一

（これは駄目だ）

と<ruby><rb>正成</rb><rt>まさしげ</rt></ruby>は思った。

（兵糧が尽き水も尽きた。それに人数は僅か五百余人だ。然るに<ruby><rb>寄手</rb><rt>よせて</rt></ruby>の勢と来ては、二十万人に余るだろう。それも笠置を落城させて、意気軒昂たる者共だ。しかも長期の策を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>り、この城を遠征めにしようとしている。とうてい籠城は覚束ない）

そこで、正成は将卒をあつめ、しみじみとした口調で申し渡した。

「この間は<ruby><rb>数箇度</rb><rt>すかど</rt></ruby>の合戦に打ち勝ち、敵を亡ぼすこと数を知らず、正成くれぐれも有難く思うぞ。が、敵大勢なれば物の数ともせず、囲みを解いて去るべくも見えぬ。然るに城中はすでに食尽き、<ruby><rb>援兵</rb><rt>えんぺい</rt></ruby>の来る望みもない。……元来天下の衆に先立ち、<ruby><rb>草創</rb><rt>そうそう</rt></ruby>の功を志す以上、節に当り義に臨んでは、命を<ruby><rb>惜</rb><rt>おし</rt></ruby>むべきではない。とはいえ事に臨んで恐れ、<ruby><rb>謀</rb><rt>はかりごと</rt></ruby>を好んで為すは勇士の為すところと、既に孔夫子も申しておる。されば暫くこの城を落ちて、正成自害したる態になし、敵の耳目を一時眩まそうと思う。……正成自害したりと思わば、関東勢さだめて喜びをなし、下向するに相違ない。下らば正成打って出で、また上らば山野にかくれ、四五回東国勢を悩まさんか、彼等といえども退屈するであろう。この時を以て敵を<ruby><rb>殲滅</rb><rt>せんめつ</rt></ruby>するこそ妙策！」

これを聞くと将卒共はしばらくの間は、言葉も出さず黙っていたが、やがて口々に云い出した。

「<ruby><rb>君公</rb><rt>きみ</rt></ruby>の<ruby><rb>謀計</rb><rt>はかりごと</rt></ruby>にござりまする。粗略あろうとは存じられませぬ」

「早々御落去なさりませ」

「再挙の時こそ待ち遠しゅうござりまする」

そういう将卒の顔には、何等の<ruby><rb>憂</rb><rt>うれい</rt></ruby>の影もなかった。

我等が信ずる多門兵衛様が――日本の<ruby><rb>孔明</rb><rt>こうめい</rt></ruby>、<ruby><rb>張良</rb><rt>ちょうりょう</rt></ruby>が、城を開こうとするのである。開くべき筋があればこそ、こうして城を開くのであって、尋常一様の落城ではない。――という考えがあるからであった。

（では）

と正成は決心し、城の落ちる日を心待ちに待った。

その間に正成は士卒を督し、城中に大なる穴を掘らせ、堀の中にて討たれた死人の中、二三十人ばかりを持ち来たしその穴の中へ<ruby><rb>埋没</rb><rt>まいぼつ</rt></ruby>させ、その上に<ruby><rb>炭</rb><rt>すみ</rt></ruby><ruby><rb>薪</rb><rt>たきぎ</rt></ruby>を積み重ねさせた。

と、幸いにもその翌々日、風雨はげしく荒れた。

（時こそ来たれり）

と正成は思い、この赤坂城にそれ以前から、お<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>りあそばされた<ruby><rb>護良親王様</rb><rt>もりながしんのうさま</rt></ruby>を、まず第一に落し参らせ、つづいて将卒を落しやり、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">火かくる</span>者一人をとどめ置き、舎弟の七郎<ruby><rb>正季</rb><rt>まさすえ</rt></ruby>や、和田正遠等を従えて、自身も<ruby><rb>蓑笠</rb><rt>みのかさ</rt></ruby>に身をやつし、ひそかに城を<ruby><rb>忍</rb><rt>しの</rt></ruby>び出た。

