## 一

昨日のように今日も<ruby><rb>矢</rb><rt>や</rt></ruby>っ<ruby><rb>張</rb><rt>ぱ</rt></ruby>り太陽は西に沈んで行く。

夕陽に照らされた地中海は<ruby><rb>猩々緋</rb><rt>しょうじょうひ</rt></ruby>のように美しい。船々の甲板、船々の<ruby><rb>船檣</rb><rt>マスト</rt></ruby>、そして船々の煙突は焔のように輝いている。

<ruby><rb>阿弗利加</rb><rt>アフリカ</rt></ruby>の南端。ポートサイド港。季節は夏の真中であった……。

港には人々が出盛っていた。ニスのような皮膚をしたヌビヤ人、ターバンを巻いた<ruby><rb>亜剌比亜</rb><rt>アラビヤ</rt></ruby>人。<ruby><rb>袍</rb><rt>ガウン</rt></ruby>を纏った<ruby><rb>波斯</rb><rt>ペルシャ</rt></ruby>人。そうして<ruby><rb>皆</rb><rt>みんな</rt></ruby><ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>っていた。多くは大道商人である。

「沙漠から掘り出した<ruby><rb>金剛石</rb><rt>ダイヤモンド</rt></ruby>！　大負けに負けて七十銭じゃ！　どうじゃなどうじゃな、いらんかな！」

「<ruby><rb>波斯絹布</rb><rt>ペルシャけんぷ</rt></ruby>を買わんかな！　<ruby><rb>大幅</rb><rt>おおはば</rt></ruby>一丈が二円とはどうだ！　安売安売、大安売じゃ！」

「アビシニアで捕らえた甲虫！　宝石のように美しい！　一匹五厘じゃ！　買ったり買ったり」

「薄荷を買わんかなスダンの薄荷を！　肉桂を買わんかなメッカの肉桂を！」

彼等は大方裸体である。そうして大方<ruby><rb>洗足</rb><rt>はだし</rt></ruby>である。

盛装を凝らした貴婦人を連れた<ruby><rb>欧羅巴</rb><rt>ヨーロッパ</rt></ruby>人も歩いている。官吏。旅行者。会社員。運河開鑿の技師なども……。

<ruby><rb>葉巻</rb><rt>シガー</rt></ruby>をふかしながら一人の紳士が<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れの貴婦人に話しかける。

「……何んというガサツの町でしょう。ポートサイドというこの町は」

「諸国の人種の集まっている様子は、<ruby><rb>恰度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>人間の博覧会ですわね」

旅行者の一人は心の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>で嬉しそうに独言を呟いた。

「なんて<ruby><rb>素的</rb><rt>すてき</rt></ruby>な町だろう。阿弗利加趣味と西欧趣味とが<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>う旨く調和しているなんて、なんて素的な町だろう！」

陽が傾くに従って人々はいよいよ出盛った。<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>の仕事の<ruby><rb>結終</rb><rt>つづまり</rt></ruby>を急いでつけようとするのでもあろうか無数に並んでいる工場からは、鉄槌の音や機重器の音や汽缶の音がさも忙しく追い立てるように聞えて来る。海に突き出た<ruby><rb>船渠</rb><rt>ドック</rt></ruby>からは喘息患者の咳のような排水の音が聞えて来る。乗客を満載した電車の列は<ruby><rb>市</rb><rt>まち</rt></ruby>の<ruby><rb>端</rb><rt>はず</rt></ruby>れから<ruby><rb>駛</rb><rt>はし</rt></ruby>って来ては桟橋の<ruby><rb>此方</rb><rt>こなた</rt></ruby>で車を停め、そこで乗客を呑吐して又市の方へ駛って行く。<ruby><rb>其</rb><rt>その</rt></ruby>都度港の海岸通へは多数の人々が電車から<ruby><rb>卸</rb><rt>おろ</rt></ruby>され小路小路へ散って行く。

それら雑踏する人達に混ってブラブラ暢気そうに歩いているのは各国の水夫の姿である。大黒帽子にだぶだぶの<ruby><rb>短服</rb><rt>ジャケツ</rt></ruby>、袋のようなズボンの先からほんの少しばかり靴先を出して、マドロスパイプを<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>わえた様子は、いかにも海洋の労働者らしい。

