わたしは<ruby><rb>尋常科</rb><rt>じんじょうか</rt></ruby>の四年を<ruby><rb>卒業</rb><rt>そつぎょう</rt></ruby>するまで、<ruby><rb>北海道</rb><rt>ほっかいどう</rt></ruby>におりました。その<ruby><rb>頃</rb><rt>ころ</rt></ruby>は、尋常科は四年までしかありませんでしたから、わたしは北海道で尋常小学を卒業したわけです。

今から、ざっと二十年前になります。今では小学校の<ruby><rb>読本</rb><rt>とくほん</rt></ruby>は、日本中どこへいっても同じのを<ruby><rb>使</rb><rt>つか</rt></ruby>っておりますが、その<ruby><rb>当時</rb><rt>とうじ</rt></ruby>は、北海道用という<ruby><rb>特別</rb><rt>とくべつ</rt></ruby>のがあって、わたしたちは、それを<ruby><rb>習</rb><rt>なら</rt></ruby>ったものです。<ruby><rb>茶色</rb><rt>ちゃいろ</rt></ruby>の<ruby><rb>表紙</rb><rt>ひょうし</rt></ruby>に青いとじ糸を使い、中の<ruby><rb>紙</rb><rt>かみ</rt></ruby>も<ruby><rb>日本紙</rb><rt>にほんし</rt></ruby>で<ruby><rb>片面</rb><rt>かためん</rt></ruby>だけに<ruby><rb>字</rb><rt>じ</rt></ruby>をすったのを二つ<ruby><rb>折</rb><rt>お</rt></ruby>りにして<ruby><rb>重</rb><rt>かさ</rt></ruby>ねとじた、<ruby><rb>純日本式</rb><rt>じゅんにほんしき</rt></ruby>の<ruby><rb>読本</rb><rt>とくほん</rt></ruby>でした。その中には、<ruby><rb>内地</rb><rt>ないち</rt></ruby>の人の知らない、北海道だけのお話がだいぶのっていたようです。（わたしたちは、<ruby><rb>本州</rb><rt>ほんしゅう</rt></ruby>のことを<ruby><rb>内地</rb><rt>ないち</rt></ruby>内地と、なつかしがって、よんでいました。）

たとえは、くまが<ruby><rb>納屋</rb><rt>なや</rt></ruby>へしのびこんで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かずの子</span>のほしたのをはらいっぱいに<ruby><rb>食</rb><rt>た</rt></ruby>べ、のどがかわいたので川の水をのむと、さあ大へんです。おなかの中で、かずの子が水をすってうんとふえたからたまりません。くまは、とうとう<ruby><rb>胃</rb><rt>い</rt></ruby>がはれつして死んでしまったというようなお話ものっていました。ほしかずの子がどんなに水へつけるとふえるものかは、おかあさま<ruby><rb>方</rb><rt>がた</rt></ruby>におききになればよくわかります。

――わたしは、またもう一つ読本の中にあったくまの<ruby><rb>絵</rb><rt>え</rt></ruby>をありありと思いだすことができます。それは、大きなくまが後足で立って、木の<ruby><rb>枝</rb><rt>えだ</rt></ruby>に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さけ</span>をたくさん<ruby><rb>通</rb><rt>とお</rt></ruby>したのをかついでいくところです。さけが川へ<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>ってくるころになりますと、川はさけでいっぱいになり、さけはたがいに<ruby><rb>身動</rb><rt>みうご</rt></ruby>きもできないくらいになることがあるのだそうです。そういう時をねらって、くまは川の<ruby><rb>岸</rb><rt>きし</rt></ruby>にでて、<ruby><rb>爪</rb><rt>つめ</rt></ruby>にひっかけては、さけをほしいだけ<ruby><rb>取</rb><rt>と</rt></ruby>ります。それから木の<ruby><rb>枝</rb><rt>えだ</rt></ruby>を<ruby><rb>折</rb><rt>お</rt></ruby>って、さけのあごへ通し、それをかついで<ruby><rb>穴</rb><rt>あな</rt></ruby>へ帰ろうとするのですが、さすがのくまもそこまでは気がつかないとみえ、枝のさきをとめておかないものですから、さけは、<ruby><rb>道々</rb><rt>みちみち</rt></ruby>、一つずり落ち二つ落ちして、ようやく<ruby><rb>穴</rb><rt>あな</rt></ruby>へ帰ったころには、枝に一ぴきものこっていない。そうしたくまの歩いたあとへ通りかかった人こそしあわせで、くまの落したさけをひろい集めさえすれば<ruby><rb>大漁</rb><rt>たいりょう</rt></ruby>になるというお話でした。

こんなふうですから、ふだんでもくまの話は、よく耳にしました。きょうは<ruby><rb>郵便配達</rb><rt>ゆうびんはいたつ</rt></ruby>が、くまに出会ってあぶないところだったとか、どこどこへくまがふいにでて、<ruby><rb>飼</rb><rt>か</rt></ruby>い馬をただ一うちになぐり<ruby><rb>殺</rb><rt>ころ</rt></ruby>したとか、そういった話をたびたびききました。

