一 熱病やみか狂人か  私の負傷は癒えなかったけれど、故郷を出てから六月目に、それでもマドリッドへ帰って来た。  私は誰にも逢わなかった。又逢いたいとも思わなかった。しかし、親友のドン・ムリオだけには逢って見たいような気持がした。 「カスピナに逢うのも悪くはない。私は誰でも構わない。慰めてくれる人が欲しいのだ」  ドン・ムリオの一人の妹、十九のカスピナが久しい前から、私を愛してくれていた。私はそれを知っていた。そして私もその乙女をただ一通りには愛していた。とは云え夫れさえあの夜以来――外務大臣の夜会の席で、外務大臣の二番目の娘、マリア姫の姿を見て以来は、一通りの愛さえも消えて了って、濃厚な彼女の心尽しをさえ、五月蝿いことに思うようになった。そして今でも悔いられる程の無情態度を見せたものだ。  然に今ではこの私が、マリア姫から夫れに似た無情態度を見せられている。私もカスピナも不幸なのだ。不幸な女と不幸な男、互に慰め合う可きではないか。  冬薔薇の花の凋みかけた心地よい五月の或夕暮に、私はドン・ムリオを訪問れた。私の家と同じようにムリオの家は此西班牙では最古い家柄であって、長い並木の行き詰まりに十七世紀風の唐門が、いかにも優雅に建っている。私がその門を這入るや否や仔牛ほどもある西班牙犬のネロが眼早く見付けたと見えて、高く一声吠えながら私の足許へ走って来て、房毛で蔽われた横肚を私の膝へ擦りつけた。  其時石造の建物の、二階の窓の窓掛が、元気よく左右に開らいたかと思うと、漆黒の髪の毛で包まれた小さい可愛い女の顔が、私の方を透かして見た。それはカスピナの顔である。 「あら」  と、喜びに張ち切れそうな、カスピナの声が聞えたかと思うと、すぐ其顔は引っ込んだ。  彼女と私とは玄関で間も無く手と手とを握り合った。 「あら、あら、ほんとに帰ったのね。ほんとに帰っていらっしゃったのね」  彼女の声は情熱の為に胡弓の弦のように顫えていた。 「ええええ帰って来ましたとも。この通り帰って来ましたよ」私は彼女の情熱に若干圧倒されながら、情愛を籠めて斯う云った。 「どんなに私待ったでしょう」彼女の声は潤んで来た「お手紙一本くださらなかったのね」 「…………」ほんとに左様だ、この私は、彼女へもムリオへも誰一人へも一本の手紙さえ出さなかった。私には手紙さえ書けなかったのだ。私は熱病患者だったから、今でも矢っ張りそうなのだ。一切恋は熱病だ。しかも失われた恋ではないか。そうは云っても彼女へだけは、消息すべきではなかったか。 「済まないことをしましたね」私は彼女の髪の毛を優しく指で真探ぐった。「私は為様の無い馬鹿なのです」 「いいえいいえ」とカスピナは、機嫌を直して微笑んだ。「馬鹿なのは私よ、ね、そうでしょう?」  私は返辞が出来なかった。何故かと云うにそう云った時、彼女の処女らしい純潔な眼が、私に謎を掛けたから、その眼は私に斯う云っている「馬鹿なのは私よ、ね、そうでしょう? 私は貴郎を愛しています。それだのに貴郎はこの私を、ちっとも愛しては下さらない。だから私は馬鹿でしょう? それとも、貴郎は是からは、私を愛して下すって?」  どうして返辞が出来ようぞ! 私はいまだにマリア姫を死ぬほど愛しているではないか。 「ムリオは家にいるでしょうね?」 「ええええ家にいますとも。家にいなくてどうしましょう。兄もどんなにか待ったでしょう」  彼女の声は復潤んだが、そのままクルリと向きを変えて家の中へ私を案内した。  ムリオの室の前へ来た時に、どうしたのか彼女は意味あり気に私の顔を見守った。 「兄は大変変りました。何故だか私は知りませんけれど……憂鬱になったのでございますよ。そうかと思うと突発的に陽気になることもございます。熱病病みか狂人か、怖いような時がございますわ」 「熱病やみか狂人か?……」私は心で呟いた。それでは此俺と同じでは無いか。一体どうしたと云うのだろう? この快活なムリオめが?  私達は室へ這入って行った。  彼、ムリオは、ああ本当に、何んてまあ変わって了ったんだろう? 彼は蒼白の顔をして(曾はそれは活々としたピンク色を呈していたではないか。)波斯模様の氈を掛けた長榻に深く身を埋め、首をうな垂れているではないか。その髪は艶々と黒くはあるがその眼はどんよりと光が無い。 二 唯一発で放ち殺すさ  西班牙の夕暮の美しさ! 真昼の暑さは名残り無く消えて、涼しい微風が庭園の上や家々の周囲を吹き巡る。真珠色をした夕の闇が純白の石楠花の大輪の花や、焔のような柘榴の花を、可惜そうに引き包み、咽せ返えるような百合の匂が、窓から家内へ流れ込む。  古池の方からは鷭の啼く音が、思い出したように聞えて来る。そして空には、碧玉のような、大きな星が瞬いている。  私とムリオとカスピナとは、夜の燈火を灯もそうともせず、ほのかな外光を窓から受けた夢見るような室の中で、極めて静に話し合った。  カスピナが席を外ずした時、私はムリオの手を取った。情熱的に握り乍ら、私は熱心に彼に云った。 「ね、君、ムリオ、話してくれ給え。どうしてそんなに変わったのだ? ほんとに君は変わったね。何が君をそんなに変えたのだ?」  しかしムリオは黙っていた。空想的の黒い眼を、窓の方へ茫然向けながら、根強く黙っているのであった。 「僕達は親友では無かったか」私は愁に捉えられながら、彼の心を動かそうとした。「いいや僕達は親友の筈だ。二人の心は一つであった。喜も悲も一緒に感じ、そうして慰め合ったものだ。僕の憐れな失恋の苦を、いち早く察したのは君であった。旅行に出よと勧めたのも矢張り君ではなかったか。それで僕は旅へ出て行った。その旅は幸福ではなかったけれど、そして矢っ張り同じ苦痛、依然として胸に傷を持ってこうしてマドリッドへは帰って来たが、それでも旅に居る間は、胸の安まることもあった……それだのに斯うして帰って見れば、健康そのもののように逞しかった君の体は痩せ衰え、僕が一口喋舌る中に十言も喋舌った君の口は、糸で縫ったように閉じて了って、胸の秘密を語ろうともしない。それでも親友と云われるだろうか?」  それでも親友と云われるだろうか――最後に云った此言葉が、ムリオの胸に堪えたと見えて、窓に向いていた彼の眼が、私の方へチラリと向いた。眼には涙が溜まっている。そして、其眼には、意外にも嘆願するような気配があった。嘆願するような眼の色が、私を非常に驚かせた。そして私は恐怖と共に一つの危惧が胸に湧き、忽、或事を直感した。 「それではムリオ、ああ君もか?……君は誰かを愛しているね?」 「…………」ムリオは凝然と私を見詰め、蒼褪めた唇をわななかせたが、卒然と床へ膝をついた。 「曾は君の親友だった! しかし今では仇同志だ!」ムリオは烈しく慟哭して「そう君は云うに違いない! 僕は其奴を甘受しよう! そうだ其言葉を甘受しよう! 僕は一切を白状する! 僕は彼女を愛している! ずっとずっと昔からね。君と二人で夜会へ行って、其処で彼女を見た時から!……僕は手を変え品を代えて彼女に接近しようとした。僕にとって君は邪魔者だった、で僕は君を旅へ遣った。僕は彼女を強迫した。又僕は彼女へ跪いた。彼女の為に僕は泣き彼女の為に僕は怒り、彼女の為に悪魔となった……彼女は君を愛していた。そうだ最初には、最初にはね。が併し彼女は今日ではこの僕を火のように愛しているよ! 何故かというに、彼女と云っても、矢っ張り西班牙の女だからだ! 