一

市ヶ谷加賀町から砂土原町のほうへおりる左内坂の途中に、木造建ての小さな<ruby><rb>骨董店</rb><rt>こっとうてん</rt></ruby>がある。

西洋美術骨董、と読ませるつもりなのだろう、はげちょろになった白ペンキ塗りの看板に、&quot;FOREIGN ART OBJECTS&quot; と書いてある。

一<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>ほどの<ruby><rb>飾窓</rb><rt>ショウ・ウインドウ</rt></ruby>のついた、妙に<ruby><rb>閉</rb><rt>し</rt></ruby>め込んだ構えの、苔の生えたような家だった。人が出入りするのを見かけたこともなく、いつ<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いても、店のなかは<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>くらくしずまりかえっていて、チラとも人影が動かなかった。

天気のいい日は、家の正面にまともに<ruby><rb>西陽</rb><rt>にしび</rt></ruby>がさしかけ、<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>りかえった<ruby><rb>下見板</rb><rt>したみいた</rt></ruby>がほこりっぽく木目を浮きあげる。雨の日は、看板のうしろの窓の<ruby><rb>鎧扉</rb><rt>よろいど</rt></ruby>が、ひっそりとしずくを垂らしていた。

キャラコさんは、<ruby><rb>土手</rb><rt>どて</rt></ruby>三番町の<ruby><rb>独逸</rb><rt>ドイツ</rt></ruby>語の先生のところへゆくので、一週間に二度ずつこの家の前を通る。

飾窓のなかには、<ruby><rb>脚</rb><rt>あし</rt></ruby>のとれた<ruby><rb>写字机</rb><rt>ビュウロオ</rt></ruby>や、石版画の西洋の風景や、セエブル焼きの置時計、壊れた<ruby><rb>手風琴</rb><rt>てふうきん</rt></ruby>、金<ruby><rb>鍍金</rb><rt>メッキ</rt></ruby>の<ruby><rb>枝燭台</rb><rt>えだしょくだい</rt></ruby>、さまざまな壺や<ruby><rb>甕</rb><rt>かめ</rt></ruby>、赤く錆びた<ruby><rb>三稜剣</rb><rt>エペ</rt></ruby>。……そんなものが、窓掛けの透間から差しこむ光線の<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>の中で、うっすらとほこりをかぶって押し並んでいる。

いつか、なにげなくその中を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いたのが癖になって、行き帰りのたびに、かならずいちどはこの<ruby><rb>飾窓</rb><rt>ショウ・ウインドウ</rt></ruby>の前で足をとめる。

どれもこれも、古び、傷つき、こんなものを買うひともあるまいと思われるようながらくたばかりだが、たとえば、脚のとれた<ruby><rb>写字机</rb><rt>ビュウロオ</rt></ruby>にしろ、ホヤのない<ruby><rb>真鍮</rb><rt>しんちゅう</rt></ruby>の置<ruby><rb>洋灯</rb><rt>ランプ</rt></ruby>にしろ、それぞれ、長いあいだの手ずれの跡や、時代のかげがはっきりと残っていて、それをながめていると、時の歩みをしずかにふりかえっているようで、なんともいえないほのかな気持になる。

そればかりではない。セエブル焼きの置時計の細かい唐草模様のなかに隠されている貴婦人や農夫や、フランダースの飾り皿の<ruby><rb>和蘭</rb><rt>オランダ</rt></ruby>の風景や、鯨に<ruby><rb>銛</rb><rt>もり</rt></ruby>をうっている<ruby><rb>諾威</rb><rt>ノルウェー</rt></ruby>の捕鯨船の図などに眼をよせて眺めると、今まで見落としていた小さな花々や、浮雲や、遠い風車や、波の間で泳いでいる魚などを、見るたびに、その中で、新しく発見する。

