Soranoha

下谷練塀小路

したやねりべいこじ

正岡 容

私は下谷練塀小路河内山宗俊屋敷に誕生した故であらう、かの市井無頼の遊侠徒たる河内山に対して平常並々ならぬ好意と親愛の情をおぼえないわけには行かない。されば戦前戦中、また戦後の今日も屡々私は青山高徳寺にその墓を掃つてゐる。高徳寺はかの梅窓院の向ふ横即ち青山電話交換局の建物に副つて右折、さらに西へと一、二丁入つた右側の寺である。この寺のやゝ手前左側にはかの鈴木主水(百度ももどと門前案内の石標には刻されてあつた)の菩提所もあつたが、今次の兵火にその石標の方は砕けてしまつたものと見えて已になかつた。もちろん高徳寺とて嘗ての三葉葵の紋どころ燦然と破風づくりの大屋根にかゞやかしてゐた崇高な本堂は最早再び此を仰ぐ可くもないが、門内右側の東京著名講談師たちに拠つて寄進された河内山宗俊の碑とその墓石が全きを得たことはせめてもの倖としなければなるまい。殊に私はこの石碑を打眺めるたびに太だ好感情を禁じ得ないことは典山文慶のやうな世話物の妙手にこの企のあるは当時としても、貞山、馬琴、如燕、若燕、南龍のごとき「天保六花撰」をば未だ嘗て一とくさりだに高座で読んでゐない人々が共にこの建碑に出費してその名を列ねてゐると云ふ美事である。他に松鯉、伯山らの名もあつたかと記憶してゐる。是れ偏に鴎外先生が「渋江抽斎」末章を引用する迄もなく、旧東京市井文明の中に生を享けて来た芸人諸家の、社会上流の軍官貴紳に比して却つてその情誼のほどの濃やかにも美しかつたことを立証して余りあるものであらう。それにつけても同じく「河内山豪胆録」を積年十八番とした先代木村重友や当代の木村友衛ら浪花節社会に何ら故人へ報恩の行事なきは遺憾に耐へないので、私はこのほども旧友玉川勝太郎に酔中力説したことがあつた。彼と当代の友衛とは莫逆の間柄であり、彼自らも亦戦後久々に「河内山」口演の抱負あることをそのとき私は陳述したからである。ところで私が河内山の墓前に佇む毎に、いつも頗る滑稽のやうな気の毒なやうな想ひに駆られないわけには行かないのは、已にその墓石の大半がかの回向院に於る鼠小僧次郎吉のそれのごとく、通行の諸人に拠つて無惨に打砕かれてゐることである。古来鼠小僧の墓石の一片を所有して会場に赴けば、必ずやその日の無尽は当るものとされてゐる。春秋風雨いつの間にやらわが河内山の墓標も亦三角籤三色籤のマスコットと伝説されてしまつたものなのであらう。尤もこの奇習は戦争以前にも行はれてゐて已にその当時この災禍から免かれるため張りめぐらされてゐた金網までがさらに破損され、墓石は大半損傷されてその文字すら読み難くなつてをり、纔に後世再建のものが傍らにさらに建立されてゐたことを記憶してゐる。殊にいよ〱滑稽千万なのは河内山と隣接の見知らぬ人の墳墓までが災難にもめちや〱に打砕かれてゐることで富籤の利得に狂奔した強慾手合は、只管河内山墓と誤つてこの墓をも打砕いてしまつたのであらうが、蓋し此以上の近所迷惑はあるまい。さて河内山の墓標は、再造の分に左の文字が刻まれてゐるから紹介して見よう。

