一

「うッふふ。――で、おめえ、どうしなすった。まさか、うしろを見せたんじゃなかろうの」

「ところが<ruby><rb>師匠</rb><rt>ししょう</rt></ruby>、笑わねえでおくんなせえ。忠臣蔵の<ruby><rb>師直</rb><rt>もろのお</rt></ruby>じゃねえが、あっしゃア急に命が惜しくなって、はばかりへ行くふりをしながら、<ruby><rb>褌</rb><rt>ふんどし</rt></ruby>もしずに逃げ出して来ちまったんで。……」

「何んだって。逃げて来たと。――」

「へえ、<ruby><rb>面目</rb><rt>めんぼく</rt></ruby>ねえが、あの体で<ruby><rb>責</rb><rt>せ</rt></ruby>められたんじゃ命が<ruby><rb>保</rb><rt>も</rt></ruby>たねえような気がしやして。……」

「いい若え者が何て<ruby><rb>意気地</rb><rt>いくじ</rt></ruby>のねえ話なんだ。どんな体で責められたか知らねえが、相手はたかが女じゃねえか。女に負けてのめのめ逃げ出して来るなんざ、当時<ruby><rb>彫師</rb><rt>ほりし</rt></ruby>の名折ンなるぜ」

「ところが師匠、お前さんは相手を見ねえからそんな豪勢な口をききなさるが、さっきもいった通り、女はちょうど師匠が前に<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>きなすった、あの<ruby><rb>北国五色墨</rb><rt>ほっこくごしきずみ</rt></ruby>ン中の、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てっぽう</span>そっくりの体なんで。……」

「結構じゃねえか。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てっぽう</span>なんてものは、こっちから探しに行ったって、そうざらにあるもんじゃねえ。<ruby><rb>憂曇華</rb><rt>うどんげ</rt></ruby>の、めぐりあったが百年目、たとえ腰ッ骨が折れたからって、あとへ引くわけのもんじゃねえや。――この節の若え者は、なんて意気地がねえんだろうの」

背の高い、従って少し猫背の、<ruby><rb>小肥</rb><rt>こぶと</rt></ruby>りに肥った、そのくせどこか神経質らしい<ruby><rb>歌麿</rb><rt>うたまろ</rt></ruby>は、<ruby><rb>黄八丈</rb><rt>きはちじょう</rt></ruby>の<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>の袖口を、この腕のところまで<ruby><rb>捲</rb><rt>まく</rt></ruby>り上げると、五十を越した人とは思われない<ruby><rb>伝法</rb><rt>でんぽう</rt></ruby>な調子で、縁先に腰を掛けている彫師の亀吉を憐れむように見守った。

亀吉はまだ、三十には二つ三つ<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>があるのであろう。<ruby><rb>色若衆</rb><rt>いろわかしゅう</rt></ruby>のような、どちらかといえば、職人向でない<ruby><rb>花車</rb><rt>きゃしゃ</rt></ruby>な体を、きまり悪そうに縁先に小さくして、<ruby><rb>鷲</rb><rt>わし</rt></ruby>づかみにした手拭で、やたらに顔の汗を<ruby><rb>擦</rb><rt>こす</rt></ruby>っていた。

歌麿は「<ruby><rb>青楼</rb><rt>せいろう</rt></ruby>十二<ruby><rb>時</rb><rt>とき</rt></ruby>」この方、版下を<ruby><rb>彫</rb><rt>ほ</rt></ruby>らせては<ruby><rb>今古</rb><rt>こんこ</rt></ruby>の名人とゆるしていた竹河岸の<ruby><rb>毛彫安</rb><rt>けぼりやす</rt></ruby>が、<ruby><rb>森治</rb><rt>もりじ</rt></ruby>から出した「<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>の<ruby><rb>男女</rb><rt>だんじょ</rt></ruby>」を彫ったのを最後に、突然死去して間もなく、亀吉を見出したのであるが、若いに似合わず熱のある仕事振りが意にかなって、ついこの秋口、<ruby><rb>鶴喜</rb><rt>つるき</rt></ruby>から<ruby><rb>開板</rb><rt>かいはん</rt></ruby>した「美人島田八景」に至るまで、その後の<ruby><rb>主立</rb><rt>おもだ</rt></ruby>った版下は、殆ど亀吉の<ruby><rb>鑿刀</rb><rt>さくとう</rt></ruby>を<ruby><rb>俟</rb><rt>ま</rt></ruby>たないものはないくらいであった。

一昨年の<ruby><rb>筆禍</rb><rt>ひっか</rt></ruby>事件以来、人気が半減したといわれているものの、それでもさすがに歌麿のもとへは各版元からの註文が殺到して、当時売れっ子の<ruby><rb>豊国</rb><rt>とよくに</rt></ruby>や<ruby><rb>英山</rb><rt>えいざん</rt></ruby>などを、遥かに<ruby><rb>凌駕</rb><rt>りょうが</rt></ruby>する羽振りを見せていた。

きょうもきょうとて、歌麿は起きると間もなく、朝帰りの威勢のいい<ruby><rb>一九</rb><rt>いっく</rt></ruby>にはいり込まれたのを<ruby><rb>口開</rb><rt>くちあけ</rt></ruby>に<ruby><rb>京伝</rb><rt>きょうでん</rt></ruby>、<ruby><rb>菊塢</rb><rt>きくう</rt></ruby>、それに版元の和泉屋市兵衛など、入れ代り立ち代り顔を見せられたところから、近頃また思い出して描き始めた金太郎の下絵をそのままにして、何んということもなくうまくもない酒を、つい付合って重ねてしまったが、さて飲んだとなると、急に十年も年が若くなったものか、やたらに昔の<ruby><rb>口説</rb><rt>くぜつ</rt></ruby>が恋しくてたまらなくなっていた。

そこへ――先客がひと通り立去った後へ、ひょっこり現れたのが亀吉だった。しかも亀吉から前夜<ruby><rb>浅草</rb><rt>おくやま</rt></ruby>で買った<ruby><rb>陰女</rb><rt>やまねこ</rt></ruby>に、手もなく敗北したという話の末、その相手が、<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>て自分が十年ばかり前に<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>いた「<ruby><rb>北国五色墨</rb><rt>ほっこくごしきずみ</rt></ruby>」の女と、寸分の相違もないことまで聞かされては、歌麿は、若い者の意気地なさを<ruby><rb>託</rb><rt>かこ</rt></ruby>つと共に、不思議に躍る<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>が胸に手をやらずにはいられなかった。

