花火といふ遊びは、金を飛散させてしまふところに多分の快味があるのだから、經濟の豐なほど豪宕壯觀なわけだ。私といふ子供がはじめて記憶した兩國川開きの花火は、明治二十年位のことだから、廣告花火もあつたではあらうが、資本力の充實した今日から見れば、三業組合――花柳界の支出費だけで、大仕掛のものはすくなかつた。

江戸時代の川開きとは、納凉船が集つてくる、五月廿八日から八月廿八日までをいつたものだといふが、納凉舟から打上げた花火の競ひが、一夕、日をさだめて盛んに催されるやうになつたものと思へる。客寄せに岸の割烹店が行なつたよりは、富む者たちが打上げさせた方が、金力が豐だつたことはいふまでもない。

一兩が花火<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>もなき光かな

この人數船なればこそ凉かな

と俳人寶井其角は元祿四年にその盛況をよみ殘しておいてくれてゐる。その當時の物價と金の價格を引きくらべたら、一兩はいまのいくらになるか知らないが、其角ほどの人がさう讀んだのは、一兩がかなり高價であつたと見ることが出來る。

江東一帶は工業地區となり、隅田川は機械油を流しうかべる現今こそ、金の集散は著しいであらうが、昔の大川筋に、物資の力と花火の發達なぞといふのはをかしいやうだが、武藏と下總の<ruby><rb>國境</rb><rt>くにざかひ</rt></ruby>を、渡し舟が人を運んだ<ruby><rb>人煙稀薄</rb><rt>じんゑんきはく</rt></ruby>な<ruby><rb>大昔</rb><rt>おほむかし</rt></ruby>はとにかくとして、あれだけの橋が幾筋も出來上るには、かけなければならない交通と、物資のふくらみとがあつたわけだ。大川が大都會を貫く水路になつて、江戸の文明と密接な關係をもつてくると、有名な淺草海苔も、もうその時分から産物ではない。

隅田川本流大川に橋のかかつたのは、萬治三年の兩國橋――最初は大橋、または二洲橋――と名附けられ、對岸の深川、本所は（もとの名、永代島、牛島）とうに御府内に抱へこまれてゐて、橋こそなかつたが、芦や<ruby><rb>葭</rb><rt>よし</rt></ruby>の<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>へた<ruby><rb>洲</rb><rt>す</rt></ruby>ばかりだと思ふと大違ひの賑はしいところであつたのだ。

橋のかかつた原因は、三年前の、明暦三年正月、本郷丸山からの大火事に、淺草<ruby><rb>見附</rb><rt>みつけ</rt></ruby>の廣場に家財道具を持出したものが積み重なり、逃げ道をふさいで、十萬七千人といふおびただしい燒死者があつたから、時の政府が急に造橋を思立つたのだつた。次の大火事に構へるところに、いかに江戸に大火がつきものだつたかといふことがわかり、しかもその翌年正月、駒込吉祥寺に大火があり、年をつづけて千代田城も燒亡してゐる。この年の大火難と、大正拾貳年の關東大震災とは、橋をへだて世をへだてて、兩岸に偶然なおなじ出來ごとがあつたのだつた。震災のは本所横網に紀念堂が祀られ、明暦大火のは、<ruby><rb>諸宗山無縁寺回向院</rb><rt>しよしふざんむえんじゑこうゐん</rt></ruby>が建立された。その時の燒死者は舟で運んで、六十間四方に掘り埋めたといふ。

この大火の<ruby><rb>町</rb><rt>まち</rt></ruby>、深川にも、本所にも<ruby><rb>幕府</rb><rt>ばくふ</rt></ruby>の倉庫があり、<ruby><rb>商庫</rb><rt>しようこ</rt></ruby>もあつたことは、深川の<ruby><rb>河岸藏</rb><rt>かしぐら</rt></ruby>には、米十萬七千俵、其他に、豆、麥、酒、油など莫大だつたと、<ruby><rb>伊勢貞丈</rb><rt>いせていじやう</rt></ruby>の隨筆には記載されてゐるといふことである。