それとも知らない寄手の勢は、陣屋陣屋の戸をとざし、この吹降りには城兵といえども、よもや夜討などかけまいと、安心しきって眠っていた。

と、正成たちは忍びやかに、寄手の陣屋の前を通り、千早の方へ潜行した。

「誰だ！」

と突然声がかかった。

寄手の大将長崎<ruby><rb>四郎左衛門尉</rb><rt>しろうざえもんのじょう</rt></ruby>、この人の陣屋の<ruby><rb>厩</rb><rt>うまや</rt></ruby>の前に、さしかかった時であった。

<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に正成もハッとしたが、

「これは大将御内の者でござるが、道に踏み迷うてかくの通り」

と、早速に云い放して足を早めた。

「怪しい曲者」

「射て、討ちとれ！」

声に応じて<ruby><rb>弦鳴</rb><rt>つるな</rt></ruby>りがし、正成の左臂に矢があたった。

（南無三宝）

と正成は思った。

が、不思議にも矢が立っていない。

（はてな？）

と思いながら数町走り、そこで初めて臂を調べてみた。

日頃信じて<ruby><rb>読誦</rb><rt>どくじゅ</rt></ruby>し奉る、観音経を入れた守袋に、矢の立った<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>があらわれていた。

（神仏の加護）

と正成は思った。

（神の界に属しまつる宮方に、お味方仕るこの正成に、神仏の加護あるは必定か、それにいたしても<ruby><rb>忝</rb><rt>かたじ</rt></ruby>けなし）

こう思わざるを得なかった。

二十町あまりも落ちのびた時、今まで籠城していた赤坂城に――寄手の関東勢二十余万人を、<ruby><rb>釣塀</rb><rt>つりべい</rt></ruby>、投大木、熱湯<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かけ</span>で、防ぎ苦しめた赤坂城に、<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>が高く上ったのが見えた。

（穴の中の死骸の焼けたのを見て、正成自害したと思うであろうよ）

二

一里あまりも落ちのびた時、行手に数人の人影が見え、

「多門兵衛か」

と声がかかった。

「これは宮様にござりまするか」

然う、そこにお立ちになられたは、いつか山伏風に身をやつされ、その上を蓑笠で<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>いあそばされた、大塔宮護良親王様と、同じ姿の七人の家来、村上彦四郎義光や、平賀三郎や片岡八郎等であった。

「御武運ひらきますでござります」

云い云い正成は守袋を取り出し、敵に射かけられた矢が身にあたらず、これにあたったことをお物語りした。

「神仏は神仏を信ずる者にのみ、そのあらたかの加護を与うるものじゃ。……<ruby><rb>人君</rb><rt>じんくん</rt></ruby>に忠節を尽くす者は、その全き同じ至誠を以て、神仏を信じ<ruby><rb>崇</rb><rt>あが</rt></ruby>めるものじゃ」と、親王様には<ruby><rb>厳</rb><rt>おごそ</rt></ruby>かに仰せられた。「正成、そちに神仏の加護ある、当然至極のことと思うぞ」

深い感動が人々の心に、一瞬間産まれ出た。

<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>の木立を揺がすものは、なお止まない雨と風とであり、闇夜を赤く染めているものは、燃えている赤坂城の火の光であった。

その火の光を眺めては、さすがに正成の心中にも、感慨が湧かざるを得なかった。

<ruby><rb>河内</rb><rt>かわち</rt></ruby>の国の一豪族の身が、一天万乗の君に見出され、たのむぞよとの御言葉を<ruby><rb>賜</rb><rt>たま</rt></ruby>わった。何んたる一族の光栄であろう。尽忠の誠心を披瀝して、皇恩に御酬い致さねばならぬ。こう、ひたむきに決心した。功名も望まず栄誉も願わず、<ruby><rb>遠祖</rb><rt>えんそ</rt></ruby><ruby><rb>橘諸兄公</rb><rt>たちばなのもろえこう</rt></ruby>以来の、忠心義胆が血となり涙となって、皇家へ御奉公仕ろうと、そう決心したのであった。