海には無数の船舶が、<ruby><rb>態々</rb><rt>さまざま</rt></ruby>の姿で<ruby><rb>纔</rb><rt>もや</rt></ruby>っている。穏かな波は戯れるようにその船腹をピチャピチャ<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>め、<ruby><rb>浮標</rb><rt>ブイ</rt></ruby>や<ruby><rb>短艇</rb><rt>ボート</rt></ruby>や<ruby><rb>荷足舟</rb><rt>にたり</rt></ruby>などをさも軽々と浮かべている。その穏かな波の面を<ruby><rb>幾度</rb><rt>いくたび</rt></ruby>も幾度も<ruby><rb>接吻</rb><rt>セップン</rt></ruby>するのは数千の<ruby><rb>鴎</rb><rt>かもめ</rt></ruby>の群である。鴎の群は白銀のような素晴らしい翼を翻えしては、<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と海面へ落ちて来て飛魚を<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>っては逃げるのであった。

海岸通を横へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って少しばかり行くと崖へ出る。その崖の上に立っているのは水夫合宿所の建築物である。板壁造の三階建で板壁は紅殼で塗ってある。

いつか全く陽が落ちて、港は夜の世界となったが、その夜をさえ真昼のように人工の力ですることが出来る。おお威大なる電気の力！

ポートサイドの町々は電燈の<ruby><rb>火華</rb><rt>ひばな</rt></ruby>に装飾されて、龍宮城のように美しくなった。だから、勿論、水夫合宿所の<ruby><rb>室々</rb><rt>へやべや</rt></ruby>の窓からも燈火の光が、さも愉快そうに射し出ていた。そして景気のよい水夫達の唄が往来の人を驚かせて室々の窓から聞えていた。

この時一人の老人が、水夫合宿所の門口へ何処からともなくやって来たが、そのまま其処へ<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んで、唄の聞える窓口を力の無い眼で眺めやった。それは大変貧しそうな老い衰えた小男で、陽に焼けた皺だらけの小さい顔は<ruby><rb>鉄糞</rb><rt>かなくそ</rt></ruby>で出来ているように<ruby><rb>穢</rb><rt>きた</rt></ruby>ならしい。<ruby><rb>継</rb><rt>つぎ</rt></ruby>の当たった<ruby><rb>襤褸</rb><rt>ぼろ</rt></ruby>のような服は、煮しめたように色が変わり<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いている靴の<ruby><rb>横腹</rb><rt>よこっぱら</rt></ruby>はバクバク口を開けている。小さい包を小脇に<ruby><rb>介</rb><rt>かか</rt></ruby>え丈夫そうな杖に体を支えて辛うじて立っているらしい。病弱と老衰と空腹と――空腹と云えば、老人は、今日で三日というものは<ruby><rb>麺麭</rb><rt>パン</rt></ruby>一<ruby><rb>片</rb><rt>きれ</rt></ruby>さえ食ってはいない。老人の腹の中にあるものは道々飲んだ水ばかりだ。この<ruby><rb>浅間敷</rb><rt>あさまし</rt></ruby>い老人の姿――空腹と老衰と病弱とに<ruby><rb>虫喰</rb><rt>むしば</rt></ruby>まれている老人の姿を、誰が今日見たところで、その老人が<ruby><rb>往昔</rb><rt>そのむかし</rt></ruby>、逞しい体の所有者で、そして素晴らしい好男子で、しかも大変な道楽者の若い水夫であったなどとは、どうしたって思われないに相違ない。それほど老人の肉体は不健康に萎び切っているのであった。

## 二

「一晩厄介になりたいがね」

合宿所の玄関の横手にある計算台の前に立って老人はおずおず<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>う云った。

