## 上

「あの、お菊。ちょいとここへ来ておくれ。」

今年十八で、眉の可愛い、眼の細い下女のお菊は、<ruby><rb>白子</rb><rt>しろこ</rt></ruby>屋の奥へ呼ばれた。<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の庄三郎は<ruby><rb>不在</rb><rt>るす</rt></ruby>で、そこには女房のお常と下女のお久とが坐っていた。お久はお菊よりも<ruby><rb>七歳</rb><rt>ななつ</rt></ruby>の年上で、この店に十年も<ruby><rb>長年</rb><rt>ちょうねん</rt></ruby>している<ruby><rb>小賢</rb><rt>こざか</rt></ruby>しげな女であった。

どんな相談をかけられたか知らないが、<ruby><rb>半晌</rb><rt>はんとき</rt></ruby>ほどの<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>にここを出て来たお菊の顔色は水のようになっていた。お菊は武州越ヶ谷の在から去年の春ここへ奉公に来て、今年の二月の出代りにも長年して、女房のお常にも娘のお熊にも可愛がられていた。時々に芝居やお開帳のお供にも連れて行かれていた。

お菊は一旦自分の部屋へ退ったが、何だか落付いていられないので、又<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うろうろ</span>と<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ち上って台所の方へ出た。白子屋は日本橋新材木町の河岸に向った角店で、材木置場には男達の笑い声が高く聞えた。お菊はそれを聞くとも無しに、水口にある下駄を突っかけて、台所から更に材木置場の方へぬけ出して行った。そこには五六人の男が粗削りの材木に腰をかけて何か面白そうに<ruby><rb>饒舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>っていた。その<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に<ruby><rb>飯炊</rb><rt>めしたき</rt></ruby>の長助がむずかしい顔をして、黙って突っ立っていた。

「お菊どん。<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>へ……。お<ruby><rb>使</rb><rt>つかい</rt></ruby>かい。」と、若い男の<ruby><rb>一人</rb><rt>ひとり</rt></ruby>が何か<ruby><rb>戯</rb><rt>からか</rt></ruby>いたそうな顔をして声をかけた。

「いいえ。」

<ruby><rb>卒気</rb><rt>そっけ</rt></ruby>ない返事を投げ返したままで、お菊は又そこを逃げるように通りぬけて、材木置場の入口へ出た。享保十二年九月三日の夕方で、浅黄がやがて薄白く暮れかかる西の空に紅い旗雲が一つ流れて、気の早い三日月が何時の間にか白い小舟の影を浮べていた。お菊はその空を<ruby><rb>少時</rb><rt>しばらく</rt></ruby><ruby><rb>瞰</rb><rt>み</rt></ruby>上げていると、水を吹いて来る秋風が<ruby><rb>冷</rb><rt>ひや</rt></ruby>々と身にしみて来た。和国橋の袂に一本<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しょんぼり</span>と立っている柳が顫えるように弱く靡いて、秋の寒さはその痩せ衰えた影から湧き出すように思われた。お菊は自分の身体を抱くように両袖を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しっかり</span>掻き合せた。

「<ruby><rb>寧</rb><rt>いっ</rt></ruby>そもう家へ逃げて帰ろうかしら、それとも長助どんに相談しようかしら。」

お菊は思い余った胸を抱えて、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>までも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うっかり</span>と立っていた。<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>は<ruby><rb>唯</rb><rt>た</rt></ruby>った今、お<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんのお常と朋輩のお久とから世に怖しいことを自分の耳へ吹き込まれたのであった。それは婿の又四郎に無理心中を仕掛けて呉れと云う相談で、<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>も一時は<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>して返事に困った。

