一

長い陰気な梅雨が<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く明けた頃、そこにはもう<ruby><rb>酷</rb><rt>きび</rt></ruby>しい暑さが待ち設けて居て、<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>都大路も<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くは人通りの杜絶える真昼の静けさから、豆腐屋のラッパを合図に<ruby><rb>次第</rb><rt>しだい</rt></ruby>に都の騒がしさに帰る夕暮時、夕立の様な<ruby><rb>喧</rb><rt>やかま</rt></ruby>しい蝉の声を浴びながら<ruby><rb>上野</rb><rt>うえの</rt></ruby>の森を越えて、私は久し振りに<ruby><rb>桜木町</rb><rt>さくらぎちょう</rt></ruby>の住居に友人の<ruby><rb>橋本敏</rb><rt>はしもとびん</rt></ruby>を訪ねた。親しい間とて案内も乞わずにすぐ彼の書斎兼応接室の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドアー</rt></ruby>を叩いて中へ入ると、机に向って何か考えて居たらしい彼は入口へ首を<ruby><rb>捻</rb><rt>ね</rt></ruby>じ向けながら、

「やあ、君か。久し振りだね。まあ掛け給え」

「昼間は暑くてとても出られないからね。上野の森は<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>し悪くはないね」

「上野と<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>えば君、今度の展覧会の真珠塔だがね」友は扇風器を私の方へ向けながら、「何か変った事を聞かないかい」

「イヤ。いろいろ評判は聞くが変った事は聞かないね。何か事件でも起ったのかね」

友は黙って数葉の名刺を私に渡した。一枚は警視庁の<ruby><rb>高田</rb><rt>たかだ</rt></ruby>警部の名刺で、「東洋真珠商会主<ruby><rb>下村豊造</rb><rt>しもむらとよぞう</rt></ruby>氏貴下に御依頼の件あり参上仕るべく何分<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しく<ruby><rb>願上候</rb><rt>ねがいあげそうろう</rt></ruby>」と書いてあり、一枚は東洋真珠商会主下村豊造氏の名刺で、一枚は同製作部主任<ruby><rb>佐瀬龍之助</rb><rt>させりゅうのすけ</rt></ruby>と書かれて居た。

「この二人が少し前に会いに来たそうだ」友は私の見終るのを<ruby><rb>俟</rb><rt>ま</rt></ruby>って云った。「<ruby><rb>恰度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>僕が留守だったので後程伺うと云い置いて帰ったそうだよ」

先年東京に××博覧会が開かれた時、<ruby><rb>其</rb><rt>そ</rt></ruby>の一館に有名なるＭ真珠店が数十万円と銘打って、一基の真珠塔を出陳して世人を驚かした事は、尚諸君の記憶に<ruby><rb>新</rb><rt>あらた</rt></ruby>なる所であろう。所が本月より×××省主催の美術工芸品展覧会が、上野竹の台に開催せらるると、近来Ｍ真珠店に対抗して漸く頭角を現わして来た東洋真珠商会は、先年のＭ商店の出品物を<ruby><rb>遥</rb><rt>はるか</rt></ruby>に<ruby><rb>凌駕</rb><rt>りょうが</rt></ruby>する壮麗な真珠塔を出陳したのである。諸君も<ruby><rb>既</rb><rt>すで</rt></ruby>に御承知の事と思うが、私の見た所では塔の高さは約三尺<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の<ruby><rb>大和薬師寺</rb><rt>やまとやくしじ</rt></ruby>の東塔を模したと云われ、三重であるが<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>裳階を有するので、<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>見ると六階に見える。各階<ruby><rb>尽</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く見事な真珠よりなり、<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に正面の<ruby><rb>階</rb><rt>きざはし</rt></ruby>を登って塔内に入らんとする所に<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>められているものは、大きさと云い形といい<ruby><rb>光沢</rb><rt>つや</rt></ruby>と云い世界にも又あるまじき逸品で、価格三十八万円と云うのも成程と思われる。展覧会開催以来新聞は随分此記事で<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>わされたので、ある新聞によると、東洋商会はＭ商店の製作部の<ruby><rb>腕利</rb><rt>うできき</rt></ruby>の技師を買収して、此の真珠塔を造らしめたのだと云い、ある新聞によると、その技師は不都合の<ruby><rb>廉</rb><rt>かど</rt></ruby>があって、Ｍ商店を<ruby><rb>放逐</rb><rt>ほうちく</rt></ruby>せられたのであると云う事であった。私は新聞で知り得た事を、知れる限り友人に話した。折柄<ruby><rb>呼鈴</rb><rt>ベル</rt></ruby>が激しく鳴って、書生が二人の紳士を伴って入って来た。

