もうこの上は是非がない。まだ言いたいことはたくさんあるが、こんな無道人に対して論は無益とあきらめて、自分は自分として取るべき途を取るよりほかない。小坂部は思い切ってその座を起った。

これから兄のところへ行って相談しようかとかれは考えた。しかし兄とてももう施す策はあるまい。兄妹きょうだいがむかい合って、いたずらに父の非をかぞえ、父の悪行を嘆いていたところで、当面の急を救う上には何の役にも立たない。この場合には臨機の処置が肝要である。こういう思いに沈みながら小坂部は長い廊下をあゆんで来ると、うす暗い物の蔭から侍従の姿が又あらわれた。かれは事の成り行きを気遣って先刻から其処らにさまよっているらしかった。

「侍従どの。」

小坂部はかれを呼び近付けて何事かをささやくと、侍従はひたいを皺めて少しく難儀らしい顔を見せた。

「暗い夜でござりまする。女子おなごばかりでは途中の程も……。」

それも無理ならぬ注意のように思われたので、小坂部もしばらく思案していたが、やがて又かれの耳に口をよせると、侍従は心得顔にうなずいて、すぐに表口の方へその姿を消した。小坂部は一旦自分の部屋へ帰って、忙しそうに身支度をして更に表口へ忍んでゆくと、そこには侍従が待っていた。

「采女は……。」と、小坂部は小声で訊いた。

侍従は無言でうなずいて、姫の手をとって忍び出ると、入口に焚かせてある夜の篝火も強い木枯しに吹き消されたらしく、暗いなかを探るように出てゆく二人の女のうしろ姿を誰も見咎める者はなかった。

眇目の男

一

小坂部と侍従と采女と、三人はあとさきにつながって、木がらしの中を急いで行った。この頃の京の町は人気じんきが穏かでないので、日が暮れると巷ちまたに斬取りの強盗が横行する。その噂におびやかされて、まだ宵ながら往来は途絶えて、戸を閉てた家々に燈火あかりのかげも洩れなかった。空一面にきらめいている星の光りも、強い風に吹き消されるかとばかりに瞬またたいていたが、その星明かりをせめてもの頼りに、三人は暗い夜路をひたすらに急いだ。

「姫上。お早いことでござりまするのう。」と、侍従はあえぎながら言った。

「早いはずじゃ。心が急せく。」

小坂部は采女に手をひかれて、ややもすれば吹きやられそうな木枯しの中をうつむき勝ちに走った。侍従は幾たびかつまずきかかって、そのあとを追った。かれは杖を持って出なかったのを悔んだ。塩冶の屋敷は七条のはずれにある。その門前までゆき着いた時には、侍従の額からは汗が滲にじみ出した。

「頼む。」

采女が門口かどぐちから案内を求めると、一人の若侍が長巻をかかえて出て来た。彼は中国訛りで訊いた。

「どなたでござる。」

「それがしらは執事殿の館やかたからまいった者。夜中の推参、憚りありとは存ずれど、何を申すも火急の用事じゃ。奥方に窃そとお逢い申したい。これにあるは殿の御息女じゃ。」

若侍は狐にでも化かされたかというように、暗い中をじろじろと透かし視ていたが、やがて奥へ引っ返して行った。いわゆる飛ぶ鳥も落とすという威勢をもっている高武蔵守師直の息女が、夜陰に忍んで尋ねて来る――それは確かにこの中国武士をおどろかしたに相違なかった。木枯しは又ひとしきり吹きまくって、砂と落葉とが渦巻いてころげて来る中に、三人は袖をかき合わせてたたずんでいると、若侍は松明たいまつをかざして再び出て来た。ほかにも二、三人の侍が付いて来た。吹き消されたようにゆらめく火の光りで、かれらは門前に立つ三人の姿をとくと見さだめた上で、うやうやしく式代しきだいして奥へ案内した。

侍従は小坂部に付き添って奥へ通ったが、采女は玄関の前に控えていると、侍どもは彼を詰所へ案内して、焚火の前に休ませてくれた。ここでも北国の南朝方がこの頃ふたたび頭をもたげ出したという噂が出た。しかしそれも都までは攻めのぼって来る力があるまいなどとあざわらっていた。正成もほろびた、義貞も討たれた。車の両輪を失った南朝方がいかに燥あせっても狂っても、どうなるものではないと、どの人もみな楽観しているらしかった。かれらの敵は新田の一族でもない、楠の残党でもない、南朝方でもない。かえって味方の中にあることを、かれらは夢にも知らないのである。采女はそれを気の毒に思った。彼は又、よい主人をもっているということを、まわりの人達から羨まれた。それも何だか彼をくすぐったく感じさせたので、采女はなるべく詞すくなにうけこたえをしていた。

半晌を過ぎないうちに、小坂部と侍従は奥から送られて出て来た。采女は人々に会釈して暗い門前へ出ると、木枯しはまだ吹きやまなかった。火のそばを離れたせいか、夜の寒さが俄かに身にしみて来た。

「御用は滞りなく相済みましたか。」と、采女は歩きながら小声で訊いた。

「奥方のおどろき、見るも痛わしいような。」と、小坂部は溜め息をついた。「なれど、これでわたしの役目は済んだ。」

「塩冶の方々はどうすることでござりましょう。」と、侍従は不安らしくうしろを見かえった。

「どうすると言うて、逃がれぬ破目はめじゃ。」と、小坂部は再び嘆息した。「夜のあけぬ間に都を落つる。それよりほかに仕様はあるまい。」

父の讒言がだんだん有力なものになって、将軍家から謀叛むほんの疑いをうける以上、塩冶は安閑として都にはいられない。一刻も早くここを立ち退いて、本国の出雲へ落ちてゆくよりほかはない。それから先きはめいめいの運次第で、どう成りゆくか判らないが、ともかくもここだけは無事に落としてやりたい。こう思って、小坂部は今夜忍んで来たのである。思いもよらない報せを師直の娘から受け取って、塩冶の奥方は涙を流して喜んだ。父に背いてこの密告を敢えてしてくれたかれの芳志は、死んでも決して忘れないと繰り返して感謝した。その感謝をうけ取るに堪えない辛さと苦しさとを我慢して、小坂部は早々に別れて来たのである。これでかれは先ず自分の役目を果たしたような一種の安心を得ると同時に、単に塩冶の一家を救い得たばかりでなく、あわせて父の罪をも救い得たという満足と誇りとを感じた。

「言うまでもないことじゃが、今宵のことはかならず他言無用でござりまするぞ。」と、かれは采女と侍従に固く口止めした。

「勿論のことでござります。」

二人も誓うように答えた。これが露顕すれば、姫ばかりでなく、それに係り合った自分達もどんな仕置きをうけるか判らないのであるから、彼等はもちろん他言する筈はないのであった。しかも無断で館を忍び出た三人は、来た時と同じように帰る路をも急がなければならないので、どこから飛んで来るかも知れない落葉のつぶてを袖で払いながら、采女と侍従とが小坂部の前後をはさんで、堀川の方へ足早にたどって来ると、暗い路ばたから何者かふらふらと迷うようにあらわれて、三人のゆく先に立ち塞がった。

「何者じゃ。退け、退け。」

その途端に、低い叫び声が小坂部の口を衝ついて出た。

「あ、眇目の男……。」

これにおどろかされた采女は、梟のような眼をして暗いなかを透かして視ると、星明かりに窺われた彼の姿は、たしかに異国の風俗であるらしく思われた。時が時、場所が場所であるので、采女も思わずぎょっとして、すぐに太刀に手をかけて立ち停まった。

「おのれ、退け。邪魔するな。」

すわといわば容赦せぬという気勢を示したが、相手はびくともしないらしかった。彼は暗い足もとにひざまずいてささやいた。

「館へ戻られてはお身達のためにならぬ。引っ返されい。」

「引っ返してどこへ……。」と、小坂部はひと足すすみ出て訊いた。

「わたくしが御案内申しまする。われらの神の住むところへ……。」

「や、異国か。」と、采女は再び彼を睨めた。「但しは我々をあざむいて、中国九州の敵どもへ人質に渡そうとか。」

「なんの、あざむくことではござらぬ。ともかくわたくしの御案内する方へ……。」

小坂部のそばへ近寄ろうとする彼を、采女はあわてて押しのけた。

「ええ、ならぬ。おのれ執念く付きまつわると命がないと思え。」

いかに美しく、やさしげに見えても、采女は坂東武者の血をうけた其の時代の若い武士である。暗夜に自分達のゆく手をさえぎって、自分の主人の息女――しかも自分の恋人をどこへか誘って行こうとする。この怪しい異国の男に対して、なんの遠慮も容赦もなかった。彼はその男を手あらく突き退けて、小坂部の手をとってふた足三足あゆみ出すと、眇目の男はまた追いすがって来て、小坂部の袂を掴もうとした。采女はいよいよ焦れて彼の腕を強く捻じあげた。

「異国の奴とて命は二つあるまいに、いつまでも邪魔して後悔するな。」

言うかと思うと男の痩せたからだはもう大地に投げ付せられていた。それをあとに見捨てて三人は暗い路をまた走った。眇目の男――それがどうして執念く付きまつわるのか、小坂部は言い知れない不安と疑惑とを感じながら、この場合どうすることも出来ないので、かれは采女のなすままにして真っ直ぐに館へ急いだ。眇目の男のほかに、まだ一つの黒い影が途中から彼等のうしろに付き纏って来たことを誰も知らなかった。

堀川の館はもう一町ほどの前に近付いた時に、うしろの黒い影が何かの合図をすると、暗い物蔭から更に七、八人の黒い影があらわれて、ばらばらと駈けよって三人を押っ取り巻いた。再度の敵に采女はまた驚いた。

「誰じゃ、おのれ、強盗か。」

黒い影は一人も返事をしなかった。その幾人かは先ず小坂部の手を捉えて、しっかと引っ立てて行こうとした。ほかの幾人かは一度に抜き連れて采女に斬ってかかった。今度の敵は眇目の男のたぐいでないので、采女もすぐに抜きあわせて闘った。うろうろしている侍従は誰かに蹴倒されて、救いを呼ぶ声も立てられないで、路ばたにただ小さく這いかがまっていた。

小坂部は捉えられた手を振り払った。女と思っての遠慮か、但しは他に子細があるのか、敵もさのみは激しく迫って来ないのを幸いに、かれは摺りぬけて一間ばかり逃げた。その一刹那に、かれの胸に泛んだのは、これから自分の館へむかって走るよりも、兄の師冬の館に逃げ込む方が路順も好い距離も近い。こう思いついて、かれは大路を横に切れた。采女もおそらく同じ考えであったらしい。これも眼の前の敵を斬り払って、小坂部のあとに付いて逃げた。二人がどうにかこうにか三河守の門前まで逃げ延びたのを見とどけて、敵はもう諦めたらしく、そのまま何処かへ散ってしまった。

「姫上。お怪我はござりませぬか。」

「そなたも無事か。」

二人はいたわり合いながら、まずほっと息をついた。

二

姫と采女とが逃げ込んで来たので、師冬の館でもおどろいた。不意の敵に襲われたという采女の報らせを聞いて、居合わせた侍どもの四、五人がすぐに門外へ駈けて出たが、狼藉者の姿はもう見当たらなかった。

この報らせをうけ取って、師冬も眉をよせた。彼は妹を自分の居間へ呼びよせて訊いた。

「途中で不思議の狼藉者に出逢うたという。さりとは怪けしからぬ儀じゃ。不意に抜き連れて斬ってかかるなど、よのつねの強盗ばらの仕業しわざとも覚えぬ。自体、お身はこの夜更けに何処へまいった。」

この問いには小坂部も返事にゆき詰まった。しかし相手が兄である以上、なまじいに包み隠さない方がよかろうとも考えたので、かれは正直に今夜の成り行きを話した。塩冶の一家の危急を救おうとして、その密告に赴いたことを打ち明けると、兄も幾たびかうなずきながら、思わず会心の笑みを洩らした。

「おお、よう致した。さすがはお身じゃ。男でも並々の者ではその分別は泛かぶまい。表向きには申されぬことじゃが、わしもひそかに塩冶を救うてやりたいと存じていたが、まさかにわしの口から内通もならぬので、どうかこうかと思案していたところを、さかしいお身に抜け駈けされたわ。いや、今もむかしも抜け駈けするが勝であろうよ。しかし塩冶はどうじゃ。死物狂いの逆寄さかよせなどをたくむような気けぶりはなかったかな。いや、奥方に行き逢うたばかりでは、それも判るまい。塩冶が日頃の気性から察すると、しょせんは見込みの立たぬ逆寄せなど巧もうよりも、一刻も早う都を落ちて本国に立て籠る――十に八、九は先ずそれであろうな。とはいえ油断は無用じゃ。こちらでも万一の構えをせねばなるまい。」

一方は塩冶に同情しながらも、時誼によっては彼と闘わなければならない事情のもとに置かれている師冬は、すぐに腹心の家来を呼んで何事をかささやいた。その家来がけわしい眼をして早々に立ち去るのを見送って、師冬は更に妹に訊いた。

「今宵の供にはかの侍従と、ほかに一人の侍を召し連れて出たというが、その侍は誰じゃな。」

「本庄采女でござりまする。」と、小坂部はやはり正直に答えた。

「本庄采女……。」と、師冬はさもこそというようにうなずいた。「大方はそうであろうと察していた。兄妹きょうだいの仲じゃ、つつまず言え、お身はあの采女という若侍と恋しているか。」

何もかも正直がよいと思ったので、小坂部は素直にそれを是認した。

「父上もそれを承知かな。」と、師冬はかさねて訊いた。

「一応は打ち明けました。」

「打ち明けたか。」と、師冬は意味ありげにほほえんだ。「して、父上はなんと申された。」

「聞き届けたとは仰せられましたが、それは何とやら頼りないようにも思われまするので……。」

師冬は再びさもこそというようにうなずいて、妹のやや蒼白い顔を燈台の火にじっと見つめた。

「父上はなんと申されたか知らぬが、この恋はならぬと思え。若い女子のひと筋に、兄を無慈悲と恨むまいぞ。有りようは師冬、山名の忰にお身をくれようと約束した。和泉守は年も若し、家柄も正しく、武勇もすぐれた者じゃ。殊にわしとは日頃から仲良しじゃで、妹をくりょうと約束した。本人ばかりでなく、父の伊豆守にも言い聞かせてあれば、今さら変がえのならぬ破目になっている。勿論、お身としては初耳でもあろうが、武士と武士とが一旦約束した以上、今更どうにもならぬことは賢いお身にはよう判っている筈じゃ。兄が頼む――采女のことは思い切れ。彼とても主人の頼みじゃ、よもや故障は申すまい。万一とこう申すにおいては、成敗か勘当か、所詮わが身のためにならぬことは彼とても存じて居ろう。のう、小坂部。若い同士にはある習いで、お身と采女との密事を兄は決して叱りはせぬ。ただ潔いさぎよう思い切って、山名に縁組みしてくるれば、三方四方が無事に納まるというものじゃ。聞き分けてくれ、応と言え。」

彼としては十分の理解と同情とをもっているらしい口ぶりであったが、この兄とこの妹と、ふたりの心と心には大きい距離があった。小坂部はしばらく俯向いてその返事を考えているらしかった。

「ならぬか、応と言うまいか。」と、気の短い兄は畳みかけて問いつめた。「くどくも言うようじゃがお身は賢い。父上の悪業を見かねて、女子おなごの身ひとつで夜陰に館をぬけ出し、塩冶の一家を救おうとしたほどの賢い女子じゃ。物の道理、人間の義理、それの判らぬ筈はあるまい。兄がこれほどに言うて聞かせても、得心せぬとあれば是非がない。師冬にも思案がある。その期ごに及んで後悔すまいぞ。」

父ばかりでなく、兄もまた一種の暴君になって来たらしいので、小坂部はいよいよ吐胸とむねをついた。殊にこれは直接に自分の身の上に降りかかる大事件であるので、かれは無道の父に対するよりも、更に強い不満を感じた。かれは思い切って兄に答えた。

「だんだんの御意見でござりまするが、この儀ばかりは……。」

「ならぬか。お身も父上を見習うて、思いのほか頑固かたくなに相成ったな。」と、師冬の薄い口髭は怪しくふるえたが、その興奮する神経を努めて押し鎮めるようにしずかに言った。「しかし今一度思案して見い。余の儀とも違うて、早速さそくに返答のならぬ筈のことを性急に催促したはわしのあやまりじゃ。これは一晌半日を争うことではない。あすにもあさってにも、ゆるゆると思い直して見い。」

言いかけて、彼はにわかに耳を傾けた。門前をさわがしてゆく人馬の音が、まだ吹きやまない木枯しの中にひびいたかと思うと、家来の一人があわただしく駈け込んで来た。それを待ちかねたように師冬の方から声をかけた。

「なんじゃ。あの物音は……。」

「塩冶の館へ討っ手かと存じまする。」

師冬は腹立たしげに舌打ちした。彼は家来の顔を睨んで、一人もみだりに門外へ踏み出してはならぬと叱るように命令した。

「あれほど申し聞けて置いたに、父上のおそばにいる者共、迂濶に立ち騒ぐとは何たることじゃ。就いては小坂部。いつまでもここに長居もなるまい。家来どもに申し付けて館まで送らしょうか。」

「いえ、それには及びませぬ。」

「いや、采女一人ではおぼつかない。四、五人の供を連れてゆけ。先刻のような狼藉者が再び襲いかかろうも知れん。」

兄の注意を無下むげにしりぞける訳にも行かないので、その言うがままに五人の家来に送られて、小坂部は采女と一緒に師冬の館を出た。外の木枯しはますます吹き募って、家来の二人が先きに立って振り照らしてゆく松明たいまつは、まだ二、三間を過ぎないうちに忽ちその光りを奪ってしまった。その途端に暗い中から軽げるように出て来た者があった。