「亀さん」

しばし、じっと膝のあたりを見詰ていた歌麿は、突然目を上げると、<ruby><rb>引</rb><rt>ひ</rt></ruby>ッ<ruby><rb>吊</rb><rt>つ</rt></ruby>るように口をゆがませて、亀吉の顔を見つめた。

「へえ。――」

「お前さん今夜ひとつ、おいらを、その<ruby><rb>陰女</rb><rt>やまねこ</rt></ruby>に<ruby><rb>会</rb><rt>あ</rt></ruby>わせてくんねえな」

「何んですって、師匠」

亀吉は、この意外な言葉に、三角の眼を<ruby><rb>菱型</rb><rt>ひしがた</rt></ruby>にみはった。

「そう驚くにゃ当るまい。おいらを、お前さんの買った陰女に会わせてくれというだけの話じゃねえか」

「<ruby><rb>冗談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>いっちゃいけません。いくら何んだって師匠が陰女なんぞと。……」

「あッはッは。つまらねえ遠慮はいらねえよ。こっちが何様じゃあるめえし、陰女に会おうがどぶ女郎に会おうが、ちっとだって、驚くこたアありゃしねえ」

「それアそういやそんなもんだが、あんな女と会いなすったところで、何ひとつ、<ruby><rb>足</rb><rt>た</rt></ruby>しになりゃアしやせんぜ」

「足しになろうがなるめえがいいやな。おいらはただ、お前の<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>を討ってやりさえすりゃ、それだけで<ruby><rb>本望</rb><rt>ほんもう</rt></ruby>なんだ」

「あっしの敵を討ちなさる。――<ruby><rb>冗</rb><rt>じょ</rt></ruby>、冗談いっちゃいけません。昔の師匠ならいざ知らず、いくら達者でも、いまどきあの女を、師匠が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こなす</span>なんてことが。――」

「勝負にゃならねえというんだの」

「お気の毒だが、まずなりやすまい」

「亀さん」

歌麿は<ruby><rb>昂然</rb><rt>こうぜん</rt></ruby>として居ずまいを正した。

「へえ」

「何んでもいいから<ruby><rb>石町</rb><rt>こくちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>六</rb><rt>む</rt></ruby>つを聞いたら、もう一度ここへ来てくんねえ。勝負にならねえといわれたんじゃ歌麿の<ruby><rb>名折</rb><rt>なおれ</rt></ruby>だ。飽くまでその陰女に会って、お前の敵を討たにゃならねえ」

おめえの敵と、口ではいっているものの、歌麿の<ruby><rb>脳裡</rb><rt>のうり</rt></ruby>からは、亀吉の影は<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>うに消し飛んで、十年前に、ふとしたことから<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>になったのを縁に、<ruby><rb>錦絵</rb><rt>にしきえ</rt></ruby>にまで描いて売り出した、どぶ裏の<ruby><rb>局女郎</rb><rt>つぼねじょろう</rt></ruby><ruby><rb>茗荷屋</rb><rt>みょうがや</rt></ruby><ruby><rb>若鶴</rb><rt>わかづる</rt></ruby>の、あのはち切れるような素晴らしい肉体が、まざまざと力強く浮き出て来て、何か思いがけない<ruby><rb>幸福</rb><rt>しあわせ</rt></ruby>が、今にも眼の前へ現れでもするような嬉しさが、次第に胸を<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>って来るのを覚えた。

「師匠、そいつア本当でげすかい」

「念には及ばねえよ」

「これアどうも、飛んだことになっちまった」

亀吉は、<ruby><rb>間伸</rb><rt>まのび</rt></ruby>のした自分の顔を、二三度くるくる撫で廻すと、多少興味を感じながらも、この降って<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いたような結果に、<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ当惑の色をまざまざと浮べた。

が、歌麿に取っては、亀吉がどう考えているかなどは、今は少しの<ruby><rb>屈托</rb><rt>くったく</rt></ruby>でもないのであろう。断えず込み上げて来る好色心が、それからそれへと<ruby><rb>渦</rb><rt>うず</rt></ruby>を巻いて、まだ高々と照り渡っている日の色に、<ruby><rb>焦慮</rb><rt>しょうりょ</rt></ruby>をさえ感じ始めたのであった。

「で、亀さん」

「へえ」

「女はいって、え、いくつなんだ」

「二十四だとか、五だとかいっておりやした」

「二十四五か。そいつア<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おつ</span>だの。男には年がねえが、女は何んでも三十までだ。さっきお前さんのいった<ruby><rb>北国五色墨</rb><rt>ほっこくごしきずみ</rt></ruby>の若鶴という女も、ちょうど二十五だったからの、うッふッふ」

歌麿の胸には、若鶴の肌が張り附きでもしているような緊張した快感が大きな波を打っていた。<ruby><rb>大方</rb><rt>おおかた</rt></ruby><ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>から<ruby><rb>一筋</rb><rt>ひとすじ</rt></ruby>に来たのであろう。おもてには威勢のいい<ruby><rb>鰯売</rb><rt>いわしうり</rt></ruby>が、江戸中へ<ruby><rb>響</rb><rt>ひび</rt></ruby>けとばかり、洗ったような声を振り立てていた。

二

今まで五重塔の<ruby><rb>九輪</rb><rt>くりん</rt></ruby>に、最後の光を残していた夕陽が、いつの間にやら消え失せてしまうと、あれほど人の<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>き<ruby><rb>来</rb><rt>き</rt></ruby>に<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>わってた浅草も、たちまち<ruby><rb>木</rb><rt>こ</rt></ruby>の<ruby><rb>下闇</rb><rt>したやみ</rt></ruby>の底気味悪いばかりに陰を<ruby><rb>濃</rb><rt>こ</rt></ruby>くして、襟を吹く秋風のみが、いたずらに<ruby><rb>冷々</rb><rt>ひえびえ</rt></ruby>と<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でて行った。