「私が橋本です」友は立ち上って云った。「こちらは私の友人の<ruby><rb>岡田</rb><rt>おかだ</rt></ruby>君です」

「申し遅れまして」と五十<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>の赤顔にでっぷりと<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>った紳士は丁寧に礼をしながら、「私は下村でございます」

「私は佐瀬でございます」三十を少し越したかと思われる頭髪を綺麗に<ruby><rb>別</rb><rt>わ</rt></ruby>けた、色白の背の高い紳士は云った。友は椅子をすすめながら、

「どうも暑くなりまして。……して御要件は」

「それがその、ええちと他聞を<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>る事でございまして」商会主は汗を拭きながら云った。

「その点は御心配に及びません。岡田君はいつも私と一緒に働いて<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れる人で、私同様と御思い下さって差支えありません」

「さようでございますか」と商会主は漸く落ち着いて、「実は何でございます。今回私共が×××省御主催の展覧会に出品いたして居りまする真珠塔につきまして、誠に不思議な事が起りましたので、早速警視庁へ御相談に<ruby><rb>来</rb><rt>あが</rt></ruby>りました所、あちらではそう云う事は却って<ruby><rb>貴君</rb><rt>あなた</rt></ruby>に御願い申すがよかろうと云う事で、<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ御迷惑ながら御依頼に上った次第でございます。新聞ではいろいろに申しますが、別に私共はＭ商店に対抗して立つのどうのと云う事はございませんが、私は元来こう云う事が好きでございまして、東洋独特の工芸品として、外国人に誇れるものを造りたいと<ruby><rb>予々</rb><rt>かねがね</rt></ruby>苦心をいたして居りましたわけでございます。所が<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわい</rt></ruby>に、こう云う方面には非凡の腕前のある佐瀬君が来て呉れましたので、今日どうやら人様の口に乗るような品が出来ましたのでございます」

商会主の語る所は<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>うであった。六月の二十日に展覧会が開かれて四五日も<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>った頃、恰度世間で真珠塔の噂が頂点に達していた時分である。商会に二人の客があった。一人は外国人で、アメリカの富豪にして東洋美術品の<ruby><rb>蒐集家</rb><rt>しゅうしゅうか</rt></ruby>マッカレーと云い、一人は一見外国人かと思われる堂々たる日本紳士で有名なる代議士<ruby><rb>花野茂</rb><rt>はなのしげる</rt></ruby>と云う名刺を示して商会主を驚かした。マッカレーは全然日本語に通じないようで、其の日本紳士は<ruby><rb>流暢</rb><rt>りゅうちょう</rt></ruby>なる英語で通訳したそうである。要件は近々娘が結婚するので、七月十日頃の汽船で帰るが、その贈物に例の真珠塔が欲しいが値も高いし、それに会期中持ち帰る訳にも行くまいから、二週間以内に十万円位であの模造品を造って呉れまいかと云うのであった。商会主は佐瀬技師と相談の上八万円で引受けたのであった。日本紳士は、「どの位の程度迄似せる事が出来るか」と聞いたので、佐瀬は、「どうしても品が落ちますから、専門家にかかっては<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わないが、素人になら一寸見別けのつかぬ程度に出来ましょう」と答えたので、大変満足して、早速手附に二万円払い、尚期限を遅らしたり、<ruby><rb>真物</rb><rt>ほんもの</rt></ruby>と充分似ない時には破約すると云う条件で帰って行った。それから佐瀬は二週間専心に此の製作に従事し漸く造り上げた。其間期限の事で一回花野氏から電話があり、こちらからも一度電話をかけたが留守であった。取引の日には早速花野氏が来て<ruby><rb>出来栄</rb><rt>できばえ</rt></ruby>を見て大変喜び、早速残金を支払い自動車で帰ったのである。

それでこの仕事は無事すんだ訳であるが、それから二三日経った今朝の事、佐瀬は展覧会場へ行って相変らず自分の製作品に、人だかりの多いのを満足しながら、肩越しに真珠塔を一目見ると、アッと思わず顔色を変えたそうである。