キャラコさんは、夢中になって、つい、こんなふうに叫んでしまう。

「あら、あそこに、あんな花が隠れていたわ。……まあ、なんてかあいらしいこと！」

キャラコさんは、この楽しみを自分ひとりだけのものにして、そっとしまっておいた。独逸語の先生のところへの<ruby><rb>往復</rb><rt>ゆきかえり</rt></ruby>、この飾窓の前に立つ十五分ぐらいの時間が、長い間、キャラコさんのひそかな楽しみになっていた。

ちょうど、ボクさんの両親の和解が成り立ってから十日ほど経った朝、<ruby><rb>学生鞄</rb><rt>ブーフザック</rt></ruby>をブラブラさせながら、いつものように<ruby><rb>飾窓</rb><rt>ショウ・ウインドウ</rt></ruby>のガラスに額をおっつけて中をのぞいてみると、この二週間ほど見なかったうちに、窓の中のようすがすこしばかり変わっているのに気がついた。

<ruby><rb>写字机</rb><rt>ビュウロオ</rt></ruby>と<ruby><rb>置</rb><rt>おき</rt></ruby>戸棚の間にあった<ruby><rb>三稜剣</rb><rt>エペ</rt></ruby>が壁の隅のほうへ寄り、前列にならんでいたジャヴァの<ruby><rb>土壺</rb><rt>つちつぼ</rt></ruby>がすこしばかりうしろへひきさげられ、そのかわり、今までは横側しか見えなかった油絵が、正面に向きかえられている。

それは、二十五号ほどの、一見、平凡な絵だった。

うす暗い部屋の隅の、<ruby><rb>朽葉</rb><rt>くちは</rt></ruby>色の長椅子に、白い<ruby><rb>薄紗</rb><rt>ダンテール</rt></ruby>の服に<ruby><rb>朱鷺</rb><rt>とき</rt></ruby>色のリボンの帯をしめた十七、八の少女が、靴の爪さきをそろえて、たいへん典雅なようすで掛けている。

<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>メランコリック</rt></ruby>な、利口そうな顔だちで、左手を長椅子の肘に掛け、右手は、<ruby><rb>泡</rb><rt>あわ</rt></ruby>のように盛りあがった広い<ruby><rb>裳裾</rb><rt>もすそ</rt></ruby>のほうへすんなりと垂らしている。

長椅子の向う側に、紫の<ruby><rb>天鵞絨</rb><rt>びろうど</rt></ruby>の上衣に、濃い黄土色のズボンをはいた二十五、六の青年が、背もたせのうえに両膝をつき、おだやかな眼差しで少女の横顔を眺めている。

長椅子の横に、<ruby><rb>粗石</rb><rt>あらいし</rt></ruby>を積み上げた大きな<ruby><rb>壁煖炉</rb><rt>シュミネ</rt></ruby>があり、<ruby><rb>飾棚</rb><rt>マントルピース</rt></ruby>の上には、<ruby><rb>日暦</rb><rt>カレンダー</rt></ruby>や、目覚し時計や、<ruby><rb>琥珀貝</rb><rt>こはくがい</rt></ruby>でつくった<ruby><rb>帆前船</rb><rt>ほまえせん</rt></ruby>などがのっている。明け放した<ruby><rb>硝子扉</rb><rt>ケースメント</rt></ruby>の向うは、ゆるい起伏のある丘で、はるか遠いその<ruby><rb>稜線</rb><rt>りょうせん</rt></ruby>のうえに、中世紀の城のような白い家がぽつんとひとつ立っている。

部屋のなかは、濃い<ruby><rb>褐色</rb><rt>セピア</rt></ruby>と黒っぽい<ruby><rb>藍色</rb><rt>あいいろ</rt></ruby>のなかに沈んでいるのに、外景には<ruby><rb>三鞭酒</rb><rt>シャンパン</rt></ruby>色の明るい光が氾濫している。夏の、あのはげしさはなく、しっとりと落ち着いた調子がある。窓のそばに、燃えるような<ruby><rb>雁来紅</rb><rt>はげいとう</rt></ruby>があるので、秋の中ごろの午後の風景だということがわかる。