橋のかからない前の<ruby><rb>深川浦</rb><rt>ふかがはうら</rt></ruby>――<ruby><rb>蛤町邊</rb><rt>はまぐりちやうへん</rt></ruby>をいふ――は、天正ごろから魚市場があり、<ruby><rb>造船匠</rb><rt>ふなだくみ</rt></ruby>も多く居たといひ、八幡宮は寛永年間には一の鳥居よりうち三四町の間、兩側茶肆、酒肉店軒をならべ、<ruby><rb>木場</rb><rt>きば</rt></ruby>は元祿十年に現在のところへ移つたが、<ruby><rb>其前</rb><rt>そのまへ</rt></ruby>は<ruby><rb>佐賀町</rb><rt>さがちやう</rt></ruby>が材木河岸で、お船藏は新大橋――兩國橋のつぎにかかつた――附近、幕府の軍艦安宅丸は寛永八年に造られて、ここの藏におさまつてゐたのだ。

橋がかかつてからの深川は、府内第一の豪華な歌舞酒地とされた。富岡門前の繁華は、淺草新吉原をも凌駕したといふ。<ruby><rb>八幡鐘</rb><rt>はちまんがね</rt></ruby>の<ruby><rb>後朝</rb><rt>きぬぎぬ</rt></ruby>は、江戸情史にあんまり有名すぎる位だ。洲崎は今の遊廓が明治になつて<ruby><rb>本郷根津</rb><rt>ほんごうねづ</rt></ruby>から移つてきてから賑はしくなつたのではなく、

洲崎茶屋十五六ばかりなるみめかたちすぐれたる女を抱へおき、酌をとらせ、小唄をうたはせ、三味線引き、皷を打て、後はいざ踊らんとて、當世流行伊勢おんどう手拍子を合せて踊り、風流なること三谷の遊女（新吉原）も爪をくはへちりをひねる。

と「<ruby><rb>紫</rb><rt>むらさき</rt></ruby>の<ruby><rb>一本</rb><rt>ひともと</rt></ruby>」にはあり、天明ごろの「蜘蛛の絲卷」には、

昔は江戸に飯を賣る店はなかりしを、天和の頃始めて淺草並木町に<ruby><rb>奈良茶飯</rb><rt>ならちやめし</rt></ruby>の店ありしを、<ruby><rb>諸人</rb><rt>しよにん</rt></ruby>珍らしとてわざわざゆきしよし、<ruby><rb>近古</rb><rt>きんこ</rt></ruby>のさうしに見えたり。しかるに<ruby><rb>都下</rb><rt>とか</rt></ruby>繁昌につれて、追々食店多くなりし中に、明和のころ深川洲崎の料理茶屋は、<ruby><rb>升屋祝阿彌</rb><rt>ますやしゆくあみ</rt></ruby>といふ京都風に<ruby><rb>傚</rb><rt>なら</rt></ruby>ひたるべし、此者夫婦の機を見る才あり、しかも事好、廣座敷、二の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>、三の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>、小座敷、小亭、又は數奇屋<ruby><rb>鞠場</rb><rt>まりば</rt></ruby>まであり、<ruby><rb>中庭</rb><rt>なかには</rt></ruby>推して知るべし。<ruby><rb>雲洲</rb><rt>うんしゆう</rt></ruby>の隱居<ruby><rb>南海殿</rb><rt>なんかいどの</rt></ruby>、次男雲川殿、しばしば遊びたまへり。此處殿は、其ころ大名の<ruby><rb>通人</rb><rt>つうじん</rt></ruby>なり。諸家の留守居、府下の富高の振舞、みな升屋定席、その繁昌比すべきなし。

といつてゐる。洲崎は春は潮干狩、冬の月には千鳥と風流がられた。

江戸人は風流心のないといふことを恥辱としたが、風流といふ字は風と流れだ。隅田川筋を唯一の極樂地とし、郊外散歩と遊蕩と社交をかねた人達に、なんとぴつたりした字であらう。