「全く今朝は驚きました」佐瀬は口を開いた。「思わず人を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き分けて前へ出ました」

前へ出て<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く見ると、一目見て直覚した通り、真珠塔はいつか模造品と置き換えられて居た。

「素人方には少しも御分りならないかも知れませんが、動かぬ証拠は、実は私が模造品を造ります際に数の都合上どうしても、<ruby><rb>疵</rb><rt>きず</rt></ruby>のあるのを一つ使わねばならないので、<ruby><rb>庇</rb><rt>ひさし</rt></ruby>の蔭に眼のつかない所へ<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>めたのです」

「全く。私もその疵のある真珠の事を云われる迄はどうしても置き換えられた事は信じられませんでした」と商会主は口を添えた。

佐瀬は早速商会主を呼んで、取り敢えず守衛の所へ行った。貴重品ばかりの所であるから、夜は特別に二人居て交代で<ruby><rb>不寝番</rb><rt>ねずばん</rt></ruby>をする事になって居たのである。守衛は始めは中々云わなかったそうであるが、激しい詰問にとうとう白状した所は、二日<ruby><rb>許</rb><rt>ばか</rt></ruby>り前の晩夜中にガチャンと<ruby><rb>硝子</rb><rt>がらす</rt></ruby>の<ruby><rb>破</rb><rt>こわ</rt></ruby>れる音がしたのでハッと二人で詰所を飛びだすと、一人の<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>が<ruby><rb>将</rb><rt>まさ</rt></ruby>に明りとり窓から逃げ出す所で、その窓硝子を一枚落したのであった。大急ぎで入口を開けて外へ出た時には既に逃走して居た。場内を見ると、真珠塔がいつの間にか箱から出され、棚から一間許りの所に置かれて居た。<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>し外には何の被害もなかったので二人相談の上、塔を箱の中に戻し、硝子は風で落ちた事にして知らぬ顔をして居たのであった。即ち守衛達は盗賊が未遂の中に逃げたものと思って居たが、それは真物は既に運び去られ、今や偽物を運び入れんとした際に発覚したのであった。そこで二人は展覧会の事務所に<ruby><rb>届出</rb><rt>とどけ</rt></ruby>いで、それから警視庁の方へ行ったのであるが、何分秘密を要する事で、遂に橋本に依頼する事になったのである。

「陳列箱の鍵は<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>誰が持って居るのですか」友は始めて口を開いた。

「二つありまして、一つは守衛一つは私が持って居ります」佐瀬は答えた。

「塔の重量はどの位ですか」

「三貫五百目です。大理石の台がありますから」

「成程不思議な事件だ。宜しい御引受けしましょう。先ず現場と守衛から調べねばなりませんね」

商会主が喜んで佐瀬と共に辞去すると、やがて橋本は警視庁へ電話を掛けた。

「モシモシ、ハア高田君？　ええ例の件でね一寸展覧会の夜間入場の便宜を計って貰いたい。ええ、マッカレーは昨日帰国した。ふん確かな人間？　どうも真珠塔は買わないらしいって。ホテルの給仕が日本人の持って帰るのを見た。ああそうですか。花野は偽名らしいって。そうでしょうなあ。併し何か花野氏と縁故のあるものらしい。ふん、そうそう何でも大きな外国人らしい話も達者な奴らしい。いやどうも有難う。ええすぐ展覧会の方へ行きます。さようなら」私の方を向いて、「どうだ君。一緒に現場へ来ないかね」

二

夏の永い日ざしもはや傾いて、外はもう<ruby><rb>夕暗</rb><rt>ゆうやみ</rt></ruby>であった。上野の山内は白く浮いて出る浴衣がけの涼みの男女の幾群かが、そぞろ歩きをして居た。

展覧会では二人の守衛が待ち受けて居た。幸二人とも恰度先夜の宿直で早速現場に案内して呉れた。

場内はしんとして、夜間開場の設備はないので、広い会場の天井に只二ヶ所、うす暗い電燈が、鈍い光りを眠むそうに投げて、<ruby><rb>昼間</rb><rt>ちゅうかん</rt></ruby>満都の人気を集めて、<ruby><rb>看客</rb><rt>けんぶつ</rt></ruby>の群れ集うだけ、それだけ<ruby><rb>人気</rb><rt>ひとけ</rt></ruby>のない会場は一層静かなものであった。守衛の一人は年頃六十以上の背の高い老人で、一人は軍人上りとか云う丸々とした、頑丈そうな四十恰好の男で、いずれも<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る好人物らしく見えた。