燃えるような<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>で、<ruby><rb>馬道裏</rb><rt>うまみちうら</rt></ruby>の、路地の角に<ruby><rb>在</rb><rt>あ</rt></ruby>る柳の下に<ruby><rb>佇</rb><rt>た</rt></ruby>ったのは、<ruby><rb>丈</rb><rt>せい</rt></ruby>の高い歌麿と、小男の亀吉だった。亀吉は麻の葉の手拭で、<ruby><rb>頬冠</rb><rt>ほおかぶ</rt></ruby>りをしていた。

「じゃア<ruby><rb>師匠</rb><rt>ししょう</rt></ruby>、夢にもあっしの<ruby><rb>知合</rb><rt>しりあい</rt></ruby>だなんてことは、いっちアいけやせんぜ。どこまでも<ruby><rb>笊屋</rb><rt>ざるや</rt></ruby>の<ruby><rb>寅</rb><rt>とら</rt></ruby>に聞いて来た、ということにしておくんなさらなきゃ。――」

「安心しねえ。お前のような弱虫の名前を出しちゃ、こっちの<ruby><rb>辱</rb><rt>はじ</rt></ruby>ンならア」

「ちぇッ、面白くもねえ。もとはといやア、あっしが負けて来たばっかりに、師匠の<ruby><rb>出幕</rb><rt>でまく</rt></ruby>になったんじゃござんせんか」

「いいから置いときねえ。<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>はとってやる」

「長屋は奥から三軒目ですぜ」

「<ruby><rb>合点</rb><rt>がってん</rt></ruby>だ。名前はお<ruby><rb>近</rb><rt>ちか</rt></ruby>。――」

「おっと師匠、<ruby><rb>莨入</rb><rt>たばこいれ</rt></ruby>が落ちやす」

が、歌麿はもう二三歩、路地の<ruby><rb>溝板</rb><rt>どぶいた</rt></ruby>を、力強く<ruby><rb>踏</rb><rt>ふ</rt></ruby>んでいた。

亀吉が頬冠りの下から、闇を<ruby><rb>透</rb><rt>すか</rt></ruby>して見ている中を、まっしぐらに奥へ消えて行って歌麿は、やがて、それとおぼしい長屋の前で足を<ruby><rb>停</rb><rt>と</rt></ruby>めたが、間もなく内から雨戸をあけたのであろう。ほのかに差した<ruby><rb>明</rb><rt>あか</rt></ruby>りの前に、<ruby><rb>仲蔵</rb><rt>まいづるや</rt></ruby>に似た歌麿の顔が、<ruby><rb>写</rb><rt>うつ</rt></ruby>し<ruby><rb>絵</rb><rt>え</rt></ruby>のように黄色く浮んだ。

「おや、何か御用ですかえ」

それは<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>しく、お近のお袋の声だった。

「ちっとばかり、お近さんに用ありさ。――まア御免よ」

ただそれだけいって、<ruby><rb>駐春亭</rb><rt>ちゅうしゅんてい</rt></ruby>の料理の<ruby><rb>笹折</rb><rt>ささおり</rt></ruby>をぶら<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げた歌麿の姿は、雨戸の中へ、にゅッと消えて行った。

「いけねえ。師匠はやっぱり<ruby><rb>慣</rb><rt>な</rt></ruby>れている。――」

<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>と見守っていた亀吉は、歌麿の姿が吸いこまれたのを見定めると、<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>まじりの舌打を頬冠りの中に残して、<ruby><rb>元来</rb><rt>もとき</rt></ruby>た<ruby><rb>縁生院</rb><rt>えんじょういん</rt></ruby>の<ruby><rb>土塀</rb><rt>どべい</rt></ruby>の方へ引返した。

中へはいった歌麿は、<ruby><rb>如才</rb><rt>じょさい</rt></ruby>なく、お袋に<ruby><rb>土産物</rb><rt>みやげもの</rt></ruby>を渡すが否や、いっぱしの<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>でもあるかのように、早くも三畳の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>へ上り込んでしまったが、それでもさすがに気が差したのであろう、ふところから手拭を取出して、<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>ににじんだ汗を拭くと、立ったまま小声で訊ねた。

「お近さんは留守かい」

「いやだよ。そんな大きな眼をしてながら、よく御覧なね。その<ruby><rb>屏風</rb><rt>びょうぶ</rt></ruby>の向うに、<ruby><rb>芋虫</rb><rt>いもむし</rt></ruby>のように寝てるじゃないか」

「芋虫。――うん、こいつア恐れ入った」

なるほど、お袋のいった通り、次の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>の六畳の座敷に、二枚<ruby><rb>折</rb><rt>おり</rt></ruby>の枕屏風にかこまれて、<ruby><rb>薩摩焼</rb><rt>さつまやき</rt></ruby>の置物をころがしたように、ずしりと体を横たえたのが、亀吉の<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>う「五色墨」なのであろう。昼間飲んだ酒に肥った<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>が身を持て<ruby><rb>余</rb><rt>あま</rt></ruby>していると見えて、<ruby><rb>真岡</rb><rt>もうか</rt></ruby><ruby><rb>木綿</rb><rt>もめん</rt></ruby>の<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>に、細帯をだらしなく締めたまま<ruby><rb>西瓜</rb><rt>すいか</rt></ruby>をならべたような乳房もあらわに、ところ狭きまで長々と寝そべっている姿が、歌麿の目に<ruby><rb>映</rb><rt>えい</rt></ruby>じた。

「お近さん」

「え。――」

突然聞き<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れない男の声で呼び起されたお近は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">びくッ</span>として歌麿の顔を見つめた。

「よく内にいたの」

「お前さん、誰さ」

「ゆうべおめえに可愛がってもらった、あの亀吉の伯父だ」

「え、あの人の伯父さんだって」

「そうよ。そんなにびっくりするにゃ当らねえ。なぜおれの甥を可愛がってくれたと、物言いをつけに来た<ruby><rb>訳</rb><rt>わけ</rt></ruby>でもなけりゃ、遊んだ銭を返してもらいに来た訳でもねえんだ。おまえに、ちっとばかり頼みがあって、わざわざ<ruby><rb>駐春亭</rb><rt>ちゅうしゅんてい</rt></ruby>の料理まで持って出かけて来たくれえだからの」