その御奉公の最初の現われが、赤坂築城であり、義兵の旗あげであり、そうして今度の籠城戦であった。

<ruby><rb>詭計</rb><rt>きけい</rt></ruby>のためとは云いながら、その城が燃えているのである。

（ナーニ）

と正成はすぐに思った。

（そうだ<ruby><rb>一旦</rb><rt>いったん</rt></ruby>は敵に渡す。が、やがて<ruby><rb>奪回</rb><rt>とりかえ</rt></ruby>して見せる）

＊

大塔宮様が熊野方面に落ち、<ruby><rb>楠正成</rb><rt>くすのきまさしげ</rt></ruby>が<ruby><rb>河内摂津</rb><rt>かわちせっつ</rt></ruby>の間に、<ruby><rb>隠顕出没</rb><rt>いんけんしゅつぼつ</rt></ruby>して再挙を計るべく、赤坂の城をこうして開いたのは、元弘元年十月の、二十一日のことであった。

が、約半年の月日が経って、翌年の四月になった時、正成はふたたび活動をはじめ、わずか五百の兵を以て、まず赤坂の城を攻め、城将湯浅定仏を降し、その兵を合わせて二千となし、住吉天王寺辺へ打って出で、渡辺橋の南に陣を敷いた。

両六波羅探題の周章狼狽は、<ruby><rb>外目</rb><rt>よそめ</rt></ruby>にも笑止の程であって、<ruby><rb>隅田</rb><rt>すみた</rt></ruby>通治、高橋宗康、この両将に五千の兵を付け、急遽討伐に向わせた。

そこで正成は二千の精兵を、まず三つの隊に分かち、天王寺の付近にかくし伏せ、外に弱卒三百をして、橋を守らせ、機会を待った。

隅田、高橋はその弱卒を見て、大いに笑い<ruby><rb>突撃</rb><rt>とつげき</rt></ruby>した。三百の卒は一散に逃げた。

それを追って、隅田、高橋の勢が、天王寺付近にさしかかった時、伏兵が三方からあらわれた。

隅田、高橋の勢の狼狽すまいことか！

「詭計ぞ！」とばかり退き逃げたが、正成の勢に追い討たれ、或いは川に<ruby><rb>溺</rb><rt>おぼ</rt></ruby>れて死に、全軍ことごとく意気沮喪し、二将は京都へ引あげた。

そこで正成は悠々と、天王寺の地へ陣を敷き、京都へ攻めのぼるべき気勢を示した。

と、その時二度目の討手として、宇都宮治部大輔公綱が、向い来るという取沙汰が聞えて来た。

＊

七月××日の夜のことであった。正成の天王寺の陣営で、河内の国の住人和田孫三郎は、額の汗をふきふき、正成へ情勢を<ruby><rb>報知</rb><rt>しら</rt></ruby>せていた。

「……そのような事情にござりまして、<ruby><rb>宇都宮公綱</rb><rt>うつのみやきんつな</rt></ruby><ruby><rb>宿所</rb><rt>しゅくしょ</rt></ruby>にも帰えらず、六波羅殿よりすぐに打ち立ち、主従わずかに十五騎にて、天王寺へ向いましてござりまするが、洛中におりましたるところの<ruby><rb>兵</rb><rt>つわもの</rt></ruby>ども、それと聞き伝え馳せ加わり、四塚作道に達しました頃には、五百<ruby><rb>余騎</rb><rt>よき</rt></ruby>になりましてござりまする。その行動の果敢なる、権門であれ勢家であれ、路次にて一旦<ruby><rb>邂逅</rb><rt>かいこう</rt></ruby>しますれば、乗馬を奪い、従者を役夫とし、躊躇するところござりませぬ。そのため旅人は路程を<ruby><rb>迂回</rb><rt>まわ</rt></ruby>り、家々では<ruby><rb>扉</rb><rt>とぼそ</rt></ruby>を閉じまするような有様。既に<ruby><rb>柱松</rb><rt>はしらもと</rt></ruby>に陣を取り、明朝此方へ取りかからん構え、必死に見えましてござりまする」

