Soranoha

水族館

すいぞくかん

堀 辰雄

1

私は諸君に、このなんとも説明のしやうのない淺草公園の魅力を、出來るだけ完全に理解させるためには、私の知つてゐるかぎりの淺草についての千個の事實を以てするより、私の空想の中に生れた一個の異常な物語を以てした方が、一そう便利であると信ずる。ところで、さういふ物語をするためには私に二つの方法が可能だ。それはその物語を展開させるために必要な一切の背景を――たとへば劇場とか、酒場とか、宿屋などを全く私の空想の偶然に一任してしまふか、或ひはまた、さういふ背景だけは實在のものを借りてくるかである。そして私にとつては、むしろ後者の方が便利のやうに思へる。何故なら、私は經驗から、空想といふものは或る程度まで制御されればされるほど強烈になつて行くといふことを、知つてゐるからである。

さて、私がこの物語を、最近の流行に從つて、近頃六區の人氣の中心となりつつある、カジノ・フオリーの踊り子たちのところに持つて行くのを、許していただきたい。事實は、私は彼女たちについて何も知らないのだ。そして私がこの物語を物語らしくするために、敢へてそれの無作法になるのも顧みないであらう、彼女たちに關する私の空想は、當の彼女たちをして怒らせるどころか、無邪氣な彼女たちをしてただ笑はさせるに過ぎないだらう。私はそれを信じるのである。

諸君の大部分はすでに御承知だらうが、そのカジノ・フオリーといふのは、六區の活動寫眞街からやや離れたところに、いつも悲しいやうな愉快なやうな樂隊の音を立ててゐる木馬館と竝んで立つてゐる、水族館の階上にあるのである。水族館といつても、それはほんの名ばかりで、或ひは私が夜間しかそこに這入らないせゐか、ほとんど水槽タンクのなかに魚の泳いでゐるのをば、私は見たことがないのである。しかしよく見てゐると、十分に光線の行きとどいてゐない岩のかげに、眠つてゐるのであらうか、その岩と同じやうな色をした身體をぴつたりくつつけてゐる、いくつかの魚等を見つけることが出來た。そしてそのそれぞれには一々むづかしい名前がつけられてゐるが、私はそれを一つも覺えてゐない。二階のカジノ・フオリーに出這入りするために、この水族館のなかを通り拔ける人々は多かつたが、わざわざここに立ち止つて魚等を見て行かうとする人は、ほとんど無かつたと言つていい。

埃つぽい木の階段を、下駄の音を氣にしながら上つて行くと、いきなり、人々の頭ごしに(彼等はうしろの方の椅子がたくさん空いてゐるのに、それに腰かけずに、立つたまま、舞臺を見てゐるのである)、音樂が聞え、踊り子たちの踊つてゐるのが見えるのだ。初めてそこに這入つた人は、よくそのうしろの方の空席に腰を下さうとしたが、すぐその椅子がぐらぐらしてゐて危險だつたり、或ひはその覆ひに大きな孔があいてゐて、そこから藁屑がはみ出してゐて、それがすぐ着物にくつつくのに氣がついて、再びそこから腰を持上げてしまふのだつた。そして全體の見物席はといへば、二百人位しかはひれないその二階と、それから百人位しかはひれない上の三階と、それだけだつた。私はいつも三階に上つて見ることにしてゐた。最初、私がここに通ひ出してゐたときは、私はよく二階のもつとも舞臺に近い席に割り込んでいつて、彼女たちの脚の間から彼女たちの踊るのを見上げるやうにしてゐたが、さうすると、踊り子たちが脚を上げる度毎に舞ひあがる舞臺のひどい埃りを、厭でも吸はなければならなかつたので、それにすつかり閉口して、今度は、三階のもつとも舞臺に近い席から、そしてほとんど踊り子たちの眞上から、彼女らの踊るのを見下すことにしてゐた。