一体にクラシックな画風で、<ruby><rb>日暦</rb><rt>カレンダー</rt></ruby>の日づけや草の葉の細かい葉脈まで克明に<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>いてあり、<ruby><rb>襞</rb><rt>ひだ</rt></ruby>の深い丸い丘や城のような建物の背景のぐあいは、ちょうど、『モナ・リザ』の、あの幻想的な遠景とよく似ている。

だいたい、こんなふうな絵である。格別、どこといって奇抜なところもなければ、目をそばだたせるようなところもない。狭い画面のなかに、いろいろなものが押し並んでいるので、むしろわずらわしくさえ感じられる。

キャラコさんは、飾窓に鼻をおっつけながら、ゆっくりとその絵を鑑賞する。

芸術的な価値はともかく、なにしろ、そんなふうに手のこんだ絵なので、飾り皿の<ruby><rb>微小画</rb><rt>ミニアチュール</rt></ruby>を眺めるほどの面白さはたしかにある。それらと同じように、この絵のなかにも、たぶんいろいろなものが隠れているのに違いない。帰りに、またここへ寄って、ゆっくり探し出してやろうと思いながら<ruby><rb>飾窓</rb><rt>ショウ・ウインドウ</rt></ruby>から離れて二三歩歩きだした。なにげなくそこで立ちどまって、もう一度、そのほうへ振りかえって、おもわず、

「おや！」

と、眼を見はった。

まったく、ふしぎなほどだった。ここから見ると、あの雑然とした絵が、とつぜん、<ruby><rb>生々</rb><rt>いきいき</rt></ruby>とした実感をもちはじめた。人も、花も、丸い丘も、黄色い陽ざしも、みな、たとえようもないような完全な調和をたもちながら、しっとりとした深い奥ゆきの中で落ち着いている。<ruby><rb>額椽</rb><rt>がくぶち</rt></ruby>の向うと、琥珀色の陽がさしている、もうひとつの別な世界があって、そこで、現実の生活とは関係のない、季節と日常がくりかえされているのではないかというような気がする。

そればかりではない。この奇妙な、深い奥行きは、いったいなにから来る感じなのであろう。どういう不思議な遠近法によるのか、その気になれば、わけもなくスラスラと、その中へはいってゆけそうな気だった。

キャラコさんは、<ruby><rb>魅</rb><rt>まど</rt></ruby>わされたようになって、茫然とその絵を眺めていた。

二

この絵のおかげで、ドイツ語の先生のところへ行く<ruby><rb>往復</rb><rt>ゆきかえり</rt></ruby>が、一層楽しいものになった。

その絵の前に立つと、魔法の世界でも眺めているような、なんともいえぬ奇妙な感じがひき起こされ、催眠術にでもかけられたように、ぼんやりした<ruby><rb>眠気</rb><rt>ねむけ</rt></ruby>に襲われる。

それにしても、少女の横顔をながめている青年の眼差しの、なんと深いこと。春の海のようにゆったりとしていて、優しさと単純さに満ちている。二人の<ruby><rb>面</rb><rt>おも</rt></ruby>ざしがよく似通っているから、たぶん、これは兄妹なのだろう。

長椅子のうしろに立っている青年は、この絵をかいた画家の自画像なのに違いない。しっとりとしたこの部屋のなかで繰り返される兄と妹のやさしげな日常が、<ruby><rb>香気</rb><rt>こうき</rt></ruby>のように画面のなかに漂っているのである。

この画面にあらわれているのは、二人の生活のほんの一部分でしかないが、ただこれだけで、この二人が、互いにどんな信頼し合い、愛し合っているかよくわかる。この二つの顔のなかには、意地悪や、憎しみのかげなどは露ほどもなく、正直と、愛情と、親切だけが輝いているように見える。