<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の<ruby><rb>父</rb><rt>ちち</rt></ruby>は、新しく<ruby><rb>鉄道</rb><rt>てつどう</rt></ruby>を<ruby><rb>敷</rb><rt>し</rt></ruby>くために、山の中を<ruby><rb>測量</rb><rt>そくりょう</rt></ruby>に歩いていましたので、そのたんびアイヌ人を<ruby><rb>道案内</rb><rt>みちあんない</rt></ruby>にたのんでいました。アイヌ人は、そんな<ruby><rb>縁故</rb><rt>えんこ</rt></ruby>から、くまの<ruby><rb>肉</rb><rt>にく</rt></ruby>を、よく、わたしの家へ持ってきてくれたものでした。

北海道のくまといえば、こんなにも縁故が深いのです。しかし、かずの子を<ruby><rb>食</rb><rt>た</rt></ruby>べすぎたり、さけを落して歩いたり、<ruby><rb>猛獣</rb><rt>もうじゅう</rt></ruby>ながら、どことなく、くまにはこっけいな、かわいいところがあるではありませんか。

さて、つぎにわたしがお話ししようと思うのは、北海道にはじめて<ruby><rb>鉄道</rb><rt>てつどう</rt></ruby>ができたころのことで、今からざっと四十年も前になりましょうか。その<ruby><rb>当時</rb><rt>とうじ</rt></ruby>、まだ二十<ruby><rb>代</rb><rt>だい</rt></ruby>の<ruby><rb>青年</rb><rt>せいねん</rt></ruby>で、あの<ruby><rb>石狩平野</rb><rt>いしかりへいや</rt></ruby>を走る<ruby><rb>列車</rb><rt>れっしゃ</rt></ruby>に<ruby><rb>車掌</rb><rt>しゃしょう</rt></ruby>として乗りこんでいたおじからきいた話なのです。<ruby><rb>以下</rb><rt>いか</rt></ruby>、わたしとか自分とかいうのは、おじのことです。

――なにしろ、そのころの<ruby><rb>鉄道</rb><rt>てつどう</rt></ruby>といったら、人の足あとどころか、<ruby><rb>北海道名物</rb><rt>ほっかいどうめいぶつ</rt></ruby>のからすさえもすがたを見せないような<ruby><rb>原野</rb><rt>げんや</rt></ruby>を<ruby><rb>切</rb><rt>き</rt></ruby>り<ruby><rb>開</rb><rt>ひら</rt></ruby>いて通したのだから、そのさびしさといったらなかった。さびしいどころではない。すごいといおうか、なんといおうか、いってもいっても、<ruby><rb>両</rb><rt>りょう</rt></ruby>がわには人間の<ruby><rb>背</rb><rt>せ</rt></ruby>よりも高い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あし</span>や<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かや</span>がびっしりと<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>え<ruby><rb>茂</rb><rt>しげ</rt></ruby>っているばかりで、人間くさいものなんか一つもありはしない。まったく夕方なんぞ、<ruby><rb>列車</rb><rt>れっしゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>車掌室</rb><rt>しゃしょうしつ</rt></ruby>から、ひとりぼっちで外をながめていると、<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>きたくも泣けないような気もちだった。そういう時には、川のそばへさしかかって、水音をきくだけでもうれしかった。――くまなども、はじめは、<ruby><rb>汽車</rb><rt>きしゃ</rt></ruby>を見るとみょうなけものがやってきたぐらいに思ったらしい。<ruby><rb>機関車</rb><rt>きかんしゃ</rt></ruby>の前へのこのこでてきてにげようともしないので、<ruby><rb>汽笛</rb><rt>きてき</rt></ruby>をピイピイ<ruby><rb>鳴</rb><rt>な</rt></ruby>らしてやっと<ruby><rb>追</rb><rt>お</rt></ruby>いはらったというような話もあった。

さて、わたしが、くまと、<ruby><rb>列車</rb><rt>れっしゃ</rt></ruby>の中で<ruby><rb>大格闘</rb><rt>だいかくとう</rt></ruby>をしたという話も、まあ、そんな<ruby><rb>時分</rb><rt>じぶん</rt></ruby>のことなのだ。

