Soranoha

ジャン・クリストフ

ジャン・クリストフ

ロラン ロマン

前がき

『ジャン・クリストフ』の作者さくしゃロマン・ローランは、西暦せいれき千八百六十六年ねんフランスに生うまれて、現在げんざいではスウィスの山間さんかんに住すんでいます。純粋じゅんすいのフランス人じんの血ちすじをうけた人ひとで、するどい知力ちりょくをもっています。世界中せかいじゅうの人々ひとびとがみなお互たがいに愛あいしあい、そして力強ちからづよく生いきてゆくこと、それが彼かれの理想りそうであり、そして彼かれはいつも平和へいわと自由じゆうと民衆みんしゅうとの味方みかたであります。

これまでの彼かれの仕事しごとは、いろいろな方面ほうめんにわたっています。第だい一に、五つの小説しょうせつがあり、そのなかで『ジャン・クリストフ』は、いちばん長ながいもので、そしていちばん有名ゆうめいです。ここに掲かかげたのはその中うちの一節せつです。第だい二に、十あまりの戯曲ぎきょくがあり、そのなかで、フランス革命かくめいについてのものと信仰しんこうについてのものとが、重おもなものです。第だい三に、十ばかりの偉人いじんの伝記でんきがあり、そのなかで、ベートーヴェンとミケランゼロとトルストイとの三つの伝記でんきは、もっとも有名ゆうめいです。第だい四に、音楽おんがくや文学ぶんがくや社会問題しゃかいもんだいやそのほかにいろいろなものについて多おおくの評論ひょうろんがあります。

彼かれはいま、スウィスの田舎いなかに静しずかな生活せいかつをしながら、仕事しごとをしつづけています。そして人間にんげんはどういう風ふうに生いきてゆくべきかということについて、考かんがえつづけています。(訳者)

クリストフがいる小さな町まちを、ある晩、流星りゅうせいのように通りすぎていったえらい音楽家おんがくかは、クリストフの精神せいしんにきっぱりした影響えいきょうを与えた。幼年時代ようねんじだいを通じて、その音楽家の面影おもかげは生きた手本てほんとなり、彼かれはその上うえに眼めをすえていた。わずか六歳の少年しょうねんたる彼が、自分もまた楽曲を作ってみようと決心けっしんしたのは、この手本に基もとづいてであった。だがほんとうのことをいえば、彼かれはもうずいぶん前から、知しらず知しらずに作曲さっきょくしていた。彼が作曲し始はじめたのは、作曲していると自分じぶんで知るよりも前まえのことだったのである。

音楽家おんがくかの心にとっては、すべてが音楽おんがくである。ふるえ、ゆらぎ、はためくすべてのもの、照てりわたった夏なつの日、風の夜、流ながれる光、星のきらめき、雨風あめかぜ、小鳥ことりの歌、虫の羽音はおと、樹々きぎのそよぎ、好このましい声こえやいとわしい声、ふだん聞ききなれている、炉ろの音おと、戸の音、夜の静しずけさのうちに動脈どうみゃくをふくらます血液けつえきの音、ありとあらゆるものが、みな音楽おんがくである。ただそれを聞きさえすればいいのだ。ありとあらゆるものが奏かなでるそういう音楽おんがくは、すべてクリストフのうちに鳴なりひびいていた。彼かれが見みたり感かんじたりするあらゆるものは、みな音楽おんがくに変かわっていた。彼かれはちょうど、そうぞうしい蜂はちの巣すのようだった。しかし誰たれもそれに気づかなかった。彼自身かれじしんも気きづかなかった。

どの子供こどもでもするように、彼もたえず小声こごえで歌うたっていた。どんな時ときでも、どういうことをしてる時でも、たとえば片足かたあしでとびながら往来おうらいを歩きまわっている時でも――祖父そふの家の床ゆかにねころがり、両手りょうてで頭を抱かかえて書物しょもつの挿絵さしえに見入っている時でも――台所だいどころのいちばんうす暗い片隅かたすみで、自分の小さな椅子いすに坐すわって、夜になりかかっているのに、何なにを考えるともなくぼんやり夢想むそうしている時でも――彼はいつも、口くちを閉とじ、頬ほほをふくらし、唇くちびるをふるわして、つぶやくような単調たんちょうな音おとをもらしていた。幾時間いくじかんたっても彼はあきなかった。母はははそれを気にもとめなかったが、やがて、たまらなくなって、ふいに叱しかりつけるのだった。