踊り子たちの大部分は十四から二十ぐらゐまでの娘たちだつた。彼女らは金髮のかつらをつけ、厚化粧をし、そして某新劇團のお古だと言はれる、それほど上等に見える衣裳をつけてはゐたが、彼女らの前身は、恐らく、女工とか、子守娘とか、或ひはそれに近いやうな裏店うらだなの娘だつたのに違ひない。そして彼女らの大部分は、恐らく、その歌の卑猥な意味をはつきり知らずにさういふ歌を歌ひ、その動作の淫らな意味をはつきり理解せずにさういふ踊りを踊つてゐるのかも知れない。彼女らの喉をしめつけるやうなフツトライトのなかで、彼女らは兩手を頭のうしろに組み合せながら、胸を出來るだけ膨らますのである。しかし彼女らの胸はまだ小さい。……そしてさういふすべてのものが、このカジノ獨特の、何とも言ひやうのない魅力のある雰圍氣をば、構成してゐたのである。

私はときどき踊り子たちから眼を離して、彼女らを熱心に見まもつてゐる見物人たちを見𢌞はした。それはほとんど男ばかりだつた。彼らの大半は、職工らしいもの、會社員らしいもの、學生らしいものが、占めてゐた。私自身が毎晩のやうにここに來るお蔭で、それらの人々の中から、私は所謂「定連」といふべき人々を、容易に見出すことが出來るのであつた。たとへば、階下の隅の方の柱に靠れて、いつもニヤニヤ笑ひながら、舞臺を眺めてゐる一人の浮浪者だの、丁度私と對蹠をなした三階の向側に陣取つて、必らず「葉ちやん!」と、踊り子の一人の小松葉子といふのに、聲をかける一人の自動車運轉手だの、等、等……。

ところで、この頃になつて、さういふ定連が、また一人、急に殖えたのである。それは私の知つてゐる他の定連とは、全然別種類の、二十をすこし過ぎたばかりの、色の淺黒い美少年だつた。彼はいつもハイカラな縞の洋服をつけ、大き過ぎる位のハンチングを眞深かにかぶり、三階の隅の柱によりかかりながら、注意深く舞臺の上を見下してゐるのだ。彼はときどき好んで亂暴な身振りをしたが、それのどことなく不自然な感じは、男裝した女だつたならば恐らくかうでもあらうかと想像されるほどだつた。

その少年の姿を私がそのカジノで見かけるのは、ほとんど毎晩のやうになつた。

ときどき私は、友人たちとの會話に、その少年のことを話題にすることがあつた。或者は、彼が閉場はねたのちの水族館の樂屋口の前に一人でぢつと佇んでゐるのを見かけたと言つた。また或者は、彼がカフエ・アメリカで女給たちに取圍まれながら酒を飮んでゐるところを見たとも言つた。また或者は、彼と瓜二つの顏をした、洋裝の女とすれちがつたが、そのとき一寸それが彼自身であるかのやうな氣もしたが、ずつと老けて見えたから、きつと彼の姉だつたのに違ひない、などとも言つた。――とにかく、その少年がカジノの踊り子の誰か一人に夢中になつてゐるらしいのは、もはや疑ふ餘地がなかつたのである。

2

ある夜、私は公園の中を散々にうろつきまはり、ひどく疲れて、やつと自分の家に歸つてきたのは、もう一時近くであつた。私は自分の部屋にはひるや否や、私の机の上に一通の、切手も貼つてなければ、差出人の名前もない、手紙が置かれてあるのを見出した。私は封を切つた。そして私は讀んだ。誰だか分らないが、私にすぐ、いま彼のゐる駒形の「すみれや」まで來てくれといふ、まるで警察からの呼出し状のやうな簡單な走り書だつた。その手紙を書いたものは、よほど取亂してゐたと見えて、自分の名前を書き落したばかりではなく、その亂雜な走り書は、それが誰の字であるかを、到底私に判讀させないほどであつた。その手紙はその宿屋(?)の雇人が私のところに屆けたものらしかつた。しかしもう寢入つてしまつてゐる家のものを、わざわざ起してまでも、その持參人を取調べるほどのこともあるまいと、私は思つた。そこで私は、非常に疲れてゐて、もう動くのも厭な位だつたが、はげしい好奇心に驅られながら、再び自分の家を出て行つたのである。