<ruby><rb>秋</rb><rt>あき</rt></ruby>のことだった。<ruby><rb>終点</rb><rt>しゅうてん</rt></ruby>の<ruby><rb>Ｉ駅</rb><rt>あいえき</rt></ruby>からでる<ruby><rb>最終</rb><rt>さいしゅう</rt></ruby>列車に<ruby><rb>後部車掌</rb><rt>こうぶしゃしょう</rt></ruby>をつとめることになったわたしは、列車の一ばん<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の<ruby><rb>貨車</rb><rt>かしゃ</rt></ruby>についた三<ruby><rb>尺</rb><rt>じゃく</rt></ruby>ばかりしかない<ruby><rb>制動室</rb><rt>せいどうしつ</rt></ruby>に乗りこんだ。制動室というのはブレーキがあるからそういうので、車掌室のことだ。自分はそこのかたい<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>かけへ腰をおろすと、うす<ruby><rb>暗</rb><rt>ぐら</rt></ruby>いシグナル・ランプをたよりに、かたい<ruby><rb>鉛筆</rb><rt>えんぴつ</rt></ruby>をなめなめ、<ruby><rb>日記</rb><rt>にっき</rt></ruby>をつけた。つぎの<ruby><rb>停車駅</rb><rt>ていしゃえき</rt></ruby>までは、<ruby><rb>約</rb><rt>やく</rt></ruby>一時間もかかる。<ruby><rb>全線</rb><rt>ぜんせん</rt></ruby>で一ばん長い<ruby><rb>丁場</rb><rt>ちょうば</rt></ruby>だった。日記をつけてしまうと、することもなくなったので、まどから暗い外をすかして見た。黒い<ruby><rb>立木</rb><rt>たちき</rt></ruby>が、かすかに夜の空にすけて見えて、時々、<ruby><rb>機関車</rb><rt>きかんしゃ</rt></ruby>のはく火の<ruby><rb>粉</rb><rt>こ</rt></ruby>が、赤い線をえがいて高く低く飛びさる。風のかげんで、機関のザッザッポッポッという音が、遠くなったり近くなったりする。全線中で一ばん<ruby><rb>危険</rb><rt>きけん</rt></ruby>な<ruby><rb>場所</rb><rt>ばしょ</rt></ruby>になっている<ruby><rb>急勾配</rb><rt>きゅうこうばい</rt></ruby>のカーブにさしかかるにはまだだいぶ<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>があるので、わたしは<ruby><rb>安心</rb><rt>あんしん</rt></ruby>してまた腰をおろすと、いろいろと内地の家のことなどを思いだして、しみじみとした気持になっていた。

――ふと、顔をあげて見ると、<ruby><rb>貨車</rb><rt>かしゃ</rt></ruby>との<ruby><rb>仕切</rb><rt>しき</rt></ruby>りにはまったガラスまどに、人間の顔がぼんやりとうつっている。わたしは、それが、自分の顔だということは知っていながら、なんだか友だちでもできたようなにぎやかな気持になって、しきりに<ruby><rb>帽子</rb><rt>ぼうし</rt></ruby>のひさしを上げたり、さげたり、目をいからしてみたり、口をまげてみたりして、ひとり<ruby><rb>興</rb><rt>きょう</rt></ruby>がっていた。しまいには、シグナル・ランプを顔の前につきだしてみたりした。（その当時は、<ruby><rb>客車</rb><rt>きゃくしゃ</rt></ruby>にさえ、うす暗い<ruby><rb>魚油灯</rb><rt>ぎょゆとう</rt></ruby>をつけたもので、<ruby><rb>車掌室</rb><rt>しゃしょうしつ</rt></ruby>はただ車掌の<ruby><rb>持</rb><rt>も</rt></ruby>つシグナル・ランプで<ruby><rb>照</rb><rt>て</rt></ruby>らされるばかりであった。そのほかに、ろうそくを<ruby><rb>不時</rb><rt>ふじ</rt></ruby>の<ruby><rb>用意</rb><rt>ようい</rt></ruby>として、いつも持ってはいたが。）で、シグナル・ランプを顔のそばへ持ってきて見ると、自分の顔は、暗いガラスの中に、くっきりとうかびだすようにうつって見えた。

と、自分は、<ruby><rb>鼻</rb><rt>はな</rt></ruby>の頭に、<ruby><rb>煤煙</rb><rt>ばいえん</rt></ruby>であろう、黒いものがべっとりとついているのを見つけて<ruby><rb>苦笑</rb><rt>くしょう</rt></ruby>した。<ruby><rb>指</rb><rt>ゆび</rt></ruby>のさきにつばをつけて、鼻の頭をこすりながら、わたしは、いままで自分の顔にむけていたランプをくるりむこうへまわすと、ガラスにうつっていた自分の<ruby><rb>影</rb><rt>かげ</rt></ruby>は<ruby><rb>消</rb><rt>き</rt></ruby>えて、サーチライトのような<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いなずま</span><ruby><rb>形</rb><rt>がた</rt></ruby>の光が、さっと、ガラスまどを通して、<ruby><rb>貨車</rb><rt>かしゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>内部</rb><rt>ないぶ</rt></ruby>へさしこんだ。その貨車にはちょうど、<ruby><rb>石狩川</rb><rt>いしかりがわ</rt></ruby>でとれたさけがつみこんであったので、自分は、キラキラと<ruby><rb>銀色</rb><rt>ぎんいろ</rt></ruby>に光るうろこの山を<ruby><rb>予想</rb><rt>よそう</rt></ruby>したのだったが、ランプの光は、ただ、ぼんやりとやみの中にとけこんでしまって、なんにも見えない。おかしいなと思ったので、自分は、立ち上がってガラスまどに<ruby><rb>鼻</rb><rt>はな</rt></ruby>をつけるようにしてのぞきこむと、おどろいた。さけの山は、<ruby><rb>乱雑</rb><rt>らんざつ</rt></ruby>にとりくずされ、ふみにじりでもしたように、めちゃめちゃになっているのだ。