その半なかば夢心地ゆめごこちの状態じょうたいにあきてくると、彼は動うごきまわって音おとをたてたくてたまらなくなった。そういう時には、楽曲がっきょくを作つくり出して、それをあらん限かぎりの声こえで歌った。自分の生活せいかつのいろんな場合ばあいにあてはまる音楽をそれぞれこしらえていた。朝、家鴨あひるの子のように盥たらいの中をかきまわす時の音楽おんがくもあったし、ピアノの前の腰掛こしかけに上って、いやな稽古けいこをする時の音楽も――またその腰掛こしかけから下る時の特別とくべつな音楽おんがくもあった。(この時の音楽おんがくはひときわ輝かがやかしいものだった。)それから、母ははが食卓しょくたくに食物を運ぶ時の音楽おんがくもあった――その時、彼は喇叭らっぱの音で彼女をせきたてるのだった。――食堂から寝室しんしつに厳おごそかにやっていく時には、元気げんきのいい行進曲マーチを奏そうした。時によっては、二人ふたりの弟おとうとといっしょに行列ぎょうれつをつくった。三人は順々じゅんじゅんにならんで、威いばってねり歩あるき、めいめい自分の行進曲マーチをもっていた。もちろん、いちばん立派りっぱなのがクリストフのものだった。そういう多くの音楽おんがくは、みなぴったりとそれぞれの場合ばあいにあてはまっていた。クリストフは決けっしてそれを混同こんどうしたりしなかった。ほかの人なら誰たれだって、まちがえるかも知しれなかった。しかし彼は、はっきりと音色ねいろを区別くべつしていた。

ある日、彼は祖父そふの家いえで、そりくりかえって腹はらをつき出だし、踵かかとで調子ちょうしをとりながら、部屋へやの中をぐるぐるまわっていた。自分で作つくった歌うたをやってみながら、気持きもちが悪わるくなるほどいつまでもまわっていた。祖父そふはひげをそっていたが、その手てをやすめて、しゃぼんだらけな顔をつき出だし、彼の方を眺ながめていった。

「何なにを歌ってるんだい。」

クリストフは知しらないと答えた。

「もう一度どやってごらん。」と祖父そふはいった。

クリストフはやってみた。だが、どうしてもさっきの節ふしが思い出せなかった。でも、祖父そふから注意ちゅういされてるのに得意とくいになり、自分のいい声をほめてもらおうと思って、オペラのむずかしい節ふしを自己流じこりゅうにうたった。しかし祖父そふが聞ききたいと思ってるのは、そんなものではなかった。祖父そふは口をつぐんで、もうクリストフに取りあわない風ふうをした。それでもやはり、子供こどもが隣となりの部屋へやで遊んでいる間、部屋へやの戸を半分はんぶん開放あけはなしにしておいた。

それから数日後すうじつごのこと、クリストフは自分のまわりに椅子いすをまるくならべて芝居しばいへいった時のきれぎれな思おもい出でをつなぎあわせて作った音楽劇おんがくげきを演えんじていた。まじめくさった様子で、芝居しばいで見た通り、三拍子曲ミニュエットの節ふしにあわせて、テーブルの上うえにかかっているベートーヴェンの肖像しょうぞうに向かい、ダンスの足どりや敬礼けいれいをやっていた。そして爪先つまさきでぐるっとまわって、ふりむくと、半開はんびらきの扉ドアの間あいだから、こちらを見ている祖父そふの顔が見えた。祖父に笑われてるような気きがした。たいへんきまりが悪わるくなって、ぴたりと遊あそびを止やめてしまった。そして窓のところへ走っていき、ガラスに顔を押おしあてて、何かを夢中むちゅうで眺ながめてるような風ふうをした。しかし、祖父そふは何ともいわないで、彼の方へやって来て抱だいてくれた。クリストフには祖父そふが満足まんぞくしているのがよくわかった。彼は小さな自尊心じそんしんから、そういう好意こういがうれしかった。そしてかなり機敏きびんだったので、自分じぶんがほめられたのをさとった。けれども、祖父そふが自分のうちの何を一番ほめたのか、それがよくわからなかった。戯曲家ぎきょくかとしての才能さいのうか、音楽家としての才能さいのうか、歌い手としての才能か、または舞踊家ぶようかとしての才能か。彼はそのいちばんおしまいのものだと思いたかった。なぜなら、それを立派りっぱな才能さいのうだと思っていたから。

それから一週間しゅうかんたって、クリストフがそのことをすっかり忘わすれてしまった頃、祖父そふはもったいぶった様子ようすで、彼に見せるものがあるといった。そして机つくえをあけて、中から一冊さつの楽譜帖がくふちょうをとり出し、ピアノの楽譜台がくふだいにのせて、弾ひいてごらんといった。クリストフは大変困ったが、どうかこうか読み解といていった。その楽譜がくふは、老人ろうじんの太い書体しょたいで特別に念ねんをいれて書いてあった。最初さいしょのところには輪や花形はながたの飾かざりがついていた。――祖父はクリストフのそばに坐すわってページをめくってやっていたが、やがて、それは何の音楽おんがくかと尋たずねた。クリストフは弾ひくのに夢中むちゅうになっていて、何を弾ひいてるのやらさっぱりわからなかったので、知らないと答こたえた。

「気きをつけてごらん。それがわからないかね。」

そうだ、たしかに知っていると彼は思った。しかし、どこで聞いたのかわからなかった。……祖父そふは笑っていた。

「考かんがえてごらん。」

クリストフは頭あたまをふった。

「わからないよ。」

ほんとうをいえば、思おもいあたることがあるのだった。どうもこの節は……という気きがした。だがそうだとは、いいきれなかった……いいたくなかった。

「お祖父じいさん、わからないよ。」

彼は顔を赤あからめた。

「ばかな子だね。自分じぶんのだということがわからないのかい。」

たしかにそうだとは思っていた。けれどはっきりそうだと聞きくと、はっとした。

「ああ、お祖父じいさん。」

老人ろうじんは顔を輝かがやかしながら、クリストフにその楽譜がくふを説明せつめいしてやった。

「これは詠唱曲アリアだ。火曜日かようびにお前が床にねころんでうたっていたあれだ。それから、行進曲マーチ。先週せんしゅうだったね、もう一度やってごらんといっても、思おもいだせなかったろう、あれだ。それから三拍子曲ミニュエット。肱掛椅子ひじかけいすの前で踊っていた時の歌だ。……みてごらん。」

