Soranoha

烏恵寿毛

うえすけ

佐藤 垢石

いよいよ、私は食いつめた。

昔、故郷の前橋中学へ通うころ、学校の近くに食詰横町というのがあった。五十戸ばかり、零落の身の僅かに雨露をしのぐに足るだけの、哀れなる長屋である。

住人は、窮してくると、天井から雨戸障子まで焚いてしまう類であったから、一間しかない座敷のなかの、貧しい一家団欒の様さまがむきだしだ。そこで、現在の戦災後の壕舎生活と、この食詰横町の生活と、いずれが凌ぎよかろうかと、むかし学生時代に眺めた風景を想い出して比べてみると、地表に住んで直接日光の恵みに浴するとはいえ、横穴の貉むじな生活の方が、戸締まりがあって寒風が吹き込んでこないだけ結構であろう。

ところで、われわれ学生は、食詰横町を通るたびに、

おいおいお前、試験のときカンニングはやめよ。

と、連れの学友にからかうのである。

嘘つけ、僕なんぞカンニングはやらないよ。やったのは君だろう。

白々しらじらしいや。この間も、僕の見ているところでやってたじゃないか。

あの時、ただの一度さ、はじめのおわりだ。

それならいいが、カンニングが癖になって世の中へ出てからも、カンニングをやるとひどいことになるぞ。

どんなことになる。

この食詰横町に住んでいる人物は、すべてカンニング崩れなんだ。社会生活にカンニングを用いれば、誰でもこの横町へ這い込まにゃならんよ。

こんな冗談を言い合って、笑ったものだ。

さて、私の場合であるが、私は世の中へ出てから、別段カンニングをやった覚えはなし、人の物をちょろまかした記憶もない。

だのに、食い詰めて、せっぱ詰まった。

会社をやめる時、退職金を一万二千六百円貰った。大正の末年の、デフレの大不景気時代であったから、当時の一万二千六百円と言えば素晴らしい。そのころ、とろとろと唇の縁がねばるような白鷹四斗樽が一本、金八十円前後で、酒屋の番頭が首がもげはせぬかと心配になるほどぺこぺこ頭を下げて、勝手元まで運び込んだものである。

この頃のように闇値横行のとき、一升三百円の酒を買えば、一万二千円所持していたところで、四斗樽一本でおしまいだ。しかるに、一升二円の酒を、一万二千六百円買えば、何升手に入りますか、と試問されても、頭がこんがらかり舌が吊ってしまって即座には返答ができないであろう。その退職金を懐中にし、途中で軽く一盃召し上がって、ひとまずいそいそとわが家へ帰った。

二

二階へ上がり、かたく家族の者を遠ざけ、一体百二十六枚の百円紙幣は、畳一枚にならべ得られるかどうかについて試してみたのである。ならべ終わって、私はにやにやとした。まさに豪華版であったのである。

その豪華版も、僅かに半年の間に呑み干してしまった。遺憾なく、まことに綺麗に呑んだ。

ついで、祖先伝来の田地田畑を売り、故郷の家屋敷まで抵当に入れてしまった。爾来、七とこ八とこと借り歩き、身寄り友人、撫で斬りである。

同業内田百間は、借金の達人であるときいているが、彼とわが輩と対局しても、万が一彼に勝味があろうとは思わぬ。わが輩の腕前の方が筋がよろしいという自信を、固く持つ。

だが、如何に確かなる腕前を持っていようとも、最後の取って置きの、きり札である恩人まで借りてしまっては、あとはもうどうにもならぬ。

そこで、私は女房を攻めた。

はじめのほどはてんで私を相手にしなかったけれど、私が窮極に陥ったのを読んだらしい。流石さすがに女房だけあって、箪笥たんすの抽斗ひきだしの奥の隅の底から、雑巾にも等しい襤褸ぼろ包を持ちだした。それを、筍の皮でも剥ぐようにめくって行って、最後に出したのが、金三百円である。

そのとき、私は翻然真人間に返った。

しかしながら、この三百円をもって一家を支え行かねばならない。右を向いても左を向いても借金で不義理だらけ。友人には悉く信用を失い、誰一人就職の世話など、奔走してくれぬ。このままで、この三百円に物を言わせないとあれば、家族は路頭に迷い、前橋の食詰横町行きだ。学友との笑い話がほん物になって、遂にカンニング崩れとなるであろう。