問題の塔は正面入口のすぐ右側に、四方硝子の戸棚に収められ、夜眼にもそのすべすべした豊麗な<ruby><rb>膚</rb><rt>はだ</rt></ruby>は清い色を放って居た。曲者の飛び出した窓は、地上から十五尺ばかりの所を館の周囲をとりまいて居る一連の明りとり窓の一つで、壁際にある一列の陳列棚は九尺であるから、その<ruby><rb>頂部</rb><rt>いただき</rt></ruby>より尚六尺の上に開かれて居る。

「そうです。私が見付けましたので」若い方の守衛は友の問に答えた。「恰度飛び出す所でした。ええ、どの入口にも鍵がかかって居りました。確かです。私共が入口を開けるのに手間取って居たものですから、曲者を逃がして仕舞いました。私共が<ruby><rb>全</rb><rt>まる</rt></ruby>で<ruby><rb>共謀</rb><rt>ぐる</rt></ruby>かなんぞになって居るように思われますので甚だ残念ですが、どうしてあの塔をあの高い窓から運び出したのでしょう」

友は窓の高さを目測したり、戸棚の周囲を丁寧に調べたりした揚句、腕を組んで瞑想を始めた。この時こそ友の<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>の最も働いている時である事を知っている私は、黙ってそれを眺めて居た。

「窓硝子の落ちた音で気が付いたと云うのは確かですか」友は突然に聞いた。

「確かです。<ruby><rb>破片</rb><rt>かけ</rt></ruby>が散って居りましたり、外に硝子のこわれた所はありませんでしたから」

友は又深い瞑想に陥った。

やがて何か思いついた如く、守衛達に一礼して場外に出た。<ruby><rb>山下</rb><rt>やました</rt></ruby>の<ruby><rb>菊屋</rb><rt>きくや</rt></ruby>で夕食をした後友は<ruby><rb>神田</rb><rt>かんだ</rt></ruby>に行こうと云い出した。私は云うがままに彼について行った。

「何分守衛が発見してすぐ訴えないものだから、指紋は<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>、何の証拠になるようなものもない」路々友は語った。「守衛は大丈夫らしいね」

<ruby><rb>神保町</rb><rt>じんぼうちょう</rt></ruby>の停留場で我々は降りた。その辺の迷路にも似た<ruby><rb>小路</rb><rt>こじ</rt></ruby>を、あちこちと二三丁歩いて、ある建物の前に来た時に、彼は立止って<ruby><rb>突然</rb><rt>いきなり</rt></ruby>その<ruby><rb>呼鈴</rb><rt>ベル</rt></ruby>を押した。私は驚いて表札を見ると花野茂としてあった。取次が出ると橋本は花野さんに御目にかかりたいと云った。

「先生は今御旅行中です」とブッキラ棒に取次は答えた。

「私もそう新聞で承知いたしました」友は云った。

「併し是非御願いいたしたい事がありますので、迷って居りますと、今朝電車で偶然久しい前外国で御目にかかった事のある一寸御名前を忘れましたが、その方がこちらと御知合だそうで、先生は御在宅の<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>だと教えて下さいましたので」

「ハテな。誰だろうな」と取次は書生部屋の仲間に振り向いて云った。

「外国と云えば<ruby><rb>田村</rb><rt>たむら</rt></ruby>さんじゃないかね。併しあの人は先生の留守は知っている筈だがね」

「<ruby><rb>脊</rb><rt>せ</rt></ruby>の高い一寸外国人のような方ですが」

「じゃ田村さんだ。どうしてそんな事を云ったろう」

「田村さんは只今どちらでしょう」すかさず橋本は聞いた。

「<ruby><rb>駿河台</rb><rt>するがだい</rt></ruby>の<ruby><rb>保命館</rb><rt>ほめいかん</rt></ruby>に御出でしょうと思います」書生は<ruby><rb>迂散</rb><rt>うさん</rt></ruby>くさそうに答えた。

