第一部

明子は学校でポアンといふ<ruby><rb>綽名</rb><rt>あだな</rt></ruby>で通つてゐた。ポアンは点だ、また刺痛だ。同時にそれが、ポアント（<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>、鋭い尖）も含めて表はしてゐることが学校仲間に黙契されてゐた。特に彼女の場合、それは青いポアンであつた。

明子はポアンといふ名に自分の姿が彫り込まれてゐるのに同感した。のみならず、この綽名を発見した或る上級生に<ruby><rb>畏怖</rb><rt>いふ</rt></ruby>に似た感情を抱かずには居られなかつた。同時に敵手ともして。

――あの子は硬い一つのポアンよ。

その上級生が或るとき<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめて学友に言つた。そして色については次の様に言ひ足した。

――しかも青いポアンだわ。

学友たちはどうしてこの少女が蒼ざめたのか知らなかつた。しかしこの奇妙な綽名は鋭敏な<ruby><rb>嗅覚</rb><rt>きゅうかく</rt></ruby>の少女たちの間にすばやく拡つて行つた。この<ruby><rb>符牒</rb><rt>ふちょう</rt></ruby>の裏にポアント――鋭い尖、の意味を了解したのも彼等独特の鋭い感応がさせる<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>にほかならなかつた。

その郊外の日当りのいい学園には<ruby><rb>沢山</rb><rt>たくさん</rt></ruby>の少女たちが、自らの神経によつてひなひなと<ruby><rb>瘠</rb><rt>や</rt></ruby>せ細りながら咲いてゐた。彼らの触手が学園のあらゆる日だまりに青い電波のやうに<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>へてゐた。その少女たちが<ruby><rb>蕁麻</rb><rt>いらくさ</rt></ruby>の明子をどうして<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎつけずにゐよう。彼女らの或る者は嗅ぎつけない前に、この蕁麻に皮膚を破られて痛々しく貧血質の血を流した。

明子は<ruby><rb>畸形</rb><rt>きけい</rt></ruby>的に早い年齢に或る中年の男と肉体的経験を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>つてゐた。彼女自身にとつては全く性的衝動なしに<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>し<ruby><rb>遂</rb><rt>と</rt></ruby>げられたこの偶発事件は、彼女を肉体的にではなしに、精神的にのみ<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>したかの様であつた。混血の少女たちによく見られる<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめた<ruby><rb>痿黄病</rb><rt>いおうびょう</rt></ruby>的な症状が彼女を苦しめはじめた。とぎ澄された彼女の神経は容赦なく彼女自身のうちに他の少女たちと異つた要素や境遇を<ruby><rb>露</rb><rt>あら</rt></ruby>はにした。神経は残酷なやり方で生理を<ruby><rb>堰</rb><rt>せ</rt></ruby>きとめてしまつた。少女たちが瘠せ細りながらも神経がやや脂肪づき、<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby><ruby><rb>卯薔薇</rb><rt>うばら</rt></ruby>ほどの花になつて咲く年齢になつても、明子だけは依然色を<ruby><rb>失</rb><rt>な</rt></ruby>くした<ruby><rb>蕁麻</rb><rt>いらくさ</rt></ruby>として残つた。これには更に一つの理由として、彼女の心臓の弱さを附け加へることが出来る。

この不思議な退化をなしつつある少女は一つの<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>な才能を示すやうに見えた。それは彼女の素描にあらはれる特殊な線の感じに<ruby><rb>於</rb><rt>おい</rt></ruby>て。素描の時間に助手の仕事をつとめることになつてゐた或る上級生が、明子のこの才能を愛した。彼女は明子を画家伊曾に紹介した。伊曾にとつてその上級生は<ruby><rb>画</rb><rt>え</rt></ruby>の弟子であり、また情婦たちの一人でもあつた。

結果は思ひがけなかつた。伊曾を中心とする事件に於て、その上級生は明子のため硬度のより高い宝石と一緒の袋で遠い<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>を運ばれた<ruby><rb>黄玉</rb><rt>トパアズ</rt></ruby>のやうに散々に<ruby><rb>傷</rb><rt>きずつ</rt></ruby>いた。その<ruby><rb>挙句</rb><rt>あげく</rt></ruby>、明子はこの上級生を<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てた。

青いポアンといふ<ruby><rb>綽名</rb><rt>あだな</rt></ruby>がこの少女の口から<ruby><rb>漏</rb><rt>も</rt></ruby>れ、一群の少女たちの間に拡つたのはそれから間もないことだつた。その上級生の名は<ruby><rb>劉子</rb><rt>りゅうこ</rt></ruby>といつた。

伊曾は実にさまざまの女を知つてゐた。女たちが彼の庭の<ruby><rb>向日葵</rb><rt>ひまわり</rt></ruby>のやうに、彼の皮膚を黄色い花粉で一ぱいにしてゐた。彼は飽かなかつた。伊曾は野蛮な胸を有つてゐた。

実に多くの女たちが彼の周囲には<ruby><rb>群</rb><rt>むらが</rt></ruby>つてゐた。彼はもともと卑しい心の持主ではなかつたから、自ら少しは人のいい驚きを感じてゐたのに<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>ひないのだが、しかも片つぱしから機械的な成功を収めて行つた。それは昆虫たちにとつて地獄である南方の或る食虫花を思はせる行為だつた。

数多い伊曾の情婦たち――自ら甘んじて伊曾の腕に黄色い肉体を投じたこれらの女たちのうちで、劉子だけは<ruby><rb>謬</rb><rt>あやま</rt></ruby>つて伊曾に愛された女性と<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>ふべきであつた。つまり伊曾が劉子を愛したのは少女としてより<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ少年としてであつた。ただ若い女性の性的知識の不足が、この伊曾の愛し方の異ひを彼女自身に悟らせなかつたばかりである。それにせよ結果は同じことだつた。劉子はアポロの鉄の輪投げの遊戯のため<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>から血を流して花に化したヒヤシンスのやうに、最後には伊曾によつて<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>に血を噴くことになり、自らの少年であることを証明しなければならなかつた、だがこれは少し後の話である。

はじめ伊曾は、幾分不良性のある令嬢といふ注意がき附きで或る友人から劉子を紹介された。これは伊曾のやうな男にとつては実に<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>な注意であつたに<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>ひない。彼はこの注意がきの底に、聡明さによつて結婚前の暇をたまらなく持て余してゐる、一人の少女を想像せずには居られなかつた。

彼は劉子に会つた。意外なことに、彼は劉子の智によつて磨かれた容姿の端麗さに、彼には不似合なほどの強い驚異を感じた。その端麗さは彼の想像を知らず知らずレカミエ夫人の方へ<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>きずつて行つた。

一体伊曾は画家には風変りなくらゐ歴史や自然科学に凝る男で、実に雑多な知識を彼一流の<ruby><rb>明晢</rb><rt>めいせき</rt></ruby>な方法でその脳襞に蓄積してゐた。彼の<ruby><rb>画</rb><rt>え</rt></ruby>がこれらの知識によつて頭脳的に構成されたものであることは事実だつた。この様にして彼は、ルイ王朝の一つの秘密についても知つてゐた。それはレカミエ夫人がその端麗無比な容姿を裏切つて、性的に一種の不具だつた事実である。この知識が彼に<ruby><rb>禍</rb><rt>わざわい</rt></ruby>した。