キャラコさんは、いい友達を沢山持っている。イヴォンヌさんにしろ、<ruby><rb>従姉妹</rb><rt>いとこ</rt></ruby>の<ruby><rb>槇子</rb><rt>まきこ</rt></ruby>や<ruby><rb>麻耶子</rb><rt>まやこ</rt></ruby>にしろ、日本女学園のやんちゃな五人組。……また、叔父の秋作や<ruby><rb>立上</rb><rt>たてがみ</rt></ruby>氏。いま、ちょっとした過失の<ruby><rb>贖罪</rb><rt>しょくざい</rt></ruby>をしているあの気の弱い佐伯氏。<ruby><rb>丹沢山</rb><rt>たんざわやま</rt></ruby>で会った<ruby><rb>篤実</rb><rt>とくじつ</rt></ruby>な四人の学者たち。それから、<ruby><rb>小</rb><rt>ち</rt></ruby>っちゃなボクさん。

みな、心のやさしい、親切な人たちばかりだが、どうしてかしら、この絵の青年にたいするような、溺れるようなふしぎな愛情や<ruby><rb>憧憬</rb><rt>どうけい</rt></ruby>をいちども感じたことはなかった。

「ほんとうに妙だわね。……いったい、どうしたというのかしら」

ともかく、その絵の前に立つと、理窟なしに心が<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>んで来てどうすることもできない。自分でも、すこし妙だと思うけれど、ひとりでに顔が笑い出して、

「こんにちは、ごきげんいかが？」

と、われともなく、つぶやいてしまう。

「お静かでお<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましいわ。……いつだって<ruby><rb>雁来紅</rb><rt>はげいとう</rt></ruby>は真っ紅だし、陽が照っているし、<ruby><rb>日暦</rb><rt>カレンダー</rt></ruby>は、いつも、九日の日曜日だし……。うちあけたところ、あたしも、こんなふうに、ひっそりと暮らすのが理想なのよ。ほんとうに、なんていいんでしょう」

奇妙なことには、キャラコさんが話しかけるのは、長椅子の後ろに立っている青年のほうにかぎるのである。

おっとりと坐っている妹らしいひとには、まだ一度も言葉をかけたことがない。なんだか気ぶっせいで、<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>なのである。なるたけ、そのほうを見ないようにしている。

家へ帰ってからも、この絵のことが心について離れない。あまり寝苦しいなどと思ったことのないキャラコさんなのだが、このごろはなんとなく寝つきがわるい。頭の下で、いくども熱い枕を廻す。ときどき、そっと溜息をついている自分に気がついてびっくりする。

「おやおや、なんだか、困ったことになったわ」

三晩ほどそんなことをくりかえしたすえ、とうとうもて余して、イヴォンヌさんにそれをうちあけた。

イヴォンヌさんは、<ruby><rb>栗鼠</rb><rt>りす</rt></ruby>のような大きな眼をクルクルさせながら、

「それは、たいへんね。きっと、なにか、始まりかけているんだわ」

キャラコさんは、すこし、<ruby><rb>赧</rb><rt>あか</rt></ruby>い顔をした。

「ええ、あたしも、そう思うの。……あの絵のことを考えると、胸んところが、熱くなったり冷たくなったりして、なんだか妙に落ち着かなくて困るのよ」

「ふうん、熱くなるって、どんなふうなの」

「つまり、ドキドキするのよ。身体じゅうの血が、そこへ集まって来るようなの」

イヴォンヌさんは、むずかしい顔をする。

「あまり、いい徴候じゃありませんな」

キャラコさんは、聞こえない振りをした。

イヴォンヌさんは、すかさない。

「ほら、ね。聞こえない振りなんかする。……いよいよもっていけないな。要するに、あなたは、あの絵の青年が好きになってしまったのよ」

キャラコさんが、あわてて立て直す。

「イヴォンヌさん、あなたすこし過敏よ。……あたしが、あの絵にひきつけられるのは、そんな意味じゃないと思うわ」

「じゃ、いったいどうなの？」

キャラコさんが、大きな声を、だす。

「あれはなんという<ruby><rb>流派</rb><rt>エコール</rt></ruby>の絵か知らないけど、なんとなく、あたしの趣味にぴったりするのよ。あの絵のは、ひどく<ruby><rb>浪漫的</rb><rt>ロマンチック</rt></ruby>で、それに、いろいろ空想的なものがあるでしょう。そんなところにひきつけられているんだと思うわ」

