## ｟一｠夜襲

名にし負うアンジアン湖畔の夜半。小さい桟橋に繋いだ二隻のボートが、静かな<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>にゆらりゆらりと揺れて、夕靄の立ち籠むる湖面の彼方、家々の窓にともる赤い<ruby><rb>灯影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>、アンジアン<ruby><rb>娯楽場</rb><rt>カジノ</rt></ruby>の不夜城はキラキラと美しく<ruby><rb>水</rb><rt>み</rt></ruby>の<ruby><rb>面</rb><rt>も</rt></ruby>に映っている。時はちょうど九月の末、雲間を洩るる星の瞬きが二ツ三ツ。肌寒い風は水面を静に渡ってゆく。

アルセーヌ・ルパンはとある<ruby><rb>東亭</rb><rt>あずまや</rt></ruby>の中で、煙草を<ruby><rb>燻</rb><rt>くゆ</rt></ruby>らしていたが、やおら身を起すと桟橋の端近く水面を覗き込むようにして、

『オイ、グロニャール……ルバリュ……<ruby><rb>居</rb><rt>お</rt></ruby>るか？』

声に応じて両方の<ruby><rb>端艇</rb><rt>ボート</rt></ruby>の中からヌッと現れた男、

『ヘエ、居りやす』

『用意をしろ。自動車の音がする。ジルベールとボーシュレーが帰って来たぞ』

云い捨てて彼は庭園に戻り、新築中と見えてまだ足場のかかっておる家を一廻りして、サンチュール街に向いた門の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>をそっと押せば、怪物の眼の様な<ruby><rb>前灯</rb><rt>ヘッドライト</rt></ruby>がサッと流れて、巨大な自動車がピタリと止った。中から外套の襟を立て、帽子を真深に<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>った二人の男が飛び出した。果してジルベールとボーシュレーとであった。ジルベールは二十一二の<ruby><rb>温和</rb><rt>おとなし</rt></ruby>そうな容貌、見るからに華奢な、そして活気のある青年であったが、ボーシュレーの方は丈の短い、<ruby><rb>髪毛</rb><rt>かみげ</rt></ruby>のちぢれた、蒼い顔に凄みのある男であった。

『オイ、どうした。代議士は？……』とルパンが尋ねた。

『ヘエ、見込通りに、七時四十分の汽車で<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリー</rt></ruby>へ<ruby><rb>出発</rb><rt>た</rt></ruby>ったのを見届けました』とジルベールが答えた。

『じゃあ、思う存分仕事が出来るな』

『そうです。マリー・テレーズの別荘はこちとらの自由勝手でさあ』

ルパンは運転台に<ruby><rb>居</rb><rt>お</rt></ruby>る運転手に向って、

『ここに居ちゃ<ruby><rb>拙</rb><rt>まず</rt></ruby>い、正九時半にまたここへ来い、ドジさえふまにゃ荷物が積めるから…………』

『ドジだなんて縁起でもねえじゃありませんか？』とジルベールが不平だ。自動車はいずこともなく引返して行った。ルパンは二人を連れて湖水の方へ歩きながら、

『だってさ、今夜の仕事はおれの目論んだ事じゃあないからなあ。おれが自分で目論んだ事でなきゃ半分しか<ruby><rb>信用</rb><rt>あて</rt></ruby>にしないんだ』

『冗談でしょう、<ruby><rb>首領</rb><rt>かしら</rt></ruby>、わっしだって親方の御世話になってから三年になりますもの……ちったあ手心も解って来てますよ……』

『そりゃ、解っておるだろうさ。それだけになお心配なんだ……さあ乗り込んだ……ボーシュレーは、そっちへ乗れ……よし……出した……出来るだけ<ruby><rb>静粛</rb><rt>しずか</rt></ruby>に漕ぐんだぞ』

グロニャールとルバリュの二人はカジノの少し<ruby><rb>左手</rb><rt>ゆんで</rt></ruby>に当る向う岸に向って一直線に漕ぎ出した。途中で一隻のボートに会った。しばらくするとルパンはジルベールの<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ寄って低声で、

『オイ、ジルベール。<ruby><rb>此夜</rb><rt>こんや</rt></ruby>の仕事を計画したなあお<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>か、それともボーシュレーか？』

『誰って事はないんです……<ruby><rb>二月</rb><rt>ふたつき</rt></ruby>ばかり<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>から二人で相談してたんです』

『だがな。おれはあのボーシュレーて奴は信用出来ないんだ……あいつはどうも<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>が悪い……腹黒な野郎だ……なぜおれは早くあいつを追い出してしまわなかったかと思っておるくらいなんだ。どうもあの野郎は気に入らねえ。危険人物だ。しかし確実にドーブレク代議士の出て行くのを見たんだな？』

『現在この眼で見たんでさあ』

『<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリー</rt></ruby>へ誰に会いに行ったか知ってるか？』

『芝居へ行ったんです』

『フム。だが召使どもが残っておるはずだが……』

『<ruby><rb>飯焚女</rb><rt>めしたきおんな</rt></ruby>は帰ってしまいましたし、ドーブレク代議士が信用してるレオナールて男は、主人を迎えかたがた<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリー</rt></ruby>へ行きましたから、一時を過ぎなきゃ、<ruby><rb>大丈夫</rb><rt>でえじょうぶ</rt></ruby><ruby><rb>帰</rb><rt>けえ</rt></ruby>って来ません』

『それで襲うたのは、あの公園に<ruby><rb>囲繞</rb><rt>かこ</rt></ruby>まれておる別荘か？』

『そうです、マリーテレーズ別荘ってんです。それに庭続きの両側の別荘ですね。あれが五六日前から明いておるんですから、全くこちとらにはお誂向きでさあね』

『フム、余り簡単過ぎる仕事で、興味がないな』

とルパンが不足らしく呟いた。

船は<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>る様に湖水を渡って小さな入江に横付けとなった。彼等は五六階の石段を上って上陸したが、<ruby><rb>木</rb><rt>こ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>隠れになっていて、品物を運び出すには実に<ruby><rb>倔強</rb><rt>くっきょう</rt></ruby>の場所であった。

『オイ別荘に人が<ruby><rb>居</rb><rt>お</rt></ruby>るようじゃないか、見ろ、あれを……<ruby><rb>灯火</rb><rt>あかり</rt></ruby>が点いてる』

『ありゃあ、<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>がす</rt></ruby>です……ホラネ、動かないじゃありませんか……』

グロニャールは<ruby><rb>短艇</rb><rt>ボート</rt></ruby>の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に残って見張りの役を承わり、ルバリュは大通りに面した、新築の家の鉄門に張り込み、ルパンと二人の部下とは暗の中を<ruby><rb>匍</rb><rt>は</rt></ruby>って門口まで忍んだ。ジルベールが真先に立って、<ruby><rb>手捜</rb><rt>てさぐ</rt></ruby>りで玄関の鍵穴に合鍵を挿し込んで難なく<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を開け三人が吸い込まれる様に室内へ入った。客間には瓦斯が<ruby><rb>明々</rb><rt>あかあか</rt></ruby>と<ruby><rb>点</rb><rt>とも</rt></ruby>っていた。

『盗み出そうって<ruby><rb>品物</rb><rt>しな</rt></ruby>はどこにあるんだい？』

『野郎は馬鹿に用心深い奴で、品物は自分の室とその隣の室へ集めてあるんです』

ルパンは<ruby><rb>窓布</rb><rt>カーテン</rt></ruby>の方に進むが早いかサッとそれを開いた。途端、左の戸口から、ヌッと出た人の顔、<ruby><rb>真青</rb><rt>まっさお</rt></ruby>な色をして目をぱちくり、

『アッ、助けてッ！　人殺し――』

と叫びながら室の中に逃げ込んだ。

『や、レオナールだ。書記だ！』とジルベールが叫ぶ。

『ふざけた真似をしやあがると、叩っ殺すぞ！』と、ボーシュレーが怒鳴りながら書記の後を追った。

彼は最初に食堂に飛び込んだ。そこにはまだ皿や酒瓶が並んでいた。レオナールは室の隅に追いつめられて窓を開けて逃げようと藻掻いていた。

『コラッ、静かにしろ！　動くなッ！……アッ、畜生ッ……』

バッタリ床上に身を<ruby><rb>俯</rb><rt>ふ</rt></ruby>せる刹那、三発の銃声、薄黒い室の片隅にパッと火花が散る。間もあらばこそ、書記の身体がドッと倒れた。ルパンが早くも足を掬ったのだ。彼はいきなり相手の武器を奪うと同時にその喉を絞め上げた。

『畜生、ふざけやあがって！　……すんでの事で<ruby><rb>射</rb><rt>や</rt></ruby>られる所だった……オイ、ボーシュレー、こやつをふん縛れ、愚図々々しちゃいられないぞ……ボーシュレー、<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>を持って、二階へ行こう』

彼はジルベールの腕を掴んで引きずる様にして二階へ登った。

『馬鹿。人様の<ruby><rb>御宅</rb><rt>やしき</rt></ruby>へ頂戴に推参する時はな、万事抜目なく心得てからにするのだよ。え、解ったか。ボーシュレーでも御前でもいい間抜けだわい……』

とは云ったものの室内の品物を見渡した時には、ルパンの怒気もやや和らいだ。そこには好事家の垂涎三千丈すべき数万金に値する家具家什ばかり。ルパンはしばし我れを忘れて恍惚とした。

やがてジルベールとボーシュレーとはルパンの指揮に従って敏速な活動を開始した。物の三十分とも経たない内に一隻のボートに一杯になった。グロニャールとルバリュとはこれを例の門前に待たしてある自動車に積み込むために出かけた。

ルパンは<ruby><rb>端艇</rb><rt>ボート</rt></ruby>の漕ぎ出したのを見とどけてから、再び<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>へ引き返して玄関を通ると、ふと事務室の方に当って人声が聞えた。早速そこへ入って見ると書記のレオナールが<ruby><rb>高手籠手</rb><rt>たかてこて</rt></ruby>に縛されて床の上に俯伏せに倒れていた。

『オイ、コラッ、唸っておるのは秘書官閣下か？　まあ亢奮しないで待っていろよ。モウすぐ終るからな。君がギャギャやかましい声を立てると、厭でも痛い目に合わせなきゃならないてものさ。……まあ、辛抱しろよ……』

と云い棄てて階段を<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>ろうとすると、またもや同じ声が聞こえる。耳を澄ますと、それは<ruby><rb>嗄</rb><rt>しゃ</rt></ruby>がれた、<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>く様な声で確かに書記の<ruby><rb>居</rb><rt>お</rt></ruby>る室から来るらしい。

『助けてくれ！　……人殺し！　……助けてくれ！　……殺されそうだ……警察へそう云ってくれ……』

『<ruby><rb>奴</rb><rt>やっこ</rt></ruby>さん、気が狂ったんだな』とルパンは呟いた。

『畜生、今頃警察々々って騒いだってどうなるものか、馬鹿野郎めが……』

彼は委細構わず仕事を続けたが、後から後から珍品が出て来てどうしても残す気になれなかったのと、今一ツにはボーシュレーとジルベールが下らぬものに目を付けて熱心に捜し廻ったために案外時間がかかった。

ついに彼も辛抱し切れなくなって、

『もうたくさんだ。いくら<ruby><rb>目星</rb><rt>めぼ</rt></ruby>しいからって洗いざらい持って行かれるものじゃあない。自動車も待っておるんだ。さあ<ruby><rb>端艇</rb><rt>ボート</rt></ruby>に乗ろうよ』

彼等は湖水の岸まで来た。ルパンは先に立って階段を下りた。とジルベールがその袖を引いて、

『ねえ、<ruby><rb>首領</rb><rt>かしら</rt></ruby>、もう一遍ぜひ捜したいんです。たった五分間でいいから捜さして下せえ』

『え、なぜだい、もう大抵にしろよ』

『実ァこうなんです……何んでも話に聞くにゃあ、古い<ruby><rb>聖骨匣</rb><rt>せいこつばこ</rt></ruby>があるんでさあ……実に素敵なんですって……』

『それがどうだ？』

『それがまだ見付からねえんです。で今ふと考えたんですが、事務室……あそこに大きな戸棚があるんですが、あいつがどうも怪いと、思うんですから……』

と云いも終らぬ内に彼はもう玄関の方へ駈け出した。と同じくボーシュレーも同じくその後を追った。

『オイ。十分間だぞ……それ以上は待たねえぞ』とルパンは<ruby><rb>後方</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から声をかけた。『十分間経ったら置き去りだぞ。よいか』

十分はすぐ経ったが、ルパンはまだ二人を待っていた。彼は時計を出して見た。

『九時十五分か……正気の沙汰じゃあない』

と呟いたが、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>品物を持ち運ぶ時からしてボーシュレーとジルベールの二人の様子がはなはだ不思議で、何かお互に気を配り合っておる様であった事を思い出した。彼等二人は果して何をしているだろうか？

ルパンは云いしれぬ不安を感じてきたので知らず知らず二三歩引き返した。この時、遠くアンジアンの方面から大勢の靴音が<ruby><rb>聞</rb><rt>きこ</rt></ruby>え、それが次第に近づいて来る……疑いもなく警官の一隊だ……ルパンは激しく一声ピッと口笛を吹いた。そして大通を偵察しようとして鉄門の方へ走って、門の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>へ手をかけた途端、家の中から一発の銃声、続いてアッと<ruby><rb>消魂</rb><rt>たまぎ</rt></ruby>る叫び。

彼れは素早く身を<ruby><rb>翻</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>して家を一周して、食堂へ飛び込んだ。

『馬鹿野郎ッ！　何を<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>達ァ<ruby><rb>為</rb><rt>や</rt></ruby>ってるんだッ』

見ればジルベールとボーシュレーとは組んづ<ruby><rb>解</rb><rt>ほぐ</rt></ruby>れつの大挌闘、血塗れになって床の上を上になり下になって転々しておる彼等の衣服は血だらけだ。ルパンが飛びかかって二人を引き分けようとする時、早くもジルベールは相手を組み伏せてルパンの気付かぬ間にその手から何ものかを<ruby><rb>引奪</rb><rt>ひったく</rt></ruby>った。ボーシュレーは肩に受けた傷にそのまま正気を失ってしまった。

『誰れが<ruby><rb>傷</rb><rt>や</rt></ruby>っ付けたんだ？　貴様か、ジルベール？』と激怒したルパンが恐ろしく問いつめた。

『いいえ……レオナールです……』

『何ッ？　レオナール？　縛られてるじゃないか……』

『縛られていを縄を解いて、ピストルで……』

『畜生ッ。どこに<ruby><rb>居</rb><rt>お</rt></ruby>る？』

ルパンはランプを提げて事務室へ入った。

書記は<ruby><rb>仰臥</rb><rt>あおむけ</rt></ruby>に倒れて手足を突張り、<ruby><rb>咽</rb><rt>のど</rt></ruby>には<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>が突刺さって、顔色は紫色に変っていた。そして口からは一線の生血がタラタラと流れて、

『アッ』と云ったルパンは書記の<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を調べたが呟く様に『死んでおる！』と大息した。

『エッ、ほんとうですか？……ほんとうですか？……』

とジルベールは声を震わせた。

『<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>しく死んでおる』

ジルベールはオロオロ声になって、

『ボーシュレーです……<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を一突にしたんです……』

怒心頭に発し、顔色も<ruby><rb>真蒼</rb><rt>まっさお</rt></ruby>になったルパンはいきなりジルベールの肩を掴んで、

『ボーシュレーの仕業……して貴様も……こ、この間抜ッ！　貴様は<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に居て、なななぜ止めないんだ。……血！　血！　見ろ、この血を！　俺は血は大嫌いだ、人を殺さんのが俺の主義だって事を知っとるじゃないか。ああ、飛んでもない事をしやあがった。人を殺せば<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れも殺される。……これほどの<ruby><rb>大事</rb><rt>だいじ</rt></ruby>が解らんか、断頭台が目に入らんか……馬鹿ッ！』

<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>の死骸を見ると彼の怒りはますます激しくなって、手荒くボーシュレーを小突き廻しながら、

『なぜだ？……ボーシュレー、なぜ人殺なんぞしたんだ？』

『あいつが戸棚の鍵を取ろうと書記の<ruby><rb>懐中</rb><rt>ポケット</rt></ruby>へ手を突き込もうとするといつのまにか縛ってあった腕の縄を解いていたんです。……だから泡食って突いたんです』

『だが<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>の<ruby><rb>短銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>の音は？』

『ありゃ、レオナールです……<ruby><rb>短銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>を握っていたんで……死ぬ前に一発撃ったんです……』

『戸棚の鍵は？』

『ボーシュレーが<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>りました……』

『戸棚を開けたか』

『へえ』

『<ruby><rb>発見</rb><rt>みつ</rt></ruby>かったか？』

『へえ』

『で、貴様がボーシュレーからそいつを取り返したんだな？　……匣か？　いやそれにしちゃあ小さすぎる……何んだ品物ァ……云えッ……』

黙ってしまった様子にジルベールが白状しないと早くも見て取ったルパンはジロリと物凄い眼を向けて、

『フン。話さなきあよいが、おれはルパンだぞ。きっと白状させてやるから……だが今は愚図々々しちゃあおられねぇぞ。……まあ手を借せ……ボーシュレーを<ruby><rb>端艇</rb><rt>ボート</rt></ruby>まで運んでやらにゃあならんから……』

彼は再び食堂に戻った。そしてジルベールがボーシュレーの身体に手をかけようとした時、ルパンが、

『シッ！　聞けッ！』

と云って二人は不安らしい眼を見交した。事務室の方から声が洩れて来る……低い低い声で、よほど遠方から来る様だ……がしかしそこには誰も居ないはずだ。書記の血に<ruby><rb>染</rb><rt>にじ</rt></ruby>んだ死骸より<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>には<ruby><rb>何人</rb><rt>なんぴと</rt></ruby>も居ようはずが無い。

怪しの声は再び聞えて来た。ある時は鋭く、ある時は息の詰る様に、唸る様に、吠える様に、悲しげに、恐ろしげに、意味も解らぬ片言がどこからともなく聞えて来る。

さすが豪胆のルパンも全身冷水を浴びた様に<ruby><rb>慄</rb><rt>ぞっ</rt></ruby>とした。この物凄い、無気味な墓場の底から出て来る悲鳴は、果して何んだろうか？

彼は書記の死骸を覗き込んだ。声はハタと<ruby><rb>杜絶</rb><rt>とだ</rt></ruby>えたがまた聞えて来る。

『もっと<ruby><rb>灯火</rb><rt>あかり</rt></ruby>をこちへ』とジルベールに云った。

彼は云いしれぬ悪寒がする様なのを<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>める事が出来なかった。が怪しい声は確かにここから出て来ると思った。ジルベールが点けた<ruby><rb>灯火</rb><rt>あかり</rt></ruby>でよく見ると、声は確かに死骸から出るのだが、その死骸は氷の様に冷たく、硬直して、血に染った唇は微動だにしていない。

『<ruby><rb>首</rb><rt>か</rt></ruby>、<ruby><rb>首領</rb><rt>かしら</rt></ruby>、どうしたんでしょう』とジルベールは歯の根も合わず<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>えておる。

ルパンは突然プッと<ruby><rb>噴飯</rb><rt>ふきだ</rt></ruby>した。そして死骸を<ruby><rb>攫</rb><rt>つか</rt></ruby>んでグイと<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ押し転がした。

『そうだ！』と云って何やら光った黒いものを引っぱった。『……さうだ！やっと解った……ハハハハこれだこれだ。すぐに気が付きそうなものだったが、馬鹿におどろかされたもんだて』

見れば死骸の下に電話の受話器がある。そしてその<ruby><rb>紐</rb><rt>コード</rt></ruby>は壁に取付けられて電話機につながっていた。ルパンは受話器を耳に押し当てた。とまもなく声が聞こえて来た。人々の呼んだり叫んだりする声――大勢の人々があわてふためいて<ruby><rb>一時</rb><rt>いちじ</rt></ruby>に色々な事をがやがや怒鳴っているのであった。

『……オイ、そこに<ruby><rb>居</rb><rt>お</rt></ruby>るか？……返事がないぞ……こりゃ大変だ……<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>られたかもしれんぞ……オイそこに居るか？……どうしたどうした？……オイ<ruby><rb>確乎</rb><rt>しっかり</rt></ruby>せい……警察からも出かけたぞ……警官も……憲兵も出かけたぞ……』

『エイ、勝手にしろ』とルパンは受話器を<ruby><rb>投</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出した。

初めルパン等が懸命に品物の運搬をしておる間に、レオナールは余り堅く縛してなかったのを幸い、その縄を解いて電話機の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>まで転がって行って、受話器を口に<ruby><rb>啣</rb><rt>くわ</rt></ruby>えて床の上に下ろし、それからアンジアンの電話局へ救助を叫んだのだ。

ルパンが最前<ruby><rb>艇</rb><rt>ふね</rt></ruby>の出るのを見送って内へ入る時驚かされた<ruby><rb>叫声</rb><rt>さけびごえ</rt></ruby>『助けてくれ……助けてくれ……殺されそうだ……』と云ったのは書記が必死になって交換局へ救いを叫んだ時だったのだ。今がやがや言っておるのは交換局からの返事だ。警官隊は時を移さず駈け付けて来た。ルパンは四五分とも経たぬ今の先、庭園の方に当って聞こえた人声を思い出した。

『警官だ……さあ出来るだけ逃れるんだ』と云って食堂を駈け出そうとする。

しかしこの時正気付いたボーシュレーは苦しい声を絞って、

『<ruby><rb>首領</rb><rt>かしら</rt></ruby>。見捨てて行くんですかい、こんなになっておる<ruby><rb>私</rb><rt>わっし</rt></ruby>を……』

身に迫る危険を捨ててルパンは立ち止った。そしてジルベールに手伝わしつつ負傷者を抱き上げた時、すでに戸外に人の迫った気配。

『<ruby><rb>失敗</rb><rt>しま</rt></ruby>った！』と叫んだ。

この時家の裏手の入口の戸を割れよとばかりに乱打する。彼等は廊下の戸口へ走った。と見る警官隊は早くも家を包囲して無二無三に突き入ろうとしている。彼はこの隙にジルベールを<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて湖水の岸まで逃げようかと思った。しかし逃げたとしても<ruby><rb>背面</rb><rt>うしろ</rt></ruby>からあびせられる敵の砲火にどうして湖水を渡れよう？とそう思うと、彼はつと戸を閉じて<ruby><rb>閂</rb><rt>かんぬき</rt></ruby>を下した。

『もう手が廻ったッ……やられたッ……』とジルベールは<ruby><rb>狼狽</rb><rt>あわ</rt></ruby>てた。

『黙れッ！』とルパンが云った。

その時、ルパンは石像の様に突立っていた。その顔色は、悠然として全く平静に、その態度は泰然としてあらゆる事象の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に形勢の機微を洞察せんとするもののごとく熟慮していた。これぞ彼のいわゆる「無念無想の妙諦」に<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>る時であって、彼の<ruby><rb>真骨頭</rb><rt>しんこっとう</rt></ruby>を発揮する瞬間であるのだ。身に迫る危険、<ruby><rb>擾乱</rb><rt>じょうらん</rt></ruby>の<ruby><rb>渦</rb><rt>うずまき</rt></ruby>の中に投ぜられた時、彼は静かに『一……二……三……四……五……六……』と数を読み初める。かくする事一二分、心臓の鼓動は鎮まって、無念無想の妙境に達する。この瞬間、彼が魔のごとき洞察力、彼が満身の勢力、彼が徹底せる熟慮と<ruby><rb>深瀾</rb><rt>しんらん</rt></ruby>のごとき遠謀とが渾然として湧出して来る。しかしてその澄み切った心鏡に映るあらゆる形勢と現状とに対して、彼は論理的に考察し、確実に予見する事が出来るのであった。