<ruby><rb>幕末</rb><rt>ばくまつ</rt></ruby>、天保のころになると、江戸繁昌記深川のくだりには、

大川横川、名所小航の便、施舫客船日夜織る如し

とある。<ruby><rb>巽巳藝妓</rb><rt>たつみげいしや</rt></ruby>の<ruby><rb>侠</rb><rt>きやん</rt></ruby>な名や、戲作者<ruby><rb>爲永春水</rb><rt>ためながしゆんすゐ</rt></ruby>述るところの「<ruby><rb>梅暦</rb><rt>うめごよみ</rt></ruby>」の色男丹治郎などは、つい先頃までの若者を羨ましがらせた<ruby><rb>代物</rb><rt>しろもの</rt></ruby>だ。その狹斜が生んだ、江戸末期的代表デカタンが丹治郎だ。

江戸の大火は、<ruby><rb>明暦後</rb><rt>めいれきご</rt></ruby>も度々あつたのに、どうしたことか兩國橋がとりはらはれたことがある。それは橋が出來てから廿二年後のことだつた。しかし、また直に再營された。

芭蕉が、

名月や門へさしくる潮がしら

と吟じ、深川に住つてゐたのは元祿のころだつた。<ruby><rb>三派</rb><rt>みつまた</rt></ruby>に新大橋がかかつたとき

ありがたやいただいてふむ橋の霜

の句がある。この<ruby><rb>三派</rb><rt>みつまた</rt></ruby>の<ruby><rb>片岸</rb><rt>かたぎし</rt></ruby>、濱町――大川の浦には、五六十年後の寶暦十年には、國學者<ruby><rb>縣居</rb><rt>あがたゐ</rt></ruby>の<ruby><rb>翁</rb><rt>おきな</rt></ruby><ruby><rb>賀茂眞淵</rb><rt>かものまぶち</rt></ruby>が居た。

寶暦十年の秋、濱町といふ所へ家をうつして、庭を野邊、又は畑につくりて、所もいささかかたへなれば、名を<ruby><rb>縣居</rb><rt>あがたゐ</rt></ruby>といひて住みそめける。九月十三夜に月めでんとて、したしき人々集ひて歌よみけるついでによめる

こほろぎの鳴やあがたの我宿に月かげ清しとふ人もかな

縣居のちふの露はらかきわけて月見に成つる都人かな

野わきしてあがたの宿はあれにけり月見にこよと誰に告まし

本居宣長、橘千蔭、平春海もこの縣居へ訪れもしたであらう。向島には文人墨客の居住のあともと思ひもするが、大川端の明治座のさきに、名高き文章の博士が住んでゐたことを、土地の人とても多くは知るまい。眞淵は田安家の招きによつて江戸へ下つたのだ。<ruby><rb>三派</rb><rt>みつまた</rt></ruby>はいまの<ruby><rb>中洲</rb><rt>なかず</rt></ruby>のあたりの名で、月の名所になつてゐる。別れの<ruby><rb>淵</rb><rt>ふち</rt></ruby>といふ名は、<ruby><rb>海</rb><rt>うみ</rt></ruby>の<ruby><rb>潮</rb><rt>しほ</rt></ruby>と<ruby><rb>川水</rb><rt>かはみづ</rt></ruby>の相逢ふ場所からの名で、古くから遊女歌舞伎たち、ここに船をうかべて宴を催し、「江戸雀」には、納凉の地といひ、舟遊びの船に、波のつづみ、風のささら（びん簓を言ひかけてか）芦の葉の笛吹きならしとある。太宰春臺は、

風靜叉江不起波　　　輕舟汎々醉過

天遊只在人間外　　　長嘯高吟雜掉歌

と賞してゐるが、傾城高尾が舟中で仙臺樣になぶり斬りにされたつるし斬りの傳説もこの<ruby><rb>三派</rb><rt>みつまた</rt></ruby>だ。

萬治元年、ここにあつた、本ぐわんじ御堂は築地濱に移轉したとあるから、前年の大火事にもその年の正月の大火にも燒失したであらうが、參詣人は<ruby><rb>多</rb><rt>おほ</rt></ruby>かつたことと思はれる。

