Soranoha

釘抜藤吉捕物覚書

くぎぬきとうきちとりものおぼえがき

林 不忘

一

早いのが飛鳥山あすかやま。

花の噂に、横町の銭湯が賑わって、八百八町の人の心が一つの陽炎かげろうと立ち昇る、安政三年の春未だ寒いある雨上りの、明けの五つというから辰の刻であった。

唐桟とうざんの素袷すあわせに高足駄を突っ掛けた勘弁勘次は、山谷の伯父の家へ一泊しての帰るさ、朝帰りのお店者たなものの群の後になり先になり、馬道から竜泉寺の通りへ切れようとして捏こね返すような泥濘を裏路伝いに急いでいた。

伊勢源の質屋の角を曲って杵屋助三郎と懸行燈に水茎みずぐきの跡細々と油の燃え尽した師匠家の前まで来ると、ただごとならぬ人だかりが岡っ引勘次の眼を惹いた。

「何だ、喧嘩か、勘弁ならねえ。」

綽名あだなにまで取った、「勘弁ならねえ」を連発しながら、勘弁勘次は職掌柄人波を分けて細目に開けた格子戸の前に立った。

江戸名物の尾のない馬が、勝手なことを言い合っているその言葉の端ばしにも、容易ならぬ事件の突発したことが窺われた。

「おや、お前さんは八丁堀の勘さんじゃねえか。」

こう言ってその時奥から出て来たのは、少し前まで合点長屋の藤吉の部屋で同じ釜の飯を食っていた影法師の三吉であった。彼は藤吉の口利きで今この界隈の朱総しゅぶさを預る相当の顔役になっていたものの、部屋にいたころから勘次とはあまり仲の好い間柄ではなかった。まして繩張りがこう遠く離れてからというものは、かけ違ってばかりいて二人が顔を会わす機会もなかったのであった。

「何だ、喧嘩か、勘弁ならねえ。」

勘次は内懐から両手を出そうともせず、同じことを繰り返していた。

「相変らず威勢がいいのう。」

冷笑ひやかすような調子で笑いながら、

「なにさ自害があったのさ。」

と三吉は事もなげにつけたした。

「自害か、面白くもねえ。して――髱たぼか、野郎か?」

それでもいくぶん好奇心をそそられたと見えてこう訊き返しながら、ふと勘次は格子内の土間の灰溜りに眼をつけた。

「血だな。」

彼は独言のように言った。

「おおさ、この所で腹を突いたと見えて、俺が来た時は、もう黒くなりかけた血の池で足の踏場もねえくらいの騒ぎよ。」

はいって検分したさに勘次はむずむずしていたが、自分から頼むのは業腹ごうはらだった。その様子を見て取ったものか昔の誼よしみから三吉は、勘次を招じ入れて台所へ案内して行った。途みち畳の上に黒ずんだ斑点が上り框がまちから続いているのを勘次は見逃さなかった。

台所の板の間に柄杓の柄を握ったまま男が倒れていた。傍に鉄瓶が転がっていて、熱湯を浴びたものか、男の顔は判別がつかないほど焼け爛ただれていた。腹部の傷口から溢れ出た血が板の合せ目を伝わって裏口に脱ぎ捨てた駒下駄まで垂れていた。鉄の錆のような臭気においに狭い家のなかは咽むせ返るようだった。綿結城めんゆうきに胡麻柄唐桟の半纏はんてんを羽織って白木の三尺を下目に結んでいる着付けが、どう見ても男は吉原なかの地廻りか、とにかく堅気の者ではなかった。右の腹を左手で押えたまま、右の手は流しもとの水甕へ伸びていた。水を呑みに台所まで這って来たものらしかった。手近いところに血だらけの出刃庖丁が落ちていた。

「此家ここの助さんの兄貴で栄太という遊人でさあ。お神輿みこし栄太ってましてね。質たちのよくねえ小博奕打ちでしたよ。いずれ約束だろうが、まあ、なんて死にざまをしたもんだ。」