白子屋の主人庄三郎は極めて人の<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い、<ruby><rb>何方</rb><rt>どっち</rt></ruby>かと云えば薄ぼんやりした<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>の人物で、家内のことは女房のお常が<ruby><rb>総</rb><rt>すべ</rt></ruby>て切って廻していた。商売のことは手代の忠七が総て取仕切って引受けていた。お常は今年四十九の古女房であったが、若い時からの<ruby><rb>華美好</rb><rt>はでずき</rt></ruby>で、その時代の<ruby><rb>商人</rb><rt>あきんど</rt></ruby>の女房には似合わしからない贅沢三昧に白子屋の身代を殆ど傾け尽して了った。荷主には借金が嵩んで、どこの山からも荷を送って来なくなった。このままでいれば店を閉めるより他はないので、お常は一人娘のお熊が優れて美しいのを幸いに、持参金附の婿を探して身代の<ruby><rb>破綻</rb><rt>ほころび</rt></ruby>を縫おうとした。数の多い候補者の中でお常の<ruby><rb>眼識</rb><rt>めがね</rt></ruby>に叶った婿は、大伝馬町の地主弥太郎が手代又四郎という男で、彼は五百両という金の力で江戸中の評判娘の夫になろうと申込んで来た。

お常は承知した。庄三郎は女房の御意次第で別に異存はなかった。しかし本人のお熊は納得しなかった。お熊は下女のお久の<ruby><rb>取持</rb><rt>とりもち</rt></ruby>で手代の忠七と<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>うから<ruby><rb>起誓</rb><rt>きしょう</rt></ruby>までも取交している仲であった。今更ほかの男を持っては忠七に済まないと<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>は泣いて拒んだが、今のお常に取っては娘よりも恋よりも五百両の金が大切であった。<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>は母の威光で娘を口説き伏せた。<ruby><rb>主</rb><rt>しゅう</rt></ruby>の威光で手代を<ruby><rb>圧</rb><rt>おさ</rt></ruby>え付けた。二人は泣いて諦めるより他はなかった。縁談は滑るように進んで、婚礼の日は<ruby><rb>漸次</rb><rt>しだい</rt></ruby>に近づいた。三十四の又四郎と十八のお熊とが表向に夫婦の披露をしたのは、今から五年前の享保七年の冬であった。五百両の金が入ったので、義理の悪い借金は大抵片附いた。白子屋の店も<ruby><rb>蘇生</rb><rt>よみが</rt></ruby>えったように景気を盛返した。又四郎は律義一方の男で商売にも精を出した。

併しお常の華美や贅沢は矢はり止まなかった。お熊と忠七との縁も<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>に切れてはいなかった。こうした家庭がいつまでも円く治ってゆく筈はなかった。もともとが金を<ruby><rb>目的</rb><rt>めあて</rt></ruby>に貰った婿であるから、月日の経つに従ってお常は又四郎を邪魔にし出した。お熊は勿論彼を嫌っていた。忠七も蔭に廻って色々の智慧を吹き込んだ。三人が暗い所に時々寄集って、何とかして又四郎を追い出したいと相談を凝したが、律義一方の婿の上から何かの落度を見付け出すということは頗る困難であった。理屈無しに彼を離婚するには忌が応でも持参金の五百両を附けて戻さなければならなかった。今の白子屋にその金のあろう筈はなかった。

思案に行き詰まったお常は、或粉薬を飯にまぜて又四郎を鼠のように殺そうとしたが、飯炊の長助に妨げられて成功しなかった。その以来又四郎は余ほど警戒しているらしく見えるので、お常も迂闊に手を出すことが<ruby><rb>能</rb><rt>でき</rt></ruby>なくなった。忠七は<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>になって放蕩を始めた。お熊は嫉妬やら愚痴やらで毎日泣いた。お常もいよいよ<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れに焦れた末に、浅い女の胸の底からこんな苦しい智慧を絞り出した。

「お菊に心中を仕掛けさせ、それを<ruby><rb>科</rb><rt>とが</rt></ruby>に又四郎を追い出そう。」

その相談を第一に受けたのは、お気に入りのお久であった。<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>はすぐに同意した。