イヴォンヌさんは、頑固に首を振る。

「信じられないわね。あなたがあの絵にひきつけられているのは、そんな高尚なことじゃなくて、あの絵の中の生活を愛しているのよ。あたしには、それが、はっきりわかるの」

キャラコさんは、聞きとれないような声を、だす。

「よく、わからないけど……」

イヴォンヌさんは、ニヤリと笑う。

「わかるようにいってあげましょうか。……あなたはね、絵のなかのお嬢さんのように、あの青年にあんな深い眼付きで<ruby><rb>凝視</rb><rt>みつ</rt></ruby>められたいと思っているんだわ。これが、あの絵があなたをうっとりさせるゆえんなのよ。……どう？　おわかりになった？」

キャラコさんは、横を向いて、またきこえないふりをした。

なんだか、ぼんやりとわかりかけてきた。もっとも、キャラコさん自身も、心のどこかで<ruby><rb>薄々</rb><rt>うすうす</rt></ruby>感づいていたのである。

ただ、油絵の中の青年が好きになったなどというのはあまりにも奇抜すぎるので、キャラコさんの心が、それを承認することを拒みつづけていたのである。

しかし、それも、よく考えてみると、かくべつ、不思議だというようなことでもない。じぶんは、この青年に、いつかいちど逢ったことがあって、その時、強い印象を受けたまま忘れていたが、偶然、飾窓の絵の中でその青年に再会して、古い記憶が急に<ruby><rb>甦</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>ったのだと考えられないこともない。

そういえば、これとよく似た配景を、いつか一度見たような記憶がある。<ruby><rb>雁来紅</rb><rt>はげいとう</rt></ruby>の紅さも、夕陽の色も、おどんだような部屋の暗さも、このままのようすで、心のどこかに残っている。また<ruby><rb>飾棚</rb><rt>マントル・ピース</rt></ruby>の上の琥珀貝の帆前船にも、確かに<ruby><rb>触</rb><rt>ふ</rt></ruby>れた覚えがある。薄い、<ruby><rb>冷</rb><rt>ひや</rt></ruby>りとして貝細工の感触が今でも指先にあるような気がする。

最初、あの絵を見たとき、その中へスルスルと入ってゆけそうに思ったのは、絵の表現によることではなくて、それが、むかし、非常に親しかった風景だったからかも知れない。

しかし、ひょっとすると、それは、夢のなかで見た景色だったようにも思われる。

遠い丘の上で、夕陽を浴びて立っている城のような白い建物や、陰影もなく、<ruby><rb>碧一色</rb><rt>あおひといろ</rt></ruby>に塗りつぶされた空のようすなどは、なにか、とりとめなくて、夢の中の景色によく似ている。夢だったのか、事実だったのか、その辺のところが、どうも、はっきりしない。

また、それが事実だったとしても、そこで、どんなことが起きたのか、この青年をどんなふうに好きだったのか、まるっきり記憶に残っていないのである。

それにしても、イヴォンヌさんは、確かにいい当てた。

どうかすると、どうしても飾窓の前から離れられないような気がすることがある。左内坂の近くへくると、ひどく胸が<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>って、思うように歩かれない。心では、飛んで行きたいほどに思うのだが、足のほうがいうことをきかない。

