Soranoha

日記より

にっきより

伊藤 野枝

六日――――

雨だらうと思つたのに案外な上天気。和やわらかな日影が椽側の障子一ぱいに射してゐる。

書椽の方の障子一枚開くと真青な松の梢と高い晴れた空が覗かれる。波の音も聞こえぬ。サフランの小さい花がたつた一つ咲いてゐる。

穏やかな、静かな朝だ。何となく起きて見たい。枕の上に手をついてそつと上半身を起して見る。少し頭が重いばかりだ。暫しばらく座つてた。朗らかな目白の囀さえずりが何処からともなく聞こえて来る。

来さうにもない手紙を待つてたけれども駄目だつた。

午後お隣りのお婆さんの歌が始まつた。夷魔山いまやまのお三狐さんぎつねにもう、十年近くもとりつかれてゐるのだ。七十越したお婆さんが体もろくに動かせない位痛み疲れてゐながら食べるものは二人前だと聞いて驚く。時々機嫌のいゝ時には歌ふのだ。私たちの知らないやうな、古い歌ばかりだ。毎日々々たいして悪くもない体を床に横たへて無為に暮す私のさびしい今の心持ちでは、お婆さんの歌は非常に面白く聞かれる。

「わしが歌ふたら、大工さんが笑ふた。

歌にかんながかけられよか」

なんて、おもしろい調子で歌ふ。

「婆さんが沈み入るごとある声出して歌ひなさるけん、私どもうつかり、歌はれまつせんや」

若い、お婆さんの養子は高笑ひしながらお婆さんを冷やかしてゐる。お婆さんの細い声がクド〱何か云つてゐる。暫くして畑にゐた祖母が垣根越しに養子と口きいてゐた。

「へゑ、只今御愁嘆の場で御座います、もう、近々お逝かくれになりますげなけん、そのお別れの口上で……」

ときさく者の養子はあたりかまはず笑つた。祖母の笑ひ声も聞こえた。

今日も、平穏無事な一日が静かに暮れて行つた。

八日―――――

午前に近藤さんが来た。昨日からの暗い悲しい気分がまだ去らないので折角来たのにろくにお話もしなかつた。何時もながらの、私の我儘わがままは知つてゐるのだから別に何とも思つてやしないだらうけれども後で何だか気の毒な感がした。

我儘と云へば私の此の頃の激しいわがまゝは自分でもはつきり分つてゐながら制する事が出来ない。どうせ、永いこと、家にゐる体ぢやないのだもの、とついさう思つてしまふ。それでも私に欺かれた家の者はいくらか力づいたやうだ。そして私の我儘も割合に何かと云はないでゐる。うまく、欺きおほせた私は、人々のあさましい態度と浅果あさはかな考へを冷笑してやり度いやうな皮肉な考へと一緒にまた淡い悲しみと寂しさとを感ぜずにはゐられない。そしてまたそれ等は代る〱に私の苦しい頭をかきまはすのだ。懐かしく恋しく、何時までも去り度くなくてはならぬ筈の父母の家を私は、再び逃がれ出でやうとのみ隙をねらつてゐるのだ。何と云ふ不幸な私だらう。

然そう一時の、間に合せの妥協によつての平和が何時まで続かう。一時の平和を求めて後々まで苦しむより、まだ、死によつて強く自己の道に生きる方がどの位、ましだか知れない。些の理解もない人々の中に立ちまじつて目を瞑つむつて物質的の、若もしくは団体的の安逸に耽るよりは、少しでも多く、自分を理解して呉れる人々と共に苦しい、辛い生を、続ける方が、いくらいゝか……

私は今日まで可なり、真面目に、熱心に、少しでも、私を愛して呉れる父や母に、周囲の人に、本当の私を理解して欲しいと思つて苦しい努力を試みた。然しそれはみんな、無駄な努力だと知れた。私と、両親との間は、あまりに遠すぎる。私が、真面目に私の本体を臆面なく、人々の前に、さらけ出さうとすれば、父も、母もみんな、目を覆つて、見やうとはしない。そして、私は、わざ〱、醜くい本体を人前にさらし、間違つた道を歩いて行く馬鹿者だ、世間知らずだと、ばかり罵られる。真面目な私の苦悶は、それにつれて動く感情のうつりかはりの激しさに、気狂ひと冷やかな笑を浴びせられるばかりだ。