「そうですね。お菊どんならば色は白し、眼鼻立もまんざらで無し、あれならば若旦那の相手だと云っても世間で承知しましょう。」

所謂まんざらで無い<ruby><rb>容貌</rb><rt>きりょう</rt></ruby>の持主に生れて、下女には<ruby><rb>惜</rb><rt>おし</rt></ruby>いと皆なから眼をつけられていたお菊は不運であった。<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>はお<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんの前に呼び付けられて、お久の口を通しておそろしい役目を云い付けられた。若旦那の<ruby><rb>熟</rb><rt>よく</rt></ruby>寝ているところへ忍んで行って、剃刀でその<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>へ少しばかりの傷をつけてくれ。決して殺すには及ばない。唯ほんの<ruby><rb>微傷</rb><rt>かすりきず</rt></ruby>でも付けてくれれば<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>い。そうして、お前も喉を突く真似をしろ。そこへ誰かが飛び込んで取<ruby><rb>鎮</rb><rt>しづ</rt></ruby>めるから案じることはない。何故そんなことをしたかと調べられたら、お前は何にも云わずに泣いていれば<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>い。唯それだけのことだとお久は云った。

「わたくしが若旦那様に傷を付ければ、どうなるのでございます。」と、年の若いお菊は顫えながら訊いた。

「<ruby><rb>約</rb><rt>つま</rt></ruby>り若旦那がお前と密通していて、お前が心中を仕掛けたと云うことになる。そうすれば、若旦那も離縁になる。それがお店の為でもあり、お嬢さんの為でもある。勿論、皆なが承知のことだから、決してお前に<ruby><rb>科</rb><rt>とが</rt></ruby>も難儀もかけまい。それを首尾よく仕負うせれば、お前もお暇になる代りに、十両のお金と別にお嬢さんの黄八丈のお小袖を下さる。お前それでも忌か。」と、お久は黄八丈という<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>に少し力を入れて<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>で云い聞かせた。

この春お熊が母と一所に回向院のお開帳へ参詣した時に、お菊も供をして行った。お熊の黄八丈の小袖が群集の中でも眼についた。店へ帰ってからお菊は嘆息を吐いてお久に囁いた。

「<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>も一生に一度でも<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いから、あんなお小袖を着て見たい。」

お久はそれを<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く記憶していて、今度の褒美に黄八丈の小袖を懸けたのであった。十両の金よりも、黄八丈がお菊の魂を唆かした。しかしそんな大それたことを引受けて<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いか悪いか、<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>にも容易に分別が付かなかった。

「又四郎は心の<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>くない者だから離縁したいと思っているが、そこには何かの<ruby><rb>科</rb><rt>とが</rt></ruby>がなければならない。お前が唯少しの<ruby><rb>微傷</rb><rt>かすりきず</rt></ruby>を負わせてくれれば<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>い。何の相手を殺せばこそ主殺しにもなろうが、ほんの微傷を付けた位のことは別に仔細もない。<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>達が呑込んでいて何事も内分に済ませる。あんな者に一生添わせて置いては、娘が如何にも可哀想だから、お前もそこを察して……この通り、主人が手をついて頼みます。」と、お常は鼻を詰らせて口説いた。

あんな者に添わせて置いては娘が可哀想だ……これもお菊の心を動かした。若旦那の又四郎は主人として別に不足もない。入婿という遠慮もあろうが、<ruby><rb>眼下</rb><rt>めした</rt></ruby>の者に対しても物柔かで、ついぞ主人風を吹かしたことも無い。<ruby><rb>暴</rb><rt>あら</rt></ruby>い声で叱ったこともない。しかしそれを若いお内儀さんのお婿として看る時にはお菊の眼も又違って、<ruby><rb>平生</rb><rt>ふだん</rt></ruby>から若いお内儀さんの不運をお気の毒だと思わないでもなかった。第一に若旦那は今年三十九で若いお内儀さんは二十三だという。その時代に於ては十六も年の違う夫婦は余り多くは見当らなかった。年の若いお菊にはそれが余りに不釣合のように思われた。まだその上に若旦那は色の黒い、骨の太い、江戸の人とは受取れないような、頑丈な<ruby><rb>不粋</rb><rt>ぶいき</rt></ruby>な男振で、まるで若いお内儀さんとは比べ物にならなかった。何のこともない、五月人形の鐘馗様とお雛様とを組み合せたようなもので、余りに若いお内儀さんが痛々しかった。殊に新参ながらも入婿の事情を薄々知っているお菊は、五百両の金の型に身を売ったような若いお内儀さんの不運には<ruby><rb>愈</rb><rt>いよい</rt></ruby>よ同情していた。