「おや、何んて<ruby><rb>酔狂</rb><rt>すいきょう</rt></ruby>な人なんだろう。あたしのような者に、頼みがあるなんて。――」

そういいながら、ようやく起き上ったお近は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">べたり</span>ととんび<ruby><rb>脚</rb><rt>あし</rt></ruby>に坐ると、穴のあくほど歌麿の顔を見守った。

「おかしいか」

「そうさ。あたしゃお前さんが思ってるほど、<ruby><rb>頼</rb><rt>たよ</rt></ruby>りになる女じゃあないからねえ」

「うん、その頼りにならねえところを見込んで頼みに来たんだ。――それ、少ねえが、礼は先に出しとくぜ」

親指の<ruby><rb>爪先</rb><rt>つまさき</rt></ruby>から、<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>き落すようにして、きーんと畳の上へ投げ出した二<ruby><rb>分金</rb><rt>ぶきん</rt></ruby>が一枚、<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>れた<ruby><rb>縁</rb><rt>へり</rt></ruby>の間へ、<ruby><rb>将棋</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>の駒のように突立った。

「おや、それアお前さん、二分じゃないか」

お近は手にしていた<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>の<ruby><rb>雁首</rb><rt>がんくび</rt></ruby>で、なま新らしい二分金を、<ruby><rb>手許</rb><rt>てもと</rt></ruby>へ<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>きよせたが、多少気味の悪さを感じたのであろう。手には取らないでそのまま金と歌麿の顔とを、四分六分にじっと見つめた。

「どうだの。ひとつ、頼みを聞いちゃくれめえか」

「さアね。<ruby><rb>大籬</rb><rt>おおまがき</rt></ruby>の<ruby><rb>太夫衆</rb><rt>たゆうしゅう</rt></ruby>がもらうような、こんな御祝儀を見せられちゃ、いやだともいえまいじゃないか。だがいったい、見ず知らずのお前さんの、頼みというのは何さ。あたしの体で間に合うことならいいが、観音様の坊さんを頼んで、<ruby><rb>鐘搗堂</rb><rt>かねつきどう</rt></ruby>の<ruby><rb>鐘</rb><rt>かね</rt></ruby>をおろして借りたいなんぞは、いくら御祝儀をもらっても、<ruby><rb>滅多</rb><rt>めった</rt></ruby>に承知は出来ないからねえ」

「<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さん、おめえ、なかなか<ruby><rb>洒落者</rb><rt>しゃれもの</rt></ruby>だの」

「おだてちゃいけないよ」

「おだてやしねえが、観音様の鐘は気に入った。だが、おいらの頼みはそんなんじゃねえ。観音様の鐘のように大きいおめえの体を、<ruby><rb>二時</rb><rt>ふたとき</rt></ruby>ばかりままにさせてもらいてえのよ」

「あたしの体を。――」

「そうだ。<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>に<ruby><rb>違</rb><rt>たが</rt></ruby>わず素晴らしいその鉄砲乳が<ruby><rb>無性</rb><rt>むしょう</rt></ruby>に気に入ったんだ。年寄だけが不足だろうが、さりとて何も、おめえを<ruby><rb>抱</rb><rt>だ</rt></ruby>いて寝ようというわけじゃねえ。ただおめえが、おいらのいう通りにさえなってくれりゃ、それでいいんだ。――どうだの、お近さん。ひとつ、色よい返事をしちゃアくれめえか」

ぐっと<ruby><rb>一膝</rb><rt>ひとひざ</rt></ruby>乗り出した歌麿の眼は、二十の男のような情熱に燃えて、ともすれば相手の返事も待たずに、その釣鐘型の乳房へ、手を<ruby><rb>触</rb><rt>ふ</rt></ruby>れまじき様子だった。

「ほほほ。<ruby><rb>改</rb><rt>あらた</rt></ruby>まっていうから、どれほど<ruby><rb>難</rb><rt>むず</rt></ruby>かしい頼みかと思ったら、いっそ気抜けがしちまったよ。<ruby><rb>二時</rb><rt>ふたとき</rt></ruby>でも<ruby><rb>三時</rb><rt>みとき</rt></ruby>でも、あたしの体で<ruby><rb>足</rb><rt>た</rt></ruby>りる用なら気のすむまで、ままにするがいいさ」

「うむ、そんなら、承知してくれるんだな」

「あいさ、承知はするよ。だがお前さん、抱いて寝ようというんでなけりゃ、どうする気なのさ。まさかあたしのこの乳を、切って取ろうというんじゃあるまいね」

「うふふ、つまらぬえ心配はしなさんな。命に<ruby><rb>別条</rb><rt>べつじょう</rt></ruby>はありゃアしねえ。ただおめえに、そのまま<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>ッ<ruby><rb>裸</rb><rt>ぱだか</rt></ruby>になってもらいてえだけさ」

「ええ裸になる。――」

「きまりが悪いか。今更きまりが悪いもなかろう。――十年振りで、おまえのような体の女に<ruby><rb>巡</rb><rt>めぐ</rt></ruby>り合ったは天の<ruby><rb>佑</rb><rt>たす</rt></ruby>け、思う存分、その体を撫で廻しながら、この紙に<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>かしてもらいてえのが、おいらの頼みだ」

「そんならお前さんは、<ruby><rb>絵師</rb><rt>えかき</rt></ruby>さんかえ」

「まアそんなものかも知れねえ」

「面白くもない人が飛込んで来たもんだねえ。あたしの体は<ruby><rb>枕絵</rb><rt>まくらえ</rt></ruby>のお手本にゃならないから、いっそ骨折損だよ」

しかし、そういいながらも、ぬっと立上った女は、枕屏風を向うへ押しやると、いきなり細帯をするすると<ruby><rb>解</rb><rt>と</rt></ruby>いて、歌麿の前に、<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>を<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬ</rt></ruby>ぎすてた。

「さ、<ruby><rb>速</rb><rt>はや</rt></ruby>くどッからでも勝手に<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>いたらどう」