「ナニ厄介になりたいって？」

計算台を前にして腰掛けていた中老が<ruby><rb>突慳貪</rb><rt>つっけんどん</rt></ruby>に訊き返えした。

「ここは水夫の合宿所で木賃宿じゃないんだぜ。一晩厄介になりたいんなら木賃宿へ行って頼むがいい」

すると老人は萎びた顔へ颯と血の色を浮かべたが、思い返えして<ruby><rb>穏</rb><rt>おとな</rt></ruby>しい声で、

「此処が合宿所だっていうことは私も承知して居りますので……それに私も斯う見えても元は矢張水夫でして……」

「お前も元は水夫だって？　そうして今は何んなんだい？」

「矢張今も水夫でごわす。どこかの船に欠員でもあって油差が一人ご入用とあれば、早速私は参ります」

「それじゃお前は油差か。とんだ油差もあったもんだ。ヨイヨイの油差とは驚いたな。が、まあそれはいいとして、厄介になりてえっていうからにゃ宿賃は持っているだろうな」

「ハイその宿賃でございますがね……」

「その宿賃がどうしたんだい？」

「その宿賃があるくらいなら、二日も三日も飲まず食わずでは歩き廻っては居りません……宿賃は持っては居りませんけれど、その代り私は働きます。料理の真似くらいは出来ますしね。廊下の掃除なんかお手の物で、電灯の珠だって磨きますよ……」

「便所の洗い流しもするってんだろう。が併しそいつぁお断わりだ。そういう仕事をさせるための下女や下男は頼んである」

「そりゃまあそうでございましょうけれど、そこをあなたのご同情で……」

「人に同情しているうちに自分の屋台骨に穴が開いて雨にでも降られちゃ<ruby><rb>耐</rb><rt>たま</rt></ruby>らねえ。まずまず同情は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おあずけ</span>としよう」

「まあまあそんな事おっしゃらずに……こんな<ruby><rb>老耄</rb><rt>もうろく</rt></ruby>した私一人をたとえお助けなすったってこの<ruby><rb>確</rb><rt>しっか</rt></ruby>りした屋台骨へなんの穴なんか開きますものか……」

「オイお<ruby><rb>爺</rb><rt>とっ</rt></ruby>つぁん！」と宿の主人は、<ruby><rb>毒蛇</rb><rt>コブラ</rt></ruby>のように頬をふくらせ憎々しい声で怒鳴り出した。

「オイお爺つぁん、一つお前に、いい格言を教えてやろう『時は金なり』っていうことさ！　縁もないお前と無駄話をして『<ruby><rb>黄金</rb><rt>こがね</rt></ruby>の時間』を費すなぁ途方もねえ浮世の浪費者だ！　俺にゃ賛成出来ないね。そこで、お前は<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>だろうけれど、此処から一つ出て行ってくんな。さっさと元気よく出て行ってくんな！」

<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>し老人は出なかった。嘆願するような憐れっぽい声で幾度も繰り返えして頼むのであった。

すると、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から二人の様子を、階段の柱に寄りかかりながら、面白そうに眺めていた若い一人の水夫があったが、この時何を考えたものか、計算台の側へ寄って来た。

「向うは可哀そうな年寄じゃないか。因業のことを云いなさんな……宿賃が入用なら俺が出そう。だから器用に泊めてやってくんな」

主人は驚いて眼をあげて、若い水夫をジロリと見たが、

「なんだお前はガブリエルか。相変らず<ruby><rb>侠気</rb><rt>おとこぎ</rt></ruby>を出すじゃないか。<ruby><rb>伊太利気質</rb><rt>イタリーかたぎ</rt></ruby>っていう奴かな……宿賃を代わって出すっていうなら、誰から貰ったって同じことだ。お前から<ruby><rb>其奴</rb><rt>そいつ</rt></ruby>を貰った上で、室へ案内するとしようか」

「そらよ」と水夫は云い<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>ら金貨を一つ投げ出した。

「これぁお前金貨じゃないか」

「足りねえとでもいうのかい？」

「なんのなんの多過ぎるのよ」

「多過ぎるってことがあるものか。<ruby><rb>爺</rb><rt>とっ</rt></ruby>さんは逗留するんだから、その間の食費と<ruby><rb>部屋</rb><rt>やね</rt></ruby>代だ」

「フーン、逗留するのかい？」

「爺さんお前そうだろうな？」

笑い乍ら水夫が斯う訊くと、老人は<ruby><rb>幾度</rb><rt>いくたび</rt></ruby>も頭を下げ、

「そう願われれば何よりで……そう願われれば何よりで……」<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へどもど</span>しながら云うのであった。