傍に立っていた差配の伊勢源が感慨無量といった調子で説明の言葉を挾んだ。この家の主人あるじは杵屋助三郎という長唄の師匠だが、一昨日の暮れ六つに近所へ留守を頼んだまま女房のお銀と甲府在の親元へ遊びに行って不在であった。栄太の死体が納豆売りの注進によって発見されたのは、今日の引明けで、表土間の血溜りから小僧が不審を起したのであった。家は内部なかから巌畳がんじょうに戸締りがしてあった。それでまず自殺ということに三吉始め立会人一同の意見が一致したわけであるが覚悟の自害とすればなぜわざわざ通りに近い表玄関を選んだか、それに切腹用に供したと思われる刃物が現場から台所まで運ばれていることも、不思議の一つに算かぞえられた。入口で腹を突いた人間が刃物を掴んだまま裏まで這ってくるということはちょっとありそうもなかった。が、夢中で握っていたと言えばもちろんそれまでである。けれども、突いた後で気が弱ってすぐその場へ取り落す方が自然ではなかろうか、と勘次は考えた。なにしろ窓には内部から桟が下ろしてあることではあり、表にも裏にも中から心張棒が支かってあった事実から見て自殺という説には疑いを挾む余地がなかった。兄弟とはいえ好人物の助三郎とは違い、人にも爪弾つまはじきされていたという栄太の死顔を、鼻の先へやぞうを作ったまま勘次は鋭く見下ろしていた。無惨に焼けた顔は、咽喉の下まで皮が剥けていて、一眼では誰だか見当がつかなかった。お神輿栄太ということは差配の伊勢源と近所の店子たちの証言によって判然したのであった。

今朝早くいつものように此町ここを通りかかった三河島の納豆売りの子供が、呼声も眠そうに朝霧の中をこの家の前までくると格子の中から異臭が鼻を衝いた。隙間から覗いて見ると赤黒い物がどろっと玄関に流れていた。格子戸の内側にも飛ばしりがあった。たしかに血だと思った子供は、胆を潰して影法師三吉の番屋へ駈け込んだのであった。時を移さず三吉は腕利きの乾児を伴れて出張って来た。土間の血が点滴となって台所へ続き、そこの板敷に栄太が死んでいたのであった。苦しまぎれに水を呑みに流し許まで来たが、煮えくり返っていた鉄瓶の湯を被って、それが落命の直接の原因となったらしかった。勘次は俯伏しの死骸を直して傷痕きずあとを調べようとした。死体の手触りや血の色からみて、どうしても二十時とき以上は経っていると、思った。一昨日の夜中、助三郎夫婦が、甲府へ向けて発足した後に自害したものらしかった。無人むにんの留守宅を助三郎は兄の栄太に頼んだのかも知れない。が、平常ふだんから兄弟仲の余りよくなかったと言う人々のひそひそ話を勘次はそれとなく小耳に挾んだ。

「お役人の見える前に仏を動かすことは、勘さん、はばかりながら止してくんねえ。」

苦にがしそうに三吉は言い放った。と、表の方に人声がどよめいて検視役人の来たことを知らせた。それを機会しおに勘次は無言のまま帰りかけた。勇みの彼の心さえ暗くなるほど、栄太の死体は酸鼻を極めていた。

「帰るか、そうか、藤吉親分へよろしくな。」

追いかけるような三吉の声を背後に聞き流して、勘次は返事もせずにぶらりと戸外そとの泥濘ぬかるみへ降り立った。が、出がけにその辺の格子の一つに小さな新しい瑕きずがあるのを彼は素早く見て取った。

それとなく近所で何か問い合せた後、彼は八丁堀の藤吉の家を指してひたすら道を急いだ。

二

「真っ平御免ねえ。」

がらりと海老床の腰障子を開けた勘次は、そこの敷居近くに釘抜藤吉の姿を見出してわれにもなくほっと安心の吐息を洩らした。

「勘、昨夜は山谷の伯父貴のもとで寝泊りか――。」

例によって町内の若い者を相手に朝から将棋盤に向っていた藤吉は勘次の方をちらっと見たなり吐き出すようにこう言った。吉原なかで大尽遊びをして来たと景気のいい嘘言うそを吐こうと思った勘次は、これでいささか出鼻を挫かれた形で逡巡たじたじとなった。

「どうしてそんなことがお解りですい?」

端折った裾を下ろしながら彼は藤吉の傍へ腰を掛けた。一流の豪快な調子で藤吉は笑った。

「お前の足駄には赤土がついてるじゃねえか。」

と彼は言った。

「して見ると今道普請みちぶしんをしている両国筋を通って来たらしいが、あの方角はここから北に当る。北と言えばさしずめ北廓なかだが、手前と銭は敵同士、やっぱり山谷の伯父貴の家でお膳の向うで長談義に痺しびれを切らしたとしか思えねえじゃねえか、え、こう、勘。こんな具合にいろいろ見当を立てて見てよ、それを片っ端から毀して行って、おしまいの一つに留めを刺して推量を決めるってのが、お前の前だが、これはこの目明し稼業の骨こつってもんだぜ。」