おそらく昼間飲んだ酒の<ruby><rb>酔</rb><rt>よい</rt></ruby>を、そのまま寝崩れたためであろう。がっくりと根の抜けた島田<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>は大きく横に<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>んで、<ruby><rb>襟足</rb><rt>えりあし</rt></ruby>に乱れた毛の下に、ねっとりにじんだ<ruby><rb>脂汗</rb><rt>あぶらあせ</rt></ruby>が、<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>げかかった白粉を<ruby><rb>緑青色</rb><rt>ろくしょういろ</rt></ruby>に光らせた、その<ruby><rb>頸筋</rb><rt>くびすじ</rt></ruby>から肩にかけての<ruby><rb>鮪</rb><rt>まぐろ</rt></ruby>の背のように盛り上った肉を、腹のほうから押し上げて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぽてり</span>と二つ、憎いまで張り切った乳房のふてぶてしさ。しかも胸の山からそのまま流れて、腰のあたりで一度大きく波を打った肉は、膝への線を割合にすんなり見せながら、体にしては小さい足を内輪に茶色に焼けた畳表を、やけに踏んでいるのだった。

「どうしたのさ、お前さん、早く描かなきや、<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の油が<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>ないじゃないか」

が、歌麿は腰の矢立を抜き取ったまま、視線を<ruby><rb>釘附</rb><rt>くぎづけ</rt></ruby>にされたように、お近の胸のあたりを見つめて動こうともしなかった。

「ちぇッ、なんて意気地がない人なんだろう」

そういって女が苦笑した<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>だった。入口の雨戸が開いたと思う間もなく「おや、これは旦那」というお袋の声が聞えたが、すぐに頭の上で、追っかぶせるように、「こいつアめずらしい、歌麿だな」という皮肉な男の声が、いきなり歌麿の<ruby><rb>耳朶</rb><rt>じだ</rt></ruby>を<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>わせた。

「あッ。――」

「まア待ちねえ。逃げるにゃ及ばねえ」

「へえ。――」

しかし、こう答えた時の歌麿は、もはや入口の<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>を<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>いで、路地の<ruby><rb>溝板</rb><rt>どぶいた</rt></ruby>を<ruby><rb>踏</rb><rt>ふ</rt></ruby>んでいた。

「か、<ruby><rb>駕籠屋</rb><rt>かごや</rt></ruby>。か、<ruby><rb>茅場町</rb><rt>かやばちょう</rt></ruby>だ。――」

<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>の歌麿は、通りがかりの駕籠屋を呼ぶにさえ、満足に声が出なかった。

三

自分の家の畳の上に坐って、<ruby><rb>雇婆</rb><rt>やといばばあ</rt></ruby>の<ruby><rb>汲</rb><rt>く</rt></ruby>んでくれた水を、茶碗に二杯立続けに飲んでも、歌麿は容易に<ruby><rb>動悸</rb><rt>どうき</rt></ruby>がおさまらなかった。

あの顔、あの声、あの足音。――それは<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>に忘れようとしても、忘れることの出来ない、<ruby><rb>南町奉行</rb><rt>みなみまちぶぎょう</rt></ruby>の<ruby><rb>同心</rb><rt>どうしん</rt></ruby>、渡辺金兵衛の姿なのだ。――

「つね。おもての雨戸の<ruby><rb>心張</rb><rt>しんばり</rt></ruby>を、固くして、誰が来ても、決して開けちゃならねえぞ」

「はい」

「酒だ。それから、速く床をひいてくんねえ」

まごまごしている雇婆を<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>き<ruby><rb>立</rb><rt>た</rt></ruby>てて、<ruby><rb>冷</rb><rt>ひや</rt></ruby>のままの酒を、ぐっと一息に<ruby><rb>呷</rb><rt>あお</rt></ruby>ると、歌麿の巨体は<ruby><rb>海鼠</rb><rt>なまこ</rt></ruby>のように夜具の中に縮まってしまった。

「ああいやだ。――」

もう一度、ぶるぶるッと身を<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>わせた歌麿は、何とかして金兵衛の姿を、眼の先から消そうと<ruby><rb>努</rb><rt>つと</rt></ruby>めた。が、そうすればする程、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってあの鬼のような金兵衛の顔は、まざまざと夜具の中の闇から、歌麿の前に迫るばかりであった。

「もう二度と、<ruby><rb>白洲</rb><rt>しらす</rt></ruby>の<ruby><rb>砂利</rb><rt>じゃり</rt></ruby>は<ruby><rb>踏</rb><rt>ふ</rt></ruby>みたくねえ」

歌麿は誰にいうともなく、<ruby><rb>拝</rb><rt>おが</rt></ruby>むようにこういって、<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>を合せた。

その記憶は、五十日の<ruby><rb>手錠</rb><rt>てじよう</rt></ruby>の刑に<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>った、あの一昨年の一件に外ならなかった。

つばくろの白い腹がひらりとひとつ返る度毎に、空の色が澄んでくる、五月の<ruby><rb>半</rb><rt>なか</rt></ruby>ばだった。前夜<ruby><rb>画会</rb><rt>がかい</rt></ruby>の<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>れから、<ruby><rb>京伝</rb><rt>きょうでん</rt></ruby>、<ruby><rb>蜀山</rb><rt>しょくさん</rt></ruby>、それに<ruby><rb>燕十</rb><rt>えんじゅう</rt></ruby>の四人で、深川<ruby><rb>仲町</rb><rt>なかちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>松江</rb><rt>まつえ</rt></ruby>で飲んだ酒が<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>め切れず、二日酔の頭痛が、やたらに頭を重くするところから、おつねに附けさせた迎い酒の一本を、寝たままこれから始めようとしていたあの時、格子の<ruby><rb>手触</rb><rt>てざわ</rt></ruby>りも荒々しく、案内も乞わずに上って来た家主の治郎兵衛は、歯の根も合わぬまでに、あわてて歌麿の枕許へにじり寄った。

「これはどうも。――」

歌麿は家主の顔を見ると同時に、唯事でないのを直感したもののそれにしても何んのことやら<ruby><rb>訳</rb><rt>わけ</rt></ruby>がわからず、重い頭を枕から離すと棒を呑んだように、布団の上に起き直った。

「大層お早くから、どんな御用で。――」

「歌麿さん」

治郎兵衛は、まず改めて歌麿の名を呼んでから、ごくりと一つ<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたず</rt></ruby>を飲んだ。