闘牛の惨虐を好むように恋の惨虐をも好むからだ。僕は正直に云うけれど、彼女の前で君のことをどんなに悪様に詈ったろう。彼奴は白痴で無節操でロマンチックの生地無しだ! このように僕は云ったものだ。彼女は最初僕の言葉を悪魔の呪詛だと怖がった。けれど間も無く其奴を喜ぶようになった。一体人間というものは他人の悪口を好むものだ。まして西班牙の女はね……君を悪口することに依って、僕は彼女の愛を得た! 愛を得た今では君のことを、僕はセッセと褒めるようになった。彼女の前で褒めるのだ。そうすると彼女は斯う云うのだ『可哀そうなダンチョン、可哀そうなお方』宜いかダンチョン、ね、ダンチョン、君は彼女に憐れまれている。憐愍! 即ち恋の墓場! 君に対してマリア姫は一掬の涙は注ぐだろうが熱い接吻は許すまい。君の為に用意した唇を僕が横から奪ったから、僕は恐らく悪党だろう! しかし西班牙の男という男は、恋の為には悪党にもなり、親をも親友をも売るということは、君にも解っている筈だ。君も西班牙の男だから。だから、いいかい、ドン・ダンチョン、二人の間はもう決して親友でもなんでも無くなったのだ。で若し君が僕に向かって君の手袋を投げ付けるなら、喜んで拳銃の用意をしよう。西班牙流に放射ち合おうね……」  ムリオの声は次第次第に嘲笑の響を含くんで来た。そして其眼は猛獣のような惨忍の光に充ちて来た。  彼は床からスックと立って室をあちこち歩き出した。私の答えを待ちながら。  私は彼を眼の前に置いて心の中で呟いた「これが昔の親友なのか? あれほど私に忠実だった、あれほど愉快で正直だったドン・ムリオは本当にこの男か? いやいや到底信じられぬ。此処にいる男はムリオじゃない。ムリオらしい姿に扮している地獄から来た魔王なのだ。失われた恋に未練を残して人心地も無く日を送っている憐れな自分を戯弄うために、悪魔が親友の姿をして、此処にこうして歩いているのだ」  其時、ムリオは私の前で、ピッタリと停まって腕を組んだ。白い前歯をチラリと見せて、たった其笑い一つだけで人の心を逆上させ、憎悪の為に笑った男を絞め殺してやろうかと思わせる程の、悪意に充ちた微笑をした。果して私は逆上した。私もスックと立ち上った。 「ムリオ!」と私は呼びかけた。「手袋を投げるのはまあ止めよう」 「何故?」とムリオは訊き返えした。 「決闘は紳士の行るべきことだ」 「で君は夫れをやらないのか?」 「僕はやらない。何故かというに、君が紳士でないからだ……君は親友を裏切った。それを後悔していない。寧ろ君はそれが得意らしい」 「僕は西班牙の青年だよ」 「そして紳士だと云うのかい! が併し僕は認めない。僕は敢て君を、犬! だと云う」 「犬?」とムリオは進み出た。 「犬と決闘は出来ないじゃ無いか。僕は手袋は投げないだろう。僕は少しく考えよう。そして考えが纏まったらそれこそ犬を殺すように君を一発で殺してやる。よいか、ムリオ、気を付けろよ。君を虐殺してやるからな。正々堂々の決闘など、君に対しては勿体ない。でただ一発で放ち殺すのさ」  ムリオの喚くのを背後に聞いて私は彼の室を出た。  カスピナが廊下に立っている。鉛のような蒼い顔! 彼女は立聞をしたらしい。 「ダンチョン!」と彼女は叫び乍ら、私へよろよろと倒れかかった。私は片手で夫れを支え、火をさえ凍らせる冷い眼で彼女の顔を無言で見た。彼女は憐れにも首を垂れ、杭のように其処へ突っ立った。  その横を私はすり抜けて玄関から外へ出たのである。 三 幼馴染の親友  (ムリオの妹カスピナの日記……)  私は悪夢に魘されています。悪夢で無くて何んでしょう。これは恐ろしい悪夢です。思い出してもゾッとする。一体こんな事があるのでしょうか? こんな事があってよいのでしょうか? 神様、神様、全能の主よ。どうぞあの方をお助け下さい。そうして逝くなった二人の方の、魂をお導き下さいまし。  私は今でも夜になると、銀笛の音に悩まされます。そして不思議な手太鼓の音と、山羊の鳴き声とに悩まされます。どう考えても解かりません。どうして兄さんはあの晩に銀笛を吹いていたのでしょう? そして一体あの銀笛を何処から持って来たのでしょう? 何も彼も謎のように思われます。けれど、そのうち、あの大探偵のイバネスさんから、お手紙が来たら、その謎も屹度解けるでしょう。何んてまあ立派な探偵さんでしょう? 警察の方や他の刑事達が、これが犯人に相違無いと、決めて了ったあの方を、一人違うと首を振られて私にこのように有仰られた。 「見ていらっしゃい。お嬢さん、犯人は他にありますから。屹度私が捕らえて見せます。全然意外の方面にその犯人は居るのですよ……手太鼓の音と山羊の声、たしかにお聞きになったのですね? ところで手太鼓の音に混って鈴の音が聞えはしませんでしたか? これは大事なことですがね」  で、私は少し考えてから、 「そう云えば聞いたようにも思われます。手太鼓の音が、家の周囲をぐるぐる幾度も廻わり乍ら、パンパンパンと、大変陰気に、ひっきり無しに鳴ってる最中に、ほんの時々、チリチリと云う、小鈴の音が聞えました」 「時々聞えたと云うのですね?」イバネスさんは斯う云われて暫く考えて居られたが、 「あの夜は風が吹きましたね?」 「嵐の気味でございました」 「成程、それでは、太鼓と違って、鈴の音は大変小さいから、ひっきり無しに鳴っていたとしても、太鼓の音のようにハッキリとは聞えなかったかもしれませんね。そこでもう一つ、山羊ですが、これも時々鳴いたのですね?」 「矢っ張り時々でございました。それも私はその晩は、山羊が鳴くのだとは思いませんでした。誰か風邪をひいた人でもあって、その人が屋敷を廻わり乍ら――あの、つまり散歩をしながらですね、咳をするのだと斯う思って、気にも掛けずにいたのでした。ところが翌朝になりますと、屋敷の周囲に山羊の足跡がベッタリ着いて居りましたので、それでは昨夜の咳のような声は山羊が鳴いたんだなと斯う思いました」 「あなたの観察はお立派です。恐らく山羊が鳴いたのでしょう……ところが、甚だ御迷惑でしょうが、凶行のあった其晩のことと、その前の日の出来事とを、成る丈け詳細に正直に――いやこれは失礼いたしました。お見受けしたところ決してお嬢様は偽など云う方ではありませんが――お聞かせ願いたいのでございます。勿論、すでに其事は、警察の連中や検事などには、有仰ったこととは思いますが、御承知の通りこの私は、私立探偵でございまして、それに、此方で事件のあった時には、今から思うと残念ですが、私は関係して居りませんでした。ところが、今度、マリア姫が、それも昨夜でございますね、あんな有様でお逝くなりになり、どうも死因が変だというので、マリア姫のお父様の外務大臣とは、以前政治上の問題で、御用を達したことがありました所から、大臣が私に御依頼になり、そこで私は警察とは別に、独力で研究して居るような訳で……私の見た所に依りますと、此方の事件とマリア様の死とは、深い関係があるのです。それで甚だ御迷惑でしょうが、お聞かせを願い度いと斯う思いまして」 「お聞かせ致すどころじゃございません。私幾度でも申しますわ。それにしても本当にマリア様が――あんなにお美しかったマリア様が一晩でお逝りなさるとは、まるで夢のようでございますわ。何と申し上げてよろしいやら……あの晩の事でございますね? そしてあの晩の前日の事? それでは私、前の日のことから詳細く申し上げることに致しますわ。