彼の獣性は半ば惰力によつて回転をはじめてゐた。彼は劉子の端麗さに<ruby><rb>総</rb><rt>すべ</rt></ruby>ての野蛮人に共通な或る恐怖に似た感情を抱きながら、しかも彼女を、眠り込んだまま彼の××に<ruby><rb>攀</rb><rt>よ</rt></ruby>ぢ登るあらゆる少女並に扱つたのである。彼は機械的に彼女を××××誘つた。ところが劉子は<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めたままで×××登つた。反対に眠り込む状態に置かれたのは伊曾である。劉子の端麗さはその程度にまで高かつた。

伊曾は劉子を経験した。けれど彼女を犯し得なかつた。彼は劉子にレカミエ夫人と全く同じの不具を発見したのである。

これは何であらう！　容姿の相似が肉体の同じ不具に根ざしてゐようとは。<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>の伊曾もそんな学説までは知らなかつた。明らかにこれは偶然であつた。この偶然が伊曾を混乱させた。彼は習慣に甘やかされ眠り込んだ意識の状態から急に呼び起された。すべてが急速に転廻し、彼は一時あらゆる自己の見解を奪はれた。これは天罰に近いものだつた。

が、間もなく一つの<ruby><rb>奇蹟</rb><rt>きせき</rt></ruby>が行はれはじめてゐた。不具の故に伊曾は劉子に<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれるのを感じはじめたのである。劉子の場合、その性的不具は一つの完成のやうに見えた。

全く劉子は<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>くべき一つの完成であつた。彼女は柔軟や<ruby><rb>叡智</rb><rt>えいち</rt></ruby>や健康などのあらゆる女性の美徳を典型的に一身に具現しながら、しかもそれらの<ruby><rb>衰褪</rb><rt>すいたい</rt></ruby>から全く免れてゐる異常な少女に異ひなかつた。美の<ruby><rb>脆弱</rb><rt>ぜいじゃく</rt></ruby>さが彼女には欠けてゐた。その不具によつて、劉子のは<ruby><rb>象牙</rb><rt>ぞうげ</rt></ruby>の彫像のやうに永遠に磨滅することのない美であつた。これは永遠の不具<ruby><rb>乃至</rb><rt>ないし</rt></ruby>は完成であつた。総ての女性はその美の脆弱さによつて男性の感情の弱さにつけ入る。が劉子の場合、彼女はその美の硬さによつて伊曾の強さにつけ入つたと言ふべきだらう。彼は劉子を驚異した。彼は新たな一つの意識に眼ざめた幼児の輝かしさで彼女を見た。全く別の情欲が彼を<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>へてゐた。レカミエ夫人の秘密についての彼の法医学がかつた知識が彼の劉子への愛慕を不思議に聖化した。

彼等は主に朝の時間、外苑の透明な空気の中で会ふことにしてゐた。劉子は彼女の家に近い小さな陸橋を渡つて来た。伊曾はその反対側の赤<ruby><rb>煉瓦</rb><rt>れんが</rt></ruby>の兵営の蔭を、紫色に染まりながら<ruby><rb>大股</rb><rt>おおまた</rt></ruby>に歩いてやつて来た。そして大抵は先に来て、青いベンチの前の<ruby><rb>砂利</rb><rt>じゃり</rt></ruby>にパラソルの<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>で何かの形を描きながら、しかも注意ぶかくあたりを警戒してゐるらしい彼女を発見した。

芝生の植込に彼は遠くから劉子の姿を見つけるのだつた。たしかに<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>はそれと聞えるに<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>ひない距離になつても、彼女はその端麗な姿勢を決して崩さうとしなかつた。しつかりした跫音が彼女の<ruby><rb>真前</rb><rt>まんまえ</rt></ruby>にとまるとはじめて劉子は顔を上げて、きつぱりした態度で伊曾をまともに<ruby><rb>視</rb><rt>み</rt></ruby>た。その<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>は<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど彼等の恋愛を詰問するかの様に智によつて澄みかへつてゐた。

伊曾は外苑の朝の光のなかに彼女を置くことを愛した。朝の光線は次第に強まる輝きにもかかはらず、どこかに軽微な暗灰色を蔵してゐた。これが彼女の皮膚の<ruby><rb>明晢</rb><rt>めいせき</rt></ruby>さに或る<ruby><rb>潤</rb><rt>うれ</rt></ruby>ひを与へる様に思はれた。彼等は並んでベンチに腰をおろした。伊曾は強い香気を<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>いだ。しかし何の温度も感じなかつた。これは他の女たちによつて彼が<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>て経験したことのない不思議な現象だつた。彼は劉子の白い肉体を人並以上に温い血がめぐつてゐるのを直接触れて知つてゐた。が、彼女の体温はその皮膚の外には全然発散されないものの様だつた。それは彼女自身の衣服にさへも移らないかの<ruby><rb>如</rb><rt>ごと</rt></ruby>く見えた。彼女の衣服は朝の<ruby><rb>爽</rb><rt>さわ</rt></ruby>やかな風のなかでいつも実に端正であつた。伊曾は彼女に、つひに何ものをも失ふことのない女性を見た。

或る日、やはりその様な時間に、劉子が伊曾に言つた。

――女学部の五年に不思議な線を描く子がゐるのよ。不思議なと言つて、何だかその子の性格にも病的な明るさが見えるの。

話は伊曾が別のことを考へてゐたので、そのまま断たれた。彼等が別れるとき、劉子はパラソルをひらいて立ち上りながら、又急に思ひ出した様に早口に言つた。

――さつきお話しした子、明子さんて言ふの。自分でもあなたにデッサンを見て<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>ひたいらしいから、いつかそのうち伺はせてもいい？　<ruby><rb>眼鏡</rb><rt>めがね</rt></ruby>をかけた弱さうな子だから、気に入らないかも知れないけど。

伊曾は別に興味も感じなかつた。<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>劉子がその子のことを二度も言ひ出したのか不思議に感じさへした。

やがて或る土曜日の朝、明子が一人で伊曾のアトリエを訪れた。彼女は<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>奥の窓から<ruby><rb>額際</rb><rt>ひたいぎわ</rt></ruby>に落ちるキラキラした朝の<ruby><rb>日光</rb><rt>ひかげ</rt></ruby>を<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しさうに眼を<ruby><rb>顰</rb><rt>しか</rt></ruby>めながら、<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>のうへに<ruby><rb>爪立</rb><rt>つまだ</rt></ruby>つやうにして黒い<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>を脱いだ。すると無邪気な濃紺のジャンパアの胸もとにポプリンの<ruby><rb>上衣</rb><rt>うわぎ</rt></ruby>がはみ出て、まるで乱れた花のやうに匂つてゐるのがあらはれた。少女は素足の<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>を幾分寒さうに<ruby><rb>伸</rb><rt>のば</rt></ruby>しながら、奥まつた一隅に朝着のまま立つてゐる伊曾の方へ<ruby><rb>臆</rb><rt>おく</rt></ruby>した様子もなく進んで行つた。

――御免なさい、お兄様。私たうとう来てしまひましたの。劉子姉さまが来てもいいつて<ruby><rb>仰言</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>つたものですから。

少女は伊曾と向ひ合つて立つたとき、かう言つてちよつと口を<ruby><rb>綻</rb><rt>ほころ</rt></ruby>ばせて<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>な笑ひを見せた。伊曾はそこからみそつ歯がのぞきはしまいかと気遣つた。彼女は、少し背伸びをしてゐるやうに見えた。<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>い、光の鈍い顔だつた。縁の無い近眼鏡のレンズだけが、滑らかな光を彼女の顔に<ruby><rb>漾</rb><rt>ただよ</rt></ruby>はせて、妙に大人びた表情を生み出してゐた。伊曾は不調和な印象を受け取つた。