「姫上ではござりませぬか。」

それが侍従の声であると知って、小坂部は立ち停まると、かれは摺り寄って小声で訴えた。

「御用心なされませ。一大事でござりまするぞ。」

「塩冶どのへ討っ手のことか。」

「いえ、そればかりではござりませぬ。」

かれがいよいよ声を低めて訴えるところによると、せんこく不意に襲いかかった狼藉者は、荏原権右衛門を頭かしらとする七、八人の若侍であった。かれらは主人師直の指図によって、途中に待ち受けて小坂部を引っ捕え、あわせて采女を討ち果たそうとしたのであるらしい。侍従は路ばたに蹴倒されて這いかがまっている間に、目ざす二人を捕り損じ討ち損じた彼等の話を偸ぬすみ聴いて、その秘密をあらまし想像したのであった。

「わたくしが推量には、誰かが三人のあとを尾つけて来て、塩冶殿の屋敷へ入るところを見とどけたのではござりますまいか。」と、侍従は更に自分の想像を付け加えた。

おそらくそんなことであろうと小坂部も想像した。そしてそれは荏原権右衛門か、あるいはその腹心の者であろうと思った。権右衛門の密告によって、父はいよいよ憤怒ふんぬの焔を燃やして、館へ帰るのを待つまでもなく、途中で自分を引っ捕え、あわせて采女を討ち果たせと命令したのであろう。父のそれを待ち受けて成敗しても遅くはないのであるのに、いったん思い立ったが最後、もう半晌の猶予も出来ないで、すぐに仕置きを加えようとする――それが父の性質であることを小坂部もよく知っていた。しかしそれが自分達に取ってはむしろ物怪もっけの幸いで、うかうかと館へ帰ったらばどんなことになるかも知れない。かれはここで侍従に出逢ったのを神の助けであるとも思った。眇目の男の忠告も今更のように思い出された。

「よう教えてくだされた。」

かれは侍従にも礼を言った。かれはもう父の館へは戻られないと思った。しかし邪魔になるのは、兄から付けてよこされた五人の家来である。主人の命令でやって来た以上、いくら断わっても途中から素直に引っ返す筈はない。館まで送り付けられたら、おそらく自分は座敷牢、采女と侍従とはその場で成敗、三人の運命はもう見え透いているようにも思われるので、小坂部の足は俄かに進まなくなった。侍従もその運命は予覚しているので、めったに館へと帰られず、さっきからここらに行き迷っていたのであった。

どう考えても館へは帰られない。帰れば自分は恋を破られ、あわせて男を殺される。さりとて今の場合、迂濶に兄のところへも戻られない。兄は自分と侍従とを庇ってくれるかも知れないが、采女を救ってくれないのは先刻の口ぶりでも大抵判っている。大事の男を見殺しにして、自分ばかりが救われて何とする。小坂部も思い悩んでしばらくたたずんでいると、暗い中から一群の狼藉者が又あらわれた。

三

狼藉者のかしらぶんは、小坂部の想像した通り、かの荏原権右衛門であった。彼は自分の股肱ここうとしている横井弥兵衛を三人のあとに尾つけさせて、かれらが塩冶の屋敷へ入り込むのを見届けて、すぐにそれを主人に密告すると、師直の憤怒は一度に破裂した。親を裏切る不孝の娘は容赦なしに引っくくれ、主人にそむく不忠の家来は討ち果たせ、それも館へ帰るを待つまでもなく、途中に待ち受けて成敗せよ、塩冶へはすぐに討っ手を向けよと、大床を踏み破るるばかりに跳り上がって下知を伝えた。横着者の権右衛門は比較的安全な役目を引き受けて、小坂部や采女を途中に待ち伏せしていることになった。それも一旦は仕損じて、姫と采女を師冬の館へ追い込んでしまったが、表向きに掛け合って二人をうけ取るのは面倒だと思ったので、彼は途中に隠れひそんで根気よくかれらの帰って来るのを待っていると、案の通りにかれらは帰って来た。しかも師冬の家来が付いている。無事にかれらを館まで送り届けさせてしまっては、自分の手柄にならないばかりか、さらに主人のお叱りを受けるかも知れない。この上は同士討ちでもなんでも構わない。この暗まぎれに師冬の家来どもを追い払って、主人の命令を実行するのが早手廻しであると、あくまでも自分の都合ばかり考えている権右衛門は、味方と知りつつ無法に襲いかかったのであった。

そんな事情を知らない師冬の家来どもは、この無法な敵を引き受けて闘った。こちらが比較的小人数であるだけに、かえって必死の太刀先きが鋭いので、権右衛門はあやうく斬りまくられそうになって、目当ての姫や采女をそっちのけに、この寒い夜に汗を流しながら挑み合っていた。

この同士討ちは、小坂部に取っても思いもよらない幸いであった。かれは采女もささやき合って、闇にまぎれてこの場をぬけて行こうとした。采女の合図で、侍従もそっとそのあとに付いて行った。

「もう館へは帰られぬ。いずこへなりとも……。」と、小坂部は采女にささやいた。

どこをあてとも無しに、三人は京の町を西に取って、七、八町ほども息もつかずに走りつづけた。ここまで来ればもう追い着かれる気づかいもあるまいと、三人は辻に立ってその行きさきを評議した。侍従はともかくも難波津なにわずへ逃げ下ろうと言った。采女は伯耆ほうきの大山だいせんの霊験者のもとへひとまず落ち着こうと言った。その意見がなかなか一致しないので、小坂部も当座の判断に迷っていると、暗い中から声をかける者があった。

「わたくしと一緒においでなされませ。」

「あ。」と、小坂部は思わず叫んだ。それは、かの眇目の男の声に相違なかった。

「さっきも申した通りじゃ。唯わたくしと一緒においでなされませ。遠い異国ではござらぬ。ついそこの中国筋じゃ。お身のゆく所はそこよりほかはござらぬ。さあ、お越しなされませ。」

小坂部はまだ返答に躊躇していたが、采女はもう彼を突き倒してゆくほどの勇気はなかった。眇目の男は不決断の人々を急き立てるように口早にまた言った。

「さあ早う。猶予している場合ではござらぬ。お身たちは狩場の鳥獣とりけものじゃ。狩人に見付けられたら何とせらるる。さ、早う。」

こう言うところへ、大勢の足音が近付いた。追っ手かと三人は屹と見かえると、それは十四五人であるらしく、この木枯しに松明を奪われたのか、但しはわざと灯を持たせないのか、暗い中をただひとかたまりになって、葬列のようにひそひそと歩んで来た。それをやりすごしながら、眇目の男はささやいた。

「あれは塩冶の奥方じゃ。丹波越しに本国の出雲へ落つるのじゃ。」

星明かりに透かして視ると、なにさまその一と群れは女の輿を取り囲んでいるらしかった。よい道連れか、悪い道連れか、呼びかけて一緒に行こうか、行くまいかと、小坂部はしばらく思案していると、その心を覚ったように眇目の男はまたささやいた。

「あの人々と一緒に落ちたら、追っ手のかかるは知れたことじゃ。路を変えてお落ちなされ。」

彼の言うことも道理であった。世を忍ぶ落人おちうどが大勢つながってゆくのは利益でない。もう一つには、この眇目の男が今夜の行動を考えると、彼はほとんど何もかも見透して、普通の人間とは思われないのである。小坂部はいっそ自分たちの運命を彼の手にゆだねて、行くところまで行って見ようと決心した。

男は無言で先きに立って行った。小坂部はつづいて歩み出した。采女も侍従ももう争う気力もないらしく、唯おめおめとそのあとに引かれて行った。ひと口に中国筋といっても、果たしてどこへ連れて行かれるのか、三人は勿論知らなかった。かれらはもう夢のような心持で鼻綱を結われた牛のように、かの眇目の男の導くままに、引き摺られて行った。京を離れた頃には、夜ももう更けていた。

「まだまだ油断はならぬ。疲れても歩みつづけられい。」と、男は三人に注意した。「あすの朝までが命の瀬戸じゃ。」

かれらは木枯しに吹きさらされながら、方角も判らぬ暗い寒い夜の路を歩みつづけた。その途中で五、六騎の武者が蹄ひづめの音を忙しくして駈け通るのを見た。塩冶の追っ手か、自分たちの追っ手かと、三人は胸をおどらせたが、騎馬武者はかれらに気がつかないように通りぬけてしまった。長い夜もやがて明けるかと思う頃に、ふたたび七、八騎の駈けぬけてゆくのを見た。自分たちの身の上に引きくらべて、塩冶の奥方の運命を小坂部はおぼつかなく思いやった。木枯しがだんだん吹きやむと共に東の空もうす明かるくなって来たので、三人は自分たちのあゆんでいる路筋がおぼろげに判って来た。かれらは襞ひだの多い丘の裾を縫って、かなりに大きい山川のふちを辿っているのであった。ゆうべの木枯しのなごりで、幾曲がりする川の流れは堰せかれるほどの黒い落葉に埋もれていた。どこやらで鷄の声も遠くきこえた。

「さだめて空腹ひもじいことでござろう。わたくしが糧かてを求めてまいります。そのあいだ、しばらくここに休息なされ。」

男は三人を案内して、丘を少しく登ってゆくと、大きい紅葉が五、六本茂っている間に、赤土をくりぬいた低い横穴が見いだされた。土が崩れ落ちた洞穴ほらあなではない、おそらく遠い昔の人がわざわざ作り設けた棲家であろう。入口は一間ぐらいの広さで、奥行きは三間ほどの深さをもっていた。穴の中には勿論なんの調度らしいものも見いだされなかったが、入口の方には自然に吹き寄せられた落葉がうずたかく積もって、つめたい湿しめっぽい土の上に天然の筵を敷いているようにも見えた。疲れ切っている三人は土蛛つちぐものようにその穴に這い込んで、落葉の上にべったりと坐った。

男はすぐに戻るといって、川づたいに何処へか出て行った。ゆうべから夜通し歩きつづけて、飢えと疲れと寒さとに弱り果てた三人は、顔を見あわせたままで暫く黙っていた。

「あの男は何者であろう。」

采女はつぶやいた。敵か味方か気違いか、あるいは一種の聖者か邪教徒か、なんだか正体の知れない異国の眇目の男に、自分たち三人はその運命を托しているのである。ゆうべから今朝までの出来事をそれからそれへと考えると、小坂部はまだ夢を見ているようにも思われてならなかった。

「何者か、わたしにも判らぬ。」

「判りませぬ。」と、采女は鸚鵡返しに答えた。「しかし唯者ではござりませぬ。時の破目はめで、こうして誘われては来たものの、彼奴あやついよいよ不審と見ましたら斬って捨つるまでのことでござりまする。」

彼は太刀の柄を片手に握りしめながら言った。その不審は小坂部の胸にもいっぱいに満ちていた。しかしかれのいだいている不審は、単に彼を敵視するという以外に、もっと大きな怖れを含んでいるのであった。夜はすっかり明け放れて、川むこうの崖に垂れかかっている蔦の美しく紅いのも鮮やかに見えるようになった。川の中には小さい岩がところどころにそそり立って、先刻までは黒くばかり見えた落葉が、あけぼのの光りに紅く黄いろく輝いて渦巻いていた。

「ほう、美しい。」と、小坂部は穴の入り口から身をかがめて、水のおもてを瞰みおろした。

「よい景色でござりまする。」

采女も侍従も同時に言った。それと同時に水が欲しいという欲望が誰の胸にも忽ち浮かんだ。

「水を汲んでまいりましょうか。」と、采女は小坂部に言った。

「汲んで来てたもるか。」

「すぐにまいりまする。」

穴からくぐり出た釆女は、そこらの落葉を踏みしだいて、水を汲む器うつわらしいものを探しあるくと、そこには乾いた栗の毬いがが幾つもころげていた。その中から成るべく大きそうなのを三つほど拾って、采女は丘を降りようとすると侍従もあとから這い出して来た。

「わたしも一緒に行きまする。」

「お身はあぶない。それがしが汲んで来るのを待っておいやれ。」

「いえ、その岸で汲みまする。」

渇き切っている侍従は、あえぎながら采女のあとを追って行った。狭い路を横ぎって嶮しい岸を降りて、采女が岩づたいに川のまん中の方へ渡ってゆく間に、侍従は彼から受け取った栗の毬の一つを持って、岸からうつむいて掬すくおうとしたが、かれの手は水のおもてまで届きそうもなかった。水の月を掬おうとする猿のように、かれはいたずらに手を伸ばしてあせっているうちに、采女は足場の好い岩の上に渡り着いて、玉のように清らかな水をすくっていた。

それを見ると、侍従はもう堪まらなくなった。かれの渇いた喉はいよいよ焼けそうになって来たので、かれも裳すそをかかげて岸を降りて、あやうい岩の上を覚束ない足どりで踏み越えてゆくと、岩と岩との間には堰せかれた落葉が一面に重なり合ってただよっていた。水の上とは知らないで、かれはその落葉に片足を踏みかけると、忽ちからだの中心をうしなって、水の中にずぶずぶと吸い込まれてしまった。あっという声を聞いて、采女があわてて見かえった時には、かれの姿はもう早瀬にまき込まれていた。

「侍従どの。」と、采女はおどろいて呼んだ。

その声を聞き付けて、小坂部も穴から抜け出すと、いつの間に帰って来たのか、眇目の男は紅葉の木の下にたたずんで、この不意の出来事を冷やかに眺めていた。

不思議ふしぎの旅たび

一

そこにたたずんでいる眇目の男よりも、いま目の前に沈んでゆく侍従の運命が小坂部には気遣われた。かれはあわてて洞穴から這い出すと、眇目の男は手をふってさえぎった。

「この川は瀬が早い。一度流されたらもう救われませぬ。」

彼の言うのも嘘ではないらしい。采女は岩から岩をつたって、水に沈んだ侍従の姿を見いだそうと燥っているらしかったが、結局それは無効に終ったらしく、失望の眼をこなたの丘にむけて、とても救われない侍従の運命を悲しげに説明するように、渦巻く水のおもてを指さして示した。それでも小坂部は眇目の男の手の下をくぐりぬけて、丘の下へころがるように駈け降りて行った。

「采女。侍従どのは……。」

「どこへ吸い込まれたやら姿も見えませぬ。」と、采女はいたずらに落葉の上を見まわしていた。

「落葉に埋もれてよくも見えませんが、岩と岩との間には思いのほかに深い淵ふちがあると見えまする。」

少しは水練の心得もありながら、采女は底の知れないこの河へむざともぐり込むのを躊躇していると、眇目の男も丘を降りて、しずかに岸のほとりに近寄って来た。

「ここらの川は瀬も早い、底も深い。気の毒じゃが、あの人はもう救われぬ。おあきらめなされ。」と、彼は小坂部に言ったと同じように、采女にも注意をあたえた。

それでも、もしや浮かびあがるかと、小坂部と采女とはしばらく水の上をうかがっていたが、一旦吸い込まれた女の姿はふたたびかれらの眼に映らなかった。むこう河岸では鷄の声がつづいてきこえた。

「夜が明け放れました。早うお越しなされ。」と、眇目の男はうながすように言った。

彼はどこから貰って来たのか、古びた麻袋に入れた粟を掴み出した。ふちの欠けた素焼の土鍋に川の水をすくい込んで、もとの洞穴へもぐり込んだかと思うと、更にそこらから枯枝を拾いあつめて来て、それに燧ひうちの火をすり付けて、粟の粥を炊きはじめた。小坂部と采女とはまだ川のほとりを立ち去らなかった。

川の底へ深く沈んでしまったのか、但しは岩と岩との下をくぐって川下の方へ遠く押し流されてしまったのか、侍従はついにその姿をあらわさないので、二人はもう根負けがしてしまった。不幸な女房の運命を悼みながら、かれらはしおしおともとの洞穴へ戻って来ると、枯枝の火は威勢よく燃えあがって、土鍋からは温かそうな白い煙りをふいていた。朝の寒さの身にしみて来た二人は黙ってその火のまわりに這い寄ると、眇目の男も黙って鍋の煙りを眺めていた。

あたたかい粟の粥をすすって、小坂部も采女も余ほどはっきりした心持になった。眇目の男は枯枝の火を踏み消して、さきに立ってこの洞穴をぬけ出すと、あさひはそこらに散り敷いている落葉を一面に美しく照らしていた。二人は黙って彼のあとを付いて行った。ゆく時に、二人は川のおもてを再びのぞいたが、岩に堰せかれて白くむせんでいる水の上には、落葉がもつれ合って浮かんでいるばかりで、侍従の姿はやはり浮かび出なかった。小坂部の口からは低い溜め息がもれた。

怪しい異国の男に伴われて、これから一体どこへ落ちてゆくのか、二人にはよく判っていないのであるが、半分は夢のような心持で唯おめおめと引き摺られて行くと、男は一里ほども川伝いにたどって行って、それから狭い河原を越えて、むこうの河岸のさびしい村に出た。人家はまばらに続いていて、その間には稲の黄ばんだ田も見えた。村を過ぎ、田圃たんぼみちを越えて行くと、また低い丘の裾に行き着いた。男は二人を森の中に待たせて置いて、再びどこかへ食い物を探しに行ったが、今度は握り飯に乾魚ほしうおのあぶったのを取り添えて持って来た。こうして、ここで午飯ひるめしを食って、三人はまた黙ってあるき出した。きょうは風のないうららかに晴れた日で、ゆくさきに見える山々が真っ青な大空の下にくっきりと浮き出していた。そこらで小鳥のさえずる声も晴れやかにきこえた。路ばたには枯れ残った秋草などがしおらしく咲いていた。秋の旅――まことにすがすがしい気分であるべき筈であるが、小坂部も采女もやはり夢のようであった。かれらは自分たちの袂にからんで来る蝶のゆくえを見送ろうともしなかった。