三四十秒後悠然と落ち着き払った彼は、二人の部下を伴うて、向いの庭に面した窓の<ruby><rb>框</rb><rt>かまち</rt></ruby>をそっと押して戸外の様子を<ruby><rb>覗</rb><rt>うかが</rt></ruby>った。外には人々が右往左往しておる物々しさ、逃走なぞ到底出来そうにもない。そこで彼は<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>につまる様な大声を上げて、

『こいつだ！　……手伝ってくれッ！　曲者を<ruby><rb>捕</rb><rt>とら</rt></ruby>えたぞッ！……ここだここだッ！』

と怒鳴ると共にピストルを出して庭の木の間へ二発撃った。彼は倒れて居るボーシュレーの<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ走って、その傷口から出る血を、自分の手や顔に<ruby><rb>塗</rb><rt>なす</rt></ruby>り付け、ジルベールに手がかかるや否やいきなり物をも云わず投げ倒した。

『な、なにをするんです、<ruby><rb>首領</rb><rt>かしら</rt></ruby>。酷いじゃありませんか！』

『何んでもいいから俺に任せろ』とルパンは命令口調で云った。『きっと好い様にしてやる。……お前達二人は俺が引き受けた……しかし、それにゃあ俺が自由でなけりゃならんのだ』

人々は声する方に集まって、開け放した窓の下で騒いでおる。

『ここだッ！』と彼は再び叫んだ『ここだァ！　<ruby><rb>捕</rb><rt>とら</rt></ruby>えた、早く手をかしてくれ……』

と云うと静かに低い声で、

『気を落ち付けろ……何か云う事はないか？　……打ち合しておく事はないか？……気を落ち付けて巧くやるんだ……』

余りに狼狽したジルベールにはルパンの謀計を了解する<ruby><rb>由</rb><rt>よし</rt></ruby>もなく、<ruby><rb>徒</rb><rt>いたずら</rt></ruby>に亢奮して<ruby><rb>悶</rb><rt>もが</rt></ruby>き騒いだ。ボーシュレーは別に何等の抵抗もせず自暴自棄の体<ruby><rb>で</rb><rt>てい</rt></ruby>で、ジルベールの態度を<ruby><rb>嗤</rb><rt>あざわ</rt></ruby>らって、

『ヤイヤイ。任して置きねえて事よ。<ruby><rb>愚物</rb><rt>どじ</rt></ruby>……<ruby><rb>首領</rb><rt>かしら</rt></ruby>をうまく落さにゃならねえんじゃねえか……よッ、こいつが<ruby><rb>第一</rb><rt>でえいち</rt></ruby>だァな……』

ふとこの時ルパンは<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>ジルベールがボーシュレーから奪って<ruby><rb>懐中</rb><rt>ポケット</rt></ruby>へねじ込んだもののある事を思い出した。そしていきなりジルベールの<ruby><rb>懐中</rb><rt>ポケット</rt></ruby>へ手を突込んだ。

『アッ。<ruby><rb>不可</rb><rt>いけ</rt></ruby>ねえ……こればっかりは<ruby><rb>不可</rb><rt>いけ</rt></ruby>ません』と彼は身を藻掻いた。

ルパンは再び彼を床上に叩き付けた。この時二人の警官が窓から飛び込んで来たのを見て、ジルベールも観念したか、そっとその品をルパンの手に渡した。ルパンは咄嗟の場合品物を<ruby><rb>検</rb><rt>あらた</rt></ruby>めもせずそのまま<ruby><rb>懐中</rb><rt>ポケット</rt></ruby>へ<ruby><rb>捩</rb><rt>ね</rt></ruby>じ込んだ。ジルベールは咡く様に、

『<ruby><rb>首領</rb><rt>かしら</rt></ruby>、この品は……いずれ話します……<ruby><rb>首領</rb><rt>かしら</rt></ruby>なら確かに……』

と云いも終らぬ内に二人の警官及その他の人々は四方からドッと踏み込んで来た。

ジルベールがたちまち高手籠手に<ruby><rb>縛</rb><rt>いまし</rt></ruby>められたのでルパンも<ruby><rb>太息</rb><rt>といき</rt></ruby>して起ち上った。

『いや、御手数です。大した事はなかったんですが……かなり骨を折せやあがった……私は一人を<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>っ<ruby><rb>付</rb><rt>つ</rt></ruby>けておいてこいつを』

『だがこの家の書記は見えませんが？……殺されましたか……』と警部が<ruby><rb>慌</rb><rt>あわただ</rt></ruby>しく訊ねた。

『知りません。私は人殺しと聞いてあなた方と一緒にアンジアンから来たのですがあなた方は家の<ruby><rb>左手</rb><rt>ゆんで</rt></ruby>に御廻りなさったから、私は<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>に廻ったのです。来てみると窓が一ツ開いておる。で私は早速その窓から中へ入ろうと思うと、二人の強盗が窓から飛び出そうとしていましたので、手早く一発撃ったのです、こいつに――』

と云ってボーシュレーを<ruby><rb>指</rb><rt>ゆびさ</rt></ruby>した。『それからこっちの奴に組付いたのです』

この際誰れがこれを疑ぐろう？　彼は血に<ruby><rb>塗</rb><rt>まみ</rt></ruby>れておる。彼は書記殺しの兇賊二名を<ruby><rb>捕</rb><rt>とら</rt></ruby>えたのだ。十数名の人々は彼が兇賊と猛烈な挌闘を演じておる様を目撃した。

しかのみならず、多数の人が泡を<ruby><rb>喰</rb><rt>くら</rt></ruby>って大騒ぎに騒ぎ立てておる際、彼の言葉の辻褄の合わぬ事などに気の付く場合でなかった。

その内に事務室で書記の死骸が発見された。こうなるとさすがは警察官だけに事態重大と見て仮予審を開く事を忘れなかった。署長は関係者以外のものを全部<ruby><rb>庭内</rb><rt>ていない</rt></ruby>に去らしめ門の内外には巡査を配置して絶対に<ruby><rb>出入</rb><rt>でいり</rt></ruby>を厳禁し、直ちに兇行<ruby><rb>現場</rb><rt>げんじょう</rt></ruby>及証拠品の調査を開始した。

ボーシュレーは素直に姓名を自白したが、ジルベールは頑として応ぜず、裁判長の前でなければ名前を云わないと頑張った。しかし書記殺しの<ruby><rb>下手人</rb><rt>げしゅにん</rt></ruby>に至ると両人互に自分ではないと抗争し、果しなく言い募る。こうして警官の注意を他へ<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>らさぬ様にしてその間に首領を落そうと云う腹であったのだ。そんな深い<ruby><rb>謀</rb><rt>たくらみ</rt></ruby>とは知る由もなく署長は二人の争いには困惑して結局、両人を捕縛した人に証言を求めようと思って<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻したが紳士の姿はもうそこには見えなかった。署長は部下の警官を呼んで、その男を捜させた。警官は大声で呼んだが、返事が無い。

この時一人の兵士があわただしく駈け付けて来て、その紳士はたった今<ruby><rb>端艇</rb><rt>ボート</rt></ruby>に乗り込んで力限り向う岸へ漕いで行ったと報告した。

署長はジルベールの顔をジッと見詰めていたが、ハッと思うと始めて一杯喰わされた事を悟った。

『チェッ、<ruby><rb>失敗</rb><rt>しま</rt></ruby>ったッ。きゃつらを<ruby><rb>捕</rb><rt>とら</rt></ruby>えろ！　同、同類だッ。<ruby><rb>撃放</rb><rt>うちはな</rt></ruby>しても構わんッ、早く！』

と叫ぶと同時に二名の部下を連れて真先に飛び出した。水辺まで駈け付けてみると百<ruby><rb>米</rb><rt>メートル</rt></ruby>ばかり漕ぎ去ったかの男は、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を包む<ruby><rb>夕暗</rb><rt>ゆうやみ</rt></ruby>の中で、帽子を振っておる。

<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しまぎれに警官の一人が二三発発砲した。

水面を渡る微風のまにまに、不敵な<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>が悠々として漕ぎ去りつつ唄う船唄が流れて来る。

流れ浮き草……風吹くままに……

人も無げなるこの振舞いに地団駄踏んだ警官連、ふと見ると隣りの庭に一艘の舟が繋がれてあった。天の与えとばかり垣根を飛び越えた署長以下二人の警官は舟へ躍り込むや否や<ruby><rb>纜</rb><rt>とも</rt></ruby>切る間も遅しと湖中に漕ぎ出した。

折から雲間を洩れた月光を湖面一杯に浴びて二艘の<ruby><rb>端艇</rb><rt>ボート</rt></ruby>は矢の様に水上を<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>る。警官隊の舟は軽快な上に<ruby><rb>漕手</rb><rt>こぎて</rt></ruby>は二人である。速力の速さは比較にならぬと見て取った署長が満身の力を<ruby><rb>振</rb><rt>ふる</rt></ruby>って漕げば、不思議にも、両艇の距離は意外の早さをもって接近して来た。巡査はますます努力を加えた。小舟は矢よりも早く突進する。今は数秒後に敵に達するばかりだ。

『止れッ』と署長が叫んだ。<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>にすかしてかすかに見ゆる敵の姿は、身を<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>めて動かない。

『御用だッ！』と署長が叫ぶ。

月は再び雲に隠れて<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>は暗い。賊は早くも身構えた様子に、三人の警官はピタリと船底に身を伏せた。舟は惰性で真直ぐに突進した。しかし敵は依然として微動だにしない。

『神妙にしろッ……武器を棄てろッ、云う事を聞かないと容赦はないぞッ、<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>しか、そら一ツ……二ツ……』

三ツの声も聞かぬ内に警官は一斉に<ruby><rb>撃放</rb><rt>うちはな</rt></ruby>すや否や、オールに<ruby><rb>獅噛</rb><rt>しが</rt></ruby>み付いて、敵艇を突くまでに力漕した。

敵は依然として泰然自若、舟はジリジリと肉薄した。二名の警官は<ruby><rb>艫</rb><rt>ろ</rt></ruby>をかなぐり捨ててまさに敵艇に突撃せんとした刹那、『アッ』と云う驚きの声が三人の口を突いて出た。<ruby><rb>艇</rb><rt>ふね</rt></ruby>の中は藻抜けの殻だ――今まで敵だと思った人影は盗み出した品物を積み上げて、それに<ruby><rb>上衣</rb><rt>うわぎ</rt></ruby>を着せ帽子を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>せた<ruby><rb>案山子</rb><rt>かかし</rt></ruby>であった。

彼等は<ruby><rb>燐寸</rb><rt>まっち</rt></ruby>をすって賊の残した衣類を調べた。そこには書類も<ruby><rb>紙入</rb><rt>かみいれ</rt></ruby>もなく、ただ一ツ一枚の名刺があった。そこには怪賊アルセーヌ・ルパンの名が記されてあった。

これとほとんど同時刻に、アルセーヌ・ルパンは最初に出発した岸へ泳ぎついて、悠々と上陸した。そこには部下のグロニャールとルバリュが待っていたが、彼は慌しく二言三言云い棄てて、ドーブレク代議士の家から盗み出した品物を積み込んである自動車に飛び乗り、<ruby><rb>毛布</rb><rt>けっと</rt></ruby>をスッポリ頭から被り、そのまま人影杜絶えた夜の道をヒタ走りに走らせ、ニコーリー町の秘密倉庫で自動車を降りた。

マチニョン町にはジルベール以外一味の部下の<ruby><rb>何人</rb><rt>なんぴと</rt></ruby>も知らない瀟洒たる<ruby><rb>隠家</rb><rt>かくれが</rt></ruby>がある。ホッと息を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>いた彼れは直ちに<ruby><rb>衣服</rb><rt>きもの</rt></ruby>を脱ごうとして例の通り、寝床へ入る前に懐中しておるものを一々取り出して<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>の<ruby><rb>暖炉</rb><rt>ストーブ</rt></ruby>の上に置いた。<ruby><rb>紙入</rb><rt>かみいれ</rt></ruby>を出し鍵を出すと次にジルベールが捕縛される最後の瞬間にソッと自分の手に渡した品物のあったのに気が付いた。彼はそれを出してみて<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>した。<ruby><rb>硝子</rb><rt>がらす</rt></ruby>の水入れに付いてる様な水晶の栓で、打ち見たところ栓と云うより<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に何の変哲もない代物だ。<ruby><rb>強</rb><rt>しい</rt></ruby>て特徴と云えば栓の頭が<ruby><rb>多面体</rb><rt>ためんてい</rt></ruby>に刻まれて、中ほどくらいまで<ruby><rb>金色</rb><rt>こんじき</rt></ruby>に色を付けてあるくらいのもので、いくら見ても珍重するほどのものとは思われなかった。

『ボーシュレーとジルベールとがあれほどまで執念深く目を付けたのがこんな硝子の栓なのか？　この栓一箇のために書記を殺した、これのために二人して争奪をした。これのために時機を失った。これのために牢獄の危険を冒し……裁判も忘れ……断頭台も恐れなかったのか……<ruby><rb>可怪</rb><rt>おか</rt></ruby>しい、どうも不思議だ……』

不思議の謎を解きたいのは山々だが余りに疲労してこれ以上考えるに<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>えないので彼は問題の栓を<ruby><rb>暖炉</rb><rt>ストーブ</rt></ruby>の上に置いて、そのまま寝床へ入った。

彼は苦しい悪夢に<ruby><rb>魘</rb><rt>うな</rt></ruby>された。いかに藻掻いても、目に見えぬ糸で縛り上げられたごとく、一寸も動く事が出来ず、目の前には恐ろしい幻影、<ruby><rb>黒布</rb><rt>こくふ</rt></ruby>に覆われた物凄い棺桶、湯棺に代る最後の化粧、悲惨な断頭台の断末魔の光景がそれからそれと展開した。

『ああ、嫌な夢を見た』とルパンは一晩中魘されて、全身に汗をビッショリ掻きながら目が覚めた。『ああ嫌だ嫌だ。何んだか御幣が担ぎたくなる。気の小さな奴だったら、とても<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らないね。……だが、まあいいや、ジルベールだって、ボーシュレーだってこのルパンが手を貸せば、どうにでもなるんだ。どりゃ縁起直しに例の水晶の栓でも調べてみよう』

彼はムックリ起き上って<ruby><rb>暖炉</rb><rt>ストーブ</rt></ruby>の上へ手をかけた。と同時に<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッ！　と叫んだ。不思議、水晶の栓は跡形もなく消えて無くなった。

## ｟二｠九から八引く

<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>の品物紛失事件で彼自身が被害者の立場になったこの窃盗は、妙にルパンの心持を苛々させた。今彼の心中には二ツの問題が浮んだが、いずれも難解のものであった。第一に忍び入った神秘の曲者は何者であるか？　マチニョン街の<ruby><rb>隠家</rb><rt>かくれが</rt></ruby>を知っておるものは、彼のために特殊の秘書を勤めていたジルベールの<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>には無いはずだ。しかるにジルベールは現在獄裡に繋がれておる。万一ジルベールが彼にそむいて、警官をその隠家へ送ったと想像するか？　しからばなぜ当のルパンを捕縛せずに、水晶の栓ばかりを奪い去ったか。

しかしそれよりなおいっそう奇怪な問題がある。よしんば寝室の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を開けたとしても――<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を開けたことを認めねばならないが、しかも<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>には何等これを立証すべき形跡がない。しからばいかなる方法をもって寝室内へ忍び込む事が出来ただろうか？　毎夜、彼は<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>に鍵をかけて錠を下す事が<ruby><rb>永年</rb><rt>ながねん</rt></ruby>の習慣になって一夜でも忘れた事が無い。しかるに、鍵にも場にも何等手を触れた形跡が無いにもかかわらず、水晶の栓は確かに紛失しておるではないか。のみならずいかに熟睡していても暗中針の倒れる音にも目を覚ますルパンが、昨夜ばかりはカタと云う音すら聞かなかったのだ！

彼はこんな謎は事件の推移に従って自然と苦もなく明瞭になって来ると高を括って深くも頭を悩まそうとしなかった。しかし考えるといまいましくもあれば、また不安でもあるので、直ちにマチニョン街の<ruby><rb>隠家</rb><rt>かくれが</rt></ruby>を畳んでしまって、こんな縁喜でもない所へまたと足をふみ入れまいと決心した。

彼は差し当っていかにしてジルベールとボーシュレーの二人と通信せんかと苦心した。警察当局でもルパンの関係している以上、事重大と思惟しセーヌ・エ・オワーズ県地方裁判所の所管から事件一切を<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリー</rt></ruby>裁判所へ移し、ルパンに関する一般的証拠の蒐集に取りかかった。<ruby><rb>随</rb><rt>したが</rt></ruby>ってボーシュレーもジルベールもサンテ監獄に収監されることとなった。サンテ監獄にあっては特に警視総監の注意によって囚人とルパンとの間に何等かの方法で通信の行われる事を恐れて、最新かつ厳重な警戒をする事にした。ジルベールとボーシュレーとの身辺には昼夜の別なく巡査と看守とが厳戒して一分時でも目を放たなかった。

当時ルパンは、まだ刑事課長の椅子を占めていなかった（「８１３」及「黒衣の女」参照）ので、随って裁判所内に適宜の計画を実行する力もなく、二週間ばかりの苦心もことごとく水泡に帰してしまった。彼の心は憤怒に燃え、不安に襲われて来た。「事件の最も困難とする所は終局にあらずして、出発である」とは彼がしばしば云う言葉であった。『だとすると、どこから手を付けたらよかろうか。果していかなる道をとって進もうか？』

ルパンの考えはドーブレク代議士へ向けられて行った。硝子の栓はもともとドーブレクの所有であった。すれば彼がその値打を知らぬはずが無い。ところでまたジルベールがどうしてドーブレクの日常生活を<ruby><rb>知悉</rb><rt>ちしつ</rt></ruby>していたか？　いかなる方法を用いて捜索したか？　あの晩、ドーブレクが出かけた場所をどうして知ったか？　解決すべき興味ある問題がこの方面にたくさんある。

メリー・テレーズ別荘盗難以来、ドーブレクは<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリー</rt></ruby>の本邸に帰った。それはラマルチン公園の<ruby><rb>左手</rb><rt>ゆんで</rt></ruby>にあって、ビクトル・ユウゴオ街に面した家である。

ルパンは早速隠居風に変装して、杖をつきつきブラブラと散歩する風を装い、ユウゴオ街に面した公園のベンチに腰をかけて、それとなく<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>の様子を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>った。ところがまず最初の日に面白い事実を発見した。確かにその筋の人間と<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>しき労働者風の二人の男がドーブレクの邸を見張っていた。ドーブレクが外出するとその二人の男は彼に尾行し、彼が帰るとその<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から影の様について来た。夕方、<ruby><rb>灯火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>の点く頃になると二人の男が帰って行った。今度はルパンの方で二人の男に尾行した。彼等は警視庁の刑事であった。

しかし第四日目の夕景、二人の男の<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>へまた六人の男がやって来て、ラマルチン公園の薄暗い処で何かひそひそ語り合っていた。ルパンはその連中の中に有名なプラスビイユが混っておるのを見て驚いた。プラスビイユと云う男は前代議士で運動家に探検家を兼ね、何等かの秘密の理由で大統領の知遇を得、現在では警視総監となっておる男だ。

この時ルパンはふと思い出した。ちょうど今から二年ほど前に、バレ・ブールボンでプラスビイユとドーブレク代議士とが決闘を行った事がある。理由は誰れにも解らなかった。当日、プラスビイユは介添人を出したが、ドーブレクは決闘を拒絶した。この事があってからまもなくプラスビイユは警視総監に任命された。

『不思議……不思議……』とルパンはプラスビイユの動作を窺いながら考えた。

七時になるとプラスビイユの連中はアンリ・マルタン街の方へ<ruby><rb>散々</rb><rt>ちりぢり</rt></ruby>になった。するとまもなく邸の右側の小門が開いてドーブレクが出て来た。二人の刑事は直ちにこれを尾行して彼の後を追うてデブー行の電車に飛び乗った。プラスビイユはすぐ公園から出て邸の門の<ruby><rb>呼鈴</rb><rt>ベル</rt></ruby>を押した。鉄門の側から女中が出て来て門を開いた。しばらく何か話しておる様子であったがやがてプラスビイユ及び部下の一団が門内へ入った。

『ハハア、家宅捜索だな。秘密にやるらしい。こう云う事にはぜひ我輩も立会わずばなるまいテ』

彼は何等の躊躇なく、開けたままの門内へズカズカと入った。そこには最前の女中が<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>の様子を見張っていた。彼は待ち人でもあるかのごとく<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>き込んだ調子で、

『もう皆来ておるか？』

『ええ、書斎にいらっしゃいます』

彼の計画は簡単でただ立会検事の格でその<ruby><rb>現場</rb><rt>げんじょう</rt></ruby>を見ていさえすればいいのだ。彼は直ちに人の居ない玄関から食堂へ入った。そこから書斎に通じておる硝子戸を通してプラスビイユ及び一味の連中の様子は手に取るごとく見える。

プラスビイユは合鍵を利用して<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>全部を開けて取調べ、続いて戸棚の中を捜し廻る。一方四名の部下の連中は本箱から図書を一冊ずつ引っ張り出して<ruby><rb>頁</rb><rt>ページ</rt></ruby>を一枚二枚探り開け、はては<ruby><rb>背皮</rb><rt>せがわ</rt></ruby>まで突ついて見ておる。

『ああ、馬鹿々々敷い！……何も<ruby><rb>発見</rb><rt>みつ</rt></ruby>かりやせん』とプラスビイユが<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>った。

彼は古い<ruby><rb>酒壜</rb><rt>さけびん</rt></ruby>があったのを見て、一々その栓を引き抜いて調べた。

『しめしめ。いよいよきゃつも硝子の栓へやって来たわい！　すると書類なんぞじゃあないかな？　どうも解らなくなったぞこりゃあ……』とルパンは考えておる。

一時間半余りもプラスビイユは熱心にあらゆるものに手を付けて捜し廻ったが、一度手を触れた品物は元の通りの位置に置く事に注意していた。九時頃にドーブレクに尾行した二人の刑事が帰って来た。

『今帰って来ます！』

『徒歩か？』

『そうです』

『じゃ十分時間はあるな？』

『ございます』

プラスビイユと部下の刑事等は別段急いだ様子もなく、最後に室内をズッと見渡して、何等<ruby><rb>気取</rb><rt>けど</rt></ruby>られる様な痕跡のない事を確めた上悠々と引き上げた。ルパンの位置が困難になって来た。今出かけてはドーブレクに<ruby><rb>衝突</rb><rt>ぶつ</rt></ruby>かるので家から出る訳に行かない。仕方がない。虎穴に入らずんば虎児を得ずだ。今少しここで見ていてやろう――ルパンはそう思って食堂のカアテンの影に身を潜めて、じっと書斎の方を<ruby><rb>凝視</rb><rt>みつ</rt></ruby>めていた。

まもなくドーブレクが入って来た。頭はほとんど禿げていた。眼が悪いのか普通の眼鏡の上に黒眼鏡を二重にかけている。顎骨の角張って突出しておる所はいかにも精力絶倫らしい相貌で、手はすこぶる大きく、両脚は曲り歩くたびに<ruby><rb>脊</rb><rt>せ</rt></ruby>を曲げて妙に腰を振る<ruby><rb>形態</rb><rt>かっこう</rt></ruby>はちょうどゴリラの歩き振りを思わせる。とにかく獰猛な顔、頑丈な体格、相当蛮力を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>った男に違いない。彼は机の前に腰をかけて、<ruby><rb>懐中</rb><rt>ポケット</rt></ruby>からパイプを取り出し机上にあったマリーランド煙草の箱の封を切ってそれを詰めて<ruby><rb>燻</rb><rt>ふ</rt></ruby>かしながら、何やら手紙を書き初めた。