さけがぬすまれるということは、その<ruby><rb>季節</rb><rt>きせつ</rt></ruby>にはよくあることなので、自分は、さけどろぼうが<ruby><rb>貨車</rb><rt>かしゃ</rt></ruby>の中まであらしたのかと思うと、思わず、むッとして、<ruby><rb>手荒</rb><rt>てあら</rt></ruby>く<ruby><rb>仕切</rb><rt>しき</rt></ruby>りの<ruby><rb>車戸</rb><rt>くるまど</rt></ruby>をひきあけて、足をふみこんだ。もちろん、まだどろぼうが貨車の中にぐずついていようとは思わなかったけれど、<ruby><rb>用心</rb><rt>ようじん</rt></ruby>のために、そばにあった<ruby><rb>信号旗</rb><rt>しんごうき</rt></ruby>のまいたのを、右手に持ち、左手にランプを高くさし上げて、用心<ruby><rb>深</rb><rt>ぶか</rt></ruby>く<ruby><rb>進</rb><rt>すす</rt></ruby>んだ。

車の<ruby><rb>動揺</rb><rt>どうよう</rt></ruby>のために、ともすると、よろけそうになるのを、じっとふみこらえて、ランプを<ruby><rb>片</rb><rt>かた</rt></ruby>すみにさしつけると、大きな<ruby><rb>大入道</rb><rt>おおにゅうどう</rt></ruby>のような<ruby><rb>影法師</rb><rt>かげぼうし</rt></ruby>がうしろの<ruby><rb>板</rb><rt>いた</rt></ruby>かべにいっぱいうつった。ぎょっとして、目を見はると、ふいに、すみの方でピカッと光ったものがある。自分は<ruby><rb>瞬間</rb><rt>しゅんかん</rt></ruby>、ぞおっとして、立ちすくんでしまった。光りものは二つ。ランプの光をうけて、らんらんとかがやき、ぐるぐるとほのおのようにうずまいている。

「くまだ！」

そう気がつくと、自分はかえって、一時<ruby><rb>落着</rb><rt>おちつ</rt></ruby>いたくらいであった。どうしてくまなぞがはいりこんだものか、そんな<ruby><rb>疑問</rb><rt>ぎもん</rt></ruby>をいだくよゆうもなく、自分は、ランプを持った手を、ぐいと、くまの方にさしだして、<ruby><rb>一歩</rb><rt>いっぽ</rt></ruby>しりぞいて身がまえた。くまは火をおそれる、ということをとっさの間にも、思い出したものとみえる。

「ううううううう………。」

くまもふいをうたれておどろいたらしく、ひくいうなり声をあげながら、じりじりとしりごみをしはじめた。

「このすきに、にげなければ………。」

ふっと気がついて、ランプをさしつけたまま、後ずさりにしりぞきはじめると、そのひょうしに、ひどく車がゆれて、自分は足もとのさけに足をふみすべらして、ドシンと<ruby><rb>横</rb><rt>よこ</rt></ruby>だおしになげだされてしまった。くまも、それといっしょに、いやっというほど、大きなからだをかべ板にぶっつけたらしく、はげしくおこって、いっそうものすごいうなり声をたてた。自分はあわてて、とり落したランプをひろい、立ちなおった。しあわせにもランプは<ruby><rb>消</rb><rt>き</rt></ruby>えなかったが、それといっしょに自分は、<ruby><rb>列車</rb><rt>れっしや</rt></ruby>が<ruby><rb>例</rb><rt>れい</rt></ruby>の<ruby><rb>急勾配</rb><rt>きゅうこうばい</rt></ruby>にさしかかろうとしているなと<ruby><rb>感</rb><rt>かん</rt></ruby>じて、ひやりとした。自分は、ブレーキをまかなければならないのだ。

<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>ずさりをして、<ruby><rb>羽目板</rb><rt>はめいた</rt></ruby>にぶつかってしまったくまは、のがれ道のないことをさとったものか、すごい<ruby><rb>形相</rb><rt>ぎょうそう</rt></ruby>をし、<ruby><rb>牙</rb><rt>きば</rt></ruby>をむきだしてとびかかりそうな身がまえをした。自分はむちゅうでランプをさしつけたまま、後ずさりに戸口へ近づき、<ruby><rb>旗</rb><rt>はた</rt></ruby>を持っていた方の手をうしろへまわして戸口をさぐってみると、ぎくっとした。いつの<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>にか戸はしまっているではないか、いまの列車の<ruby><rb>動揺</rb><rt>どうよう</rt></ruby>のために、ひとりでにしまったのに<ruby><rb>相違</rb><rt>そうい</rt></ruby>ない。あけようと、あせっても、なにしろ前にくまをひかえて、片手をうしろにまわしての<ruby><rb>仕事</rb><rt>しごと</rt></ruby>だから<ruby><rb>困</rb><rt>こま</rt></ruby>った。くまはいよいよ<ruby><rb>牙</rb><rt>きば</rt></ruby>をむきだし、いまにもとびかかろうという<ruby><rb>気勢</rb><rt>きせい</rt></ruby>を見せている。