幾里あるいたか、もとより判らないが、行く行くうちに日は暮れかかって、三人はほの暗い野路をたどってゆくと、うしろの方から俄かにおびただしい人馬の音がきこえた。眇目の男は屹と見かえって、あわただしく二人に注意した。

「追っ手じゃ。草にかくれて……。」

追っ手と聞いて二人もうろたえた。かれらは伊勢物語に見る武蔵野の落人おちうどのように、そこらの高い草むらをかき分けて身を忍ばせていると、やがて武者一騎が馬の腹にとどくほどの枯れすすきをざわめかして駈けて来た。

「人数は十四五人か、二十人。女の乗物を囲んで通ったを知らぬか。」と、彼は鞍の上から呼びかけた。

眇目の男は無言で向こうを指さすと、武者はうなずいて馬に一鞭ひとむちあてた。つづいて十騎二十騎、あとには徒かちの者も七八十人付き添って、あき草の中を泳いで通った。

「もうよい。みな行き過ぎてしもうた。」

男は草むらにむかって声をかけると、二人は狐のようにそっと這い起きた。小坂部は不審そうに、采女にささやいた。

「あの人数は屋形の者ともおぼえぬが……。」

「お屋形の者ではござりませぬ。桃井か、山名か、塩冶を追っ手の者と見申した。」と、采女も小声で答えた。

いずれにしも、こんなところで彼等の眼にとまっては面倒である。首尾よく彼等をやり過ごしたのを喜びながら、二人は男のあとに付いて、この広い野を行きぬけると、やがて小さい村に出た、と思うと、采女は急に立ち停まった。

「あ、あの物音は……。」

彼はさすがに武士である。自分の眼の前に黒く横たわっている村の中に、弦つるの音や太刀の音が微かにひびくのを早くも聞き付けたのであった。小坂部も思わず足を停めた。今しがた通り過ぎた人数が果たして塩冶を追っ手の者どもであるなら、落人はかしこの村で追い付かれたのであろう。足弱あしよわを連れた塩冶の家来どもは目ざす所まで落ち延び得ないで、ここで都の討っ手に追い付かれて、とても叶わぬところとは知りながらも、必死に防ぎ闘っているのではあるまいか。今更それをどうして救うという方法もないのであるが、小坂部は塩冶の奥方の身の上が気にかかった。

「のう、采女、塩冶の人々が討っ手に囲まれたのではあるまいか。」

「わたくしも左様かと存じまする。」と、采女も悼ましげにささやいた。

「せめては奥方だけでも無事に救い出す術すべはあるまいかのう。」

「さあ。」と、采女は難儀そうに溜め息をついた。

塩冶の奥方を救おうとするには、同士撃ちをしなければならない。同士撃ちはよんどころないとしても、敵は大勢である。そこへ采女一人が迂濶に斬り入ったところで、無事に奥方を救い出すことはおぼつかない。討っ手もおそらく奥方に眼をかけるに相違ない。それを斬りひらいて奥方を奪い出すのは、采女一人の力で成就しそうにも思われなかった。

「いずれにしても何分不安でござりますれば、わたくしが忍んで様子をうかがってまいりまする。」

行こうとする采女を、小坂部はあわてて引き留めた。

「まあ、お待ちゃれ。わたしも一緒にゆく。」

心の急せいている二人は、そこにいる眇目の男のことなどは忘れてしまって、灯のかげの暗い村の方角へ駈け出した。村といっても、そこには五、六軒の人家がまばらに続いているばかりで、杉や榎らしい大木が路を挾んですくすくと立っているのが薄闇の中にも窺われた。闘いはその大木の二、三本を前にした小さい家の内そとを足場にして、追いつ追われつ挑いどみ合っているらしく、小勢ながらも必死の敵をあしらいかねて、討っ手も少しく攻めあぐんでいるようにも見られた。

「流れ矢が危のうござりまする。」

采女は小坂部に注意しながら、路ばたの大木のかげに身を忍ばせて、闘いの成り行きをしばらく窺っていると、やがてその家の奥から薄白い煙りがうず巻いて湧き出したかと思うと、紅い焔の舌が茅屋根を破ってへらへらと吐き出された。小勢の塩冶方は防ぎ疲れて、かれらの楯籠った家に火をかけて一度に自滅するのであろう。あの火のなかで塩冶の奥方も灰になるのかと思うと、小坂部は悲しさと悼ましさで胸がいっぱいに塞がってしまった。さりとて、もう見殺しにするよりほかはない。かれはその火を仰ぎながら、ひざまずいて手を合わせた。

なよ竹も、小夜衣も、こうなっては問題ではない。高武蔵守師直という無道人に魅みいられた、塩冶の奥方という貞淑の婦人は、丹波路の名も知れない小さい村の百姓家で、その若い命を焼かれてしまうのである。小坂部は今更のように罪ぶかい自分の父を呪わずにはいられなかった。

二

火の手はいよいよ燃えあがって、小さい茅葺きの家は見る見る焼け落ちてしまった。その火に照らされて、小さいながらも極めて残酷におこなわれた闘いのあとが明かるく映し出された。杉の大木の下には女の輿が投げ出されて、そのそばには一人の男が倒れていた。それを中心にして、前後にも左右にも敵か味方か十五六人の死骸が枕をならべて横たわっていた。その死骸をすぐには取り片付けようともしないで、残る大勢はまだ消えやらない火焔ほのおのまわりを幾重にも取り囲んでいるらしかった。

「見咎められては悪い。早うお出でなされ。」

小声で注意するのは眇目の男であった。実際ここで彼等に見咎められては面倒である。二人はこのむごたらしい戦闘のあとを見捨てて、早々にここを立ち退くよりほかにはないので、そっと木かげを忍んで出て、男のうしろに付いてゆくと、彼は木立ちの間をくぐって、遠廻りをしてこの村のはずれまで無事に行きぬけた。村を出る時に見かえると、塩冶の人を焼いた火の光りはまだ其のあたりを紅く染めていた。

「思えば思えば悼ましい。」と、小坂部は絞り出すような溜め息をついた。「これもみな父上のおそろしい罪業ざいごうじゃ。」

「折角のお心づくしもみな仇となりました。」と、采女も同じく溜め息をついた。

眇目の男はやはり黙っていた。彼は侍従の死に対しても、今夜のこの怖ろしい出来事に対しても、別に感傷的な詞も顔色もあらわさなかった。彼はあくまでも冷静な態度で、自分のゆくべき道を真っ直ぐに歩んでいるように見えた。三人は村を通りぬけて、人家のない田圃みちや野路を一里あまりも行き過ぎて、暗い森の前に来かかると、森の前には辻堂の立っているのが星明かりで見られた。それを目あてにたどり着いて、男は辻堂の縁に腰をかけると、小坂部も采女も列んで腰をおろした。

「今夜も寒い。」

独りごとを言いながら、男はそこらの枯枝や落葉を拾いあつめた。采女も手伝って焚火した。その火の光りであたりを見廻すと、堂のそばにはかなりに大きい沼があった。古い沼のおもては水明かりのしないほどに黒ずんで、岸には枯芦や芒すすきが茂っていた。

「今夜の糧かてを求めて来まする。おとなしく待っておいでなされ。」

言い捨てて男は暗い路をどこへか立ち去った。風はないが寒い夜で、そこらの枯草の上には露霜が薄白く光っていた。小坂部と采女とは辻堂の縁を降りて、身を摺り合うようにして焚火の前にひざまずいた。

「ここは何という所であろうか。」と、小坂部はあいにくに燻くすぶる落葉の煙りを袖に払いながら訊いた。

「知りませぬ。まだ播磨路はりまじへは行き着きますまい。やはり丹波路かと思われまする。」と、采女もおぼつかなげに答えた。

「あの男はどこへ行ったのであろう。ここらに人家などありそうにも見えぬがのう。」

「わたくしも左様存じまする。」と、采女は暗い沼の方を見かえった。「しかしあの男は道中の案内をよう存じているようにも思われますれば、そこらに村里などあるのかも知れませぬ。」

「そうかも知れぬのう。」と、小坂部も僅かにうなずいた。「自体あの男はわたしらをどこまで連れて行くのであろうか。」

その不安は采女の胸にも畳まっているらしく、彼はその問いを待ち受けていたように答えた。

「異国のあやしい男、それに伴われてうかうかと何処まで参ることやら、思えば覚束ない限りでござる。京を立ち退く時には心のみ急がれて、ろくろくに前後の分別もなく、彼を路しるべとして此処まではまいったれど、何やら性しょうの知れぬ胡乱うろんな奴、いつまでも道連れにするは不安のようにも思われまする。」

そうは言いながらも、二人はおめおめと彼に引き摺られて、ここまで一日の旅をつづけて来たのである。ゆうべの洞穴の宿り、けさの侍従の死、それらのことを考えると、二人は殆んど夢のようであった。彼は一種の魔法使いで、その不可思議の魔力に魅せられて、自分たちはもう魂をぬき取られているのではないかと二人は疑った。取りわけて小坂部にはその疑いが強かった。かの眇目の男は異国から日本へはるばる渡来して、何物をかたずね求めるために津々浦々をさまよっていたと言った。そして、都までのぼって来て、とうとう自分というものを見付け出したと言った。それが何の意味であるやら、もとより確しかとは判らないのであるが、ともかくも彼は小坂部という一人の若い女子を見付け出して、その獲物をどこかへ誘ってゆくのではあるまいかとも思われた。それがかれに取っては限りない不安であった。

「さりとて、ここで彼に別れては行くさきが案じらるる。道しるべが無うても、行くところまでは行かるるであろうか。」

「なんの、子細ござりませぬ。」と、采女は頼もしそうに言った。「いっそこれまで参りましたら、かねてのわたくしの意見の通りに伯耆の大山へゆき着いて、かしこい修験者の許もとにしばらくはお忍びなされませ。心の底の得知れぬ異国の奴、われわれをだまして誘い出して、敵方へ人質に渡すなど、あるまいことでもござりませぬ。決して御油断なされまするな。」

「もちろん油断はならぬ。」と、小坂部は燃える火を見つめながら言った。「さりとてあの男、悪心をいだいている者とも見えぬが……。」

彼に対して言い知れない不安をいだきながらも、小坂部はまた彼に対して一種の尊敬をも払っていた。小坂部は彼を怖れながらも、彼を憎もうとする気にはなれなかった。

「たとい悪心はないにもせよ、乞食とも狂人とも判らぬ奴、いつまでも我々の道連れにはなりませぬ。」と、采女がまた言った。「いっそここらで彼と別れましては……。」

「素直に別れて行くであろうか。」

「あくまでも執念く付きまとうて来ますれば、もう是非がござまりませぬ。不憫ふびんながら討ち果たすまでのことでござりまする。」

「さりとはむごいことを……。」と、小坂部は眉をしかめた。「ともかくもここまで安々と案内してくれた男、その情けを仇にするはあまりの無道じゃ。」

「無道じゃとて我々の邪魔する奴は……。」と、言いかけて采女は少しく考えた。「では、彼の戻らぬうちに……。これからすぐに立ち退きましょう。」

彼を置き去りにしてここを立ち退く、それが一番無事な方法であろうかと小坂部も考えた。一言の挨拶もしないで別れるのは何だか心苦しいようにも思いながら、不安な道連れと離れるには、こうした方法を取るよりほかはなかった。かれも思い切って采女の意見に同意した。

「どうでもあの男と別れるならば、いっそ今の間に……。」

「それがよろしゅうござりまする。では、少しも早く……。」

二人は眼を見合あわせて、にわかに焚火の前を起ち上がろうとして、思わずはっと息をのんだ。眇目の男はいつの間にか戻って来て、二人のうしろに立っていたのである。彼は例の麻袋を肩にかけて、片手には一羽の鷄とりをさげていた。鷄の喉からはなまなましい血が流れ出していた。

あいにく相手が戻って来たので、二人も立端たちばをうしなってしまった。二人は再び眼を見あわせて、そのまま焚火の前にうずくまると、男はなんにも言わないで、同じく焚火の前に寄って来て、殺した鷄の毛を引きはじめた。鷄は刃物で喉を切り裂かれたらしく、その傷口からは生血がまだぽとぽとと滴したたっていた。あまりむごたらしいので、小坂部も顔をそむけていると、男は鷄の毛を引いてしまって、その死骸を辻堂の縁の上にころがした。彼はふところから短い刃物を探り出して、やがてその皮を剥はいでその肉を切り刻んだ。彼は時々に血に染みた指のさきをうまそうにしゃぶっていた。それが血の臭いを嗅ぎ馴れている采女にも不快の感をあたえた。

二人は顔をしかめながら彼のするのをそっと見ていると、男はそこらに落ちている枯枝を削って幾本の串をこしらえた。その串に肉を挿して、彼はあぶってくれと采女に渡したので、采女もうけ取って焚火の上にかざした。男はそれから麻袋の中へ手を入れて、麦か粟かを掬い出しているらしかったが、やがて舌打ちした。

「水がない。」

彼はそれを二人に聞けがしに言って、再びどこへか出て行った。そのうしろ姿が闇に消えるのを待ちかねたように、采女は持っている串を投げ出した。

「さあ、今の間にお越しなされませ。」

小坂部はすぐに起ち上がった。もとより方角も確かには判らなかったが、ともかくも真っ直ぐにゆくことにして、采女は先きに立って案内すると、小坂部も猶予せずにその後につづいた。二人は暗い沼の岸に沿うて十間あまりも歩んだかと思うと、采女は忽ちあっと叫んだ。岸の立木の下に一つの黒い影がたたずんでいて、それがかの眇目の男であるらしく思われたからであった。

「姫上ではござらぬか。」

黒い影は近寄って声をかけた。それは眇目の男の声ではなく、かの荏原権右衛門の声であったので、小坂部も采女もいよいよ驚かされた。暗いのを幸いに無言で摺り抜けて行こうとしたが、あいにくに路は狭かった。一方は沼でしきられて、一方には水田が広くつづいているらしいので、二人は立ち停まって少しく躊躇していると、権右衛門はすぐに呼子の笛を吹いた。その笛の音ねが鎮まり返った闇を破って遠くきこえると、うしろからも大勢の足音が近寄って来た。大勢の中には枯枝を松明たいまつにして振り照らしているのもあった。

小坂部と采女とは、宵に見た塩冶の人々と同じ運命に陥った。姫を奪われ、わが身も捕われて何となろう。采女はまず眼の前の権右衛門を斬って捨てて、落ちられるだけは落ち延びようと決心した。

三

「権右衛門。」と、小坂部はまず声をかけた。「そなたはここへ何しに来たのじゃ。」

「お迎いにまいりました。」と、権右衛門はさすがに会釈した。「大殿、若殿、お二方ふたかたのお指図によりまして……。」

「もうこうなったら誰の指図でもわたしは戻らぬ。立ち帰って父上兄上にもそう申し上げい。」

「それでは権右衛門の役目が相立ちませぬ。」と、彼は押し返して言った。「山名殿は塩冶の追っ手、又わたくしはお前さま方の追っ手、たがいに大事の役目をうけたまわって参りましたに、山名どのは塩冶の奥方を捕り損じて、やみやみと火中させ、わたくしも又おめおめと手を束つかねて戻りましては、殿の御不興いかばかりか、恐れながらお察しくださりませ。やあ、采女。お身も姫上におすすめ申して、おとなしく御帰館あるように取り計らえ。さすれば殿の御前も、われらがよいようにとりつくろって、お身の科とがを申しなだめてやる法もある。たって抗あらがわば容赦はせぬ。どうじゃ、思案せい。」

「いや、それを采女に言うことか。わたしにはわたしの思案がある。人妻に恋してその家をほろぼした父上、うき世の義理を楯にして妹の恋を引き裂こうとする兄上、そのように我意のみ募る傍若無人の方々のもとへ、小坂部は決して戻りませぬと、立ち帰って申し伝えい。そのほかに用はない。権右衛門、そなたこそおとなしく帰るがよかろう。」

眇目の男に対する時とは、まったく別人であるかのように、小坂部はいつもの凜とした声音こわねで、叱るように言い聞かせた。しかし今夜は、権右衛門の方でもなかなかおとなしく引き退がらなかった。

「お詞ことばではござりますれど、一旦こうしてお見受け申したる以上、いかにおむずかりなされても、荏原権右衛門、唯このままには戻れませぬ。くどくも申す通り、これは主命。権右衛門が口上は殿のお声とおぼしめされて。」

「そのお声が聞きとうない。」と、小坂部は呪うように言った。「そのお声は悪魔の声じゃ。塩冶の奥方はそれで亡ぼされた。直きじきにお手こそ下されねど、侍従もそれで身をうしのうた。しかし小坂部はそうはなるまい。父上がなんと仰せらりょうともわたしは戻らぬ。兄上がいかに叱らりょうともわたしは帰らぬ。」

「して、これからいずれへ……。」

「それは言うまい。どこへ行こうとわたしの勝手じゃ。さあ、邪魔せずにそこを退どきゃれ。」

小坂部は自分と向かい合っている権右衛門に鋭い一瞥をくれて、そのままそこを通り抜けようとするのを、権右衛門はあわただしく遮さえぎった。

「では、どうでも御帰館のおん供を権右衛門に仰せ付け下さりませぬか。」

「くどいことを……。ならぬ言うに……。采女、来やれ。」

押して通ろうとする二人の前に、権右衛門はまた立ち塞がった。彼は内心に小坂部を恐れていながらも、ここで見すみすの獲物を取り逃がすことは出来なかった。相手があくまでも強情を張る以上、彼はよんどころなしに其の武力を用いなければならないことになった。しかしゆうべの仕損じに懲りているので、彼も十分に警戒しなければならなかった。彼は小坂部らのうしろを亀田新九郎、横井弥兵衛の二人に合図して、まず邪魔者の采女を不意に搦み取らせようと企てた。こうして采女を生け捕ってしまえば、小坂部もそれに牽ひかされて素直に都へ戻って来るに相違ない。彼は采女を一種の囮おとりにして、強情な小坂部を引き戻して行こうと巧たくらんだのであった。