私の家は向島にあつた。そして向島から駒形までは歩いて行くよりしかたがなかつた。そしてそれが一番早くもあつた。私は、人氣のない河岸の、眞暗なサツポロビイル會牡の横を通り過ぎながら、ふと――さつき私の受取つた無名の手紙は實は夜からの呼出し状ではなかつたのか、そしてただその口實に宿屋の名前なんか使つてはゐるが、もともとそんな宿屋なんぞは何處にもありはしないのではないか、とそんなことも思はないではなかつた。……さうして、私は駒形の附近を散々に探しまはつた揚句、どうしてもさういふ名前を持つた宿屋を見つけることが出來なかつたとき、私は危ふくそれを信じようとさへしかかつた。その最後の瞬間になつて、私は漸く、二つの大きな商店にはさまれてゐる、一つのきはめて小さな宿屋を――その門の上の「すみれや」といふ小さな看板さへなかつたならば、ほとんど普通の住宅と區別できないやうな一つの宿屋を、見つけることが出來た。私はなんだか間違つてゐるのではないかと思ひながら、その宿屋に入つて行つた。その中に入るために、私は身體を横にしなければならない位、その入口は狹かつた。

すると一人の年老いた女が私を迎へた。ひからびた花束のやうに、微笑をうかべながら。

「お友達がお待ちしてゐますよ。二階の五番のお部屋に」

「なんていふ人だい?」

「御名前は存じません」

そしてその女は私をその部屋に案内しようともしないのだ。私はひとりで階段を上つて行つた。つれこみ宿といふものを、私はそれまで知らなかつたが、たぶんこんな家のことを言ふのだらうと思ひながら。

私は空しく返事を待つたのち、その五番の部屋に入つて行つた。

私はそこに、意外にも、私の友人の秦が一人きりでゐるのを、見出したのであつた。

秦はなんだか泣いてゐるやうに見えた。秦は私よりもずつと年下だつた。そしてやつと二十になつたばかりだつた。それにもかかはらず、彼は私たちと一しよに、カジノにも通ひ、酒も飮み、そして平氣で女の話にも混はるのであつた。そして彼は稀にしか、私に、私たちの年齡の隔りを思ひ出させなかつた。ところが、いま、彼は、私を前にして、彼の本當の年齡のまん中にゐるのであつた。いま私の前で、彼を正體もなく泣かせてゐるものは、私がすでに失つてしまつた、初戀のなんとも言ひやうのない苦痛であるのを、私は一目で理解したのであつた。

果して彼は私に彼の戀を打明けたのだ。その戀の相手といふのは、カジノ・フオリーの踊り子の一人であつた。そしてそれは私達の讚美の的であるところの、かの小松葉子であつた。彼は私に、彼が彼女を欲しがりだしたのは、實は私が彼女を欲しがつてゐるのを知つたからであると言つた。彼は自分の欲望を、私の欲望のラムプに照らされて、始めて知つたのであると言ふのである。そして彼は、さういふ欲望を私にはすこしも知らさずに、こつそりと一人で彼女を手に入れようとしてゐたことを、泣いて私に詫びるのであつた。そこで私が、自分はその踊り子を讚美してこそ居れ、決して彼の考へてゐるやうに彼女を欲しがつてゐるのではないことを、いくら彼に言つて聞かせても、彼はそれを信じようとはしなかつた。そして彼は彼の話を續けて行つた。