三

「成程」と正成は聞き終ると、しばらくじっと考え込んだ。

「正遠」とややあって正成は、傍につつましく控えている、一族の和田五郎正遠へ微笑を含んで声をかけた。「意見あろう申してみい」

「は」と云うと正遠は、ユサリと一膝すすめたが、「先般隅田、高橋の勢の、五千余騎をさえ渡辺の橋にて、追い崩しましてござりまする。かかる我君の<ruby><rb>手腕</rb><rt>てなみ</rt></ruby>にも恐れず、<ruby><rb>公綱</rb><rt>きんつな</rt></ruby>わずか七百余騎にて二千余騎のわが軍に向うというは、先般の負戦に負腹たて、無二無三に仕掛くるものと存じまする。謂わば<ruby><rb>暴虎馮河</rb><rt>ぼうこひょうが</rt></ruby>の勇、何程のことがござりましょう。それに反しましてお味方の勢は、勝に乗りまして意気軒昂、然らば今夜<ruby><rb>逆寄</rb><rt>さかよ</rt></ruby>せ仕り、一挙に追い散らしあそばすこそ、肝要かと愚考いたされまする」。「一理はある」と、正成は云った。「が、それでは味方も損ずるよ」

「…………」

「<ruby><rb>合戦</rb><rt>かっせん</rt></ruby>の勝敗と申すもの、必ずしも大勢小勢にはよらぬ。ただただ兵の志が、一になるかならぬかにある。……公綱が行動を案ずるに、先般関東方我に破られ、面目を失して帰りし後、小勢にて向い来し志、生きて帰らぬ覚悟であろう。それに公綱は弓矢とっては、<ruby><rb>坂東</rb><rt>ばんどう</rt></ruby>一と称さるる人物。従う<ruby><rb>紀清</rb><rt>きせい</rt></ruby>両党の兵は、宇都宮累世養うところのもの、戦場に<ruby><rb>於</rb><rt>おい</rt></ruby>て命を棄つること、<ruby><rb>塵埃</rb><rt>じんあい</rt></ruby>の如く思いおる<ruby><rb>輩</rb><rt>ともがら</rt></ruby>じゃ。その兵七百余騎志を合わせ、決死を以て<ruby><rb>当手</rb><rt>とうて</rt></ruby>に向わば、当手の兵大半は討たれるであろう。関東討伐、朝権恢復、この<ruby><rb>戦</rb><rt>たたかい</rt></ruby>を以て決しはせぬ。行末遥の戦に多からぬ味方を失うては、取り返しならぬこととなろう。……正成、今宵陣を引く所存じゃ」

「ご退陣？」と、正遠も、孫三郎も、驚いたように眼を見張った。「一戦もお交しあそばされずに？」

「一旦<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いてまた乗っ取るのじゃ」

「…………」

「味方を傷つけず敵も傷つけぬためにな」

「…………」

「公綱に恩を施すともいえる」

「…………」

「宇都宮公綱は律義者じゃ。義に厚く情に<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>い。坂東武者の典型でもあろうよ。ただ不幸にして<ruby><rb>順逆</rb><rt>じゅんぎゃく</rt></ruby>の道を誤り、今こそ朝家に弓引いておるが、一旦の恩に志を<ruby><rb>翻</rb><rt>ひるが</rt></ruby>えし、皇家無二の忠臣として、<ruby><rb>尽瘁</rb><rt>じんすい</rt></ruby>せぬとも限られぬ。……正成が為んよう見て居るがよいぞ」