しばらくすると彼は何を思ったかふと書く手を止めて机の一点を凝視しながらじっと思案にふけっていた。と見る、ズイと手を延ばして机上の切手入の小箱を取り上げて調べていたが、続いてプラスビイユが手を触れた品物に目をそそぎ、一々覗き込んでは、手に取ってみて小首を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げていたが、彼自身のみに解る何等かの証跡を発見したらしく下女を呼ぶ電気<ruby><rb>釦</rb><rt>ぼたん</rt></ruby>を押した。まもなく門番の女中が入って来た。

『やって来たろう、え？』

女中が<ruby><rb>狼狽</rb><rt>どきまぎ</rt></ruby>しておると、

『オイ、クレマンス。この切手箱に手を触れたのはお前じゃあるまいね？』

『いいえ、どう致しまして』

『そうか。俺はね、この箱へ細い<ruby><rb>護謨</rb><rt>ごむ</rt></ruby>を巻き付けておいたのだ。その護謨紐が切れておる』

『だって、旦那様、私は……実はあの……』

『実はあの両方へ好い子になりたいのだろう……よしよし』

と云いながら彼は五十<ruby><rb>法</rb><rt>フラン</rt></ruby>の<ruby><rb>紙幣</rb><rt>さつ</rt></ruby>を握らせた。

『やって来たろう？』

『ハイ』

『春来た連中と同じか？』

『ハイ。皆で五人……それにも一人の方と……皆さんを指図なさる……』

『<ruby><rb>丈</rb><rt>せい</rt></ruby>の大きい？……<ruby><rb>茶褐色</rb><rt>ちゃかついろ</rt></ruby>の毛の？……』

『ハイ』

『それだけか？』

『もう一人後から入って来て皆と一緒になりました……それから、ええ、もう二人参りました。いつも邸の前で見張をしておる方々です』

『皆んなこの書斎に居たか？』

『ハイ』

『で、俺が帰ると云うので出かけたんだな？』

『ハイ』

『よろしい』

女中は引き<ruby><rb>退</rb><rt>さが</rt></ruby>った。ドーブレクは再び書きかけの手紙を書いた。それから手を延ばして、彼は机の一端にあるメモの用紙へ何か書いて、すぐ眼に付く様にそれを机上に立てかけた。これは一聯の数字で、ルパンが覗いてみると、

9 \- 8 = 1

ドーブレクは何か思案する様な様子で口の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>で呟いていたが、

『実に名算じゃ』と高声に云った。そしてなお一通の単簡な手紙を書き、それを状袋に入れた。ルパンは代議士が最前の引算の紙の傍へ手紙を立てかけたので、再び覗いてみると、

『警視総監プライスビイユ殿』としてある。

ドーブレクは再び女中を呼んだ。

『オイ。クレマンス。お前は子供の時に学校へ行って算術を習ったか？』

『まあ、旦那様……』

『と云うのは、お前は、引算に不得手と見えるからじゃ』

『なぜでございますか？』

『お前は九から八引く一残ると云う事を知らぬからじゃ。え、それが肝心の事だぞ。この定理を知らないと生きて行かれないぞ』

といいながら、彼は立ち上り、両手を<ruby><rb>脊</rb><rt>せ</rt></ruby>に廻して例のゴリラの様な歩き<ruby><rb>態</rb><rt>ぶり</rt></ruby>をしつつ室内をドシリドシリと濶歩していたが、やがて食堂の前へ来てその<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を開いた。

『問題は<ruby><rb>他</rb><rt>た</rt></ruby>にあらず、解くべきはただここのみじゃ。九から八引く一残る。残りの一はおおかたここだろう。そら、え？　やっぱり算法は争われぬものじゃね？　証明はかくの通り明かじゃて』

彼はルパンが急いで隠れた<ruby><rb>窓掛</rb><rt>カーテン</rt></ruby>のひだの所を軽く叩きながら、

『貴公、こんな所に居ると息がつまるよ。わしがここからズブリ一突きやったら、それまでじゃ……ね、飛んだハムレットとポロニャスの死が出来上がってしまう……ハムレットの文句じゃあないが「鼠じゃよ、しかも、大きな鼠じゃよ……」これ、ボロニャス殿、いやさ鼠殿、まあその穴から出て来さっしゃい』

ルパンは今までにこんな忌々しい屈辱な目にあった事が無かった。まるで袋の鼠同様の憂目、<ruby><rb>這々</rb><rt>ほうぼう</rt></ruby>の体たらくである。しかもこれに対してどうする事が出来ようか。

『顔色が少し青い様じゃ、ポロニャス殿、……オヤ、貴公はこの間中から邸の前を迂路付き廻った御隠居さんじゃな！　や、ポロニャス殿、貴公はやはり警視庁の御役人じゃろう？　まあまあ、落付くがよろしい。別に何ともしないよ……どうだ、クレマンス、俺の算術は確なものだろう。お前の話に依ると、ここへ入って来たものは九人だと云う。ところで俺が帰りしなに、街の遠くの方から勘定した時には連中は八人だった。九から八引く一残る。その<ruby><rb>御一方</rb><rt>おひとかた</rt></ruby>はここに残って、後の様子を<ruby><rb>覗</rb><rt>うかが</rt></ruby>っておるに違いなかろう。すなわち<ruby><rb>依而如件</rb><rt>よってくだんのごとし</rt></ruby>さ』

『なるほど、それから？』と云ったルパンはこの男に飛びかかって一撃の下に叩きのめし、グーの音も云わせぬ様にしたくてウズウズして来た。

『それから？　それだけさ何もありはしないよ。隠居はこれで大切さ。さあ、今書いたこの手紙を貴公等の親方、プラスビイユ君の所へ<ruby><rb>持</rb><rt>もっ</rt></ruby>て行くんだ。オイ、クレマンスや、ポロニャス殿を玄関まで御送り申上げろ。今後、この方がいらっしゃった時には、遠慮なく門を開けて、御勝手に御入りなさいと申上げろ、ポロニャス殿、さらばでござる……』

ルパンはちょっと躊躇した。こうなって来ると、何んとか見得を切らなければ花道の<ruby><rb>引込</rb><rt>ひっこみ</rt></ruby>が付かない。しかしこの場の敗北は散々の<ruby><rb>体為</rb><rt>ていたらく</rt></ruby>、いかんとも<ruby><rb>為様</rb><rt>しよう</rt></ruby>がないので、黙って引込むにしかずと考えた。そして帽子を引掴んで頭に叩き載せ、足音も荒々敷く女中に送られて玄関を出た。

『<ruby><rb>駑畜生</rb><rt>どちくしょう</rt></ruby>ッ』と門を出るや否や、ドーブレクの窓に向って叫んだ。『糞野郎！　悪党！　代議士！　貴様はよくも俺をこんな目に会わしやあがったな！　……ウヌッ、見ろ、貴様……覚えてやがれ、畜生ッ……よろしッ、野郎、この返報はきっと思い知らしてくれるから……』

彼の怒りは心頭に発した。しかしその心中に燃ゆる憤怒の影から彼は新しい<ruby><rb>敵手</rb><rt>あいて</rt></ruby>の力量を知った。そしてこれがこの事件の大立物たる事を否定する事は出来なかった。

ドーブレクの糞度胸、警視庁の猛者を向うに廻して平然たる自信力、勝手に家宅捜索をさせて嘲笑しておる不敵さのみならず、自己を<ruby><rb>覗</rb><rt>ねら</rt></ruby>う九人目の男がある事を知りつつ、その悠然落ち付き払っておる剛胆、傲岸、沈着、普通人の出来ない芸当で、すべてこれ歴々たる勝算あるもののごとき態度は、<ruby><rb>強力</rb><rt>ごうりき</rt></ruby>、不屈、剛気、闊達、大胆不敵、<ruby><rb>普一通</rb><rt>なみひととお</rt></ruby>りの人間ではない事を証明しておる。

しかしその勝算とは何か？　いかなる秘策を把持しておるか？　誰れが秘密の鍵を握っておるのか？　いかなる次第で敵味方に分れたか？　ルパンは全然何等知っていない。彼は相手の陣立も、武器も、勢力も、秘略も、何も知らずに、ただ<ruby><rb>盲目滅法</rb><rt>めくらめっぽう</rt></ruby>、無茶苦茶に双方の間に飛び込んでしまった形になっておる。しかしただ双方必死の努力の焦点となっておるのは一個の水晶の栓である事だけは知っておる！　ここに一ツ面白いのは、ドーブレクが彼の仮面を看破し得なかったことだ。ドーブレクは彼を刑事と思った。ドーブレクにしろ、警視庁にしろ、この事件の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>へ第三の怪物が飛び込んで来た事を未だに知らないでおる。それだけが彼の<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしょう</rt></ruby>だ。彼が最も重要視しておる行動の自由を得しむる唯一の身上である。

彼は何の遠慮もなく、最前ドーブレクが警視総監プラスビイユ宛に届けろと渡した手紙の封を切った。中にはこんな手紙が這入っていた。

「プラスビイユ君、君の手の届く処にあった。君はそれに手を触れた！　今一息、それでよかったんだ……が君は発見すべく余りに<ruby><rb>愚</rb><rt>おろか</rt></ruby>だ。我輩をして一敗地にまみれしむべく、君以上の発見をし得るものはまずない。あわれフランス！　

プラスビイユ、さようなら、しかし、今後もし<ruby><rb>現場</rb><rt>げんじょう</rt></ruby>で君を捕まえたらば、御気の毒ながら、捻り潰すよ。

プラスビイユ君。ドーブレク拝」

「手の届く処……」と読み終えたルパンが呟いた。『あのくらいな悪党になると思い切って真実の事をズバズバ云うものだ。最も簡単なる隠し場所は最も安全なりと云うからな。ともかくにだ……ともかくにと……取調べる必要があるぞ。なぜドーブレクがあの様に厳重に監視されておるか、一ツ大いに取調べる必要があるぞ』

ルパンが、早速秘密探偵局について取調べさせた処によると、

「アレキシス・ドーブレク。一昨々年ブーシュ・ドュ・ローヌ県選出代議士、無所属、政見は明瞭ならざるも、常に巨額の金員を散じて選挙民の好感を買い、地盤すこぶる強固なり。別に財産無し。しかれども<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリー</rt></ruby>本邸の<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>アンジアン及びニイスに別荘を有し、はなはだ贅沢なる生活を為せるも、その財源をいずこに求むるや不明。元来政界に特殊関係、または党派的勢力なきにもかかわらず、政府に対して絶大の勢力を有し、その要求の貫徹せざるものなし」

『こりゃ職業調査だ』とルパンは報告書を読み返しながら云った。『俺の要求するのは素行調査だ。秘密調査だ。本人の内的生活に関する報告だ。これがあれば暗中模索の俺の活動もまた非常に楽になるし、ドーブレクに<ruby><rb>関係合</rb><rt>かかわりあ</rt></ruby>って無駄骨を折るか折らぬかの見当がつくんだ！……フーム、こうしておる内にも時は経つ……』

当時ルパンが平素の住宅としていたのは、凱旋門の傍のシャートーブリヤン街であった。そこにミシェル・ボーモンという変名で家を借りていた。住心地のいい<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>で、アシルと云う腹心の部下と二人<ruby><rb>限</rb><rt>き</rt></ruby>り、この下男代りの部下がルパンに対して各方面から来る電話を細大もらさず主人に通じる役を引受けていた。

この家に帰ったルパンは女工風の女が一時間も前から尋ねて来て待っておると聞いて<ruby><rb>尠</rb><rt>すくな</rt></ruby>からず驚いた。

『何んだって？　だって今までに一人だって尋ねて来たものが無かったじゃないか？　若い女か？』

『いいえ、帽子も<ruby><rb>冠</rb><rt>かむ</rt></ruby>らず、頭からショールを被っていますから、顔はよく解りませんが……』

『誰れに会いたいてんだ？』

『ミシェル・ボーモンさんにと云いました』と下男が答えた。

『<ruby><rb>可怪</rb><rt>おかし</rt></ruby>いなあ。して用件は？』

『アンジアンの事件とだけしか云いません……ですから私は……』

『うむ！　アンジアン事件！　じゃあ女は俺がその事件に関係しておる事を知っておるんだな！……会おう！』

ルパンはズカズカと客間に行って、その<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を開けた。

『オイ、何を云ってるんだ。誰も居ないじゃないか』

『居ません、誰も？』とアシルが飛び込んで来た。室内は空っぽだ。

『アッ。こりゃ妙だ！』と下男は叫んだ。『三十分前に念のために覗いてみた時には、ここの椅子に坐っていたんです。ちっとも怪しい様子は無かったんですが……待ちくたびれて、帰りやがったんだ。<ruby><rb>畜生奴</rb><rt>ちくしょうめ</rt></ruby>、どこから失せやあがったんだろう！』

『どこから？　ったって、別に不思議がるにも当らないよ』

『エッ？』

『窓からさ。ホラ。この通り窓が開いているじゃないか……夕方になればこの町は人通りが無くなる……だからよ』

彼は<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻したが、別に何等の異状が無かった。室内には大した貴重な家具も無ければ、重要な書類も置いてない。<ruby><rb>随</rb><rt>したが</rt></ruby>って女の訪問の理由も、その突然不思議な消え方をした理由も解せなかった。

『手紙も来なかったか？』

『ええ今しがた一通来ましたので、あのお部屋の<ruby><rb>暖炉</rb><rt>ストーブ</rt></ruby>の上に置きました』

ルパンの部屋は客間の続きになっていたが、その間の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>には常に鍵がかけてあるので、彼は玄関から<ruby><rb>迂回</rb><rt>うっかい</rt></ruby>して行かねばならなかった。ルパンは電灯を点じたが、しばらくすると、

『オイ、手紙は見えないぞ……』と怒鳴った。

『そんなはずはありません？』

アシルはそう云ってその附近を引掻き廻すように捜したけれども、影も形もない。

『チェッ、畜生ッ……畜生ッ……あいつだ……あいつが盗んだんだ……手紙を盗んで逃出しやあがったんだ……太え<ruby><rb>女</rb><rt>あま</rt></ruby>め……』

『お前は手紙を見たか？　宛名は何と書いてあったか、覚えておるか？』とルパンは何かしら不安らしく云った。

『少し変な書き方でしたから覚えています。「ボーモン・ミシェル様」とありました』

『何ッ。きっとか？　ミシェルが、ボーモンの後に書いてあったかッ？』

『確かにそうでした』

『ああ……』とルパンは喉を絞め上げられる様な声を出して『ああ、ジルベールからの手紙だ！』

とばかり彼は不動不揺、やや蒼白になった顔には苦悶の浪が打ち出した。疑いもなくそれはジルベールからの手紙であったのだ。数年来彼は一見してジルベールからの手紙である事を知る必要から、時分の宛名に姓名の<ruby><rb>置換</rb><rt>おきかえ</rt></ruby>をさせていたのだ。冷酷な<ruby><rb>鉄窓裡</rb><rt>てっそうり</rt></ruby>に呻吟し、長い間の苦心惨憺！　厳重な獄裡の隙を<ruby><rb>覗</rb><rt>うかが</rt></ruby>いつつ一字一句におそれと悲しみを籠めて書いた手紙、待ちに待った獄吏の通信！　何が<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めてあったか？　不幸な囚人が何を訴えんとしたか？　いかなる救いを求めたか？

ルパンは室内を調べてみた。<ruby><rb>此室</rb><rt>ここ</rt></ruby>は客間と違い重要な書類があったが、しかし少しもそれ等の<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>には手を触れていない処から判断すると、怪しの女はジルベールの手紙をねらった<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>には何等の目的もなかった事が知れる。

そして残る問題はいかにしてその女が手紙を盗み出したかと云う事である。ルパンが調べた時には居間の内部から完全に鍵がかかって錠さえ下してあった。しかし一度出入りした以上どこかに入口が無ければならないのみならず<ruby><rb>僅々</rb><rt>きんきん</rt></ruby>数分時間の間に行われた行為とすると、それは必ず内部の隔ての壁に仕掛けがあって、その怪婦人が以前から知っておる場所であらねばならない。この推理から行くと壁面には何等の仕掛けを為すべき、またこれを覆い隠すべき何物も無い以上、それは必ず<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>に施されたものであるべきで、<ruby><rb>随</rb><rt>したがっ</rt></ruby>て調査の範囲がはなはだしく限定されて来る。

ルパンは再び客間に帰って<ruby><rb>扉口</rb><rt>とぐち</rt></ruby>を調べにかかったが一目見て愕然として戦慄した。一目瞭然、<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の羽目板は六枚の小板を合せたものであるが、その<ruby><rb>一番左手</rb><rt>ゆんで</rt></ruby>の板が変な具合に<ruby><rb>嵌</rb><rt>はま</rt></ruby>っておる。近よってよくよく見ると、その板は二本の細かい鋲で上下を止めてあるばかりで完全な嵌め込みになっていない。彼は鋲を外してみた。果然、羽目板はがたりと外れた。

アシルはアッと驚愕の声を挙げた。しかしルパンは嘲笑う様に、

『え、それがどうした？　やっぱり解らんじゃあないか？　この穴は横が七八寸で縦が一尺五寸ばかりしかない。とても普通の女がこれだけの間から通れるものじゃあない。いくら痩せていても高々<ruby><rb>十歳</rb><rt>とう</rt></ruby>までの子供がやっと通れるくらいじゃあないか！』

ルパンはやや暫くの間沈思していたが、突然、<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>へ飛びだして、急いで<ruby><rb>貸自動車</rb><rt>タクシー</rt></ruby>に飛び乗った。

『マチニヨン街へ……大急ぎだ……』

以前水晶の栓を盗まれた別荘の近くまで来ると彼はヒラリと自動車から降り、階段を駈け<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>って寝室の入口の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の羽目板を調べた。果然、案の定、そこも羽目板の一枚に細工がしてあった。シャートーブリヤン街の家同様に羽目板をはずすと肩まで入り得るくらいの穴があいたが、しかし、そこから上が錠にまではやはり手が届きそうにない。

『ウヌッ、残念！』と彼は唸った。二時間以来胸の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>で煮えくりかえる様になっていた憤怒の情は押え切れなくなってついに爆発した。『<ruby><rb>駑畜生</rb><rt>どちくしょう</rt></ruby>ッ！　どうしても俺には解らねえ』

不可解の問題が次ぎ次ぎに発生した。しかもそれが皆暗中模索の<ruby><rb>体為</rb><rt>ていたらく</rt></ruby>、いくら考えてもまとまりが付かなかった。ジルベールが彼に水晶の栓を渡した。ジルベールが彼に手紙を送って寄越した。それが皆一時に消えて無くなった。

今までに幾多の悪戦苦闘、冒険に冒険を重ねてきたさすがの彼も、こんな怪奇な障害に<ruby><rb>出会</rb><rt>でくわ</rt></ruby>した事は一度もなかった。

## ｟三｠怪代議士

刑事等が家宅捜索をやった日の翌日、ドーブレク代議士が昼飯を外で食って帰って来ると、女中のクレマンが彼を引き止めて、大変いい料理女を見付けたと告げた。

数分後御目見えに出て来た料理女は信用の出来る立派な身元証明書を<ruby><rb>持</rb><rt>もっ</rt></ruby>ていた。相当な<ruby><rb>年齢</rb><rt>とし</rt></ruby>のなかなか元気ものらしく、家事の仕事は人手を借らずにどんな事でも遣って<ruby><rb>除</rb><rt>の</rt></ruby>けると云う。ドーブレクの希望している、条件を全部そなえていた。それについ先頃まで議員ソールバ子爵の家に奉公していたというので、ドーブレクは早速電話で照会すると、同家の執事が出て来て、その婦人なら<ruby><rb>申分</rb><rt>もうしぶん</rt></ruby>ない料理女だからと云う返事であったので即座にこの女を<ruby><rb>傭</rb><rt>やと</rt></ruby>うことに<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>めた。彼女が<ruby><rb>行李</rb><rt>こうり</rt></ruby>などを持ち込むと、すぐに家の中の拭き掃除にかかり、食事の用意をした。

ドーブレクは夕食を済ますと、ブラリと出かけて行った。十一時頃女中のクレマンが寝てしまうと、料理女はそっと庭に降り、前後左右に深い用心をしつつ鉄門を半ば開いた。男がヌッと現れた。

『あなたですか？』

『そうだ、俺だよ、ルパンだよ』

彼女はルパンを、案内して三階にある自分の<ruby><rb>室</rb><rt>しつ</rt></ruby>へ引き入れた。

『また何か始めましたね。いつまでそんな事を<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>さるんです！　そしていつでもわたしを手先にして、ちっともこの婆やを気楽にさせては下さらないのですね』

『まあそう云うなよ。ビクトワール、（「813」及び「黒衣の女」参照）上品で、<ruby><rb>銭金</rb><rt>ぜにかね</rt></ruby>で動かされないものは他には無いからね、そんな時にはいつも婆やを思い出して、骨を折ってもらいたくなるんだ』

『そんな事をして、あなたは面白がっていらっしゃる。わたしを色々な危い所へ連れ込むのが面白いんでしょう、きっと！』

『でもまあ、何事も神様の<ruby><rb>思召</rb><rt>おぼしめし</rt></ruby>でございましょう……仕方がございません。……でわたしは、どんな仕事をするのですか？』

『まず第一に、俺を<ruby><rb>隠匿</rb><rt>かくま</rt></ruby>っておく事だ。この部屋の半分だけ俺に貸しておくれよ。俺は長椅子の上へ寝りゃたくさんだから、それからおれに必要なものを食わせてくれる事だ。それから今一つおれの云う通りに、おれと一緒に捜し物をするんだ』

『何を捜すんですか？』

『前に話した事のある貴重な品だ』

『何んですか、それは？』

『水晶の栓さ』

『水晶の栓！……まあ！妙なものを！もし見付からなかったら……』

ルパンは静かに彼女の腕を握って、真面目な調子で、

『それが見付からないと大変な事になる。そら知っているだろう、お前も可愛がっていたあのジルベールの首が無くなるんだ、ボーシュレーと一緒に……』

『ボーシュレーなんぞは構いませんよ、どうなったって……あんな悪党は……だが可哀想にジルベールが……』

『<ruby><rb>乳母</rb><rt>ばあや</rt></ruby>は今日の夕刊を見たろう？　<ruby><rb>事件</rb><rt>こと</rt></ruby>がどうも面白くないんだ。ボーシュレーは書記を殺した<ruby><rb>下手人</rb><rt>げしゅにん</rt></ruby>がジルベールだと云い張っている。ところが悪い事には、ボーシュレーの使った短刀はジルベールの持ってたものなんだ。それに今朝も有力な証人が出ている。<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>にしろジルベールは利口な様でも年が若いだけに度胸が出来ていないから、ちょっとした事実を隠してみたり、曖昧な陳述をしてみたり、あるいはつまらぬ事を云い抜けようとするから、ますます不利になってしまうと、こう云う訳なんだから、<ruby><rb>乳母</rb><rt>ばあや</rt></ruby>も一ツ大いに力になってくれ』…………

その夜、深更になって代議士が帰って来た。

以来数日間、ルパンはドーブレクと、生活を共にする様になった。彼がちょっとでも外出するとルパンは早速秘密捜索を行った。ルパンは彼一流の調査方法を講じた。すなわち各部屋を幾つにも<ruby><rb>区劃</rb><rt>くかく</rt></ruby>し、その一ツずつについて細心な注意と整然たる順序をもって研究するのだ。のみならず、代議士の一挙手一投足から、その無意識にする動作に、表情に、あるいはまた彼の読む書籍、彼の書く手紙、あらゆるものは一ツ残らず敏感なルパンの目をもって監視した。

ドーブレクの生活は極端に開放的であった。<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>という<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>は閉じてあった事が無い。訪問客は一人もない。その生活ははなはだしく単調で機械的になっていた。彼は午後に議会へ行き、夜は<ruby><rb>倶楽部</rb><rt>くらぶ</rt></ruby>へ行く。

『いやいやこう見えても必ずその<ruby><rb>裡面</rb><rt>りめん</rt></ruby>に何等かの清浄ならざるものがあるに相違ない』とルパンが云った。