表紙には、見事な花文字はなもじで、こう書いてあった。

少年時代の快楽かいらく――詠唱曲アリア、三拍子曲ミニュエット、円舞曲ワルツ、行進曲マーチ。ジャン・クリストフ・クラフト作品さくひんⅠ。

クリストフは目めがくらむような気がした。自分じぶんの名前、立派りっぱな表題ひょうだい、大きな帖面ちょうめん、自分の作品さくひん! これがそうなんだ。……彼はまだよく口がきけなかった。

「ああ、お祖父じいさん! お祖父じいさん!……」

老人ろうじんは彼を引寄ひきよせた。クリストフはその膝ひざに身体からだを投なげかけ、その胸むねに顔をかくした。彼は嬉うれしくて真赤まっかになっていた。老人ろうじんは子供よりもっと嬉うれしかったが、わざと平気へいきな声で――感動かんどうしかかってることに自分じぶんでも気づいていたから――いった。

「もちろん、お祖父じいさんが伴奏ばんそうをつけたし、また歌の調子ちょうしに和声ハーモニーを入れておいた。それから……(彼は咳せきをした)……それから、三拍子曲ミニュエットに中間奏部トリオをそえた。なぜって……なぜって、そういう習慣しゅうかんだからね。それに……とにかく、悪くなったとは思おもわないよ。」

老人はその曲きょくを弾ひいた。――クリストフは祖父そふと一しょに作曲さっきょくしたことが、ひどく得意とくいだった。

「でも、お祖父じいさん、お祖父さんの名前なまえも入れなきゃいけないよ。」

「それには及ばないさ。お前まえよりほかの人に知らせる必要ひつようはない。ただ……(ここで彼の声はふるえた)……ただ、あとで、お祖父じいさんがもういなくなった時、お前はこれを見て、年とったお祖父じいさんのことを思い出してくれるだろう、ねえ! お祖父じいさんを忘わすれやしないね。」

憐あわれな老人ろうじんは思ってることをすっかりいえなかった。彼かれは、自分よりも長い生命いのちがあるに違ちがいないと感じた孫まごの作品さくひんの中に、自分のまずい一節ひとふしをはさみ込むという、きわめて罪つみのない楽たのしみを、おさえることができなかったのである。けれども、今から想像そうぞうされる孫まごの光栄こうえいに一しょに加わりたいというその願ねがいは、ごくつつましい哀あわれなものだった。彼は自分が全まったく死にうせてしまわないようにと、自分の思想しそうの一片いっぺんを自分の名もつけずに残しておくだけで、満足まんぞくしていたのである。――クリストフは、ひどく感動かんどうして、老人ろうじんの顔にやたらに接吻せっぷんした。老人はさらに心を動かされて、彼の頭あたまを抱きしめた。

「ねえ、思おもい出だしてくれるね。これから、お前が立派りっぱな音楽家おんがくかになり、えらい芸術家げいじゅつかになって、一家の光栄こうえい、芸術の光栄、祖国そこくの光栄こうえいとなった時、お前が有名になった時、その時になって、思い出してくれるだろうね、お前まえを最初さいしょに見出し、お前の将来しょうらいを予言よげんしたのは、この年としとったお祖父じいさんだったということをね……」

その日ひ以来いらい、クリストフはもう作曲家さっきょくかになったのだったから、作曲さっきょくにとりかかった。まだ字じを書かくことさえよく出来できないうちから、家計簿かけいぼの紙かみをちぎりとっては、いろいろな音符おんぷを一生懸命しょうけんめい書かきちらした。けれども、自分じぶんがどんなことを考えているかそれを知しるために、そしてそれをはっきり書かきあらわすために、あまり骨折ほねおっていたので、ついには、何か考かんがえてみようとするだけで、もう何も考えなくなってしまった。それでも彼は、やはり楽句がっく(楽曲の一節)を組みたてようとりきんでいた。そして音楽の天分てんぶんがゆたかだったので、まだ何の意味いみも持たないものではあったけれど、ともかくも楽句がっくをこしらえ上げることができた。すると彼は喜び勇いさんで、それを祖父そふのところへ持っていった。祖父そふは嬉うれし涙をながし――彼はもう年をとっていたので涙なみだもろかった――そして、素晴すばらしいものだといってくれた。

そんなふうに、彼はすっかり甘あまやかされてだめになるところだった。しかし幸さいわいなことに、彼は生うまれつき賢かしこい性質せいしつだったので、ある一人の男のよい影響えいきょうをうけて救すくわれた。その男というのは、ほかの人に影響えいきょうを与あたえるなどとは自分でも思っていなかったし、誰たれが見みても平凡へいぼんな人間にんげんだった。――それはクリストフの母親ははおやルイザの兄だった。