他人の眼から見てすらもそうである。まして現在の<ruby><rb>阿母</rb><rt>おふくろ</rt></ruby>様の身になったら、その不釣合も愈よ眼に立つことであろう。若いお内儀さんも可哀そうに思われることであろう。人の善い若旦那を指して、心の好くない者というのは、<ruby><rb>些</rb><rt>ちっ</rt></ruby>と受取り<ruby><rb>難</rb><rt>にく</rt></ruby>い話ではあるが、<ruby><rb>何方</rb><rt>どっち</rt></ruby>にしても阿母様の心では若旦那を追い出したいに相違ない。それは無理もないことだと<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>は思った。しかし自分がそんな空怖しい役目を引受けて、何の<ruby><rb>恨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>もない若旦那に無実の云い懸けをするなどとは、飛んでも無いことだと<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>は又思った。

「切角ではございますが、これは他の事とも違います。またその相手も他のお方とは違います。仮にも御主人様と名の付く方に傷を付けるなどとは、考えても怖しいことでございます。どうぞこればかりは……。」

お菊は一生懸命になって断ったが、お常は<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うしても許さなかった。お久も<ruby><rb>肯</rb><rt>き</rt></ruby>かなかった。このままにして置けば、お熊さんは前の川へ身を投げるに決っている。お前は若旦那に傷を付けるのを恐れながら、若いお内儀さんを見殺しにするのは何とも思わないのか。若旦那は婿である、若いお内儀さんは家附の娘である。お前はここの店の家来でありながら家附の娘を殺しても、入婿の若旦那に忠義を立てたいのか。それでは奉公の筋道が違いはしないかと、その時代の人には<ruby><rb>道理</rb><rt>もっとも</rt></ruby>らしく聞えたような理屈責にして、お久は<ruby><rb>頻</rb><rt>しきり</rt></ruby>にお菊の決心を促した。それでも<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>は素直にその道理の前に屈伏することを躊躇した。まあ兎も角も明日まで待ってくれと、お菊は<ruby><rb>一寸</rb><rt>いっすん</rt></ruby>逃れの返事をして、ようよう<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>から逃げ出して来たのであった。

「どうしたら<ruby><rb>可</rb><rt>よ</rt></ruby>いだろう」

<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>はだんだんに暗くなってゆく水の色を眺めながら、夢見る人のように考えつめていた。<ruby><rb>退引</rb><rt>のっぴき</rt></ruby>ならない難儀を逃れるのには、<ruby><rb>寧</rb><rt>いっ</rt></ruby>そここを逃げて帰るに限るとも思った。しかし年季中に奉公先から<ruby><rb>無暗</rb><rt>むやみ</rt></ruby>に逃げて帰ったら、物堅い両親が何と云うであろう。たといこの訳を打明けても恐らく<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>とは思ってくれまい。自分の我儘から奉公を嫌って、そんな出鱈目の口実を作って逃げ出して来たものと思われて、厳しく叱られるに相違ない。そうして、正直一図の<ruby><rb>阿父</rb><rt>おとっ</rt></ruby>さんは<ruby><rb>忌</rb><rt>いや</rt></ruby>がる<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>を無理無体に引摺って、再びこの店へ連れて来るに相違ない。そうなったら、お内儀さんや若いお内儀さんから<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>んなに憎まれるであろう。お久どんから<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>んなに<ruby><rb>窘</rb><rt>いじ</rt></ruby>められるであろう。それを思うと、お菊は帰るにも帰られなかった。

長助どんに相談したら<ruby><rb>必然</rb><rt>きっと</rt></ruby>若旦那に訴えるに相違ない。そうなると、<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>は生証人に曳き出される。お内儀さんやお久どんはそんなことを頼んだ<ruby><rb>記憶</rb><rt>おぼえ</rt></ruby>はないと云うに決っている。<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>一人が罪をかぶせられて、根も葉もない讒言を構えたと云うことになる。それもあんまり<ruby><rb>口惜</rb><rt>くやし</rt></ruby>いと<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>は思った。