その夜の十二時過ぎ、彼は、ほとんど通行人の途絶えた、そして冷たい影に充たされてゐる、水族館のあたりを、一人でぶらぶらしてゐた。彼は、すつかり閉め切つてある水族館の二階の窓から、かすかな燈火のやうなものが洩れ、しかも音樂のやうなものまでが聞えてくるので、まだ踊り子たちが稽古をしてゐるのだらうと思ひながら、そこを何となく立ち去りがたく思つてゐたのだ。彼は、水族館の裏口に近いトタン張りの塀のかげに、身をかくすやうにして、あちらこちらに、或ひは一人、或ひは二三人、男たちの影が佇んでゐるのを認めた。彼らは踊り子たちが稽古を終へて出てくるのを待伏せてゐるらしかつた。十二時の過ぎたのを知らせるやうな、ひやりとする空氣の流れが、絶えず、彼の前を行つたり來たりしはじめた。やがて、水族館の裏門がしづかに開けられた。そしてそこから、青いマントにくるまつた、お下髮さげの、一人の少女が、出てきた。小松葉子だ、と彼はその少女をはつきり見ることが出來なかつたが、咄嗟にさう思つた。と同時に、彼は、塀のかげにかくれてゐた幾組かの人影が身動みじろき出すのを、認めた。そのとき、他の誰よりも早く、突然一つの木蔭から現れて、彼女のそばに進みよつていつた一人の男があつた。彼はその少女に何か二言三言話しかけたやうだつた。少女もそれに何か答へた。そして、暗闇の中からたくさんの眼に、貪るやうに見つめられてゐるにも拘はらず、二人はいかにも平靜に肩を竝べながら、そこを立ち去つて行つた。

秦は二人の後を追つた。そしてこれから二人が何處へ行くのか、それを突き留めることを欲した。彼は、彼のひそかに愛する少女が、ただその男に自分の家まで送らせるのであることを信じた。それにもかかはらず、彼女を送つて行くのが自分ではないといふ不幸が、彼の心臟をしめつけた。彼は彼の注意をその男の方にも向けた。その男は彼と同年輩の少年らしく、滑稽なくらゐ大きなハンチングをかぶり、そしてわざと大股に歩いてゐるやうな歩き方だつた。その少年は確かに、彼が友人らとしばしば男裝した女ではないかと噂し合つたところの、あの少年に違ひなかつた。そして彼の心の中に新鮮にいきいきと蘇つた、その謎の少年に對する好奇心は、ともすれば、自分の心臟をしめつける苦痛のあまりに、その追跡をあきらめようかとさへ思ふ、彼の弱氣に打勝つた。そして彼は、なほも、彼等の跡をつけて行つた。

彼等は、全く人影のない仲見世を、風のやうに通り拔け、そして雷門のところから、吾妻橋の方へ曲つて行つた。しかし彼等は橋を渡らずに、材木町の通りを厩橋の方へ向つて行つた。

彼等は一體どこへ行かうとしてゐるのか。彼はその邊の地理をあんまり知らなかつた。そして彼は、二人の跡について行きながら、もうすつかり寢しづまつた兩側の見知らぬ町を、ただ深い眠りそのものの中を通り拔けて行くやうにしか感じなかつた。彼はちよつと勇氣のくじけるのを感じた。彼は思はず立ち止まり、そして背を囘らさうとした。が、彼はそのつまらない決心をすぐ後悔した。彼は再び追跡を續けようとした。しかし彼はもはやそこに彼等を見出すことは出來なかつた。彼等はどこへ消え去つたか。彼は夢中になつてその邊を探しまはつた。そして彼はやつとのことで、恐らく彼等がそこへ這入つたのであらうと思はれる一軒の家を、そこの二階の窓にだけ燈光あかりがパツとついてゐることによつて、認めた。彼はそれに近づいて行つた。それは、ほとんど普通の家と區別のつかぬやうな、小さな宿屋だつた。

彼はあんまり長くそこに躊躇してゐなかつた。彼は、自分もその宿屋の中に入つて行く決心をした。彼はその宿屋の女主人を買收して、さつきの二人のはひつた、その隣りの部屋を手に入れた。そして隣室から聞えてくる特異な物音の中で、苦痛に壓しつぶされながら、私に手紙を書いたのであつた。――

しかし私には、彼にいかなる助言も與へることは出來なかつた。彼の物語の後、私たちは默つてゐた。隣室からは、もうすべてが終つたのか、なんらの物音も聞えてこなかつた。そのうちに、私までをへとへとにさせてゐた、友人の苦痛も、それ自身漸くへたばり出したやうに見えた。それが私に、私の身體を眠りにゆだねるのを許した。