新大橋の日本橋區<ruby><rb>側</rb><rt>がは</rt></ruby>の方をいつてみると、人形町通、および<ruby><rb>大門通</rb><rt>おほもんどほ</rt></ruby>りの舊吉原（元和三年に商賣はじめ）と歌舞伎芝居の勢力を見逃すことも出來ず、魚市場、金座、大商賣、本丸も控えてゐる。ここの吉原も大火に燒けて淺草へ移つたのだ。芝居が淺草へ移つたのはずつと後のことだ。

<ruby><rb>流</rb><rt>なが</rt></ruby>れにそつて京橋區内にはいると、靈岸島<ruby><rb>湊町</rb><rt>みなとちやう</rt></ruby>に御船手番所があり、<ruby><rb>新川</rb><rt>しんかは</rt></ruby>三十間堀には酒醤油の問屋と銀座があり、木挽町にも正保元年から山村座がある。萬治三年には森田座が出來、見世物が賑はつてゐたといふことで、此處の芝居も、日本橋葺屋町堺町のと同時に淺草山の宿へ（これも隅田川流岸）移つたが、それは天保になつてから、例の水野越前の勤儉の時代、御趣旨のときである。<ruby><rb>芝口</rb><rt>しばぐち</rt></ruby>は品川濱につづいて驛路の賑はつたことはまをすまでもなからう。

淺草と本所とへ、大川を逆流させると、花火とは誠に趣のちがつたものとなるが、向柳原の町會所のことと、藏前の札差のことを並べなければ、大川のもつ富の半分を書き落してしまふことになる。向柳原は淺草見附けのすぐそばで、<ruby><rb>町會所</rb><rt>まちのくわいしよ</rt></ruby>は寛政三年に創立されたのだから、今まで書いてきたものよりはずつと新しいが、松平越中守守信が市中町法を改正して、七分積金及市中窮民救恤を取扱つたところで、籾や、金や、抵當の地所を持ち、後に明治になつてから、道路、橋、及び瓦斯局や養育院創立の資金を支出した資源だといふ。吉田博士の「地名辭書」はこの町會所と基金は、都市自治の故法を見る所以の者で、都人の當に永記すべきものだと述べてゐる。

會所の規定は、幕府より一萬兩づつ兩度の差加金を得て、會所の基本元資にし、勘定所用達十人に委託して貸付け、その利子で吏員、用達商人、年番肝入り、名主の手當を給し一ヶ年の町費額を定め、前五ヶ年平均町費を差引き、其減額の一分は町内臨時の入費、二分は地主の増收、七分を積立金とし、明治初年、拜領地、拜借地返上のとき會へ抵當になつてゐた地所を下付されたので、千七百五ヶ所の地所をもつてゐたが、八年にはみんな賣却してしまつた。會所の金穀蓄積は、増大したをりには籾四十餘萬石、金は六七十萬兩あつたといふことだ。

<ruby><rb>鳥越</rb><rt>とりごへ</rt></ruby>の新堀川に天文臺のあつたといふ古跡も私たちは知らなかつた。

幕府の米倉は、<ruby><rb>藏前</rb><rt>くらまへ</rt></ruby>須賀橋から厩橋まで建つづき、大川に添つて、南北三百二十間、東北百三十間面積三萬六千六百餘歩と記されてゐる。八つの渠があつて、船の出入りを便にした。この渠は今でも知つてゐる人が多くあるであらう、黒い柵があつて水門が一つづつあつた。<ruby><rb>鬱蒼蟠居</rb><rt>うつさうばんきよ</rt></ruby>の古木とある首尾の松は、清元「梅の春」に<ruby><rb>首尾</rb><rt>しゆび</rt></ruby>の<ruby><rb>松</rb><rt>まつ</rt></ruby>が<ruby><rb>枝</rb><rt>え</rt></ruby>竹町のとうたはれてゐるが、この歌詞はたつた一つ例にあげただけで、首尾の松は下谷根岸の時雨の松（お<ruby><rb>行</rb><rt>ぎやう</rt></ruby>の松）と共に、江戸の小説歌曲にゆかりの深い名木だつた。（書落したが、この淺草倉のほかに、濱町矢の倉、鐵砲洲新倉がある）本所横網のお竹藏は淺草倉に向ひあつてゐて、お竹藏といつても米倉なのだ。これらの<ruby><rb>太倉</rb><rt>ふとくら</rt></ruby>は、橋よりも古い以前に建てられ、ことにこの淺草倉は全國の貢米がはいつてくるのと、庶士の俸祿を渡すところなので、江戸の米の價はといふより、諸國の米の價が、この太倉の虚しいか盈てゐるかによつて高下したのだ。お藏前の札差といへば、私たちは豪富な町人で<ruby><rb>通人</rb><rt>つうじん</rt></ruby>で、はじめから言ふ目の出た暮しをしてゐたものと、頭から特別階級のやうに思ひこんでゐたが、はじめはさうではなかつたのだ。しかし、寛永年間、札差がはじまつて以來、天下の商人がおよそ羨んだに違ひのないことは、