あの日と云っても今日から数えてたった二十日ばかり前のことで、昨日のことのように思われます。  あの日の夕方、お久しぶりで、ダンチョン様が参られました。ダンチョン様は半年ほど前から、旅行されていたのでございます。突然のお出ででございましたから、どんなに、私は喜びましたでしょう。私はすぐにダンチョン様を兄の室へ御案内いたしました。兄は大変驚きました。そしていくらか不機嫌でした。此処で一寸申し上げたいと思いますが、一体兄は夫の前からずっと不機嫌でございました。殊に其時は不機嫌で、体が痛みでもするかのように、顔を顰めて居るのでした。私は本当にハラハラして何うしようかと思いましたが、なまじ私が居るよりもお二人だけにした方が却って寛ぐかと思いまして、室を出たのでございます。けれど、不安に思いましたので、少し経ってから見に来ますと……」 「室中で議論をしていましたか?」 「声高に話して居りました」 「どんなことを話して居られました?」 「さあ……」と私は云い淀んだ、それから黙って了いました。どうして其後が云えましょう。あの恐ろしい二人の議論! わけても最後にダンチョン様が兄に向かって云った言葉「ただ一発でぶち殺すのさ!」どうして此言葉が云えましょう。 「ご存知なければ宜うございます。大事なことでもありませんから」 「大事なことではございませんて? それでも警察の人達は……」私はあわてて口を噤みました。 「ははあ警察の人達は夫れが大事だと云いましたかな。それではあなたから聞こうとして執つこくお尋ねしたでしょう。私にさえ有仰らないあなたですから、勿論その時其連中には恐らく何も有仰らなかったでしょうね」 「何んにも私云いませんでした」 「そこで連中はあなたを捨てて召使を調べたと云うものでしょう」 「ええ其通りでございますわ」 「連中の遣り口はそんなものです。所で獲物があったかしら……が、まあ夫れは宜いとして、あなたは失敗をなさいましたね」 「どんな失敗でございましょう?」 「二人だけ室へ残して置いて、あなたが席を外したのは確に失敗でございますね……だって左様じゃありませんか、恋仇同士をたった二人、室に残してお置きになったら、議論をするのは当然です。『ただ一発でぶち殺すぞ!』こんな言葉だって出るでしょう」  私は蒼白なりました。何んでもこの人は知ってるのだ! 斯う思って蒼くなったのです。 「あなたは何うしてそんな事まで……」私は喘ぎ乍ら訊きました、 「私が何うしてそんな事まで知って居るかというのですか? 私は何んにも知りませんでしたが、併し私はたった今、それを知ることが出来ました。そうです、お嬢さんが顔色を変えて、あなたは何うしてそんな事までと如何にも、大事そうに有仰ったので、扨は左様かと知りました。尤も疑っては居りましたが。疑う筈じゃありませんか。あなたのお兄様とダンチョン氏とは、幼馴染の親友だというのに、そのダンチョン氏が長い旅から折角帰って来るや否や、口論をするというのですから、重大な理由が無ければならぬ。ところがお二人とも名門で、金には御不自由なさらない。金で無いとすると、お若くはあるし、婦人問題に相違無いと、常識的に考えまして、甚失礼ではありましたけれど、お嬢様に鎌を掛けましたので」 「それでも何うしてダンチョン様が、兄に仰有った言葉まで承知していらっしゃるのでございますの?」 「ははあ夫れではダンチョン氏が、兄様にそんな事を云いましたか? ただ一発でぶち殺すぞと……ダンチョン氏の方で云ったのですね」  探偵は愛想よく笑いました。 「だってお嬢さん、こんな言葉は、人間が少しく昂奮すると、普通云う平凡な悪口ですよ。特に殺伐な西班牙ではね……ですから私も唯何気なく、常識でそう申したばかりです。こんな事は重大ではありません。一向重大ではありませんけれど、警察の連中の耳に這入ったら重大に思うかもしれませんな。如何です。警察の連中は、この事を知って居りますか?」 「存じてはいないだろうと思います。私は一口も申しませんし、召使は兄とダンチョン様とが議論したことを知りませんので」 「それは大変好都合でした。と云うのはダンチョン氏の為にですよ。そんな事でも知ろうものなら、警察の奴等めダンチョン氏を愈々疑うに決っています。やれやれ盲目には手がつけられぬ」 四 微妙な銀笛の音色  イバネス探偵は苦笑して、それから改めて訊きました。 「ねえ、お嬢さん、警察では、何の理由でダンチョン氏を拘引したんでございましょうな?」 「それは」と私は涙声で訴えるように云いました。それは斯うなのでございます。あの方が拘引されましたのは、無論警察の人達の眼違いなのではございましょうけれど、嫌疑を着なければならないような証拠は種々ございましたので……私、最初から申し上げますわ。あの晩の出来事を最初からね――お話ししたような有様で、ダンチョン様がお帰えりになると、私はすぐに兄の室へ駈け込んで行ったのでございます。それから私は泣き乍ら――私ほんとに泣きましたわ。兄に云ったのでございます。 「兄さんは紳士じゃありません! 兄さんは紳士じゃありません!」て。そうすると兄は云いました。「いいや紳士だ。西班牙のな」って。 「兄さんは謝らなければなりません。そうしなければ悪者です」と、私は尚も云い募りました。兄は夫っきり、一言も云わず、長榻に体を埋めたままじっと考えに沈みました。私も同じ長榻へ黙って腰を掛けながら、兄の様子を見守りました。斯うして大変長い間夜がすっかり更ける迄、二人は考えていたのでした。と不意に兄が云いました。 「ほんとにお前の云う通りだ。俺はダンチョンに謝罪せねばならぬ。俺の態度は悪かった。これから行って謝まって来よう」 「兄さん!」と私は嬉しさの余り、兄の胸へ飛びついて行きました「兄さんは夫れでこそ紳士です!」 「しかしダンチョンは許すまいよ」不安そうに兄は呟き乍ら、それでも外出の支度をして急いで出かけて行きました。 「ああ、まあ、是で安心だ。これで屹度二人は前通り仲宜になるに違いない」このように私は思いまして兄の帰りを待ち乍ら、兄の室に暫く居りました。嵐の気味でございまして、窓に近寄って眺めましたら空はクッキリと晴れ渡って、燐のように蒼い無数の星が遠くにすがすがしく輝いて居て、時々千切れた雲の片が飛んで行くのが見えました。地上には靄が立ち籠めていて夫れも矢っ張り嵐に追われて、立ち迷っている其様子が、白無垢を纏った若い嫁様が、悪者に追われて逃げるかのように、何んだか物憐れに見えました。蒼白い靄に埋もれながら、すぐ窓下の冬薔薇の木は、凋んだ花と満開の花とを簪のように着けながら、こんもりと茂って居るのでした。  そういう戸外の光景をじっと眺めて居るうちに私は悲しくなりました。そして恐ろしくなりました。何んの理由も無かったのです。けれど私は夫れで窓に縋ってしくしく泣いたのでございますわ。前兆だったのでございましょうね。  ふっと気が付いて眺めますと、眼の前に立っている唐門を潜って、先刻出た兄が悄然と歩いて来るではありませんか。少し帰りが早すぎたので、途中で考えがまた変って、謝まることが厭になって、引き返えして来たのではあるまいかと、私はいくらか不安の気持で兄の来るのを待ってました。室に這入るのを待ちかねて、私は兄に訊きました。 「ダンチョン様とお逢いになって?」 