それと同時に<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>は黄八丈の小袖も欲かった。若いお内儀さんも気の毒であった。よもやと思うものの、若しお熊さんがこの川へ飛び込んだら<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うなるであろう。<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>はまた<ruby><rb>悚然</rb><rt>ぞっ</rt></ruby>とした。

「この川で死ねるかしら。」

お菊は川岸へ出て怖そうに水の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を覗いて見た。空はまだ暮れ切れなかったが、水の光は<ruby><rb>漸次</rb><rt>しだい</rt></ruby>に褪めて、薄ら寒い夕靄の色が川下の方から遡るように拡がって来た。水は音もなく静かに流れていた。

番太郎が七つ半（午後五時）の<ruby><rb>析</rb><rt>き</rt></ruby>を打って来たのに驚かされてお菊は慌てて内へ入った。

## 下

お菊はその晩寝付かれなかった。自分を睨んでいる若旦那の怖い顔や、泣いて自分に頼むような若いお内儀さんの痛々しい顔や、むずかしそうな在所の<ruby><rb>両親</rb><rt>ふたおや</rt></ruby>の顔や、十両の小判や、黄八丈の小袖や、それが<ruby><rb>走馬燈</rb><rt>まわりどうろう</rt></ruby>のように<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>の頭の中を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くるくる</span>と<ruby><rb>廻</rb><rt>めぐ</rt></ruby>った。隣に床を延べているお久はと覗いて見ると<ruby><rb>平日</rb><rt>いつも</rt></ruby>は寝付が悪いと口癖のように云っている<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>が、今夜に限って枕に顔を押付けるかと思うと、何にも云わずに<ruby><rb>衾</rb><rt>よぎ</rt></ruby>を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すっぽり</span>と引被ってしまった。

寝付が悪いというお久が今夜は<ruby><rb>熟</rb><rt>よく</rt></ruby><ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>って、寝坊だと笑われている自分が今夜は<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うして睡られそうもないので、お菊は幾たびか<ruby><rb>輾転</rb><rt>ねがえり</rt></ruby>した。<ruby><rb>軈</rb><rt>やが</rt></ruby>て<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うとうと</span>と<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>ったかと思うと、<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>は何だか得体の知れない真黒な大きい怪物に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐいぐい</span>と胸を<ruby><rb>圧</rb><rt>お</rt></ruby>さえ付けられて、悶いて苦しんでようように眼を醒ますと、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しっかり</span><ruby><rb>獅噛付</rb><rt>しがみつ</rt></ruby>いていた<ruby><rb>衾</rb><rt>よぎ</rt></ruby>の襟は冷い汗に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐっしょり</span>と<ruby><rb>湿</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れていた。

「ああ気味が悪い。」

<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>は<ruby><rb>寝衣</rb><rt>ねまき</rt></ruby>の袂で首筋のあたりを拭きながら、腹這いになって<ruby><rb>枕辺</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>の<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどう</rt></ruby>の<ruby><rb>微</rb><rt>かすか</rt></ruby>な<ruby><rb>灯</rb><rt>ほ</rt></ruby>かげを仰いだ時に、廊下を踏む足音が低くひびいた。

「おや、泥棒か知ら。」とお菊は今夜に限って急に<ruby><rb>怖気</rb><rt>こわげ</rt></ruby>立った。<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>は慌てて俯伏して再び<ruby><rb>衾</rb><rt>よぎ</rt></ruby>を被っていると、枕もとの襖が軋みながらに明いた。長い裾を畳に曳いているらしい衣の音が軽く聞えた。怖いもの見たさに、お菊は眼を少しく明けて<ruby><rb>窃</rb><rt>そっ</rt></ruby>と窺うと、うす暗い<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどう</rt></ruby>の前に若い女の立姿が幻のように浮き出していた。もしや幽霊かとお菊は又<ruby><rb>悸</rb><rt>おび</rt></ruby>えて首を<ruby><rb>悚</rb><rt>すく</rt></ruby>めると、女は<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>の枕もとへ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すう</span>と這い寄って来て<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>で呼んだ。