彼はルイザと同おなじように小柄こがらで、痩やせていて、貧弱ひんじゃくで、少し猫背ねこぜだった。年としのほどはよくわからなかった。四十をこしている筈はずはなかったが、見たところでは五十以上いじょうに思われた。皺しわのよった小さな顔は赤みがかって、人のよさそうな青あおい眼めが色いろのさめかけた瑠璃草るりそうのような色合いろあいだった。隙間風すきまかぜがきらいで、どこででも寒さむそうに帽子ぼうしをかぶっていたが、その帽子をぬぐと、円錐形えんすいけいの赤い小さな禿頭はげあたまがあらわれた。クリストフと弟おとうとたちはそれを面白おもしろがった。髪かみの毛はどうしたのと聞いてみたり、父親ちちおやメルキオルの露骨ろこつな常談じょうだんにおだてられて、禿はげをたたくぞとおどしたりして、いつもそのことで彼かれをからかってあきなかった。すると小父おじはまっさきに笑わらいだし、されるままになって少しも怒おこらなかった。彼はちっぽけな行商人ぎょうしょうにんだった。香料こうりょう、紙類、砂糖菓子さとうがし、ハンケチ、襟巻えりまき、履物はきもの、缶詰かんづめ、暦こよみ、小唄集、薬類など、いろんなもののはいってる大きな梱こりを背負せおって、村から村へと渡わたり歩あるいていた。家の人たちは何度なんども、雑貨屋ざっかやや小間物屋こまものやなどの小さな店を買かってやって、そこにおちつくようにすすめたことがあった。しかし彼かれは腰こしをすえることが出来なかった。夜中よなかに起上おきあがって、戸の下に鍵かぎをおき、梱こりをかついで出ていってしまうのだった。そして幾月いくつきも姿すがたを見せなかった。それからまた戻もどってきた。夕方ゆうがた、誰かが戸にさわる音おとがする。そして戸が少しあいて、行儀ぎょうぎよく帽子ぼうしをとった小さな禿頭はげあたまが、人のいい目つきとおずおずした微笑びしょうと共にあらわれるのだった。「皆さん、今晩は。」と彼かれはいった。はいる前によく靴くつをふき、みんなに一人一人ひとりひとり年としの順に挨拶あいさつをし、それから部屋へやのいちばん末座まつざにいって坐った。そこで彼はパイプに火をつけ、背せをかがめて、いつものひどい悪洒落わるじゃれがすむのを、静かに待まつのであった。クリストフの祖父そふと父は、彼を嘲あざけりぎみに軽蔑けいべつしていた。そのちっぽけな男がおかしく思おもわれたし、行商人ぎょうしょうにんという賤いやしい身分に自尊心じそんしんを傷きずつけられるのだった。彼等かれらはそのことをあからさまに見せつけたが、彼は気づかない様子ようすで、彼等に深い敬意けいいをしめしていた。そのため、二人の気持きもちはいくらか和やわらいだ。ひとから尊敬そんけいされるとそれに感じ易い老人ろうじんの方は、殊ことにそうだった。二人はルイザがそばで顔を真赤まっかにするほどひどい常談じょうだんを浴あびせかけて、それで満足まんぞくした。ルイザはクラフト家の人たちの優すぐれていることを文句もんくなしにいつも認みとめていたから、夫おっとと舅しゅうとが間違まちがっているなどとは夢ゆめにも思っていなかった。しかし、彼女かのじょは兄をやさしく愛していたし、兄も口には出さないが彼女を大切たいせつにしていた。彼等は二人ふたりきりでほかに身寄みよりの者ものもなかった。二人ふたりとも生活のためにひどく苦労くろうして、やつれはてていた。人知ひとしれず忍しのんできた同じような苦くるしみとお互たがいの憐あわれみの気持きもちとが、悲しいやさしみをもって二人を結むすびつけていた。生いきるように、楽しく生きるように頑固がんこに出来上ってる、丈夫じょうぶな騒々そうぞうしい荒あらっぽいクラフト家けの人たちの間にあって、いわば人生の外側そとがわか端はしっこにうち捨てられてるこの弱い善良ぜんりょうな二人ふたりは、今までお互に一言ことも口には出ださなかったが、互たがいに理解りかいしあい憐あわれみあっていた。