翌朝、私は、疊の上にごろ寢をしてゐる私自身を、異樣に見出した。私のかたはらには、秦がやはり疊の上に涙によごれた顏をくつつけてゐたが、私が眼をさましたのに氣づくと、急に私の方に顏を向けて、にこにこと笑つた。そのよごれた顏は、すぐ私に、昨夜の私たちを思ひ出させた。しかし、そのよごれた顏の上の愉しさうな、表情は、私にはまだ未知だつた。

彼は、自分の顏を疊の上にくつつけたまま、いかにも祕密を打明けようとするやうな、低い聲で、私に話しかけた。それをよく聞きとるためには、私も横になつたまま、私の顏を疊の上に、そして彼の顏のそばに、くつつけてゐなければならなかつた。さういふ私の強制された子供らしい姿勢は、しかし彼の子供らしい上機嫌を速やかに理解するために、私には大いに役立つた。

彼の語るところによると、――昨夜、どうしても眠れなかつた彼は、私の眠つてゐる間に、睡眠不足のためいくらか氣も變になつたのだらう、たうとうこの部屋を拔け出して、隣りの部屋に忍びこんで行つたのである。もし見つかつたら、寢呆けて部屋を間違へたのだと言へばいいと思つて。――そして彼は大膽にも、その部屋の電氣のスイツチをひねつた。電氣に照らし出されたその部屋の光景は、彼を思はずもあつけにとらせた。そこに彼は何を見たと想像するか? そこには、二個の女の裸體が、手足をからみ合つたまま、異樣な恰好で、ころがつてゐるのであつた。同じくらゐに白いその四つの手足は、それがどちらの身體のだか、分らないほどだつた。……

「あいつはやつぱり女だつたんだよ」秦は私に言つた。「もしあいつが女でなかつたら、僕はあいつをどんな目に遇はしたか分らないぜ。だが、女と知れりあ……」

そして彼はいかにも機嫌よささうに笑つた。

3

それから一週間ほど、私は秦からの報告を空しく待つてゐた。

しかし彼からは何の音沙汰もなかつた。ある日、私は心配して彼に電話をかけた。

彼はまだその踊り子を手に入れることが出來ないと元氣なく答へた。そしてすぐ他の話をしだした。

それに次ぐ日々は、重くろしい雲のやうに通り過ぎた。公園全帶が、いつもに似合はず、なんとなく鬱陶しさうで、一日中眠たさをこらへてゐるやうだつた。私は、それらの日々が何か異常な出來事を發生させはしないかと、不安な豫感に打たれてゐた。

ある夜、私は、カフエ・アメリカの一つのテエブルに、ぼんやり坐つてゐた。私の不機嫌そうな樣子を見て、女は誰も私のそばに近よらうとはしなかつた。私は一人で聞くともなく、奧の方で、(私のところからは衝立に遮ぎられて見えないが、)一人の客を中心にして女たちがキヤツキヤツといつて騷いでゐるのを、聞いてゐた。私には、それが何だか私の不機嫌の原因のやうにしか思へなかつた。私はたうとう一人の女を捕まへて、その女にそれを詰問した。

その客といふのは、一人の男裝した若い女だといふのだ。彼女はときどき一人でやつてくるが、その夜はいつになく醉つ拂つてゐるやうだつた。彼女は男裝してゐるばかりではなく、好んで男のやうな言葉を使つてゐた。そればかりか、彼女はどうもここの一人の女給をどこかに連れ出すらしいのである。彼女はいつもその女給だけを呼び棄てにした。そしてそれがすべてを疑はせるのに充分だつた。それはともかくとして、彼女は急にこの頃氣が變になつてきたらしいのである。噂によると、彼女は水族館の踊り子の一人に夢中になつてゐて、その娘が欲しがるものは何でも買つてやつてゐたのに、急にこの頃その娘が彼女を嫌ひ出してゐるさうだから、そんなことが原因になつてゐるのかも知れない。――水族館の踊り子といへば、その踊り子との噂が立ちはじめた時分、彼女とここの女給(彼女のいつも呼び棄てにしてゐる)とが何やら口喧嘩をしてゐたことがあるが、それはいまから考へると、嫉妬からだつたのかも知れない。――