不調和は随所に<ruby><rb>見出</rb><rt>みいだ</rt></ruby>された。第一、お兄様といふ呼掛けからして幾分伊曾を戸迷ひさせるものだつた。

――この少女は親しくもない男を習慣的にかう呼ぶ癖があるのか。それとも一応は理性で<ruby><rb>濾過</rb><rt>ろか</rt></ruby>して、つまり劉子姉さまといふ<ruby><rb>呼</rb><rt>よび</rt></ruby>かけと対照させてさう呼ぶことに決めて来たのだらうか。

伊曾は知らず知らず明子を点検するやうな態度に陥りながら、こんな事を思ひ惑つてゐた。後者とすれば、口調に自分と劉子の関係を<ruby><rb>忖度</rb><rt>そんたく</rt></ruby>した様な<ruby><rb>態</rb><rt>わざ</rt></ruby>とらしさも見えない所がをかしい。やはり前者に<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>ひあるまい。……しかし、少女は伊曾の沈黙を<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>るやうな眼の色を見せてこの時彼を見上げてゐた。彼は何か言はなければならなくなつた。

――明子さん、あなたは僕に<ruby><rb>画</rb><rt>え</rt></ruby>を見せに来たのでせう。

成るべく優しい口調にならうとした余勢でそれが子供に対する大人の話し掛けに響いたのに気づいて伊曾ははつとした。だが少女は<ruby><rb>敏捷</rb><rt>びんしょう</rt></ruby>にそれを利用して、子供つぽい口調で話しはじめてゐた。

――劉子姉さまはさう仰言つたの。でも本当はそれはどうでもいいことだつたのよ。ただお兄さまにうまくお眼にかかれれば。……でも、何だか悪いやうな気がするから、やつぱり見て<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>くわ。私の画つて、これ。手当り次第引つぱり出して来ましたの。

明子は<ruby><rb>狡</rb><rt>ずる</rt></ruby>さうな笑ひを一瞬見せながら、三枚の素描を<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>のうへの画板から抜き出して卓子の上に並べた。並べる指もやはり蒼ざめた光沢の鈍いものなのを伊曾は見た。彼女はいそいでそれを引込めた。伊曾は止むを得ず卓上を<ruby><rb>一瞥</rb><rt>いちべつ</rt></ruby>した。三枚とも少女の裸体習作だつた。

――なぜ風景を持つて来なかつたんです。

――風景はわたくし嫌ひですから。

――ぢや、なぜ静物を、例へば花を……はじめから人体は無理ぢやないですか。

――わたくし花は下手なんです。

こんなことを話しながら伊曾は次第に注意深く素描に見入つてゐた。

――これはモデルを使つたんですね。

――え、どれ？

明子はのぞき込む様に首を<ruby><rb>伸</rb><rt>のば</rt></ruby>した。その身体が不自然に揺れたやうに思へた。

――それ？　まあ半分半分なの。本当を言ふと、それはわたくしのからだなんです。

伊曾は少女の顔を凝視してゐた。明子の顔はこのとき一層<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめたやうに見え、その眼は<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>むやうに彼を見返してゐた。明らかな反抗がそこに見られた。

――僕もさうだらうと思つた。が、どうして自分なんか描いたんです。

――鏡に映して。……あ！　<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>と<ruby><rb>仰言</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>つたの？　だつて、いち番手近かなモデルぢやありませんこと？　それに私は自分のからだが憎らしかつたのです。

伊曾は真白な壁に<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>き当つた様に感じた。

<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し伊曾が明子の過去について知つて居たら、彼は或ひは不幸から救はれたかも知れない。だが彼は知らない。彼は引きずられて<ruby><rb>堕</rb><rt>お</rt></ruby>ち込むほかはなかつた。

その次、明子が伊曾を訪問したとき、彼女は目に見えて快活だつた。これは少くとも装つた快活ではない。<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>ひて言へば、不自然な快活さだ。何かの理由で今まで<ruby><rb>堰</rb><rt>せ</rt></ruby>かれてゐた快活の翼が急に<ruby><rb>眼醒</rb><rt>めざ</rt></ruby>めたやうな。……伊曾は鋭い<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>で少女を見すゑながらさう直感した。

明子は、今度は二三枚静物の素描を持つて来てゐた。だが彼女は<ruby><rb>壺</rb><rt>つぼ</rt></ruby>を人体のやうに描いてゐた。彼女が言つた。

――わたくしの<ruby><rb>画</rb><rt>え</rt></ruby>はお兄様の<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>なのよ。どうしてこの前のときお兄様がその事を仰言らなかつたか、わたくし不思議な気がして帰りましたの。

――でも、そんな事言つたつて仕方がないからです。

伊曾はむつつりした調子で答へた。実際、明子の素描の線が伊曾のそれの少女らしい<ruby><rb>模倣</rb><rt>もほう</rt></ruby>に過ぎない事ぐらゐ彼はとつくに見てとつてゐた。けれど伊曾としては<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>に並々でない感受性が現はれてゐることにより多く気を取られてゐた。彼はこの秘密を解く方に<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど全部の注意を向けてゐたのだ。

急に明子が声を立てて笑ひ出した。今まで彼女につきまとつてゐた<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>さが消えて、はじめて丸やかな女の肉声をその<ruby><rb>笑</rb><rt>わらい</rt></ruby>に聴くやうに伊曾は思つた。

――何故急にそんなにをかしくなつたんです。

――お<ruby><rb>憤</rb><rt>おこ</rt></ruby>りになつちやいや。本当は真似ぢやないの。画といつたらわたくしお兄さまのしか知らないんですの。展覧会でもお兄さまの画しか見ないんです。べつにさう決めた訳でもないんですけど、自然さうなつちやつたんですもの。

――それでをかしいんですか。

二人は思はず顔を見合つた。

明子はその後もしげしげと伊曾のアトリエに通つて来た。少くとも素描を見て<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>ひに来るのでないことは明かだつた。

そのたび<ruby><rb>毎</rb><rt>ごと</rt></ruby>に伊曾の眼に明子のあらゆる不調和がその度を強めて行つた。同時にその不調和な不思議な方法で次第に整理されて、二つの相反する極に吸ひ寄せられて行くやうに思へた。伊曾は心に分裂直前の生殖細胞のなかで染色体が二つの極に牽引され<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な列に並ぶ状態を思ひ浮べた。彼は明子がそのうちいきなり彼の眼の前で黒と白の二つの要素に分身するのではないかとさへ思つた。彼は妙な恐怖に<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>はれた。

明子は確かに自分の肉体を投げやりにとり扱つてゐた。手の甲にも顔の皮膚にも、その<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>い鈍さを滑らかにするための少女らしい手入れの跡すらないことは明らかに見てとられた。彼女は自分の素足の<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>を平気で伊曾の眼の前で組んで見せた。それはどう見ても美しいといふ批評の下せない足だつた。蒼白い彼女の足の形は、すらつとしてゐると言ふより<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ<ruby><rb>瘠</rb><rt>や</rt></ruby>せてゐると言つた方が至当だつた。その十三歳の少女のやうな足にも、成長の情感が<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かにあらはれはじめてゐるのは争はれなかつた。にもかかはらず、明子は足を<ruby><rb>露</rb><rt>あら</rt></ruby>はに<ruby><rb>晒</rb><rt>さら</rt></ruby>すことに何の<ruby><rb>羞恥</rb><rt>しゅうち</rt></ruby>も示さなかつた。自分の皮膚を<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てて顧みないやうな無関心さがあつた。或ひはそれを伊曾に、全く別の事にいつも気を取られてゐるといふ風にも見えた。