「ダンチョンは家にいなかったよ」兄の返辞はこうでした。調子に偽がございませんので、私はすぐに信じました。不図見ると兄は右の手に細長い包を持っています。 「兄さん何? その包は?」不思議に思って訊きますと、 「是か?」と兄は包を見て、「俺も何んだか知らないよ。すぐこの向うの並木まで来ると、小娘がヒョッコリ現われてね。私に金を請るのさ、見ると可哀そうな乞食なので、いくらか金を呉れてやると、持っていた包を差し出して私に呉れるというじゃないか。私が不用いと断っても、どうしても取れっていうのだよ。その云い草がいいじゃないか、『よい星に産まれたあなた様が、これからも御運がよいようにと封じ込めた護符でございます』ってね。それで貰っては来たんだが、何が這入っているのだろう」  兄が包を解きますと、中から笛が出て来ました。しかも立派な銀笛で、それには一面に鳥や獣の不思議な形が彫ってあって、精巧を極めたものでした。 「何んだい、こりゃ! 笛じゃないか。それも安価く無い銀笛だぜ」兄は如何にも驚いたように、寧ろ呆れたというように、こう云って笛を見詰めました。 「乞食の小娘から貰ったなんて、いい加減のこと兄さん云ってるわ。どこかで買っていらっしゃったのね」私は笛が安価物で無くて、値打のある品だと思いましたので、兄の話を信じませんでした。乞食がお金を貰った代りに物を呉れるということは、珍らしいことではありませんけれど、そんな時乞食の呉れる物は、木で作った粗末な雉笛か、土で作った人形ぐらいのもので、彫刻のある立派な銀笛など、呉れそうにもないのでございます。  けれど私がそう云っても、兄は矢っ張り今云った言葉を繰り返すばかりでございました。 「これは何んでもボヘミヤ彫りだ。頗る珍らしい彫刻だ。音色も大方佳いだろう」  などと云って兄は一つ一つ叮寧に穴を覗いたり、透かして眺めたり致しました。  間も無く私は挨拶をして、兄の室を出たのでございます。そして、二つほど室を隔てた自分の寝室へ帰りまして、ベットに寝たのでございます。私は疲労れて居りましたので直ぐうとうとと致しました。  と、どうでしょう。睡眠を通して――私の快い睡眠を通して、微妙な一筋の音楽の音色が聞えて来るではございませぬか。ああ兄が銀笛を吹いているそうな――私はうとうとしていながら、そう思ったのでございます。そしてうとうとしてい乍ら、巧みな兄の吹奏に聞き惚れていたのでございます。大変寂しい、悲しそうな、葬式の時にでも吹きそうな、気味の悪い調べ方でございましたのに、夜もこんなに遅いのだから、止めればよいにと思い思い、矢っ張り聞き澄して居りました。すると、其時、戸外の方から、突然異様な物音が、銀笛の調べに合わせ乍ら、吹き募った嵐を貫いて、パンパンパンと聞えて来ました。それに稀れではありましたけれど、確にあなたの仰有ったように、チリチリチリという鈴の音が一緒に聞えて参りました。人間が咳をするような山羊の鳴声も聞えて来ました。誰か手太鼓を打ってるそうな――パンパンパンという其音が手太鼓の音だと知ったのは、少し経ってからでございます。  そのうち次第に銀笛の音が、弱って来るのに気がつきました。それに反して手太鼓の音は益々高く鳴るのでした。最初は遠くで鳴っていたのが、屋敷をグルグル廻った末、玄関の方へ出た様子で、それが今度は、玄関に近い兄の室の前へ行ったと見えて、弱りに弱った銀笛の音を打ち消すようにハッキリと聞えて来たのでございます。と不意に銀笛の弱り切った音がプッツリと消えたのでございます。すると同時に手太鼓の音も、プッツリと切れて了いました。そして四辺は恐ろしい程静かになったのでございます。  そして其次に起ったのが拳銃の音なのでございます。 五 傷痕のない屍骸  拳銃の音が起るや否や家内中の騒動となりました。どんなに皆は周章てたでしょうけれども、皆のあわてた事など詳細くお話しした所で何の御参考にもなりませんわね、ですから私省略きます。  家中の者は飛び起きて拳銃の音のした方角へ馳せ集まったのでございます。其処は何処かと申しますに兄の室なのでございます。私も駈けつけて行きました。  兄は長榻に腰かけたまま――まだ寝なかったのでございますね――片手に銀笛を持ったなりでガックリと首を垂れながら、眠っているではありませんか。窓の硝子は破壊されて、大きな穴が開いている。そこから暁風が吹いて来る。夜は何時の間にかしらじらと明けて蒼白い光が花壇の花をぼんやり、照らして居るのでした。見ると花壇は踏み荒されて、わけても冬薔薇の灌木は、踏み潰されてさえ居りました。  其時、母の叫び声が(狂人じみた恐怖の声が)室一杯に響き渡りました。 「誰でもいいから、此処へ来てさあ此ムリオに触ってごらん! 氷のように冷えてるじゃ無いか! この子は死んでいるのだよ!」  母は卒倒いたしました。父が其時居りさえしたら、どんなにか手頼りになったでしょう。その時父は公用のため英国へ渡って居りまして、不在だったのでございます。  私は直に走って行き、兄の額へ手を触れました、ほんとに母の言ったように氷のように冷えています。兄は死んだのでございます。いいえ殺されたのでございます。けれども何処からも血は出ていず、弾傷らしい箇所などは何処にも無いのでございます。  驚愕、悲哀のその間にも、私達は取り乱しはしませんでした。私はすぐに警察へ電話を掛けてやりました。私達は検屍の来るうち中兄の屍骸を其位置から少しも動かしはしませんでした。  間も無く、検事に、予審判事に、警視が二人に巡査が四人に、それから刑事と警察医とが自動車で駈けつけて下さいまして、現場の臨検に取り掛かられました。何より先に兄の屍骸をお調べになったのでございます。何処にも傷は無いのでした。弾傷も太刀傷も注射の痕も。 「酷く心臓を侵されています。たしかに致命傷は是でしょう……しかし何うして斯う急に心臓を侵されたものだろう」  警察医は小首を傾げました。 「毒でも飲みはしないかね?」一人の警視が訊きました。 「解剖しなければ確かの所は申し上げ兼ねるように思いますが、外見には毒を飲んだ痕跡など何処にも残っては居りません」 「心臓麻痺とでも云うやつかな?」 「さあ」と検医は復考え「心臓麻痺に致しますと、少しく徴候が変ですな……」  それから皆は室の中を隅から隅まで調べました、格闘したらしい形跡など何処にも些少ございませんでした。  すると検事が窓硝子の破れた所を指差し乍ら、私にこのように訊きました。 「是は以前からでございますか?」 「いいえ」と私は答えました「昨夜までは破壊れては居りませんでした」 「ははあ」と検事は頷き乍ら「それではお嬢さん、お宅では、夜も此様に窓掛も閉めず、鎧戸も卸さないのでございますか?」 「いいえ何時もは卸しますけれど、昨夜はうっかりして卸さなかったものと思われます」 「うっかりしてと仰有ると、それでは何か兄さんのお身にうっかりしなければならないような、心配事でもございましたので?」  私はしまったと思いました。それでいくらか周章てながら、 「そんな事、私、存じません」と、声をはずませて云いました。  検事は、すると、迂散らしく、私の顔を見詰めましたが、 「もう一つお訊きしたいのは、昨晩、最後にこの室を、つまり兄さんの室をですね、お出になったのは何人でしょう!」 「それは私でございます」 「ああお嬢さんでございますか。