「どんなものだい！　海坊主め！　ガブリエル様は<ruby><rb>千里眼</rb><rt>みとおし</rt></ruby>だよ――ところで室だが、俺の室の隣に、一ついい室が空いていたっけな。あすこへ通してやってくんな」

「あすこの室へ通すのかい。飛び切り上等の室だがな。海のよく見えるいい室だが」

「だから通しなっていうんだよ……さあさあ爺さん上がるがいい。泥靴のままで構わないよ」

斯うして不幸な漂泊者の零落し切った老人は、意外の人に助けられて、思いもよらない立派な寝所を自分の物にすることが出来た。

## 三

その夜から老人は水夫合宿所の上等の室を占領して、<ruby><rb>是迄</rb><rt>これまで</rt></ruby>の生活に比べては極楽のような生活を其処で送くることが出来るようになった。海に向った大きな窓。白い敷布の涼しそうな<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>。マホガニー製の机や椅子。壁には額さえかかっている。本当に立派な室である。

若い水夫のガブリエルは毎日室へやって来ては<ruby><rb>老人</rb><rt>としより</rt></ruby>相手に話をした。

「爺さんどうだね住み心地は？　あんまり悪くもあるまいが」

「なんの勿体ない、<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>様！　極楽のようでございますよ。何も彼もみんな立派ずくめでみんなピカピカ光っていて……それに第一この窓から海を見ることが出来ますので……」

「そんなにお前海が好きか！」

「これっぱかりの小さい時から海で育った私でごわす。潮は私の産湯でがすよ」

「今まで何処にいたんだい！」

「世界中を巡って居りやした。東洋の上海にも居りましたし、ストックホルムにも居りました――寒い北海の<ruby><rb>瑞典</rb><rt>スエーデン</rt></ruby>のね……そうかと思や<ruby><rb>南阿弗利加</rb><rt>みなみアフリカ</rt></ruby>のケープタウンにも居りましたよ。パナマ運河を東へ渡ってキュバのハバナにも行きました。勿論豪州へも行きましたよ。私の行かない所と云ったらまず南極と北極だけで……」

「ご大層なことを云うじゃないか――ところで一体何の目的で、そう諸所方々歩くんだい！」

「それを云えって<ruby><rb>仰有</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>るので！」

老人は悲しそうに訊くのであった。

「云いたくないのなら云わ無いでもいいよ。無理に聞きたいとは云やしない」

老人はじっと下を向いて悲しそうな表情を続けていたが、ヒョイと其眼を若者へ注いで疑わしそうに見ていたが、

「いいえどっちかと申しませば、私の方からお願いして聞いていただきたいのでございますよ……」

「それじゃサッサと云ってみねえ」

「これ迄も私は<ruby><rb>幾人</rb><rt>いくたり</rt></ruby>かの人に聞いて貰ったのでございますがね、聞いて<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>うと其人達は、馬鹿にしたような顔をして、大きな声で笑うのでごわす。それから私に云いますので『フランク、お前夢を見ているな！　それとも安物の少年雑誌にそんなことでも書いてあったのかい！　それとも、ひょっとかすると、お前自身気が狂っているのかも知れないぜ』って、茶化して了うのでございますよ」

「だが併し俺は笑わないよ。笑わないから話すがいい」

真面目にガブリエルは斯う云った。

「それじゃ聞いていただきましょう――何時からか私は存じませんけれど、私の心に一つの確信が巣食うようになったのでございますよ。それはどういう確信かというに、<ruby><rb>船首</rb><rt>へさき</rt></ruby>を黄金の鷲で飾った一隻の巨大の商船の船長となれるっていうことでして、その商船は何処かの港に私の行くのを待っている……何処の港だか解らないけれど何処かの港に待っている……だから私はその港へ早く行かなければなりません。だから私は世界の港を渡って歩くのでございますよ」

若い水夫のガブリエルは、老人の話を聞いているうちに、前の約束をつい忘れて思わず声を出して笑ったが、真面目に話す老人の話がすっかり終えて了った時、<ruby><rb>遂々</rb><rt>とうとう</rt></ruby>椅子から飛び上がって、室の中をドシドシ歩き廻わり乍ら腹を抱えて笑うのであった。

「もう笑わないよ、笑わないよ」<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>くのことで笑いを抑えた若い水夫のガブリエルは、老人の側へ返って来たが、