皮膚に対する彼女の態度とはまるで反対に、明子は自分の心は実に大切さうに包みかくしてゐた。伊曾にはそれが<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らなくもどかしかつた。

或る時、伊曾は明子の<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>もとの皮膚の白さを凝視してゐた。そこは彼女が何かを熱心に話してゐたので絶えず動いてゐた。伊曾の眼には、彼女がやはり投げやりな調子でブロオチを低すぎる位置に留めてゐたため開いた胸の皮膚の一部もうつつてゐた。その<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ骨立つた胸の部分にも成長の影は見逃せなかつた。<ruby><rb>謎</rb><rt>なぞ</rt></ruby>はその部分に比較的はつきりと<ruby><rb>顕</rb><rt>あらわ</rt></ruby>れてゐるやうに伊曾は思つた。彼は<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつよう</rt></ruby>に凝視を続けてゐた。明子が彼の視線の方向に気づいてゐることは<ruby><rb>疑</rb><rt>うたがい</rt></ruby>もなかつた。伊曾はその効果を待つた。彼女はしかし子供つぽい調子でやつぱり何か<ruby><rb>饒舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>り続けてゐた。それがどんな内容を持つてゐるのか伊曾は全く<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>へてゐなかつた。彼は自分の耳が<ruby><rb>空洞</rb><rt>うつろ</rt></ruby>になつたのをぼんやり感じながら、何物かを待ち続けた。だがつひに明子の巧みに包まれた心は皮膚面にあらはれては来なかつた。

いつの間にか明子が話しをやめてゐた。伊曾は彼女の顔に<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>と眼を移した。彼の眼に不用意な卑屈さが混つた。

明子がそのとき、ぼんやりした彼の眼界の中心から彼を見てゐた。静かな薄笑ひをさへ浮べて。その表情のどこかに何か温かさの漂つてゐるのを伊曾は感じた。謎の温かさのやうでもあるし、また母性の温かさのやうでもあつた。

伊曾はこの微笑にはどこかで会つたことのあるのに気がついた。<ruby><rb>屡〻</rb><rt>しばしば</rt></ruby>自分の夢のなかにまで現はれたこともある。自らの乱行に<ruby><rb>懶</rb><rt>ものう</rt></ruby>く疲れはてた彼の夢の中で、この微笑は彼を<ruby><rb>柔</rb><rt>やさ</rt></ruby>しく<ruby><rb>叱責</rb><rt>しっせき</rt></ruby>した。あの微笑だ。彼はそれがモナ・リザの微笑であることに気づいた。

彼は明子を発見した。

数日ののち、明子は伊曾の<ruby><rb>長椅子</rb><rt>ながいす</rt></ruby>の上にゐた。伊曾が明子に<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

――君はどうして自分のからだなんか描いたの？

――自分のからだが憎らしかつたからよ。

<ruby><rb>瘠</rb><rt>や</rt></ruby>せたモナ・リザは<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ快活に同じ答を与へた。

<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>その頃、劉子は女性らしい心遣ひから伊曾の肉体に明子の<ruby><rb>匂</rb><rt>におい</rt></ruby>を<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎ知つて遠ざかつて行つた。<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめて、彼女は明子が青いポアンとして、自分の歴史に一つの句読点を打つたのをさとつた。

第二部

黄に透く秋風が彼女の<ruby><rb>裳</rb><rt>もすそ</rt></ruby>をくぐり抜けて遠慮なく皮膚を流れた。明子はその秋自分の皮膚が非常に薄くなつたのを感じた。

<ruby><rb>爪紅</rb><rt>つまべに</rt></ruby>のやうに、しかしもつと情感的な<ruby><rb>丹紅</rb><rt>たんこう</rt></ruby>を<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>らせながら、ピンと張りきつた彼女の腹部の皮膚が、その印象がきびしく自らの眼にあざやかだつた。更に日を<ruby><rb>歴</rb><rt>へ</rt></ruby>ると、皮膚は薄膜のやうに透き<ruby><rb>徹</rb><rt>とお</rt></ruby>りはじめた。学校の実験室で見た<ruby><rb>繭</rb><rt>まゆ</rt></ruby>の透き<ruby><rb>徹</rb><rt>とお</rt></ruby>りを思はせた。明子はねばねばした幼児の四肢がそこに透いて見えるのを想像した。

それに<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて、彼女の内心から<ruby><rb>搾</rb><rt>し</rt></ruby>め出される<ruby><rb>膏脂</rb><rt>こうし</rt></ruby>が皮膚につややかさを流した。彼女の皮膚が生れてはじめての不思議な滑らかさを<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>つた。処女が母性の肉体に花咲いた様だつた。明子は自分の生理の美しさに驚嘆した。それは全く罪悪の感情には遠いものだつた。

その脂質の爪紅色が今は皮膚の底に眠り込んでしまつてゐた。すべては曇つた日の白つぽい光に似た。彼女の内心の膏脂は<ruby><rb>涸</rb><rt>か</rt></ruby>れはてたもののやうに見えた。明子は永遠に未完成な母親として残された。腹部の皮膚はやはり薄いままに残つた。悲しい薄さだつた。その薄さを、黄に透く秋風が流れた。

明子の皮膚をそんな処女の豊富さにまで張りきらせた幼児は、母体の心臓を死から救ふために、白い影になつて医者の秘密なポケットにすべり落ちた。すくなくも医者はすべり落ちたと信じた。が、彼は<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んだのである。その幼児がいつも<ruby><rb>宙有</rb><rt>ちゅうう</rt></ruby>に浮いてゐた。神話のやうに奇妙な光景だつた。色<ruby><rb>褪</rb><rt>あ</rt></ruby>せた幼児がいつも明子の<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>に斜めの空間に浮いてゐた。

明子は自分の<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>められた母性と闘つた。母性と同時に処女が花咲いたかのやうであつた。もし母性の歪められた<ruby><rb>痕跡</rb><rt>こんせき</rt></ruby>が彼女に残るのなら、処女の花もどうしてそのままに<ruby><rb>凋</rb><rt>しぼ</rt></ruby>んでいいものだらうか。明子はこの神聖な特権に死にものぐるひで<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りついた。彼女の<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>には<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>い神聖さが<ruby><rb>百合</rb><rt>ゆり</rt></ruby>の花を開いた。まだ恋愛は新たな気息を盛りかへさなければならなかつた。だが黄に透く秋風が遠慮なく彼女の皮膚を流れて、彼女のあらゆる花房を吹きちらした。皮膚にはもう少女らしい血行はなかつた。踏み荒された皮膚に感性の不透明さが日ましに<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろが</rt></ruby>つて行つた。彼女は盲目になつて行く自分を意識した。いつか明子は自分の皮膚に酸つぱい匂ひさへ発見してゐた。

彼女は黒い靴下を<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>の傍に<ruby><rb>蛇</rb><rt>へび</rt></ruby>のやうにうねうねさせて、窓ぎはに立つた。ひだの無い<ruby><rb>裳</rb><rt>もすそ</rt></ruby>が明子の<ruby><rb>腿</rb><rt>もも</rt></ruby>の線をふとぶとと描いた。彼女は肉体だけで立つてゐる様に見えた。疲れて。