この打ち合わせはあらかじめ出来ていたと見えて、新九郎と弥兵衛の二人は早くも呑み込んで、不意にばらばらと采女のうしろから飛びかかった。両腕を捉られて太刀を抜くひまもない采女は、まず片足を働かせて一方の弥兵衛を蹴倒そうとした。蹴られて倒れかかったが、危うくも踏みこたえた彼は、相手の右の腕をしっかりと抱え込んで横さまに投げ出そうとすると、新九郎も左の方から嵩にかかって押し倒そうとした。その力が一つになって、敵も味方も折り重なって倒れた。

「あ、待って……。」

小坂部は身をひるがえして三人の間へ割って入ろうとするのを、権右衛門は駈け寄って曳き戻そうとした。その手が小坂部の袂に触れたと思う一刹那、彼はあっと叫んだ。小坂部の懐剣は彼の額を斜はすに突き破って、その切っ先が烏帽子の懸け緒を切り払ったのであった。眼にしみるなま血に権右衛門もしばらく立ちすくんでいると、その間に小坂部はころがるように駈け寄って、まず采女の上に重なっている新九郎の腕を突いた。

このありさまに、他の家来どもは一度にあっとどよめいたが、相手は女子である。しかも主人の息女である。迂濶に手あらいことも出来ないので、たがいに眼を見あわせて躊躇していると、新九邸が少し弱った隙きを見て、采女はにわかに跳ね起きようとした。それでも弥兵衛が固く捉えて放さないので采女は焦れて差添えをぬいて邪魔する彼の喉を突こうとしたが、相手が早くも頸くびを替わしたので、その切っ先は土に深く縫い込まれてしまった。それを抜こうとする腕の上に新九郎が又乗しかかって来たので、三人はひとかたまりになって再びころげた。その新九郎を今ひと突きと、小坂部が懐剣をふたたび振りあげるところへ、権右衛門は片眼を押さえながら駈け寄って、その利き腕をうしろから捉えた。

「姫とて遠慮はない。早う寄れ。」

権右衛門は吠えるような声で家来どもに命令すると、かれらももうおとなしく見物していられなくなった。持っている松明をからりと投げ捨てて、七、八人が一度に寄り合って来て、まず暴れ狂う小坂部を取り押さえた。同時に采女も押し伏せられた。もがいても狂っても、多勢たぜいに無勢ぶぜいである。采女は大地に捻じつけられて、両腕をひしひしと縛くくられてしまった。

「よい、よい。そやつを牽ひけ。」と、権右衛門はひたいの血をぬぐいながら言った。「姫もお立ちゃれ。」

かれらもさすがに小坂部に縄をかけようとはしなかった。しかもかれは懐剣をしっかりと掴んで放さないので、家来の一人はその利き腕を捉えて引ったてて行った。縄にかかった采女はそのあとから引き摺られて行った。権右衛門は先きに立って、もと来た路を引っ返して、かの辻堂の前まで来ると焚火はまだとろとろと燃え残っていた。

「まず待て。」

権右衛門は辻堂の縁に腰をおろして、焚火の弱い光りをたよりに額の傷の始末をしようとした。新九郎も袒はだをくつろげて、腕の傷を朋輩に巻いて貰った。

「そこらに水はないか。」

眼に滲にじむ血を洗おうとして、権右衛門はあたりを見まわすと、家来の一人はかの古沼に眼をつけてそこへ水を汲みに行こうとすると、堂の暗い蔭からかの眇目の男が幽霊のようにあらわれた。彼は古びた甕かめのようなものを抱えていた。

「沼の水はきたない。これをお使いなされ。」

「おお、其方そのほうか。」と、権右衛門は一方の眼を誇り顔がに晃ひからせた。「先刻は大儀じゃ。姫も家来もこの通りじゃ。」

男は黙ってうなずいて、その水甕をうやうやしく権右衛門の前にささげた。

「清い水か。」

「はい。あちらの村から汲んでまいりました。」

「それはかたじけない。」

権右衛門はその甕の水を手にすくって、渇かわいているままにひと口呑んだ。それから両の手のひらに注がせて、まず左の眼を洗った。つづいて右の眼をも洗った。

「いかがでござりまする。」と、男は訊いた。

「おお、これで両眼もすがすがしゅうなった。」

彼はさらに額の傷を洗って、白布で幾重にも鉢巻をすると、眇目の男は水甕を振って見て、他の家来どもに言った。

「水はまだ少しある。どなたかお飲みなされぬか。」

「おお、わしにくれ。」

手負いの新九郎はその甕をうけ取って、甕の口からひと息にこころよく飲み干してしまった。かれらの前に燃えている焚火も、もうだんだんに消えかかって来た。

「もういい。いざ行こうぞ。」

権右衛門は起ち上がろうとして、にわかに眼でも眩んだように、堂の縁に再びどっかりと腰をおろした。新九郎も俄かによろめいて焚火の上に小膝を折って倒れた。ほかの者どもは驚いて、一人はあわてて新九郎を火の中から救い出した。二、三人は権右衛門のまわりに集まって介抱した。

「眼が見えぬ。胸が苦しい。」と、権右衛門は唸った。彼は起とうとして又倒れた。

権右衛門といい、新九郎といい、二人が二人までこうした不思議を見る以上、その疑いはまず眇目の男の上に置かれなければならなかった。彼のすすめた甕の水に何かの秘密がひそんでいたものと認めるのが当然であった。家来どもは今更のように眼をけわしくして、彼の方を見かえると、この混雑の間にどこへ隠れたのか、眇目の男の姿はもうそこらには見えなかった。

「あいつ、曲者じゃ。」

一同はいよいよ驚き騒いで、ある者は堂のうしろへ追って行った。ある者は堂の扉を引きめくって見た。しかも彼の影はどこにも見付けられなかった。

焚火はもう消えて来た。そのうす暗いなかで、権右衛門と新九郎とが傷ついた獣のように唸っていた。

天主閣てんしゅかく

一

「あいつはやはり敵であった。」

弥兵衛らは顔を見あわせて溜め息をついた。かれらは権右衛門に率いられて、塩冶の一門と小坂部とを追って来たのであるが、塩冶の方は山名の追っ手に先せんを越されて、その功名を彼に奪われてしまった。しかし権右衛門の目的はむしろ小坂部を追い捕える方にあるので、彼はさのみそれを残念にも思わなかった。山名方がひと息ついて、敵の死に首、味方の手負い討ち死などをあらためているひまに、かれらは路を変えて何処までもと追いつづけて来ると、暗い森のほとりでかの眇目の男に出逢った。小坂部と采女とがそこの辻堂に休んでいることを彼から教えられて、権右衛門らはよろこび勇んで追って来ると、果たして目ざす相手の二人をそこに見付け出したのであった。

異国の眇目の男に対して、かれらも初めは油断しなかったのであるが、こうして自分たちのために忠義振りを見せてくれたので、かれらも思わず気を許した。それが油断のもとで、権右衛門も新九郎もかの甕から怪しい水を飲まされたのであった。二人が倒れると共に、彼はどこへか形を隠してしまった。眇目の男はやはり彼等の味方ではなかったのである。

それに気がついて、かれらが今更のようにうろたえ騒いでいるひまに、小坂部も急に気がついた。かれはこの隙きを見て、捕われの采女を救おうと思った。焚火はだんだん消えかかって、あたりがうす暗くなっている上に、家来の幾人は眇目の男のゆくえを探して、堂のうしろへ駈けて行った。残りの者は采女を打ち捨てて、半死半生の権右衛門と新九郎とを介抱している。その隙きを見すまして、小坂部は再び懐剣に手をかけたと思うと、兎のように飛び出して采女のそばへ寄って、彼を厳重にいましめてある捕り縄を手早く切りほどいた。

「この間に早く……。」

かれにささやかれて、采女はすぐに起ち上がると、権右衛門らの介抱に気を取られていた家来共もすぐに気がついて、あわてて彼を取り押さえようと駈け寄って来たが、さきに采女を縛いましめる時に彼等は不用意にもその太刀を奪い取るのを忘れていたので、縛めから放たれた采女は早くも太刀をぬいた。小坂部も懐剣をかまえて男を庇うように立った。先刻とおなじ闘いが再びここで繰り返されることになったが、何分にも小坂部という邪魔者があるので、かれらは妄りに踏み込んで撃つことを躊躇しなければならなかった。この騒ぎを聞きつけて、堂のうしろからも他の家来どもが引っ返して来た。

こちらはもとより闘う意思はないので、采女は姫の手をひいて暗いなかを逃げ去ろうとすると、消えかかる焚火のうすい光りをたよりにして、かれらは強情に追って来た。まだ七、八間とは逃げ延びないうちに、二人は再び敵に追い囲まれて、どうでも太刀撃ちをしなければならない破目に陥ったので、年の若い采女は逆襲の態度でむらがる敵の中へ斬り込んで行った。それを救おうとして続いて駈けむかった小坂部は、樹の根につまずいて小膝をつくところへ、二、三人が飛びかかって押さえつけてしまった。

姫を押さえてしまえば、かれらの行動は自由である。かれらはもうなんの遠慮も斟酌しんしゃくもなしに、采女を押っ取りこめて撃ってかかった。

「采女を殺すなら、まずわたしを殺せ。」と、小坂部は両手を押さえられながら、喉の裂けるような声で叫んだ。

「采女を殺せば、わたしもすぐに自害する。おのれら、主殺しになりたいか。」と、小坂部はまた叫んだ。

しかし彼等はその嚇しに耳をかさないらしく、四方から采女を押しつつんで闘った。焦れて、狂って身をもがいて、小坂部は叫びつづけた。

「采女……采女……。」

一人で多勢を相手にしている彼に取っては、自分の名を呼ぶ恋人の声が強い力をあたえたに相違ない。采女は闇にひらめく太刀や長巻の光りを掻いくぐって、勇ましく闘った。小坂部はつづけて呼んだ。

「采女……采女。」

叫び疲れて、女の声がだんだんにうら枯れてゆくと共に、男の力もだんだんに弱って来たらしく、彼の太刀先きがしどろもどろになって来るらしいのが暗い中でも想像されるので、小坂部は気が気でなかった。もう半狂乱のかれは、自分の手を取りしばっている憎い家来どもの腕に噛み付いて、無理にその手をふり放そうとあせり狂ったが、家来どもは意地にかかって主人の娘を厳重に押し据えていた。

「采女……采女……。」と、小坂部は息も絶えだえになるほどに叫びつづけた。

この場合、かれは救いの神ほとけはいうもおろか、悪魔の手にでも縋り付いて男の危急を救いたかった。異国の眇目の男――それがかれの胸に突然うかんだので、小坂部はどこを的あてともなしに闇の空を仰いで呼んだ。

「異国のお人……。早く来てくだされ。異国のお人……。助けてくだされ。異国のお人……。」

それに応こたえるように、どこからか闇を剪きって一つの礫つぶてが飛んで来て、采女を囲んでいる敵の一人の真っ向を強く撲った。つづいて大きい石がばらばらと飛んで来て、先きに立っている二、三人は忽ちに眼鼻を撲たれた。天狗礫とでもいいそうな、この不意撃ちにかれらも慌てた。相手は暗い中に忍んでいるので、どこの誰と見定める便宜よすがもないが、それがかの怪しい異国の男の仕業であるらしいことは誰にも想像された。小坂部にも無論にそう信じられたので、かれは嗄かれた声をふり絞って叫びつづけた。

「異国のお人……異国のお人……。采女……采女。」

救い主の礫もつづいて飛んで来て、三人、五人、それからそれへと撃ちすくめられた。眼がくらんで倒れるのもあった。顔を押さえて立ちすくむのもあった。無事な者共も恐れをなして、思わず二、三間もあとへ退くと、礫はさらに小坂部の方へも飛んで来て、かれの手を押さえている一人は眉間みけんを撲ち割られた。ほかの二人もおどろいて手をゆるめると、それを待ちかねていた小坂部は懐剣を掴んでいる手を振り払って、一人の胸のあたりを突いた。

礫はつづいて飛んで来た。両手で投げるのか、あるいは他に加勢があるのか、礫は一人の手から飛んで来るとは思われないほどに、絶え間なしにばらばらと落ちて来るので、家来共はもう防ぐすべがなかった。かれらは眼に見えない敵に撃ち悩まされて、おそろしい礫の下をくぐりながら、惣崩れになって逃げ出すと、魂のあるような礫は執念ぶかく彼等のあとを追って行って、逃げおくれた一人の脳天を烏帽子越しに撃ち砕いた。それを介抱するひまもなしに、ほかの者どもは這々ほうほうのていで逃げ散った。

「火を焚け……。早く、早く……。」

もとの辻堂の前まで無事に逃げ戻って、弥兵衛はかれらに指図した。何分にも暗いので、礫のぬしと闘うことが出来なかったのであると弥兵衛は残念がった。もう大方は灰となっている焚火をかき散らして、かれらはあり合う枯枝をそれに積みかさねると、火は再び勢いを得て、何かの秘密をつつんでいるような古い辻堂を紅く照らした。堂の前には権右衛門と新九郎とが口からおびただしい泡をふいて死んだ蟹のように倒れていた。二人はもう息がなかった。

「姫と采女とを取り逃がし、あまつさえ大勢の手負いや死人を出しては、屋形へ戻って申し訳があるまい。」と、弥兵衛は大息をついた。「もう一度引っ返して追わねばならぬぞ。」

ほかの者どもは顔を見あわせているばかりで、すぐに返事をする者がなかった。そのおびえたような顔色を苦々にがにがしそうに睨みながら、弥兵衛は枯枝の一つを把って先きに立つと、ほかの者共もよんどころなしに付いて行った。坂東育ちの猛者もさと誇るかれらも、眼に見えない怖ろしい礫にはひどく脅おびやかされたらしく、不安ながらに再びあゆみ出すと、そこに脳天を砕かれたのや、真っ向を割られたのが四、五人も倒れていた。ほかにも傷ついて唸っているのがあった。

姫や采女の姿はそこらに見えなかった。

「まだ遠くは行くまい。すぐに追え。」

ゆく手を照らすように、弥兵衛がたいまつ代わりの枯枝を高くあげると、一つの礫が大きい灯取り虫のように空を飛んで来て、その火を礑はたと叩き落としたので、弥兵衛もぎょっとした。ほかの者どもは恐怖の叫びをあげて、一間あまりも逃げ戻った。

二

追っ手がこれほどに撃ち悩まされている間に、眇目の男は采女を自分の肩に引っかけて、片手に小坂部の手をひいて、暗い沼のほとりを足早に立ち退いた。采女の息づかいが何とも心もとないので、小坂部は暗い中で訊いた。

「采女。怪我はなかったか。」

「叱っ。」と、男は叱るように制した。

采女は答えなかった。それがいよいよ小坂部の不安を募らせたが、何分にも自分たちのうしろには追っ手を控えているので、かれはいたずらに不安の胸をかかえながら、暗闇を迷って行くよりほかはなかった。沼のほとりを行き過ぎて、小高い丘をあえぎながら登ってゆくと、ここにも黒い社やしろのようなものが立っていた。やしろの前には池があった。ここまで来て、男は初めて立ち停まった。

「もういい。落ち着いてお休みなされ。」と、彼はしずかに言った。そうして肩にかけている采女を土におろした。

それを待ちかねたように、小坂部は探り寄った。かれは暗いなかで男の名を呼んだ。

「采女……采女……。」

呼んでも返事がないので、小坂部は探りながらに這い寄って、男の身体を膝の上に抱え起こすと、かれの手先きに触れた男の頬には少しの温か味もなかった。口や鼻に手をあてて窺うと、微かな息もかよっていないらしかった。なまぐさい血の匂いがかれの鼻にしみた。

「もし、異国のお人……。采女はもう……。」と、小坂部は声をふるわせて言った。

「もう息はござらぬか。」と、男はやはりしずかに言った。「深手のようには思うたが、ここまで担いで来る途中で息が絶えたと見えまする。」

「采女……采女……。」

小坂部は男の耳に口をよせて呼びつづけたが、采女はなんとも答えなかった。何をいうにも漆うるしのような深い闇があたりを一面にとざしているので、かれは自分がしっかり抱えている男がどんなむごたらしい姿になっているのかを知ることも出来なかった。

「もし、早く燈火あかりを……。焚火をしてくださりませ。」

「焚火はならぬ。燧石ひうちをどこやらで落としてしまいました。」と、男は暗いなかで冷やかに答えた。

小坂部は失望した。かれはふるえる手先きで采女の顔や身体を撫で廻すと、その髪は顔や襟に乱れかかっていた。小袖もところどころ斬り裂かれて、肩や胸のあたりには生々なまなましい血汐がねばり着いているらしかった。大勢の敵を相手にして、彼は数ヵ所の深手を負ったのであろうと想像しながらも、小坂部はそのほんとうの姿を見定めることの出来ないのをもどかしく思った。

「燧石はなくとも、何か火を焚くすべは……。」

「さあ。」と、男はやはり冷やかに答えた。

いよいよもどかしくなって、小坂部は起ちあがった。この社のような建物の中に燈明か燈籠のたぐいはあるまいかと、かれは伸び上がって覗いて見たが、闇は奥までも沁み込んで、そこには秋の蛍ほどの光りも見えなかった。小坂部はまた失望して、くずれるように男の死骸のそばに坐ってしまった。しょせん生かす術すべはないと知りながら、かれは男の死に顔をしみじみと覗きたかった。