――家産殷富を占め、勢甚矜豪を持す、當時俗間富豪をさして、札差の如しといふ、以て其盛滿を知るに足る――

と書かれてあるのでも知れるが、札差は一人一軒だけが富有なのではなく、百一人店を並べてみな致富なのだから、勢ひは他の一人立ちの富者を壓したのであらう。この人々の金の捨てどころが深川の<ruby><rb>巽巳</rb><rt>たつみ</rt></ruby>であり、吉原であり、兩國橋畔なのであつたから、まけじ魂の金持たちが爭ひ集つて來て遊樂に散じた金は、<ruby><rb>世智</rb><rt>せち</rt></ruby>がらい當今ではちと思ひおよばない高であつたらうと考へられる。

しかし、札差はもとから富んでゐたのかといへばさうでない。ぽんぽち<ruby><rb>米</rb><rt>まい</rt></ruby>を食つてゐた<ruby><rb>痩侍</rb><rt>やせざむらひ</rt></ruby>の膏を吸つたのだ。米價を釣りあげて細民を餓ゑさせた餘徳だ。

「大倉の邊に、札差を業ひする豪戸あり、札差は他に比類なき一家業を營むもの」と記されてあるが、この豪戸は、たちまちにして豪戸になつたのだ。他に比類なき一商業とは、計算利益にうとい武士どもがあつたればこそ出來上つた商賣なのだ。

お藏前の通りには、米倉に向つて向側に、手形書替所が二ヶ所あつて、役所には書替奉行といふものが各一人づつあり、ほかに手代が居た。お<ruby><rb>切米</rb><rt>きりまい</rt></ruby>、お<ruby><rb>扶持米</rb><rt>ふちまい</rt></ruby>、<ruby><rb>御役料</rb><rt>おやくれう</rt></ruby>の手形書替へをする。札差の前身は、その役所近くに食物や、お茶を賣つてゐた<ruby><rb>葭簾</rb><rt>よしず</rt></ruby>ばりの茶店だつたのだ。客を待たしておいて、書替に役所へ出入りしたり、大倉へ米をとりにいつたりしてゐるうちに、その道に明かになり、狡いこともうまくなつたのだ。剩つた米を安くかつて米店をはじめたり、貧乏旗本や<ruby><rb>御家人</rb><rt>ごけにん</rt></ruby>に金を融通して、扶持米をとりあげたり、高利をとつたりしたのだ。思ふに、これはとてもぼろい商賣だつたのに違ひない。算當知らずの二本差と、袖の下のきく商人のやうな役人たちが對手だから、面白いやうに儲かつたのであらう。寛永ごろには立派な者になつたから、この利益の多い職業の人數をかぎることを思ひついた。いざこざはさぞあつたであらうが、はじめ同商業は九十六人といふことに定まり<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に百一人になつた。

――扶持米とは、一人一日の食料をもとにして、米を以て毎月給與する月給で、徳川幕府の定めは、一人一箇月の分が、玄米一斗五升。切米とは、扶持米を數囘に分けてか、又は金錢に<ruby><rb>取</rb><rt>と</rt></ruby>り<ruby><rb>替</rb><rt>か</rt></ruby>へて渡すことをいふので、手形の書替とは、<ruby><rb>切米券</rb><rt>きりまいけん</rt></ruby>を、請取にしてもらふことで、請取手形が渡ると、受取人の名を紙に書いて割竹に挾み、大倉役所の藁苞に揷込んでくるのである。さうして、御家人、又は旗本の代理人となつて米を受取り、米を家へ送りとどけたり、殘りを金に代へてやる面倒を見る、それが札差の名の基になつてゐる。