明子は幼児の幻影を払ひ<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けようとして幾度も手のひらを<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>に斜めの空間に振つた。しかし彼女の手は空しく冷え冷えした秋の風を切つた。ときに、彼女は自分の手が幼児を<ruby><rb>透</rb><rt>とお</rt></ruby>すあたりにほの温に触感を手のひらに感じることがあつた。

彼女が<ruby><rb>嬰児</rb><rt>えいじ</rt></ruby>の形の代りに幼児を空間に見たのは、彼女が未完成の母親だつたからだ。幼児は幾ヶ月かを地上にすごしたかのやうな皮膚を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>つてゐた。明子のからだが<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>するにしたがつてこの幼児の幻影も次第に丸やかな完成を見せた。それは<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>症のあらはれではなかつた。それは<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ母性のふくよかな成長として彼女に影響するやうに見えた。

村瀬は明子が恢復しはじめた頃から再び手紙を<ruby><rb>寄越</rb><rt>よこ</rt></ruby>すやうになつてゐた。明子の母はまだ過敏な警戒を彼女の身辺に<ruby><rb>怠</rb><rt>おこた</rt></ruby>らずにゐたけれど、村瀬の手紙だけは開封もせずに渡した。ときには部屋の一隅に何か口実を見つけて<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んだまま、手紙を読んで行く明子の顔をそれとなく<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>つてゐたりした。そして母は比較的明るい印象を娘の表情から得てゐたものらしかつた。母の警戒は伊曾に関するものなら一切、たとへそれが展覧会についての二三行の新聞記事であつても、決して娘の眼に触れさせなかつた。その反面に、村瀬を許すやうな素振りを見せさへした。

明子にはこの母の態度がひどく神経にさはつた。彼女は母の見え透いた技巧を<ruby><rb>侮蔑</rb><rt>ぶべつ</rt></ruby>した。

今更のやうに明子は苦渋な<ruby><rb>反芻</rb><rt>はんすう</rt></ruby>をした。――

モナ・リザの微笑に<ruby><rb>惑</rb><rt>まど</rt></ruby>はされた伊曾が結婚について夢中になり出したとき、明子は寧ろ冷やかにそれを利用したのだ。彼女は自ら、モナ・リザの微笑がすばやく消失するだらうことはよく知つてゐた。そんな微笑の<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>さを自分で見抜いてゐた彼女はただ冷やかに成行を見てゐた。この結婚の<ruby><rb>成就</rb><rt>じょうじゅ</rt></ruby>は彼女に一つの欲望を満足させる道を開くだけのものに過ぎないのを彼女は感じてゐた。彼女は伊曾の肉体も感情も二つとも所有してゐた。その上にもう一つのそして最後の欲望は彼を独占することだつた。これは強い欲望だつた。だが、それを<ruby><rb>遂</rb><rt>と</rt></ruby>げるための<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>は寧ろ結婚ののちに開始されるに<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>ひなかつた。彼等は別々の意味でその結婚を急いでゐたのだが、どつちかと言へば、子供のやうな単純さで自ら<ruby><rb>瞞</rb><rt>だま</rt></ruby>されてゐた愚かさは伊曾の方にあつたと言へる。

果して彼女が期待した通り、結婚はあまりに早いモナ・リザの消失に過ぎなかつた。これは覚悟してゐた。彼女は自ら用意してゐたと信じた第二の武器に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りついた。が間もなく、彼女の過信だつたことが明かになつた。明子は敗れた。明子が女性としての武器を確かに握りしめてゐると思つた自分の手の中は空つぽだつた。伊曾が愚かな洪水のやうに、彼女を越えて奔流した。

冷たい理智でこの機会を待ち設けてゐたに<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>ひない劉子は伊曾を奪ひ返しはじめてゐた。つい六ヶ月ほどまへ劉子の歴史に一つのポアンを打つたばかりの明子は、再び硬いポアンとして青空の真中へ<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>き出される運命を自覚することになつた。明子は歯をくひしばつてこの変化の中に身もだえした。だが、身をもがけばもがくだけ、彼女には自分が<ruby><rb>瘠</rb><rt>や</rt></ruby>せて<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>い一人の少女に過ぎないことがはつきりと感じられた。劉子の<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>ひにかかつて、実際自分が硬い一つのポアンに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かじかん</span>でしまつたやうな気がした。

村瀬が明子の周囲に現はれはじめたのは<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>こんな争闘の前後にだつた。彼女は或る会館のプールのふちで、この青年が彼女に近づきたがつてゐるのを発見した。明子は青年の姿を<ruby><rb>藍</rb><rt>あい</rt></ruby>色の層をした水に映して眺めたとき、鼻を鳴らして慕ひ寄る一匹の小犬を<ruby><rb>聯想</rb><rt>れんそう</rt></ruby>した。実際小犬のやうに青年は潔白だつた。だが明子はこの青年に、彼が欲しがつてゐる肉体は与へなかつた。その一歩手まへのものは投げるやうにして早く与へてゐたけれど。青年は従順に彼女の後に従つて来た。明子の女が期待を失しながらも次第に眼を開きかけてゐたのである。

一方危機は明子の心臓の<ruby><rb>昂進</rb><rt>こうしん</rt></ruby>とともに確実な足どりで近づきつつあつた。それは主として伊曾に起つた新たな欲望に<ruby><rb>因</rb><rt>よ</rt></ruby>るものだつた。伊曾と劉子は日ごとに白い死の方へと<ruby><rb>堕</rb><rt>お</rt></ruby>ちて行つた。

白い格闘が果てしなく繰返され、つひにある時明子はその最後の<ruby><rb>徴</rb><rt>しる</rt></ruby>しを見た様に思つた。不幸なことに、全く同時に彼女は心臓の激しい発作で卒倒しかけた。突然一つの腕が彼女を支へた。村瀬の腕だつた。明子は村瀬と一つ影になつて<ruby><rb>失踪</rb><rt>しっそう</rt></ruby>した。白痴的なこの最後の芝居が、一つの決定を<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>すことになつた。彼等の失踪の翌夜、伊曾と劉子の情死が行はれたのである。伊曾の手で鋭いメスの一撃が劉子の<ruby><rb>頸部</rb><rt>けいぶ</rt></ruby>に加へられた。劉子の端麗な<ruby><rb>容貌</rb><rt>ようぼう</rt></ruby>が音もなく彼の腕の中で失心して行つた。<ruby><rb>次</rb><rt>つ</rt></ruby>いで伊曾は自らの頸部を切り裂いた。

失踪した村瀬と明子は三の宮駅で家からの追手に発見された。彼等は色を失つた宝石だつた。二人は別々の列車で東京に連れ帰された。途中の寝台車のなかで、明子は自らの肉体の中に或る不思議な他の者の動揺を感じた。<ruby><rb>胎動</rb><rt>たいどう</rt></ruby>に異ひなかつた。それに<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて彼女の心臓も思ひ出したやうに苦痛を訴へはじめた。明子はこの時さめざめと泣いた。人々は彼女の不幸を哀れんだ。

人々は何も知らなかつたのだ。明子がはじめての母性の感傷に<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>はれて泣いたのであることも、心臓の苦痛はただ彼女の泣声を<ruby><rb>昂</rb><rt>たか</rt></ruby>めただけに過ぎないことも、彼女の涙が<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ幸福な温い涙であつたことも、人々は何も知らないのだ。……