「おやおや、たいへんだ」

なんとかして笑ってみようとする。ところが、思うように、うまく笑えないのである。

じっさい、こんな感情に襲われたのは、生まれてから、これが最初の経験だった。

キャラコさんは、寝台のうえにそっと身体を起こす。窓に月の光が射し、<ruby><rb>白膠木</rb><rt>ぬるで</rt></ruby>の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>が墨絵のように<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>れている。

キャラコさんは、溜息をつく。

「これはたしかに厄介な感情ね。こんなものがあたしのところまで押し寄せて来ようとは思わなかったわ」

閉口して、両手でゴシャゴシャと髪を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き廻しながら、長い間なにか考えていた。そのうちに、決心がついたように威勢よく寝台から飛び降りると、<ruby><rb>卓上電灯</rb><rt>スタンド</rt></ruby>をつけて手紙を書きだした。

イヴォンヌさん。あたしは、たしかに、あの油絵の青年に心をひかれています。

あたしがこんな感情をもった以上、放って置くわけにはゆきませんから、あすの朝、あのひとのところへ行って、きっぱりとカタをつけて来るつもりなの。どうぞ、賛成して、ちょうだい。あのひとが、あたしを嫌いだったらしようがないけど、もし、好いてくれたら万歳ね！

この結果は、あすの晩、電話でお知らせしますわ。

三

次の日の<ruby><rb>正午</rb><rt>ひる</rt></ruby>ごろ、キャラコさんは、雪ヶ谷から石川台へ抜ける切通しを歩いていた。

両側は雑木林をのせた低い岡で、そこで<ruby><rb>漆</rb><rt>うるし</rt></ruby>の葉が薄紅く染っていた。

気が向くと、底の平ったい靴をはいて、ひとりで気ままにあちらこちらとあるきまわるので、キャラコさんは武蔵野の岡や小径をよく知っている。

油絵の遠景のような丸味のある台地は、武蔵野の西南のほうに多いのだから、根気よくこの辺を歩き廻っているうちに、それらしいのに行き当るだろうとかんがえて、あてもなしにのんびりと歩きつづけていた。

はっきりとはわからないが、心をひそませてじっくりと記憶をたどると、<ruby><rb>雁来紅</rb><rt>はげいとう</rt></ruby>の家へ行く道筋が、おぼろげに心に浮んでくる。

赤土の崖道をしばらく歩いて行くと、そのうちに、小さな流れに行きあたる。……その土橋をわたると、<ruby><rb>枳殻</rb><rt>からたち</rt></ruby>の長い垣根が始まって、道がすこし登りになりながら、雑木林の中へ入り込んで行く。……雑木林を出ると、急に眼の前がひらけ、ゆるい丘の中腹ほどのところにその家がある……。

キャラコさんは、切通しの途中に立ちどまって、右左を見廻す。……どうも、この道もいちど通ったことがあるような気がする。雑木林のようすも、赤土の崖のいろも、ぼんやりと心の網膜にしみついている。

「……もしか、この道だとすると、ここを降り切ると、小川の小さな土橋のそばへ出るはずなんだけど……」

十分ほど歩くと、道が大きくカーヴして、とつぜん、向うに小川が見え出した。

「川がある！」

なぜか、不思議な気持も、恐ろしい感じも起きない。

キャラコさんは、頓着しないでズンズン歩いて行った。この道にさえついて行けば、間もなく油絵の中の家に着くはずだった。

……そして、あの青年が絵のままのようすでそこに住んでいる……。キャラコさんは、それを少しも疑わない。境遇としてはずいぶん奇抜なのだが、それが一向<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶ</rt></ruby>かしく思わないのが、むしろ不思議なくらいである。

ただ、現実と非現実の境目ぐらいのところを歩いているような、妙にたよりのない気持がする。ひょっとすると、油絵の風景の中へ紛れ込んで来たのではなかろうか。自分がいま歩いているのは現実の世界ではなくて、額椽の中の幻想の世界なのではないかといったような、とりとめのない不安を感じる。