暁近くなった時、正成の本陣をはじめとし、和田正遠、湯浅定仏、その他楠家一党の陣は、ひそかに粛々と伍をととのえ天王寺から引きあげた。

＊

一方宇都宮治部大輔公綱は、東の空の白むと見るや、七百余騎を引率し、天王寺さして<ruby><rb>驀地</rb><rt>まっしぐら</rt></ruby>に押し寄せ、<ruby><rb>古宇都</rb><rt>こうづ</rt></ruby>の民家へ火をかけて、<ruby><rb>鬨</rb><rt>とき</rt></ruby>の声をドッとあげた。

京都あまりに無勢とあって、両六波羅探題北條時益、同じく北條仲時によって、わざわざ関東から呼びよせられ、京都守護をまかせられた、武功名誉の公綱であった。隅田、高橋の両武将が、もろくも<ruby><rb>正成</rb><rt>まさしげ</rt></ruby>のために渡辺の橋で破られ、関東の<ruby><rb>武威</rb><rt>ぶい</rt></ruby>を<ruby><rb>失墜</rb><rt>しっつい</rt></ruby>するや「大軍すでに利を失いました後、小勢を以て向いますること、<ruby><rb>如何</rb><rt>いかが</rt></ruby>あらんかとは存じまするが、関東を<ruby><rb>罷</rb><rt>まか</rt></ruby>り出でまする際、このようなお大事に巡り合い、命を軽ういたすを以て、念願といたしおりましたる私、<ruby><rb>駆</rb><rt>か</rt></ruby>け向いまするでござりましょう。今の場合を観じまするに、戦いの勝敗そのものを、<ruby><rb>云為</rb><rt>うんい</rt></ruby>いたす時にてはござりませぬ。何はあれ一人にても駈け向い、落ちました関東の武威を揚げますこと、<ruby><rb>肝要</rb><rt>かんよう</rt></ruby>のことかと存ぜられまする」と、こう<ruby><rb>言上</rb><rt>ごんじょう</rt></ruby>して向って来た公綱であった。

決死の程が想像されよう。

さて、然うドッと<ruby><rb>鬨</rb><rt>とき</rt></ruby>をあげた。

然るに答える者はなく、駈け出して来る兵もなく、<ruby><rb>楠氏</rb><rt>なんし</rt></ruby>の陣営には、<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>きすてられた<ruby><rb>篝</rb><rt>かがり</rt></ruby>が、<ruby><rb>余燼</rb><rt>よじん</rt></ruby>を上げているばかりであった。

「正成一流の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たばかり</span>でもあろうぞ。<ruby><rb>油断</rb><rt>ゆだん</rt></ruby>して<ruby><rb>裏掻</rb><rt>うらか</rt></ruby>かるるな」

と、公綱は馬上大音に叫び、更に天王寺の東西の口より、三度までも駈入り駈入ったが、敵の姿は一人も見られなかった。

夜がまったく明け放れた。

事実<ruby><rb>敵影</rb><rt>てきえい</rt></ruby>はないのであった。

多少の疑惑はあったものの、戦わざるに勝った心地がして、公綱としては歓喜<ruby><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby>なく、正成の陣営のその後へ、自身<ruby><rb>直</rb><rt>ただ</rt></ruby>ちに陣を敷き、やがて京都へ<ruby><rb>早馬</rb><rt>はやうま</rt></ruby>を立て勝利の旨を南六波羅へ申しやった。

しかるに五六日経った頃から、奇怪なことが夜々に起った。

天王寺を遠く<ruby><rb>囲繞</rb><rt>いにょう</rt></ruby>して、<ruby><rb>秋篠</rb><rt>あきしの</rt></ruby>の郷や<ruby><rb>外山</rb><rt>とやま</rt></ruby>の里や、生駒の嶽や<ruby><rb>志城津</rb><rt>しぎつ</rt></ruby>の浜や、住吉や難波の浦々に――即ち大和、河内、紀伊の、山々谷々浦々に、<ruby><rb>篝</rb><rt>かがり</rt></ruby>や松明がおびただしく焚かれ、今にも数千数万の軍勢が、寄せ来るかとばかり見えることであった。