眇目の男に誘われて、采女と一緒に都をぬけ出した――今から思えば、それがもう夢のようであった。それから方角も判らぬところを迷いあるいて、侍従はまず川の底に沈んでしまった。つづいて今夜は塩冶の人々のほろびる姿を見せられた。それがやがて我が身の上になって、采女ともこうして永久に別れることになってしまった。何事も夢である。思えば思うほど怖ろしい悪夢である。自分はやはり堀川の屋形に住んでいて、こんな悪夢に魘おそわれているのではないかと、小坂部は疑った。

かれの眼の前は俄かに明かるくなって、そこには林をなした桜が美しく咲き乱れていた。春らしい日の光りがうららかに輝いて、どこからで小鳥の歌う声もきこえた。桜の梢を越えて、うす緑の山が幾重にも重なっているのが遠く仰がれた。交野か、嵯峨か、なんでも一度ならず見たことのある景色だとは思いながら、小坂部はそこが何処であるかをはっきりと思い出すことが出来なかった。あるいは今日の昼にたどって来た路ではないかなどとも考えているうちに、桜の間をくぐって若い美しい侍の姿があらわれた。このごろ都で流行るだんだら染めの薄小袖――それが采女であると知った時に、かれは魂がとろけるほどに嬉しかった。かれは軽い袂を胡蝶のようにひるがえして、男のあとを追って行った。袖と袖とが摺り合うように近付いた時に、二人の手はいつか握り交わされていた。二人は眼と眼で笑ったばかりで、なんとも言わずに列んであるいた。去年か今年か、なんでも曽かつてこんな楽しい記憶があったように思いながら、小坂部はそれが何時いつのことであったかを、はっきりと思い出すことが出来なかった。

さみだれらしい雨がしとしとと降っていて、夜は蛙の声に静かに更けてゆくらしかった。経脚のような小机に倚りかかって、何かの歌集を読んでいる若い女の姿が小坂部の眼の前に浮き出した。縁をたどって来る足音が軽くきこえて、明かり障子の前にとまると、女は読みさしの歌集をかいやって、表の方に眼をくばった。燈台の灯に照らされたその女の顔は、かれ自身であることを小坂部は初めて知った。それと同時に、若い男――桜の林の中で見いだした若い美しい男の顔が、ほの暗い燈台の前にまぼろしのようにあらわれた。二人はここでもやはりなんにも口を利かなかった。どこかの隙きから洩れて来る夜風に燈台の弱い灯はゆらゆらと顫えて、人を酔わすような空炷からだきの匂いが部屋いっぱいに薫っていた。

まぼろしの絵巻はそれからそれへと繰りひろげられて、小坂部は夢のなかで夢を見ているようにも思った。そのまぼろしの影がだんだんに薄れてゆくと共に、かれの魂もだんだんに消えて、自分のからだが空洞うつろになってゆくかとも思われた。かれはそのまぼろしを追い捉えようとする気力もなしに、うつろのからだをかかえてそこに俯伏してしまった。

かれの魂がもとのからだに戻った時に、小坂部は小さい田舎家の奥に寝かされていることを発見した。床には荒筵を敷いて、棚には素焼の壺などが二つ三つ乗せてあった。土間には炉を切って生木なまきがいぶりながら薄紅く燃えていた。表はもう暮れかかっているらしかった。

誰かがここまで運び込んで、かれを横たえて行ったに相違ない。かれの耳の下には痛い木枕があてがわれていた。まだ本当に夢からは醒め切らないような心持で、小坂部は半身を起こしながらあたりをうかがうと、そこらに人の影は見えなかった。軽い熱でもあるように、小坂部は頭が痛んで喉が渇いた。かれは鈍にぶいような手足を無理に働かせて、床から土間へそっと這い降りて、何か飲むものはあるまいかと透かして覗ると、土間の隅には大きい甕のようなものが据えてあった。立ち寄って覗くとその甕の内には七分目ほどの水が汲み込んであるので、かれは両手に掬すくってしたたかに飲んだ。飲んで少しはさわやかな気分になると、かれはからだの疲れが一度に発したように、よろよろと立ち戻って床に腰をおろした。

ここが何処であるか、どうしてここまで運ばれて来たのか、かれには無論に判らなかった。かれは痛む頭をかたむけて、努めて自分の記憶を喚よび起こそうとしたが、采女の死――それから後のことはどう考えても思い出せなかった。自分をここへ連れて来たのは、おそらくかの眇目の男であろうと推量しているものの、その男は自分をここへ置き捨てて何処へ立ち去ってしまったのか。ここは何者の住家であるのか。小坂部にはなんにも想像が付かなかった。からだはいよいよ熱ほてって来て、熬いりつくように喉が渇くので、かれはよろめく足を踏みしめながら、ふたたび水甕のそばへ歩み寄ろうとする時に、暮れかかる表から一人の男が影のように入って来た。

「おお、醒められたか、お気合いはどうでござります。」

それは眇目の男であった。それに答える前に、小坂部はまず甕の水を幾たびか掬すくって飲んだ。男は黙ってそれを眺めていたが、やがて土間の隅から枯枝をかかえ出して炉に押し込んだ。

「ここはなんという所でござりまする」と、小坂部は息をつきながら訊いた。

「ここは播磨路はりまじ……姫山でござります。」

姫山は今日こんにちの姫路ひめじである。ここが姫路と呼び換えられたのは豊臣時代からのことで、南北朝時代には姫山と呼ばれていた。播磨路――姫山――それを聞かされて、小坂部は少しく驚かされた。

「おお、いつの間にか播磨路まで……して、采女は……。」

「亡き人を伴うては道中の難儀、かしこに埋めてまいりました。」

「かしことは……。」

「采女殿の討たれた場所から程遠からぬ丘の上、古い社やしろの池のほとりに……。」

「その時、わたしはなんにも知らなんだであろうか。」

「ただ夢見る人のようでござりました。」

と、眇目の男はほほえんだ。「それからわたくしが肩にかけ又ある時には路ゆく百姓の馬の背を借りて、ようようこれまで御案内申しました。」

それで自分がここまで運ばれて来た子細はたいてい呑み込めたが、采女に別れて自分ひとりがここへ送られて来てなんとなる。その時に自分が正気であったらば、こんなところへ連れて来られるのを無論に拒こばんだに相違ない。采女の亡骸なきがらをしっかりと抱えて、自分も生きながらに一つ穴へ葬られることを願ったに相違ない。采女と離れまいと思えばこそ、都を立ち退いて行くえも知れぬ旅をつづけているのであって、自分ひとりが何をめあてに、何を楽しみに、こうして生きているのであろう。それを考えると、小坂部は遠い此処までわざわざ自分を送って来た異国の男を却って怨めしいようにも思われて来た。

「異国のお人、わたしはこなたに頼みがある。どうぞわたしを送り戻してくだされ。」

「京へ戻らるるか。」と、男はしずかに言った。

「いや、京までは戻りませぬ。今も言うた采女の死に場所、その亡骸を埋めたところまで……。」

「戻ってなんとせられます。」

「戻って……ともかくも一度戻った上で……。」

「戻った上で。」と、男は鸚鵡返しに言った。「折角ここまで落ち延びましたに、再びもと来た路へ引っ返して、二度の追っ手に出逢うたらなんとなさる。采女殿の亡骸なきがらはわたくしが確かに埋めてまいりました。御懸念は無用じゃ。」

「でもあろうが、ともかくも……。」と、小坂部はせがむように言った。「采女に離れて、これから何処へ行きましょうぞ。」

「いや、ゆく先きはある。」

眇目の男は力強い声でおごそかに言った。

三

彼の声音こわねも態度も俄かに変わって来たので、小坂部もおもわずその顔を瞰みあげると、男の鋭い片眼の光りは、都の辻で初めてかれを見た時とおなじように爛々と燃えていた。その強い光りに瞳ひとみを射られて、小坂部は彼に対する一種の恐怖と尊敬の念がまた甦よみがえって来た。

「お身のゆき先はほかにもある。」と、男はかさねて言った。「都の父や兄のところでない、死んだ男のところでない。あれをお見やれ。」

彼は小坂部の手をとって、家の外へ連れ出した。秋の大空は鳶色に暮れかかって、蝦蟆がまの這っているような奇怪な形をした黒い雲のかたまりが西の方にたむろしていた。雲の真下には青黒い松の大樹が高く繁っていて、その枝や葉がくれに浮き上がっている古い城の白壁は、幾羽の鷺が翅はねをひろげて飛びかうようにも見られた。赤松律師則祐が初めに宮方となって旗揚げをした時に、この姫山の古城を修理したのであるが、建武中興の後に赤松は武家に付いて足利の味方になった。そうして九州に、関東に、その居所を移しているので、城はふたたび空城あきじろ同様になってしまった。

「あの城は……。」と、小坂部は空を仰ぎながら訊いた。

「姫山の城……かつては赤松の楯籠っていた城じゃが、今はおそらく守る人もあるまい。」と、男は説明した。「かしこに隠れたら十年二十年はおろか、百年千年棲んでいても、誰に見付け出さるる虞れはあるまい。お身の隠れ場所はかしこよりほかにない。さあ、行かれい。わしが案内する。」

彼は先きに立って大股にあるき出した。小坂部はもうそれに抗あらがう気力はなかった。かれは牛飼いに牽かるる仔牛のように、素直に男のあとに付いてゆくと、彼は五、六町ほども細径こみちをたどって、城の大手らしい松並木の広い路に出た。昔は知らず、いまはここらを往来する者もないらしく、並木のあいだは一面の秋草に埋められて、おどろに乱れた茅かやは人の丈たけを越えていた。その草むらの中には、雷火に打たれたらしい松の大樹の幹が横たわっていた。男は小坂部の手をひいて、足もとも見えない草や落葉や枯枝を踏み越えて行った。その足音におどろかされて、狐か狸か、草むらをくぐって逃げる獣の姿を小坂部は折りおりに見た。

堀も大方は埋もれて、水の色も見えないほどに生い茂った高い草が夕風にさやさやと靡なびいていた。朽ちかかったあぶない橋を渡って、二人は大手の門を入ると、桝形の石垣もくずれ落ちて、大きい石がそこにも此処にもころげていた。男は草を分けてその石垣を這い登ると、眼の上には高い甍いらかが仰がれた。

「これは天主閣というのじゃ。」と、男は夕暮れの空に聳えている高い建物を指さした。

それは古い寺に見る塔のようなもので、高さは二十丈を越えているらしく思われた。小坂部は天主閣という名すらも知らなかった。どこの城にも、どこの寺にも、今までこんな建物を見たことはなかった。

「城の中にこのような楼閣を築いたのは、日本にただ一つじゃ。」と、男はまた言った。「お身は知るまいが、今から二十幾年の昔、泉州堺の浦に異国の小舟が流れ着いたことがある。舟に乗っていたのは南蛮の人じゃ。無事に陸おかへは上がったものの、飢えと疲れで三人は死んでしもうた。残る二人はそこらをさまようて、この播州へ入り込んで領主の赤松に捕えられた。赤松も法師じゃで、頼りない南蛮人をむごうは取り扱わず、わが城中に留め置いてねんごろに養うているうちに、かれら二人の勧めにしたがって、新たに築いたのがこの天守閣じゃ。なんのためにこのような高い物を作ったかということはよく判らぬが、まず第一には物見の櫓で、次には日本に二つとないこのような楼閣を築きあげて、何がなしに近国の敵どもをおびやかす計略であったかも知れぬ。あの絶頂に登りつめて瞰みおろしたら、四里四方の敵軍は眼の下で、小荷駄を運ぶ馬の鬣毛たてがみのそよぐまでもありありと窺わるるのじゃ。それほどの構えをしたこの城に、宗徒の面々が必死となって楯籠ったら、なみなみのことでは攻め落とされまい。播州で赤松といえば敵にも味方にも畏れられたも無理はない。その名城も主人をうしのうて、今は狐狸の棲家、荒るるがままに任かしてあるが、白鷺の名を呼ばるる城の壁は、あめ風にくずれもせいで昔ながらに残っている。天主閣も昔のままじゃ。」

小坂部は黙って古城の歴史を聴いていた。先刻見た蝦蟆のような奇怪な黒雲は、南蛮人が築いたという天主閣の上に、あたかも真っ直ぐに落ちかかっていた。

「判ったか。あの天主閣がお身の棲家じゃ。」

男は先きに立って又あるき出した。小坂部は夢のように、そのあとに付いてゆくと、男は桝形を行きぬけて、閣の入口に立った。ゆうぐれの色はだんだんと深くなって、そこらになびく芒すすきの穂もただ薄白く見えるばかりであった。黒い雲のまん中には悪魔の眼のような大きい星がたった一つ赤く光っていた。

「足もとがあぶない。滑すべるまいぞ。」

男は小坂部に注意しながら、細い階段をのぼろうとすると、うす暗い中から一羽の大きい鳥が翅はねをひろげて飛んで来て、男の左の肩のあたりに吸い付いた。

「今戻ったぞよ。」と、男は人に言うように声をかけた。鳥は大きい蝙蝠こうもりであった。

一階を登りつくすと、そこにはかなりに広い部屋があった。男は一種の口笛を吹くと、それに応こたえるようにほうほうという啼き声がきこえて、又もや一羽の鳥がどこからか飛んで来た。闇に光っているその大きい眼を見て、それが梟ふくろうであるらしいことを小坂部は覚った。

梟は男の右の肩に止まった。こうした奇怪な動物に迎えられて、男は更に三階へのぼってゆくと、天井のあたりから黒いような獣がひらりと飛び降りて来て、男の足もとに絡み付いた。その啼き声を聞いて、それが猫であるらしいことを小坂部は覚った。それから四階五階六階と登ってゆく毎に、何かしらぬ出迎えをうけたが、闇は深いのでその正体は判らなかった。十階の頂上まで登りつめて、もう疲れ果ててしまった小坂部は、倒れるように小膝をついてそこにうずくまると、男は細い蝋燭をとぼした。その弱い光にぼんやりと照らし出された部屋の四方は、一面のあつい壁であるらしく、正面には一種の大きい厨子ずしのようなものが取り付けられて、その下には白く黄いろい石のようなものが五つ六つ積みかさねてあった。男は片手に蝋燭をかざしながら、その厨子の前にひざまずいて、うやうやしく礼拝した。なんだか知らないが、小坂部も思わず頭こうべを垂れた。

男は口の中で何かしばらく呪文じゅもんを唱えているらしかったが、やがて蝋燭を床に置いて、しずかに小坂部の方に向き直った。彼の肩に取り付いていた二つの鳥は、いつの間にか姿を消してしまった。

「ここはお身が永久とわの棲家すみかじゃ。」と、彼はおごそかに言った。「身も魂もここに封じられた以上は、ふたたび人間の代よに帰ろうとて帰られぬ。また帰るべき家もない。お身が父の高武蔵守師直、養い子の三河守師冬、かれらは遠からずしてことごとく滅亡じゃ。それも武士らしい、華やかな勇ましい最期ともあることか、世に死に恥を晒すような見苦しい死にざまじゃ。呪われたものは是非がない。」

「して、それは誰の呪いでござりまする」と、小坂部は彼の顔を屹と見つめた。

「われらの尊む夜叉羅刹やしゃらせつの呪いじゃ。五万年の昔、阿修羅あしゅらは天帝と闘うて、すでに勝利を得べきであったが、帝釈たいしゃくの矢軍やいくさに射すくめられて、阿修羅の眷属けんぞくはことごとく亡び尽した。しかもその魂は八万奈落の底に沈んで、ひそかに末法の代の来たるを待っているうちに、まず唐土もろこしの世が乱れた。遠くは春秋戦国に始まって、秦ほろび、漢ほろび、つづいて三国、つづいて六朝、唐はわずかに二百九十年の代を保ったが、その間にも兵乱は歇やむ時なく、さらに五代の乱れとなる。宋そうは金に苦しめられ、金は元にほろぼされ、宋もまた元にほろぼされた。これらの禍いはみな阿修羅の呪いで、その教えを奉ずるわれわれは身も魂も阿修羅にささげて、人の幸いを見れば移して禍いとし、世の治まれるを見れば更に乱れを起こそうと謀る。それがわれわれの一生の務めじゃ。元が唐土を一統した勢いに乗じて、この日本を征伐しようと企てた時、われわれの祖父じいや父は手を拍うってよろこんだが、日本は神の国じゃで悪魔の呪いも仇となった。こうして五十年六十年を送る間に、日本にも世の乱るるきざしが見えそめたので、われわれの味方は、この国に渡来して、まず鎌倉の北条を呪うた。呪われた高時入道の魂には天狗が棲んで、驕慢放埓の果てに一族一門みな亡び尽くしたので、味方は勝鬨をあげて故郷に帰ると、日本はふたたび太平のむかしに復かえろうとする。かくてはならぬと新たに選み出されたのが我らじゃ。」

聞くもおそろしい悪魔の呪詛のろいである。小坂部はまた訊いた。

「お身の味方というは唐土におよそ幾人でござりまする……。」

「はは、幾人……」と、男は肩をゆすって大きく笑った。「幾百人、幾千人、とても数え尽くさりょうか。この教えを奉ずるものは、親が子に伝え、子が孫につたえ、子々孫々の末までも、悪魔の心を心として、世を呪い、人を呪うを務めとするのじゃ。ある者は世を逃がれて岩窟にかくれ棲むもある、ある者は博学の秀才として世に時めくもある。大商人おおあきうどとして燕京のまん中に老舗を構えているものもある。ほかには僧もある、道士もある。漁師もある、百姓もある。うわべは唯の人として世に住みながら、ひそかに先祖以来の教えを堅く守って、たがいに機密を通じているのじゃ。その幾千人の中から選ばれてこの国に渡来したわれらは、まず足利尊氏の兄弟を呪うて、かれらを第二の北条に仕立てた。こうして、ふたたび日本の世をかき乱して、邪魔になる忠臣の正成をほろぼし、義貞を殺し、悪魔はいよいよ威勢を振うて、津々浦々に兵乱やむ時なく、家は焼かれ、人は疲れ、天も晦くらく、地も冥くらく、世は常闇とこやみとなることを祈っている。こうまで言い聞かせたら、われらの身の上も、われらの望みも、大方は判ったであろうが……。」