『何もありやしませんよ。いつまで見ていたって無駄ですわ。<ruby><rb>間誤々々</rb><rt>まごまご</rt></ruby>していると私たちが縛られてしまいますよ』とビクトワールが反対する。

　実は刑事連中が<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>の前を毎日の様にブラブラしているのを見て少なからず気に病んでいるのである。ビクトワールは刑事連中の方ですでに自分等のことを嗅ぎ出して張り込んでいるんだと<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り<ruby><rb>極</rb><rt>ぎ</rt></ruby>めに思い込んでしまっていた。<ruby><rb>市場</rb><rt>しじょう</rt></ruby>へ買物に出るたびに、今にも御用だと云って肩を掴まれやしないかとヒヤヒヤしていた。

ある日、彼女は青くなって息せき切て駈け込んで来た。腕にかけている籠までガタガタふるえている。

『<ruby><rb>乳母</rb><rt>ばあや</rt></ruby>は、どうしたんだい？　<ruby><rb>真蒼</rb><rt>まっさお</rt></ruby>じゃないか』

『真蒼……でしょう？……ホントに<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>しました……』

ビクトワールはベタリと椅子に腰をかけて、しばらくドキ付く心臓を静めていたが、ようやく<ruby><rb>吃</rb><rt>ども</rt></ruby>りながら、

『知らない男が……知らない男が突然わたしの<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ来て……八百屋の店で……手紙を渡されたんですの……』

『ハハハハハ。それくらいのことで何も驚くことはないじゃないか……<ruby><rb>附</rb><rt>つ</rt></ruby>け<ruby><rb>文</rb><rt>ぶみ</rt></ruby>だな、きっと』

『いいえ……「これを<ruby><rb>首領</rb><rt>かしら</rt></ruby>の所へ持って行け」と云うんでしょう。「<ruby><rb>首領</rb><rt>かしら</rt></ruby>ですって」と聞き返すと「そうよ。お前の<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>に逗留している紳士にさ」と云うんです』

『フーム！』ルパンはブルッとした。

『ドレお見せ』と云ってその手紙を受け取った。手紙の封筒は白紙で何も書いていない。が封を切ると二重封筒になっていて、それには、

ビクトワール方　アルセーヌ・ルパン殿

と書いてあった。

『ウム。怪しいぞ』と<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きつつ<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>れは第二の封筒の封を切った。中には一枚の<ruby><rb>紙片</rb><rt>かみきれ</rt></ruby>に楷書で筆太に、

「貴下のなしつつあるすべては皆無益にしてかつ危険なり……<ruby><rb>速</rb><rt>すみやか</rt></ruby>に断念せられよ」

ビクトワールはウンと唸って気絶してしまった。ルパンは絶大の恥辱でも受けた時の様に<ruby><rb>耳朶</rb><rt>みみたぶ</rt></ruby>まで<ruby><rb>真赤</rb><rt>まっか</rt></ruby>になるのを覚えた。ルパンは一語も発しなかった。やがてビクトワールは仕事に出て行った。彼はその日終日室内に籠もって沈思黙考した。そしてその夜もまた一睡も出来なかった。

かくて朝方の四時頃、家のどこかで異様の音のするのを聞いた。彼は<ruby><rb>俄破</rb><rt>がば</rt></ruby>と跳ね起きて階段の上から覗いて見るとドーブレクが今しも階段を降りて庭の方へ行く様子。

一分間ばかりすると代議士は鉄門を開き、厚い毛皮の襟巻ですっかり顔を包んでいる一人の男を案内して、己れの書斎へ連れ込んだ。

こうした事もあろうかとルパンはかねてから相当の用意をしておいた。代議士の書斎と自分の居る<ruby><rb>室</rb><rt>しつ</rt></ruby>とが家の裏手で、庭に面した方になっているので、彼は窓の処へ縄梯子を用意してあった。そして静かにそれを伝わって書斎の窓の上まで降りた。窓には<ruby><rb>窓帳</rb><rt>カーテン</rt></ruby>が引いてあったけれども、ちょうど張った針金が少しゆるんで、上の方に<ruby><rb>弧形</rb><rt>こけい</rt></ruby>の隙間が出来ていた。内部の話し声は聞えぬけれども、中の様子は逐一<ruby><rb>覗</rb><rt>うかが</rt></ruby>い見る事が出来る。

見ると男だと思った客は意外にも女であった。緑なす黒髪に灰色の毛の二<ruby><rb>条</rb><rt>すじ</rt></ruby>三<ruby><rb>条</rb><rt>すじ</rt></ruby><ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>ってはおれど、まだ若々しい婦人、身の廻りは質素だけれども、<ruby><rb>脊</rb><rt>せい</rt></ruby>は高く、<ruby><rb>嫋々</rb><rt>なよなよ</rt></ruby>した花の姿、いかにも長い間の哀愁を語っている様に思われる。

『ハテナ。あのお女はどこかで見た様な気がするが……？あの<ruby><rb>顔容</rb><rt>かおだち</rt></ruby>、あの眼ざし、あの表情は確かに見覚があるが、ハテどこだったろう？』とルパンは考えた。

女は<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の前に突立ったまま、身動きもせずドーブレクの喋るのを聞いていた。彼もまた突立ったまま大いに興奮して何事か熱心に談じている様子だ。代議士はルパンの方に脊を向けてはいたが、壁の鏡に映った顔を見ると、その眼は異様に輝き蛮的な野獣的な欲望に燃えていた。

女はその不快な視線を避けるために顔をうなだれ眼を伏せていた。ドーブレクは女の方へジリジリと進み、まさにその太く逞しい腕で女を抱きしめようとしていると、突如、ルパンは大粒の涙が彼女の悲しげな頬を伝わってハラハラと流れたのを認めた。

ドーブレクはこの涙に<ruby><rb>唆</rb><rt>そそ</rt></ruby>られたものか、乱暴にもその両腕で女をグイと<ruby><rb>捕</rb><rt>つかま</rt></ruby>えて自分の方へ引き寄せようとするのを、彼女は満身の力を籠めて憎々しげに突き飛ばした。それでも彼はなお進もうとする、その顔には残酷醜悪な色が<ruby><rb>溢</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>っている。二人の視線ははたと合って、互に<ruby><rb>屹立</rb><rt>きつりつ</rt></ruby>したまま<ruby><rb>深讐仇敵</rb><rt>しんしゅうきゅうてき</rt></ruby>のごとくに猛烈に睨み合った。

二人は黙って睨み合った。やがてドーブレクは椅子にかけたが、兇悪、冷酷な相貌して<ruby><rb>口唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>には深刻な皮肉が浮かんで来た。彼は何事か条件を<ruby><rb>持出</rb><rt>もちだ</rt></ruby>しているらしく、卓子を叩き叩き頻りに怒鳴り立っている。これに反して彼女は微動だもせず、傲然と立像の様に直立してはいたが、その眼は不安定に動いているらしかった。ルパンは雄々しくも悩み深き顔を瞬きもせず見詰めつつ、彼女が果たしていかなる<ruby><rb>思考</rb><rt>かんがえ</rt></ruby>を持っているかを看破せんと少しも眼を放たず見ていると、不思議、彼女は軽く頭をめぐらすと同時に、その腕が気付かぬほど徐々に動き出した。身体の蔭になって彼女の腕は静かに動く。とその手は卓子の上を<ruby><rb>匐</rb><rt>は</rt></ruby>う様にそろそろと進んで行く。ルパンがふと気が付いてみると、卓子の一端に水入があって、その<ruby><rb>硝子</rb><rt>がらす</rt></ruby>栓には頭の方に<ruby><rb>黄金</rb><rt>こがね</rt></ruby>の飾りが付いている。やがて手は水入に届いた。<ruby><rb>捜</rb><rt>さぐ</rt></ruby>る様にしてそっと栓を抜いた。そしてチラッと振り向いて一目見るや否や、手早く栓を元に<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>めた。きっと女が望んでいる品物でなかったに相違ない。

『オヤッ、不思議。あの女もやはり水晶の栓を探しているぞ。こりゃ<ruby><rb>事件</rb><rt>こと</rt></ruby>がいよいよ<ruby><rb>錯雑</rb><rt>さくざつ</rt></ruby>して来たわい』

なおも息を殺して怪しい女客の様子を<ruby><rb>覘</rb><rt>うかが</rt></ruby>っていると驚いた。彼女の表情はみるみる変って、その顔は恐ろしく物凄くなって来た。そしてその手は絶えず卓子の上を<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>って書籍をそっと押し<ruby><rb>除</rb><rt>の</rt></ruby>けつつその間に<ruby><rb>燦</rb><rt>さん</rt></ruby>として光る短刀に近づいたが、たちまちそれをキッと握りしめた。ドーブレクはあいかわらず熱心に喋り続けている。その背部には光る刃を持った<ruby><rb>繊手</rb><rt>せんしゅ</rt></ruby>が静かに静かに振り上げられて行く。ルパンは女の血に餓えた凄まじい眼光が火の出る様に短刀を突き刺すべき<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>の<ruby><rb>辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>にそそがれているのを知った。

腕を差し上げて、女はやや<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>の色が見えたが、それも束の間、キリキリッと歯噛みをすると一緒に振り上げた刃がキラリッと光った。

電光石火、ドーブレクの身体はサッと椅子から流れて、<ruby><rb>匕首一閃</rb><rt>ひしゅいっせん</rt></ruby>の繊手は哀れ宙に支えられてしまった。

彼はこんな事は日常の茶飯事だと云わぬばかりに別に驚きも怒りもしないらしい。そして刃物三昧には馴れ切った男と見えてちょっと肩を<ruby><rb>聳</rb><rt>そびや</rt></ruby>かしたまま、黙って室内を大股に歩き出した。

女は刃物を投げ<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てて泣き出した。両手を顔に押し当てて泣く、<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>り泣くたびに頭から<ruby><rb>爪先</rb><rt>つまさき</rt></ruby>まで身を<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>わせる。

代議士は再び彼女のそばに来てなおも卓を叩きつつ何事か<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いている。女は断然<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>を振ったが彼がなお執拗に云うや、足をもって床を踏み鳴らしつつ、ルパンにも聞き取れるほどの声で<ruby><rb>決然</rb><rt>きっぱり</rt></ruby>と云った。

『厭です……厭です……』

すると彼は何も云わずに、女が着て来た厚い毛皮の襟付の外套を取って、これをその肩にかけてやった。女は襟を立てて顔を包んだ。

女は出て行った。

ドーブレクの生活はすこぶる規律的で、ただ警官の張込をといた<ruby><rb>暁方</rb><rt>あけがた</rt></ruby>に二三の来客があるばかりであった。そこで日中は二名の部下を見張らせ夜中はルパン自身で監視する事にした。

前夜と同じく午前四時頃一人の男が訪ねて来た。例によって覗いていると、その男はドーブレクに対して<ruby><rb>流涕</rb><rt>りゅうてい</rt></ruby>して哀訴し合掌して嘆願し、最後にはピストルを<ruby><rb>振</rb><rt>ふる</rt></ruby>って威嚇したが、ドーブレクはセセラ笑って取りあわない。ついにその男は千<ruby><rb>法</rb><rt>フラン</rt></ruby>の紙幣三十枚を代議士の前に差し出して帰って行った。門外に見張っていた部下から翌朝になって前夜の男は独立左党の<ruby><rb>領袖</rb><rt>りょうしゅ</rt></ruby>ランジュルー代議士で生活困難家族多数という報告が来た。

三日後に前大臣で、元老院議員ドショーモンが来、その翌日ポナパル党出身代議士アルビュフェクス侯爵が来、同じく哀訴嘆願の百万遍を<ruby><rb>尽</rb><rt>つく</rt></ruby>して、最後に巨額の金や貴金属を取られた。

『きゃつは何かの秘密を握って、それを種に恐喝して金を捲き上げておるに相違ない。俺が幾日見張っていても仕様がない。何か局面を転換させずばなるまいが……と云って脅迫された連中に会ったところで、実を吐く気づかいは無い……』

ルパンは思案に暮れて<ruby><rb>黙考</rb><rt>もっこう</rt></ruby>していると、ビクトワールが電話室でドーブレクの電話を<ruby><rb>立聴</rb><rt>たちぎ</rt></ruby>いていた。

ビクトワールの話によると、ドーブレクは今夜八時半にある婦人と会見し、共に観劇に行くらしい。

『二ヶ月<ruby><rb>前</rb><rt>ぜん</rt></ruby>の様に<ruby><rb>桝</rb><rt>ます</rt></ruby>を取っておきますが、留守中<ruby><rb>盗賊</rb><rt>どろぼう</rt></ruby>に見舞われては<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わないね』と笑いながらドーブレクが云っていた、という。

代議士が観劇の留守中にアンジアン別荘を襲ったのは六週間以前だ。相手の女を知り、さらにでき得べくばボーシュレーとジルベールとがアンジアン別荘襲撃の当夜、代議士の留守を偵知した方法を看破するのが、目下の急務だ。彼は早速ドーブレクの<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>を抜け出してシャートーブリヤンの自邸へ帰った。そして最も得意とする<ruby><rb>露西亜</rb><rt>ロシア</rt></ruby>貴族の変装に取りかかった。部下も自動車でやって来た。

この時召使のアシルがミシェル・ボーモン宛の電報を受け取ってきた。訝りながら聞いてみると、

「コンヤ、シバイエクルナ。キミガクルトバンジダメニナル」

彼の立っていた傍の<ruby><rb>暖炉</rb><rt>ストーブ</rt></ruby>の上に花瓶があった。彼はやにわにそれを掴むと床の上に叩き付けて<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>に砕いた。

『解った！解った！ウヌッ！俺の常套手段を取っていやがる。どうするか見ろッ！』

彼は部下を引連れて自動車で飛び出し、ドーブレクの邸の少し手前で車を止めて待っていた。ドーブレクが邸を出ると、尾行の警官を<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>くためにタクシーに乗るに相違ない。こうして自分の自動車を提供して易々と行先を突き止めようと云う計画だ。

七時半、邸の小門がギーと開いた。来たなと思うと、不意に爆音すさまじく、疾風のごとく走り出した一台の<ruby><rb>自動自転車</rb><rt>オートバイ</rt></ruby>がボアの方向をさして矢のごとく疾駆し去った。

『勝手にしやあがれ、畜生ッ！』とルパンはいまいましそうに<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。そして再び自邸へ引き上げた。夕食をすますと再び車上の人となって<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリー</rt></ruby>における有名な劇場調査を初めた。ルネサンス座や、ジムナース座に飛び込んで、立見から桝を眺めた。ドーブレクらしい影が見えなければ次の劇場へ……かくて午後十時に至ってボードビルでようやくそれらしいのを発見した奥まった桝に、二枚の屏風で姿を隠している二人連れ、案内人にソッと聞いてみると<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>った相当年輩の男とヴェールに顔を包んだ婦人とが居ると云う。その隣室の空ていたのを幸いにそこを買って入った。

<ruby><rb>幕合</rb><rt>まくあい</rt></ruby>の明るい光に照らされた横顔は確かにドーブレクだ。女の方は影になって姿が見えないが、二人は低い声で話し合っている。

十分間ばかりすると二人の居る席の戸を叩くものがある。劇場の案内人だ。

『代議士のドーブレクさんと<ruby><rb>仰</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>いますね？』

『ウム』とドーブレクは驚いて声を出した。『どうして俺の名が解ったか？』

『ただ今御電話がございました、二十二号の桝に居らっしゃるから呼んでくれと仰いました』

『だれからだ！』

『アルビュフェクス侯爵様でございます。……いかが致しましょう？』

『フーン？……いや行こう！　行こう……』

とドーブレクはあわてて席を<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>って出て行った。

ドーブレクの姿が消えると入れ代りにルパンはスーと音もなく入って来て婦人のそばに腰をおろした。

『あッ！　……アルセーヌ・ルパン』と女は呟いた。

ルパンもまた<ruby><rb>面喰</rb><rt>めんく</rt></ruby>らって呆然たる事しばし、この女はルパンを知っている！　知っているのみならず、得意の変装まで看破してしまったのだ！

『さては知ってるか？……知ってるか？……』と呟きつつ彼は突如、女の顔を覆っているヴェールをパッと取り除いた。

『オヤッ！これは意外！』全く驚いた。彼は<ruby><rb>吃</rb><rt>ども</rt></ruby>る様に云った。この女こそ、かつてドーブレクの邸で、深夜代議士に向って利刄を振りかざし嫌悪の力を<ruby><rb>繊弱</rb><rt>かよわ</rt></ruby>き腕に籠めて一撃を加えんとしたあの女であった。しかし婦人の方でも少からず驚いたらしく、

『エッ！あなたはわたしを見覚えて居らっしゃるの？……』

『さよう、先夜、あの邸で短剱を振りまわした委細を見ています……』

彼女は早くも逃げ出そうとした。が彼は手早くその手を引き止めて、

『あなたは一体<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>んです、ぜひそれを伺わねばなりません……だからドーブレクを電話で呼び出したのです』

『では、あの電話はアルビュフェクス侯爵では無いのですか、ではすぐ戻って来ます……』

『それまでに暇がある……まあ聞きなさい……ぜひ今一度あなたに会わなければならない……きゃつはあなたの仇です、ですから私があなたをきゃつの手から救ってあげます……』

『私を信用なさい……あなたの利益は、私の利益ですぞ……。どこで会いましょうか？　<ruby><rb>明日</rb><rt>みょうにち</rt></ruby>？　え？――時間は？……場所は……？』

彼女は不安と疑惑の眼でルパンの顔を見詰めつつ<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ためら</rt></ruby>っていたが、やがて、明晰な口調で答えた。

『わたしの名は……申上げられません……まあとにかく一度御会いして御話を承りましょう……そう、御会い致しましょう……では<ruby><rb>明日</rb><rt>みょうにち</rt></ruby>、午後三時……そして場所は……』

と云いも終らぬに<ruby><rb>後方</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>がパッと開いて、ドーブレクがヌッと現れた。

『チェッ！　畜生ッ』とルパンは今一言の所を破られて憤然と怒った。ドーブレクは嘲笑を投げて、

『フン、これだこれだ……どうも少し怪しいと思ったっけ……オイ、電話の手品なんざあ、少々時代後れだよ……気の毒ながら途中で戻って来たんだ』とルパンを<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に突き除けつつ、女の<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわら</rt></ruby>に腰をかけて、『オイ、貴様は一体何者だ？……おおかた警視庁の犬だろう？うるさく嗅ぎ廻わりやあがる』

彼は眉毛一つ動かさぬルパンをジッと見詰めていたが、さすがにこの男がかつて自分がポロニアスと<ruby><rb>綽名</rb><rt>あだな</rt></ruby>をつけたあの食堂に隠れていた男と同一人だとは気が附かなかった。ルパンもなかなかに油断せず的の態度を見詰めながら今後の方略を考えていた。ここまで漕ぎ付けた計画を放棄する事は断じて出来ない。こうした一方女は片隅に身動きもせず堅くなって二人の様子を見詰めていた。

『外へ出よう、その方が話しが早い』とルパンが云った。

『ここでたくさんだ、今は幕間だし、人に邪魔されなくていい。……おっと、貴様、逃しはせぬぞ』

と云いつつ突然ぐいと<ruby><rb>猿臂</rb><rt>えんび</rt></ruby>を伸ばしてルパンの<ruby><rb>襟頸</rb><rt>えりくび</rt></ruby>を掴んだ。何たる無礼の振舞だ！ルパンたるものいかにしてかくのごとき<ruby><rb>暴戻</rb><rt>ぼうれい</rt></ruby>に忍び得よう。いわんや婦人の面前である。彼が同盟を提議した婦人、しかも最初見た時から並々ならぬ美人だと思ったとおり<ruby><rb>繊妍</rb><rt>せんけん</rt></ruby>たる容姿楚々たる風姿、その婦人の面前にあってどうしてかかる屈辱を忍ぼうや。満身の自負心は<ruby><rb>鬱勃</rb><rt>うつぼつ</rt></ruby>として<ruby><rb>迸</rb><rt>ほと</rt></ruby>ばしらんとする。しかし彼は黙然としていた。そして肩に受けた無双の大力に押されて、意気地なくも身体が折れ<ruby><rb>屈</rb><rt>か</rt></ruby>がむまでに押え付けられてしまった。

『ああ、意気地無し、もうへたばるのか』と代議士は嘲笑した。

舞台の上では大勢の役者が立廻りの最中、大騒ぎをやっていた。ドーブレクは絞め付けた手を少しくゆるめた。ルパンはこの時にとばかり拳骨を堅めてちょうど斧で打殴る様に敵の<ruby><rb>腕節</rb><rt>うでぶし</rt></ruby>を発止と突き上げた。

苦痛にドーブレクのたじろぐ暇に得たりとばかりルパンは身を起して奮然彼の喉に突きかかった。しかし敵も去るもの、パッと身をかわして、退くと同時に腕を延ばしてルパンを支えた。かくて四本の腕は超人的怪力をもって組んず解れつした。

二人は四ツの手を掴み合ったまま、身を<ruby><rb>踞</rb><rt>かが</rt></ruby>めて互に隙を窺っていた、早く力の<ruby><rb>弛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>んだ方が喉を絞め上げられるのだ。息を殺して寸分の隙も無く組み合っている。しかも舞台ではシンミリした場面で一同息をのんで声の低い<ruby><rb>独白</rb><rt>せりふ</rt></ruby>まで聞こえてくる。黙黙として、沈静。

婦人は身を椅子に支えつつ、怖れと<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>きの眼を見開いて両者の挌闘を見詰めている。もし彼女が指一本動かしてどちらかに加勢すれば、その方は正に勝利を得るのだ。しかし、彼女<ruby><rb>果</rb><rt>はた</rt></ruby>して、<ruby><rb>何人</rb><rt>なんびと</rt></ruby>に加勢するか？ルパンは重く力ある声で、

『さあ、椅子を退けなさい！』

と命ずるように云った。二人の間に倒れている重い椅子、その椅子を挟んで彼らは争っていたのだ。

彼女は身を屈めてその椅子を取り除いた。これこそルパンの<ruby><rb>睨</rb><rt>ねら</rt></ruby>った機会だ。障害物が除去せらるるや否や長靴の<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>でドーブレクの<ruby><rb>向脛</rb><rt>むこうずね</rt></ruby>に得意の一撃を与えた。結果は彼が最初に敵の腕に与えた痛撃と同様、ウムと苦痛に<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>く刹那の隙を得たりとばかりドーブレクの喉と頸に両手をかけてぎゅっと絞め上げた。

ドーブレクは力の限り抵抗した。ドーブレクは絞め上げられた手を振りほどこうと努めたが、時既に遅く、次第に息が塞がり気力が抜けて来た。

『ああ！ゴリラめ！』とルパンは彼を引き倒しながら云った。『なぜ助けてくれと<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>かないんだ？　世間体を恐れるのか畜生ッ』

と云い<ruby><rb>様</rb><rt>ざま</rt></ruby>、その頭に一撃を喰わすと、代議士は悲鳴を挙げて気絶してしまった。残る仕事は例の婦人を連れて、人々が騒ぎ出さぬ内にここを逃げ出すだけだと思って振り返って見れば既に婦人の姿は見えぬ。

逃げ出したにしてもまだ遠くへは行くまい。彼は続いて桝を飛び出した。そして案内女や<ruby><rb>桟敷番</rb><rt>さじきばん</rt></ruby>が驚いているのに目も呉れず一散に階段を駈け降りると、婦人が今しもアンチンヌ並木町に面した出口の処へ走って行く姿を認めた。彼が追いすがった時に彼女は自動車の中に躍り込んでピシャリと<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>をしめた。彼は手を延ばして<ruby><rb>把手</rb><rt>ハンドル</rt></ruby>を掴み<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を開けようとした。その瞬間ヌッと男の姿が中から出るや否や、巧みな、かつ猛烈な拳骨をもってルパンの<ruby><rb>面部</rb><rt>めんぶ</rt></ruby>を殴り付けた。