「ちょっとばかり爺さんに訊たいがね、お前は<ruby><rb>屹度</rb><rt>きっと</rt></ruby>若い頃、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うつ</span>、買う、飲む、の三拍子揃った道楽者でその上に阿片を飲みやしなかったかな！」すると老人は驚いたように、

「どうしてそんな阿片のことまで、よく知っておいでなさるかね！」

「阿片でも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しこたま</span>飲まなけりゃそんな『確信』なんか出て来ないからさ」

ガブリエルはニコニコ笑い乍ら老人の室から出て行ったが、隣りの自分の室まで来ると、思わず次のように呟いた。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うってつけ</span>の<ruby><rb>椋鳥</rb><rt>むくどり</rt></ruby>っていう奴さね。そろそろ芸当に取りかかるかな……相手は阿片の中毒患者で妄想狂と来ているから<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>に<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>っては天の助けだ……待つ甲斐あったというものさね」

その晩遅くなってから、ガブリエルは<ruby><rb>窃</rb><rt>こっそ</rt></ruby>り室を出て老人の室へ這入って行った。

老人は其時窓に寄って、暗い海の方を眺めていた。そしてガブリエルが這入って来ても振り返えろうともしなかった。おお何んで老人が振り返えるものか！　老人は実に暗黒の海の、あやめも知らない水平線の方から、その暗黒の潮を分けて、黄金の鷲で船首を飾った巨大の商船が今静々と這入って来るのを見ているのだもの！

「爺さん！」とガブリエルは声をかけた。

「ご<ruby><rb>覧</rb><rt>ら</rt></ruby>ん！」と老人は見返えりもせず、暗い海上を指差した。

「遂々船が這入って来たよ！　黄金の鷲の商船がさ！」

「何を云ってるんだ、お爺つぁん……」

「ご覧ん！」と老人は繰り返えした。

「あの船脚を見るがいい！　何んという立派な船体だ！　聞くがいい錨を卸す音を！　<ruby><rb>短艇</rb><rt>ボート</rt></ruby>が一つ卸ろされた！　私を迎いに来たのだろう！……」

ガブリエルは窓から覗いて見たが、それらしい船の姿も無い。

## 四

斯うして老人がいとも心地よい幻想に酔い痴れている間に不思議な窃盗が行われた。<ruby><rb>即</rb><rt>すなわち</rt></ruby>、老人の所有物――縫目のほころびている古靴と、煮〆たようなハンケチと、老人の室の合鍵と……それらが<ruby><rb>行衛</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>を失ったのであった。勿論老人は知らなかった。室へ這入って来たガブリエルが泥棒猫のようにこっそりと室を出て行ったことさえ知らなかった。極端に云えば、老人はそのガブリエルが室の中へ這入ったことさえ知らなかったのである。

だから勿論、午前二時頃、海坊主のジョージと綽名された合宿所の主人が自分の室で何者にか殺された上に、多額の貯金を奪われたことも、凶行の現場へ遺留品として、老人のハンケチが落ちていたことも、一度盗まれた古靴が、凶行の現場から老人の室まで恐ろしく<ruby><rb>鮮明</rb><rt>はっきり</rt></ruby>した靴跡を<ruby><rb>印</rb><rt>つ</rt></ruby>けて、そのままちゃんと老人の室に置かれてあったことなども老人は夢にも知らなかった。ただ老人は夜もすがら、黄金の鷲で飾られた古風な巨大の商船から船長としての彼を迎えるための短艇が早く来るようにとそればかりを待っていたのであった。

夜は明方に近付いた。<ruby><rb>闇黒</rb><rt>まっくら</rt></ruby>であった空の涯が<ruby><rb>紫陽花</rb><rt>あじさい</rt></ruby>色に色づいた。其時、老人は、初めて見た。彼を迎えの短艇の姿を！　短艇はグングン波を切って、彼の居る窓の方へ近づいて来る。八人乗りの短艇らしい。力を極めて漕ぐ櫂につれて、<ruby><rb>水沫</rb><rt>すいまつ</rt></ruby>がサッと翻えるのが、黎明の光に光って見える。見る見る短艇は近寄って来た。やがて窓の下で<ruby><rb>停止</rb><rt>とま</rt></ruby>った。