「どうも有難うございました」礼を云って友は外へ出た。足は<ruby><rb>自</rb><rt>おのず</rt></ruby>と駿河台に向う。

最近に増築した保命館は此辺切っての旅館であった。幸か不幸か田村君は在宅であった。

「マッカレーさんと仰有る人から頼まれましたのですが」と友は刺を通じた。我々は彼の部屋に通された。橋本が人相書に依って訪ね出した所の、その人相の所有者は悠然として我々の前に現われたのである。

「早速ですが田村さん。私は実はこう云う職業のものですが」と再び名刺を渡しながら、「何事も隠さず云って頂きたい。そうでないと我々は貴君を氏名詐称と、<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>しかすると、詐欺取材で告発しなければなりません」

田村氏は一度は青くなり一度は怒ったが、やがて観念した如く話し出したのは次の如くであった。彼はマッカレーに近づいて何か一儲けをしようとして居ると、マッカレーが真珠塔が欲しいと云うので<ruby><rb>之幸</rb><rt>これさいわい</rt></ruby>と、模造品を商会に造らせ、売り込もうとしたがマッカレーに<ruby><rb>看破</rb><rt>みやぶ</rt></ruby>られ止むなく宅へ持ち帰ったが、八万円もヒド工面で<ruby><rb>造</rb><rt>こし</rt></ruby>らえたので、もう夜逃げの外はないと覚悟して居ると、不思議な買手が現われて助かったのである。その買手はマッカレーの紹介だと云って訪ねて来た男で結局七万円で譲ったのだった。

「黒眼鏡をかけた脊の高い、少し猫脊のような人で<ruby><rb>頤鬚</rb><rt>あごひげ</rt></ruby>をつけて何だか聞き覚えのある声の人でしたが矢張初対面で、少し怪しい所もありましたが、背に腹は代えられず一万円の損で譲りました。この上貴君方に訴えられれば申分ありません。天罰です」

「イヤ、私は貴君を告発しなければならない位置に居るものではありません。御話しに<ruby><rb>偽</rb><rt>いつわり</rt></ruby>がないと云う条件で、別に荒立てる必要はありません」と友が云った。

「天地神明に誓って偽でない事を断言します」

保命館を出て駿河台下の方へ来かかると折柄、そこの大時計は十時を打ち出した。折角<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>った糸が又この異様な新な買手の<ruby><rb>為</rb><rt>た</rt></ruby>めにプッつりと切り離たれたのは、友にとって打撃に相違なかったが、左程落胆している模様も見えなかった。ここで私達は別れたのである。

翌日午後橋本から電話で帰りに寄って呉れと云うので、私は勤先からすぐ彼を訪ねた。

「やあよく来て呉れたね。実は六時に佐瀬、そら例の商会の技師の、あの人が来る事になっているが、僕は一寸出掛けねばならないので、君一つ相手をして、<ruby><rb>成可</rb><rt>なるべ</rt></ruby>く七時頃迄待たせて<ruby><rb>居</rb><rt>お</rt></ruby>いて貰いたいのだがね」

私が引受けると、彼は直ぐ出掛けて行った。六時に佐瀬がやって来た。私は友が急用で出掛けた事と是非待って居て貰いたい事を告げると、彼は迷惑そうに腰を下した。

「橋本さんは少しは当りがつきましたでしょうか」

「さあ」私は彼の問にどの程度迄答えてよいか分らなかったので、「多少見当はついたようです」

「不思議な事件ですからなあ、あの外国人や花野さんが関係して居るんでしょうか」彼は聞いた。

「それは多分関係はないでしょう」

「どうして分りましたか」彼は意外と云う風に少し声を高めた。

「イヤ、多分真物とスリ替える目的で、模造品を註文したのではなかろうかと思うのです」

七時に<ruby><rb>近</rb><rt>ちかづ</rt></ruby>いても友は帰って来なかった。佐瀬が<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>を告げようとした時に、電話の呼鈴が激しく鳴った。私は急いで受話機を取り上げると、橋本の声で、佐瀬君を待たして御気の毒であったが、実はもう御帰りかと思って、御宅の方へ伺った所で、塔の問題に少し当りがついたから、皆さんに御話したいから、すぐに二人で来て呉れと云うのであった。