不意の猛襲にグラグラと目が眩んで倒れながらもその男を見た。それはグロニヤールとルバリユの両名、アンジアンの夜<ruby><rb>端艇</rb><rt>ボート</rt></ruby>を漕いだ両名、ジルベールとボーシュレーの同輩、すなわち彼ルパンの部下ではないか！

ようやくにしてシャートーブリヤン町の<ruby><rb>隠家</rb><rt>かくれが</rt></ruby>に帰ったルパンは血にまみれた顔を洗って、失神した様に一時間も長椅子に横たわっていた。彼は始めて飼犬に手を咬まれた。始めてその部下から<ruby><rb>反抗</rb><rt>てむか</rt></ruby>われたのだ。憤懣の気を休めようと機械的に<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>にあった夕刊を取り上げて見ると、<ruby><rb>大文字</rb><rt>だいもんじ</rt></ruby>の社会記事が目に付いた。

マリテレーズ別荘事件

マリテレーズにおける<ruby><rb>下僕</rb><rt>しもべ</rt></ruby>レオナール惨殺犯人としてさきに検挙されたる両名中ボーシュレーなるものの素性は最近に至ってようやく判明したるが彼は<ruby><rb>極悪無道</rb><rt>ごくあくぶどう</rt></ruby>なる前科者にて、すでに偽名をもってこれまで二回殺人罪の下に無期懲役に処せられたる兇漢の<ruby><rb>由</rb><rt>よし</rt></ruby>。なお共犯者ジルベールの本名等判明するも遠きにあらざるべく、検事においては一日も早く事件を起訴の手続に及び審理に処すべき方針なりと聞く、従来とかく遅鈍の評ありし当局も本事件においてはややその面目を保ち得たりと云うべし。

他の新聞や書簡等の間から一通の手紙が出て来た。ルパンは一目この封書を見てハッと思った。それには「ボーモン（ミシェル）様」としてある。

『あッ！　ジルベールからの手紙だ……』

中の書面は確かに十数字。

『<ruby><rb>首領</rb><rt>かしら</rt></ruby>、助けて下さい！　恐ろしい……恐ろしい……』

その夜ルパンは悪夢に悩まされてマンジリともしなかった。そして物凄い、怖ろしい幻に襲われつつ彼は終夜悶えに悶えた。

## ｟四｠敵の首領

あわれ、ルパン！　彼は現在の境地に捉わるることなく、他の一点を掴んで事件の展開を計らざるを得ざるに至った。しかしいかなる点に進むか――水晶の栓の追求を放棄しなければならないだろうか？

彼は去就に迷った。マリテレーズ別荘の殺人事件以来行方を<ruby><rb>晦</rb><rt>くらま</rt></ruby>しているグロニアールとルバリユとの住んでいたアンジアンの別荘を想い出した。しかし、今彼等を問題としなくとも、ルパンはドーブレクに関係し、また関係せざるを得なかった。

「待て待て。感情のたかぶっている時には判断が間違って来る。だから黙って冷静に妄想を起さずに考えるんだ。事件の出発点を握らないで、いたずらに錯雑した事実ばかりに捉われているほど馬鹿々々しい事はない。そんな事をしているから迷宮から出られないんだ。だからまず、ルパン、お前の才能に聴け、お前の感得に依って猛進しろ。あらゆる論理的判断に<ruby><rb>俟</rb><rt>ま</rt></ruby>つまでもなく、この怪事件は不可思議な栓を中心に渦を巻いているんだ。だから、そこへ勇敢に突っ込め、ドーブレクと問題の水晶とをたたきつぶせ！」

ルパンはこの決論を<ruby><rb>俟</rb><rt>ま</rt></ruby>つまでもなく、早速実行に取りかかった。

彼はボードビルの劇場における事件の三日目に、古ぼけた外套を被って、<ruby><rb>頸巻</rb><rt>えりまき</rt></ruby>に顔を埋め、ラマルチン広場からやや遠く離れたビクトル・ユーゴー街の共同椅子に腰を下ろしていた。自分の<ruby><rb>手許</rb><rt>てもと</rt></ruby>へ来た報告によれば、ビクトワールは毎朝、この共同椅子の前を通るはずであった。

やがて買物篭を腕に抱えて、ビクトワールが遣って来た。見ると非常に昂奮して<ruby><rb>真蒼</rb><rt>まっさお</rt></ruby>な顔をしている。

『さあ、これですよ、あなたの探しているのは……』彼女は前後を見廻しながら、篭の中から小さな品物を取り出して彼の手に渡した。ルパンは茫然とした。手には水晶の栓を握っている。

『ほんとかい？　ほんとかいこれは？』

と呟いた。余り無造作に手に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ったので、むしろ一種の失望をさえ感じていた。

しかし、現実の事実である。目に見る事も出来れば、手に<ruby><rb>触</rb><rt>ふ</rt></ruby>るる事も出来るのだ。その形、その大いさ細かい金線の飾り、まぎれもなく彼がかつて手にしたことのある水晶の栓に相違ない。目につかぬほどの微細な傷がその栓の頸の処にあるものと<ruby><rb>見覚</rb><rt>みおぼえ</rt></ruby>がある。品物に間違いはないが、うち見たところ、何等変った点もなく、ただ一個の水晶の栓に過ぎない。他の栓と区別すべき何の特徴もなければ、何の記号も印もない。一個の印を刻んだに過ぎないもので、別に不思議な点も見当らない。

『何だいこれは？』

ルパンはふと疑惑に捉われて云った。この水晶の栓に附随する価値を知らないで持っていた処が何の役に立とう。ただ硝子の一片に過ぎないんだ。これを手に入れる前に、まずその価値を知らなければならない、ドーブレクからこれを奪い取って見たものの、それが馬鹿げたことでないと誰が確言し得ようか。

解き難き問題は非常な謎として彼の前に置かれた。

『下手な真似は出来ないぞ！』と考えながら、品物をポケットに納めた。『この怪事件で、下手な真似をしたが最後、万事は休する』

ビクトワールが、ルパンの<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>を通った時、

『ジャンソン中学の裏手で逢おう』と彼は低い声で囁いた。そして五分後には人通りの少ない場所で落ち合った。

『<ruby><rb>婆</rb><rt>ばあ</rt></ruby>や、全体どこでこの栓を見付けたんだ』

『寝床の側の机の<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>から』

『そうか。ところで先生無いことに気がつくと、お前が盗んだと思いはしないかい』とルパンが言った。

『きっとそう思いますわ。』

『じゃ早く返してお置きよ。大急ぎで』と言いながら、ルパンは<ruby><rb>上衣</rb><rt>うわぎ</rt></ruby>の懐中を探した。

『さあ、どうしたの？』とビクトワールが手を差し出した。

『さあ』としばらくしてから、彼が言った。『無いよ！』

『何ですって』

『無くなっちゃったんだ……。誰か盗んだぜ』

彼は笑い出した。何らの苦痛も無さそうに腹を抱えて笑った。ビクトワールは腹を立てて、

『笑ってるどころの騒ぎじゃないんですよ……こんな大変な事に……』

『どうだいこれは？　実際妙不思議だね。まるで手品のようだ、少し暇になったらお<ruby><rb>伽噺</rb><rt>とぎばなし</rt></ruby>を書くぜ。題に<ruby><rb>曰</rb><rt>いわ</rt></ruby>くさ、魔術の栓またの名はアルセーヌ大失敗の巻……アハハハハ羽が生えて飛んでいったんだよ……。俺の懐中からパッと消えてしまったんだ……。まあいいからお帰り』と彼は<ruby><rb>乳婆</rb><rt>うば</rt></ruby>を押しやりながら、真面目な口調になって『お帰り、ビクトワール、別に心配することはない。誰か、お前から俺があの栓を受取るのを見ていて、人込みを利用して、俺の<ruby><rb>衣嚢</rb><rt>ポケット</rt></ruby>から<ruby><rb>掏</rb><rt>と</rt></ruby>ったに違いない。これは俺たちの思っているよりもいっそう手近い処で吾々を監視している者があり、かつそれが一流の玄人だと言うことを証明している。だが繰返していうが心配することはない。正直な人達は神様が護ってて下さるんだ。ところで、婆や、<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に話すことはないかい』

『ええ、昨晩、ドーブレクさんの出かけた留守に誰れか来ました。私は庭から窓に映っている影を見ました』

『すると警視庁の連中はまだ捜索を続けているんだね。それはそうと、婆や……もう一度俺をかくまってくれんか、何も危ない事はないじゃないか。お前の部屋は三階に有るんだし、ドーブレクは何も疑ってやしない』

『ですが<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>の連中が……』

『外の連中？　もし連中が俺を陥れるのを利益と思うなら、ずっと前に<ruby><rb>行</rb><rt>や</rt></ruby>っていなきゃならない。五月蠅く思っているくらいのもので別に恐れていやしない。ではビクトワール、五時の鐘が合図だよ』

今一度ルパンを驚かすことが起った。それはその晩に婆やが寝室の抽斗を開けて見たら、例の水晶の栓が這入っていたと告げたことだ。しかしルパンは、別に顔色にまでは驚きを見せず簡単に言ってのけた。

『じゃ、誰か持ちもどったんだ。あの品物を持ち戻った人間！　それは俺と同じようにこの屋敷に忍び込んでいるにちがいない。しかしその水晶の栓を何の重要さもないごとく抽斗の中へ放り込んで置くとは！　これや考えもんだ。』

ルパンは考え物だとは言ってみたものの、何等そこから<ruby><rb>纏</rb><rt>まとま</rt></ruby>った判断、または意見を引き出すことが出来ないので、かなり当惑した。しかしちょうど<ruby><rb>隧道</rb><rt>トンネル</rt></ruby>の出口に見るような薄明りがぼんやりと射しているような気がした。

『この調子では俺ときゃつ等の間に激烈な競争の起るのは<ruby><rb>免</rb><rt>まぬ</rt></ruby>かれ難い。その時こそ俺が優勝の地位を占めるんだ』と考えた。

かくて何らの発見もなく、ルパンは五日を過してしまった。それからまた二日過ぎた真夜中の二時頃、ルパンが二階から廊下へ下りようとすると、ふと<ruby><rb>扉</rb><rt>と</rt></ruby>のきしる音を聞いた。その戸は庭に向いた玄関の方へ続いていた。彼は闇夜を透して見ると二人の男が<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>を登ってドーブレクの部屋の前に忍び寄るらしい。耳を澄すと、微かに戸をこじ開ける音が聞える。風の間に間に人の<ruby><rb>耳語</rb><rt>ささや</rt></ruby>き声も耳に触れる。

『<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>は？』

『うん。上等だ……だが明日の晩にのばそうだって……』

ルパンはその先を聞きとれなかったが怪しの男は静かに戸を閉めながら鉄門の闇に消えて行った。

午後になって、ドーブレクの留守を幸い、彼は二階の<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の戸を調べて見た。一見して解った。<ruby><rb>扉</rb><rt>と</rt></ruby>の下の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はめ</span>板が一枚巧みにはずされている。して見るとこの<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>で仕事をしようと云う連中は、かねて彼の家、マチニヨン町とシャートーブリヤン町の家へ忍び込んだやつらと同一だ。

ルパンにとって今日一日は暮るるに早かった。彼の眼前にはまさに一切の秘密が暴露せられんとしているのだ。ただに不可思議極まる、かつは巧妙を尽した手段によって室内へ忍び込む方法を知るのみならず、かくも科学的にかくも敏活な行動をとれる奇怪な敵の何者であるかを知る事が出来るのだ。

その晩、夕飯をすますとドーブレクは疲れたと云って十時に帰宅し、いつになく庭の<ruby><rb>扉</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>閂</rb><rt>かんぬき</rt></ruby>を差してしまった。こうなって来ると、例の連中はいかなる手段をもってドーブレクの<ruby><rb>室</rb><rt>しつ</rt></ruby>に侵入せんとするだろうか？ドーブレクは電気を消した。例の連中は昨夜の時間より、やや<ruby><rb>早気味</rb><rt>はやぎみ</rt></ruby>にすでに玄関の<ruby><rb>扉</rb><rt>と</rt></ruby>を開けようとしている。試みは失敗らしく、数分間は<ruby><rb>静寂</rb><rt>せいしゅく</rt></ruby>の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に流れた。ルパンがさすがに手を引いたなと思う瞬間、<ruby><rb>悚然</rb><rt>しょうぜん</rt></ruby>として戦慄した。静寂の<ruby><rb>中</rb><rt>なか</rt></ruby>にごく微かな<ruby><rb>響</rb><rt>ひびき</rt></ruby>も伝わらないのに、何者かが室内へ侵入して来た。いかに耳を傾け尽すともその階段の上へ昇って行く足音すら聞く事は出来なかったのに……。

怪しの沈黙は長い間続いた。<ruby><rb>暗黒裡</rb><rt>あんこくり</rt></ruby>に姿も見えず音も聞こえず動く魔のごとき影、ルパンは何をしていいのか見当もつかなくなって<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>した。時計が沈黙の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>から二時を打った。それがドーブレクの<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の時計だと云う事は解った。して見ると代議士の<ruby><rb>室</rb><rt>しつ</rt></ruby>とは<ruby><rb>扉</rb><rt>と</rt></ruby><ruby><rb>一重</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>をへだてるだけだ。

ルパンは大急ぎで階段を降りて、その<ruby><rb>扉口</rb><rt>とぐち</rt></ruby>へ近づいた。<ruby><rb>扉</rb><rt>と</rt></ruby>は閉じられてある。<ruby><rb>左手</rb><rt>ゆんで</rt></ruby>を見ると例の下の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はめ</span>板をはずした穴があいているらしい。

耳をすますと、ドーブレクはこの時寝返りを打ったらしく、大きい寝息が聞こえて来た。と思うとごくかすかに<ruby><rb>衣服</rb><rt>きもの</rt></ruby>を動している様な響きが耳についた。怪物は室内にあってドーブレクが脱ぎすてた衣服を捜しているらしい。

『今度は少し事件が明るくなって来たぞ』とルパンは考えた。『だが畜生め、怪物はどうして忍び込んだんだろう？　あの鍵と閂をどうして外したろう？』

しかしルパンは一瞬の間に自分のとるべき行動を決定した。彼は直ちに階段を降りてその一番下に陣取った。そこはドーブレクの<ruby><rb>室</rb><rt>しつ</rt></ruby>と玄関の中間に<ruby><rb>位</rb><rt>くらい</rt></ruby>するので、敵の退路はかくして完全にたたれた訳だ。

暗黒裡の不安がひしひしと身に迫る！　ドーブレクの敵にしてまた彼の強敵たる怪物は、今まさにその覆面を取らんとしているのだ。彼の計画は完全した。敵がドーブレクから<ruby><rb>盗奪</rb><rt>とうだつ</rt></ruby>したもの、それを彼はドーブレクの寝ている間に途中でうまうまと<ruby><rb>横奪</rb><rt>おうだつ</rt></ruby>せんとするのだ。

<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>し退却し始めた。その足音が<ruby><rb>手摺</rb><rt>てすり</rt></ruby>から伝わって来る。彼はますます神経を尖らして次第に接近し<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>る怪敵を待ち受けた。突如、数<ruby><rb>米突</rb><rt>メートル</rt></ruby>の<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>に敵の黒影らしいものを認めた。自分は暗い影に身をひそめているので発見される心配はない。

時は今だ！　不意にパッと飛び出したので敵も驚いて立ち止った。ルパンはサッと黒影を目がけて飛び付いた。がドシンと階段の手摺に衝突したのみで、敵は早くも下をくぐって玄関の半ばまで鼠の様に逃げた。ルパンは一生懸命<ruby><rb>追</rb><rt>おい</rt></ruby>かけた。そしてからくも庭の<ruby><rb>扉</rb><rt>と</rt></ruby>の出口で<ruby><rb>捕</rb><rt>とら</rt></ruby>える事が出来た。

アッと云う敵の声と同時に、<ruby><rb>扉</rb><rt>と</rt></ruby>の<ruby><rb>向側</rb><rt>むこうがわ</rt></ruby>からもアッと云う叫びが起った。

『ああ、畜生、どうしたんだいこりゃあ』とルパンは呟いた。その巨大なる鉄腕に掴まれたものは恐怖に<ruby><rb>戦</rb><rt>おのの</rt></ruby>きふるえている小さな子供だ！

彼は子供をしっかと<ruby><rb>上衣</rb><rt>うわぎ</rt></ruby>に<ruby><rb>包</rb><rt>くる</rt></ruby>んで、ひしと抱きしめながら、<ruby><rb>絹半巾</rb><rt>きぬハンケチ</rt></ruby>を丸めて早速の<ruby><rb>猿轡</rb><rt>さるぐつわ</rt></ruby>とし三階へ駈け上った。

『ホラ、御覧よ』と驚いて跳ね起きたビクトワールに向って云った。『とうとう敵の団長を召捕ったよ。当代の金太郎さんだ。<ruby><rb>乳母</rb><rt>ばあ</rt></ruby>や、お菓子をやっておくれ』

彼は団長を長椅子の上に置いた。見れば七ツか八ツくらいの男の子、毛糸で編んだ帽子を<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>り、小さいジャケツを着ているがやや<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめたいたいけな顔は<ruby><rb>可憐想</rb><rt>かわいそう</rt></ruby>に涙に濡れている。

『まあ、どこから拾っていらっしたのですか？』

と、ビクトワールは驚いて尋ねた。

『階段の下のドーブレクの<ruby><rb>室</rb><rt>しつ</rt></ruby>を出た所でだ！』

と云いながら、ルパンは例の室から何物かを持って来たのだろうと考えて、ソッとジャケツの<ruby><rb>衣嚢</rb><rt>ポケット</rt></ruby>を捜して見たが、そこには何もなかった。その時ルパンは何を聞いたか、

『ヤッ<ruby><rb>乳母</rb><rt>ばあ</rt></ruby>や、聞えるだろう？』

『何が？』

『金太郎君の部下の連中の騒ぎさ』

『まあ！』とビクトワールはもう色を失った。

『まあって云った処で、<ruby><rb>愚図々々</rb><rt>ぐずぐず</rt></ruby>していて<ruby><rb>陥穽</rb><rt>わな</rt></ruby>に落ちちゃあつまらない。そろそろ退却するかな。さあ、金太郎君いらっしゃい』

彼は子供を毛布にグルグルと<ruby><rb>包</rb><rt>くる</rt></ruby>んで、顔ばかり出し、口には出来るだけ柔かに猿轡をはめ、乳母を手伝わして<ruby><rb>脊中</rb><rt>せなか</rt></ruby>へしっかと結び付けた。

彼は窓を越えて、例の縄梯子を<ruby><rb>伝</rb><rt>つたわ</rt></ruby>って庭へ下りた。外ではなかなか騒ぎを<ruby><rb>止</rb><rt>やめ</rt></ruby>るどころではなく玄関をドンドンと叩いている。ルパンはこんな騒ぎの中で、ドーブレクが起きて来ないのを少からず意外に思いながら建物の角を通って、<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>に透して向うの様子を見ると、鉄門は開かれ、<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>の石段の上に四五人の男が<ruby><rb>迂路々々</rb><rt>うろうろ</rt></ruby>している。<ruby><rb>左手</rb><rt>ゆんで</rt></ruby>の方は門番の家だ。門番の女は門口の石段の上に立って一同を<ruby><rb>取鎮</rb><rt>とりしず</rt></ruby>めて居た。彼はその<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ飛んで行って、首玉をグイと掴み上げ、

『オイ、子供は俺が連れて行くとそう云え。欲しけりゃシャートーブリヤン街へ受取りに来いってね』

街路を少し離れた処に連中の乗って来たと<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>しい一台の自動車が待っていた。ルパンは横柄に構えて、仲間の<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>を装い、その自動車に乗って、自分の邸まで走らせた。

『ねえ、ちっとも恐くはなかったろう？……さあ、おじさんの寝床へねんねさしてあげようか？』

召使のアシルは寝ていたので、ルパンは手ずから子供をおろして、やさしく頭を撫でてやった。子供は寒さにこごえていた。無理に恐怖をかくし、泣きたいのを我慢して、<ruby><rb>六</rb><rt>むつ</rt></ruby>かしい顔をしているのもなかなかにいじらしい。

しかしルパンのやさしい声、その慈愛の籠った態度に安心してか、子供もだんだんと優しい無邪気な顔になって来た。しかもその顔は彼がかつて見た何者かの顔に似ている様な感じがする。……と同時に、彼は何だか形勢がたちまちここに一変して、この事件は今や根本から解決され得るような気もせられた。この時、玄関の<ruby><rb>呼鈴</rb><rt>ベル</rt></ruby>が不意に<ruby><rb>消魂</rb><rt>けたたま</rt></ruby>しく鳴った。ルパンはそれを聞くと、

『さあ、お母様が迎えに来たよ。じっとしておいでよ』

と云いすてて彼は走って行って戸を開けた。するとそこへ<ruby><rb>気狂</rb><rt>きちがい</rt></ruby>いの様になった一人の婦人が、

『子供は？　……子供はどこに？……居ます？』と叫びながら駈け込んで来た。

『私の室に居るのだ』とルパンが云った。すると女は邸内の様子はちゃんと心得ているもののごとく、そのままルパンの室へ走って行った。

『灰色の髪の婦人だ』とルパンが呟いた。

『ドーブレクの友にして敵だ。俺の想像した通りだワイ』

彼は窓へ近づいてソッと外の様子を<ruby><rb>覗</rb><rt>うかが</rt></ruby>った。二人の男が人道をぶら付いている。グロニャールとルバリュだ。

『俺の邸の前で<ruby><rb>面</rb><rt>おも</rt></ruby>を隠さないとは図々しい野郎どもだ。だが面白くなって来たぞ、奴等もこの<ruby><rb>首領</rb><rt>かしら</rt></ruby>に従わんければ何も出来ない事を今こそ<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>ったんだろう。この上は灰色の髪の婦人と対談だ！』

<ruby><rb>母子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>は互に手を執りかわし、母親は心配の余り、眼に涙を一杯ためていた。しかしルパンがしたと同じく、子供のジャケツに手を差し入れて、目的物があるかないか捜していたが、無邪気な子供が、

『無かったのよ、母様、本統に無かったのよ』というと、彼女はわが子をしっかと、両腕に抱きしめた。子供は昨夜来の疲れと恐怖でまもなくスヤスヤと眠ってしまった。母親も、はなはだしく気疲れがしたと見えて、子供の上に頭を下げたままウットリとしていた。ルパンはその様子をジッと眺めた。美しい中にもどこかに気品のある容貌、それにいささかの<ruby><rb>面窶</rb><rt>おもやつ</rt></ruby>れが見えて、人をして思わず深い同情愛憐の心を起さしめる。

ルパンは我知らず婦人に近づいて、

『私は、あなたが何を計画していられるか知らないが、しかしいずれにしても、有力な援助が必要です。あなた<ruby><rb>単独</rb><rt>ひとり</rt></ruby>では、とても成功はしませんよ』

『私は単独ではございません』

『あすこに居る二人の男かね？私は二人とも知っている。がきゃつ等は問題にはなりません。私を利用なさい。先般、あの劇場で御話した事を覚えていらっしゃるでしょう。その節一切お話し下さるはずでした。今日はゆっくり承りましょう』

彼女はその美しい眼をルパンに向けて、長い間ヂッと彼の様子を眺めて見た。

『あなたはどれだけ私の事を御承知でいらっしゃいますか？』

『知らない事はまだたくさんにあります、第一私はあなたのお名前も知らない。しかし私の知る所では……』

彼女は突然その言葉を<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>り、思い切った強い調子で、

『御伺いする必要はございません。要するにあなたの知っていらっしゃる所はホンのわずかでかつ重要な部分ではございません、しかし、あなたの御考えはどうなのです？　あなたは<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>に助勢してやると仰って下さいますが……何のためにですか？　失礼かもしれませんが、あなたも何か目的をもっていらっしゃるでしょう。<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>はまずそれを伺いたいのです。一例を申上ぐれば、ドーブレクさんはある品物を持っていられますが、それは、それ自体ではつまらんものでしょうが、ある方面には非常に貴重な価格のあるものです。この品物はあなたも御承知の通り、二度あなたの手に入りましたが、二度とも<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>が奪い返しました。それは、もしあなたの手に入ってあなたのために利用せられては非常に困ると思いましたからでございます……』