「お菊。寝ているのかえ。」

それが若いお内儀さんの優しい声であることを知った時に、お菊は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほっ</span>として顔をあげると、お熊は抑えるように又囁いた。

「<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いから寝ておいでよ。」

主人の前で寝そべっている訳には行かないので、お菊はすぐに<ruby><rb>衾</rb><rt>よぎ</rt></ruby>を<ruby><rb>跳退</rb><rt>はねの</rt></ruby>けて蒲団の上に<ruby><rb>跪坐</rb><rt>かしこま</rt></ruby>ると、お熊はその蒲団の端へ乗りかかるように両膝を突き寄せて<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>の顔を覗き込んだ。

「今日の夕方、<ruby><rb>阿母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さんからお前に何か頼んだことがあるだろう。」

若いお内儀さんが<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>に<ruby><rb>閨</rb><rt>ねや</rt></ruby>をぬけ出して、下女部屋へ忍んで来た仔細は<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>に判った。判ると同時に、お菊は差当りの返事に困った。さりとて嘘を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>く訳にも行かないので、<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>は恐れるように<ruby><rb>窃</rb><rt>そっ</rt></ruby>と答えた。

「はい。」

「まことに無理なことだけれどもね。お前、後生だから承知しておくれでないか。定めて怖ろしい女だと思うかもしれないが、<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>の身にもなっておくれ。お前も大抵知っているだろうが忠七と<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>との仲を引き分けて、気に染まない婿を無理に取らせたのは、皆阿母さんが悪い。ここの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へお嫁に来てから足掛け三十年の間に、仕度三昧の道楽や贅沢をして、阿母さんは白子屋の身上を皆な亡くして了った。その身上を立直す為に、妾はとうとう人身御供にあげられて<ruby><rb>忌</rb><rt>いや</rt></ruby>な婿を取らなければならないことになった。思えば思うほど阿母さんが怨めしい、憎らしい。世間には親の病気を癒す為に身を売る娘もあるそうだが、<ruby><rb>寧</rb><rt>いっ</rt></ruby>そその方が<ruby><rb>優</rb><rt>まし</rt></ruby>であったろう。」

お熊は声を忍ばせて泣いた。<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>の痩せた肩が<ruby><rb>微</rb><rt>かすか</rt></ruby>におののく度に、行燈の弱い灯も顫えるように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちらちら</span>と揺れて、眉の痕のまだ青い女房の横顔を仄白く照していた。今の水々しい美しさを見るに付けても、その娘盛りが思い遣られて、お菊は若いお内儀さんの悲しい過去と現在とを悼ましく眺めた。

「ねえ、お菊。くどいようだけれども、承知しておくれでないか。阿母さんも<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>、娘が可哀そうになったと見えて、この頃では<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うかして又四郎を離縁したいと色々に心配してくれているようだけれど、何しろ五百両という金の工面は付かず、こんな辛い思いをして何日までも生きている位なら、<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>はもう<ruby><rb>寧</rb><rt>いっ</rt></ruby>そのこと……。」

遣瀬ないように身を悶えて、お熊は<ruby><rb>嗚咽</rb><rt>すすりなき</rt></ruby>の顔をお菊の膝の上に押付けると、夜寒に近い此頃の夜にも奉公人の<ruby><rb>寝衣</rb><rt>ねまき</rt></ruby>はまだ薄いので、若い女房の熱い涙はその寝衣を透して若い下女の柔かい肉に滲んだ。お熊の魂はその涙を伝わってお菊の胸に流れ込んだらしく、<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>は物に憑かれたように、身を顫わせて、若いお内儀さんの手を握った。

「判りました。よろしゅうございます。」

「え。それでは聞いてくれるの。」

「はい。」と、お菊は誓うように答えた。

お熊は何にも云わないでお菊を拝んだ。その途端に、隣に寝ていたお久が不意に<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>へ向いて<ruby><rb>輾転</rb><rt>ねがえり</rt></ruby>を打った。お菊は<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>して見かえると、それを相図のようにお熊は<ruby><rb>窃</rb><rt>そっ</rt></ruby>と起った。どこかで<ruby><rb>既</rb><rt>も</rt></ruby>う一番鶏の歌う声が聞えた。