<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>期にある明子はよくこの苦渋な回想を<ruby><rb>反芻</rb><rt>はんすう</rt></ruby>した。彼女はそれに残酷な<ruby><rb>愉</rb><rt>たの</rt></ruby>しさを<ruby><rb>味</rb><rt>あじわ</rt></ruby>ふと言ふ風にさへ見えた。しかしこれらの光景の展開は彼女の恢復にしたがつて、次第に<ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>とした霧の向ふに消えて行つた。その霧の表面には幼児の<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめた四肢が来て伸び<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>はつた。

明子は家の中でさへ素足では歩かないやうになつてゐた。彼女は<ruby><rb>脚</rb><rt>あし</rt></ruby>を厚い毛の靴下で包んだ。<ruby><rb>膏脂</rb><rt>こうし</rt></ruby>の<ruby><rb>涸</rb><rt>か</rt></ruby>れた彼女の皮膚は痛々しく秋風に堪へなかつた。いつか彼女の手の<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>には化粧の匂ひが消えずに残りはじめた。ふくよかな化粧の香気が秋の進むにつれて次第に濃く彼女の身辺にまつはつた。彼女は自分の皮膚を包む癖を覚えてしまつた。

その頃になつて、ある日明子は村瀬に手紙を書いて彼を誘ひ出した。彼等は<ruby><rb>諜</rb><rt>しめ</rt></ruby>し合はせて或る映画館の一隅で落ち合つた。三の宮駅で離されて以来はじめての会見だつた。

彼等が取つた席はエクランとはひどく斜めの位置にあつた。映画は始まつてゐた。彼等の席の周囲には黒い人影が混み合つて無言のまま前後左右に揺れ動いてゐた。彼等も黙つてそれらの影に加はつた。何か古ぼけた曲馬団の悲劇がエクランを流れてゐた。道化役の白い<ruby><rb>衣裳</rb><rt>いしょう</rt></ruby>が<ruby><rb>不恰好</rb><rt>ぶかっこう</rt></ruby>に<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>んで<ruby><rb>吊</rb><rt>つる</rt></ruby>されたやうにエクランの中心を横切つたりした。その白ぼけた光がある時はエクラン一ぱいに膨らみ、客席の人の顔を鈍く照し出すのだつた。明子はそのたびに隣の村瀬の方をぬすみ見した。微光はすぐに消えて、彼女は青年の表情を読むひまはなかつた。<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>のまにか明子は、きつちりと黒の手袋をはめた自分の手の中に村瀬の手を握りしめてゐた。村瀬はぼんやりと映画の流れに視線をまかせてゐる風に見えた。

彼女は熱い吐息をボアの羽根毛のなかに<ruby><rb>漏</rb><rt>もら</rt></ruby>した。彼女に何物かが<ruby><rb>潤</rb><rt>うる</rt></ruby>んで見えた。<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かに生温い涙の匂ひを<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぐやうに思つた。明子は眼をつぶつて<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>を縮め、ボアの羽根毛のなか深く顔を埋め込んだ。吐息に蒸されて<ruby><rb>滴</rb><rt>しずく</rt></ruby>を結んだ羽根毛がつめたく鼻のあたりを<ruby><rb>湿</rb><rt>しめ</rt></ruby>した。それが情感の<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>り場のない涙の感触に<ruby><rb>肖</rb><rt>に</rt></ruby>てゐたのかも知れない。エクランでは銀色に溶け入るやうな脚をした一人の踊子が、乱れた食卓の上で前<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>みに<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んで、不思議に複雑な笑ひを漏した。

映画が消えた。花咲いた明るい燈光のなかで二人は久し振りに顔をまともに見合つた。青年は案外に健康さうな<ruby><rb>双頬</rb><rt>そうきょう</rt></ruby>に純真な<ruby><rb>火照</rb><rt>ほて</rt></ruby>りを漂はせて明子を<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しさうに見上げてゐた。明子の顔を微笑が波うつた。二人はうなづき合つて外に出た。彼等は<ruby><rb>群</rb><rt>むらが</rt></ruby>る自動車の<ruby><rb>濤</rb><rt>なみ</rt></ruby>を避けて、<ruby><rb>濠端</rb><rt>ほりばた</rt></ruby>の暗い並木道に肩を並べた。妙に犯すことの出来ない沈黙が二人を占めてゐた。明子が先にそれを破つて青年に言つた。

――私をどうして下さるの？

漠然と響いて<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れればいいと<ruby><rb>冀</rb><rt>こいねが</rt></ruby>つた。けれど声が変に熱い波動を帯びて<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>へてゐた。明子は意識しながら、それをどうすることも出来なかつた。

――え？

青年は<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>るやうに、が予期してゐたかの様に立ちどまつて彼女を<ruby><rb>視</rb><rt>み</rt></ruby>た。彼は明子の声を顫へを認めたのだ。言葉の意味は、<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ青年の<ruby><rb>寄越</rb><rt>よこ</rt></ruby>した手紙の束を内容づける将来の決心に対する漠然とした質問には<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>ひなかつた。<ruby><rb>仮令</rb><rt>たとえ</rt></ruby>さうにせよ、青年はこの瞬間、抽象的な説明がただ一つの現実行動によつて置換され満足される或る微妙な一瞬の到来を見破つたのである。しばらく青年はためらひながら明子を熟視した。やがて村瀬の眼に青年らしい決断の色が<ruby><rb>閃</rb><rt>ひら</rt></ruby>めいた。一台の自動車がそれを<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>つてゐたかのやうに音も無く滑り寄つて来た。明子は不思議な感動が自分の<ruby><rb>総身</rb><rt>そうみ</rt></ruby>を熱くするのを感じた。あらゆる<ruby><rb>毛孔</rb><rt>けあな</rt></ruby>が一時に息を吐いたやうだつた。明子はその秘密に<ruby><rb>気取</rb><rt>けど</rt></ruby>られるのを<ruby><rb>嫌忌</rb><rt>けんき</rt></ruby>するかの様にすばやく身を<ruby><rb>飜</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>して自動車のステップを踏んだ。女は熱く湿つた呼吸をボアの羽根毛に埋め込んだ。

明子は村瀬の肉体を知つた。彼女はレダのやうに身をもがいた。彼女の顔には、幼児に乳をふくませる母親の柔和さがあつた。ともすればそれは、反対に幼児から血を吸ひ取る残酷なものの微笑とも思はれた。

その頃街に一つの<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>があつた。

第一の人が言つた。

――私は彼等が公園を歩いて行くのを見た。彼等は<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>に菊の花を着けて誇らしげな様子だつた。

第二の人が言つた。

――私は彼等が百貨店の陳列窓を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてゐるところを見掛けた。私が近づいて行くと男は<ruby><rb>傲然</rb><rt>ごうぜん</rt></ruby>と私を見返したが、女は<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ避けるやうに自分の菊の花を向ふ側に向けた。

第三の人が言つた。

――私は女が一人で或る省線の歩廊から電車に乗らうとするところに行き会つた。私が性急に乗り込まうとすると、女は一たん車台に掛けた片足を<ruby><rb>態々</rb><rt>わざわざ</rt></ruby>引つ込めて、人を見下すやうな例の微笑を示しながら私に先を譲つた。頸には紫色の菊の花をつけて。