で夫れは何時頃でございます?」 「午前一時頃だったと思います」 「大相遅かったじゃございませんか。何時もそんなに遅くまでお話しなさるのでございますか?」 「いいえそうじゃございません。けれど昨夜は事情があって……」 「それでは何うか其事情をざっとお話し下さいまし」  私はだんだん問い詰められて、少し自棄になって居りましたので、 「それではお話し致しますが、兄は昨日の夕方に、友達と議論を致しまして、大変昂奮して居りましたので、私、その晩遅くまで慰めていたのでございます」 「ほほオ、友達と議論をした?」検事は傍に立っていた予審判事と意味ありそうな微笑をチラリと取り換わせました。 「何という名のお友達で?」 「あのドン・ダンチョンという方で、決して平素は人様などと争う方ではございません」 「成程と」検事は笑を含み「いずれ理由は御存知でしょうね。お二人が議論をした其理由を?」 「いいえ私は存知ません」 「そうするとあなたは其席にはいらっしゃらなかったのでございますね?」 「席をはずして居りました」 「それは残念のことでしたな……ところであなた方御兄妹と、ダンチョン氏との関係を、すこしく詳細にお聞きしたいもので」  それで私は、その関係を、出来るだけ詳細しく話しました。以前からの親友だという事や、同じ学校の同級生で年も同じだという事や、絵画や音楽や彫刻に対して二人とも趣味を持っているという事や……そして一方ダンチョン様は、六ヶ月前から旅行に出ていて今度久々で帰ったという事や。  私の話を聞いて了うと、検事は黙って頷きましたが、そこで暫く考えてから、 「それでは、あなたは、何の理由で二人が昨夜争ったか、確に御存知ないのですね……それでは一応召使たちに尋ねて見ることに致しましょう……ところで、もう一つ銀笛ですが、これは兄さんの笛でしょうな?」こう云って検事は左の手に――死んでいる兄が左の手に尚も握っている銀笛を指差し乍ら訊きました。  私は、執つこい尋問に、この時焦心きって居りましたし、兄が昨晩並木道で乞食から貰った銀笛だなどと、よしや私が云った所で迂散に思われるに違いない! 第一、私達の家柄として、乞食から物を貰ったなどと、他人に思われるのも厭でしたから、遂、斯う云って了いました。 「ええ是は兄の銀笛です」 「屹度兄さんは是を吹いて、昨夜は遅くまで寝ようともせず、此処に腰掛けて居られたのでしょう。それを、窓外から硝子を破って、ピストルを放ち込んだというものでしょう。ほんとに家中の皆様が其音を聞かれたというのなら……」 「それは確でございます。ピストルの音にでも驚かなければ、家中の者が一時に眼醒めるようなことはございません」私は強く云いました。 「それにしても、屍骸の何処を見ても弾痕の無いのは不思議ですな」 「それでも兄さんは死んでいます! 死んでいるのが証拠です!」 「それでは、或は、こうかもしれぬ――拳銃の弾は当らなかったが、すぐ耳元で爆発する恐ろしい物音を聞いたので、それで兄さんはハッとして、突然心臓に故障を起し、逝くなられたのかも知れませんな。ドクトル、どうだね、この意見は?」 「全然無いことでもありません」検医は真面目にこう答えました「勿論、極めて稀ではあるが、前例も幾つかございます」  検事と警察医とのこの言葉を丁度裏書でもするように、先刻から室を調べていた一人の刑事が額縁から――壊れた硝子窓と向かい合った正面の卵色の壁の面へ、斜めに釣るした油絵の額の、金箔を鏤めた額縁から、何か小さい物を摘み出しました。 「何だ?」と検事が訊きました。 「拳銃の弾でございます」 「見せろ」と検事は刑事の手から拳銃の弾を取りました。 「成程、これは拳銃の弾だ、それでは、お嬢さんの仰有る通り、何者か外からこの室を眼がけて拳銃を放ったに相違ない。それでは一応、庭の方を……」  斯う云って検事は先に立って、庭の方へ一同を導きました。私も従いて行きました……。 六 半人半獣の妖怪  窓の下は花壇でございます。私、先刻も申した通り、花壇は荒らされて居りました。百合や鳳仙花や水葵や、草芙蓉などの美しい花は、大概無残に蹂躪られて、わけても私が大事にしていた冬薔薇の花は名残りも止めず地に散り敷いて居りました。  一番私達を驚かせたのは、其辺一面に靴の跡が、着いていることでございます。それは大変上品な華奢な靴跡でございました。刑事の一人は其靴跡を直ぐに手帳に写しました。そして最う一つ不思議なことには、その靴跡と入り乱れて山羊の脚跡が有ることで、検事も警視も予審判事も、解し難いような様子をして、その山羊の脚跡を暫くの間黙って眺めて居りましたが、俄に判事は笑い出してこんな洒落を云ったのでございます。 「いくら何んでも、まさか山羊が、ピストルを放つことは出来ないだろう」  判事の洒落で誰も彼もみんな笑い出して了いました。  それから皆は復其辺を詳細しく探索いたしました。 「おや、手袋が落ちている」  もう一人の刑事が腰をかがめ、冬薔薇の灌木の茂から、黄色い鹿皮の手袋を、一つ急いで拾い上げました。何だか、私は、その手袋に見覚えがあるような気がしました。 「これは結構な手がかりだ」検事は云い云いその手袋を、傍の判事へ示しました。  こうして人達は家の周囲を幾度も廻って調べましたが、他には何んにも見つかりませんでした。  やがて皆は調査を打ち切り、再び兄の屍骸のある室へ、集まって来たのでございます。  みんなは黙って居りました。誰も一言も云いません。  私は母が心配なので(母は卒倒をして以来、自分の寝間へ閉じ籠って、誰の質問にも応じようともせず、唯泣くばかりでございました)一度様子を尋ねようと、兄の室を出ようと致しました。  すると廊下に足音がして突然姿を現わしたのはダンチョン様でございます。ああ其時のダンチョン様の不思議な物凄い顔と云ったら! 手布より白い其顔色(血の気など何処にもございません)釣上った、赤い、焔のような眼(それは充血しているのです)痙攣のために左の方へグイと曲った其唇。ダンチョン様は幽霊のように室の中へ這入って参りました。兄の死骸の前まで行くと、手を延して顔の蔽いを取り額へ唇を宛てました。それから判事の前へ行って、ポケットから拳銃を取り出すと、机の上へ抛り出し、すぐに静に云い出しました。 「私が犯人でございます。この手をお縛り下さいまし」両手を前へ突き出しました。  俄に室はざわめき出しました。判事はそれを制し乍ら、 「失礼ですがお名前は?」 「インセント、ドン、ダンチョンです」 「ははあ貴郎がダンチョン氏で?」  それから忽ち兄の室は仮予審場に変わりました。 「自分で犯人だと仰有るからには、それだけの理由がございましょう。それはどういう理由ですか?」 「理由は至極簡単です。ムリオに怨みがありましたので、昨晩庭先まで忍んで参り、拳銃一発で放ち倒しました」 「確に殺したとお思いですか?」  ダンチョン様はそう云われると、驚いたような表情をして、 「確に殺したと思います。その証拠にはこの通りムリオは死んで居るのですから……尤、先刻、この家から、ムリオが死んだという事を、電話で知らして来ない迄は、半信半疑で居りましたが」 「半信半疑でいた訳は?」 「その訳は、あんまり奇怪なので……」 「奇怪! 奇怪とは何う奇怪です?」 