求道浄欣信士

俗名河内山宗春

文政六年七月廿二日

宗俊の本名は近世実録全書所載の稗史小説と同じく「宗春」であると見える。文政年間、伝馬町御牢内に毒害されてゐるとすれば、此を天保年代まで延命活躍せしめたのは、正しくかの泥棒伯円が張扇の所産に俟つものでなければならない。私が戦前この墓を掃つたときには花売りの婆さんは、大井町辺にその子孫の老女がをり折々香華を手向けに来ると私に談つたが、聞説く幕末御一新騒乱のころ両国水茶屋の茶汲女としてその嬌名を唱はれてゐた河内山落胤のさらにその娘にでも当るものであらうか、戦後の今日も尚詣でるものがあるかどうか元より私は未だ問ひ質してゐないが、去年の暮春赴いた折も今年の早夏杖曳いた砌りも、高徳寺は講釈師建立の大石碑を廃棄するらしい景色もなくむしろ寺内に江戸巷間のこの快男児の墳墓のあることを歓迎してゐるらしく見受けられたは、わがお数寄屋坊主河内山のために太だ幸甚としなければならない。或は三葉葵の定紋大屋根に戴いてゐた高徳寺の当主は、私共と志を同じくする大江戸平民文化讃仰者であるのかもしれない。昨春、斜陽を浴びて私が参詣の際は寺内荒涼、香華を沽うる店とて見当らなかつたので墓畔水いろの小さな花を咲かせてゐた勿忘草の一と束を毮り取つて手向け戦後いのち全く再び郷土に帰住した報告をして、しづかに去つた。いまにその日のことを私は忘れがたなくおもつてゐる。

ところで私が生誕したころの練塀小路の河内山旧邸は已にその当時二分して、戦前まで営業をつゞけてゐた寿と云ふ鳥料理とそれ〲が半分づつ住んでゐたものか、それとも、家を挙げて私共が浅草花川戸へ移住後、その鳥料理は始めて開業したものなのか、しかしながら私の家に河内山遺愛の石燈籠があり、縁側下には大抜け穴があり、また広大なその庭園一帯は此又河内山の好みとして宛かも果樹園のやう果実の実る花木許りを雑然と植ゑちらしてゐたものであつたなどと云ふこと丈けは幼時亡祖母から繰返し〱聞かされてゐた。今日私の手許にも現像至極不鮮明なこの庭園の写真が一枚のこつてゐるが、明治末年の新派劇の園遊会場面に見られるやうな芝生を敷きつめた庭内の一部のみが平凡に映つてゐる許りで、特色ある果樹園風の庭の景色は少しも紹介されてゐない。

ところで白浪物を多く創作口演したところから通称を泥棒伯円と唱はれた二世松林伯円も嘗て河内山の邸宅に居住してゐたので、その一代記の創作をおもひ付いたと云はれてゐる。とすれば私共の一家が居住してゐた一、二代前、夙くも彼はこの廃邸に起臥してゐたものらしい。河竹黙阿弥が伯円の講釈の高評に動かされて「雲上野三衣策前」を劇化上演したのは明治七年十月であるから当然伯円が製作発表したのはその以前。或は明治改元当時であつたかもしれない。伯円の河内山速記にはかの玄関先の快文字はなく、また直侍よりも金子市の方を二枚目として優遇してゐる。従つて玄関先の快、入谷の婉、此らはいづれも黙阿弥その人の創作である。暗闇の丑松の五斗兵衛市ころし、此又伯円の創作ではなく後世上方種の産物である由。五斗兵衛市の殺し場とさらにその前席、すみだ川舟遊中の河内山の宴席に己が妻女の芸妓となつて侍るのを丑松が見て、忽ち憤怒して暴れ込んで来る丑松宗俊初対面の一席とは今日神田伯龍が斯道唯一の好演技を示してゐる。伯龍は故一立斎文慶からお数寄屋坊主の風習言語容姿などの演出に付いて誨へられるところ寡くなかつたと嘗て私に語つたことがある。彼の河内山を聴いてゐると常に坊主頭の快漢が目前に髣髴として来るのは、常にこの肚があつて読んでゐるからであらう。亡悟道軒円玉はまたその先君が両国の水茶屋で前出の河内山遺愛の娘とく女と馴染み、親しくその実父の境涯行状を聞知するに及んで、わが子の師である伯円に逐一此を伝へたことが「天保六花撰」出来しゅったいの縁起に手記してゐる。泥棒伯円は已に河内山邸宅に居してゐたところへ偶々円玉の父からこの話を聞かされ、重ね〲の機縁に瞠目すると共にいよ〱創作の情熱を燃え立たせたものなのであらう。