「一旦陣は引いたが正成め、新手の大軍を<ruby><rb>猟</rb><rt>か</rt></ruby>り催し、押し寄せ来る手段と見える。<ruby><rb>誠</rb><rt>まこと</rt></ruby>の<ruby><rb>戦</rb><rt>たたかい</rt></ruby>一度もせず、残念に思っていたところ、押し寄せ来るこそ却って幸い、迎え<ruby><rb>撃</rb><rt>う</rt></ruby>って<ruby><rb>雌雄</rb><rt>しゆう</rt></ruby>を決しようぞ。……やア<ruby><rb>汝等</rb><rt>おのれら</rt></ruby>寸刻といえども、油断をするな、用意怠るな！」

こう部下に命を伝え、自己も鎧の上帯を<ruby><rb>解</rb><rt>と</rt></ruby>かず、部下にも帯を解かしめず、馬の<ruby><rb>鞍</rb><rt>くら</rt></ruby>をも休めようとはせず、まして夜な夜なを眠らず眠らせず、敵の押し寄せ来るを待ちかまえた。

然るにその後も依然として、<ruby><rb>遠篝</rb><rt>とおかがり</rt></ruby>は山々谷々に、また浦々に燃えつづいたが、寄せて来ようとはしなかった。

大将公綱を初めとし、紀清両党の郎党たちも、追々<ruby><rb>惰気</rb><rt>だき</rt></ruby>を催して来、しかも思い切って心を許し、眠に入ることが出来なかったので、身心次第に<ruby><rb>疲労</rb><rt>つか</rt></ruby>れ<ruby><rb>衰弱</rb><rt>おとろ</rt></ruby>えて、戦意<ruby><rb>頓</rb><rt>とみ</rt></ruby>に失われ、退陣したいものと思うようになった。

四

天王寺の陣を引いた正成は、数里はなれた<ruby><rb>櫨子原</rb><rt>しどみばら</rt></ruby>に、<ruby><rb>幔幕</rb><rt>まんまく</rt></ruby>ばかりの陣を張り、悠々と機をうかがっていた。

或夜<ruby><rb>正遠</rb><rt>まさとお</rt></ruby>と<ruby><rb>定仏</rb><rt>じょうぶつ</rt></ruby>とをつれ、陣々をひそかに見回りながら小高い丘の頂まで来た。

はるかの彼方に天王寺があって、その辺に敷いてある<ruby><rb>公綱</rb><rt>きんつな</rt></ruby>の陣から、立ちのぼる篝の火が空に映じ、ほの明るさを見せていたが、いつもの夜よりも火光は弱く、衰えの様が感じられた。

「正遠」

と、正成は愉快そうに云った。

「明日は天王寺へ帰ることが出来るぞ」

「は？」

と、正遠はいぶかしそうに、

「では明日わが君には、天王寺をお討ちあそばすので？」

「いや公綱とは戦いはせぬよ。これは以前から決めていることじゃ」

「では如何して天王寺へ、明日お帰りあそばしますか？」

「公綱明朝陣を引き、京都へ帰って行くからじゃ」

「ははあ、公綱退陣しましょうか？」

「あの篝火の衰え様では、明日退陣と見てよかろう」

「…………」

「一戦も交えず正成をして、退かせましてござりますと、これを功にして京に帰らば、公綱の面目は立つからのう」

「これは<ruby><rb>御意</rb><rt>ぎょい</rt></ruby>にござります」

「公綱としてはわしを追い討ち、この陣を破りたく思ってはいようが、それにしては兵が少なすぎる。といって天王寺にとどまっているには、夜な夜な燃える数千の篝が、どうにも気になっておちついて居られぬ。で、結局、帰って行くのじゃ」