クリストフは子供こどもによく見られる思いやりのない軽率けいそつさで、父や祖父そふの真似まねをして、この小さい行商人ぎょうしょうにんをばかにしていた。おかしな玩具がんぐかなんかのように彼を面白がったり、悪わるふざけをしてからかったりした。それを小父おじ(小さい行商人)はおちつき払って我慢がまんしていた。でもクリストフは、知らず知らずに彼を好すいてるのだった。第一に、思うままになるおとなしい玩具がんぐとして、彼が好すきだった。それからまた、いつも待まちがいのあるいいもの、菓子かしとか絵えとか珍めずらしい玩具などを持って来きてくれるから、好すきだった。この小さい男が戻もどって来くると、思いがけなく何なにか貰もらえるので、子供たちはうれしがった。彼は貧乏びんぼうだったけれど、どうにか工面くめんして一人一人ひとりびとりに土産物みやげものを持って来きてくれた。また彼は家の人たちの祝いわい日を一度ども忘わすれることがなかった。誰だれかの祝いわい日になると、きっとやってきて、心をこめて選えらんだかわいい贈物おくりものをポケットからとりだした。誰だれもお礼をいうのを忘わすれるほどそれに馴なれきっていた。彼の方ほうでは、贈物おくりものをすることがうれしくて、それだけでもう満足まんぞくしてるらしかった。けれど、クリストフはいつも夜よるよく眠れないで、夜の間に昼間ひるまの出来事できごとを思いかえしてみる癖くせがあって、そんな時に、小父おじはたいへん親切しんせつな人だと考え、その憐あわれな人に対する感謝かんしゃの気持きもちがこみ上げて来くるのだった。しかし昼ひるになると、また彼をばかにすることばかり考えて、感謝かんしゃの様子などは少すこしも見せなかった。その上、クリストフはまだ小ちいさかったので、善良ぜんりょうであるということの価値かちが十分にわからなかった。子供こどもの頭あたまには、善良と馬鹿とは、だいたい同じ意味いみの言葉と思おもわれるものである。小父おじのゴットフリートは、その生いきた証拠しょうこのようだった。

ある晩ばん、クリストフの父が夕食をたべに町に出でかけた時、ゴットフリートは下の広間ひろまに一人残っていたが、ルイザが二人ふたりの子供こどもをねかしている間あいだに、外に出でてゆき、少し先の河岸かしにいって坐すわった。クリストフはほかにすることもなかったので、あとからついていった。そしていつもの通り、子犬こいぬのようにじゃれついていじめた揚句あげく、とうとう息いきを切きらして、小父おじの足もとの草くさの上にねころんだ。腹はらばいになって芝生しばふに顔をうずめた。息切れがとまると、また何なにか悪口わるくちをいってやろうと考えた。そして悪口が見つかったので、やはり顔を地面じべたに埋うずめたまま、笑わらいこけながら大声おおごえでそれをいってやった。けれど何なんの返事もなかった。それでびっくりして顔かおを上あげ、もう一度どそのおかしな常談じょうだんをいってやろうとした。すると、ゴットフリートの顔かおが目の前にあった。その顔は、金色こんじきの靄もやのなかに沈しずんでゆく夕日ゆうひの残りの光ひかりに照らされていた。クリストフの言葉は喉のどもとにつかえた。ゴットフリートは目を半なかばとじ、口を少しあけて、ぼんやり微笑ほほえんでいた。そのなやましげな顔には、何なんともいえぬ誠実せいじつさが見えていた。クリストフは頬杖ほおづえをついて、彼を見守みまもりはじめた。もう夜よるになりかかっていた。ゴットフリートの顔かおは少しずつ消きえていった。あたりはひっそりとしていた。ゴットフリートの顔にうかんでる神秘的しんぴてきな感じに、クリストフも引きこまれていった。地面じめんは影かげにおおわれており、空そらはあかるかった。星ほしがきらめきだしていた。河の小波さざなみが岸きしにひたひた音をたてていた。クリストフは気きがぼうとして来きた。目にも見ないで、草の小さな茎くきをかみきっていた。蟋蟀こおろぎが一匹ぴきそばで鳴いていた。彼かれは眠ねむりかけてるような気持きもちだった。

と突然とつぜん、暗くらいなかで、ゴットフリートが歌うたいだした。胸むねの中で響ひびくようなおぼろな弱よわい声こえだった。少しはなれてたら、聞ききとれなかったかも知れない。しかしその声には、人の心を打うつ誠まことがこもっていた。声に出だして考かんがえているのかと思えるほどだった。ちょうど透すきとおった水を通とおして見るように、その音楽おんがくを通とおして彼の心の奥底おくそこまでも読よみとられそうだった。クリストフはこれまで、そんな風ふうな歌い方かたをきいたことがなかった。またそんな歌うたを聞きいたこともなかった。ゆるやかな単純たんじゅんな幼稚ようちな歌で、重々しい寂さびしげな、そして少し単調たんちょうな足どりで、決して急いそがずに進んでゆく――時々長い間やすんで――それからまた行方ゆくえもかまわず進み出だし、夜のうちに消きえていった。ごく遠いところからやって来くるようでもあるし、どこへ行ゆくのかわからなくもあった。朗ほがらかではあるが、なやましいものがこもっていた。表面うわべは平和だったが、下には長い年月としつきのなやみがひそんでいた。クリストフはもう息いきもつかず、身体からだを動かすことも出来できないで、感動のあまり冷つめたくなっていた。歌が終わると、彼はゴットフリートの方ほうへはい寄よった。そして喉のどをつまらした声でいいかけた。

「小父おじさん!……」

ゴットフリートは返事へんじをしなかった。

「小父おじさん!」とクリストフはくりかえして、両手と顎あごを彼の膝ひざにのせた。

ゴットフリートはやさしい声でいった。

「何なんだい……」

「それ何なんなの、小父おじさん。教おしえてよ。小父さんが歌ったのなあに?」

「知らないね。」

「何なんだか教えとくれよ。」

「知らないよ。歌だよ。」

「小父おじさんの歌かい。」

「おれのなもんか、ばかな……古い歌だよ。」

「誰だれがつくったの?」

「わからないね。」

「いつ出来たの?」

「わからないね。」

「小父おじさんの小さい時分じぶんにかい?」

「おれが生うまれる前まえだ。おれのお父とうさんが生まれる前、お父さんのお父さんが生まれる前、お父さんのお父さんのそのまたお父さんが生まれる前だ……。この歌うたはいつでもあったんだよ。」