「それを私が申し上げても、恐らく御信用なさいますまい……」 「信用するしないは別として是非それを聞かせていただきましょう」 「それほど仰有るなら申し上げますが、私はムリオを射つ代りに妖怪を射ったように思いましたので」  室の中は再びざわめきました。 「ほほオ、妖怪? 妖怪とは?」 「胴から上は人間ですが胴から下は動物という、そういう妖怪でございます」 「その妖怪がどうしました?」 「その妖怪が窓外に立ってこの室を覗いて居たのでした」 「それを放ったと有仰るので? その時あなたは何処にいました?」 「冬薔薇の蔭に居りました」 「妖怪、妖怪、妖怪を放った?」  判事は検事と眼を見合わせ、そんな事は信じられないというように、苦笑を口端へ浮かべたものです。  それから尚も訊問は細々と長く続きました。そして最後に行われたのが証拠品の調べでございます。  地面に残っていた靴の跡。ダンチョン様の靴跡と少しも違いがありませんでした。冬薔薇の中から見出された黄色い鹿皮の手袋の一つ。もう一つの手袋はダンチョン様のズボンのかくしから出て来ました。額縁から出た拳銃の弾。それも矢っ張りダンチョン様の拳銃の弾でありました。  それで到頭ダンチョン様は、尤も重大な嫌疑者として、その場から拘引されたのです。そうです重大な嫌疑者として……。 七 探偵からの手紙 「それですっかり解りました。誠に有難うございました」  イバネス探偵は、私の話を、熱心に聞いて居りましたが、この時叮寧に斯う云われました。 「それですっかり解りました。そうです、すっかり、何も彼も……が併し、お嬢さま、それにしても、どうしてお嬢様は銀笛をマリア姫に上げたのでございます?」 「あああの銀笛でございますか。これという訳もございません。あれを形見にしたいから是非くれとマリア様が仰有ったので差し上げたまででございます」 「それが大変な失敗でした」 「それは又何故でございますか?」  イバネスさんは苦々しそうに、私の顔を見ただけで、説明しようともなさいません。それで暫く私達は、黙って見合って居りました。 「ところでお嬢様、お兄様の古い日記がございますか?」  イバネスさんは何と思ったか、俄にこんなことを訊きました。 「ええ確有るだろうと思います」 「是非それを拝見したいもので……大変重大の事ですから……」 「それでは持って参りましょう」  私は兄の書斎へ行って古い日記を探がしました。そして納戸の奥の方で絹紐で縛った日記の束を発見することが出来ました。 「これで全部でございますわ」私が斯う云って其日記をイバネスさんへ渡しますと、イバネスさんは礼を云って、貪るように読み出しました。  そこで私はイバネスさんの丁度正面へ陣取って、イバネスさんの顔色から何かを知ろうと決心して、イバネスさんの顔ばかりを熱心に見詰めて居りました。  イバネスさんは読んで行く。私は熱心に見詰めている。こうして無言の重苦しい時が、恐ろしく長く経ちました。忽ち冷静だったイバネスさんの眼が、焔のように燃えました。が、それもほんの一刹那で、石のように堅い其顔は、再び冷静に立ち返りました。 「これで充分でございます。誠にお手数を掛けました」イバネスさんは立ち上って別れの挨拶をいたしました。私はすぐにマドリッドを発って旅へ出ようと思います、犯人を追い込んで行くのです。見ていらっしゃい、お嬢さん、犯人は他に居りますから。屹度私が捕らえて見せます。全然意外の方面にその犯人は居るのですよ……そして若し犯人を捕らえたら、あなたにお知らせ致しましょう……お嬢さん御安心なさいまし。断じてダンチョン氏は無罪です」  探偵は室から出て行きました。  そして夫れっきりイバネスさんは私に姿を見せないのです。このマドリッドには居ないのでしょう。恐らく旅に居るのでしょう。  犯人はどうなって居るのでしょう? 捕らないに違いない。いつになったらダンチョン様は青天白日の身になられるのでしょう?  イバネスさんのお手紙が待遠しくて仕方が無い! (ムリオの妹カスピナに与えた、私立探偵イバネスの手紙)  親愛なるお嬢様(こう呼びかけるのをお許し下さい)何より先にこの私はお喜びを申し上げなければなりません。何故かと申しますに、犯人が、とうとう見つかったからでございます。そうです遂々見つかりました。このイバネスが見つけました。  で、犯人は何者かと、性急にお嬢様はお訊ねでしょう? それはご尤でございます。しかし私は、順を追って、申し上げたいと思います。どうしてと申しますに、その犯人を、今すぐあなたに申し上げましても、お信じ下さるまいと思いますので。  あの日お嬢様とお別れすると、私は家へ一先帰えり扮装室へ這入りました。其処で私は襤褸を纏い顔にローレルの粉を塗り、頭に馬皮の帽子を冠り、馬乳を入れたニッケル筒を藤蔓で左の脇下へ垂らし、桜の柄の付いた拳銃を上衣のかくしへ窃ばせました。それから家を出たのでした。  私が真先に尋ねたのは、香具師の親方のドニメの所で、彼は其時自分の室で焼米を食べて居りました。私を見ると飛び上って、追従笑いで笑い出しました。 「ドニメ」と私は厳い声で「少しお前に訊きたいものだ。今から丁度二十日程前だ、ボヘミアの奴等が来ただろう? 其奴等何方へ突っ走った?」 「ボヘミヤの奴等? 知りましねえ」ドニメはとぼけて云うのでした。 「何、知らねえと、嘘云うな? 貴様がそういう心なら、俺にも少し覚悟がある。ドニメお前は三月ほど前に、女の子を攫ったっていうじゃねえか。これで八回目の人攫いだ! ドニメ、どうだい俺と一緒に、警察へ一寸行こうじゃないか」 「旦那に逢っちゃ敵わねえ。へえへえ何んでも申します」  ドニメは私の嚇しに乗ってすぐ降参して了いました。 「ボヘミアの奴等でございますか。ええと、彼奴等、問わず語りに、アンダルシア地方へ行くなんて、こんな事云って居りましたよ」 「ほほオ、偉い方へ行ったんだな……それで何うだい、え、ドニメ、美しい娘達もいたろうな?」 「ボヘミアの娘達と来やがったら、どれもこれも像のように綺麗ですよ――ええと、その中、何んと云ったかな? そうそう一人ゴッサンという素晴らしい娘が居りましたぜ。そいつぁ本当に綺麗でした。マドリッドの侯爵の姫君だって、とても敵やあしませんな」 「よしよしそれでもう結構だ」私はズボンのかくしから銀貨を一掴み掴み出してテーブルの上へ投げ出してから、ドニメの家を飛び出しました。  そして直ちにアンダルシア指して発足したのでございます。 八 美しい娘の声  ご承知の通りアンダルシアは亜弗利加に向い合って居りますので、その熱いことと云いましたら、お話にも何んにもなりません。熱い太陽に照らされ乍ら、最初に私の訪ねたのはセヴィラの町でございます。それからグラナダへ行きました。しかしセヴィラにもグラナダにもボヘミヤ人の一行の影さえ見えないのでございます。そこで失望し乍らも最後に私の訪ねたのはコルドヴァの町でございます。御承知でもありましょうが、この町は、昔サラセンの人達が、世界の大半を領した時の宗教と政治との中心地で、いまだに崇厳の回教寺院が残って居るところでございます。  或日私は其回教寺院へブラリと参詣に参りました。天文地文数学などに極めて造詣の深かった亜剌比亜人の建築物だけに、何処も彼処も幾何学的に、それでいて如何にも装飾的に、出来ているのでございます。  