そのころ八丁堀の釘抜藤吉といえば、広い江戸にも二人と肩を並べる者のない凄腕の目明しであった。さる旗本の次男坊と生れた彼は、お定きまり通り放蕩に身を持ち崩したあげくの果てが七世までの勘当となり、しばらく土地を離れて雲水の托鉢僧たくはつそうとしゃれて日本全国津々浦々を放浪していたが、やがてお膝下へ舞い戻って来て、気負いの群から頭を擡もたげて今では押しも押されもしない、十手取繩の大親分とまでなっていたのであった。脚が釘抜のように曲っているところから、釘抜藤吉という異名を取っていたが、実際彼の顔のどこかに釘抜のような正確な、執拗しつような力強さが現れていた。小柄な貧弱な体格の所有主もちぬしであったが腕にだけ不思議な金剛力があって柱の釘をぐいと引っこ抜くとは江戸中一般の取り沙汰であった。これが彼を釘抜と呼ばしめた、真正ほんとうの原因であったかもしれないが、本人の藤吉はその名をひそかに誇りにしているらしく、身内の者どもは藤吉の鳩尾みぞおちに松葉のような小さな釘抜の刺青のあることを知っていた。現今いまの言葉で言えば、非常に推理力の発達した男で、当時人心を寒からしめた、壱岐殿坂いきどのざかの三人殺しや、浅草仲店の片腕事件などを綺麗に洗って名を売り出したばかりか、そのころ江戸中に散っていた大小の目明し岡っ引の連中は、大概一度は藤吉の部屋で釜の下を吹いた覚えのある者ばかりであった。実際、彼等の社会ではそうした経験がなによりの誇りであり、また頭と腕に対する一つの保証でもあった。で、繩張りの厳格な約束にもかかわらず、彼だけはどこの問題へでも無条件で口を出すことが暗黙の裡うちに許されていた。が、自分から進んで出て行くようなことは決してなかった。その代り頼まれればいつでも一肌脱いで、寝食を忘れるのが常であった。次から次と方々から難物が持ち込まれた。それらを多くの場合推理一つで快刀乱麻の解決を与えていた。名古屋の金の鯱しゃちほこにお天道様が光らない日があっても、釘抜藤吉の睨んだ犯人ほしに外れはないという落首が立って、江戸の町々に流行はやりの唄となり無心の子守女さえお手玉の相の手に口吟くちずさむほどの人気であった。

江戸っ児の中でも気の早いいなせな渡世の寄り合っている八丁堀の合点長屋の奥の一棟が、藤吉自身の言葉を借りれば、彼の神輿の据え場であった。が、藤吉に用のある人は角の海老床へ行って「親分え?」と顔を出す方がはるかに早計はやみちであった。髪床の上り框がまちに大胡坐をかいて、鳶の若い者や老舗の隠居を相手に、日永ひなが一日将棋を囲みながら四方山よもやまの座談を交すのが藤吉の日課であった。その傍に長くなって、ときどき障つかえながら講談本を声高らかに読み上げるのが、閑の日の勘弁勘次の仕事でもあった。もう一人の下っ引き葬式とむらい彦兵衛は紙屑籠を肩に担いで八百八町を毎日風に吹かれて歩くのが持前の道楽だったのだった。

自宅うちへも寄らずにその足で海老床へ駈けつけた勘次は、案の定暢気そうな藤吉を見出してそのまま躙にじり寄ると何事か耳許へ囁いた。

「遣ったり取ったり節季の牡丹餅ぼたもちか――。」

こんなことを言いながら藤吉は他意なく棋盤を叩いていたが、勘次の話が終ると、つと振り向いて、

「手前、何か、その格子の瑕きずってのはたしかか。」

と訊き返した。勘次は大仰おおぎょうに頷いて胸板を一つ叩いて見せた。

「三吉の野郎が自害と踏んでいるなら、今さら茶々を入れる筋でもあるめえ。」

と藤吉の眼は相手の差す駒から離れなかった。勘次はあわててまた耳近く口を寄せた。

「うん。」

一言言って釘抜藤吉はすっくと立ち上った。脚が曲っているせいか、坐っている時よりいっそう小男に見えた。

「彦も昼には帰るはずだ。どれ、じゃ一つ掘り返しに出かけるとしょうか。」

床屋の店を一歩踏み出しながら彼は勘次を顧みた。

「巣へ寄って腹拵えだ――勘、どえらい道だのう。」

それから小半時後だった。二人は首筋へまで跳ねを上げて、汁粉のような泥道を竜泉寺の方へ拾っていた。すぐ後から、これだけは片時も離さない紙屑籠を担いで葬式彦兵衛が面白くもなさそうに尾ついて行った。

三

栄太の死骸は町組の詰所へ移されたが、凶事のあった杵屋の家は近所の者が非人を雇って固めてあった。顔の売れている釘抜藤吉は勘次を伴れたままずうっと奥へ通って行った。表口いりぐちの群衆に混って彦兵衛は戸外から覗いていた。

死体の倒れていた台所ではちょっと辺りを見廻しただけだった。すぐ格子戸へ引き返して、建仁けんにん寺を嗅ぐ犬のように、鼻を一つ一つの桟とすれすれに調べ始めた。真中から外部へ向って右手寄り四本目の格子の桟に、例えば木綿針ほどの細い瑕跡があって、新しく削られたものらしく白い木口が現れていた。土間の隅へ掃き溜められて灰をかけた血の中へ指を突っ込んだ藤吉は、その指先を懐紙へ押して見ながら

「うん、一昨日の子の刻だな。」

と独言のように呟くと、格子を開けて戸外へ出た。まだ立ち尽している閑暇ひまな人々は好奇の眼を見開いて道を明けて彼の行動を見守った。人馬の往来も絶えるほど一日一晩降り抜いた昨日の雨に、大分洗い流されてはいるものの、それでも、格子の中央なかの下目のところに足跡らしい泥の印されてあるのがかすかながらも認められた。藤吉は外側に立って指を開いてその寸法を計ると、今度は一尺ほど格子を離れてその地点と格子の泥跡とを眼で一直線に結びつけて、しゃがんで横から眺めていたが

「犯人ほしは――。」

と言いかけて勘次の耳を引っ張りながら、

「――小男だぜ。優型の、背丈はまず四尺と七、八寸かな。」

今さらながら呆然として勘次は藤吉の顔を凝視めていた。群集の向うに葬式彦兵衛の顔を見つけると、つかつかと歩み寄って藤吉は低声でささやいた。

「一足さきへ番屋へ行って三吉に渡りをつけておきねえ。おいらもすぐお前の跡を追っかけるからな。」

が、再び家の中へ引き返した釘抜藤吉は台所の板の間に凝然じっと棒立ちになって、天井を見上げたまま動こうとはしなかった。凍りついたように天井板の一点から彼の視線は離れなかった。そこに、雨洩りの模様に紛れて羽目板の合せ目に遺っているのはたしかに血の拇指の跡であった。

公儀役人の引き揚げた後で番屋はわりにひっそりしていた。煙草の火に炭団たどんを埋めた瀬戸の火桶を中に、三吉、伊勢源、それから下っ引彦兵衛と、死んだ栄太と親交のあったという幇間たいこもち桜井さくらい某なにがしが、土間隅に菰を被せた栄太の死骸を見返りながら何かしきりに故人の噂でもしているらしかった。そこへ勘次を伴れて釘抜藤吉は眼で挨拶してはいって行った。

「三、久し振りだのう。」

言いながら彼はすでに菰をはぐって、死体を覗き込んでいた。一同は事新しくその周囲へ集った。不愉快そうな三吉の眼光まなざしを受けても、袖の先で鼻の頭を擦こすったまま勘次はけろりと澄ましていた。肉の塊のように焼け爛れた死顔をしばらくみつめていた藤吉は、やにわに死人の袖を二の腕まで捲くり上げながら、背後の幇間を顧みて口から出任でまかせに言った。

「この栄太さんの馴染みってのは、たしか仲の町岩本楼の梅の井花魁おいらんだったけのう。」

「なんの、」と幇間は拳を打つような手つきを一つしてから、

「弘法も筆の過り、閉口へいこう。一文字の歌右衛門姐さんと二世を契った仲――。」

皆まで聞かず、藤吉は葬式彦兵衛に命令いいつけた。

「手前吉原まで一っ走りして、その歌右衛門さんとやらに知らせて来い。――それから。」

と彦兵衛の後を追いながら何やら二言三言耳打ちした。その間に勘次は死骸の肌を開いて傷痕を出していた。正面まえへ廻って藤吉はその柘榴ざくろのような突傷を撓ためつ眇すがめつ眺めていたが、いっそう身体を伏せると、指で傷口を辿り出した。それから手習いをするように自分の掌へ何かしら書いていた。

「出刃でやらかしたってえのかい?」

と三吉を振り返った。三吉はうなずいた。そしてついでに懐中から公儀の始末書状を取り出して見せた。が、それには眼もくれずに、

「丑満うしみつ近え子ねの刻に、相好のわからなくなるほどの煮え湯を何だってまた沸かしておきゃがったもんだろう。」

死骸を離れながら藤吉は憮然としてこう言ったが、急に活気を呈して、

「勘、手前見たか、あれを。」

「何ですい?」

「とちるねえ、天井板の指痕をよ。」

「へえ、見やした。たしかに見やしたぜ。」

「ふうん。」と、藤吉は考えていた。と、差配の伊勢源へ向き直って、

「きっぱり黒白をつけてえのが、あっしの性分でね、天下の公事くじだ。天井板の一枚ぐれえ次第によっちゃ引っぺがすかも知らねえが、お前さん、四の五の言う筋合いはあるめえのう。」

「四の五のなんぞと滅相もない。親分のお役に立つなら、はい、何枚でも――。」

と伊勢源は狼狽して言った。

藤吉は会心らしく微笑した。

「勘、行って来い。」

「合点だ。」

声と共に勘弁勘次はほど近い杵屋の家へ出掛けて行った。

後で藤吉は人々の口から、助三郎夫婦がときどき犬も食わない大喧嘩をしたことや、死んだ栄太は助三郎の実の兄で、ちょくちょく杵屋へ出入りしていたが、穏和な弟とは似ても寄らず、箸にも棒にもかからない悪党であったこと、栄太が自害した一昨日の暮れ早々、助三郎夫婦は女房お銀の実家甲府在へ旅立ちしたことなど、それとなく聞き出したのであった。栄太の自殺が一昨日の真夜中に行われたとすれば、戸外からはいった形跡のない以上、助三郎夫婦の発った時栄太はすでに留守宅にいたはずであった。が、そもそも何のために自分自身の腹を突いたか――。

「甲府の助さんとこへ飛脚を立てずばなるまい。」と、伊勢源が一座の沈黙を破った。

「はっははは――。」

突然藤吉が哄笑した。一同は唖然として彼を見守った。

「まずまずその心配にも当るめえ。」

と彼は面白そうに言ってのけた。

「なにさ、今すぐ解るこったが、飛脚を立てるなら三途川さんずのかわの渡し銭を持たしてやらなくちゃなるめえって寸法よ。なあ三吉、手前も合点長屋の巣立ちじゃねえか、よっく玉を見ろい、そりゃあ、お前出刃の傷じゃねえぜ。匕首だ。九寸五分の切れ味だい、玉の傍に出刃を置いたところが、はははは、これが真物ほんものの小刀細工ってもんだろうぜ。一昨日からの仏ってことは肌の色合いと血の粘りで木偶でくの坊にも解りそうなもんだ。昨日はあの雨で一日発見めっからずにすんだだけのことよ。」

そこへ勘次が息せききって帰って来た。

「親分、あの板を剥がして裏天井の明あかり取りからずらかったに違えねえ。埃の上に真新しい足跡だ。」

「えっ。」と並居る連中は驚きの声を揚げた。

「ふん。大方そんな狂言だろうと思ったところだ。」

と藤吉は改めて人々の顔を見渡した。

「この界隈に左手利きはいねえか。」

伊勢源と幇間が一緒に叫んだ。

「お銀さん!」

「違えねえ。」

と藤吉は笑った。

「格子の外から刺しておいて戸へ足をかけて刃物を抜いたことは格子の瑕でも見当はつくが、その足跡から見ると、お銀さんてえのは、四尺七、八寸の優形で女の身の持ち方知らずに刃を下へ向けたところから、左手利きをそのまま出して刀痕あとがのの字――。」

「おう、親分え。」と、戸口で大声がした。

「彦か、いいところへ帰って来た。して首尾は?」

「なに、お前さん。」と吉原から帰って来た彦兵衛は、小気味よさそうに独特の微苦笑を洩らしながら言葉をつないだ。

「一文字の歌と栄太の野郎とは、馴染みどころか、二度うらを返したばかりの浅え仲だってまさあ。そんなことより耳寄りなのは、栄太の二の腕に――。」

「お銀命いのちの刺青か。」

と藤吉が後を引き取った。

「えっ。」

と叫びながら影法師三吉は兎のように隅へ飛んで行って、めりめりと死骸の袖を破った。杵屋助三郎の腕は女のように白くて黒子ほくろ一つなかった。

人々は愕然と顔を見合った。

「栄太とお銀で仕組んだ芝居だあな。お銀が戸外から夫の助三郎を突いた後で、栄太の野郎がはいり込んで、内部なかから全部戸締まりし、出刃に血を塗って捨てておいたり、煮え湯をかけてそっぽをむいたりしやがって、手前は天井からどろんをきめただけのことよ。まあ、あまり遠くへも草鞋は穿くめえ、三吉、犯人ほしを挙げるのは手前の役徳、あっしゃあこれから海老床さ、へっへ。えれえおやかましゅうごぜえやした。皆さん、御免下せえやし。」

藤吉の尾しりにつきながら勘弁勘次は、彦兵衛を返り見た。

「彦、紙屑籠を忘れるなよ。」

葬式彦兵衛は眼だけで笑って口の中で呟いた。

「ああ、身も婦人心も不仁慾は常、実げに理不尽の巧たくみなりけりとね。」

四

深川木場の船宿、千葉屋の二階でお銀栄太の二人が影法師三吉手下の取手に召捕られたのは、翌る四年も秋の末、利鎌とがまのような月影が大川端の水面みなもに冴えて、河岸の柳も筑波颪に斜めに靡なびくころであった。

白洲へ出てはさすがの二人も恐れ入って逐一白状に及んだ。

従前から二人の仲を臭いと見ていた助三郎は、嫌がるお銀を無理にしばらく江戸を離れてるようと、甲府を指して発足したが、小一町も来ない内に後から栄太に追いかけられて、世間の手前途上の口論いさかいが嫌さに自宅へ引っ返したのであった。栄太の難題はいつもと同じに金の無心から始まった。金子の入要な旅先のことではあり、そうかと言って拒絶ことわれば後が怖いし、ほとほと困じ果てた助三郎は、言われるままにお召の上下を脱ぎ与えて栄太と衣裳を交換したのであった。が、栄太の助けに力を得て、お銀はいっそう甲府落ちを拒み出した。平素からの疑いが確かめられたように感じて、助三郎は思わずかあっとなった。醜い争いが深夜まで続いた後、折柄篠しの突くばかりの土砂降りの中をお銀は戸外へ不貞腐れて出たのだった。後を追って助三郎が格子へ手を掛けた時、雨に濡れた冷たい刃物が彼の脾腹ひばらを刳えぐった。一切の物音は豪雨が消していた。それから後の姦夫姦婦の行動は釘抜藤吉の推量と符節を合わすように一致していて、時の奉行も今さら藤吉の推理力に舌を巻いたのであった。

安政四年十二月白洲に於て申渡し左の通り

馬道無宿  栄太  三十六歳

其方儀弟妻阿銀と密通致し其上阿銀の悪事に荷担致し候段重々不届に付町中引廻しの上浅草に於て獄門申付くる事

竜泉寺町  ぎん  二十四歳

其方儀夫兄栄太と密通致し其上夫助三郎を殺害候段重々不届に付町中引過しの上浅草に於て獄門申付くる事

竜泉寺町家持差配  伊勢屋源兵衛

其方儀不埒の筋も無之付構いなき事

上に黄八丈下に白無垢二つを重ねて本繩を打たれ、襟には水晶の数珠じゅずを掛け、口に法華経普門品ほけきょうふもんぼんを唱えながら馬に揺られたお銀の姿が、栄太と共に江戸町を引き廻された埃りっぽい日の正午下ひるさがり、八丁堀の合点長屋へ切れようとする角の海老床で、釘抜藤吉は勘次を相手に飛車や王手と余念がなかった。

のどかな煙草の輪を吹きながら、藤吉は持駒で盤を叩いていた。

「え、こう、勘。遣ったり取ったり――節季の牡丹餅と来るかな。」

底本 / Source edition

底本:「一人三人全集1[#「1」はローマ数字、1-13-21]時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」河出書房新社
1970(昭和45)年1月15日初版発行
初出:「探偵文藝」
1925(大正14)年3月号
※副題は底本では、「の[#「の」に傍点]の字の刀痕」となっています。
入力:川山隆
校正:松永正敏
2008年5月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/047988_000290/

林 不忘「釘抜藤吉捕物覚書──01 のの字の刀痕」(新字新仮名)、底本『一人三人全集Ⅰ時代捕物釘抜藤吉捕物覚書』河出書房新社、1970年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 047988_000290, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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