「へえ」

「お前さん、お気の毒だが、これから直ぐに、わたしと一緒にお奉行所まで、行ってもらわにゃならねえんだが。……」

「奉行所へ」

「うむ」

「何かの証人にでも<ruby><rb>招</rb><rt>よ</rt></ruby>ばれますんで。――」

「ところが、そうでないんだ。お前さんのことで、今朝方、自身番から<ruby><rb>差紙</rb><rt>さしがみ</rt></ruby>が来たんだ」

「え、あっしのことで。――」

歌麿は、治郎兵衛の顔を<ruby><rb>見詰</rb><rt>みつ</rt></ruby>めたまま、二の句がつげなかった。

「名主さんや月番の人達も、みんなもう、自身番で待ってなさる。どんな御用でお前さんが招ばれるのか、そいつはわたし達にも<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>らないが、お<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>からのお呼び出しだとなりゃア、どうにも仕方がない。お気の毒だが、早速支度をして、わたしと一緒に行っておくんなさい」

「――――」

「外のことと違って、行きにくいのはお察しするが、どうもこればかりは素直に行ってもらわねえじゃア。……」

「へえ。――」

素直に。――それをいま、改めていわれるまでもなかった。生れて五十一年の間、<ruby><rb>悪所通</rb><rt>あくしょがよ</rt></ruby>いのしたい<ruby><rb>放題</rb><rt>ほうだい</rt></ruby>はしたし、<ruby><rb>普</rb><rt>なみ</rt></ruby>の道楽者の十倍も余計に女の<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>を知り<ruby><rb>尽</rb><rt>つく</rt></ruby>して来はしたものの、いまだ、ただの一度も<ruby><rb>賽</rb><rt>さい</rt></ruby>の<ruby><rb>目</rb><rt>め</rt></ruby>を争ったことはなし、まして人様の物を、<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>ッ<ruby><rb>端</rb><rt>ぱ</rt></ruby>一本でも盗んだ覚えは、露さらあるわけがなかった。さればこれまで、奉行所はおろか、自身番の土さえまったく踏んだことがなく、わずかに一度、落した大事な<ruby><rb>莨入</rb><rt>たばこいれ</rt></ruby>を、田町の自身番からの差紙で、取りに来いといわれた時でさえ、病気と偽って弟子の秀麿を代りにやったくらい。好きなところは吉原で、<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>いなところはお役所だといつも<ruby><rb>口癖</rb><rt>くちぐせ</rt></ruby>のようにいっていたから察しても、<ruby><rb>大概</rb><rt>たいがい</rt></ruby>その心持は、わかり過ぎるほどわかっている筈だった。

その歌麿に、ところもあろうに、町奉行からの差紙は、何んとしても解せない大きな<ruby><rb>謎</rb><rt>なぞ</rt></ruby>であった。歌麿は、夢に夢見る<ruby><rb>心持</rb><rt>ここち</rt></ruby>で胸を暗くしながら、家主の指図に従って、落度のないように支度を整えると、人に顔を見られるのさえ苦しい思いで、まず自身番まで出向いて行った。

自身番には、治郎兵衛のいった通り、名主の幸右衛門と、その他月番の三人が、暗い顔を寄せ合って待っていた。幸右衛門は、歌麿の顔を見ると、慰めるように声をかけた。

「飛んだことでお気の毒だが、これア、何かお<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>の間違いに違いあるまい。お前さんのようなお人が<ruby><rb>仮</rb><rt>かり</rt></ruby>にもお奉行所へ呼び出されるなんてことは、ほんとの災難だ。――だが心配は無用にさっしゃい。天に眼あり。決して正直な者が罪に<ruby><rb>陥</rb><rt>おち</rt></ruby>るようなことはありゃアしねえからのう」

口の先では強いことをいっているものの、町役人達も、さすがに<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>の中の不安は隠せなかったのであろう。同心渡辺金兵衛の迎いが、一刻でも遅いようにと、ひそかに祈る心は誰しも同じことであった。

しかも五月の空は<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>った如く藍色に晴れ、微風は子燕の羽をそよそよと<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でていたが、歌麿の心は北国空のように、重く曇ったまま晴れなかった。

四

それは正に、<ruby><rb>夢想</rb><rt>むそう</rt></ruby>もしない罪科であった。

両国広小路の<ruby><rb>地本問屋</rb><rt>じほんどんや</rt></ruby>加賀屋吉右衛門から頼まれて大阪の絵師石田玉山が筆に成る（絵本太閤記）と同一趣向の絵を描いた、その図の二三が<ruby><rb>災</rb><rt>わざわい</rt></ruby>して、<ruby><rb>吟味中</rb><rt>ぎんみちゅう</rt></ruby><ruby><rb>入牢</rb><rt>じゅろう</rt></ruby><ruby><rb>仰付</rb><rt>おおせつく</rt></ruby>といい渡された時には歌麿は余りのことに、<ruby><rb>危</rb><rt>あやう</rt></ruby>く<ruby><rb>白洲</rb><rt>しらす</rt></ruby>へ<ruby><rb>卒倒</rb><rt>そっとう</rt></ruby>しようとしたくらいだった。

死んだような気持で送った牢内の三日間は、<ruby><rb>娑婆</rb><rt>しゃば</rt></ruby>の三年よりも永かった。――その三日の間に歌麿は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">げっそり</span>頬のこけたのを覚えた。

「これからは<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>くて、絵筆が持てなくなりやした」

出牢後、五十日間の<ruby><rb>手錠</rb><rt>てじょう</rt></ruby>、家主預けときまって、再び己が画室に坐った歌麿は、これまでとは別人のように弱気になって、見舞に来た<ruby><rb>版元</rb><rt>はんもと</rt></ruby>の誰彼を<ruby><rb>捕</rb><rt>つか</rt></ruby>まえては、同じように牢内の恐ろしさを聞かせていたが、そのせいか「八十までは女と寝る」と<ruby><rb>豪語</rb><rt>ごうご</rt></ruby>していた、きのうまでの元気はどこへやら、今は急に、十年も年を取ったかと疑われるまでに、身心共に<ruby><rb>衰</rb><rt>おとろ</rt></ruby>えて、一杯の酒さえ目にすることなく、自ら進んで絵の具を<ruby><rb>解</rb><rt>と</rt></ruby>こうなどという、そうした気配は、薬にしたくも見られなかった。