巨大な大理石の円柱だの、銅で蔽われた天井だの、黄金を敷いた階段だの、鋼玉を鏤めた石像だの、絹布に刺繍した天蓋だの、美々しい装飾に眩惑され乍ら、私は飽かず堂内を歩き廻っていたものです。  内陣の正面まで来た時に、そこの石榻に額を押しあて「イル、アラ、イル」と熱心に、亜剌比亜流に祈祷している一人の少女を見つけました。トガを体に巻きつけたりターバンで頭を包んだりして、少女の様子は疑いも無く亜剌比亜の女ではありましたけれど、顔の表情で意外にもボヘミア人だということを私は一眼で見てとりました。 「しめた!」と私は思いました「あいつらの連中の一人だろう」  それで私は何処までも其女の後をつけてやろうと、このように決心いたしました。  やがて小娘は立ち上がって、寺院の外へ出て行くので、私は後を追いました。娘は市中へは這らずに、寺院の横から東へ外れ、林をぬけると小丘へ登り、更に小丘を下りますと小広い河の岸へ出て、それから河岸を上流の方へ、ずんずん歩いて行くのでした。  間も無く小村へ差しかかりましたが、娘は村へは這入らずに、その横を通って鬱蒼とした椰子の林へ入り込みました。  すると忽林の奥から、女や男の騒がしい声が、はっきりと聞えて参りました。  こうして遂々探がしあぐんだボヘミア人の一行を、その林で私は見つけたのです、彼等は同勢三十人ほどで、男はいずれも馬皮の帽子を頭に冠って居りました。そして馬乳を一杯に入れたニッケルの筒を藤蔓で脇の下に下げて居りました。 「いよう兄弟」と声をかけて、私は少しも恐れずに彼等の方へ近寄りました。 「いよう何うしたはぐれ鳥め、手前仲間とはぐれたな」彼等の一人が斯う云いました。 「俺を仲間に入れてくんな」 「いいとも一緒に行くがいい。馬乳で産湯を使った身だ(彼等の諺)」  こんな具合で訳も無く彼等の仲間に這入りました。  彼等は獣皮の天幕を張り、それで夕陽を遮り乍ら、その日の仕事の分前を――諸方で盗んで来た品物を男達は互に分け始めました。それに一方女達は、林の奥の泉の側で、焚火をドンドン焚き乍ら夕飯の仕度を始めている。  間も無く夜になりました。  彼等の中に混り乍ら、私は夕飯をたべました。それから外へ出て見ました。あちこちに天幕が張ってある。一天幕が一家族で、凡、十二三の天幕が張ってあるのでございます。天幕の中からは人声に混って山羊の声が時々聞えて来る。山羊は彼等の財産なので。  私は天幕を一つ一つ端から覗いて行きました。  と、或天幕の前まで来ると、中から微妙な銀笛の音が、聞えて来るのに気がつきました。  私はショックを感じ乍ら、その天幕の前に立って、いつ迄も動こうとはしませんでした。やがて私は決心して、このように言葉を掛けました。 「ゴッサン、少し用がある。一寸天幕から出ておいで」 「誰?」と美しい娘の声。 「私はマドリッドから来た者だが……お前、ムリオを知ってるかい?」 「…………」  忽、天幕の裾の方が、浪うつ様に飜めくや否や、一人の娘が猫のようにヒラリと飛び出して参りました。  私と娘とは無言のまま、人眼に付かない林の奥へ並んで歩いて行きました。間も無く林が途切れまして空の明るい月光が、一面に地面へ散り敷いた美しい空地へ出ましたので、二人とも切株へ腰をかけ、明日は雨でも降ると見えて、暈を冠った満月を暫く黙って見ていました。  突然、彼女は云いました。 「それじゃ、あなたは、その筋の方ね?」 「いいや、そういう訳でも無い……つまり私立の探偵なのさ」  彼女は沈黙を重ねました。 「あなたは腕のある探偵さんね」彼女は俄に笑い出して、 「どうして、あなたに解ったでしょうね? 私の仕業だっていうことが」 「二つ証拠があったからさ――特に大事な証拠というのは、銀笛の歌口に塗りつけてあった、トプシンという毒薬さ――あのトプシンはお前達のような、ジプシイでなければ其製法を、断じて知ることが出来ない筈だ。そしてもう一つの証拠というのは、ムリオが断末魔の其間中、鳴っていたという手太鼓の音だ――怨みのある奴を殺す時、その人間の苦しむ間中、鈴の付いた手太鼓を打ち乍ら、其奴の周囲を廻るのがお前達の作法だということを俺は以前から知っていた」 「ほんとに左様よ。その通りだわ」ゴッサンは沈痛の声で云って、 「そして私、ムリオの死態を一眼でもよいから見たいと思って、窓から覗いて見ようとしたの。ところが窓が高くてね、ろくろく家内が見えないのよ。それで私連れていた山羊へ乗って、漸く見ることが出来たんだわ」 「ところで並木道に立っていて、ムリオへ笛を渡したという、少女というのもお前だろう?」 「そうよ、矢っ張り私だわ。顔をすっかり布で包み、声の調子を変えていたので、それであの人、気がつかなかったのよ……大変あわててもいたようだし」 九 あの人を愛していた 「そこで、ゴッサン」と重々しい声で、私は真面目に尋ねました。「そこでゴッサンは何の理由で、罪も無いムリオを殺したのか?」 「罪も無いムリオを殺したかって? 罪があるから殺したのよ! そうよ、私を裏切ったからよ!」  ゴッサンの声は泣くような、咽ぶような、調子に響きました。 「ほほオ、お前を裏切った? それは一体どういう訳だ?」私は突っ込んで行きました。  するとゴッサンは次のような、可哀そうな話を致しました。 「あの人は私を裏切りました。そうです、あの人はこの私を、見事に裏切ったのでございますわ。ですから私、あの人を、自分の手で殺したのでございます。人を裏切るということが、どれだけ悪いことかということを、思い知らせたのでございます……そうです、あれは一昨年の、しかも五月でございました。私初めてあの人と、マドリッドの画廊で逢いました。それは大変よく晴れた美しい夕方でございました。私はその日何気無しに、画堂へ行ったのでございますわ。私達のようなジプシイでも、絵の美しさは存じても居るし、時々は見たいとも思います、で私、その日、ただ一人で、見廻わっていたのでございます。卵色の陽光が窓から射して、しんと静かな画廊へ来た時、たった一匹だけ毒蛇を描いた小さい額を見付けました。私はどんなに喜んだでしょう? 私はじっと其前に立って、今にも生きて動き出しそうな、その長虫の美しい姿を息をこらして見ていました。私達ジプシイの守神はこの毒蛇なのでございます。其上私達が大切にする、あのトプシンという毒薬もコブラから取るのでございます。ですから私達ジプシイにとっては、世の中で一番尊いのは、コブラより他にはありません――。  それで私はコブラの絵を何時迄も眺めて居りました。フッと其時気がついて見ると、私の横に先刻から佇んでいる人がありまして、其人が執念く私の顔を見詰めて居るのでございます。私も其人を見詰めました。それは立派な青年で、その顔立や服装から見て、貴族だということが解りました。その青年の横の方にももう一人同じような青年が、これは私などを見ようともせず、熱心に壁の上のいろいろの絵を見廻し乍ら立っていました。  これが私とムリオとの最初の会見でございました。執念く私を見ていたのが、本人のムリオでございまして、もう一人の人はお友達のダンチョンという人だったのでございます。  その日はそれだけで何事も無く、仲間の方へ私は帰えりました。  其時は丁度私達が、マドリッドの郊外にいた時で、夜はコソコソ男達は、町の方へ掠奪に出て行きますし、昼間は天幕を開放して、其処で私達女ばかりが、山羊を使って曲芸をして、お金と暇のある町の人からお金を搾っていた時でした。  