小坂部は息をつめて、その一言半句を聞き洩らすまいと耳を傾けながら、片手は胸に忍ばせた懐剣の柄を固く握りしめていた。

悪魔あくまの誓ちかい

一

眇目の男はまた言った。

「足利兄弟のたましいに天狗を宿らせて、日本の天下を二つに分けて争わせる。が、まだそればかりでは我々の務めは果たされぬ。その足利の味方の間にも更に内訌を起こさせて、味方同士を啖い合わせる。その手段として、われらは先ずお身の父の師直を呪うた。高師直は呪わるべき人じゃ。彼が好色の餓鬼となって、公卿殿上人の息女や女房をほしいままに掠め奪とって、おのが妄婦として戯れ狂うのみか、果ては塩冶の妻に懸想けそうして、その夫をほろぼしても、おのれの慾を遂げようと企つる。それもみな我々が悪魔を駆って、かれの魂に啖い入らせたのじゃ。お身たちがいかに救おうと燥あせっても狂うても、及ばぬことじゃ。お身の兄師冬、彼は師直ほどの無道人に生まれ付いたのではないが、これも呪われたる禍いは逃がれぬ。見よ、父は子を憎み、子は父に背いて、骨肉相食はむの畜生道は眼まのあたりじゃ。人妻に懸想してその夫をほろぼすほどの無道人に、誰が親しみ懐なつこうぞ。師直はわが子ばかりか、味方にも主君にも疎うとみ憎まれて、その身の滅亡は疑うまでもない。それもせめては武士らしい、あっぱれ華々しい最期ともあることか、犬猫にも劣った見苦しい死に恥を晒して、屍は野末に捨てらりょうぞ。」

半分は夢のような心持で聴き惚れていた小坂部は、彼が一と息つくのを待ちかねてまた訊いた。

「では、この頃の世のみだれ、また父上が心の乱れ、それもこれも皆お身たちのなす業わざか。」

「疑うに及ばぬ。今いう通りじゃ」と、男はうす暗い中でうなずいて見せた。

「その儀ならば……。」

小坂部は思い切って懐剣をぬこうとしたが、その柄を握りしめているかれの手は怪しいように硬くなって、何者かにその腕を取りしばられているように感じられた。微かな蝋燭の灯の光りで屹と見かえると、いつの間に窺い寄ったのか、一羽の大きい蝙蝠こうもりがかれの右の臂ひじの上に吸い付くように止まっているのであった。力まかせにそれを振り払おうとしても、蝙蝠はなかなか動きそうもないので、小坂部は焦じれて更に懐剣の鞘を口にくわえた。そうして、左の手でそれを抜こうとすると、その手にも何物かがひらりと飛び付いて離れなかった。よく視ると、それは大きい眼の晃る梟であった。

両手の自由をうしなった小坂部は、いたずらに歯噛みをして眼の前の敵を睨みつめていると、眇目の男はしずかに笑っていた。

「はは、くどくも言うようじゃが、お前たちの運命はわが手のうちじゃ。いかに燥あせっても狂うても、及ばぬ、及ばぬ。お身はその懐剣に手をかけてなんとする。お身はわれらの味方でないか。」

「なんの、味方……。」

両腕に取りついている怪鳥けちょうを振り払おうとして、小坂部は幾たびか身をもがいた。

「味方にならねばその身はほろぶる。侍従や采女がよい手本じゃ。」

「さてはお身が采女を殺したか。」

「わが手では殺さぬ。おのずと亡びゆく運命に導いたのじゃ。お身の父も叔父も兄弟も家来も、遅かれ速かれ皆それじゃ。お身は日頃から賢いに似合わず、なぜその道理が判らぬぞ。われらに一度魅みこまれて、眼に見えぬ糸につながれたが最後、いかにもがいても狂うても所詮かなわぬということがまだ覚られぬか。覚ったら速かに心をひるがえして我々の味方になられい。」

「味方……。悪魔の群れの味方になれとか。」と、小坂部は罵るように叫んだ。「忌いやじゃ、忌じゃ。おのれらは国の仇、親兄弟の仇、夫の仇じゃ。」

「忌じゃとて是非がない。」と、男はまたあざ笑った。「われらがこの国へ渡来した子細はもう言うて聞かせた。しかも二十年三十年の短い月日ならば知らず、二百年三百年引き続いてこの国を掻き乱そうとするには、われ一人の力では及ばぬ。どうでも力強い味方がいる。その味方をたずねめぐるうちに測らずもお身に出逢うた。この日本国でこの役目を仕負しおわするものは、いにしえには玉藻の前、今の世にはお身のほかにないと、この片眼で確かに睨んだ。殊にわれらが呪うている高師直の娘とあれば、いよいよ以って逃がれぬ約束じゃと思うたので、こうしてここまで誘い寄せたからは、忌が応でもお身はわれらの味方じゃ、悪魔の徒党じゃ。おとなしゅうして我が教えを受けられい。お身も幸い、われらも満足じゃ。」

聞けば聞くほど、かれらの怖ろしい巧みを小坂部は憎まずにはいられなかった。それと同時に塩冶の滅亡、侍従と采女の死、それらの争われぬ証拠を見せられて、かれは悪魔の大いなる力を認めない訳にも行かなくなった。かれは悪魔の難題に対して、おなじく難題を以って答えた。

「お身はそれで満足かも知れぬが、親に叛き、夫と離れて、わたしに何の幸福しあわせがあろう。お身にそれほどの大きい力があらば、死んだ采女は生かして返しゃれ。」

「ほう、安いこと。采女を生かして戻せば、お身はまことに味方になるか。」

男は片手に蝋燭をささげて、まず暗い部屋の隅々を照らした。そうして、その灯を高くかざして、何か口のなかに呪文を唱えていると、今までうす暗く顫えていた小さい灯の光りがだんだんに強く燃えあがって、その黄いろい光りは紅くなり、紫になり、青に変わったかと思うと、部屋のなかは月夜のように一面に青白くなった。その青い光りを浴びて、まぼろしのような物の影が正面の壇の前にぼんやりとあらわれたのを、小坂部は眼を据えてじっと透かして見ると、そのまぼろしの姿はどうもかの采女らしく思われた。

「あ、采女……。」

思わず駈け寄ろうとするかれを、男はしずかにさえぎった。

「騒いではならぬ。采女はあのように生きて戻った。さあ、約束じゃ。お身も疑わずに味方になれ。」

言ううちに、まぼろしの姿はいよいよ明かるくなって、采女の白い顔も、だんだら染めの小袖も袴も、たしかにそこに浮き出して来た。小坂部は堪まりかねてまた呼んだ。

「采女……采女……。」

「姫上……」と、まぼろしの采女は低い声で答えた。

「生きて来やったか。死んだは嘘か……。再び生きて戻りましたか……。ほんに生きたか。」

また駈け寄ろうとする小坂部の肩をつかんで、男はひき戻した。

「もう疑うところはあるまい。味方になるとすぐにお言やれ。」

かさねがさねの証拠を見せられて、かれはもう争う気力をうしなってしまった。それでもまだ思い切って応とは言い渋っていると、男は赤児の手から玩具おもちゃを奪うように、小坂部の掴んでいる懐剣をもぎ取って、蝋燭を床の上に置いた。小坂部はそれらの事には眼をくれないで、ただ一心に采女の顔や形を見つめていると、男が何かの合図をすると共に、一匹の黒い猫が飛び出して来て、彼の足もとにおとなしくうずくまった。彼はその黒猫の襟首を引っ掴んで、片手で懐剣の鞘を払ったかと思ううちに、短い剣は猫の喉笛に突き刺された。

男はさらに壇の上から一つの土器かわらけのようなものを持ち出して来て、まだ死に切らないでうごめいている猫の傷口から真っ紅な鮮血なまちを絞り出して、土器へなみなみと注ぎ込んだ。

「われわれの味方になるしるしじゃ。これを啜すすれ。」

黒猫の生き血を盛った器は小坂部の眼さきに突き付けられた。そのなまぐさい血の臭いを避けるように、かれは鼻をしかめながら采女の方をうかがうと、まぼろしの人はそれを飲めと勧めるようにうなずいて見せた。

「血を啜って誓うが我々の教えじゃ。なぜ啜らぬ、早う飲みゃれ。」と、男も催促した。

「早うお飲みなされ。」と、采女も声をかけたようにきこえた。

小坂部はもう考えている余地はなかった。かれはその土器を把って一と息にぐっと飲むと、かれの両腕に止まっていた蝙蝠も梟もいつの間にか飛びのいてしまった。

「見事じゃ。それでこそわれらの味方じゃ。」と、男は声をあげて笑った。

床の上の蝋燭はその笑い声に吹き消されたようにふっと消えると、采女のすがたも闇にかくれた。獣のなまぐさい生き血を啜って、小坂部はなんだか眼がくらんで来たように感じられた。血に酔わされたかれは次第に夢のような心持になって、暗い床の上に俯伏したとまではおぼろげに記憶していたが、それから後はなんにも知らなかった。

二

どこやらで鴉の声がきこえたので、小坂部は初めて夢から醒めた。鳥の声はどこから曳れて来たのか知らないが、窓一つないらしい部屋のなかは、夜だか昼だか判らないように暗かった。ただ正面の神壇らしいものの前に、黄いろい蝋燭の灯がぼんやりとともっているばかりであった。

その弱い光りをたよりにして、かれはあたりを見まわすと、そこには眇目の男も見えなかった。采女のすがたも見えなかった。床の上になまなましい血のあとを形見に残しただけで、黒猫の死骸もそこには横たわっていなかった。怪鳥もどこに潜んでいるのか、その翅の音を聞かせなかった。さらに隈なく見まわすと、部屋の広さは三間四方もあるらしく、四方はすべて厚い壁で囲まれていた。かれは正面の神壇の秘密を見とどけようとして、足音を忍ばせて窺いよると、忽ち或る者につまずいてはっと息を嚥み込んだ。蝋燭の灯に透かして見ると、それは幾個かの骸骨で、人か獣か鳥かよくも判らないが、うず高く重なり合って白く黄いろく照らされていた。

神壇の扉は半ば開かれてあるので、かれは伸びあがってそっと覗くと、その奥には小さい古びた黄金の立像が祀られてあった。像はかれの曽て視たことのない奇怪なすがたで、何か一種の夜叉羅刹であろうと想像されたが、それをじっと見つめているうちに、かれはゆうべ啜った血の酔いがふたたび頭へのぼって来たようにも感じられて、思わずふらふらとよろめいて、足もとに積まれた薄気味のわるい骸骨の上に腰をおろした。そうして、夢のように男の名を呼んだ。

「采女……采女……。」

低い声も四方の壁にひびいて、蝋燭の灯も微かにゆれるかと思われた。その一刹那に、階段のあがり口の方から青白い光りが薄く流れて来て、その光りのなかに采女の立ちすがたが煙りのようにあらわれた。

「おお、采女……。」

小坂部はあわてて起き上がろうとしても、からだはしびれたようで動かなかった。采女は微かな声で言うように聞こえた。

「姫上……。」

「そなたもここに棲んでいるのか。」

「お前さまがお呼びなされば、いつでもまいりまする。」

「そばへは寄れぬか。」

「今はかないませぬ。それもやがては……。」

「やがてはそばへも寄らるるか。」

「お前さまの御修業一つで……。」

「修業とはなんの修業じゃ。」

「悪魔の業ごうをお積みなされ。」

と言うかと思うと、采女の姿はだんだんに薄れてゆくので、小坂部はかなわぬ身をもがきながら、消えかかるそのまぼろしを追おうとする時、しずかにその肩に手を触れる者があった。かの蝙蝠か梟かと腹立たしげに見かえると、いつの間にかそこには眇目の男がほほえみながらたたずんでいた。

「われらは約束をたがえずに、采女の魂をこの世に呼び戻した。お身がここに棲んでいるかぎりは、呼べばいつでも来る。逢いたくばいつでも逢われる。どうじゃ、お身はこれでもわれらを仇とするか。親も捨て、兄弟も捨て、われらの教えをうけて、われらの世界に棲んでいれば、人のいう地獄が却って極楽じゃ。」

小坂部は頭を垂れて、おとなしく聴いていた。かれはもう懐剣を探るような心になれなかった。

「今でこそお身はわれらの弟子じゃ。われらの教えをうけねばならぬ。」と、男は少しく詞をあらためて、かれを敬うように言った。「しかし、われらの見るところでは、お身の行く末は所詮われわれの及ぶところではない。お身は神じゃ、われわれの尊崇する魔神の権化ごんげじゃ。ゆくゆくはわれらがひざまずいて、却ってお身の光りを拝まねばなるまい。われらも東海のこの国にさまようて、千万人に一人のお身を見いだしたというは、わが教えのいよいよ天地に栄ゆる兆しるしじゃ。本国の人々もこれも伝え聞いたら、おそらく涙をながして喜ぶことであろう。」

彼の片眼の光りは、かつて小坂部をおびやかしたように爛々と燃えていた。彼は床の上にひざまずいて、まず神壇の燈火あかりを拝し、さらに骸骨の前に身を投げ伏して、その詞の通りにうやうやしく小坂部を拝した。

彼は部屋の隅にある甕かめの水を汲んで、小坂部に飲ませてくれた。その水は天主閣の軒から筧かけいを引いて、天水を呼ぶのであると教えた。彼が何かの合図をすると、一羽の梟がどこからか舞って来たのを、彼は懐中から短い剣をとり出して、ゆうべの猫のように無雑作に殺してしまった。

「生けるものを其のままに啖うがわれらの教えじゃ。」

その食い物は、蝙蝠、梟、蛇、蜥蜴とかげ、壁虎やもり、蟆ひき、犬、猫、狐、狸、鼬いたち、鼠、貂のたぐいで、合図をすれば必ずどこからか現われて来るから、それをすべて生けるがままに屠ほうって、飢えれば肉をくらい渇けば血をすするのであると彼は説明した。

「日を仰ぎ、月に祈り、雲を呼ぶ時は、この高い窓から空を見るのじゃ。」

窓一つないと思われたこの部屋にも、高い壁の上に小さい窓が作られてあることを小坂部は初めて知った。水甕に引いてある筧は、その窓から通っているのであった。そうして、その水は飲むためではない、まことは顔を洗い、手を浄めるためであると、彼はさらに説明した。小坂部は彼に扶たすけられながら、その水甕を踏台にして高い窓から覗いて見ると、秋の青空の果てに唯ひとかたまりのうす黒い雲が小さく浮かんでいた。

「あの雲はいかなる晴れた日でもわれらの眼にはかならず見ゆる。あの雲の消えぬかぎりは、われらの教えもほろびぬと思われい。」と、男は雲を指さして教えた。

小坂部も言い知れない敬虔の念に囚とらわれて、うやうやしくその雲の影を拝んだ。かれは再びこの天主閣の頂上から下界へ降りようとは思わなくなった。かれはその日から眇目の男に一種の教えを授けられ、さらに秘密の呪文を伝えられたが、賢いが上に学問のあるかれは、教うる人をおどろかすほどに一々それをよく会得えとくした。かれは生きながらに蛇をくらった。蜥蜴をくらった。猫をくらった、鼬をくらった。そうして、一日のうちに三度ずつ采女の名を呼ぶことを許された。呼べば、恋人はかならずその姿を見せた。

こうして幾年を送ったか、かれもおそらく記憶しなかったであろうが、その間も下界には兵乱が絶えなかった。取り分けて敵と味方が争奪の目標になっている都の巷ちまたには、剣と火との禍いが幾たびか繰り返されて、町の大半は焼け野になってしまった。塩冶をほろぼして、敵にはあざけられ、味方には憎まれた高師直は、その罪ほろぼしに真如寺を建立こんりゅうしたが、彼はいつまでも敵味方の呪いのまとになっていた。そういう周囲の事情から、彼は次第に主君の信用をも墜おとしかけて来たところへ、足利兄弟が不和を生じて、兄の尊氏と弟の直義とが敵味方に引き分かれることになった。その不和の原因もやはり師直の讒誣ざんぶ中傷に因ると伝えられていた。直義はわが身のあやういのを恐れて、一旦は都を落ちのびたが、さらに大軍をあつめて攻めのぼって来たので、尊氏は播磨路まで出てそれを邀むかえ撃つことになった。師直も無論に主君と共に出陣した。

姫山の天主閣の上では、小坂部が高い窓の隙きから夕空を眺めていた。それは正平五年二月の半ばであった。折りおりに下界の様子をうかがいに出る眇目の男は、頂上まで登って来て得意らしく報告した。

「姫。いくさは眼の下にひろがる。尊氏直義の兄弟が戦うのじゃ。高師直、その弟の師泰、いずれも尊氏にしたがうて出陣したという。さりとは面白い勝負でないか。」

かれら悪魔に取っては確かに得意の時節でなければならない。小坂部もほほえみながら聴いていると、春もまだ薄寒い夕暮れの風が天から吹きおろして来て、高い天主閣の甍いらかをゆすって通った。いつもの黒い雲の影が常よりも大きく鮮あざやかに見えた。小坂部は口の中で何かの呪文を唱えた。