しとしとと雨の降る、<ruby><rb>午下</rb><rt>ひるさが</rt></ruby>りだった。歌麿はいつものように机にもたれて茫然と、一坪の庭の<ruby><rb>紫陽花</rb><rt>あじさい</rt></ruby>に<ruby><rb>注</rb><rt>そそ</rt></ruby>ぐ、雨の<ruby><rb>脚</rb><rt>あし</rt></ruby>を見詰めていた。と、あわててはいって来たおつねが、来客を知らせて来た。

「どなただか知らねえが、初めての方なら、病気だといって、お断りしねえ」

「ですがお師匠さん、お客様は<ruby><rb>割下水</rb><rt>わりげすい</rt></ruby>のお<ruby><rb>旗本</rb><rt>はたもと</rt></ruby>、<ruby><rb>阪上主水</rb><rt>さかもともんど</rt></ruby>様からの、急なお使いだとおっしゃいますよ」

「なに、お旗本のお使いだと」

「そうでござんすよ。是非ともお目に掛って、お願いしたいことがあるとおっしゃって。……」

「どういう御用か知らねえが、お旗本のお使いならなおのこと、こんな<ruby><rb>態</rb><rt>ざま</rt></ruby>じゃお目に掛れねえ。――御無礼でござんすが、ふせっておりますからと申上げて、お断りしねえ」

歌麿の、この言葉が終るか終らないうちであった。「お師匠さん、その御遠慮には及びませんよ」といいながら、庭先の<ruby><rb>枝折戸</rb><rt>しおりど</rt></ruby>を開けて、つかつかとはいって来たのは、大<ruby><rb>丸髭</rb><rt>まるまげ</rt></ruby>に<ruby><rb>結</rb><rt>い</rt></ruby>った二十七八の水も垂れるような美女であった。

「これアどうも、こんなところへ。……」

あわてる歌麿を、女は手早く押し止めた。

「あたしでござんす。おきたでござんす」

「え。――」

鋭く、<ruby><rb>窪</rb><rt>くぼ</rt></ruby>んだ眼を上げた歌麿は、その大丸髷が、まがう方なく、<ruby><rb>嘗</rb><rt>かつ</rt></ruby>ては江戸随一の美女と<ruby><rb>謳</rb><rt>うた</rt></ruby>われた<ruby><rb>灘波</rb><rt>なにわ</rt></ruby>屋のおきただと知ると、さすがに寂しい微笑を頬に浮べた。

「おお、おきたさんか。――ここへ何しに来なすった」

「何しにはお<ruby><rb>情</rb><rt>なさけ</rt></ruby>ない。お見舞に伺ったのでござんす」

<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>るように、歌麿の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ坐ったおきたは、如何にもじれったそうに、衰えた歌麿の顔を見守った。――二十の頃から、<ruby><rb>珠</rb><rt>たま</rt></ruby>のようだといわれたその肌は、<ruby><rb>年増盛</rb><rt>としまざか</rt></ruby>りの<ruby><rb>愈〻</rb><rt>いよいよ</rt></ruby><ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えて、わけてもお旗本の<ruby><rb>側室</rb><rt>そくしつ</rt></ruby>となった身は、どこか昔と違う、お屋敷風の品さえ<ruby><rb>備</rb><rt>そな</rt></ruby>わって、<ruby><rb>恰</rb><rt>あたか</rt></ruby>も<ruby><rb>菊之丞</rb><rt>きくのじょう</rt></ruby>の<ruby><rb>濡衣</rb><rt>ぬれぎぬ</rt></ruby>を見るような<ruby><rb>凄艶</rb><rt>せいえん</rt></ruby>さが<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れていた。

が、歌麿の微笑は冷たかった。

「お旗本のお使いと聞いたから、<ruby><rb>滅多</rb><rt>めった</rt></ruby>に<ruby><rb>粗相</rb><rt>そそう</rt></ruby>があっちゃならねえと思って断らせたんだが、なぜまともに、おきただといいなさらねえんだ」

「そういったら、お師匠さんは、会ってはおくんなさいますまい。――永い間の御親切を<ruby><rb>無</rb><rt>む</rt></ruby>にして仇し男と、甲州くんだりまで逃げ出した挙句、江戸へ戻れば、阪上様のお屋敷奉公。さぞ憎い奴だと思し召したでござんしょう。――ですがお師匠さん。おきたの心は、やっぱり昔のままでござんす。ふとしたことから、お前さんの今度の災難を聞きつけましたが、そうと聞いては矢も<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>も<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らず、お目に掛れる身でないのを知りながら、お<ruby><rb>面</rb><rt>めん</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>ってお訪ねしました。――ほんに飛んだ御難儀、お腰などおさすりしたい心でござんす」

黙って眼を閉じていた歌麿は、そういってにじり寄ったおきたの手の<ruby><rb>温</rb><rt>ぬく</rt></ruby>みを<ruby><rb>膝許</rb><rt>ひざもと</rt></ruby>に感じた。

「いや、<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>の志しだが、それには及ばねえ。今更お前さんに<ruby><rb>擦</rb><rt>さす</rt></ruby>ってもらったところで、ひびのはいったおれの体は、どうにもなりようがあるめえからの」

きのうまでの歌麿だったら、百に一つも、おきたの言葉を<ruby><rb>拒</rb><rt>こば</rt></ruby>むわけはなかったであろう。まして七八年前までは、若い者が<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れるまでに、命までもと打込んでいた、当の相手のおきたではないか。向うからいわれるまでもなく、直ぐさま<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>が膝下へ引寄せずにはおかない筈なのだが、しかし<ruby><rb>手錠</rb><rt>てじょう</rt></ruby>の中に細った歌麿の手首は、じっと組まれたまま動こうともしなかった。

「お師匠さん」

「――」

「お前さんは、殿様のお世話になっているあたしが、<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>くおなりでござんすか」

「そうかも知れねえ。おれアもうお侍と聞くと眼の前が真暗になるような気がする」

「おほほほ、弱いことをおっしゃるじゃござんせんか。そのような楽な手錠なら、はめていないも同じこと、あたしが<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>して上げましょうから、いっそさっぱりと。……」