「いつものところで、ブレーキをかけることをおこたったら、列車は<ruby><rb>脱線</rb><rt>だっせん</rt></ruby>するかもわからない。けわしい<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>の<ruby><rb>中腹</rb><rt>ちゅうふく</rt></ruby>を走っている列車は、それと<ruby><rb>同時</rb><rt>どうじ</rt></ruby>に<ruby><rb>数</rb><rt>すう</rt></ruby>十<ruby><rb>尺</rb><rt>しゃく</rt></ruby>の下に<ruby><rb>岩</rb><rt>いわ</rt></ruby>をかんでいる<ruby><rb>激流</rb><rt>げきりゅう</rt></ruby>に、<ruby><rb>墜落</rb><rt>ついらく</rt></ruby>するよりほかはない。」

そう思うと、自分は、もうじっとしていられなかった。おそろしさもわすれて、いきなり、さけをひろい上げると、それをくまの方に<ruby><rb>投</rb><rt>な</rt></ruby>げつけておいて、そのひまに戸をあけようとあせった。

「うわう……。」

ものすごいさけび声が列車の<ruby><rb>騒音</rb><rt>そうおん</rt></ruby>にもまぎれずに、ひびきわたった。ガタピシとひっかかって、戸は<ruby><rb>動</rb><rt>うご</rt></ruby>こうともしない。自分はふり<ruby><rb>返</rb><rt>かえ</rt></ruby>りざま、また、気ちがいのようにランプをふりまわした。くまは、<ruby><rb>後足</rb><rt>あとあし</rt></ruby>で立ち上がったまま赤いランプの光におびえてか、<ruby><rb>爪</rb><rt>つめ</rt></ruby>をとぐねこのように、バリバリとそばの<ruby><rb>羽目板</rb><rt>はめいた</rt></ruby>に爪をたてた。

<ruby><rb>一息</rb><rt>ひといき</rt></ruby>ついた自分は、とっさに戸の<ruby><rb>上部</rb><rt>じょうぶ</rt></ruby>のガラスまどをやぶろうと考えた。いきなり、うしろをふりむくと、手にした<ruby><rb>旗</rb><rt>はた</rt></ruby>のぼうでガラスをつきくだいた。ガラガラとガラスの<ruby><rb>破片</rb><rt>はへん</rt></ruby>のとびちる音が<ruby><rb>気味悪</rb><rt>きみわる</rt></ruby>くひびいた。<ruby><rb>同時</rb><rt>どうじ</rt></ruby>にくるいたったくまは<ruby><rb>一声</rb><rt>ひとこえ</rt></ruby>高くうなると、自分を目がけてとびかかってきた。あぶないところでむきなおった自分は、むちゅうで、横ざまにからだをなげだした。そのひょうしに、シグナル・ランプは、ガチャンとはげしい音をたててこわれてしまった。

なまぐさい、べとべとしたさけの中にはいつくばっている自分の、うしろの方で、くまはううううと、うなっている。さいわいに、くまの<ruby><rb>爪</rb><rt>つめ</rt></ruby>にはかからなかったが、たった一つののがれ道であるまど<ruby><rb>口</rb><rt>ぐち</rt></ruby>を、くまのために<ruby><rb>占領</rb><rt>せんりょう</rt></ruby>されてしまったのである。

<ruby><rb>列車</rb><rt>れっしゃ</rt></ruby>は、くまと自分とを<ruby><rb>真暗</rb><rt>まっくら</rt></ruby>やみの<ruby><rb>貨車</rb><rt>かしゃ</rt></ruby>の中にとじこめたまま、なにも知らずに、どんどんとはしっている。少し<ruby><rb>速度</rb><rt>そくど</rt></ruby>がゆるんできたようだ。自分は、また、ブレーキのことを思い出して、ぞっとした。

「うううううう。」

くまはきゅうにまた、ものすごいうなり声をたてはじめた。さて、どうしたら、自分は<ruby><rb>制動室</rb><rt>せいどうしつ</rt></ruby>へもどることができるであろうか？

「うわう……。」

と、一声、すさまじいうなり声をあげたと思うと、いきなりとびかかってきたくまの<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>の下を、横にくぐりぬけるようにからだをなげだしたので、あぶないところで、自分はくまの<ruby><rb>爪</rb><rt>つめ</rt></ruby>にかかることだけはのがれることができたのだが、さて、少し気が<ruby><rb>落着</rb><rt>おちつ</rt></ruby>いてくると、おそろしさと<ruby><rb>不安</rb><rt>ふあん</rt></ruby>とが、前の二<ruby><rb>倍</rb><rt>ばい</rt></ruby>になって自分の<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>におしよせてきた。

たった一つののがれ道だと思ったガラスまどは、くまの大きなからだで、すっかりふさがれてしまったのだ。自分とくまは、さっきとはまったく、あべこべになったわけだ。自分はまるでくまのおりへ入れられたようなものだ。