それから八日目の九月十一日の夜半に、お菊は厳重に縛り上げられて白子屋の店から牽き出された。名主や五人組も附添って、町奉行所の方へ急いで行った。夜露がもう薄い露になっていて、地に落ちる提灯の影が白かった。

北の町奉行は諏訪美濃守であった。お菊はその夜主人又四郎の寝間へ忍び込んで、剃刀で彼が<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を少しばかり傷つけたと云うので<ruby><rb>主</rb><rt>しゅ</rt></ruby>殺しの<ruby><rb>科人</rb><rt>とがにん</rt></ruby>として厳重の吟味を受けた。お菊は心中であると申し立てた。かねて主人と情を通じていたが所詮一所に添い遂げることは<ruby><rb>能</rb><rt>でき</rt></ruby>ないので、男を殺して自分も死のうとしたのであると云った、相手の又四郎も翌日呼び出されたが、彼はお菊の申し立てを一切否認して、白子屋は悪人どもの巣であると云った。入婿の自分は今まで何事にも虫を殺して堪忍していたが、第一に女房のお熊は手代と密通しているらしいと云った。母のお常にも不行跡が多いと云った。今度の一条もお菊の一存でなく、ほかに<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>を唆した者があるに相違ないと云い切った。

奉行所でも手を廻して吟味すると、どの方面から齎して来る報告もすべて又四郎に有利なものであった。

「上を欺くな。正直に白状しろ。」

この訊問に対して、正直なお菊は脆くも恐れ入って了った。奉行の美濃守は眉を顰めた。これは容易ならざる大事件である。経験の浅い自分には迂闊に裁判を下し難いと思ったので、彼はその事情を打ち明けてこの一件を南の町奉行所へ移した。南の奉行は大岡越前守<ruby><rb>忠相</rb><rt>ただすけ</rt></ruby>で、享保二年以来、十年以上もここに勤続して名奉行の<ruby><rb>名誉</rb><rt>ほまれ</rt></ruby>を頂いている人物であった。

「おそろしいことじゃ。これには死罪が大勢出来る。」と<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>の越前守も一件書類に眼を通して、悲しそうに嘆息をついた。

同じ月の十五日に白子屋の主人庄三郎、女房お常、養子又四郎、女房お熊、手代忠七、清兵衛、下女お久、下男彦八、長助、権介、伊介の十一人は奉行所へ呼び出されて、名奉行の吟味を受けた。お久が先ず白状した。お常とお熊と忠七もつづいて奉行の問に落ちた。お菊は勿論お常とお熊と忠七とお久の四人もすぐに入牢申し付けられた。この時代の法によると、この罪人の殆ど全部が死罪に処せらるべき運命を荷っていた。

入牢中にお熊も泣いた。お菊は声を立てて毎日泣き叫んで、牢屋役人を困らせた。秋も段々に末になって伝馬町の牢屋でも板間の下で<ruby><rb>蛼</rb><rt>こうろぎ</rt></ruby>が鳴いた。家根の上を雁が鳴いて通った暗い冬空が近づくと共に罪人の悲しい運命も終りに近づいて来たが、何分にも死罪の多い裁判であるので、越前守も吟味に吟味を重ねて、その中から一人でも多くを救い出そうと努めたが、お常のほかには<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うしても仕置を軽くする理由を見出すことが<ruby><rb>能</rb><rt>でき</rt></ruby>なかった。

「もともとお内儀さんが悪いのでございます」と、お菊は泣いて訴えた。しかしお常は<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>の主人であった。被害者の又四郎に取っても母であった。階級制度の厳重なこの時代にあっては、実際お常がこの事件の張本人であるとしても、<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>は第一の寛典に浴すべき利益の地位に立っていた。

死罪は老中に伺いを立てなければならない、老中から更に将軍の裁可を受けなければならない。こうして時日を遷延している中に、何とかして死罪から一等を減ずる方法を見出させようと云うのが、所謂「上のお慈悲」であった。しかし今度の罪人はこのお慈悲を受けることが<ruby><rb>能</rb><rt>でき</rt></ruby>なかった。享保十二年の冬は容赦なく暮れて云った。十二月七日に関係者一同を白洲へ呼び出して、越前守は眉の間に深い皺を刻みながら厳重の宣告を下した。