『利用するって何にですか？』

『エエ、それです。伺いたいと申すのは？』

そういう彼女の力強い眼と真剣さとはかつて見た事の無いほどだった。

ルパンはついに躊躇するところなく断言した。

『<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>の目的は至極簡単です。すなわちジルベールとボーシュレーの二人を救うにあるのです』

『それは<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>ですか？……<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>ですか？……』と婦人は身を<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>わし不安の眼を輝かして叫んだ。

『<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>は知っています……<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>はあなたの何人であるかを知っています……またあなたに気付かれないで、<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>があなたの生活に立ち入ってからすでに数ヶ月になります……ですが、ある理由で<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>は今に疑問にしていることがあるのでございます……』

ルパンは言葉に力をこめて、

『いやあなたはまだ私を了解していない。もし私を了解しているならば、私に対して<ruby><rb>疑</rb><rt>うたがい</rt></ruby>を<ruby><rb>挟</rb><rt>さしはさ</rt></ruby>む事が出来ないはずだ。あの二人の部下、いや少なくともジルベール……ボーシュレーは悪漢ですから別としても……だけはあの恐ろしい運命から救ってやらねばならないのです……』

婦人はこの時狂気のごとく、やにわに彼の両肩に<ruby><rb>獅噛</rb><rt>しが</rt></ruby>み<ruby><rb>付</rb><rt>つ</rt></ruby>いた。

『エ？　何を仰います？　恐ろしい運命？……あなたはそう御考えになりますか、あなたは<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>に……』

『真実です』と彼は明確に答えた。ルパンはこの<ruby><rb>一言</rb><rt>いちごん</rt></ruby>がいかに彼女を<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>させたかを知った。『それはジルベールから来た手紙で明かです。<ruby><rb>彼</rb><rt>あれ</rt></ruby>は私だけを頼りにしています。自分を救い出すものは私より<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>にいないと信じています。この手紙です』

婦人は手紙を奪う様にして読んだ。

『助けて下さい、<ruby><rb>首領</rb><rt>かしら</rt></ruby>……駄目です……私は恐ろしい……助けて下さい……』

彼女はバッタリ手紙を落とした。手をぶるぶる<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>わせ、血走った両眼を見開いて、恐ろしい幻影を見詰める様であった。が、それも一瞬、彼女はあっ！　と叫びながら恐怖の悲鳴を上げて<ruby><rb>打倒</rb><rt>うちたお</rt></ruby>れた。

## ｟五｠死の連判

子供は<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>の中に<ruby><rb>静</rb><rt>しずか</rt></ruby>に<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>っている。母はルパンの手で長椅子の上に横に寝かされて身動きもしない。しかし段々と<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>も穏かになり、血の気もその頬に<ruby><rb>潮</rb><rt>さ</rt></ruby>して来て、ようやく回復の徴候が現れた。

ふと見ると彼女の胸に小さなメタルが<ruby><rb>垂</rb><rt>さ</rt></ruby>がっている。何心なく手に取り上げて裏返して見ると、四十歳前後の立派な紳士と、中学校の制服を着、<ruby><rb>房々</rb><rt>ふさふさ</rt></ruby>した髪の毛をした紅顔の美少年との写真があった。ルパンはそれを見ると、

『思った通りだった……ああ、<ruby><rb>可憐想</rb><rt>かわいそう</rt></ruby>な婦人だ』と一人で呟いた。

その内に彼女は全く意識を回復した。しかし依然として堅く口を噤んでいるので、ルパンは必要な質問をし始めた。そして写真の入れてあるメタルを指して、

『この中学生はジルベールでしょうね？』

『ええ』

『してジルベールはあなたの子供ですね？』

『ええ、ジルベールは私の子です、長男でございます』

果然、この婦人はジルベールの母親であった。サンテ監獄に囚われ、殺人犯の名の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に検事の<ruby><rb>峻酷</rb><rt>しゅんこく</rt></ruby>な取調べを受けつつあるジルベールの母親であったのだ！ルパンはなおつづけた。

『そして、この紳士は？』

『私の亡くなった夫でございます』

『あんたの<ruby><rb>配偶者</rb><rt>おつれあい</rt></ruby>？』

『ハイ。亡くなりましてから、もう三年になります』

彼女は再び椅子に身を伏せた。想い出す悲しき生涯、生くるも怖ろしきこの身の、すべての不幸がことごとく我身に迫る脅迫と見ゆる過去の生涯を想い出したのであろう。

『<ruby><rb>配偶者</rb><rt>おつれあい</rt></ruby>の御名前は？』

彼女はちょっと躊躇したが、

『メルジイと申します』

『エッ。あの代議士のビクトリアン・メルジイ？』

『ハイ、さようでございます』

<ruby><rb>両人</rb><rt>ふたり</rt></ruby>の間に長い沈黙が続いた。ルパンはあの事件、あの死が喚起した世論を忘るる事が出来なかった。今から三年前、下院の廊下において、メルジイ代議士は、何等の遺言もなく、かつまた何等の説明と認められるべきものをも残さず、突然疑問の<ruby><rb>短銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>自殺をしてしまった。

『あの自殺の理由……』とルパンはしばし黙考してから声高に云った。『あなたは御存じないはずありませんね？』

『ええ存じておりますとも……』ルパンが尋ねるまでもなかった。メルジイ夫人は、黙しておられなくなったと見え、一人心の底に包んでいた悲しい長い物語をポツリポツリとしずかに語り始めた。

『二十年<ruby><rb>前</rb><rt>ぜん</rt></ruby>でございますが、当時私はクラリス・ダルセルと申しまして、両親と共にニイスに住んでおりましたが、その頃宅へ参ります三人の青年がございました。すなわちアレキシス・ドーブレクと、ビクトリアン・メルジイと、ルイ・プラスビイユと申上げれば<ruby><rb>此度</rb><rt>こんど</rt></ruby>事件の<ruby><rb>裏面</rb><rt>りめん</rt></ruby>はほぼ御解りでしょうと存じます。この三人はもとから竹馬の友で、学校も同じければ、軍隊も同じ連隊でした。その時、プラスビイユはニイスのオペラの女優を愛しておりましたが、メルジイとドーブレクとは<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>に<ruby><rb>思</rb><rt>おもい</rt></ruby>をかけていました。その間に色々な<ruby><rb>経緯</rb><rt>いきさつ</rt></ruby>がございますが、簡単に申上げましょう。事実だけお話し致せば十分でございます。最初から私はビクトリアン・メルジイを愛していましたので、すぐ、この事を打ち開ければ、間違いも起らずに済んだのでしょうが、真の恋は<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ためら</rt></ruby>い、怖れるかと申しまして、<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>も確とした意見も言わず、あやふやに過して参りました。<ruby><rb>不幸</rb><rt>ふしあわせ</rt></ruby>な事には、<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>ども二人がこうした隠れた恋に酔いまして、時期を待っています間に、ドーブレクの思いをいよいよつのらせました、で、全く話が決った時の、ドーブレクの<ruby><rb>憤怒</rb><rt>いかり</rt></ruby>と云うものは一通りではございませんでした。……』

クラリス・メルジイはちょっと話を止めたが、怖ろしい想い出に身をふるわせつつ、

『今でも決して忘れは致しませんが、……三人が客間に落ち会いました時……そのドーブレクが恋の遺恨から吐き出しました<ruby><rb>悪口雑言</rb><rt>あくこうぞうごん</rt></ruby>、あの凄い声は今だに私の耳に残っております。ビクトリアンも困ってしまいましたほど、あの時の様子の怖ろしさ、獣の様な……、ええ、怖ろしい野獣の様な表情を致しまして……歯を喰いしばり、足をふみならして申しました。その<ruby><rb>眼色</rb><rt>めいろ</rt></ruby>……当時眼鏡はかけておりませんでしたが……ギロリと光る眼をきっと見据えまして、『この恨は晴らすぞ……きっと晴らしてやるぞ……貴様達に俺の力はわかるまいが……俺は待つ、十年でも、二十年でも……その時は落雷の様に荒らしてやる……ああ、貴様達は知るまいが……復讐……この恨を晴らすために……晴らすために……ああ愉快だ……俺は復讐のために生きるんだ……俺は貴様達に<ruby><rb>跪</rb><rt>ひざまづ</rt></ruby>いて<ruby><rb>憐</rb><rt>あわれみ</rt></ruby>を乞わしてやるんだ……<ruby><rb>地面</rb><rt>じべた</rt></ruby>へ手をつかして……』と猛り狂うのを折よく入って来た父と下男との手を借りてメルジイが戸外へ突き出しました。それから六週間ばかりして私はビクトリアンと結婚致しました』

『それで、ドーブレクは？　何か妨害を加えませんでしたか？』

『いいえ。でも不思議なことには結婚式に列して下すったルイ・プラスビイユさんが宅へ帰られてみると、その、恋人の女優さんは……何者かに頸を絞められて、惨死していらしたのです……』

『エッ！　何んですって？』とルパンは<ruby><rb>跳</rb><rt>おど</rt></ruby>り上って驚いた。『ではドーブレクが……』

『ドーブレクがその女優を付け狙っていた事はわかっておりますが、何分証拠がない事には致し方がございません。ドーブレクが女優の処へ来たと云う証拠もなく、<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>に一ツ手懸りを得ないので、どうも仕様がありませんでした』

『だがプラスビイユは……』

『プラスビイユさんも、<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>ども同様何も解りません。恐らくドーブレクが女を連れて、どこかへ逃げようと致しました処、女優さんが云う事を聞かず、激しく抵抗したので、かっとなって喉を掴んで殺してしまったのでしょう。しかしそれにしても証拠が一ツもないのでついそれなりになってしまいました』

『それからドーブレクはどうなりましたか？』

『それから数年の間は、何をしていたかちっとも<ruby><rb>消息</rb><rt>たより</rt></ruby>を聞きませんでしたが、噂によりますと、<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>んでも賭博ですっかり財産を無くしてしまい、内地にも居られなくなってアメリカに渡ったそうです。そんな訳ですから、<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>も、忘れるともなしにあの脅迫や憤怒のことを忘れてしまい、ドーブレクもう私の事を<ruby><rb>断念</rb><rt>あきら</rt></ruby>めて、復讐の念を断った事と存じていました。その内に<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>が政界に出ましてからは、良人の出世とか、家庭の幸福とか、アントワンヌの健康なぞに心をとられていました』

『アントワンヌ？』

『ええ、実はジルベールの本名なのでございますが、さすがにあれも、身を恥じて本名を隠していたのでございましょう』

ルパンはちょっと躊躇していたが、

『で、いつ頃から……ジルベールが……始めたのです？』

『いつと<ruby><rb>明確</rb><rt>はっきり</rt></ruby>申上げかねますが、ジルベールは――やはり本名を申すよりこの名の方がよろしゅうございます――ジルベールは幼少の自分は愛嬌のある可愛らしい子供でしたが、ただ勉強が嫌いでなかなか強情張りでした。家に置きますと我侭も増長致しますから、十五の時に<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリー</rt></ruby>から少し離れた郊外にある中学校の寄宿舎に入れましたが二年と経たない内に退学されて参りました』

『なぜです？』

『品行が悪いんです。学校の方で調べた処によりますと、夜寄宿舎を抜け出たり、あるいは数週間も学校に帰らないで、家事上の都合で<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>に帰っていたなどと言訳をしていたそうでございます』

『何をしあるいていたんのでしょう』

『遊びあるいていたのです、競馬場へ入ったり、<ruby><rb>珈琲店</rb><rt>カッフェ</rt></ruby>や<ruby><rb>舞踏場</rb><rt>おどりごや</rt></ruby>へ入り浸っていたのです』

『そんなに金を持っていたのですか？』

『ええ』

『だれから貰っていたのです？』

『ある一人の悪漢が、親に内緒で金を貢いで、学校を抜け出させて、段々と堕落させる様に仕向け、嘘を吐くこと、金を遣うこと、盗みをすることなどを教わったのでございます』

『それはドーブレクですか？』

『そうです』クリラス・メルジイはしばし<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を両手に伏せて暗然としていたが、また<ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby>を続けて、

『ドーブレクが復讐をしたのです。<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>もとうとう愛想を尽かして、ジルベールを勘当致しました。その翌日、ドーブレクはずいぶん皮肉な手紙を寄越しまして、あの子を堕落させようとした企みの成功した事を誇らしげに述べ、終りに「最近には感化院の御厄介となり、……次いで裁判所に曝され……終りに断頭台上の人となる事を希望致しおり<ruby><rb>候</rb><rt>そうろう</rt></ruby>」ですって……』

ルパンは叫んだ。

『何ッ！　ではドーブレクの奴が今度の事件を細工したんですか？』

『いえ、いえ、それはほんのふとした間違いでして、あの忌わしい呪が事実になったに過ぎません。が私どもはそれ以来どんなに苦しんだ事でしょう。当時私は病気中でございまして、まもなくこのジャックが生まれました。それからと申しますものは、毎日の様に、ジルベールが行った悪事ばかりが耳に入ります、やれ偽造行使だとか、窃盗だ詐欺だと云う事ばかり……で私どもであれは外国へ行って、死んだと世間へは申しておりましたもののずいぶん悲しい日を送っていました。それにもまして悲しい事が<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>の政治関係で嵐の様に起って参りました』

『何んです、それは？』

『一語申上げれば御解りでしょうが、二十七人連判状の件です』

『アッ、そうですか！』

ルパンが眼前に閉された<ruby><rb>垂帳</rb><rt>カアテン</rt></ruby>は<ruby><rb>豁然</rb><rt>かつぜん</rt></ruby>として開かれた。彼が今日まで黒暗々裡に、暗中模索に捕われていた迷宮に、<ruby><rb>忽焉</rb><rt>こつえん</rt></ruby>として一道の光明が現れたのを覚えた。

クラリス・メルジイは<ruby><rb>確</rb><rt>しっ</rt></ruby>かりした口調でなお語り続ける。

『ええ、名前が載っているとは申しますものの、<ruby><rb>過失</rb><rt>あやまち</rt></ruby>と云うよりは、不幸でしたのでしょう、つい犠牲になってしまったのです。当時メルジイは両海運河工事調査委員を致しておりました所から、会社の計画に賛成する者と一緒になってその<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>の投票を致しました。ええ、受取りました。<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>に十五万<ruby><rb>法</rb><rt>フラン</rt></ruby>の金を会社から受取りました。しかしその金はある親密な政友の懐に入ってしまって、その政友の道具に使われたに過ぎないのでした。夫は少しもやましい所がないと信じていたのが大間違いでして、まもなく運河会社社長の自殺、会計課長の行方不明の事から運河事件に醜関係のある事が暴露致しまして、その時初めて、気付きますと、同僚の者が皆会社から買収され、各党の<ruby><rb>領袖</rb><rt>りょうしゅ</rt></ruby>や、有力な閣員をはじめ収賄議員の名前が、秘密の連判状に乗っていると云う評判が立ちました。私どもは非常に心配致しました。その連判状が公表されはしないか、名前が世間に出はしないかとホンとに命も縮む様でございました。あなたも御承知の通り、議会は非常な騒動で、議員達も<ruby><rb>戦々兢々</rb><rt>せんせんきょうきょう</rt></ruby>と云う有様でした。誰れがその連判状をもっているかは、少しも解りません。とにかく連判状があると云う事だけは確かでした。世間から睨まれた二人、その二人は嵐の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に葬られてしまいましたが、さて、誰れの手にその連判状が握られているかはとうとう分らずにしまいました。』

『ドーブレクですか？』とルパンが云った。

『いいえ。ドーブレクはその頃は名も知られない男で、まだ舞台へは現れて参りません。ところが、意外にも突然連判状の所在が知れました、と云うのは自殺した運河会社社長の<ruby><rb>従弟</rb><rt>いとこ</rt></ruby>であるジェルミノーさんが肺病で死ぬる間際に、警視総監に手紙を<ruby><rb>途</rb><rt>おく</rt></ruby>って、実はあの連判状は自分の<ruby><rb>室</rb><rt>しつ</rt></ruby>の金庫内に保管してあるから、自分の死後取り出してくれと申したのでございます。ジェルミノールさんの邸は直ちに警官で厳重に警戒し、総監は病床に付き切りでしたが、ジェルミノールさんが、死なれたので、金庫を開けて見ると、中は<ruby><rb>空虚</rb><rt>から</rt></ruby>……』

『今度はドーブレクですな？』

『ええ、ドーブレクです』とメルジイ夫人の感情は次第に興奮して来た。『アレキシス・ドーブレクは、どうしてあの有名な書類がジエルミノーの手にある事を知ったか存じませんが、とにかく六ヶ月<ruby><rb>前</rb><rt>ぜん</rt></ruby>から巧みに変装して、ジエルミノーの書記に住み込み、あの方の死ぬ前の晩、金庫を破壊して<ruby><rb>窃</rb><rt>ぬす</rt></ruby>み取ったのです。調査の結果、それがドーブレクの<ruby><rb>所業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>である事が解りました』

『だが、捕縛しないじゃありませんか？』

『でも仕様がありませんもの。ドーブレクはすぐにそれを安全な所へ<ruby><rb>匿</rb><rt>かく</rt></ruby>してしまったでしょうし、それに捕縛など仕ようものならば、あの<ruby><rb>醜穢</rb><rt>きたな</rt></ruby>い問題がまたまた火の手を揚げて、<ruby><rb>暗</rb><rt>くらやみ</rt></ruby>の恥をあかるみへ出す様なものですからね』

『フム、なるほど？』

『そこで、ドーブレクと妥協をしたのです』

『エ、ドーブレクと妥協、こりゃ怪しい、ハッハ……』とルパンは笑い出した。

『まったく、をかしいんですよ』とメルジイ夫人は苦々しげに『この間にも、ドーブレクの方では早くも活動を開始しまして、最初の目的へ進みました。<ruby><rb>窃</rb><rt>ぬす</rt></ruby>み出してから八日目に議院に夫を尋ねて参りまして、二十四時間以内に三万<ruby><rb>法</rb><rt>フラン</rt></ruby>の金を出せ。出さなければあれを発表して社会から葬ってやると脅迫しました。あの人間を知っている<ruby><rb>夫</rb><rt>たく</rt></ruby>は、出さねばどんな事をされるか解らない、と云って金の調達は<ruby><rb>早々</rb><rt>はやばや</rt></ruby>に出来ず、つい思案に余ってあの通り自殺致しました。……ですから、あの連判状を種に脅迫された方々は金を出すか、自殺するより<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>がないのです』

『フーム、実に悪辣な野郎だ』

しばく沈黙している間に、ルパンは兇悪無残なドーブレクの生活を考えてみた。彼が一度連判状を握るや、これを<ruby><rb>材料</rb><rt>たね</rt></ruby>にして<ruby><rb>盛</rb><rt>さかん</rt></ruby>に<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>から暗へ辛辣な手を延ばして、大金を<ruby><rb>強請</rb><rt>ゆす</rt></ruby>り取り、ついには閣員を脅迫して代議士になりすまし、当路の大官、醜代議士連の弱点を押えては私利私欲を<ruby><rb>恣</rb><rt>ほしいまま</rt></ruby>にしているが、当事者もこの一個の怪物をいかんともする事が出来ず、毛を吹いて疵を求むる底の事を為すよりは、唯々諾々として怪兇の命にこれ従うより<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>はないのであった。ただし唯一の対抗策としてプラスビイユを警視総監に抜擢したのも、要するにドーブレクと個人的に仇敵の間柄であるためで、わずかにこれをもって政府の大敵たるドーブレクに対抗せんとする真意に<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>ならないのだ。

『で、あんたは彼と御会いですか？』

『ええ、時々会いました。と申すよりは会わなければならなくなりました。<ruby><rb>夫</rb><rt>たく</rt></ruby>は死にましたが、名誉はまだそのままとなって、誰れもその真相を存じていません。ですから私は最初に、ドーブレクの会見申込に応じました』

『その後、たびたび御会いですか？』

『幾度も会いました』と夫人は力ない声で云った。『ええ幾度も会いました……劇場とか……夜、アンジアンの別荘とか……パリーの邸とかで……それも夜です……と申しますのは、私もあんな男と会うのを人に見られるのが恥しいからでございます。しかしそれも私の胸にある一念から余儀なくああしなければならなくなったのでして……私の夫の<ruby><rb>讐</rb><rt>あだ</rt></ruby>を晴らしたいばっかりに……ええ、復讐です。私の今日までの行動も、生きていると云うことも、ただこの一念からでございます。夫の仇、我が子の仇、私の仇、あらゆる苦しみを与えられたこの私の仇、それを晴らします……私はこの<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に何の望みもありません、何の目的もありません。私の望む所は、ただあの男を踏みにじり、彼の苦痛、彼の涙を見たいばかりです……あの鬼の様な男にも涙があるか……それを見とうございます。あの男の<ruby><rb>悲涙</rb><rt>ひるい</rt></ruby>、あの男の絶望！』

『あの男の死もまた欲するんでしょう』とルパンは過ぎし夜の彼等両人の悲劇を思い出して云った。

『いえ、殺したくはありません。そんな事を思わぬでもなかったのですが……殺そうと刄の腕を振り上げた事もございましたが……あの男だってそのくらいの用心はございます。のみならず、あの連判状が残っておりますし、それに、何も殺すばかりが復讐ではございません……私の恨み憎しみはもっともっと深うございます、死にまさる苦痛を与えて、この世からあの悪人を<ruby><rb>滅</rb><rt>ほろぼ</rt></ruby>さなければ止みません、それにはただ一ツの方法、あの連判状を奪い返し、その爪を剥いでやります。ドーブレクは<ruby><rb>連判状</rb><rt>あれ</rt></ruby>を持っていてこそ、力もありますが、あれがなくてはドーブレクの存在がございません。その時、その時こそドーブレクが、哀れな姿となって自滅します。私の求めているのはただこれだけです』

『しかし、ドーブレクはあなたの計画を知らないではいますまい？』

『無論知っています。知っていながら、私どもは妙な会見をしています。私はあの男を監視し、その一挙一動から、その一言半句から、隠された秘密を<ruby><rb>捜</rb><rt>さぐ</rt></ruby>ろうと致しますし、その男は……あの男は……』

『あの男は……』とルパンはクラリス・メルジイの胸中を推察して『あの男は、その望む餌食を狙っている……今なお愛する事を止めない婦人を狙って……あらゆる手段をもって手に入れようとしているんですね……』

彼女は頭を垂れて、ただ『ええ』と云った。

実に不思議な闘争かな。ドーブレクはその已み難き情熱のために、求めて讐敵の的となって、彼が生命をさえ奪わんとする女をば、いかにもして手に入れんものと、我から接近して行く。男は恋のため、女は<ruby><rb>怨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>のため、互に相会う不可思議な闘争！

『して、あなたの活動の結果は……どうでした？』

『長い間の捜査の苦心も、ほんの無駄骨を折ったに過ぎません。あなたの為すった捜査の方法、または警察の方でしている調査の手段、それ等は皆、私が数年前から試みたことで、すべて無駄でございます。私はほとんど絶望の淵に沈みましたが、ある日アンジアンの別荘にドーブレクを尋ねて参りまして、ふと書斎の<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の下の屑籠の傍へ投げ出されあった皺苦茶の手紙の片端を見ましたので、何心なく拾い上げて読みますと、自筆の覚束ない英語で、