さっきまでは、とにかくにげられそうな<ruby><rb>希望</rb><rt>きぼう</rt></ruby>があった。まどへ<ruby><rb>両手</rb><rt>りょうて</rt></ruby>をかけてさえしまえば、<ruby><rb>飛越台</rb><rt>とびこしだい</rt></ruby>の<ruby><rb>要領</rb><rt>ようりょう</rt></ruby>ででも、どうにか制動室へからだを<ruby><rb>運</rb><rt>はこ</rt></ruby>ぶことができると思っていた。それがだめだとなると、自分はまったくもう、どうしていいかわからなくなってしまった。自分の<ruby><rb>命</rb><rt>いのち</rt></ruby>があぶないばかりでなく、<ruby><rb>車掌</rb><rt>しゃしょう</rt></ruby>として<ruby><rb>重大</rb><rt>じゅうだい</rt></ruby>な<ruby><rb>任務</rb><rt>にんむ</rt></ruby>をはたすことができない。<ruby><rb>非常信号機</rb><rt>ひじょうしんごうき</rt></ruby>？　――そういうものがあればいいのだが、なにしろ、むかしの<ruby><rb>開通</rb><rt>かいつう</rt></ruby>してまもなくの<ruby><rb>鉄道</rb><rt>てつどう</rt></ruby>なのだから、そういう<ruby><rb>用意</rb><rt>ようい</rt></ruby>がまるでないのだ。

ともかく、じっとしてはいられないから、そろそろからだをおこしてみた。四つんばいになると、さっき<ruby><rb>投</rb><rt>な</rt></ruby>げだした、シグナル・ランプのこわれがジャリジャリと手のひらにさわる。なまぐさい<ruby><rb>魚</rb><rt>さかな</rt></ruby>のにおいにまじって、こぼれた<ruby><rb>石油</rb><rt>せきゆ</rt></ruby>がプンと<ruby><rb>鼻</rb><rt>はな</rt></ruby>をうつ。――なによりも<ruby><rb>大事</rb><rt>だいじ</rt></ruby>な、たった一つの<ruby><rb>武器</rb><rt>ぶき</rt></ruby>とも思っていたランプが、メチャメチャになってしまったのである。

「自分はなにを持ってくまと<ruby><rb>戦</rb><rt>たたか</rt></ruby>ったらいいだろうか？」

そう思うと自分はまったく<ruby><rb>絶望</rb><rt>ぜつぼう</rt></ruby>してしまった。――それでも自分は、ガラスのかけらで手を<ruby><rb>切</rb><rt>き</rt></ruby>らないように<ruby><rb>用心</rb><rt>ようじん</rt></ruby>しながら、そろそろとあたりをかき<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>してみた。なんというあてもない、ただ自分は、むちゅうでそんなことをしていたのだ。

「うわう……。」

くまは、またうなり声をあげた。自分は、ぎょっとして、そちらを見すかしたが、<ruby><rb>真暗</rb><rt>まっくら</rt></ruby>やみの中で、よくは見えないが、くまは戸口に前足をかけたまま、<ruby><rb>動</rb><rt>うご</rt></ruby>かずにいるようだ。

自分は、その時、みょうなことを考えた。――いや、考えたことがらは、みょうでもなんでもないのだが、そんな、せっぱつまった<ruby><rb>場合</rb><rt>ばあい</rt></ruby>に、よくも、あんな、のんきなことを考えだしたものだと、それがみょうなのだ。

それは、自分がいままでにきいたくまについての、いろんなめずらしい話なのだ。そんなものが、つぎからつぎへと<ruby><rb>頭</rb><rt>あたま</rt></ruby>にうかんできた。

……そのうちの一つは、ふいに山の中でくまにでくわした人の話だった。そういう場合に、死んだふりをするということはだれでも知っている。しかし、これは、それにしてもものすごい話だった。――その人は、やはり、どうすることもできず、<ruby><rb>仕方</rb><rt>しかた</rt></ruby>なしにたおれて<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>を<ruby><rb>殺</rb><rt>ころ</rt></ruby>していたのだそうである。くまが、<ruby><rb>頭</rb><rt>あたま</rt></ruby>のそばへきて、自分をかぎまわしているのが、はっきりとわかる。かれは、まったく死んだようになって、<ruby><rb>心臓</rb><rt>しんぞう</rt></ruby>の<ruby><rb>鼓動</rb><rt>こどう</rt></ruby>までも止めるようにしていた。もっとも、そんな時にはかえって心臓はドキドキとはげしく<ruby><rb>打</rb><rt>う</rt></ruby>ったことだろうが……。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じょうだん</span>はさておき、二<ruby><rb>分</rb><rt>ふん</rt></ruby>……三分……そのうちにくまのけはいがしなくなったように思われた。その男は、もういいだろうと思って、かすかにうす目をあいて見たのだそうだ。――その<ruby><rb>瞬間</rb><rt>しゅんかん</rt></ruby>、ザクンと<ruby><rb>一打</rb><rt>ひとうち</rt></ruby>、大きなくまの手が、かれの右の<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>から頭にかけて打ちおろされた。男は、むちゅうでバネ<ruby><rb>仕掛</rb><rt>じかけ</rt></ruby>のようにとび上がって、あとはどうしたのか自分にはわからない。ともかくその男は<ruby><rb>助</rb><rt>たす</rt></ruby>かったそうである。<ruby><rb>大方</rb><rt>おおかた</rt></ruby>、くまもふいをうたれてびっくりしたのだろう。しかし、目をあいて見るまでの時間は、わずか一分か二分だったのだろうが、その男には、どんなに長く<ruby><rb>感</rb><rt>かん</rt></ruby>じられたことだろう。――