「変へんだね! 誰だれにもそんなこと聞いたことがないよ。」

彼かれはちょっと考えた。

「小父おじさん、まだほかのを知ってる?」

「ああ。」

「もう一つ歌って。」

「なぜもう一つ歌うんだい? 一つで沢山たくさんだよ。歌いたい時に、歌わなくちゃならない時に、歌うものなんだ。面白半分おもしろはんぶんに歌っちゃいけない。」

「でも、音楽おんがくをつくる時はどうなの?」

「これは音楽じゃないよ。」

子供こどもは考えこんだ。よくわからなかった。けれど説明せつめいしてもらわなくてもよかった。なるほど、それは音楽おんがくではなかった。普通ふつうの歌みたいに音楽ではなかった。彼はいった。

「小父おじさん、小父さんはつくったことある?」

「何をさ。」

「歌を。」

「歌? どうして歌をつくるのさ。歌はつくるものじゃないよ。」

子供こどもはいつもの論法ろんぽうでいいはった。

「でも、小父おじさん、一度どは誰だれかがつくったにちがいないよ。」

ゴットフリートは頑がんとして頭を振ふった。

「いつでもあったんだ。」

子供はいい進すすんだ。

「だって、小父おじさん、ほかの歌を、新しい歌を、つくることは出来できるんじゃないか。」

「なぜつくるんだ。もうどんなのでもあるんだ。悲かなしい時のもあれば、嬉うれしい時のもある。疲つかれた時のもあれば、遠い家いえのことを思う時のもある。自分がいやしい罪人つみびとだったからといって、まるで虫むしけらみたいなものだったからといって、自分じぶんの身がつくづくいやになった時のもある。ほかの人が親切しんせつにしてくれなかったからといって、泣なきたくなった時のもある。天気がよくて、いつも親切に笑わらいかけて下さる神様かみさまのような大空おおぞらが見えるからといって、楽しくなった時のもある。……どんなのでも、どんなのでもあるんだよ。何なんでほかのをつくる必要ひつようがあるものか。」

「偉えらい人になるためにさ……」と子供こどもはいった。彼の頭は、祖父そふの教おしえと子供らしい夢ゆめとで一ぱいになっていた。

ゴットフリートは穏おだやかに笑わらった。クリストフは少しむっとして尋たずねた。

「なぜ笑わらうんだい!」

ゴットフリートはいった。

「ああ、おれは、おれはつまらない人間さ。」

そして子供こどもの頭をやさしく撫なでながらきいた。

「お前は、偉えらい人になりたいんだね?」

「そうだよ。」とクリストフは得意とくいげに答えた。

彼はゴットフリートがほめてくれるだろうと思っていた。しかしゴットフリートはきき返した。

「何なんのためにだい?」

クリストフはまごついた。そして、ちょっと考かんがえてからいった。

「立派りっぱな歌をつくるためだよ。」

ゴットフリートはまた笑わらった。そしていった。

「偉えらい人になるために歌うたをつくりたいんだね。そして、歌をつくるために偉い人になりたいんだね。それじゃあ、尻尾しっぽを追おっかけてぐるぐるまわってる犬いぬみたいだ。」

クリストフはひどく気きにさわった。ほかの時だったら、いつもばかにしている小父おじからあべこべにばかにされるなんて、我慢がまんが出来なかったかもしれない。それにまた理窟りくつで自分をやりこめるほどゴットフリートが利口りこうだなどとは、思いもよらないことだった。彼かれはやり返してやる議論ぎろんか悪口あっこうを考えたが、思いあたらなかった。ゴットフリートは続つづけていった。

「もしお前が、ここからコブレンツまであるほど大きな人物じんぶつになったところで、たった一つの歌もつくれやすまい。」

クリストフはむっとした。

「つくろうと思おもっても……」

「思おもえば思うほど出来できなくなるんだ。歌をつくるには、あの通りでなくちゃいけない。おききよ……」

月は野の向こうに昇のぼって、まるく輝かがやいていた。銀色ぎんいろの靄もやが、地面じめんとすれすれに、また鏡かがみのような水面すいめんに漂ただよっていた。蛙かえるが語りあっていた。牧場まきばの中には、美しい調子ちょうしの笛ふえのような蟇がまのなく声が聞えていた。蟋蟀こおろぎの鋭するどい顫ふるえ声は、星のきらめきに答こたえてるかのようだった。風かぜは静しずかに榛はんの枝えだをそよがしていた。河の向こうの丘からは、鶯うぐいすのか弱い歌がひびいてきた。

「いったいどんなものを歌う必要ひつようがあるのか?」ゴットフリートは長い間黙だまっていてから、ほっと息いきをしていった。――(自分じぶんに向かっていっているのか、クリストフに向かっていっているのか、よくわからなかった。)――「お前まえがどんな歌うたをつくろうと、ああいうものの方ほうが一そう立派りっぱに歌っているじゃないか。」