主人の庄三郎は直接この事件に何の関係もなかったが、一家の主人としてこれほどの事件について何にも知らないと云うのが已に不都合であると認められて、家事不取締の<ruby><rb>廉</rb><rt>かど</rt></ruby>を以て江戸追放を申し渡された。彼はその時に五十五歳であった。お常は前にも云う通り、母であり主人であるが為に、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>だけは繋がれて流罪になった。お熊と忠七とは密通の廉を以て、町中引廻しの上に浅草（今の小塚原）で獄門に<ruby><rb>梟</rb><rt>か</rt></ruby>けられることになった。忠七は三十歳であった。お久も町中引廻しの上に死罪を申し渡された。最後にお菊は<ruby><rb>左</rb><rt>さ</rt></ruby>の通りの宣告を受けた。

庄三郎下女　きく

此者儀主人庄三郎妻つね何程申付候うとも、主人のことに候えば<ruby><rb>致方</rb><rt>いたしかた</rt></ruby>も<ruby><rb>可有之</rb><rt>これあるべく</rt></ruby>の処、又四郎に疵付候段不届至極に付、死罪に申付。但し引廻しに及ばず候。

死罪四人の中ではお熊が一番落付いていて、少しも悪びれた姿を見せなかった。忠七とお久は今更のように蒼くなって顫えていた。お菊は白洲の砂利の上に身を投げ伏して泣いた。それを見た時に、お熊の眼からは真白な涙が糸を引いて流れた。罪人が引立てられて白洲を<ruby><rb>退</rb><rt>さが</rt></ruby>る時に、お菊は容易に動かなかった。

「お慈悲でございます、お慈悲でございます。」と、<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>は砂利の上を転げながら叫んだ。自分はこれまでに一度も悪いことをした覚えはない。今度のことも<ruby><rb>據</rb><rt>よんどこ</rt></ruby>ろなく頼まれたのであると<ruby><rb>切</rb><rt>しき</rt></ruby>りに訴えたが、<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>の涙は名奉行の心を動かすことは<ruby><rb>能</rb><rt>でき</rt></ruby>なかった。しかし名奉行にも涙が無いのではなかった。四人の中で三人は引廻しを申し渡されたにも拘らず、お菊だけは引廻しの恥を免れたのである。仮にも主人に<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>を向けた<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>に対しては、この以上に寛大の仕置を加えようが無いのであった。又四郎その他の者はすべて御構い無しと申渡された。

牢にいる間に、お熊は<ruby><rb>窃</rb><rt>そっ</rt></ruby>とお菊に約束して、もしお前が命を助かったらば、<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>の形見として黄八丈の小袖を遣ろうと云った。しかしお菊も助からなかった。いよいよ申渡しを受けて牢屋へ帰った後、お菊もようよう覚悟したらしく、隙を見てお熊に囁いた。

「お内儀さん。お前がお仕置に出る時には、あの黄八丈を召して下さい。<ruby><rb>寧</rb><rt>いっ</rt></ruby>そ思いを残すことが無くって<ruby><rb>可</rb><rt>よ</rt></ruby>うございます。」

お熊はさびしく微笑んだ。

引廻しの三人はそれから二日経って仕置に行われた。お菊は更に三日の後に、牢内で斬られる筈であった。たとい三日でも仕置を延ばして呉れたのは、これも上の慈悲であった。

お熊が引廻しの<ruby><rb>裸馬</rb><rt>はだかうま</rt></ruby>に乗せられた時には、自分の家から差入れて貰った白無垢の上に黄八丈の小袖をかさねて、頸には水晶の珠数をかけていた。その朝は霜が一面に白く降っていた。これから江戸中の人の眼に晒されようとするお熊が黄八丈の姿を、お菊は牢格子の間から夢のように見送った。

（『婦人公論』<span data-tei-rend="text-combine-upright" style="text-combine-upright: all">17</span>年６月号）