つい、話が<ruby><rb>横道</rb><rt>よこみち</rt></ruby>にそれた。――しかし、くまといっしょに<ruby><rb>貨車</rb><rt>かしゃ</rt></ruby>の中にとじこめられたまま、自分はまったく、そんな、人の話などを思いだしていたのだからみょうではないか。

「ごーっ。」

というひびきが、<ruby><rb>列車</rb><rt>れっしゃ</rt></ruby><ruby><rb>全体</rb><rt>ぜんたい</rt></ruby>をつつむようにとどろきわたった。

「<ruby><rb>鉄橋</rb><rt>てっきょう</rt></ruby>だ。」

と思うと、自分はもうじっとしていられなかった。川をわたってから<ruby><rb>約</rb><rt>やく</rt></ruby>二マイルのところが<ruby><rb>例</rb><rt>れい</rt></ruby>の<ruby><rb>難所</rb><rt>なんしょ</rt></ruby>なのだ。<ruby><rb>機関士</rb><rt>きかんし</rt></ruby>も、<ruby><rb>十分</rb><rt>じゅうぶん</rt></ruby>に<ruby><rb>速度</rb><rt>そくど</rt></ruby>を<ruby><rb>落</rb><rt>おと</rt></ruby>しはするが、<ruby><rb>後部</rb><rt>こうぶ</rt></ruby>のブレーキは、どうしてもまかなければならないことになっている。が、速度のついた列車が、機関車のブレーキ一つで<ruby><rb>支</rb><rt>ささ</rt></ruby>え<ruby><rb>切</rb><rt>き</rt></ruby>れないとすると、<ruby><rb>脱線</rb><rt>だっせん</rt></ruby>か<ruby><rb>転覆</rb><rt>てんぷく</rt></ruby>……か。わずか二、三<ruby><rb>両</rb><rt>りょう</rt></ruby>ではあるが、<ruby><rb>混合列車</rb><rt>こんごうれっしゃ</rt></ruby>のことなので客車も<ruby><rb>連結</rb><rt>れんけつ</rt></ruby>されている。その<ruby><rb>乗客</rb><rt>じょうきゃく</rt></ruby>たちの<ruby><rb>運命</rb><rt>うんめい</rt></ruby>は、まったく、自分ひとりの<ruby><rb>腕</rb><rt>うで</rt></ruby>にあるといっていい。

自分は、足をふみしめて立ち上がった。と、ふいに明かるい光が一すじ、目の前を走って、暗い車内にななめの線を落している。

「月だ……月の光だ！」

<ruby><rb>貨車</rb><rt>かしゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>横腹</rb><rt>よこばら</rt></ruby>にある大きな<ruby><rb>板戸</rb><rt>いたど</rt></ruby>の、すきまをもれていましがた上がったと思われる月がさしこんできたのであった。自分は、なんというわけもなく<ruby><rb>勇</rb><rt>いさ</rt></ruby>みたった。月の光をたどって見ると、さけの山にかけられた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むしろ</span>が二、三<ruby><rb>枚</rb><rt>まい</rt></ruby>、足もとに落ちている。

「これだ。」自分は、とっさに思った。「火だ、火だ。」

自分は、あせりにあせって、ポケットのマッチをさがそうとしたところが、どうしても手がポケットにはいらない。もどかしく思って、ぐッと手をおしこもうとすると、ポキリと<ruby><rb>折</rb><rt>お</rt></ruby>れたものがある。見ると、それはろうそくではないか。――さっき、ころんだひょうしにポケットからとびだしたのを、むちゅうで、手さぐりでつかんでいたものとみえる。

二、三本いっしょにマッチをすると、自分はまずそれをろうそくにうつした。――やぶれたガラスまどへ片手をつっこんだまま<ruby><rb>中腰</rb><rt>ちゅうごし</rt></ruby>に立っているくまのすがたが、きゅうに明かるく<ruby><rb>照</rb><rt>て</rt></ruby>らしだされた。にわかに火を見たくまの目は、ギロギロとくるいだしそうに光った。

自分は、むしろに火をつけた。メラメラともえ上がったと思うと、しめり<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>があるとみえて、すぐに力なく<ruby><rb>消</rb><rt>き</rt></ruby>えそうになる。

くまは、<ruby><rb>低</rb><rt>ひく</rt></ruby>く長くうなりだした。それは、さっきまでほえたような声とちがって、<ruby><rb>大敵</rb><rt>たいてき</rt></ruby>に<ruby><rb>出会</rb><rt>であ</rt></ruby>った<ruby><rb>場合</rb><rt>ばあい</rt></ruby>に、たがいにすきをねらってにらみ合っているような、<ruby><rb>不気味</rb><rt>ぶきみ</rt></ruby>なものだった。