「さよう<ruby><rb>予</rb><rt>あらかじ</rt></ruby>めご計画あそばして、天王寺をご退陣あそばしましたので？」

「そうだ」と正成は頷いた。「で、わしは百姓や漁夫や、<ruby><rb>樵夫</rb><rt>やまがつ</rt></ruby>などに命を含め、山々谷々浦々に、あのように篝を焚かせたのじゃよ。……定仏定仏」と湯浅定仏を呼んだ。

「わしは赤坂を落ちる時にも、必ず後日奪回いたすと、こう決心して落ちたのじゃよ」

「は」

と云ったが、湯浅定仏は、何んとない苦笑を頬に浮かべた。

「まこと君にはその後間もなく、赤坂城を復されましてござりまする」

「わしが火をかけて脱け出した城を、其方よく修理してくれたのう」

「…………」

定仏は黙ってまた苦笑した。

それに相違ないからであった。

正成が赤坂城を捨てて出た後へ、六波羅の命で入城し、城を修理して籠もったのは、たしかに湯浅定仏だったのであった。

が、その定仏は正成に攻められ、他愛なく城は乗っ取られ、本人はこのように降将として、正成に仕えているのであった。

苦笑せざるを得ないではないか。

「過去を探り現在を識り、未来を察して世を渡らば、人間間違いはないものじゃ」こう正成は<ruby><rb>訓</rb><rt>おし</rt></ruby>えるように云った。

「武人にとっては合戦こそは、立派な世渡りの術だからのう。未来を察してかからねばならぬよ。……明日天王寺へ帰ったなら、何を置いてもお寺へ参り、未来記を拝見するつもりじゃ」

この夜も山々谷々に、そうして津々浦々一円に、正成の焚かせている篝火が、妖しく凄く燃えていた。

五

正成の予言は的中し、翌朝公綱は陣を撤し、京都をさして帰って行き、<ruby><rb>代</rb><rt>かわ</rt></ruby>って正成が天王寺へ這入った。

元弘二年八月三日、この日はよく晴れた<ruby><rb>秋日和</rb><rt>あきびより</rt></ruby>で、松林では鳩が啼き、天王寺の塔の<ruby><rb>甍</rb><rt>いらか</rt></ruby>には、陽が銀箔のようにあたっていた。

<ruby><rb>白鞍</rb><rt>しろくら</rt></ruby>置いた馬、<ruby><rb>白覆輪</rb><rt>しろふくりん</rt></ruby>の太刀、それに鎧一領を<ruby><rb>副</rb><rt>そ</rt></ruby>え、徒者数人に曳き持たせ、正成は天王寺へ参詣し、<ruby><rb>大般若経</rb><rt>だいはんにゃきょう</rt></ruby><ruby><rb>転読</rb><rt>てんどく</rt></ruby>の布施として献じ、髯の白い老いた長老に会い、正成不肖の身をもって、一大事思い立ちたる事由を<ruby><rb>審</rb><rt>つぶ</rt></ruby>さに述べたるのち、<ruby><rb>虔</rb><rt>つつ</rt></ruby>ましく居ずまいを正し、「承わりますれば、上宮太子<ruby><rb>厩戸皇子</rb><rt>うまやどのおうじ</rt></ruby>様、百王治天の安危を<ruby><rb>勘</rb><rt>かんが</rt></ruby>え、日本一州の未来記を<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>め、この寺院に秘蔵あそばさるるとか。もし拝見苦しからずば、現代に関わる箇所だけなりとも、是非とも拝見仕りたく、如何のものにござりましょうや？」

すると長老は深く頷いて、

「万代の秘書にはござりまするが、多門兵衛様には<ruby><rb>忠誠丹心</rb><rt>ちゅうせいたんしん</rt></ruby>、まことの<ruby><rb>武夫</rb><rt>もののふ</rt></ruby>と存じますれば、別儀をもちまして、お眼にかけるでござりましょう」