それで翌日、芸をするため、何気無く舞台へ出ましたところ、すぐ眼の前に昨日の人が――つまりムリオでございますわ――ムリオが椅子に腰かけ乍ら、大きく見開いた黒い眼で、例のように恐ろしく執念深く、私を見ているではありませんか、私はドキリと致しました。けれども其日の芸当はどうにも旨く行きませんでした。  翌日、舞台へ出て見ますと、矢っ張りムリオが居るのでした。執念ぶかい眼付をして。その又翌日、出て見ますと、矢っ張りムリオは居るのです。こうして幾日も幾日も、ムリオの姿は舞台前の椅子に坐って居るのでした。 『何故あの人は執念深く私をあんなに見るのだろう? 何故あの人は、面白くも無い山羊の曲芸など倦きもせず、毎日毎日見に来るのだろう?』しかし、私は、知っていました。何故ああ私を見詰めるのか、何故こう曲芸を見に来るのか、理由を私は知っていました。 『私以外の娘だったら、先方が惚れて来るのをいい事にして、絞って絞って絞り抜いて、その揚句未練無く捨てるだろうに』このように私は思いました。 『しかし私はそんな事を、あの人に行ろうとは思わない』何うしてと云うに、本当のところ、私はムリオを最初の日から、窃かに愛していたからです。情熱的のあの容貌! おっとりとした立居振舞! 私はムリオを愛していました。  それで私は、私の心を――ムリオに対する恋心を、これ以上燃やしては危険だと、このように思いまして夫れからは、成る丈けムリオに逢うまいとして、舞台へも出ないように心掛けました。  しかし夫れさえ無駄でした。私達の仲間にピトンという傴僂の若者がありましたが、ムリオに買収されたと見えて、或晩町の料理屋へ私を誘って行きました。行って見ると奥の室の中に、ムリオが昂奮した様子をして腰掛けているではありませんか。その時私は思いました。――遂々罠に落とされた、と。  その室へ私を押し入れると、ピトンは逃げて行って了いました。私とムリオとはたった二人で向い合ったのでございますわ。  するとムリオは云いました。 『死ぬほどお前を愛している』って。私は黙って居りました。いつまでも何時迄も意地悪く黙っていたのでございますわ。併しムリオは諦めもせず、私の前へ跪いたり、そうかと思うと嚇したり、それこそ泣いたり喚いたりして、私を口説いたのでございますわ。  それで私は何うしたでしょう? 遂々私はムリオのために口説き落されたのでございます。それは其筈でございますわ、私は、今も申したように、あの人を愛していたのですもの。 十 純な少女の呪詛  けれど、私はそれ前に、ムリオに一つ誓わせました。私は其時から云ったのです。 『ムリオ、私は今すぐにも、お前さんの云う通りになるけれど、それ前に一つ誓っておくれ。今度また二人逢う時まで、誰も他の人を愛さないって事を』  するとムリオは名誉にかけて、それを誓ったのでございます。 『ムリオ』と私は復云いました。『お前さんが誓を破ったが最後、咒詛が落ちかかって行くからね。そうよ、私の咒詛がね。それもお前さん承知だろうね。私の咒詛は恐ろしいよ。私はジプシイの娘だから』  するとムリオは微笑して、夫れも承知だと云いました。  そこで、私は、納得して、ムリオの云うままになりました。私達は大変幸福でした。両方で愛し合っていたのですもの、けれど私達の幸福はほんの短かい間でした。どうしてと云うに夫れから間も無く、私達の仲間が其土地を離れて埃及の方へ発足したからです。  私もムリオも泣き乍ら、此次ふたたび逢う時まで、決して他の人は愛さないと、改めて誓を結び合って涙ながら別れたのでございます。  私達の仲間はそれからずっと、二年ほど放浪をつづけました。そして二年目の恰度五月、ムリオとちぎりを結んだ月に、不思議にも再び此土地へ帰って来たのでございます。私はどんなに喜んだでしょう! 私は直ぐにムリオの様子を自分でコッソリ探りました。  ところが、どうでしょう、ああムリオは、私と誓った誓を破って、私以外の他の女を愛しているではございませんか!  その時はじめて私の心に殺意が起ったのでございます! 『ジプシイ女の咒詛というものが、どれほど恐ろしいか明瞭りと、私はあの人に思い知らせてやる!』  そうです、ほんとに、其時はじめて、私の心に此恐ろしい殺意が起ったのでございます。そして私はその殺意を実行したのでございます……」  扨、親愛なるお嬢様、以上が、私に物語ったゴッサンの話でございます。この可哀そうなジプシイ女、ゴッサンの話が真実であるとしますと、あなたのお兄様のムリオ様が、あのような御最後をお遂げなすったのも、自業自得ではございますまいか、勿論このように申し上げるのは、失礼の至りではございますけれど……。  それは兎に角、可哀そうなのはゴッサンの身の上でございます。ゴッサンは自殺を致しました。  それは又どうして? とお嬢様は必お尋ねでございましょう。簡単に申し上げることに致します。  つまりゴッサンはムリオ様だけを、殺そうと思っていたのです。それが意外にももう一人の人(マリア姫のことでございますが)を、自分が手こそ下さないが、ムリオ様を殺した同じ笛で、殺して了ったということを、大変悲しんで居りました上に、殺人の嫌疑が、罪も無い、ダンチョン氏に懸かったということを、気の毒がって居りました。それにもう一つ、この私が、ダンチョン氏の嫌疑を晴らそうため、ゴッサンを捕らえてマドリッド市へ護送しようと思っていた心を、彼女が早くも観破して、それを嫌ったのとが一緒になり、彼女の良心を刺戟して、自殺の覚悟をさせたのでした。  其夜、私とゴッサンとは、そうやって切株へ腰をかけて、いろいろ話をした末に、一先別れたのでございます。帰る時彼女が云いました。「今夜一晩だけ銀笛を私に貸して下さいな」「これか」と私は云い乍ら、手に持っていた銀笛を――つまり二人の命を取った、毒のついている銀笛を、何気なく彼女に渡しました。その銀笛は此私が、マリア姫の室から持って来た大事な証拠の品でして、其夜も私はその笛をゴッサンの眼の前へ突き出して、確めさせた程でした。  その笛を貸せと云うのです。  私はうっかり貸しました。まさか彼女が其笛を吹いて、ムリオ様やマリア姫と同じように、歌口に着いている毒薬のために、自殺するつもりであろうなどとは、夢にも思わなかったからでした。  ところが、其夜、夜が更けて、人々がみんな寝静まった時、ゴッサンの天幕から微妙な音色が、聞えて来るではございませんか。そして間も無く其音色が、糸のように細くなりました。  何という私は馬鹿者でしょう! 微妙な銀笛の其音色が、そうやって糸のように細くなり軈てぴったり消えた時、初めて気附いたのでございます! 何のためにゴッサンの天幕から銀笛の音色が聞えるのか? 何のためにゴッサンはこんな夜更けに銀笛などを吹き出したのか? そしてゴッサンの吹いている笛がどういう笛だかということを、初めて気附いたのでございます。 「しまった!」と私は思いました。しかし決して刎ね起きたり走って行ったりはしませんでした。何故かというに、この私には、トプシンという毒薬が如何に烈しい毒薬であるかが解っていたからでございます。銀笛の音色が絶えた瞬間、ゴッサンの息の緒も切れたということは、私には余りに明かでした。  そうです、それは明かでした。翌朝、彼女の天幕の中に、どこにも傷の無い屍骸となって果して横倒わって居りました。