明治十四年陽春の「諸芸新聞」は、後年、蔵前の大師匠と呼ばれた三代目春風亭柳枝が人情噺「河内山」の続読みをして好評中であると報道してゐる。柳枝はそのころ初代燕枝門下の新進気鋭として只管勉励の途にあつたから、その三月、新富座に改訂再演された「天衣紛上野初花」の大評判から、直ちに此を自家薬籠中のものとなし遂げたにちがひない。かくしてはじめ伯円に拠つて話術化された河内山一代の行状録は、黙阿弥の劇化を経て三代目柳枝に至り、再び話術の世界に還元したわけである。私は柳枝口演の「河内山」の速記録、未だ一読の機会を得てゐないが。

万々一、今日やまと新聞の附録あたりに保存されてゐるならば、講談と人情噺と浪花節と歌舞伎との「天保六花撰」の差違を詳しく研究、後人にのこしておき度いと考へてゐる。

さて私は、余りに河内山に付いてのみ語り過ぎたかもしれない。また綺堂先生が『半七捕物帳』中の「唐人飴」や「青山の仇討」に見られるがごとき青山高徳寺境内の光景にのみ筆を費し過ぎたかもしれない、でも、下谷には当歳から三年しか住まず、間もなく浅草へと移り住んでいつてしまつた私には、下谷練塀小路への回想は全くのところ瞼に蘇る何一つとてない。今日強ひて下谷へのおもひでを挙げようならば、御成道の大時計、同じく御成街道東側にあつた風船あられ屋の舶来風絵看板、動物園裏門下の通りで見た先代市川団蔵の世にも花やかな葬儀の大行列、あぶらでりした七月の朝小舟で船頭が漕いでいつては採つて来て呉れた不忍の池の蓮の花と実。そして鴎外の小説「雁」、荷風の小説「曇天」。

清水堂ちかくの秋色桜は、大正中世、川柳久良伎翁が中心となつて植樹されたものが枯れ、のちさらに何代目かの桜が戦乱中、たしか鶯団子の主人に拠つて新しく植ゑられた。講談の「秋色桜」は先代一龍斎貞山の十八番であつたが、近時偶々私は一立斎文車の「秋色桜」速記(大正三年四月号「娯楽世界」)を一読に及んで、貞山と文車の演技には可成の差違のあることを知つて、大いに〱勉強となつた。先づ貞山は秋色を菓子職人六右衛門の息女としてゐるが、文車は八丁堀水谷町駕籠屋甚兵衛の娘として演じてゐる。駕籠屋なればこそ、のちに秋色出世後、自ら娘の乗物も担いで、自然に宮家へ赴くのだと云ふ此が文車の解釈であらう。さうして秋色成人後、茅場町の菓子舗伊勢屋の悴で其角同門其友の許へと嫁してゐる。また貞山は秋色の句の「青柳や車の下のこぼれ米」、此を「こぼれよね」と読んでゐたが文車は「こぼれごめ」、此はどうしても後者でないと、情景が泛んで来ない。そのくせ貞山は角田竹冷邸で秋色の真筆短冊を一見したら「井の端の桜あぶなし」ではなくて「井戸端の」であつたなどと云つてゐたが、あの美文詠嘆調のユニイクな話術であつたからつい〱「こぼれよね」などと下手に雅みやびめかして発音してしまつたのであらう。文車の演出は一体に写実で懇切で味があり、町内の人たちが向島の雑沓を嫌つて上野のしづけさをたゝへる会話のところでも江戸墨堤の群衆のさまがじつにあり〱と描かれてゐる。蓋し貞山とちがつて当時已に高齢であつた文車は身を以て江戸向島の観桜風景を体験してゐるからであらう。同様のことは上野の春景色を叙べてゐる左の件りなどに於ても云へるが、じつに今日通読して尊い市井の一文献であり、舌で綴られた江戸の活写真の感が深い。曰く、