あくる日の合戦は、尊氏方の惨みじめな敗北に終った。大将の尊氏はすでに自害と覚悟を極めたほどであったが、幸いに直義との和議が整って、尊氏は生きた。しかし生きられないのは師直兄弟の身の上で、今度の合戦もその根本は彼等にあるというので、直義の憎しみは強かった。勝利者の直義に呪われては、とても我が身をまっとうすることは出来ないと覚って、師直師泰は兵庫から船路で鎌倉へ落ちようと相談した。そこには三河守師冬が東国の管領として威勢を振るっているからであった。父の師直とは何かに付けて意見が合わないのみか、かの塩冶の滅亡以来まったく父を見限って、無断同様に関東へ下ってしまって、この頃は音信も絶え勝ちになってはいるが、それでも義理ある父子おやこである以上、この危急の場合をよもや見殺しにする筈もあるまい。彼のもとに隠まわれて、しばらく世の成り行きを窺おうと思っていると、二月廿五日の夜半に、甲斐国から使いが来て、思いもよらない報告をもたらした。師冬は上野こうづけに蜂起した敵共を追い散らすために、鎌倉を出発してゆく途中で、味方の多くは心変わりして同士撃ちが始まった。よんどころなく甲州へ落ち延びて、洲沢すのさわの城へ引き籠っていると、そこへ諏訪の方から敵が押し寄せて来て、三日の後に城はほろび、師冬は討ち死したというのである。この報告をうけとって、師直と師泰も生きている顔色はなかった。

師冬が亡びてしまっては、関東に頼むべき味方もない。さりとて西国には師直の敵が多い。足利将軍の執事として威勢を振るっている間は、味方の大小名も虫を押さえて彼等の前に膝をかがめていたが、その信用も権威も失墜して、かれらを生かすも殺すも勝利者の心まかせという場合になると、一人も身を楯にしてかれらを擁護するものは無かった。平生から畳まっていた鬱憤や嫉妬や憎悪が一度に発露して、勝利者は勿論、現在かれらと敗北の運命を倶ともにした味方すらも、ことごとく彼等の敵となってしまったので、師直兄弟はもうどうしても生きてはいられない破目に陥ったのである。それでも彼等は何とかして生きる方法を見付け出そうとあせった。

「しょせんは出家じゃ。鎧をぬいで墨染めの法衣ころもに換えたら、さすがに執念くも咎めまい。」

師直は思い切って言い出すと、師泰も唸くような溜め息をつきながら答えた。

「それじゃ。それよりほかに逃がるる途もござるまい。しかし家来どもは何と申そうか。」

「勿論それには異論もあろう。さりとて今の場合じゃ。一時の方便にこの頭を剃り丸めたとて何があろう。時節が来れば再び還俗げんぞくするまでじゃ。」

敗軍の陣屋はひっそりと鎮まって、焚きさしの篝火の光りもこの兄弟の影のように薄かった。木戸の外には宵から降り出した春雨の音がしとしとときこえた。運命の急転を痛切に感じた二人は、陣扇のかなめを膝に突き立てたままで、しばらくは黙って顔を見あわせていた。

「将軍家は明早朝に京へ引き揚げらるるという。われらも成るべくお側を離れぬようにして、轡くつわをならべてまいるが肝要じゃ。将軍家の見る前では、何者もさすがに手出しはあるまいぞ。」と、師直はやがて小声で言った。

この期ごに及んでも、彼は猶その主君の袖にかくれて、敵味方の迫害を逃がれようとするのであった。師泰もそれに同意した。かれらは家来の横井弥兵衛を呼んで、袈裟や法衣や珠数や蓮葉笠や、僧形に必要な品々を取り揃えてまいれと命じた。不得心らしい彼を急せかし立てて追いやって、二人は先ずほっと息をついた。

「これで生きらるるわ。」

師直はさびしく笑った。しかもその笑い顔は俄かにゆがんで、彼はあわてて傍かたえにある太刀を引き寄せた。

「おのれは誰じゃ。」と、彼は庭さきの闇を透かしながら、叱るように訊いた。

消えかかった篝火の前には、黒い影がまぼろしのように立っていた。

三

「むむ、見馴れぬ奴。敵か味方か。」と、師泰も油断せずに訊いた。

「敵の、味方の、そのような者でない。」と、黒い影は答えた。「われらはさる人の使いにまいったのじゃ。」

「して、誰の使い……。誰に頼まれた。」と、師直は相手を睨みながら言った。「いずれにしても見馴れぬ奴じゃ。使いの口上、早う申せ。」

なるほど見馴れない筈で、黒い影のぬしは異国の風俗をした眇目の男であった。男は篝火を前にして、恐れげもなく答えた。

「われらはお身の息女に頼まれた。」

「息女……とは誰じゃ。」

「小坂部どのじゃ。」

「小坂部……。」と、師直はその名を呪うように繰り返した。「憎い奴め。かれはわが子でないわ。」

かかる際にも師直は父の権威を傷つけまいとするように、居丈高いたけだかになって罵った。実際、かれが父や兄の意見に付いて然るべき大名の婿を定めていれば、この場合にも有力な味方を見いだし得るに相違なかった。それだけでも、師直はわが子を憎まずにはいられなかった。まして、塩冶の味方をして、家来の采女と駈落ちをして、権右衛門や新九郎やその他の家来どもに死傷をあたえたかれが不孝不義を数え立てると、師直は跳り上がるほどに腹立たしかった。それから幾年のあいだ、かれは死んだか、あるいは采女と一緒にいず方にか忍んでいるのか、その消息もまったく絶えていたのである。その憎むべき娘の名を、不運のどん底に沈んだ今この際きわに聞かされて、師直の胸にひそんでいた憤怒の火の手がまた俄かに燃えあがった。

「その小坂部はどこにいる。」と、師泰は訊いた。

「その棲家は申されぬ。」と、男は意味ありげにほほえんだ。「しかし小坂部殿はたしかに無事に生きながらえている。本人直きじきにまいらるる筈じゃが、子細あってその棲家より一と足も外へは出られぬので、われらがその使いをたのまれて参った。」

「むう。」と、師泰は眉をよせた。「して、小坂部がなんと言い越したのじゃ。」

「御運も最早これまでじゃと……。」

師泰はぎょっとして兄の顔を見かえると、師直はその大きい眼をいよいよ苛いらげた。

「おのれ、まだまだ不幸が仕足らいで、このきわにまでも親叔父を呪おうとするか。」

「はは、何が不孝。」と、男はあざわらった。「いや、不孝ならば先ず不孝として、その不孝者には誰がしたか。よく考えて御覧ぜられい。小坂部どのは正直におのれの恋を打ち明けて、采女と女夫めおとにしてくれとお身に嘆いた。お身もそれを聞き届けた。その口の乾かぬうちに、姫を捉えようとする、采女を打ち果たそうとする。その難儀を逃げ隠れしようとした娘がなんの不孝……。娘の不孝を責むるよりも、まずその親の無慈悲を悔いられてはどうじゃ。いや、それも今さら言うまい。きょうか明日かに亡ぶるお身達と、そのようなことを言い争うても詮ないことじゃ。まことを言えば、お身たちは蜘蛛の巣にかかった蝶や蜻蛉とんぼうも同じことで、こうなり果つるはしょせん逃がれぬ運と諦められい。われらはお身達を殺そうとこそすれ、決して救おうとは思わぬ。が、今はわれらの女王と崇あがむる小坂部殿のお指図じゃで、よんどころなしに今夜ここまで出向いてまいった。お身たちはいかに藻掻いても狂うても、しょせん助からぬ運命じゃで、今夜のうちにここで潔いさぎよく自滅せられい。それが小坂部殿の申し伝えじゃ。なんと合点せられたか。」

「なに、師直に自滅せよと……。小坂部が確かに申したか。」と、師直は憤怒の声を顫ふるわせながら哮たけった。

「そうじゃ。」と、男はしずかにうなずいた。「お身たちがこうなったもわれらの呪いじゃ。どのような醜みにくい死に恥を晒そうとも……いや、その死にざまの浅ましく見苦しいほど、われらは手を打って喜ぶのじゃが、女王にはまだ幾分か人間のなさけがあるので、一旦見捨てた親にも格別の憐れみを加えて、せめては死に恥を包んでやろうとのお志じゃ。ありがたいと思うて、そのお指図に従われい。」

「ええ、おのれが……。言わして置けば勝手なことを……。小坂部の使いとあれば、不孝の娘の名代に、まずおのれからこうじゃ。」

師直はその太刀をおいて、更にそこに立てかけてある長巻をとった。彼は物に憑つかれたように哮り狂って、その長巻を掻い込んで、板縁からひらりと飛び降りると、男は足をあげて篝火を蹴倒した。そうして、雨の中をいずこへか立ち去ってしまった。

「兄上……兄上……。」

狂気のようにそこらを追い廻している師直を、師泰は気づかわしげに呼び戻した。

「そのような奴にお構いなさるな。時刻が移れば、かの用意を……。」

「むむ。」

師直は長巻を杖にして、雨に濡れながら突っ立っていると、その眼の先きにまた一つの影があらわれた。

「や、おのれは小坂部……。」

長巻をとり直そうとすると師直の腕は、俄かにしびれて働かなかった。小坂部は都にあった時とちっとも変わらない。むしろその当時よりもひとしおの妖麗を加えたような笑顔を見せた。

「わたくしは姫山の古城の天主閣を永久とわの棲家と定めて、ふたたび下界へは降くだるまいと誓うていましたが、使いの戻りが余りに遅いので、自分にここへ尋ねて来ました。使いの口上、お聴きなされたか。」

「なんの、あのような奴が譫言たわこと……。」と、師直は息をはずませながら言った。

「いや、あれは皆わたくしの口上とおぼしめせ。お身は呪われた命、しょせん生きようとて生きられませぬぞ。」

小坂部はおごそかに言い渡した。その威に打たれたように、師直も少し鎮まると、小坂部はかさねて言った。

「なんと判りましたか。わたしも昔の小坂部ではござりませぬ。幾年の修業を積んで、今は人間ならぬ世界に棲んでいれば、世の盛衰、人の栄枯、手に取るように見えまする。殊にお前さまはわれわれに呪われている身の上、なんとしても逃がるる運ではござりませぬ。ただ潔いさぎよく今宵のうちに……。」

「どうでも師直に死ねというか。」

「どうでも死なねばなりませぬ。」

「それをおのれらが祈っているのか。」

「祈っておりまする、呪うておりまする。」と、小坂部は教えるように言った。「くどくも申すようなれど、お前さまの命はわれわれの手に掴まれておりまする。現に兄上も……。」

「むむ。師冬もおのれが呪うたか。」と、師直はまた唸った。

「それも是非がござりませぬ。しかし兄上はわたくしの教えに付いて、潔よく討死をなされました。それがせめてもの仕合わせ。お前さまも……。」

長巻を地に伏せて、師直は雨の中にべったりと坐った。

「小坂部。ゆるしてくれ。助けてくれ。お身にそれほど不思議の業通力ごうつうりきがあるならば、父が一生に一度の難儀を救うてくれ。頼む。救うてくれ。」

「なりませぬ。」と、小坂部は冷やかに答えた。

「なぜ成らぬ。」と、師直は憫れみを乞うように掻き口説いた。「父が手を下げて、これほど頼むというに……。娘とは思わぬ。救いの神じゃ。どうぞ免ゆるして命だけは……。」

師泰も口を添えた。

「のう、小坂部。父と叔父とが大事な際きわじゃ。むかしの恨みは捨て置いて、今度だけは……。わしも共々に頼む。肯きいてくりゃれ。」

「なりませぬ。」

同じ返事が繰り返された。

「さりとは無慈悲じゃ。」と、師直は怨むように言った。「たとい過去はどうあろうとも、お身と我とは肉身の親子でないか。その親がこれほどに縋って頼むに……。」

「親といい、子というはこの世のこと。わたくしの棲む世界ではそのようなことは知りませぬ。その掟を破って、こうして尋ねて来たのは、まだしも親を忘れぬわたくしの志、その上に何かと望むはお前の無理というもの。もうこれでお別れ申しまする。」

行きかかる小坂部の袂にまた取り付いて、師直は悲しそうな声をあげた。

「まあ、待て。待ってくれ。お身、どうでも親たちを見捨てて行くか。」

雨にぬれた師直の顔の上には、さらに涙の雫しずくがほろほろと流れ落ちた。

守まもり神がみ

一

師直兄弟が最後のありさまは、大勢の歴史家に因って委くわしく記しるされているから、今あらためて説明するまでもあるまい。かれらの死はいにしえから記録に残っている武将や武士の最期さいごの中でも、最もいたましい、最もみじめなものであった。かれらはそのあくる朝、出家に形をかえて、墨染めの法衣ころもを着て、蓮葉笠を深くして、馬上で京をさして落ちる途中を、味方の者どもに見咎められて、二人ともに鞍の上から斬り落とされてしまった。血みどろになった二つの死屍しかばねは折り柄ふりしきる春雨に洗われながら、野良犬の亡骸なきがらのように川原に投げ捨てられた。大勢の家来はとうに皆逃げ散ってしまって、最後までも主人のそばに付きしたがっていた横井弥兵衛ら七、八人は、防ぎもならず、逃げもならず、多勢に押っ取り籠められて膾なますのように斬りきざまれた。こうして、足利将軍の執事という高武蔵守師直の一門眷族はほろび尽くした。

その噂が都まであまねく聞こえ渡った頃には、かの兼好法師は双ヶ岡の庵に安住していなかった。彼が書いてやった「なよ竹」の歌も、小坂部が書き残して行った「雪つもるなよ竹」の歌も、すべてむかしの夢物語になってしまった。彼はいよいよ荒れまさる都の姿を見るに堪えかねたのと、戦乱の塵がややもすればその草の戸にまで舞い込んで来るのを避けて、さらに伊賀国へ引き移って、国見山の麓にかくれていた。そうして、師直一門滅亡の噂がそこらの山里まではまだ伝わらない四月の初めに、かりそめの病いから安らかに入寂した。その墓の前にある日のゆうぐれ、美しい上﨟がつつましやかに回向しているのを里びとの誰れ彼れが見たと言い伝えられた。

作者はこの以上に歴史を説こうとはしない。しかしこの物語の順序として、もう少し歴史上の主なる事件を列挙して置く必要がある。足利兄弟の和睦はふたたび破れて、さきの勝利者であった直義は却って兄のために毒殺されてしまった。それから四年の後に尊氏も死んだ。その後にも南北朝の争いは一日も絶えなかったが、北朝の明徳三年に南北朝の和議がはじめて整った。これで元弘建武以来六十余年の兵乱もようやく鎮まるかと思うと、遠い九州には菊池の一族がふたたび旗をあげる。都に近い泉州堺では大内義弘の謀叛がある。鎌倉には管領持氏の乱が起こる。赤松満祐は将軍義教を弑して、播州に楯籠る。こうした兵乱がそれからそれへと更に七十年ほども続いた。

異国の眇目の男は、師直の一門滅亡の後にも、折りおりに巷ちまたにさまよう姿を見せた。ある者は彼をふたたび京の町に見た。ある者は彼を浪華の津に見た。ある者は彼を堺の浦に見た。しかも前にいった明徳年中、南北両朝の和議が取り結ばれた頃から、どこでも彼の姿を見たというものはなかった。彼はもうおのれの役目を果たして、故郷の異国へ立ち帰ったのか。あるいは姫山の天主閣の頂上にうずたかく積まれてある骸骨の群れに入ってしまったのか、それは誰にも判らなかった。

彼が姿をかくしてから七十年ほどの後である。播州赤穂郡赤松村に住んでいる藤次郎と雉六の兄弟が、白旗山へ小鳥狩に登って行った。かれらは百姓の子であったが、この時代の生まれだけに弓矢を取りおぼえて、農作の傍らには狩人を生業なりわいのようにしていた。殊に冬季は農作も閑ひまであるので、ほとんど毎日のようにそこらの野山を猟り暮らして、十二月初旬の陰った日に白旗山へ分けのぼると、きょうはどうしたものか小雀一羽もかれらの眼に入らなかった。

白旗山はかの姫山と同じく、赤松の一族が楯籠っていた城址である。将軍義教を弑した赤松満祐はこの城に籠って都の討っ手を引き受けたのであるが、結局は滅亡の悲運に陥って、逆臣の城は焚かれてしまった。その城址を誰も修理する者もないのみか、焼け残った本丸の百畳敷には、赤松一族の亡魂があらわれるというので、めったに近寄る者もなかった。獲物をあさり疲れた兄弟は、この城址へ蹈み込んで狐や狸の穴を探していると、冬の空はいよいよ暗くなって、大きい霰あられが音を立ててさっと降り出して来たので、二人もさすがにうろたえて、一時のかくれ家を求めるために、焼け残りの本丸へ逃げ込んだ。

「ずいぶん荒れ果てたものじゃな。」と、兄の藤次郎はうす暗い建物の奥を透かしながらささやいた。

「それも道理もっともじゃ。」と、雉六はうなずいた。「赤松殿がほろびたのは俺が生まれぬ前のことで、もう二十幾年のむかしになる。その以来、手入れをせずに荒れ朽ちるがままに捨ててあるのじゃから、こうなるも是非があるまいよ。」

かれらもこの本丸に入り込んだのは今日が初めてであった。幾分の好奇心も手伝って、二人は霰の晴れるのを待つ間に、朽ちかかった大床づたいに奥の方へそっと忍んで行った。

「城はみな焼け落ちたというに、どうしてこの広書院だけが燃え残ったのであろうかのう。」と、藤次郎はまたささやいた。

「城の衆は皆ここに居列んで、一度に腹を切ったので、天井や襖にもなまなましい血が飛沫しぶいていたとかいう話じゃ。」と、雉六は薄気味悪そうに答えた。「しかしもう二十年あまりも過ぎたので、その血の痕も大方は消えたであろう。折角ここまで来たものじゃ。後の話し草にもう少し奥まで蹈み込んで見ようではないか。」