十重廿重に縛いましめられた因習の縄を切つて自由な自己の道を歩いて行かうとする私は、因習に生きてゐる、両親やその他の人々の目からは、常軌を逸した、危険極る、道を平気で行く気違ひとしか、見えないだらう。世間並みの道から外れた者は、矢張り、気違ひか、馬鹿の仲間だらう。到底私など世間からは容れてもらへない人間だ。だけど、今になつて、両親や周囲の者が狼狽して、もとの生地に直さうとする、注文が無理なのじやないだらうか? 私は一度開いた目を閉ぢて、大勢の、めくらと一緒に生命のない、卑怯な馬鹿な生き方はしたくない。

どうせ、私は父の子じやない。母に教育された子じやない。

安楽や幸福を願へばこそ、何かゞ恐くなつて来るのだ、はじめから、苦しむつもりで苦痛の底に潜んだ何物かをさがすつもりで、かゝれば何にも恐れるものはない。すべての迫害、圧迫、におぢて、おど〱した不安な、なまぬるい生を送るより、刹那も強く弾力ある、激しい生き方を私は望ましいと思ふ。

私は、両親を欺いた。すべての、私の周囲の人を偽つた。然しそれを私は、罪悪だとか何とか考へたくない。

私が激した時……父母に対して激しく何か憤つた時……私は父や母が何だらう、血と肉を受けたばかしだ。私の両親は、少しも、本当に私を愛してくれない、そして、私といふものを、認めてくれない。何時までも、赤ん坊のつもりで扱つてゐる。私にとつては、祖母や両親は、師より友より、更に〱遠い人だとしか思へない。そして、私は何の権威もない、割に合はない、子の親に対する道徳など考へたくない、実際私の親位、自分達の下らない、満足を願ふ為めに可愛いゝと、口癖のやうに云つてゐる、子を苦しめるといふ、矛盾した勝手なまねをする親は、ないだらう。

さう、思へば親なんか、何でもないと、いふ気も出るけれども、矢張り目に見えぬ、何かの絆は、しつかり、親と、子といふ間を、つないでゐてその絆はどうしたつて、断つ事は出来ないのだ。そして私は、たしかに父や母が私に対するよりも以上に、私は父や母を理解する事が出来ると思ふ。

一切を捨てゝ、傍見わきみをせずたゞ一心に、忠実に、自己の道に進むといふ、さう云ふ、決心を絶えずゆるめないで引きしめてゐる、私の頭の中を幾度となく、私が両親を欺いて、家を出て後に父母が襲はれる苦痛と家の中の暗い、不安な、空気をもつて、抱く苦しい心持がうろつく。ああ、けれど恐らく私の両親は、私がさういふ心持を抱く事など夢にも思つては呉れないだらう……そして、たゞ不孝な子とばかし憤るだらう。

「不足なう教育も受けてゐながら、人並にしてゐれば幸福に暮せるものをどうして従順おとなしくしてゐる事が出来ないのだらう」

と昨日も祖母が次の間でこぼしてゐた、私は黙つて目をつぶつてゐた。

午後たあちやんが来た。ザボンを持つて……

私が五つになるまで守をして呉れた女だ。私の幼い記憶に残つてゐる、たあちやんは赤い、うすい髪の毛をひきつめた銀杏返しに結つた、色の黒い目の細い、両頬に靨えくぼのある忘れられないやうな、何処となくやさしみのある顔だつた。

十三の年にあつて、それつきり会はないでゐるうちに見違へるやうな奇麗な女になつてゐる。廿四とか云つてゐた。今まで直方のおがたに奉公してゐたが、お嫁入の仕度に帰つて来たら丁度私が久しぶりに帰省してゐると聞いて早速来たのださうだ。私も何とはなしになつかしくうれしい気がして日あたりのいゝ椽側に床を引つぱり出してその上に座つて話した。