そんなことをその女給は事細かに私に話してきかせた。しかし、その女給はむしろその變態的な女に同情を持つてゐるらしかつたので、その話は私にも氣待よく聞けた。私は訊いた。

「一體その女は何なんだい?」

「華族の令孃なんですつてさ。だけど、誰も本當にはしてゐませんの。なんでも、ほんとは、女記者だつて評判ですわ」

その女がすこし氣が變になりかかつてゐるといふ報知は、私に、嵐の前兆の一つのやうに感じられた。

カフエ・アメリカからその女が出てくるのを私は待伏せてゐた。

漸く彼女が出てきた。

彼女はなるほど大きなハンチングをかぶり、しかもひどく醉つ拂つてゐるやうだつた。そして酩酊が彼女に與へるあらゆる無意識的な動作は、一々、彼女の變裝を裏切つてゐた。彼女はふらふらと雷門の前を通り過ぎ、そして吾妻橋の方に足を運んで行つた。私は彼女の跡をつけて行くことを決心した。

彼女は吾妻橋を渡つた。それから隅田川に沿つて、ビイル會牡の大きな建物の影の中へ滑り込んで行つた。枕橋を渡り、それからさらに隅田公園の河岸を進んで行つた。川の上からは冷たい風が吹いてきて、私達の前を絶えず行つたり來たりしてゐた。私達は言問橋の横を過ぎた。

私達はなほも土手の上を歩きつづけて行くのであつた。だんだん道が凸凹でこぼこしだし、歩きにくくなつた。それは私達が郊外に這入りつつあることを私達に知らせた。ここまで來ると、もう全く人通りはなくなつてしまつてゐた。ときどきのら犬がどこからともなく出てきて、私達を嗅ぎまはり、それからまたどこへともなく消え去つた。

私達は白髭橋のところまで來た。しかし彼女はまだ引き返さうとはせずに、ずんずん土手の上を進んで行くのであつた。私は立止つたまま、しばらく躊躇してゐた。彼女の跡をもつとつけて見ようか、それとももうそれを斷念しようかと迷ひながら。そのとき、私は、彼女がきふに土手を降り始めるのを認めた。私は再び彼女の跡をつけて行くことに決心した。しかし私は、その土手を降りて行つても、その道がどこへ達してゐるのか、少しも知らなかつた。その土手下の道は、まつくらで、しかもところどころに水溜りが出來てゐた。彼女はそれを避けようともしなかつた。ときどき彼女の足はその水溜りの中に入つて、鈍い、かすかな音を立てた。そしてそれが私達の沈默を破る唯一の物音だつた。

そのうちに、私は、たうとう私達が奇妙な見知らない一區域に迷ひ込んでしまつたことを知つた。私達の前方には、全部硝子張りの、異樣に大きな建物が、聳えてゐた。しかもその硝子はほとんど全部割れてゐるのだ。そしてその穴だらけの硝子張りの建物の向側には、すぐ、隅田川が黒々と流れてゐるらしかつた。そしてその何かの仕事場の跡らしい建物の中は、伸び放題に伸びてゐる雜草ばかりだつた。

彼女はその異樣な建物の前にぢつと佇んでゐた。私はやがて、彼女が身をこごめて、彼女の足もとにある一つの石を拾ひ上げるのを見た。それから彼女は狙ひをつけ、まだ一つだけ割れずに殘つてゐた硝子に向つて、その石を、滿身の力でもつて投げつけたのであつた。私ははげしく硝子の割れる音を聞いた。それからその破片がバラバラと下へ落ちてくるのを見た。そして彼女はと見ると、彼女はひた走りに走りながら、もうそこからだいぶ離れたところに達してゐた。

私も彼女を見失ふまいとして、少しばかり走つた。彼女はいつか普通の歩調になつてゐた。私もそれに從つた。しかし私にはまだ、彼女が一體どこへ行かうとしてゐるのか、そして何をしようとしてゐるのか、さつぱり見當がつかなかつた。私達は工場の裏を通り過ぎ、田圃の中を横切り、墓地の中を通り拔けた。そのうちに、私達は再び土手の上に出てしまつた。しかし、それは白髭橋の附近ではなく、そこからずつと離れた紡績會社の近くであることに、私は氣がついた。しかもまだ彼女は、紡績會社の大きな、煤煙でよごれた、氣むづかしげな建物の横を通り過ぎながら、ずんずん川沿ひの土手を進んで行かうとしでゐるのだ。