札差の手數料は祿高百俵について金壹分、百俵以下は一分を限度として談合のことになつてゐたが、それは表面だけのことで、米相場の高低、秤の具合など、赤ん坊對手の商業のやうなものであつたらう。幕末には幕臣の多くが<ruby><rb>遊墮</rb><rt>いうだ</rt></ruby>になつて、狡くなり、中には札差を脅迫したり威したりしたでもあらうが、二百年もかかつて絞りあげた富は莫大な高である。しかも大岡越前守が、御米渡しも夏冬の二季と定めてからは、札差の利徳はことに大きくなつたのだ。貧乏旗本や御家人が、半年分の米を積んでおける餘裕のある筈はないから、みすみす半期の<ruby><rb>飯米</rb><rt>はんまい</rt></ruby>が消えてしまはうとも、金に代へなければならない。それよりも、その殆が前期の利子に、元金の借に差引かれてしまつたのだ。私は子供のころ小旗本の老人に、幕末時代のそんな愚痴をきかしてもらつたことを覺えてゐる。御歴々でもさうだといつた。<ruby><rb>一年</rb><rt>いちねん</rt></ruby>の<ruby><rb>取前高</rb><rt>とりまへだか</rt></ruby>はみんな札差がとつてしまつて、諸拂にと少しばかりわたされるので困つてねだりにゆくといつた<ruby><rb>案配</rb><rt>あんばい</rt></ruby>で、どつちが出入りなのだかわからなくなつてしまつて、お金も米も、先方の帳面によるのだから、何代前の主人が借たのかさへ分明しなかつたともいつた。

江戸の金融は、そのほかに幕府や諸藩の御金御用達があつた。それらの少數の富豪たちの息のかからない藝人、粹人はなかつたといつても間違ひはなからう。畢竟川開きもそれらの人たちからはじまつたと見てもよいかと思ふ。

これだけでもあらかたの、徳川期隅田川筋の物資集散が知れるかと思ふ。<ruby><rb>大川橋</rb><rt>おほかはばし</rt></ruby>といふ名でかかつた吾妻橋上流の兩岸は、あまり知れ亙りすぎてゐるほどの<ruby><rb>東名所</rb><rt>あづまめいしよ</rt></ruby>で、いはゆる風流の淵叢となつてゐた。

さて、花火のあがる兩國橋は、淺草見附升形を出ると、廣小路には見世物小屋、小屋掛芝居、並び床（理髮）並び茶や、このところ船宿料亭多しと名所圖繪には書いてある。<ruby><rb>荻生徂徠</rb><rt>おぎふそらい</rt></ruby>が、

兩國橋邊動櫂歌　　　　江風涼風水微波

怪來岸上人聲寂　　　　恰是彩舟宮女過

と詠じたのは、舟遊びをほめあげるために陸には人が居ないやうにいつてゐるし、

千人が手を欄干やはしすずみ

の其角は、橋の上の方の贔屓だ。

納凉は五月廿八日に始り、八月廿八日に終る。常に賑はしといへども、就中、夏月の間は尤も盛なり。見世物所せき斗りにして、其招牒の幟は風に篇翻と飄り兩岸の厦樓高閣は大江に臨み、茶亭の床几は水邊に立て連ね、燈の光は耿々として水に映ず。樓船篇舟所せくもやひつれ、一時に水面を覆ひかくして、恰も陸地に異ならず絃歌皷吹は耳やかましく、實に大江戸の盛事なり、俗に川開きといふ即是なり（名所圖繪）