私がナイフを出してもらつてザボンをむいてゐる間にも、祖母は、たあちやんをつかまへて、云はなくてもよささうな余計な事まで聞いたり、話したりしてゐた。矢張り、自分の経験をふりまはして、お嫁に行つてからの事をいろ〱注意を与へてゐるのだ。何処まで人の世話が焼き度いんだらう。ザボンはたあちやんの宅になるので奇麗な内紫だ。味はまだよくついてゐないけれども匂ひが馬鹿に高い。たあちやんは、私を時々見送りながら私の幼い時の話をはじめた。私はザボンをたべながら黙つて、話を聞き聞き、頻しきりにおぼろ気な記憶をたどり始めた。

この頃のやうな秋の暮れ方、燈ともし前の一時を私はきつと、たあちやんの背に負はれる。そして海岸に行つた。私は小さい時から海が好きだつた。松原ぬけて砂丘の上にたつて、たあちやんは背をゆすぶり乍ながら、

椎ーのやーまゆーけばー

椎がボーロリボーロリとー

と透きとほるやうな声で歌つて呉れた。

暮れ方のうるみを帯びた物しづかな低い波の音につれる子守歌がたまらなく悲しい。私はたあちやんの背に顔をうづめてシク〱泣いた。そしてじーつと耳をすましては、歌を聞き思ひ出したやうに、泣き止んだり、また泣いたりした。たあちやんは、歌ひ〱サク〱砂丘を降りてまつしろな、きれいな藻の根を、青い藻の中からさがし出しては私の手に握らして呉れた。私は冷たいその根を噛んでは甘酢つぱい汁を、チユウ〱音をさして吸ふた。さうしてたあちやんは椎の山を歌ひながら寒い海の風に吹かれて白い渚を行つたり来たりして背中をゆすつた。

五時近くたあちやんは私の髪を梳すいて呉れたりして帰つた。後はまた寂しかつた。

九日――――

今日も仰向あおむけになつたまゝ胸の上に指を組み合はして天井を見つめたまゝ何おもふともなしに一日は暮れてしまつた。

昼間シヤブが松原で殺された事が誰からともなく家の者の耳に入つて来た。皆浮かぬ顔してゐる。

やさしい、おつとりした親しみを持つた眼と、深いフサ〱した美しい毛をもつた、老ひてはゐたが利巧な犬、可愛いゝ犬だつた。可なり引き締つた気持ちでゐる私の目からもホロリ〱と涙が出る。

皆次の間で食事しながら犬の事で泣いたり笑つたりしてゐる。私はひとり突きはなされた者のやうな気分でさびしく考へてゐる。

私はかうして独りはなれて、なるべく周囲の何物も耳にしないでつとめて、自分ひとりの気分をかばつて一日でいいさうした周囲に起る不快なくだらない紛紜いざこざに耳をかさず心を動かさずに私は寂しい私自身を抱いて静かに深くそして真面目に何かを考へて見たい。せめて一日、静かに心動かさずおなじ気分で考へ続くる事が出来たら何か意味のあるものをつかむ事が出来るやうな気が絶えずする。

黄昏の冷たい空気が何処からともなくしみ込んで来て暫くの間に室へや一杯に漲ぎつて沈んだ、然し張を持つた私の気分を一層深くきゆうと引きしめるやうだ。私はヒタと目を閉ぢた。かうした空気の中にぢつと浸つていつまでかうした気持ちでゐたい。……………

[『青鞜』第二巻第一二号・一九一二年一二月号]

底本 / Source edition

底本:「定本 伊藤野枝全集 第一巻 創作」學藝書林
2000(平成12)年3月15日初版発行
底本の親本:「青鞜 第二巻第一二号」
1912(大正元)年12月1日
初出:「青鞜 第二巻第一二号」
1912(大正元)年12月1日
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:Juki
2013年5月7日作成
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書誌 / Bibliography
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伊藤 野枝「日記より」(新字旧仮名)、底本『定本 伊藤野枝全集 第一巻 創作』學藝書林、2000年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 047404_000416, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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