クリストフはこれまで何度なんども、それらの夜よるの声を聞いていた。しかしまだこんな風ふうに聞いたことはなかった。本当ほんとうだ、どんなものを歌う必要ひつようがあるか?……彼はやさしさと悲かなしみで胸むねが一ぱいになるのを感かんじた。牧場まきばを、河を、空を、なつかしい星ほしを、胸むねに抱だきしめたかった。そして小父おじのゴットフリートに対たいして、しみじみと愛情あいじょうを覚おぼえた。もう今は、すべての人のうちで、ゴットフリートがいちばんよく、いちばん賢かしこく、いちばん立派りっぱに思われた。彼は小父おじをどんなに見違みちがえていたことかと考えた。自分じぶんから見違えられていたために、小父は悲かなしんでいるのだと考えた。彼は後悔こうかいの念ねんにうたれた。こう叫さけびたい気がした。「小父さん、もう悲しまないでね。もう意地悪いじわるはしないよ。許ゆるしておくれよ。僕は小父おじさんが大好きだ!」しかし彼かれはいえなかった。――そしていきなり小父おじの腕うでの中にとびこんだ。言葉は出でなかった。彼はただくり返かえした。「僕ぼくは小父おじさんが好すきだ!」そして心をこめて抱だきついた。ゴットフリートはびっくりし、感動かんどうして、「何なんだ、何だ?」とくり返かえしながら、同おなじように彼を抱だきしめた。――それから彼かれは立上たちあがり、子供こどもの手をとっていった。「もう家うちへかえろう。」クリストフは自分じぶんの気持きもちが小父おじにはわからなかったのではないかしらと、また悲かなしい気持になった。しかし家うちのところまで来くると、小父はいった。「また晩ばんに、お前さえよかったら、一しょに神様かみさまの音楽おんがくをききに行こう。もっとほかの歌うたも歌ってあげよう。」そしてクリストフは、感謝かんしゃの気持きもちで一ぱいになって、おやすみの挨拶あいさつをしながら、抱だきついた時、小父がよくわかってくれたのを見てとった。

それ以来いらい、二人ふたりは夕方ゆうがた、しばしば一しょに散歩さんぽに出でかけた。黙だまって歩いて、河に沿そっていったり、野を横切よこぎったりした。ゴットフリートはゆっくり煙草たばこをすい、クリストフは夕闇ゆうやみが怖こわくて、小父おじに手をひかれていた。彼等かれらはよく草の上に坐すわった。ゴットフリートはしばらく黙だまってたあとで、星ほしや雲くもの話はなしをしてくれた。土つちや空気くうきや水のいぶき、または闇やみの中にうごめいてる、飛とんだりはったり泳およいだりしている小ちいさな生物いきものの、歌や叫さけびや音、または晴天せいてんや雨の前兆ぜんちょう、または夜よるの交響曲シンフォニーの数かぞえきれないほどの楽器がっきなど、それらのものを一々聞きわけることを教えてくれた。時とすると、歌うたもうたってくれた。悲かなしい節ふしの時も楽しい節の時もあったが、しかしいつも同おなじような種類しゅるいのものだった。そしてクリストフはいつも同じ切せつなさを感かんじた。ゴットフリートは一晩ばんに一つきり歌わなかった。頼たのんでも気持きもちよく歌ってはくれないことを、クリストフは知っていた。歌いたい時に自然しぜんに出でてくるのでなくてはだめだった。長い間待まっていなければならないことが多かった。⦅もう今夜こんやは歌わないんだな……⦆とクリストフが思ってる頃ころ、やっと小父は歌い出だすのだった。

ある晩ばん、ゴットフリートがどうしても歌ってくれそうもなかった時とき、クリストフは自分じぶんが作つくった小曲しょうきょくを一つ彼かれに聞かしてやろうと思いついた。それは作つくるのに大へん骨ほねが折れたし、得意とくいなものであった。自分がどんなに芸術家げいじゅつかであるか見せてやりたかった。ゴットフリートは静しずかに耳みみを傾かたむけた。それからいった。

「実じつにまずいね、気きの毒どくだが。」

クリストフは面目めんぼくを失うしなって、答える言葉ことばもなかった。ゴットフリートは憐あわれむようにいった。

「どうしてそんなものを作つくったんだい。どうにもまずい。誰だれもそんなものを作れとはいわなかったろうにね。」

クリストフは怒おこって赤くなり、いいさからった。

「お祖父じいさんは僕の音楽おんがくをたいへんいいといってるよ。」と彼は叫さけんだ。

「そう!」とゴットフリートは平気へいきでいった。「お祖父じいさんのいうことが本当ほんとうなんだろう。あの人はたいへん学者がくしゃだ。音楽のことは何なんでも知っている。ところがおれは、音楽のことはあまり知らないんだ。」

そして少し間まをおいていった。

「だが、おれは、たいへんまずいと思うよ。」

彼かれはおだやかにクリストフを眺ながめ、その不機嫌ふきげんな顔を見て、微笑ほほえんでいった。

「何なにかほかに作つくったのがあるかい? 今のより外ほかのものの方が、おれの気きにいるかも知れない。」

クリストフはほかの歌うたが小父おじの感じをかえてくれるかも知れないと思って、あるだけ歌った。ゴットフリートは何なんともいわなかった。彼はおしまいになるのを待まっていた。それから頭を振ふって、ふかい自信じしんのある調子ちょうしでいった。