「只今は入り口は開ツ放しでございますが、昔はなか〱儼しかつたもので、今も袴腰と云つて、石垣が残つて居りますが、彼所に黒門が二つ在て、池の端の方は町人でも誰でも往来が出来るが、山下の方は将軍家が上野へ御成りの時とか、諸大名が御代参にでも行く時でなければ開けません、其れに下寺したでらと云つて……今は通行路とおりに成つて居るが、彼所は三十六坊の寺の在つた所、又山王台と云ふ只今西郷さんの銅像の在る所は、山王の社があつて、其れには金箔を置た猿やえんと龍の彫刻ほりものがございまして、実に立派な物であつたが、慶応四年の戦に一燼の灰となつてしまつた、黒門を入りまして、左の方が東照宮の御宮入口に門が有つて、其れで其所そこには撞楼堂が在る、是れも亦焼けてしまつたが、今小松宮様の銅像がございますが、彼所が撞楼堂であつた、欄干に左り甚五郎の彫た龍があつて、其れが夜な〱池の端へ、水を飲みに行つたと噂をされた位、美事な彫物であつたが、之も歩兵が射出うちだした鉄砲の為に、焼かれてしまつた、其れから中堂、此の中堂は金が費かかつて居た、欄干は総朱塗で、橋があつて之を天馬橋ばし、一名虹の橋と云つて、寔まことに結構なもので、其れを正月の十六日と、盆の十六日には小僧の宿下りの日といふので、此の橋を渡らせる、実に立派な御堂であつたが、之も慶応の戦に焼けてしまつた、其れに今は屏風坂を登つて右の方に大師堂があるが、彼の大師様は三十六坊をグル〱廻つたもので、月の晦日と三日が縁日、今は御堂が出来て其堂それへ落着いたが、以前もとは然そうではない……宮様の御在おいであそばす所は只今の博物館の所で、今日も門は残つて居ります、十月の二日には三十六坊を宮様が御廻りあそばす、其時は山同心が先に立つて、下に〱の制止声で、実に大層な御威光の有つたもの、此日は町人拝見勝手次第と云ふのですから、御山は人に埋るやう、然し宮様は、上輿あげこしで御出になり、御簾みすが下つて居るから何うして御顔を拝す事なぞは出来なかつたもの、モウ斯う云ふことは、今に誰も話す者がありますまいから、鳥渡茲に申述べて置きます……」

云々。傍らのヽは特に私が附したのであるが、文車の口吻裡には兵火に亡びた江戸文化中の至宝をあくまで惜別してゐる江戸市井人の感懐さへ滲んでゐて頗るおもしろい。

「起きよけさ上野の四つぞ花の雨」の抱一、「銭湯で上野の花の噂かな」の子規の句情さへ、身近にうかゞはれて来るではないか。後者は先日歿した四代目小さんも十八番の「長屋の花見」のまくらで常に引用してゐた。ところでこの文車は俗にガチャ文。即ち読口やゝ五月蠅く徒らに達者なるのみの存在と云ふ定評があつた由だが、しかも今日その速記本を仔細に耽読すれば、このやうな詩味慈味がある。蓋し当時は未だ〱名人上手余りにも多く、この文車程度では纔に芸達者と云ふ程度にしか認められなかつたのであらう。

また茲で不忍の話に戻つて、戦ひ敗れて食餌に乏しい東京都では、明治新政以来、已に埋没の一途を辿つてゐた不忍池の、さらにその半を充てゝ稲田とした。

去歳秋日、偶々私は月例の円朝、狂馬楽ら墓参の途次、池畔に佇つて今更ながら田海桑滄以上の感慨、催さないわけには行かなかつた。即ち次の川柳一句を吐露して、やがて足早に過ぎ去つたのである。

不忍や権九郎より定九郎

(昭和丁亥歳晩改稿)

底本 / Source edition

底本:「東京恋慕帖」ちくま学芸文庫、筑摩書房
2004(平成16)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「東京恋慕帖」好江書房
1948(昭和23)年12月20日
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:酒井和郎
2016年3月4日作成
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書誌 / Bibliography
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正岡 容「下谷練塀小路」(新字旧仮名)、底本『東京恋慕帖』ちくま学芸文庫、筑摩書房、2004年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 047645_001313, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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