柳橋藝妓は<ruby><rb>巽巳</rb><rt>たつみ</rt></ruby>の羽織――富が岡八幡<ruby><rb>門前仲町</rb><rt>もんぜんなかちやう</rt></ruby>の藝妓――が止められてから柳橋へ移つたのだといふが、本所一つ目お旅の辨天にも岡場所の藝妓たちが居た。かうした人氣とりの世界に、きりはなせないのは角力場で、はじめは深川八幡内で興行してゐたが、寛政三年になつてから囘向院が本場所となつた。したがつて、その附近の町に力士部屋があつたから、場處がはじまると兩國近所は<ruby><rb>町中</rb><rt>まちぢゆう</rt></ruby>が狂氣のやうに興奮してしまつたのだ。地元は八ヶ町ととなへて、特別觀覽の木札が渡つて來てゐたから、力瘤の入れ方も一層だつたのであらうが、川風に吹きさらされ、大川に鳴り響き、江戸中の曉の夢を破る櫓太皷が、とても地元の者の元氣を皷舞したのだ。一たいに色彩や、音響や、光りに缺けてゐた時代に、櫓太皷の破れるやうな強い音とか、花火の爆發とか、暗い空に開く火傘――といつたものは、光りと音響と色彩に麻痺しつくした近代人の、考へてやれないほど特種の魅力だつたに違ひない。

だが、江戸の都市美には田園風景を多分に抱へこんでゐた。いま、江戸憧憬者が惜がるのは、都の中にあつた田園水郷の風趣が、都會的に洗練されて小ぎたならしくないのと、それに織りまざつた豪奢な風流逸事を、現今の生活では、たとへ金があつてやつてみても氣分がそれに伴ひきれない怨みを、美しい追憶としてゐるやうだ。私も震災後の雜ばくたる下町へゆくと、生れ故郷ではあるけれど見たくない思ひがする。それはあまり見馴れすぎてゐた舊文明の<ruby><rb>殼</rb><rt>から</rt></ruby>が眼のうらにありすぎるからだ。兩國橋畔の變りかたは實に汚ならしい。隅田川筋一帶がさうではあるが、<ruby><rb>他所</rb><rt>ほか</rt></ruby>は近代的美を徐々に造りつつあるとき、兩國橋附近も<ruby><rb>直</rb><rt>ぢき</rt></ruby>にさうなるであらう。

何處やら物悲しく感傷的にさへさせた花火――花火がすんだ暗い川を、遠くに<ruby><rb>流</rb><rt>なが</rt></ruby>れてゆく三味線の音をきき、船の櫓のきしみを耳にしながら、話も盡きて、無言で漕がれてゆくのはさびしかつた。鐵橋や、鐵筋コンクリートの高樓や、高架線や、モーターボートや、種々な近代的都會美を輝やかせる花火の方が、どんなに花火らしい花火だか知れない。

草原などで、ポーン、ポーンと、青い玉や赤い玉の出るお粗末な花火を上げるのも好きだし、門の凉台であげる線香花火も可愛いと思ふが、兩國の川開きだけは立派な上にも豪壯なのが好い。近ごろでは仕掛け花火を主にするやうだが、河畔に集る人にはそれでよいが、全市を飾る、兩國の川開きなら、何處のビルヂングの窓からでも眺められる、遠景をおもんばかつた、とても雄大な火傘が、つるべ打ちにうちあげられて、空を飾るのが近代都市美の上からいつても本當だと思ふ。そして時間は短かい方がいい。花火もお酒を飮みながら見てゐるとしても、飮みかたも違つて來てはゐはしまいか。麥酒を一ぱいグツと飮むと、パンパン、パンパンパンと空で裂ける音は景氣がよからう。胸がスーツとするだらう。おそらく元祿時代の昔の人は、そんな氣持だつたのだと思ふ。ハツと手に汗を握るくらゐ、氣の弱いものは動悸がするほど目覺しくやつたら、川開きの人氣は兩國の川の上ばかりではあるまい。柳橋三業組合にまかせておかないで、川開き花火を全市のものにすることを、高いところに窓をもつレストランやカフエや、空間の多いビルヂング經營者にもすすめる。高架線のプラツトホームや、省線の窓からの見物なんかも素的な近代風景ではないか。

（「改造」昭和九年七月）