「なおまずい。」

クリストフは唇くちびるをかみしめた。顎あごがふるえていた。彼かれは泣なきたかった。ゴットフリートは自分でもまごついてるようにいいはった。

「実じつにまずい。」

クリストフは涙声なみだごえで叫さけんだ。

「では、どうしてまずいというんだい?」

ゴットフリートはあからさまの眼めつきで彼を眺ながめた。

「どうしてって……おれにはわからない……お待まちよ……じっさいまずい……第一、ばかげているから……そうだ、その通とおりだ……ばかげている、何なんの意味いみもない……そこだ。それを書いた時、お前は何なにも書かきたいことがなかったんだ。なぜそんなものを書いたんだい?」

「知しらないよ。」とクリストフは悲かなしい声でいった。「ただ美うつくしい曲きょくを作りたかったんだよ。」

「それだ。お前は書かくために書いたんだ。偉えらい音楽家おんがくかになりたくて、人にほめられたくて、書いたんだ。お前は高慢こうまんだった、お前は嘘うそつきだった、それで罰ばつをうけた……そこだ。音楽では、高慢こうまんになって嘘うそをつけば、きっと罰ばちがあたる。音楽は謙遜けんそんで誠実せいじつでなくてはならない。そうでなかったら、音楽おんがくというのは何なんだ? 神様に対する不信ふしんだ、神様をけがすことだ、正直しょうじきな真実しんじつなことを語かたるために、われわれに美しい歌を下さった神様をね。」

彼はクリストフが悲かなしがってるのに気がついて、抱だいてやろうとした。しかしクリストフは怒おこって横を向いた。そして彼は幾日いくにちも不機嫌ふきげんだった。小父おじを憎にくんでいた。――けれども、「あいつはばかだ、なんにも知るもんか! ずっと賢かしこいお祖父じいさんが、僕の音楽をすてきだといってくれてるんだ。」といくら自分でくり返かえしてみてもだめだった。心の底そこでは、小父の方ほうが正ただしいとわかっていた。ゴットフリートの言葉が胸むねの奥おくに刻きざみこまれていた。彼は嘘うそをついたのがはずかしかった。

それで、彼はしつっこく怨うらんではいたものの、作曲さっきょくをする時には、今ではいつもゴットフリートのことを考かんがえていた。そしてしばしば、ゴットフリートがどう思おもうだろうかと考えると、はずかしくなって、書かいたものを破やぶいてしまうこともあった。そういう気持きもちをおしきって、全く誠実せいじつでないとわかっている曲きょくを書くような時には、気きをつけてかくしておいた。どう思われるだろうかとびくびくしていた。そしてゴットフリートが、「そんなにまずくはない……気きにいった……」とただそれだけでもいってくれると、嬉うれしくてたまらなかった。

また、時には意趣いしゅがえしに、偉えらい音楽家の曲きょくを自分のだと嘘うそをいって、たちのわるい悪戯いたずらをすることもあった。そして小父おじがたまたまそれをけなしたりすると、彼はこおどりして喜よろこんだ。しかし小父おじはまごつかなかった。クリストフが手てをたたいて、喜よろこんでまわりをはねまわるのを見みながら、人がよさそうに笑っていた。そしていつもの意見いけんをもち出だした。「うまくは書いてあるかも知れないが、何なんの意味いみもない。」――彼はいつも、クリストフの家で催もよおされる小演奏会しょうえんそうかいに出席しゅっせきしたがらなかった。その時の音楽おんがくがどんなに立派りっぱなものであっても、彼は欠伸あくびをしだし、退屈たいくつでぼんやりしてる様子ようすだった。やがて辛抱しんぼう出来なくなり、こっそり逃にげ出だしてしまうのだった。彼はいつもいっていた。

「ねえ、坊ぼうや、お前が家いえの中で書くものは、どれもこれも音楽おんがくじゃないよ。家の中の音楽は、部屋へやの中の太陽たいようと同じだ。音楽は家いえの外そとにあるものなんだ、外で神様のさわやかな空気くうきを吸すう時ときなんかに……。」

あとがき

クリストフはその後ご、偉えらい音楽家おんがくかになりました。彼かれの音楽おんがくはいつも、彼かれの思想しそうや感情かんじょうをありのままに表現ひょうげんしたもので、彼かれの心こころとじかにつながってるものでありました。そして彼かれがえらい音楽家おんがくかになったのは、ゆたかな天分てんぶんと苦くるしい努力どりょくとによるのですが、また幼おさない時ときにゴットフリートから受うけた教訓きょうくんは、ふかく心こころにきざみこまれていて、たいへん彼かれのためになりました。

底本 / Source edition

底本:「日本少国民文庫 世界名作選(一)」新潮社
1998(平成10)年12月20日発行
底本の親本:「世界名作選(一)」日本少國民文庫、新潮社
1936(昭和11)年2月8日
入力:川山隆
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年1月15日作成
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/046822_001093/

ロラン ロマン「ジャン・クリストフ」(新字新仮名)、底本『世界名作選(一)』日本少国民文庫、新潮社、1998年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 046822_001093, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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