「船長！」と<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち呼ぶ声がする。

「お待ち申して居りました！　さあどうぞ直ぐにお乗り下さい」

老人は窓から身を乗り出し声のする方へ顔を向けた。

「よろしい！」と彼は気取った声で、

「我輩も永らく待っていた。何故早く迎いに来なかったな？」

「航海が困難でございましたので」

「どの海がそんなに荒れたのじゃ？」

「は。印度洋でございます」

「あすこの海はいつも荒れる。ただし<ruby><rb>此</rb><rt>この</rt></ruby>俺が居りさえすれば、印度洋などは乗り切って見せる」

「それでお迎いに参りました」

「行こう！」と老人は、断乎たる声で、威厳を<ruby><rb>以</rb><rt>もっ</rt></ruby>て云い放した。

「……短艇へは何処から乗ったものだ」

「窓から！　窓から！」と水夫達は云った。

「よし！」と老人は頷いたが、素早く脚を窓枠へ掛けた。其時、老人の室の<ruby><rb>扉</rb><rt>と</rt></ruby>を、外から叩くものがある。

「開けろ！　開けろ！　扉をあけろ！」

しかし老人には其声などは勿論聞えはしなかった。彼は窓枠へ脚をかけたまま、海上の短艇へ眼をやって、どうして飛び込もうかと考えた。

「開けろ開けろ扉を開けろ！　警察から来たのじゃ扉を開けろ！」

「船長早く！」と短艇からは云う。

「開けろ開けろ開けろと云うに！――ぶち壊わして這入れ！　構わない！」

「船長早く！」と船からは呼ぶ。

扉は暴力で破られた。其時、乱れ<ruby><rb>入</rb><rt>はい</rt></ruby>った警官達は、窓からヒラリと海へ飛んだ老人の姿をチラリと見た。

「しまった！」と人々は叫び乍ら海に向いた窓へ走り寄った。次第に明けかかる空の光に海面は朧ろに光っていたが、眼下の水面は<ruby><rb>尚</rb><rt>なお</rt></ruby>暗く、物のあやめも解からない。その水面には短艇も無ければまして老人の姿も無い。だから勿論沖の方にも黄金の荒鷲のマークをつけた巨大の商船などはいなかった。

検事、刑事、予審判事、そして警官や同宿者達は、頷き合って眼を見合わせた。それから室の中を見廻わした。寝台の下に古靴が――凶行の現場から此室まで<ruby><rb>鮮明</rb><rt>はっき</rt></ruby>りした足跡をつけたところの老人の古靴――証拠品が、動きの取れない証拠品が、二足揃って隠してあった。

若い水夫のガブリエルは、それを隠家から引き出した。その手をズボンのカクシへ突っ込み、<ruby><rb>嘲</rb><rt>せせら</rt></ruby>笑い乍ら斯う<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>った。

「なんてまあ<ruby><rb>太々</rb><rt>ふてぶて</rt></ruby>しい爺だったろう！　こんな悪党とは夢にも知らず、あんまり様子が可哀そうだったので、金貨一枚投げ出して、この合宿へ入れてやったのが、今から思やあ災難だった！　こいつさえ合宿所へ入れてやらなかったらジョージも殺されはしなかったろうに。ほんとにジョージは可哀そうだ！　神様、どうぞジョージの魂を天国へお連れなすって下さいまし」

ガブリエルはそんな事を云っている間も、カクシの中にねじ込んである<ruby><rb>紙幣束</rb><rt>さつたば</rt></ruby>を指で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てさぐって</span>いた。その紙幣こそはジョージを殺して盗み取ったところの紙幣束である。

「自業自得というものですな。天罰覿面と云いましょうかな。合宿所の主人を絞殺して金を盗んだはいいけれど、自分の穿いていた靴の跡から<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐに罪悪が発見してこう我々に踏み込まれたので、遂々自分から観念して海へ飛び込んで死ぬなんて……この窓下の海と来たら深い上に海草が生え延びていて、どんな水練の達人でも一旦此処へ這入ったが最後浮かび上がることは出来ません。証拠も沢山ございます」<ruby><rb>技倆</rb><rt>うで</rt></ruby>自慢の刑事はこう云って、みんなの顔を見廻わした。