ところで、土橋を渡ると、果して、<ruby><rb>枳殻</rb><rt>からたち</rt></ruby>の垣根が始まった。

それから、雑木林を抜ける。……真向いの、なだらかな丘の斜面に、バンガロオふうの建物が側面に夕陽を浴びて、一種、<ruby><rb>寂然</rb><rt>せきぜん</rt></ruby>たるようすで立っていた。

キャラコさんは、満足そうな声を、だす。

「ほら、ちゃんとあったわ！」

心がはずんで、唄でもうたい出したいような気持になってきた。早く門のところまで行き着きたくなって、口を結んで、せっせと歩きだす。

下で見たよりも、しっかりした建物で、<ruby><rb>蔦</rb><rt>つた</rt></ruby>のからんだ雅致のある石門がついている。

ところが、どうしたわけか、この石の門にはすこしも見覚えがない。門のそばから、灌木の植込みについた砂利の小径が、ひっそりと玄関のほうへ続いている。……この小径も、すこしも記憶に残っていなかった。

キャラコさんは、すこし<ruby><rb>怖気</rb><rt>おじけ</rt></ruby>がついてきた。自分が、いま、やりかけていることは、途方もなく<ruby><rb>突飛</rb><rt>とっぴ</rt></ruby>なことのように思われだして来た。

キャラコさんは、気持を落ちつけるつもりで深呼吸してみる。案外、効果があった。なにはともあれ、わざわざここまでやって来て、こんなことくらいにへこたれて、このままひき返すわけにはゆかない。

キャラコさんは、玄関のところまで歩いて行って、呼鈴を押した。ベルが思いがけなく近いところでえらい音を立てて鳴ったので、びっくりして逃げ足になった。元気を出しているつもりなのだけれど、なんとなく魂がしっかりとすわらない。勢い、自信のない顔つきになる。負けまいと思って、例の、すこし大きすぎる口を結んで頑張りつづける。

玄関の<ruby><rb>扉</rb><rt>と</rt></ruby>が、内側から無造作に引きあけられて、よく釣り合いのとれた、<ruby><rb>背</rb><rt>せい</rt></ruby>の高い、三十五、六の青年が屈託のないようすで現われて来た。

油絵の青年だった！

絵のなかの顔とすこしも違っていない。落ち着いた深いまなざしも、きっぱりとした顎の線も、<ruby><rb>翳</rb><rt>かげ</rt></ruby>のない広い額も、なにもかもそのままで、誇張していうなら、絵の中の青年が、<ruby><rb>容積</rb><rt>ディマンシオン</rt></ruby>を変えてここへ出て来たかと思われたほどだった。ただ違うところは、顎に<ruby><rb>青髭</rb><rt>あおひげ</rt></ruby>があることと、<ruby><rb>天鵞絨</rb><rt>びろうど</rt></ruby>の黒い上衣のかわりに、絵具だらけの<ruby><rb>麻</rb><rt>あさ</rt></ruby>の<ruby><rb>仕事着</rb><rt>ブルーズ</rt></ruby>を着ているところだけだった。

そのひとは、ほのかに眼もとを<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>ませて、キャラコさんの顔を見かえしている。

キャラコさんは、さっきからぼんやりとそのひとの顔を見上げていたのだった。ハッと気がついて、思わず真っ赤になってしまった。

そのひとは、格別不思議そうな顔もしないで、扉口に立ったままになっている。

キャラコさんは、へどもどしながらお辞儀をすると、死んだ気になって、切り出した。

「……突然ですが、すこし、お<ruby><rb>尋</rb><rt>たず</rt></ruby>ねしたいことがあって、それでおうかがいしたのですけど……」

そのひとは、ああ、と、<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>な返事をしただけで、のどかに笑っている。