噂は明子の耳にも伝つて来た。言ふまでも無くそれは伊曾と劉子に関するものに<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>ひなかつた。そしてこれらの人々の観察はどれも<ruby><rb>夫々</rb><rt>それぞれ</rt></ruby>一面の真相と一面の反感に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>る大きな<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>みとを<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>つてゐるのに相違なかつた。

明子はこの噂を耳にしたとき、不思議に美しいものを見たやうに思つた。それは或ひは、さまざまな出来事が彼女を無残に踏み荒したあとの疲労が知らず知らず彼女の情感の反射熱を<ruby><rb>昂</rb><rt>たか</rt></ruby>めてゐたせゐに異ひない。情感はいつ知れず彼女の胸に丸やかな肉の線を与へてゐた。呼吸をするたびに、その胸の線がまるで白鳥の胸のやうに豊かにふくらんだ。<ruby><rb>膏脂</rb><rt>こうし</rt></ruby>が体内に<ruby><rb>沈澱</rb><rt>ちんでん</rt></ruby>して何か不思議な重さで彼女自身を<ruby><rb>懶</rb><rt>ものう</rt></ruby>くした。いつか皮膚にも同じ膏脂は再び流れはじめてゐたが、それは外光に見るとき寧ろ醜い色合を有つてゐた。彼女は日に幾度ひそかにそれを化粧水で<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>きとるか知れなかつた。そんな状態にある明子が、彼等二人の頸に咲いてゐるといふ血紫色の菊の花をまざまざと見るやうに思つた。

明子はこの二つの花がまるで彼女自身の許しを得て開いたもののやうに感じた。彼女の許しなしには<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>に咲く機会のなかつたに<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>ひない菊の花なのだ。<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>こんな<ruby><rb>麗</rb><rt>うる</rt></ruby>はしさに花咲いた菊を今更どこへ置かうかと思ひ<ruby><rb>惑</rb><rt>まど</rt></ruby>つた。

敗北の感じも、憎悪の感じも、二つながら無かつた。明子は劉子の<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>ひの輪を抜け出して、今はもう硬い青いポアンなんかではなかつた。そんな窮屈な輪は苦渋な涙と一緒に消え<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>け、彼女はもつとふくよかに空間に<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろが</rt></ruby>つた一つの美しい円であつた。<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ彼等二人を<ruby><rb>憐</rb><rt>あわれ</rt></ruby>まなければならないのは彼女の方だつた。彼等はお<ruby><rb>互</rb><rt>たがい</rt></ruby>に菊の花を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>ちながら、いつ迄その子供らしい危険な遊戯を続けて行くのであらうか。その菊の花は私が<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>はなければならない。……母親が危険な<ruby><rb>玩具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>を子供たちから取り戻すやうな気持で、明子はさう思ひめぐらした。

秋がおほらかに天を渡りつつあつた。この豊かな光の下で彼等二人も美しい生活を織り始めてゐるのに異ひなかつた。明子は明子で自らの美しい生活を振り返つた。彼女の眼に村瀬の<ruby><rb>栗</rb><rt>くり</rt></ruby>色の肉体が<ruby><rb>仄見</rb><rt>ほのみ</rt></ruby>えた。ただ一つ、菊の花の<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>り場が彼女を思ひ惑はせてゐた。

仄見えた村瀬の肉体がこのとき不思議な方法で変化しつつあつた。明子は夢みる<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>を空間に送つてゐた。

やがて変化が完成された。そこには彼女の天の幼児が<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめた肉体を<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>へてゐた。彼女は思ひ当つた。

――さう、あの二つの菊の花はあの子の両手にこそふさはしい。

彼女の思念をこの時何物かが音もなく溶け去つて行つた。彼女は豊かに胸をはつて、満足した母親の眼を天の幼児に投げた。幸福な一瞬がそこを訪れてゐた。彼女は思ひ疲れていつか眼をつぶつた。

村瀬が急に変つた徴候をあらはしはじめた。子供じみた彼の顔から血紅が落潮の早さで<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて行くのを明子は見た。それと反対に、彼は<ruby><rb>屡〻</rb><rt>しばしば</rt></ruby>子供つぽい反抗を彼女に示すやうになつた。<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>かれたもののやうに、眼を一杯に見開いて突然彼女の腕を逃れようと身もだえすることも<ruby><rb>度重</rb><rt>たびかさ</rt></ruby>なつた。

明子は、村瀬が確かに何かを見たのに異ひないと思つた。だが、この青年にこんな影響を与へるものとは一体何だらう。明子は或る時思ひ切つてこのことを村瀬に詰問した。

――僕はあなたの肖像を見ちやつたんです。

村瀬が子供つぽい反抗に唇を<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめさせてさう答へた。

――それは、伊曾が描いたものだつたの？

――もしさうだつたとしたら、<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>はどんな気がします。

彼は興奮で白つぽくなりながら叫んだ。

――さうね。少しは<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しい気がするかしら。でも、<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>それがそんなに一生懸命にならなければならない問題なの。あの人にはあの人の世界があるわ。その世界で何を描いたつて、何も私まで大騒ぎすることはないでせう。

明子は落着いた調子で答へた。その声は幼児に対する慈母の優しさを帯びてゐた。だが、声を裏切つて、明子の顔にこのとき不思議な表情が浮んでゐた。<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめた唇が<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>み、彼女は久し振りで、忘れられたモナ・リザの笑ひを笑つた。村瀬は彼女の顔を見たが、もう何も言はなかつた。

明かに村瀬は何かを<ruby><rb>匿</rb><rt>かく</rt></ruby>してゐた。彼は子供の<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつよう</rt></ruby>さで秘密を守つた。世間から遠ざかつてゐる明子には想像出来ない、何かつまらぬ物に<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>ひなかつた。明子にはそれを<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>ひて問ひ<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>す必要もなかつた。一つの事が明子の眼にはつきりしてゐた。それは村瀬が遅れ<ruby><rb>走</rb><rt>ば</rt></ruby>せながら、彼等三人の場面に<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け上るべく何かに<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>うたれてゐたことである。嵐は三人の上に既に去つてゐた。三人の人間は、ある者は肉体に血紫色の菊の花を着け、ある者は情感の喪服に身をつつんで、それぞれに静穏な秋の日を<ruby><rb>愉</rb><rt>たの</rt></ruby>しんでゐた。その今になつて、村瀬は狂熱の発作に<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>はれた人のやうに取乱してその伝説の中へ、もう廻転し去つてゐる伝説の中へ<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>り込まうとしてゐたのだ。明子ははつきりそれを見た。

村瀬にやつて来たこの危機を見ながら、明子は妙に平静な気持だつた。彼女の<ruby><rb>歴</rb><rt>へ</rt></ruby>て来た苦渋な疲労感が、まだ肉体の一隅に残つてゐて、それが彼女を賢く<ruby><rb>昂奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>から遠ざからせてゐるやうだつた。明子の失はれない平静のなかで情感の炎がゆるやかに燃えつづけてゐた。彼女はもう一ぺん村瀬の肉体を桃色のラムプのやうに燃え立たせようと試みた。静かな桃色の炎のなかにこの青年を眠り込ませようと<ruby><rb>冀</rb><rt>こいねが</rt></ruby>つた。彼女は以前にもまして熱い<ruby><rb>愛撫</rb><rt>あいぶ</rt></ruby>を村瀬に与へた。