兄もうなずいて、うす暗い中をたどって行くと、百畳敷という広書院は墓場のように鎮まり返って、二人の足音におどろく鼠すらも棲んでいないらしかった。それでも二人は猟矢さつやと弓とをしっかりと握りしめて、息を殺して忍んで行くと、冷たい湿しめっぽい空気が身にしみて、二人は顫えあがる程に寒くなった。

「だんだんに暗くなって来た。」と、雉六は足音を偸ぬすみながらささやいた。「あの広書院には赤松殿の亡魂がまことに棲んでいるであろうか。」

「さあ、おれにも判らぬが、世にはそのようなことが無いとも限らぬ。」

言いかけて、藤次郎は小声であっと叫んだ。彼の片足は朽ちた床を蹈みぬいて、あやうく尻餅を搗こうとして辛くも蹈みとどまったのであった。その床の裂れ目からは枯れたすすきが長い穂を出していたので、彼の足はその葉に触れてがさがさと響いた。それと同時に、奥の方でも衣きぬずれのような音が不意にきこえた。音は極めて微かなものであったが、あたりが森しんとしているので二人の耳にも確かに聴き取れた。兄と弟は黙って顔を見合わせた。

噂の通りの幽霊か、但しはここを棲家とする山賊のたぐいかと、二人は少し躊躇したが、乗りかかった舟で今さら引っ返すことも出来ないので、かれらは蟆蛙ひきがえるのように床を這って、いよいよその百畳敷らしいところまで忍び込んだ。雨戸はみな明け放されている筈であるのに、外の光りも奥の奥まではとどかぬと見えて、広い書院は昼か夜か判らないほどに暗かった。二人は少しく頭をあげて、その暗い隅々をうかがうと、上段の間と思われるところに、ひとりの上﨟の行儀よく坐っているのが、浮き出したようにくっきりと見えた。それが若い女、しかも彼等が生まれてから曽て見たことのないような容顔美麗の上﨟であったので、かれらは又ぎょっとした。

それが何かの幽霊であるか、但しは山賊どもの妻子であるか、それらを考えている間もなしに、かの上﨟は遠くからしずかに声をかけた。

「お身たちは何しに来た。」

二人は声を出すことが出来なかった。ただ黙ってそこにうずくまっていると、かれは朗かな声でかさねて言った。

「なぜに物いわぬ。ここはわたしが仮りの棲家じゃ。誰に許されてここまで来た。」

言い知れぬ恐怖に囚われて、二人はやはり石のように黙っていた。

「早う帰りゃ。長居したらそち達のためになるまいぞ。」と、かれは三たび言った。「ここでわたしの姿を見たことを必ず人に語るな。世に洩らさば命はないぞよ。」

弓や猟矢はなんの役にも立たなかった。二人はあとをも見返らないで早々にそこを逃げ出して、まだ降りしきる霰あられのなかを麓の里まで一と息にころげ降りて帰った。

かれらを嚇した上﨟の正体はもとより何であるか判らなかった。世に洩らさば命は無いと言い聞かされたにも拘らず、年の若い雉六はそれを近所の二、三人に吹聴すると、聞いた者はみな肌を凍らせた。それは恐らくまことの人間ではあるまい。山姫のたぐいであろうと誰も彼も言った。しかし大勢のなかにはそれを疑う者もあって、兄の藤次郎に実否をただすと、藤次郎はいつもこう答えていた。

「その時は俺は弟と一緒におらなんだ。あいつがなにを見たか俺は知らぬ。」

それから十日と経たないうちに、雉六は寝床のなかで頓死していた。藤次郎は生涯それを誰にも洩らさなかった。彼が老後の重病に罹かかって、しょせん生きられないと自分でも覚悟した時に、はじめて白旗山の秘密を明かした。

「その怪しい美しい上﨟というのは、実は俺も見た。」

しかしその正体が何であるかは、いつまでもここらの里びとの疑問として残されていた。

二

その後も世の乱れは絶えなかった。かえって、そのむかしよりも禍いが大きくなって来たように見えた。

かの応仁の戦乱を始めとして、それから元亀天正に至る百余年の間、日本国じゅうに起こった大小の戦乱を一々かぞえ立てることは、専門の歴史家に取ってもなかなか重大の仕事であろう。その禍いの絶頂ともいうべき天正九年に、羽柴筑前守秀吉は織田信長の命令をうけて、中国一円を切り従えるべく攻め下った。その時に秀吉は中国の入口に然るべき根拠地を見いだそうとして、播州で名高い古城の址あとを調べさせた。その選に入ったのが白旗山と姫山とで、どちらも古い歴史をもっているだけに、秀吉も一旦はその選択に迷ったが、交通の便利から考えて遂に姫山を選むことに決めた。

「就いては白旗の城址はいっさい取り毀せ。なまじいに何かの跡方が残っていると、謀叛人の足溜りともなり、山賊どもの棲家ともなる。いずれにしても良からぬことじゃ。」

その指図にしたがって、浅野弥兵衛は大勢の家来や人夫を引き連れて、白旗山の城址を取り毀しにかかった。藤次郎兄弟の伝説があるだけに、土地の者は何かの怪異あやしみをひそかに予期していたが、そんな噂は一向にきこえないで、朽ちかかっていた百畳敷も、幾日かの後にまったく取りくずされてしまった。

それと同時に、姫山の古城は新しく改築された。旧記によると、城の東西がおのおの十町、南側十一町、北側七町、その中が内廓で、本丸と二の丸がある。本丸は後に太閤丸と呼び換えられた。こうして、この古城は一切その粧いを新たにしたが、天主閣だけは昔のままに取り残されていた。それに就いては次のような奇怪な伝説が残っていた。

城の普請中である。春もやがて暮れかかる日の夕方に、秀吉が二、三人の小姓を連れて普請場を見廻っていると、どこからともなしに一人の美しい上﨟があらわれて、秀吉のゆく手に立ち塞がった。見馴れぬ女が突然に出て来たので、秀吉も小姓もおもわず目を瞠みはってかれを見つめると、上﨟はしずかに言った。

「ここはわたしの棲家じゃ。お身たちは誰に許されて我が物顔に振舞うぞ。早うここを立ち退かれい。」

しかしかれの相手は藤次郎や雉六のやからではなかった。その詰問に対して、秀吉は恐れげもなしに答えた。

「そういうお身こそ誰に許されてここへ参られた。羽柴筑前守が縄張りの城中へ女子おなごの身として妄りにまいらるること無用でござる。お身こそ早う立ち去られい。」

「お身はまだなんにも知らぬか。」と、かれは嘲るように笑った。「この姫山と白旗山とはわたしの年久しい棲家で、たとえて言わばこの姫山は本丸、白旗山は出丸じゃ。その白旗山をいっさい取り頽くずして、さらにこの姫山をも奪おうとするは、あまりの無礼、あまりの狼藉じゃ。白旗山はともかくも、この姫山は決してお身たちに渡すまい。好んで禍いを招こうよりも、一刻も早うここを立ち退くが人のため、身のためじゃ。早う行かれい。」

「して、お身は何者じゃ。」と、秀吉は訊いた。

「それを名乗る要はない。二百余年の昔からここに棲む者じゃと思われい。」

「さてはおのれ、狐狸か魔性の者か。」と、秀吉は屹とかれを睨んだ。「女子の身としてこの古城に百年二百年の月日を送る――まことの人間ではよもあるまい。空城あきじろのあいだはおのれらの宿にも仮したれ、秀吉がここに来たり住むからは、おのれらに一刻も仮すことはならぬ。おとなしく立ち去らずば、おのれ眼に物見するぞ。」

小姓に持たせていた太刀を引き取って、秀吉はわが眼の前にたたずむ怪しい上﨟を睨みつめていると、かれもその艶あでやかな顔色を見るみる変えた。

「さらばお身、どうでもここを立ち去らぬというか。あくまでもこの城を我が物にしようと言うか。」

「勿論のことじゃ。わが弓矢の力で切り取ったこの国に、わが居城を築くがなんの不思議じゃ。今までここに棲んでいた主人というに免じて、おのれの命だけは助けてやる。それでも執念くさまよい居らば、おのれ生け捕って正体を見あらわしてくるるぞ。」

上﨟は素直に立ち去ろうともしなかった。かれはものすごい瞳をかがやかして、呪うようにじっと秀吉を見つめているので、秀吉の憤怒は俄かに胸を衝いた。

「ええ、おのれ。素直に立ち去らぬか。」と、彼は一と足すり寄って叱るように言った。

「お前こそ素直に立ち去られい。」と、かれの方でも一と足すすみ寄って来た。

すわや大事と看て取った小姓どもは、いずれも腰刀に手をかけて主人の左右に引き添うて進むと、秀吉はかれらを見返って激しく命令した。

「それ、かれめを生け捕れ。手にあまらば斬って捨てい。」

小姓どもは一時に飛びかかってかれの腕を捉えようとすると、かれの姿は忽ち烟けむのように消えてしまった。

「おのれ、まさしく魔性の者じゃ。」

秀吉は空くうを睨んで突っ立っていると、そこに一本咲き乱れている遅桜の梢かと思わるるあたりで、彼を嘲るような笑い声がきこえた。

「羽柴筑前。早うここを去らぬと、お身の家は二代と続くまいぞ。」

太刀に手をかけて、秀吉はそこらを屹と睨み廻したが、それは声ばかりで、呪詛のろいのぬしはどこにも姿を見せなかった。狐狸妖怪になぶられたかと思うと、彼の憤怒はいよいよ募った。

「見よ、あすは早朝から狐狩りして、おのれらの巣を焼き尽くしてくりょうぞ。」

その命令は夜のうちに伝えられて、あくる日の早朝から城内の狐狩りが行なわれた。怪しい女の正体は、おそらく年古る狐であろうということに諸人の意も一致して、森のかげ、堤の下、石垣の隙き間まで隈なく猟り尽くした末に、二十四あまりの狐、狸、鼬、貂のたぐいを狩り捕えたが、この古城のぬしらしい怪獣は遂に見あたらなかった。

その次の日の午ひる頃であった。秀吉がやはり二、三人の小姓を連れて、普請場を見廻っていると、とある大樹に立てかけてあった古い角材が突然に倒れかかって来た。素早く身をかわしたので、幸いに秀吉の身にはなんの怪我もなかったが、それに頭を打たれたらどうあろう、と彼もさすがに身を顫わせた。しかも彼の性格として、眼にみえないその仇を憎むの念がいよいよ抑え切れなくなって来た。彼は虚空を睨みながらふと考えた。

「妖怪の棲み家はかの天主閣じゃ。誰かある。かしこへ駈け登って見とどけてまいれ。」

小姓どもは押っ取り刀ですぐに天主閣へ駈けあがって行ったが、それぎりで一人も戻って来なかった。半晌過ぎても、一晌経っても、なんの音沙汰もなかった。不安に思って、他の家来共もつづいて登ったが、それもまた一人も帰らなかった。小姓と家来をあわせて十余人の人間は、いずれも暗い天主閣の奥に封じ籠められてしまったらしく、一人も無事に戻って来て閣上の秘密を報告するものはなかった。

「さりとは怪けしからぬことじゃ。大事の家来を一人ならず五人十人も奪われては、羽柴の家の弓矢の恥辱じゃ。つづいて登るものはないか。」

秀吉は癇癖の唇を顫わせて哮たけった。その下知にしたがって、福嶋市松が駈けあがると、天主閣のなかは昼でも闇であった。彼は一旦引っ返して、手松明てたいまつを用意して登ると、二階三階をゆく間は何事もなかったが、第四階までゆき着いた時に蝙蝠のような大きな鳥が音もなしに飛んで来て、不意に彼の手松明を搏はたき落とした。市松は舌打ちしながら暗い中を探ってゆくと、なんだか判らない獣が彼の肩あたりに飛びかかって来たので、彼はすぐに引っ担いで力任せに床の上に叩き付けると、何かまた這って来て其の足に絡み付いた。蛇ではあるまいかと想像しながら、市松は足をあげて強く蹴放した。

「はは、多寡の知れた奴らじゃ。」

市松はあざ笑いながら、さらに第五階へのぼって行った。狭い階段を半分ほど登ると、頭の上の暗い壁にぼんやりと薄い光りが見えたので、彼は俄かに身を伏せてその光りのする方をうかがうと、上には物の音もきこえた。さらに抜き足をして登ってゆくと、第五階の頂上と思われるところには、うす黄いろい火の光りが微かに流れて、その火の前には気高く美しい上﨟がうしろ向きになって何事かを祈っているらしかった。

「おのれは何者じゃ。」と、市松は腰刀の柄を挫ひしぐるばかりに握りしめながら叫んだ。

上﨟はしずかに振り向いた。その顔はうしろ姿で想像したよりも更に﨟闌ろうたけたもので、一種凄麗の気を帯びているのに、市松もさすがにおびやかされた。

「うるさい奴。又しても参ったか。」と、かれは眉をあげて言った。「おのれの主人にも言うて聞かせた通り、ここはわたしの棲家じゃ。余人の入るべきところでないと思え。」

「なんの、おのれ……。」

市松は力足を踏んで駈け寄ろうとすると、五体は眼に見えない糸につながれたようで、あとへも先きへも動かれなくなった。彼はいたずらに牙を噛んで木偶でくのように突っ立っていると、女はほほと軽く笑った。

「最前から入り代り立ち代って幾人来ることやら、誰も彼も二階三階まで来る間に、ことごとく鳥獣の餌食になってしまうに、おのればかりは無事にここまで登り着いたは、運が強いか、力が強いか、いずれにしても果報者じゃ。その果報にめでて今日ばかりは助けてやる。再びまいるな。」

言い捨ててかれは再び燈火あかりの前に向かった。そのうしろ姿を睨みつけながら、市松は一と足も前に踏み出すことが出来なかった。それでも彼は罵るように又訊いた。

「して、おのれは何者じゃ。」

「はて、くどい。わたしは小坂部というものじゃ。」

かれの頭の上に燃えていた微かな火は吹き消すように消えた。それと同時に、なんとも知れない恐怖が氷のように市松の惣身を冷たくした。人を人とも思わない大胆不敵の彼も、もうここにはどうしても居たたまれないような臆病な人間に生まれ変わって、五体の自由になったのを幸いに、ころげるように階段を逃げて降りた。明かるい土の上に立って、はじめてほっと息をついた彼は、その顔色を藍のようにしていた。

「ええ、おのれまで弱い奴じゃ。」と、秀吉はその報告を聴いてますます憤った。「よし、この上は天主閣に火をかけて焼き払え。さるにてもその小坂部というは何者であろうな。」

そばに控えている家来どもの中には、小坂部の名を知っている者はなかった。浅野弥兵衛は子細らしく首をかしげて、切支丹宗門の邪教徒ではないかと言った。

「むむ。切支丹のやからかも知れぬ。」と、秀吉もうなずいた。「かれらは邪法を行なうとか聞いていれば、あるいはその徒かも知れぬのう。」

彼は口の中で切支丹の名をくり返していた。そうして、天主閣を焼くことはひとまず沙汰止みになった。その後、怪しい女は彼の前に姿をあらわさなかったが、城中の侍や人夫の中には、時々にそれらしい女のさまよう姿を見た者もあると伝えられていた。しかも中国征伐の軍務が忙しいので、妖女の噂もだんだんに忘れられて、その翌月に秀吉は鳥取にむけて出陣した。

織田信長が本能寺で明智光秀に攻めほろぼされた時に、秀吉は備中高松から引っ返して来て、まずこの姫山の城で軍議を開いて、亡君の弔いいくさのためにすぐに都へ討ってのぼった。彼は山崎の一戦に明智を討ち破り、さらに北国の柴田をほろぼして、遂に日本国の覇者となった。そのあいだも姫山の天主閣はむかしのままで、一種の謎のように立っていた。秀吉がこの天主閣を焼き払わなかったのは、彼も切支丹宗門を信じていた為であるとも伝えられているが、それは確かに判らない。姫山が姫路と呼び変えられた後、それは池田家の居城となった。天主閣の頂上に薄い火の光りが見える時には、なにか禍いのある兆しるしとして城中の者から恐れられていた。

妖女に呪われた秀吉は、その子の秀頼の代にほろびた。福嶋市松は芸州広嶋の城主と出世したが、これも一代で家は断えた。

この物語のはじまる頃から数えるとおよそ三百年、ほとんど絶え間なしに打ちつづいた日本国じゅうの争乱も、元和元年の大坂落城を最後としてひとまず静謐に帰したが、寛永十四年の冬から十五年の春にかけて、九州ではかの嶋原一揆の騒動が起こった。それもようやく鎮まると、あくる寛永十六年に姫路の城主本多政朝は因州鳥取に移されて、松平忠明が代って姫路に入城することになった。忠明がそのおん礼として江戸に登城すると、将軍家光はそっと言い聞かせた。

「姫路の城には天主閣があるそうじゃが、それは世の守り神と存じて必ず疎略にいたすな。世の禍いはその神の呪詛のろいとも思わるる節がある。心して祀り仕えよ。」

忠明はかしこまって退出した。彼は姫路の城に入ると、天主閣の周囲には注連しめを張らせた。閣の入口には毎日もろもろの供物をささげさせて、月に一度ずつは城主自身が必ず参拝を怠らなかった。

ここの城主はその後も不思議に幾たびか変わったが、それからそれへと言い継いで、決して天主閣の神を疎略にはしなかった。こうして、徳川時代二百六十余年の太平が続いたと伝えられている。

(「婦人公論」大正九年十月号より連載)

底本 / Source edition

底本:「伝奇ノ匣2 岡本綺堂妖術伝奇集」学研M文庫、学習研究社
2002(平成14)年3月29日初版発行
初出:「婦人公論」
1920(大正9)年10月号~
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年12月4日作成
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書誌 / Bibliography
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岡本 綺堂「小坂部姫」(新字新仮名)、底本『伝奇ノ匣2 岡本綺堂妖術伝奇集』学研M文庫、学習研究社、2002年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 048035_000082, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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