私はもうこれ以上、彼女の跡をつけることは斷念した。私はあまりにも疲れてしまつたし、それに彼女の氣の狂つてゐることも充分に確かめたし、これ以上もし私が彼女に私の注意力のすべてを委ねてゐたなら、恐らく私までも氣が變になつてしまふに違ひないからだ。

私は立止つて、彼女の後姿が土手の上に見えなくなつてしまふまで、それを見送つた後、たうとう踵を返して、鐘ヶ淵の、川蒸汽の船着場の方へ向つて行つた。

夜の明けたのを知らせる川からの冷たい風が、船着場のベンチの上にへたばつて眠つてしまつてゐた私を、しづかに眼ざませた。それから三十分ばかりの後、私は漸つと千住大橋の方から下つてきた一艘の川蒸汽を捕まへることが出來た。誰もまだ乘つてゐないだらうと思つたのに、その川蒸汽は、意外にも、すでに五六人の客を乘せてゐた。それはすべて魚河岸に買出しに出かける肴屋達だつた。彼等の元氣のいい會話と、それからそれを聞いてゐると思はず自分の心臟の鼓動が高まるやうな發動機の音とが、すつかり私の眼をさました。そして私は、早朝の新鮮な空氣の中に、蘇つたやうであつた。

私は、川の左手に、昨夜の硝子張りの高い建物が聳えてゐるのを見た。

私は、私のかたはらの肴屋の一人に訊いた。

「あの硝子張りの建物は何ですか?」

「あれですか」彼はそれを指さした。「あれは昔の日活の撮影所の跡でさア」

私は川蒸汽の中から、その無數の硝子がどれもこれも殘らず割れてゐるのを、不思議さうに眺めてゐた。それに小石を投げつけてもつと割らうとした、氣狂ひ女の異樣な姿勢ポーズを、頭に再び浮べながら。

4

それから二三日した、或る日の午後、私はバツト酒場バアの二階の窓から、ぼんやりと、下の活動寫眞街を往き來してゐる群集を眺めてゐた。すると突然、その群集の間を掻き分けるやうにして、あわただしく駈けて行く人々の群があつた。火事だな、と私は咄嗟に思つた。そして一分後は、私もまた、それらの人々と一緒になつて走つてゐた。人々は淺草劇場(もとのオペラ館)の角を曲つて、水族館の方へ走つて行つた。果して水族館の前には非常な人だかりがしてゐた。しかしそれは、私の豫想に反して、火事ではないらしかつた。私には最初何だか譯が分らなかつたが、人々は水族館の屋上を見上げながら、しきりにわめいてゐた。私はぢきに、その高い屋上に、一人の髮をふりみだした女が、あつちに行つたりこつちに來たりしてゐるのを、認めることが出來た。そしてそれはあの女だつた。彼女は、ときどき、下の群集のあらゆる叫び聲を切斷するやうな、鋭い、人間の聲とは思はれない、異樣な叫び聲を立てるのであつた。

――その日の五時頃、踊り子たちがペルシアン・ランプを踊つてゐる最中に、突然、三階の一隅からピストルの音が起つた。彈丸は幸なことに踊り子たちの誰をも傷つけずに、床板の上ではねかへつて、ただ背景に孔をあけただけだつた。それはその時一番先頭に立つて踊つてゐた小松葉子を狙つたものらしかつた。そして發砲したものは一人の美少年であつた。しかしその少年は、彼を捕まへようとする人々から脱れようとして、彼のかぶつてゐたハンチングを落した。すると彼はふさふさとした女の髮毛をしてゐたのである。それは少年ではなくして、男裝した一人の女だつたのだ。人々が思はずあつけにとられてゐる隙間に、彼女はすばやく屋上によぢ登つてしまつた。一人の大膽な男が彼女のあとから屋上によぢ登らうとすると、彼女はその男に向つて二度目の發砲をした。彈丸はその男の二の腕をかすめた。さいはひに怪我はなかつたが、流石にその男も怯氣がついて、彼女を捕まへることを斷念した。その後、誰一人その屋上によぢ登つて、彼女を捕まへようとするものは居なかつた。そしてただ彼女を遠まきに取り圍んで、わあわあと叫んでゐるばかりだつた。――