明子の優しい心遣ひにもかかはらず、村瀬の狂暴さはつのつて行つた。まるつきり手のつけられない子供のやうに彼は明子のちよつとした事にも反抗した。彼には近頃不眠の夜が続くらしかつた。その後での疲労しきつた睡眠の中で色々な夢を見るらしかつた。夢のことを彼はよく明子に話すやうになつた。だがどれも手足だけに切り離された夢で、大事なところになると彼は急いで菓子を<ruby><rb>匿</rb><rt>かく</rt></ruby>す子供の<ruby><rb>狡猾</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>さを取戻した。

――さう、それだけだつたの。

明子がおだやかな言葉遣ひでいつも彼の未完成な夢の話に結末をつけてやつた。村瀬は意地の悪い刺笑を歯に浮べながら黙つてゐた。彼の症状は日ましに悪くなつて行つた。

或る日、明子は<ruby><rb>到頭</rb><rt>とうとう</rt></ruby>決心して、村瀬を旅に連れ出した。彼は珍しく明子の提議には従つた。彼女と一緒に天の幼児もついて来た。

旅が終りに近づきかけた或る朝、村瀬が突然ホテルのベッドの上で<ruby><rb>喀血</rb><rt>かっけつ</rt></ruby>した。

<ruby><rb>衝立</rb><rt>ついたて</rt></ruby>の<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>で朝の化粧をしてゐた明子は、彼の<ruby><rb>叫声</rb><rt>さけびごえ</rt></ruby>に<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いて飛び出して来た。白いシイツに血が鋭く鮮紅の<ruby><rb>箭</rb><rt>や</rt></ruby>を射てゐた。はじめ彼女は村瀬が何か鋭利な刃物で自殺をはかつたのだと信じた。

――コップ。コップ。

彼が<ruby><rb>咳</rb><rt>せ</rt></ruby>き入つて叫んだ。明子が<ruby><rb>枕許</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>のコップを口に当てがつてやると彼は待ち兼ねたやうに二度目の多量の<ruby><rb>喀血</rb><rt>かっけつ</rt></ruby>をした。血がコップを<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れて明子の手の甲を汚した。血は皮膚の脂肪にはじかれて<ruby><rb>斑</rb><rt>まだ</rt></ruby>らに残つた。これで落着くかと彼女は思つた。明子には<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>づこの血に満ちたコップをどう処置するかが非常に重要なことに考へられて、ぢつとそれを握りしめてゐた。

しかし第三の発作が起つた。村瀬が胸をのめらせて枕に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りついた。明子は<ruby><rb>突嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に自分の両手で吐かれる血を受けた。彼女は血だらけになつた両手を村瀬の口に押しつけながら、顔すれすれに近づけてささやいた。涙が冷たく<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめた<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>に散つた。

――どうしたの、一体。

今度は比較的量は少なかつたが、それでも両手の<ruby><rb>窩</rb><rt>あな</rt></ruby>をほとんど<ruby><rb>満</rb><rt>みた</rt></ruby>した。それでやつと病人は落着いたやうだつた。彼女は洗面台へ手を洗ひに立つた。水の音を聞くと村瀬はむつくりと半身をもたげた。彼女には手を<ruby><rb>浄</rb><rt>きよ</rt></ruby>めるひまもなかつた。

――何です。どうするの。動いちやいけません。

――あれを、あれを取るんです。

村瀬が歯をくひしばつてやつと言つた。彼の片手は壁の棚に達してゐた。

――そんな事なら私がして上げます。あなたはそつとして居なくちや<ruby><rb>駄目</rb><rt>だめ</rt></ruby>よ。

明子が<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>らうとしたとき、村瀬の手は案外<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>くがくりと垂れた。がそれと、棚から一冊の<ruby><rb>鼠</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>色の本が<ruby><rb>頁</rb><rt>ページ</rt></ruby>を<ruby><rb>飜</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>してベッドに<ruby><rb>伏</rb><rt>ふ</rt></ruby>さつて落ちたのとは全く同時だつた。村瀬はすばやくその本を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んでゐた。

――これなんです。

彼が不気味に顔を曲げて笑はうとした。

――何、それは？

――これに書いてあるんです。それが長い間僕を苦しめてゐたんです。しかし、やつと解つた。やつぱり僕だつたのだ。

明子は伏さつた本の表紙に眼を走らせた。そこに伊曾の名が刷つてあつた。とすれば、それは伊曾の<ruby><rb>飜訳</rb><rt>ほんやく</rt></ruby>で近ごろ出版された或るイギリスの新しい作家の小説に<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>ひなかつた。村瀬がこの鼠色の部厚な本をよく抱へてゐるのには明子も気がついてゐた。が、それが伊曾の本だつたことは、彼女は今はじめて知つた。彼が<ruby><rb>譫言</rb><rt>うわごと</rt></ruby>のやうに言ひ続けてゐた。

――頁の折つてある<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>を開けて御覧なさい。そこに<ruby><rb>黝</rb><rt>くろ</rt></ruby>い球のことが書いてあるでせう。黝い球つて毒薬なんです。それを僕が<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>むか、あなたが呑むか、どつちかに決つてゐたんです。が、やつぱり僕だつた。今やつと解つた。

彼は力が尽きたやうにベッドに<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>けに倒れ落ちた。そして眼を閉ぢてしまつた。それに引き込まれて明子も<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>に沈んだ。<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>その本などには触つて見る気も起らなかつた。村瀬が子供つぽい仕草で彼女に<ruby><rb>匿</rb><rt>かく</rt></ruby>してゐたものはこれだつた。彼はこの本の数行の活字を<ruby><rb>梯</rb><rt>はしご</rt></ruby>にして、三人の伝説に<ruby><rb>攀</rb><rt>よ</rt></ruby>ぢ登らうと一生懸命になつてゐたのだ。だが、どうして？　何のために？　明子はやはりそこに何か気味の悪いものの命令を<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎつけない訳には行かなかつた。それは或ひは伊曾の眼のやうでもあつた。そして一瞬間彼女は、全く久し振りで伊曾が単独で彼女の傍に来て<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>るのを見た。不気味に、音もなく。

彼女には<ruby><rb>纔</rb><rt>わず</rt></ruby>かにその<ruby><rb>輪廓</rb><rt>りんかく</rt></ruby>だけしか想像されずにゐた長い争闘によつて<ruby><rb>傷</rb><rt>きずつ</rt></ruby>いた青年がそこに<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>はつてゐた。彼女は<ruby><rb>憫</rb><rt>あわ</rt></ruby>れむやうに青年の姿を改めて見直した。彼の胸ははだけて、寝衣の間から<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめた皮膚が浮び上るやうに眺められた。次の瞬間、彼女は全く別のことを考へてゐた。長い間<ruby><rb>推</rb><rt>お</rt></ruby>し<ruby><rb>秘</rb><rt>かく</rt></ruby>された一つの影響がこの時花さいたもののやうだつた。あたりが花の匂ひに満ちた。蒼ざめた天の幼児がそつと降りて来て、村瀬の皮膚に合体したのが見えた。幼児が成長して地上のものの姿でその肉体を明子の前に横たへたかの様だつた。彼女は、自分が村瀬を愛したのは幼児の蒼ざめた皮膚を愛するためにだつた事をはつきりと了解した。眼の前の青年の胸には二つの菊の花までが、その血紫色を<ruby><rb>黝</rb><rt>くろ</rt></ruby>ずませて。……

やがて明子は立ち上つた。彼女は医者を呼ぶために壁のボタンを長く押し続けた。