こっちの<ruby><rb>火勢</rb><rt>かせい</rt></ruby>がよわければ、今にもとびかかろうかという<ruby><rb>気配</rb><rt>けはい</rt></ruby>が見えた。

自分は、さっき<ruby><rb>石油</rb><rt>せきゆ</rt></ruby>がこぼれたと思うあたりに、足で下に落ちているむしろをおしやり、手に持った一枚のもえかけたむしろを、<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>のようにからだの前にかざしながら、足さきで、むしろに石油をしみこませようと、ごしごしと下のむしろをふみつづけた。

くまは、まだうなりながら、自分をにらみすえている。

手に持っているむしろが、<ruby><rb>消</rb><rt>き</rt></ruby>えないうちに、<ruby><rb>手早</rb><rt>てばや</rt></ruby>く自分は、<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>のむしろをひろい上げた。

石油がしみたのか、むしろがかわいていたのか、<ruby><rb>今度</rb><rt>こんど</rt></ruby>は、<ruby><rb>勢</rb><rt>いきおい</rt></ruby>よく一時にパッともえついた。

この<ruby><rb>機会</rb><rt>きかい</rt></ruby>をはずしてはと、自分は、もう、おそろしさもわすれて――<ruby><rb>実</rb><rt>じつ</rt></ruby>は、おそろしさのあまりだが――もえ上がるむしろを、ちょうど、スペインの<ruby><rb>闘牛士</rb><rt>とうぎゅうし</rt></ruby>が使う赤いハンケチのようにふりながら、じりじりと<ruby><rb>前進</rb><rt>ぜんしん</rt></ruby>した。

<ruby><rb>鼻</rb><rt>はな</rt></ruby>さきでもえる火を見ては、くまもがまんができなかったのだろう。どしんと大きな音をひびかせて、うしろへとびのいた。

それといっしょに、またまどガラスの落ちくだける音がした。くまと自分ははじめと同じ<ruby><rb>位置</rb><rt>いち</rt></ruby>にもどったわけだ。すみのかべ<ruby><rb>板</rb><rt>いた</rt></ruby>に<ruby><rb>背中</rb><rt>せなか</rt></ruby>をこすりつけて、立ったくまは、まるで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まねきねこ</span>みたいなかっこうだった。（あとになってわかったことだが、くまは、ガラスまどに手をつっこんだひょうしに片手にけがをしたので、<ruby><rb>自然</rb><rt>しぜん</rt></ruby>そんな手つきをしたのだ。）

この時、だしぬけに<ruby><rb>汽笛</rb><rt>きてき</rt></ruby>が、ヒョーと<ruby><rb>鳴</rb><rt>な</rt></ruby>った。<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>りのカーブにかかる<ruby><rb>合図</rb><rt>あいず</rt></ruby>なのだ。

自分でも、よく、それが、耳にはいったと思う。――自分は、なにもかもわすれて、うしろのガラスまどへ<ruby><rb>上半身</rb><rt>じょうはんしん</rt></ruby>をつっこんだ。

しかし、どうしても足がぬけない。死にものぐるいでもがいているうちに、さいわいに、手が、ブレーキのハンドルにかかった。

自分は、<ruby><rb>宙</rb><rt>ちゅう</rt></ruby>にぶらさがったままで力をこめてハンドルをまわした。

……それから、あとのことは自分はなにもおぼえていない。

すぐつぎの<ruby><rb>駅</rb><rt>えき</rt></ruby>で、自分は<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>から下に<ruby><rb>火傷</rb><rt>やけど</rt></ruby>をして、<ruby><rb>気絶</rb><rt>きぜつ</rt></ruby>しているところを<ruby><rb>助</rb><rt>たす</rt></ruby>けられた。

ころんだ時に、ズボンのうしろにしみこませた<ruby><rb>油</rb><rt>あぶら</rt></ruby>に火がついたものらしいが、なるほど、しりっぺたをもやしていたのだから、くまも、よりつかなかったわけではないか。――ただ、この<ruby><rb>間</rb><rt>かん</rt></ruby>二十分か三十分のことが、自分には<ruby><rb>実</rb><rt>じつ</rt></ruby>に実に長いことに思われてならない。

くまは、わけなく<ruby><rb>生捕</rb><rt>いけど</rt></ruby>られた。<ruby><rb>始発駅</rb><rt>しはつえき</rt></ruby>で、さけのつみこみを<ruby><rb>終</rb><rt>おわ</rt></ruby>って、戸をしめる<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すき</span>にはいりこんだものだろうが、なにしろひとりで汽車へ<ruby><rb>乗</rb><rt>の</rt></ruby>りこんだくまもめずらしいというので、<ruby><rb>駅員</rb><rt>えきいん</rt></ruby>たちがだいじに<ruby><rb>飼</rb><rt>か</rt></ruby>っていたが、二年あまりで死んでしまった。（昭２・３～４）