と云い、一旦奥へはいったが、やがて<ruby><rb>金軸</rb><rt>こんじく</rt></ruby>の書一巻を、<ruby><rb>恭</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく捧げて現われた。

正成は悦び<ruby><rb>譬</rb><rt>たと</rt></ruby>うるものなく、謹みかしこんで両手に受け、<ruby><rb>徐</rb><rt>おもむろ</rt></ruby>に開いて読んで行った。

不思議の一連が眼にうつった。

「<ruby><rb>人王</rb><rt>じんおう</rt></ruby>九十五代ニ当ツテ、天下一<ruby><rb>度</rb><rt>たび</rt></ruby>乱レテ而テ<ruby><rb>主</rb><rt>しゅ</rt></ruby><ruby><rb>安</rb><rt>やす</rt></ruby>カラズ。此時<ruby><rb>東魚</rb><rt>とうぎょ</rt></ruby><ruby><rb>来</rb><rt>きたり</rt></ruby>テ四海ヲ呑ム。<ruby><rb>日</rb><rt>ひ</rt></ruby>西天ニ没スルコト三百七十余箇日。西鳥来テ東魚ヲ食ウ。其後海内一ニ帰スルコト三年。<ruby><rb>獼猴</rb><rt>びこう</rt></ruby>ノ如キ者天下ヲ<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>ムルコト三十余年。大兇変ジテ一元ニ帰ス」

それはこういう文字であった。

正成は<ruby><rb>沈思</rb><rt>ちんし</rt></ruby>した。

思いあたることが数々あった。

（<ruby><rb>後醍醐</rb><rt>ごだいご</rt></ruby>の<ruby><rb>帝</rb><rt>みかど</rt></ruby>こそは神武の帝より数えて、九十五代にあたらせ給う。天下一度乱レテ主安カラズ。これは<ruby><rb>現代</rb><rt>いまのよ</rt></ruby>の事なのであろう。東魚来テ四海ヲ呑ム。これは北條の、一族の<ruby><rb>悪逆</rb><rt>あくぎゃく</rt></ruby>を指しているのであろう。西鳥来テ東魚ヲ食ウ。これは何者か関東を滅す。という予言に相違ない。日西天ニ没スとあるは、<ruby><rb>帝</rb><rt>みかど</rt></ruby><ruby><rb>隠岐島</rb><rt>おきのしま</rt></ruby>へ御<ruby><rb>遷幸</rb><rt>せんこう</rt></ruby>ましまされた、この一事を指しておられるのであろう。三百七十余日とあるからには、明年のその頃に都へ御還幸、御位に復されるやも計られぬ。……しかしそれにしてもその次に書かれた、<ruby><rb>獼猴</rb><rt>びこう</rt></ruby>ノ如キモノ天下ヲ<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>ムとは、一体どういう意味なのであろう？）

一抹の不安が正成の心に起った。

これは勿論<ruby><rb>足利尊氏</rb><rt>あしかがたかうじ</rt></ruby>によって、天下を奪われることを予言したところの、その一文であるのであったが、如何に聡明の正成にも、そこまでは思い及ばなかったのである。

（どうあろうと我に於て関わりはない）

すぐ正成は<ruby><rb>快然</rb><rt>かいぜん</rt></ruby>とこう思った。

（帝の忠誠の臣として、帝の一個の<ruby><rb>衛士</rb><rt>えじ</rt></ruby>として、尽くすべきことを尽くせばよい。ましてや太子のその後の予言に、大兇変ジテ一元ニ帰スと、こう記してあるではないか）

快然とした正成の謹厚の顔には、初秋の明るい陽の光が、障子越しにほのかに射していて、穏やかな陰影をつけていた。

間もなく正成は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">陣</span>へ帰った。

正成の予想に狂いがなく、その後宇都宮公綱は、宮方に帰順して忠節を励んだ。