「水晶の内部を空洞となし、その空洞なる事を何人といえども看破し得ざる様に御製作<ruby><rb>相成度</rb><rt>あいなりたし</rt></ruby>……」

と書いてございました。この時庭に居りましたドーブレクが大急ぎで駈けて参りまして<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>をしきりに捜し廻らなかったらば、私はおそらくこんな<ruby><rb>紙片</rb><rt>かみきれ</rt></ruby>を気に留めなかったでございましょう。あの<ruby><rb>男</rb><rt>ひと</rt></ruby>は、<ruby><rb>猜疑</rb><rt>うたぐり</rt></ruby>深い目で私を見ながら、

「ここにあったはずですがな……手紙が……」

私は何の事か解らない風を装っていましたので、それ以上別に何とももうしませんでしたが、その<ruby><rb>急々</rb><rt>そわそわ</rt></ruby>した様子を私は見逃しませんでした。その後一ヶ月ほど致しまして、私は広間の<ruby><rb>暖炉</rb><rt>ストーヴ</rt></ruby>の灰の中から英文の手紙の半片を拾いました。ストーアブリッジの硝子商ジョン・ホワードから、ドーブレク代議士に、見本通りに製作した水晶の水差しを送ったもので、「水晶」と云う文字に気が付きましたから、私は早速ストーアブリッジに参りまして、その店の副支配人を買収して聞き正しました所によりますと、代議士の註文通り、「水晶の内部を空洞となし、その空洞なる事を何人といえども看破し得ざる様に」製作したものだそうでございます』

『フーム。なるほど、間違いのない調査ですな。けれども、私の思うには、金の線の下と云うと……隠匿場所は実に微小なものですね』

『微小ですが、それで十分なのです』

『どうして知りましたか』

『プラスビイユから』

『じゃあんたは知っていたんですな？』

『ええ、その当時から、その前までは、<ruby><rb>夫</rb><rt>たく</rt></ruby>も<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>も、ある事件のためにあの方とは一切関係を絶っておりました。ブラスビイユはずいぶん卑劣な<ruby><rb>性</rb><rt>たち</rt></ruby>で、それでいて浅薄な野心家でして、両海運河事件には実に醜劣な仕事をしていたのでございます。収賄ですか？　きっとしています。しかしそんな事を<ruby><rb>関</rb><rt>かま</rt></ruby>ってはいられませんでした。私は助力者が欲しかったのです。当時あの男は警視庁の官房主事に任ぜられましたので、私は遂にあの男を選ぶ事に致しました』

『彼れは御子息のジルベールの行動を知っていましたか？』とルパンが途中で口を挟んだ。

『いいえ。あの方の位置が位置ですから、私も相当用心致しましてこれまで世間の人々に話した通り、ジルベールは家出をして死んだとだけ申しておきました。ただ、夫が自殺をした原因と、私がその復讐を決心した次第を打ち開けまして、ただ今申上げた通り、水晶の栓の秘密を発見したことを話しますと、ブラスビイユも非常に喜びまして、<ruby><rb>種々</rb><rt>いろいろ</rt></ruby>相談致しましたが、結局あの方の話に依りますと、その連判状に用いた紙は非常に薄い特製の用箋で、畳み込めば、非常に微小なものとなって、どんな小さい穴へでも隠せるとの事でした。こう解りますと大変張合も出来ますし、また私にしろ、あの方にしろドーブレクとは仇敵の間ですから、極秘の裡に打合をしつつ、めいめいそれぞれの活動を始めました。第一に女中のクレマンスを味方に引き入れました。え？　ええただ今ではプラスビイユの方へだいぶ力を尽しておりますが、当初は私どものために<ruby><rb>計</rb><rt>はから</rt></ruby>ってくれました。ちょうどこの時分、今から十ヶ月ほど前ですが、ジルベールが私を尋ねて参りました。目の当りに会ってみますれば、あんな<ruby><rb>無益者</rb><rt>やくざもの</rt></ruby>でも、やはり我子は可愛うございます。それに弟のジャックに頬摺をして、泣いて詫びますので、私もあれの罪を許してやりました』と云って婦人は声を低くめた。

『その後父の事、またドーブレクの奸悪な手段等を話して聞かせますとジルベールも涙を流して口惜しがり、親の<ruby><rb>讐</rb><rt>あだ</rt></ruby>、家の<ruby><rb>仇</rb><rt>かたき</rt></ruby>、また自分の敵であるあのドーブレクを命にかけても生かしてはおかないと、ごく秘密の裡にあの児と力を協せて事を計っておりました。そして最初あれの考えでは第一にあなたの御力をからなければならないと……』

『そうとも……ぜひそうなければならないです』とルパンが叫んだ。

『ええ、私もそう存じました。けれども、悲しい事には、御承知の通りジルベールは至ってお人好しですから、つい、仲間のものにだまされて巻き込まれてしまいました』

『ボーシュレーでしょう？』

『ハイ。あの男は実に強欲な狡猾な奴で、私どもがあの男を信じたのがそもそも間違いでございました。これは後でグロニャルとルバリュに聞きましたんですが、ボーシュレーは連判状を手に入れると、あなたを警察に引き渡した上、やはりドーブレクのやった様に、連判状を<ruby><rb>材料</rb><rt>たね</rt></ruby>に金を<ruby><rb>強請</rb><rt>ゆす</rt></ruby>ろうと計っていたのでした』

『フム、馬鹿野郎』とルパンが呟いた。『あんなコンマ以下の人間が……で、何んですか、あの寝室にやった羽目板の細工も？…………』

『ええ、皆ボーシュレーの指図でございます』と夫人は力無げに云った。

夫人の話はなかなかに尽きなかった。彼女等はボーシュレーを参謀にしてドーブレクとルパンとに対する闘争の準備として、両方に例の羽目板細工を施し、<ruby><rb>侏儒</rb><rt>こびと</rt></ruby>を使って、ルパンの秘密を捜らしていたが、夫人も最後には、ボーシュレーの悪辣を嫌って愛児ジャックを使ったとのことであった。ルパンの手に入った、水晶の栓を二度奪い返したのも彼女であった。

『けれども、あなた、あの水晶の栓の中には何もございません。何一ツ入れるべき<ruby><rb>隠処</rb><rt>かくしどころ</rt></ruby>もありません。紙一枚入っておりませんですからあのアンジアンの夜襲も無駄、レオナールの殺害も<ruby><rb>無益</rb><rt>むえき</rt></ruby>、<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby>の捕縛も<ruby><rb>無益</rb><rt>むだ</rt></ruby>、私の努力のすべても<ruby><rb>無益</rb><rt>むだ</rt></ruby>になってしまいました』

『エッ、なぜ？　なぜです？』

『<ruby><rb>彼品</rb><rt>あれ</rt></ruby>はドーブレクがストーアブリッジのジョン・ハワード商会に註文した時、見本として送って来た品に過ぎないのでございます。』

もしこの時、夫人の深刻な悲痛の顔が、彼の眼の前になかったならば、ルパンは、この運命の悪戯による痛烈な皮肉に対して哄笑を禁じ得なかったであろう。

彼女はハワード商会に手を入れて、栓の突端に微かな傷のあるのが見本だと云う事まで取調べていた。そして、見本の栓を奪う事によって、ドーブレクのために目的を感付かれては万事休するので、ジャックを使ってドーブレクの手元へ人知れず隠したのであった。

ルパンが出現してドーブレクの邸内に潜み出してから、彼女の活動はルパンが怖ろしくて手も足も出せなくなった。そのために例の手紙や、また劇場に来てはならないなどと云う電報をも打ったのであった。のみならず彼女は一度彼を訪問した。そして一切を打開けてその助力を乞おうとした。しかし……

『しかし、あの時にはジルベールの手紙を横取せましたね。だがジャック君ではなかったはずですが……フム、自動車の中に待たしてあったのを、窓から引き入れた？……そうでしょう、そうでもしなければあの手紙が奪れる訳ではないですから、で手紙の内容は？』

『ジルベールは大層、あなたを怨んで、仕事を奪ったばかりでなく、部下を見殺しにするとは余りだと書いてございましたので私も半信半疑の心持になって、とうとう逃げ出してしまいました……』

その後彼女がジルベールを救出すには最後にただ一ツの方法しか遺らなかったのである。彼女はドーブレクが執念、蛇の如き欲求を入れなければならないのだ、その欲求を入れれば……ジルベールは助かる。しかし、夫の仇、倶に天を戴き得ない深讐綿々たる怨の敵……とは云え、<ruby><rb>繊弱</rb><rt>かよわ</rt></ruby>い女の身として、一ツには我児の愛に惹かされて、今後あるいは身を殺して仇のために左右せられんともかぎらない。……思えば呪の運命に弄れた不幸な彼女、その<ruby><rb>愁</rb><rt>うれい</rt></ruby>に沈む夫人の心情、人として何人かこれを目前に見て看過し得よう。いわんや侠気自ら許すルパンである。彼の眼底に同情の涙が湧くと同時に、その眼光に、正義の光が物凄く輝き出した。

『よくお聴きなさい。私はあなたに誓ってジルベールを救います……私はあなたに誓う……ジルベールは決して殺させない！解りましたか……この私の眼の黒い間は、天下いかなる権力者たりとも、断じてジルベールの頭に指一本でも触れさせません……よろしい、私を信じなさい……これこそ<ruby><rb>未</rb><rt>いま</rt></ruby>だかつて敗北を知らないルパンの言葉です。私はきっと成功する。……がただこの際、あなたが今後断じてドーブレクと遭わない事を決心していただきたい』

『ええ、私は誓いましょう』

かくてルパンは夫人と種々打ち合せた上、夫人が久しい間に亙る繊弱き女性の身をもって東奔西走と苦心焦慮の極みを尽したため心身共に極度に疲憊しているので、とりあえず<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリー</rt></ruby>から遠くも離れぬサン・ジェルマンの森に住む彼女の女友達の処へ寄寓させて、<ruby><rb>母子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>共当分の休養を取らせる事にした。

## ｟六｠モンモールの古城

アルセーヌ・ルパンは一方の競争者に握手をした以上、これからはいよいよ怪物ドーブレクとの大闘争を開始しなければならなかった。随って従来の計画を全部放棄して、ドーブレク代議士を誘惑しこれを捕虜とする大計画を確立してグロニャールとルバリュに命じて代議士の動静をいっそう綿密に捜査させる事にした。

ある日午後四時頃、書斎の電話がけたたましく鳴った。サン・ジェルマンの友人から、メルジイ夫人が毒薬を飲んだからすぐ来てくれと云って来たのであった。

一大事とばかりルパンは自動車を飛ばしてサン・ジェルマンに駈け付けた。

『死にましたか？』と火の付く様。

『いいえ、幸い分量が少かったので、大丈夫ですわ。え？、実はジャックちゃんが誘拐されたのです。自動車で泣き叫ぶのを連れ去ったらしく、クラリスさんはそれと見て狂気の様になり、『あの男だ……あの男だ……もう駄目！』と呻いて倒れたかと思うと、小さな壜を取出して一口お飲みになったのです。驚いて、<ruby><rb>夫</rb><rt>たく</rt></ruby>と<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>とでとりあえず御介抱したのですが、……二週間も安静にすれば気も落ち付きましょうが……でも、お子さんが見附からないと、やはりね……』

『じゃ、子供さえ取返せばいいんですな』とルパンは<ruby><rb>遽</rb><rt>あわただ</rt></ruby>しく訊ねた。『よろしいッ。私はこれから行ってジャックを取り戻して来ます。クラリスさんが目を醒したら、今夜の十二時前までには必ず子どもを連れて来るから安心なさいと仰っていただきたい。では、後をよろしく願いますよ』

と云いすてて戸外に出で、ヒラリと自動車に飛び乗ると、

『<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリー</rt></ruby>へ。ラマルチン街のドーブレクの<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>だ、全速力だぞ！』

彼の自動車の内部は事務室であり、書斎であり、また変装室であるように出来ていて、あらゆる参考図書は<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>より、ペン、インキ用箋の文房具、化粧箱、各種の衣服を始めとして、<ruby><rb>仮髪</rb><rt>かつら</rt></ruby>、<ruby><rb>附鬘</rb><rt>つけかつら</rt></ruby>の類から、<ruby><rb>種々</rb><rt>いろいろ</rt></ruby>の装身具小道具まで巧みに隠してあった、彼は自動車の疾走中にいかなる千変万化の変装でも為し得るのであった。

かくてドーブレクの邸に現れたのが、フロックコートに山高帽、金縁の鼻眼鏡に斑白の顎髯のある頑丈な中年輩の紳士であった。玄関へ出て来たビクトワールは、

『主人はただ今臥っておりますし時刻も夜分でございますから……』と云って何としても取り次ぎそうになかった。

『オイ、いい加減にしろよ。赤ン坊じゃあるまいし。解らんのか。急ぐんだよ！』

『アッ、あなた、あなたですかい！』

『いや、ルイ十六世さ、アッハハ……だが<ruby><rb>乳母</rb><rt>ばあや</rt></ruby>は俺が奴と面会している間に、大急ぎで荷物を纒めて、この邸を逃げ出すんだ……なんでもいいから俺の云う通りにしなさい。<ruby><rb>往来</rb><rt>とおり</rt></ruby>に自動車が待たしてあるから、それに乗るんだよ、大急ぎ大急ぎ……』

彼はベルタ医学博士と名乗ってドーブレクに会い、メルジー夫人の自殺を計った次第を述べた。さすがの代議士もいささか驚いた気味であったが、何事か考えていた。

『何にしろ、夫人が熱のために夢中になって「あの人です、あの人です、……ドーブレク……代議士です……子供を返して下さい……あの人にそう云って下さい……さもなければ私は生きていません……」と申しますので、とにかく、一応あなたに御伺いしたら解ることと思って参りました』

代議士は長い間沈黙していたが、突然、「ちょっと失礼します」と云って電話機を取り上げた。

『モシモシ……モシモシ八二二・一九番……』

ルパンは微笑した。

『モシモシ、警視庁？……ええ官房主事のプラスビイユさんに願ます……私？私はドーブレク、代議士のドーブレクです……やあプラスビイユ君か？……え、なんだい、驚いたって？……ああ、全くだ、長い間御無沙汰したね……だがお互に心の中じゃ始終忘れっこなしさ……それに君や、君の部下の連中がたびたび留守中に訪ねて来てくれたってね……モシモシ、え？　忙しい？、……俺も忙しいよ。……ところで、だ。君のためになる事件が起ったんだ……まあ、待てよ、馬鹿……待ってってば……馬鹿……君の手柄になろうてんだよ……モシモシ聞いているかい？……君の部下を五六名大至急派遣するんだ……自動車で……君のために無類の獲物を掘り出してやったよ……ウン、殿様ナポレオン一世……一言で云えばアルセーヌ・ルパンよ』

ルパンはアッと驚いた。相当の覚悟はして来たものの、よもや、プラスビイユを呼び出そうとは思わなかったが、しかしこれくらいのことでビクともする男じゃない、彼は<ruby><rb>呵々</rb><rt>からから</rt></ruby>と笑った。

『よううまいうまい！』

代議士は邸内にビクトワールも居ると云った。シャートーブリヤン街で、ミシェル・ボーモンと偽名している事も云った。

『どうだい。ルパン。手取り早い話じゃないか。これで我々の立場が明白になったぞ。ルパン対ドーブレク。この一勝負だ。ところで警官隊が来るまでには三十分しかないぞ！　足元の明るい内に尻尾を捲いて退却したらどうだい、アッハハハハ』

彼はあらゆる言葉を尽して、滔々と毒付いた。<ruby><rb>可驚</rb><rt>おどろくべし</rt></ruby>、何事も知るまいと思いきや、彼はメルジイの愛児ジャックの忍び込みからメルジイ夫人との同盟、ビクトワールの室に寝泊りしていた事、一切合切を知っていた。

『何と云われてもルパンは肩一ツ動かさない。彼は静かにシャートーブリヤン街の隠家に電話をかけてアシルに、警官達の行く事を知らせ、ユーゴー通りに自動車が待たして、ビクトワールも乗っているからと告げた。

『さあ、それで用済みだ。ところで、ドーブレク。問題は簡単だ。子供を返せ』

『子供を返すのは御免を蒙る、金輪際、御免を蒙るよ』

『フン、おおかたそう出るだろうと思っていた。……じゃ俺もルパンと知れたからにゃ、考えがある。……どうだ、ドーブレク、ここに目録がある。それは云わずと知れたアンジアン湖畔の別荘で分捕った品物の総目録だ。どうだ、貴様が、メルジイ夫人に子供を返すなら、俺もこの品物を返してやろう。……え？　何ッ、フン貴様の様な犬畜生の性根じゃ、俺の行為も色目で見やがるだろうからな、俺の心意気は貴様達の頭じゃ解りっこなしさ……どうだ手を打つか？』

ドーブレクは意外に打たれた。しかし強欲で打算的な彼はたちまち喜んだ。

『よしッ。承知した。荷物と引換えに子供を返してやろう……』

『ところで、一人の子供の問題は片が付いた。まだ一人ある』

『ジルベールか？』

『貴様に頼むが、ジルベールの救助に一骨折ってくれ』

『馬鹿。ヘン御断りよ』と云った代議士の相貌にはみるみる野獣の本性を現して来た。『ヘン。御断りだ。俺は二十年来、今日ある事だけを待つために生きて来たんだ。メルジイ自身で来て俺の前で嘆願すりゃ、そりゃ次第によっては聴いてもやろうさ。だが貴様だけじゃ、御断りだ』

『どうしても聴かなきゃ、聴かないでいいさ。ヤイ、ドーブレク。俺の云う事を、よっく覚えていろッ。いずれ俺はある方法で、貴様に致命傷を与えてやる。その時に泣顔を掻くな。……何ッ。例の連判状を貰いに来るからその積りで用心しろ』

『フフン。奪るとな、笑わせやがる。アッハハハ』

『勝手にしやがれ。だが、俺が思い立ったら最後成就せずにゃおかねえから。ヤイ。俺を誰れだと思う。アルセーヌ・ルパンだぞ』

『俺はドーブレクだ。フン。勝手にしやがれさ、……だが、いよいよジルベールの死刑が確定すりゃあ、いやでも俺の袖に縋るより外はないのだ。メルジイは誰が何と云っても俺の妻さ。アレキシス・ドーブレク夫人となるのさ。いずれ結婚披露には貴様も招待してやるから、楽しんでいるがいい。ハハハハ、だが、もうこうなった以上は、オイ、ルパン、トット出て行ってもらおうよ』

ルパンは無言のまま、物凄い眼光を据えて相手を見詰めた。ドーブレクも思わず身構えをした。両雄の虎視まさに眈々、ハッと思う刹那ルパンの手は懐中へ入る。と同時にドーブレクも懐中のピストルを握る。二秒三秒……冷然としてルパンは手を突き出した。掌上には小さな金紙を貼った小函一箇。開いたままドーブレクに差し出した。

『<ruby><rb>飴菓子</rb><rt>ドロプ</rt></ruby>よ？』

『な、何んにするんだい？』とドーブレクは面喰った。

『ビクビクするない。ジェローデルのドロップだよ』

『何んにするんだ？』

『だいぶ熱があるから風薬に嘗めるんさ』

意表の悪戯に、代議士が度肝を抜かれて<ruby><rb>周章</rb><rt>ふた</rt></ruby>めいている隙に、ルパンは素早く帽子を鷲攫みにしてプイと室外へ抜けた。

『今の趣向は我ながら。秀逸々々』と彼は玄関を通りながら笑った。『面喰った<ruby><rb>醜態</rb><rt>ざま</rt></ruby>ったらないね。毒薬と思いきや、ドロップを出されたんで、山猿め、すっかり毒気を抜かれやがった。ハッハハハ』

門を出るとちょうど一台の自動車が邸内に走り込んだ。ブラスビイユを先頭にドヤドヤと降りる警官の一隊。

ルパンの姿は闇に消えた。

ジャック少年を取り戻したルパンは<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリー</rt></ruby>の附近危しと考えたので、夫人をブルターニュー海岸へ移転静養せしめ、彼は<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリー</rt></ruby>郊外に新しい隠家を求めた。

まもなく彼はドーブレク代議士の出身地から地方政客として名のある男を呼び寄せ、その男の手からドーブレクをある料理屋に誘き寄せ、そこで大仕掛に兇漢誘拐を計画した。

がしかし、当日、ドーブレクは自分の書斎において、四人連れの男のため、<ruby><rb>拳銃</rb><rt>けんじゅう</rt></ruby>を放つほどの大挌闘を演じた末、時もあろうに白昼どこともなく引攫われてしまった。

ルパンの計画はまたまた瓦解した。

肝心の目的物が魔の手に攫われたのにはさすが蓋世の怪盗も唖然として驚いた。しかし第三の計画を樹立する前に彼はまずドーブレクの行方を突き止めなければならず、またその生死を明らかにしなければならなかった。

その日の夕方プラスビイユがドーブレクの宅で独り居残って綿密な捜査をしている処へメルジイが尋ねて来た。

プラスビイユの前に現われたのはクラリス・メルジイのみならず、その<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>には古ぼけた七ツ下りのフロックを着けた紳士が<ruby><rb>恐々</rb><rt>おずおず</rt></ruby>と随いて来た。彼は古い山高帽やダブダブの雨傘や汚い手袋などを両手に持って極り悪るげにモジモジしていた。

『この方は文学士のニコルさんで、ジャックの家庭教師を御願してございますが、私どもとはごく親しい間柄で、私も何によらず御相談を願っている方でございます。私どもの計画していました事もすっかり無駄となりまして、落胆致しました。ドーブレクの行方につきまして何か手懸りでもございましたでしょうか？』

『いや、弱りましたよ。何一ツ証拠にする様な物もなし、まるで風の様にサッと来てアレアレと云う間に攫ってしまったのですからなあ……』

プラスビイユもよほど閉口しているらしかった。

『で、残り物と云えば出口の<ruby><rb>鋪石</rb><rt>しきいし</rt></ruby>の上に賊どもが取り落して破したものらしいこんな象牙の破片が落ちていました。……どうです、ニコルさんとやら何とか見当が付きますかね？』

彼は嘲笑的口調で、暗に意見を促した。ニコル教師は椅子から動こうともせず、伏目がちになって、頻りに帽子の縁を撫で廻して、その遣場に困っているらしい。

『閣下、いかがでしょう。この象牙の破片が何とか物になりませんでしょうかなあ。』

『フフン。これですか。どうも仕方が無いでしょうなあ、こんな物は……』

ニコル氏はフト思い出した様に、

『閣下、ナポレオン一世の在位の頃に地位名望を得てその没後振わなくなった、ある貴族の子孫に当るものはございませんでしょうか。――ナポレオン党の領袖でしたでしょうが……これはその人のではなかろうかと存じます。と申しますのはこの破片にはどうやらナポレオンの半面像がありますからなあ……と申上げれば名前を申上げずとも御解りでしょうが……』

『アルブュフェクス侯爵……』とプラスビイユが呟いた。

『そうです、アルブュフェクス侯爵です……』

彼――ニコルは官房主事に向い至急にアルブュフェクス侯爵に関する詳細な調査を依頼すると同時に、彼自身侯爵の行動を一々探偵した。

苦心に苦心を重ね、十数日を費やした結果、――ニコルすなわちルパンは侯爵がたびたびアミアンとモントピエールの間に猟に出掛ける事を知った。そう云えばその附近にかつては侯爵の居城で、今は廃墟となっている通称モンモールの古城と云うのがあった。彼はこれに目を付けた。

『ドーブレクの幽閉されているのはそこだ』とルパンは叫んだ。

古城の麓を廻る急流。しかも両岸は<ruby><rb>突兀</rb><rt>とっこつ</rt></ruby>たる大懸崖。城の入口には鉄の桟橋がかかって、一夫関を守れば万夫を越えがたき要害険阻の古城である。森林と千丈の断崖と矢の如き渓流とに抱かれた深秘の古城を仰ぎ見てさすがのルパンも吐息を吐いた。