おきたは如何にも無造作に、歌麿の手錠に手をかけた。

「あ、いけねえ」

「そんな<ruby><rb>野暮</rb><rt>やぼ</rt></ruby>な遠慮は、江戸じゃ<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>りませんよ」

ぐいと手錠を逆に引張った<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>、歌麿は右の手首に、刺すような<ruby><rb>疼痛</rb><rt>とうつう</rt></ruby>を感じたが、忽ち黒い血潮がたらたらと青畳を染めた。

「あッ」

さすがにおきたは、驚いて手を放した。

「飛んだことをしてしまいました。――」

手速く、帯の間から取出したふところ紙は、血のにじんだ歌麿の手首に<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>みついていた。

「お痛うござんすか」

「――」

「何かお薬でも。……」

が、歌麿はうつむいたまま、一言も発しなかった。おもてを流して通る<ruby><rb>簾売</rb><rt>すだれうり</rt></ruby>の声が、高く低く聞こえていた。

「師匠」

「えッ」

その声に、ぎょっとして<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を上げた歌麿の、くぼんだ眼に<ruby><rb>映</rb><rt>うつ</rt></ruby>ったのは、庭先に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んだ、同心渡辺金兵衛の姿であった。

五

この後、金兵衛の姿は、常に魔の如く、歌麿の<ruby><rb>脳裡</rb><rt>のうり</rt></ruby>にこびりついて、寸時も消えることがなかった。

その金兵衛に、ところもあろうに、初めて訪ねた<ruby><rb>陰女</rb><rt>やまねこ</rt></ruby>の家で会ったのだった。<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>のまま逃げた歌麿が、駕籠屋を呼ぶにさえ、満足に口がきけなかったのも、無理ではなかった。

「師匠」

昨夜の様子を、一刻も速く聞きたかったのであろう。まだ<ruby><rb>六</rb><rt>む</rt></ruby>つが鳴って<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>もないというのに<ruby><rb>彫師</rb><rt>ほりし</rt></ruby>の亀吉は、にやにや笑いながら、画室の障子に手をかけた。

「師匠。――おや、こいつアいけねえ。ゆうべのお疲れでまだ夢の<ruby><rb>最中</rb><rt>さいちゅう</rt></ruby>でげすね」

ふところから、<ruby><rb>叺</rb><rt>かます</rt></ruby>と<ruby><rb>鉈豆煙管</rb><rt>なたまめぎせる</rt></ruby>を取出した亀吉は、もう一度にやりと笑うと、おつねの出してくれた煙草盆で二三服立続けに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すぱりすぱり</span>とやっていたが、頭から<ruby><rb>夜具</rb><rt>やぐ</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>った歌麿が、<ruby><rb>小揺</rb><rt>こゆる</rt></ruby>ぎもしないのにいささか<ruby><rb>拍子抜</rb><rt>ひょうしぬ</rt></ruby>けがしたのであろう。しばし口の中で、何かぶつぶつ<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>くと、立って、勝手許にいるおつね婆のほうへ出かけて行った。

「おつねさん。師匠はまだ、なかなか起きそうにもねえから、あっしゃ一寸並木まで、<ruby><rb>用達</rb><rt>ようたし</rt></ruby>に行って来るぜ」

「亀さんにも似合わない、お師匠さんが、こんなに早くお起きなさらないのは、知れきってるじゃないか」

「知っちゃアいるが、<ruby><rb>今朝</rb><rt>けさ</rt></ruby>ばかりは、別だろうと思ってよ」

「そんなことがあるものかね。大きな声じゃいえないが、ゆうべは何か変ったことでもあったと見えて、夢中で<ruby><rb>駈込</rb><rt>かけこ</rt></ruby>んでくると、そのままあたしに<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>を取らせて寝ておしまいなんだもの。そう早く起きなさるわけはありやしないよ」

「ふん、だからよ。だからその変ったことのいきさつを、ゆっくり師匠に<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>きてえんだ。――まあいいや。半時ばかりで帰って来るから、よろしくいっといてくんねえ」

亀吉の足音が、裏木戸の外へ消えてしまうと、<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えた子供のように、歌麿は夜具の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>から顔を出して、あかりを見廻した。

「びっくりさせやがる。こんなに早く来やがって。――」

のこのこと床から<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>い出した歌麿は、手近の袋戸棚を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>けると、そこから、<ruby><rb>寛政</rb><rt>かんせい</rt></ruby>六年に出版した「<ruby><rb>北国五色墨</rb><rt>ほっこくごしきずみ</rt></ruby>」の一枚を抜き出した。それはゆうべ会った<ruby><rb>陰女</rb><rt>やまねこ</rt></ruby>のお近と寸分も違わない、<ruby><rb>茗荷屋</rb><rt>みょうがや</rt></ruby><ruby><rb>若鶴</rb><rt>わかづる</rt></ruby>の姿だった。

「うむ、ひょっとするとこれやア<ruby><rb>姉妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>かも知れねえ。――だが、あいつの肌に、まともに<ruby><rb>触</rb><rt>さわ</rt></ruby>る<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>もねえうちに、<ruby><rb>箆棒</rb><rt>べらぼう</rt></ruby>な、あんな野郎が、あすこへ現れるなんて。――」

歌麿はそういいながら、手にした錦絵を枕許へ置こうとした。と、その瞬間、急に手先の<ruby><rb>痺</rb><rt>しび</rt></ruby>れるのを感じた。

「こ、こいつア、いけねえ。――」

しかし、その語尾は、もはや舌が<ruby><rb>剛張</rb><rt>こわば</rt></ruby>って、思うようにいえなかった。

「お、つ、ね。――」

裏返しにされた亀の子のように、歌麿の<ruby><rb>巨躯</rb><rt>きょく</rt></ruby>は、床の上でじたばたするばかりだった。

「大変ですよ。お師匠さんが大変ですよ」

おつねが、耳の遠い秀麿を、声限りに呼んでいるのを、歌麿は夢のように聞いていた。

文化三年九月二十日の、鏡のような秋風が、江戸の<ruby><rb>大路</rb><rt>おおじ</rt></ruby>を流れていた。