どんな冷たい心でも溶かしてしまうような、ひろい、おおまかな微笑である。

キャラコさんは、やれやれ、と思う。ようやく、楽に口がきけるようになる。

「あなたは、もしかして、あたくしを知っていらっしゃるのではないでしょうか」

そのひとは、元気のいい声で笑い出した。

「どうして、知らない訳があるもんですか。……君はね、むかし、僕をひどく手こずらしたことがあるんだよ。……覚ていないかも知れないが……」

よく響く声でこういうと、無造作にキャラコさんの手をとって、

「それにしても、ずいぶん、綺麗になったもんだ！　それに、立派な顔をしている」

キャラコさんは、楽しすぎて、すこし<ruby><rb>茫</rb><rt>ぼう</rt></ruby>となる。そのひとの掌は大きく温かくて、その手にとられていると、なんともいえない<ruby><rb>頼母</rb><rt>たのも</rt></ruby>しさを感じる。

いいたいことが、あれもこれもと沢山あって、なにからいい出していいかわからない。大あわてに<ruby><rb>狼狽</rb><rt>あわ</rt></ruby>てたすえ、わけのわからないことを口走る。

「あなた、あたしがどうしてここへ来たか、ごぞんじ？」

そのひとは、また笑った。

「知りませんね」

キャラコさんは、ふうん、と鼻を鳴らす。

西洋骨董店の飾窓で絵を見てから、ここへ<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>りつくまでの、苦心や悩みをつぶさに訴えたいと思うのだが、どうもうまくいえそうもない。<ruby><rb>断念</rb><rt>あきら</rt></ruby>めて、こんなふうにいう。

「あたし、これでも、ちょっと敏感なところがありますの。自分の記憶だけで、ここまでやって来ましたのよ。……むかし、一度ここへ来たことがあったってことは、あたしも薄々知っていましたの。でも、それがいつだったのか、ここで何をしたのか、まるっきり記憶に残っていませんの」

そのひとは、玄関の石段にしゃがみながら、

「それは、とても大変だったんだよ。……もう、何年になるか、よく覚えていないけど、君が叔父さんというひとと、この辺へ遠足に来て、とつぜん、えらい熱を出して、わけがわからなくなってしまったんだ。……なにげなく、アトリエの窓から見おろすと、君の叔父さんが、あそこの<ruby><rb>木槿</rb><rt>ぼけ</rt></ruby>のあたりで、君をかかかえてうろうろしている。……そのころ、この辺には、僕の家だけしかなかったもんだから、かまわないから、って、そういってね、僕ンところへ入ってもらって、医者が来るまで、井戸水を<ruby><rb>汲</rb><rt>く</rt></ruby>んじゃ君の頭を冷やしていたんだ。……叔父さんというひとは医者を迎えに行ったきりなかなか帰って来ないし、こっちは、ひどく情けなくなって、君を抱いて家のなかを訳もなく歩きまわっていたんだ。そうでもしなくちゃ、心細くて、とてもやりきれなかったんだ」

美しい音楽でも聞いているようで、キャラコさんは、思わず、うっとりとなる。あの絵を見た瞬間、自分の心になんともつかぬ不思議な感じがひき起こされたのは、決して理由のないことではなかった。

「……そのうちに、ようやく医者がやって来たが、君は、どうしても僕の腕から離れようとしないんだ。……寝台へ寝かそうとすると、えらい声で泣き出す、しようがないから、ずッと抱きつづけていて、朝になってから、テクテクと一里ちかくも歩いて病院まで連れて行った。……なにしろ、ひどく手こずらしたもんだよ。僕の胸へぎゅッと顔をおッつけて、なんといっても離れないんだからね……」

そのひとは、ひやかすように、キャラコさんの顔をのぞき込んでから、

「この胸ンとこに、いまでも、君の<ruby><rb>顔型</rb><rt>かおがた</rt></ruby>が残っているかも知れないよ」

このひとの深い心が、その時も、自分をうったのにちがいない。今の自分の感情にひきくらべて、それが、よくわかるのである。自分は、それと気がつかずに、長い間、このひとの親切に感謝しつづけていたのだと思った。