彼は古城に忍び込むべき附近の地理を案じたが、それは徒労に帰した。しかし彼は附近の人の口から伝説を聞いた。その昔、恋に狂う美しい姫をこの古城に幽閉した時、同じ恋の若者が、急流の岸壁より梯子を渡し一条の縄を頼りに千丈の断崖を攀じて遂に姫を救出したが、あわれ恋の二人は断崖に足を辷らして急流に陥ち、ついに果敢ない最期を遂げた以来、村人はこの古城の塔を「恋の塔」と呼んでいると。

『占めたッ』とルパンは膝を打った。『よしッ、一か八か、俺もドーブレクの恋の相手に、あの断崖を登ってやろう』

その夜、グロニャールやルバリュが諫止するのも肯かず、五丈の梯子と二十丈の縄を命に、九死の大冒険をあえてして、古城へ忍び込んだ。果然ドーブレクは古塔の一室に惨い拷問の憂き目を見ていた。傍に立つのはアルブュフェクス侯爵にその部下二名。棍棒を振って、ドーブレクに連判状の所在を詰問していた。しかしドーブレクは死に<ruby><rb>捥</rb><rt>もが</rt></ruby>きつつ苦しい息の下から『マリー……マリー……』と云う細い声を漏すばかり。でもルパンは遂にその夜深更に至ってドーブレクを救出すことに成功した。

しかし彼がドーブレクを抱える様にして断崖の上に出で、まさに二十丈の縄にすがって降りようとした刹那、突如ルパンは肩に激痛を覚え、頭がグラグラとした思うとそのまま岩の上に打倒れた。

『アッ、畜生ッ！』

『大馬鹿野郎の頓馬野郎。天晴ルパンの細工がこれか』とドーブレクはセセラ笑った。その片手には短剣が光っていた。『やい俺はな、貴様達の様な浅薄な連中の手に負える悪党じゃねえんだ。……おいルパン。このピストルは俺が貰って行く。じゃ一足お先きへ、さようなら……』

代議士は悠々と降りて行く。ルパンは満身の力を絞って叫ぼうとしたが声が出ない。

『クラリス……クラリス……ジルベール……』と云うも口の中。そのまま意識は朦朧となって行く。……しばらくすると下の方で卒然起る人の叫び。銃の音。ルパンは鮮血に塗れて<ruby><rb>断岩</rb><rt>だんがい</rt></ruby>の中腹に横たわりつつ、ただ死を待つのみであった……。

彼が意識を回復した時には、彼はアミアンのあるホテルの一室に横わっていた。

『いや全く驚きましたよ。首領の仆れていたなあ急勾配の大岩石の突端で、一ツ転がりゃあ粉微塵ですからね。今考えてもゾッとしますよ』とルバリュが云っていた。

『ジルベールが死刑の宣告を受けてから今日で十八日……私はホントにどうしたらいいでしょう』とメルジイ夫人は涙声。ルパンは病床にあって、ハッと思うとまたしても意識が朦朧となってしまった。

ルパンの病中、メルジイ夫人は一ツにはドーブレクの動静を捜り、一ツにはジルベールの様子を聞くために<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリー</rt></ruby>へ行った。しかしドーブレクの行方はまだ解らなかった。数日の内にルパンは元気を恢復した。そして部下二名と共に<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリー</rt></ruby>へ乗り込んだ。とその日ドーブレクは飄然姿を自分の邸に現わし、アッと思う間にまたしても行方不明になった。まもなくメルジイ夫人から手紙が来て、自分はドーブレクの後を尾行して行くからリオン停車場へ来てくれと云って来た。

早速ルパンが部下をつれて駈け付けた時は、列車はすでにモントカロへ向って出発した後であった。

ルパンはすぐに後を追った。しかしモントカロへ着くと、再びメルジイ夫人の手紙が待っていた。

「彼はカンヌで下車し、更に伊太利海岸線にてサンレモへ向います。クラリス」

サンレモへ行くと駅のボーイが来てゼノアに直行した事を伝えた。

『思えば馬鹿気ている。……俺達は一体何をしているんだ……明後月曜日はジルベールの死刑執行日だ……いっそ<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリー</rt></ruby>へ帰って別方面で救出す手段を講じようかしら……どうもそれがよかりそうだ……』と思い付くと彼れは動き出した汽車から飛び降りようとして、『危え、首領！』と二人の部下に抱き止められた。かくてルパンは不安の胸を浪立たせつつ、的もなく果しもない汽車の旅を続けた。……

風光の明媚をもって世界に冠たる仏蘭西の南海岸ニイスの旅館の一室にクラリス・メルジイは不安らしい顔をして旅の疲れを長椅子に横たえていた。この日、ルパンは果しない旅を伊太利方面に向けて出発していた時である。翌朝、彼女は隣室へ忍び込んだ。云わずと知れたドーブレクの室である。室の中には目指す品物は無かったが、捜していると、後方から突然、

『ハハハハ、品物は見付かったかね？』

ハッと思って振り返れば外出したはずのドーブレクが、皮肉な笑いを邪淫の口辺に洩しながら突立っていた。彼女の身体は<ruby><rb>谷</rb><rt>きわ</rt></ruby>まった。しかもルパンは来ぬ。否行方すら解らない。

ドーブレクは悠々として驚くクラリスを尻目にかけつつ、彼の計画を語った。彼は反対にクラリスを尾行していたのであった。しかも部下を使ってルパン等に偽手紙と偽口伝をを残さしたのであった。兇悪奸譎な代議士のためにルパンは不知の境に徘徊させられているのだ。あわれ夫人、彼女は孤立無援、しかも恐るべき悪魔の手に陥ってしまったのだ。

常勝将軍をもって誇る彼アルセーヌ・ルパン今は惨憺たる敗北また敗北、敵のために思うがままに翻弄され尽して、しかもそれを自覚せず、今頃はどこの空に、クラリスの跡を尋ねているのだろうか。

薄命の夫人が悲惨な運命の最後は来た。不倶戴天の仇敵の前に、今は最後の膝を屈しなければならなかったのだ。ドーブレクは次第に迫って来る。今は絶体絶命！　もはや抵抗する力も失せてただ死――観念の眼を閉じた。

『ああ、ジルベール……ジルベール……』と口の中で呟いた。

と不思議！　迫り来べき敵は一歩も進まなくなった。五秒……十秒……二十秒……ドーブレクは動こうともしない。

クラリスは恐る恐る目を開いた。と意外、意外。ドーブレクは極度の恐怖に襲われたものの如く、その眼は二重瞼の底から異様の光を見せて夫人の肩の辺を凝視している様だ。

クラリスは振り返った。と<ruby><rb>可驚</rb><rt>おどろくべし</rt></ruby>、ヌッと現れた<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>二挺。……自分の椅子の背後から、黒い口を開いてドーブレクの腹の辺をピタリと狙っている。ドーブレクの恐怖の顔色は次第に蒼ざめて来た。と見る椅子の影から一人の壮漢が飛鳥の如く躍り出すや否や、片手を代議士の頸にかけて、ガタリと床の上に叩き付けると同時に、綿のようなものをその顔に押し当てた。とプンとクロロホルムの臭気が室内に漂う。クラリスはニコル氏の姿を認めた。

『オイ、グロニャール！オイ、ルバリュー！拳銃を離せ、どうやら脆くも参ったらしい……さあ縛り上げろ！』

さすがの猛悪野獣の如きドーブレクも<ruby><rb>頽然</rb><rt>ぐたり</rt></ruby>と横わっている。グロニャールとルバリュとはたちまち毛布でグルグル巻きにして、その上を細縄で<ruby><rb>雁字搦</rb><rt>がんじがらめ</rt></ruby>に縛り上げてしまった。

『占め占め、占め子の兎だ……』とルパンは驚喜して雀躍した。彼は<ruby><rb>盛</rb><rt>さかん</rt></ruby>に躍り上りながらドーブレクのパイプを口に<ruby><rb>啣</rb><rt>くわ</rt></ruby>えて、

『オイ、大将、貴様の煙草はどこだ、マリーランドは？……アッ、あったあった』と黄色の函を取りあげて、その封緘を切った。そして人差指と親指とで物をつまみ出す様に静かに器用に徐々と函の中をかき廻してスッと抜き出した指先にキラリと光るものがあった。クラリスはアッと叫んだ。これこそ真の水晶の栓！

『これです！これです！御覧下さい、尖端に疵もなく、中央に金線の飾りがあって、ここが捩子になっていますけれども……ああもう<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>は力が抜けてしまって……』

ルパンが代って水晶の栓を開いた。と中から果して豆粒ほどの紙球が現れた。まさしく二十七名の連判状！　精巧を極めた薄葉用紙にランジュルー、デショーモン、ボラングラード、アルブュフェクス、レイバッハ、ビクトリアン・メルジイ等政界の巨頭当路の大官の名を列ね、その下に両海運河会社長の署名があって、生々しい血色の判が捺してあった。

彼はかねて用意してあったものの如くそれぞれ部下に命じて<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリー</rt></ruby>へ出発の準備をさせた。そしてルバリュを運転手に変装させて大きなトランクを持ち込み、それに魔酔せるドーブレクの身体を詰め込んで、頭には枕を当てがい、厳重に蓋をした。

『結構々々。これなら世界の果まで送っても大丈夫だ、ハッハハハ』とルパンは笑った。

## ｟七｠人道のために

かくてトランク入のドーブレクは部下二人の手で自動車に乗せて<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリー</rt></ruby>へ運搬した。ルパンはクラリスの名でプラスビイユ宛に、

「尋ネ人発見セリ。明朝十一時例ノ文書ヲ渡ス」。

と至急電報を発しておいて直ちに急行で巴里へ向け出発した。ルパンは夢中になるくらい喜んでいた。彼が果しなき旅を続けていたにもかかわらず、突如ここに姿を現わしたのは、

『奇蹟ですね。サン・レモからゼノアに向け出発しようとした時、ふと、妙な気がし出して、汽車を飛び降りようとしたのでしたが、二人に止められたのです。で汽車の窓から首を出して何心なく過ぎ行くプラットフォームを見ると、伝言をしに来た駅夫の奴、両手をこすって、意味ありげな笑を洩している。ジッと見ているとハッと気が付いた。偽駅夫！　<ruby><rb>失敗</rb><rt>しま</rt></ruby>ったドーブレクにやられていたと思うと今までの径路が万事了解したのです。解ったと思ったが遅い。で次の駅で幸にも引返しの列車があったのでそれで例の偽駅夫を尾行してここへ来たのでした』と、説明した。

<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリー</rt></ruby>に着いたのが日曜日の午後八時。ルバリュの方からは「荷物破損なし」との電報。プラスビイユからは「月曜午前は帰れぬ、午後役所へ来い」と云う返電がとどいていた。

その日の新聞には二人の死刑執行明日午前中に行われると報じてあった。午後、警視庁でプラスビイユに面会したクラリスは、連判状引渡しの交換条件としてジルベール及びボーシュレーの助命を切り出した。プラスビイユはアッと驚いた。

明日と確定した囚人の死刑執行猶予……大問題である、彼は余儀なく大統領に謁見を申込んで、真の連判状が手に入れば二人の生命は許してもいいとの内諾を得た。そして改めて二人の前へ帰って来てメルジイ夫人に訊いた。

『で全体、水晶の栓はどこにありました？』

『あの、マリーランドと云う煙草の函の中です』

『エッ、あの箱の中？　実に残念じゃ。あの函は私が何度手を触れたかしれないでしたになあ……で連判状を持っていらっしゃいますか』

『ええ、持参しています』

プラスビイユは連判状を手にして、

『やあ、まさしくこれですなあ！』

と見ていたが、やがて拡大鏡を出して、窓硝子へ透かして熱心に調査をした結果、

『クラリスさん、これは御返しします。……偽物です……』

『エッ、偽物？　え、そんな……』

『ええ、棄てるとも焼き棄てるとも勝手になさい……実は連判状の用紙ですが、肉眼では見えませんが、透かして見ると紙の中に十字のマークが打ってあるのです。ところがこれにはそれが無いのです……』

聞いたメルジイ夫人の顔色はみるみる物凄く蒼ざめて来た。驚いたのはルパンのニコルである。のみならず狂乱に近くなった彼女は取り止めのない言葉を口走ると共に肌身離さぬ短剣をスラリと引き抜いて我れと我が<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>に擬した。

『アッ、危い！　何をするッ！』とニコルは電光の如く短剣を奪った。

『あなたはジルベールをきっと救うと誓った私の言葉をお忘れですか？……ジルベールのために生きなさい。私が附いている以上きっとジルベールの死刑は執行させません……きっとです、きっとジルベールは殺さしませんッ』そう云って彼はブラスビイユに向い、

『では、閣下、真の連判状さえ手に入ればきっと二人の生命は赦してくれますね。じゃ、暫時御待ちを願たい。二十七人連判状については、一時間、いや二時間以内に私が再びここへ参りまして、御相談致しましょう』と命令的に云った。そして夫人の手を取って引摺る様にしてほとんど駈足でフイと室外へ去ってしまった。ブラスビイユはしばらく唖然として呆気にとられていた。ニコルと云う家庭教師、下らぬ男とばかり思っていたが、今日計らずもその仮面を脱ぎかけた処からサッするに、明察果断しかも気鋒俊英の大才物だ。なかなか普通の人間では無さそうだ。はて何者だろうか……プラスビイユはブルッと戦慄した。きゃつだ！

彼は廊下へ飛び出すと、刑事課長に会った。

『君、今女連れの男を見たろう？　すぐ五六名を連れて追駈けてくれ。それからニコルと云う奴の家を監視して、すぐ捕縛しろ、これが逮捕状だ……』

『でも……おや、捕縛するのはニコルでしょう？　ですが、これにはアルセーヌ・ルパン……』

『アルセーヌ・ルパンもニコルも同一人間だ……』

翌日、ニコルは再び飄然とプラスビイユを訪れた。

『実にどうも大胆不敵、図々敷い野郎だ』とプラスビイユは呟いた。

ニコル文学士は<ruby><rb>不相変</rb><rt>あいかわらず</rt></ruby>例の<ruby><rb>洋傘</rb><rt>こうもり</rt></ruby>や汚い古帽子や手袋などを抱えて応接室に待っていた。

『ええ、昨日御約束致しました件について御伺い致しました。思いがけなく手間取りまして、何とも申訳がございません』

『いかがです、昨日のお言葉通り<ruby><rb>真物</rb><rt>ほんもの</rt></ruby>が手に入りましたか？』

『ハア、実はドーブレクは<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリー</rt></ruby>に居りませんでして、自動車で<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリー</rt></ruby>へ参る途中でございました』

『君は自動車を持っているかね？』

『ええ、旧式のボロボロ自動車でございます。でドーブレクを自動車に乗せまして、と申しても実は、<ruby><rb>旅行鞄</rb><rt>トランク</rt></ruby>の中へ押入れまして、自動車の屋根の上へ乗せて、<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリー</rt></ruby>へ参る途中でした。が、つい機械に故障がございましたために手間取った様な次第でございます』

プラスビイユは驚愕の顔でニコルを眺めた。人相を見ただけではどうしてもそれとは想像も付かないが、その談り出した行動、ドーブレク誘拐手段は――<ruby><rb>咄</rb><rt>とつ</rt></ruby>！怪物！人間をトランクに詰めて、しかも自動車の屋根で運搬するなどと云う離れ業は、ルパンならでは出来ない事だ。しかもそれを他人の前で平然として事もなげに云ってのける者もまた、ルパンならではできない。さては奴、いよいよただの鼠じゃない。

『ところで連判状は手に入りましたか』とプラスビイユはさり気ない体で問うた。

『持っています』

『真物ですか？』

『無論、正真正銘、擬い無しの連判状です』

『ローレンの十字のマークがありますかね？』

『あります』

プラスビイユは沈黙した。激烈な感情が総身に迫って来た。今や闘争はこの相手、非常の力を持ったこの怪物を相手に起って来たのだ。しかも当の敵たるアルセーヌ・ルパン、かの猛峻な怖るべき怪盗アルセーヌ・ルパンが面と向かって、十二分に武装したものが寸鉄を帯びざる敵と相対せるものの如く冷然としてその目的に突進しつつ平静、端然と落ち付き払っているのを思って、プラスビイユは知らず知らず身慄をした。正面から堂々と攻撃するは危険だ。彼はジワジワと攻め立てようと考えた。

『でドーブレクが<ruby><rb>温順</rb><rt>おとな</rt></ruby>しくそれを渡したかね？』

『ドーブレクは渡しません。私が引奪くったのです』

『じゃ、腕力を用いたのだろう？』

『なあに、そんな事は致しません』とニコルは笑いながら云った。『ええ、私は堅い決心を致しました。ドーブレク先生が私のボロ自動車のトランクの中に乗かって、最大速力で走りながら、時々クロロホルムの御馳走を召上っている間に、私は一気呵成に目的物を得る方法を考えました。いいえ、拷問なんぞの必要もありません……余計な苦痛を与えるのも罪ですから……一思いに殺すんです……極めて細い針を、その胸、心臓の辺りに徐々と突き込むんです……たったそれだけです……ですがそれはメルジイ夫人に御願したのです……愛児を殺されんとする母の心……情容赦は致しません。「云え、ドーブレク、云え連判状の所在を云え……云わなければ針を段々深く突込むよ」と云った訳で、一ミリばかり突込み……また一ミリ……ところが強情我慢のドーブレクですな、一言も云いません。驚きましたよ。ですが、次第に苦しくなったと見えて、少しく唇を動かしました、その時、夫人が「眼……眼……眼鏡の中に……眼を見ましょう……」と云うので、もちろん私も、その苦痛の眼からきゃつの秘密を読んでやろうと思っていた矢先ですから、いきなり黒眼鏡を引ぱずしてやったんです、と突然、何とも云えない感じに打たれ、ハッと思うと一切の光明がサッと出ましたね。で噴飯しましたよ、大笑いでさあ……いきなり拇指をグイと突込んで、ポンと刳り出しましたよ、左の<ruby><rb>眼球</rb><rt>めだま</rt></ruby>を！　アッハッハハハ』

ニコル氏は凄い声で呵々と大笑した。彼はいつの間にか臆病な、窮屈な田舎出の家庭教師の仮面をかなぐり棄てて、濶達奔放、縦横無碍の調子で喋舌り立てる様になった。プラスビイユは面喰って目ばかりパチクリパチクリさしている。

『ポンと飛び出しやがったぜ、大将！　巣からはね出したんでさあ。ヤイ、親方、二ツの眼球を何にするんだ！　贅沢だ。ソレ、クラリスさん。床の上へころがりましたよ。踏み潰しちゃいけない……ドーブレクの眼球です！　踏み潰しちゃいけませんよってね。ハッハハハ』と笑いながら彼は懐中から一物を取り出して掌でころがし、二三度手毬に取って、また元の懐中へ入れた。

『ドーブレクの左の眼球です』

プラスビイユは茫然としてしまった。この奇怪な訪問客は何しに来たのか？　全体何を云っているのか？　彼の顔は真蒼になった。

『何の事か解らない』

『解らんとは驚いた。一切説明したじゃありませんか。例の「外部より容易に看破せられざる様巧妙なる細工を施されたし」と云ったのはこれなんでさあ』と云い、またも例の眼球を取り出して、卓上をコンコンと叩いた。堅い音がする。

『硝子の眼球だ』とプラスビイユが驚きの声を挙げた。

『分りましたか、ドーブレクも味をやりまさあね。こんな偽眼を嵌めていようとは神ならぬ身の知るよしもなしです。しかも見本の水晶の栓を血眼になって捜し廻ったり、マリーランドの中から偽物の栓を発見して夢中になって喜んだなざあ、けだし天下の喜劇でした。ドーブレクの奴、こうした偽眼の中へ御神体を祭り込むたあ、考えたも考えたものですなあ！』

『で連判状はその中にあるか？』とプラスビイユはてれ隠しに顔を撫で廻した。

『ええ、たぶんあるでしょうと思います』

『え、何ッ……あるだろう？……』

『まだあらためて見ないのです。実はこれを開く名誉を官房主事閣下のために保留したいのです』

プラスビイユは眼球を手にして点検した。その形状は云うまでもなく、瞳孔、虹彩に至るまで、一見偽眼とは思えないほど精巧に出来ていた。裏面に一ツの栓があって、それを抜くと中は空洞、果然、その中に豆粒大の<ruby><rb>紙丸</rb><rt>かみだま</rt></ruby>があった。手早く拡げて見ると、擬う方もなき二十七名が死の連判状！

『十字のマークが見えますか？』

『あるある。これこそ真物だ』とプラスビイユが叫んだ。

彼は静かにその連判状を懐にすると平然として煙草をくゆあした。彼はニコルなど眼中に無くなったのだ。連判状は手に入った。場所は警視庁、彼の隣室、その他には数十名の警官が伏せてある。ルパンを逮捕するのは嚢中の鼠を捕えるより易い。しかも彼の手には隠し持ったピストルが握られている。ニコルが前約に従ってジルベールの特赦状を要求したが、プラスビイユはフフンと鼻であしらって返事も碌々しなかった。

『おい！ニコル君とやら。私は昨日文学士ニコル君に連判状の交換条件として、ジルベールの特赦を約束した。しかし君はニコルじゃない。フン、まあ云うだけ野暮さ。オイ。いい加減に観念しろ』とせせら笑った。しかしニコルは肩をすくめた。

『ハッハハハ、ねえ、プラスビイユ君。じゃあ俺はアルセーヌ・ルパンとあえて云おう。ところで君はこのアルセーヌ・ルパンと拮抗して戦ってみるつもりなのかい。フン。官房主事閣下、少しは自分の身も考えてみるがいいぜ。連判状を握って急に気が変ったと見えるな、君の態度はドーブレクやアルブュフェクスそっくりだ。「さあ連判状が手に入った。こうなりゃおれは万能だ。ジルベールを殺そうと、クラリスを殺そうと、俺の心のままだ。いわんやルパンの如き、それ何する者ぞ」と考えてるだろう。ところがよ。ドッコイそうは問屋が卸さないんだ。おい！　プラスビイユ君、君は、その連判状の第三番目に名前が書いている前代議士スタニスラス・ボラングレーを脅迫して、金を捲き上げた人間があるか、知ってるかい？　全体誰れだと思う？　え？』

『…………』プラスビイユは蒼くなった。

『俺の前にいるルイ・プラスビイユさ。君が俺の仮面を引剥くなれば、君の面だって、ずいぶんぐら付いているぜ……』

彼は声高く嘲笑した。そしてプラスビイユとボラングレーとの間に往復した手紙を持っているから、それは今夜いや明朝の四大新聞に素破抜く事になっているんだ。愚図々々云わずと早く大統領の所へ行って一時間以内にジルベールの特赦状を貰って来いと怒鳴った。のみならず彼は特赦状は二十七人連判状だけでたくさんだ、ボラングレーとの文書は四万法渡さねば取引しないと嚇しつけた。

さすがのプラスビイユもこうなっては手も足も出ない。彼は茫然として夢見る心地でフラフラと室から出て行った。

『いや、天晴れ天晴れ』とルパンは、プラスビイユが出て行く後から呟いた。『プラスビイユの奴め、すっかり嚇し上げられやがって出て行ったが、いずれ特赦状と四万法とを持って来るだろう。この袋の中へ詰め込んだただの白紙が四万法だ！　まあこれも、ルパン、貴様が人道のために尽した天の報償だよ。……多少思い切った酷い真似もやったさ。だが、こんな奴等は何んでも高圧的にグングン遣付けるに限る！　オイ、頭を上げろ。ルパン！　貴様は虐げられた人道のために健気に奮闘した選手だ！　貴様の行動を誇れよ……さあ、今こそ椅子にふん反り返って長々と手足を延ばして、一寝入しろ。貴様は勝った。それだけの資格があるのだ！……』

彼は警視庁官房主事室で独りぐっすりと睡りに落ちた。……

（終）