佐瀬の宅は<ruby><rb>築地橋</rb><rt>つきじばし</rt></ruby>に近い河岸沿いの宅で、通されたのは西洋館の広々とした応接室、飾のついた電燈が<ruby><rb>皎々</rb><rt>こうこう</rt></ruby>と、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>の贅沢な調度品を照らして居た。部屋の中には何時の間にか呼んだと見えて、下村商会主も高田警部の顔も見えた。

「佐瀬さん失礼いたしました」一同席が極まると橋本は口を切った。「殊に御許しもなく皆さんを御呼びしたのを悪しからず。実は真珠塔の隠されて居る所が分りましたので」

「どこですか」商会主と技師とそうして私が<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど同時に叫んだ。

「只今御眼にかけます」と云うが早いか、彼は壁の腰羽目の一部に手をかけたかと思うと、見よ。<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち壁は開かれて、其の中に<ruby><rb>燦</rb><rt>さん</rt></ruby>として一基の真珠塔が輝いて居るではないか。突如佐瀬は<ruby><rb>卓上</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の花瓶を取って怒れる眼鋭くハッシと許り橋本目がけて投げつけた。其時早く高田警部は佐瀬の腕を扼したので、的ははずれて、真珠塔に丁と当って、無残塔は<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>に散った。商会主の顔はさっと蒼白に変じた。其時橋本の<ruby><rb>凜</rb><rt>りん</rt></ruby>とした声は響いた。

「イヤ御心配に及びません。それは偽物です」

×　　　×　　　×　　　×

「今度の事件は頗る簡単だよ。君」私が桜木町の彼の家に帰りついて、香の高い紅茶をすすりながら相変らずの彼の敏腕を賞めると、彼はこう云った。

「つまり二から一引く一さ。現場を見て第一に感じたのは、あれ<ruby><rb>丈</rb><rt>だけ</rt></ruby>の塔をスリ替えるのに窓からやると云うのは<ruby><rb>可怪</rb><rt>おか</rt></ruby>しい。あの高い窓から塔を一つ運び出し一つは運び入れると云う事は、一寸不可能じゃないかね。それにもう一つ変なのは、硝子の音がしたので逃げたのではなく、逃げる時にこわした事だ。つまり偽物の塔は出し放しにして逃げたんだね。まるで忍び込んだのを広告するようなものだ。そこで僕は別の方面を考えた。つまりスリ替えられて居ないんじゃないかと。然し曲者の入った事と、真珠のうちの一つがスリ替えられて居る事は事実だ。そこで甚だ漠然としては居るが、真物を偽物と思わせる為めに一つの真珠をとり替える為めに忍び込む。これは可能だからな。そうして殆ど佐瀬のみに可能じゃないか。鍵も彼が持っている。発見したのも彼だ。そこで少しばかり奴さんに疑いをかけて置いたのさ。そこで例の田村を探し出して叩いて見ると、変な奴が来て買って行ったと云う。眼鏡や頤鬚それに猫脊などは変相の初歩だからね。聞いたような声だとも云うし、ははあ、之は佐瀬だと感じたのさ。それにもともと、塔の事を知って居るのは何人もないんだからな。まあ大体<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>と見たのさ。彼は始めから田村が何か不正の為めの註文と感付いたに違いない。それでそっと田村をつけて、あの米国人が買わなかったのを見て、之を譲り受け他日ゆっくり真物とかえようと思ったんだろうよ。罪は外国人と詐欺師が負う訳だからね。彼には共謀者はないようだから、塔は多分彼の家に隠されて居るに違いない。多分応接室だろうと思った。と云うのは戸棚や物置はすぐ探されるからね。そこで彼をここに待たして置いて、約束があるように云って上り込んで、部屋を探したのだ。所が腰羽目の寄木細工に一ヶ所<ruby><rb>手垢</rb><rt>てあか</rt></ruby>のついている所がある。ふと思いついたのが<ruby><rb>箱根</rb><rt>はこね</rt></ruby>細工の秘密箱さ。そこでいろいろやって見ると、板の合せ目が少しズレて、そこへもう一枚の板が又ズレて来ると云う奴で、結局小さな穴があいてそこに<ruby><rb>釦</rb><rt>ボタン</rt></ruby>がある。これを一寸押してみると壁が開くと云う仕掛で、あとは君の知っている通りさ」

（一九二三年八月号）