みんなの顔には刑事の言葉を是認する表情があらわれたが、やがて揃って室を出た。

×　　　×　　　×　　　×　　　×

よく晴れた美しい航海日和を、最新式の商船が、印度洋の上を<ruby><rb>駛</rb><rt>はし</rt></ruby>っていた。油のようにトロンとした赤道直下の大洋の水は蒼いというよりも黒かった。照りつける焔の太陽の熱に怖毛を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>った船客は一人も甲板へは出ていない。燃えるような甲板で働いているのは、五六人の水夫ばかりであった。ガブリエルもその<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>の一人であった。

どっちを見ても水ばかりで、島影一つ見えなかった。鳥さえ飛んでいなかった。翼の強い海鳥も赤道の熱さには敵わないと見えて<ruby><rb>信天翁</rb><rt>あほうどり</rt></ruby>一羽見えないのである。空に浮いているのは絹糸のような半透明の雲ばかりだ。

しかるに半透明のその雲が、墨のように黒ずむと思う間に、晴れていた空が暗くなった。赤い陽の光が樺色になり、やがてそれさえ見えなくなった。海が突然湧き立って、一面に白泡が水面に浮かび、雷のような音が聞えて来た。一刹那風が吹き止んだ。あたりは死んだように静かである。

その次に起こった光景は<ruby><rb>真</rb><rt>しん</rt></ruby>に恐ろしいものであって、<ruby><rb>幾度</rb><rt>いくたび</rt></ruby>か印度洋を航海したことを自慢にしている船長さえすっかり顔色を変えて了った……汽船を天まで持ち上げているように船底の方からムクムクと、山のような波濤が湧き起こった。前後左右を眺めても氷山のような波ばかりで一町の彼方さえ見られなかった。そうして嵐は船腹を目掛けてひっ叩くように襲って来た。空は夜のように闇であった。

汽船は救助の<ruby><rb>汽笛</rb><rt>ふえ</rt></ruby>を鳴らし、汽缶に熱湯を煮え<ruby><rb>爛</rb><rt>ただ</rt></ruby>らせ、怒濤を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>いて無二無三に先へ先へと進みはしたが嵐と波に遮られて同じ所ばかりを漂った。

其時、一つの巨大な波が、遥かの正面から襲って来たが、船のすぐ前で低くなった。その様子が恰度、山が崩れて平野がその後へ出来たようであった。その広々とした波の平野を、一隻の船が駛って来る。

「船だ！」と水夫達は呶鳴り出した。

その船は、すぐと、第二の波の、峯のような頂に乗せ上げられたが、峰の斜面を真一文字に、<ruby><rb>此方</rb><rt>こなた</rt></ruby>の汽船の船首を目掛けて、<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>り下りるように身構えている。

「あぶない！　衝突する！　衝突する！」

水夫達は狂人のように叫び乍ら波の上の汽船を仰ぎ見た。何んという古風な船であろう！　船の船首に黄金の鷲が金色燦然と飾られてある。船首に立って下の方を悠然と見ている。老人がある。船長服を身に纏い、船長の帽子を冠っている。

その老人を一眼見ると、ガブリエルは思わず絶叫した。

「あの老人だ！　老人だ！」と……。

そのまま彼は気を失って甲板の上へ転がった。

黄金の鷲の商船は、波の山から下って来た。そうして二隻の船同士は船首と船首とを衝突させた。と、思ったは幻で、黄金の鷲の商船はそのまま霧のように朦朧となり、だんだん夢のように消えようとした。一瞬間、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>が明るくなって、黄金の鷲の商船の船中の様子がよく見えた。

おお見よ！　その船の水夫達を！　彼等はいずれも骸骨の顔と骸骨の<ruby><rb>手足</rb><rt>しゅそく</rt></ruby>とを働かせて、老人の船長を囲繞しながら、船を操っているでは無いか！

「幽霊船だ！　幽霊船だ！」

此方の船の、水夫達は、口を揃えてこう叫んだ。その瞬間に幽霊船も骸骨の水夫も船長の姿も、全く消えて其後には波ばかりが高く挙がっていた。

気絶して倒れたガブリエルはそのまま死んだと見えて、二度と眼を開けなかった。