私の周圍の人々の話を組み合せて見ると、大體さういふ出來事らしかつた。夕食時なので、私の周圍から立去つて行く人々があつた。またあらたに立止まる人々もあつた。さういふ人々の間で、私は、屋根のてつぺんに何やら異常な聲で叫んでゐる彼女を聞きながら、私自身がなんだか死と向きあつてゐるやうな嘔吐を感じてゐた。

折角、集まつてきた響官たちも、彼女がピストルを振りまはしてゐるので、どうにも手の下しやうがなかつた。警官たちはただ、屋上の狂女をもつとよく見るために、水族館のまはりを取り圍んでゐる大きな樹の枝の上に、よぢ登つてゐた野次馬たちを、無理に引きずり下させるのに役立つただけだつた。さうしてゐるうちに約一時間ばかり過ぎた。そして夜がすぐそこまで來てゐた。しかし群集はなかなか散らうとしないばかりか、ますますその環を大きくして行つた。

たうとう夜になつた。そして屋根の上が暗くなつて、彼女の姿がよく見わけられなくなり出した。ただ、ときどき、狂人特有の身の毛のよだつやうな叫び聲が、聞えるばかりだつた。

それでも、誰一人もう、その場を立ち去らうとはしなかつた。そして私たちは何かを待つてゐるかのやうだつた。私たちは一たい何を待つてゐるのだらう? それは悲劇をだらうか? いや、悲劇なら、それを待つまでもなく、悲劇の中の悲劇が、現に私たちの眼の前に展開されつつあるのだ。私たちの好奇心を滿足させるには、もうこれで充分な筈だ。だから私には、ただ私たちがこの悲劇の上に最後の幕の下されるのを待つてゐるごとくにしか、思はれなかつた。

そしてたうとう、この悲劇の結末としてはすこしばかり悲慘な出來事が持ち上つた。それは、群集の中の一人が、どこから持つてきたのか、突然、一個の花火を打ち上げたのである。おや、花火? 始めは誰の眼にもそれがそのやうに映つたが、しかしそれはさうではなかつた。それは新聞社の寫眞班が彼女を撮影するためにもやしたマグネシウムであつた。マグネシウムは、一瞬間、屋根の上に髮をふりみだして、片手にピストルを持ち、いまだにそこにまごまごしてゐる狂人のすさまじい姿を、私たちにありありと示した。私たちはそれを見て思はず歡呼しようとした。

だが、丁度その瞬間だつた。その不意打ちのマグネシウムは、屋上の彼女をひどくびつくりさせたらしかつた。彼女はそのために身體の均衡を失つたやうに見えた。そして屋上から眞逆樣に私たちの上に墜落してきた。

私は思はず眼をつぶつた。

私はもうこれ以上、ここに居殘つてゐて、死と向ひあひの嘔吐に堪へることは出來なかつた。

そのために、「まだ生きてゐるぞ!」と人々の叫んでゐるのを、ぼんやり耳にしながら、私は眼をつぶつたまま、そこを立ち去つて行くよりほかはなかつた。

底本 / Source edition

底本:「堀辰雄作品集第一卷」筑摩書房
1982(昭和57)年5月28日初版第1刷発行
初出:「モダン TOKIO 圓舞曲」世界大都會尖端ジャズ文學1、春陽堂
1930(昭和5)年5月8日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:大沢たかお
2012年8月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/047861_001030/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/047861_001030/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/047861_001030/

堀 辰雄「水族館」(旧字旧仮名)、底本『堀辰雄作品集第一卷』筑摩書房、1982年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 047861_001030, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite