Soranoha

夢

ゆめ

リルケ ライネル・マリア

第七夜

私は少女を搜した。いましがた夜の明けたばかりの、狹い、長方形の部屋の中に、私は少女を見出した。彼女は一つの椅子に腰かけ、僅かにそれと分かるくらゐに微笑してゐた。その傍には、一寸離れて、もう一つの椅子があり、それには一人の青年が腰かけてゐたが、背を靠せた樣子がいかにも硬苦しい。さうしたまま、二人はその夜を過したらしく見える。

少女は身動ぎをして、私に手を差し延べた、私の手と出遇ふのに程よい高さにそれを持ち上げたのである。その手は熱くて、妙にざらざらしてゐた。なんだか野外生活をしてゐて、入用なものは自分自身で用を足すやうにしてゐる、小さな動物でも握つてゐるやうな氣がした。

それから今度は彼の番で、青年が身動ぎしはじめた。彼は目を覺まさうと明らかに努力してゐた。彼の顏はもどかしさと不滿の表情で收斂した。少女は彼の方を輕くふり向いて、彼を見つめた。青年の顏面は自身の努力によつて赤らんでゐた。それは中央に向つて收斂し、そしてときどき眼瞼を顫はせながら、もち上つた。しかし、その下にあるべき眼は、空虚のやうに見えた。

「そんなことをなさつたつて何んにもならないわ。」少女は、笑ひが散つてそこら中に閃いてゐるやうな、透明な聲を出して言ふのだつた。「お眼が歸つて來ないうちは目を覺ますことは出來ないのよ。」

私は質問を發しようとした。何を彼女は言はうとしたのか? が、突然、私は理解した。ひとりでにである。私は田舍で出遇つた露西亞人の或る若い勞働者のことを思ひ出したのである。その男は、莫斯科からやつて來たばかりの時は、まだ、星が神樣の眼や天使の眼であることを信じてゐた。人々はその間違を直してやつた。本當をいふと、何物をもつてもその反對を證明することは出來なかつたのだ、が、人々はその間違を直してやつた。それも尤もなことだつたのである。といふのは、星は、閉ぢた眼瞼から拔け出して、上昇し、明るくなつて、空にぢつとしてゐる、人間の眼なのだからである。それだからこそ、皆が眠つてゐる田舍では、空にはありとあらゆる星がかがやき、そしてその反對に、都會の上には、星が少ししかない、何故なら都會では、澤山の人々が心配したり、泣いたり、讀書したり、笑つたり、夜更かしをしてゐるからだ、そして各々の眼を離さずにゐるからだ。

その少女は露西亞人に向つてさう言ふぺきだつたのだ。が、もうずつと前から彼女は他のことを考へてゐたのである。彼女は誰やらの話をしてゐた。近頃、メランにお嫁にいつた或る若い娘のことであるらしい。「その方のお名前、今はね……」それから、面白さうに、一つの名前を引用した。私はその名前を賞めた。どうやら少し賞め過ぎたらしい。

「ほら、教はると、すぐそれね、」と少女はからかふやうに言ふのだつた。「何故、いつも貴方がたは、まるでそれが何かででもあるやうに、人の名前を訊きたがつたり、やきもきなさらずには居られないのでせうね?」

「お友達よ、」と私は彼女に眞面目に言つた。「名前といふものは、我々人間にとつては一つの意義があるのですよ。薔薇だつて、そりあマリイ・ボオマンだとか、テストウ夫人だとか、カモンド伯爵夫人だとか、或はまたエモオションだとか呼ばれてはゐます、が、それは殆ど無用の長物です。薔薇は自分たちの名前を知つてゐませんからね。それ等の上に小さな木札をひつかける、と、もうそれを引つ込めません。それつきりなのです。しかし、人々は自分たちの名前を知つてゐます。彼等は自分たちのもつてゐる名前に關心を持ち、それを大事さうに暗記してゐて、それを彼等に訊ねる者があれば誰にでもそれを言つてやります。彼等は一生涯、云はばまあ、それを養つてゐるのですね、そしておしまひには、それとごつちやになる位、殆どそつくり、その名前に似てしまふものですよ。……」

私は、しかし空虚の中で喋舌つてゐるのだつた。少女はもう聞いてはゐなかつた。彼女は立ち上つて、もうすつかり明るくなつてゐる窓の前に佇みながら、微笑して、誰かを呼んでゐた。さう、それは一羽の小鳥らしかつた。

底本 / Source edition

底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房
1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行
底本の親本:「堀辰雄小品集・繪はがき」角川書店
1946(昭和21)年7月20日
初出:「四季 第十四号」
1935(昭和10)年12月10日
入力:tatsuki
校正:染川隆俊
2010年11月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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リルケ ライネル・マリア「夢」(旧字旧仮名)、底本『堀辰雄作品集第五卷』筑摩書房、1982年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 047946_000075, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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