思案、才覚、勘考、ありたけの知恵を絞った揚句あげく、最後に三百円の資本をもって、めし屋を開業することに方針を決定した。なにしろ、資本が極めて薄いのであるから、東京の中央で店を開くなどは思いもよらない。まず場末を選ぶことになったのである。

中仙道の板橋方面、甲州街道の柏木方面、奥州浜街道の千住あたりを極力捜したのであるがいかに場末と雖も、資本金三百円をもって開店し得るような、街道に沿うところに、そんなささやかな貸家はない。しかし懸命になって捜し歩いた。とうとう、大井町の鮫洲の近くで一軒家を見つけた。京浜国道に沿ったところに、小料理屋が居抜きのままで譲るという。

茶碗、小鉢、椅子、卓子までつけて、金百円でよろしいというのだ。天の恵みである。家賃が三十円の敷金が三つの九十円。まだ百円あまり残っている。一日、大工を雇ってきて、店をめし屋風に改造した。

三

米が二斗で、四円六十銭、それに野菜、香のもの、魚類に牛肉、味噌醤油まで仕入れて二十円とはかからない。牛肉は、こま切れであるが、これで牛めしもやる方針である。

そこで、問題であるのは酒類である。女房は酒類を店に置くと、あなたが召し上がってしまうから、いけないという。私はめし屋に酒類がなければ、しょうばいにならぬと主張する。そこへ、近所の酒問屋から番頭が注文取りにきた。菰こも冠りの、にせ正宗四斗樽一本を、金四十円で入れましょうというのだ。

正宗と名がついていれば、にせでもなんでもよろしい。店の土間の正面に、菰冠りがどっしりと鎮座したのである。まことに重厚。華麗な風景だ。懐中に残り少しとは言え、しょうばいするのに、貧乏徳利で小買いをなし、ひそかに徳利に移して、あきないをしたのでは威勢が悪い。客の見物している前で、きゆぅっと呑口をひねらねば調子が出ぬ。これでまず、お店繁盛疑いなし。

翌日、開業。午前六時には、ちゃんと女房がめしを炊いて、いつ客がご入来してもよろしいよう準備し、夜は十時までしょうばいした。第一日は、来客合計六人、売りあげ一円九十銭、二日目は、来客三十人で売りあげが一躍十九円六十銭也。夜、寝る前に売りあげの勘定をして女房と顔見合わせて喜んだ。

ところが、三日目から次第に客が減じて行き、来客平均十人程度で、売りあげが五円に達した日は罕まれだ。一日毎に、心細くなった。しかし、米櫃の米は遠慮なく減って行く。その筈である。私ら夫妻に老父、子供が五人、子守りの老婢と給仕の婢で都合九人、来客の数よりも家族の数が多いのであるから、僅かな売りあげではあせらざるを得ぬ。

そこで、心配になるのは菰冠りの問題だ。来客多数あり、盛んに銚子が売れれば文句はないけれど、このままであっては、日毎に陽気が暖かになって行く候であったから、にせ正宗では火が入ってしまうであろう。腐らせるよりも、わが輩が呑んだ方に意味がある。こういう結論に達した。それから呑んだ呑んだ。朝から夜半まで。客に売ったのは僅かに一斗あまり、三斗ばかりは二十日足らずのうちに、呑んでしまった。

それ、ご覧なさい。

女房は、四斗樽の運命に対して、己の予言の適中を誇るのであるが、ほんとうはこれからのしょうばいが駄目になったならば、自分達家族はどうして暮らして行くのかという切実な抗議が含みにある。

なにはともあれ、やはり店に酒類を置かねばしょうばいにならない。四斗樽は既に呑み干して空になったのであるから、その補充について問屋へ相談に行った。

そうですか、腹へ入れて置けば一番安心ですがね――。

これからの日本酒は陽気を食いますから、こうしなすっちゃいかがです。電気ブランがよいと思いますが。

電気ブラン?

ご存じでしょうがね、これは重宝なんですよ。一升八十銭が卸値ですがね。それをそのまま小さなコップに注いで売れば電気ブラン、これは強いですよ。少し水で増量してコップに注いで売れば、それがウエスケ。電気の方は一升で小さなコップに五十杯は取れましょう。一杯十五銭に売って、七円五十銭の売りあげ、水を混ぜてウエスケとすれば八十五杯は取れる。一杯十銭と見て、売りあげが八円五十銭。日本酒よりもこの方が商いがやりやすうございますよ。

酒問屋の番頭は、商売の秘法を教えてくれた。まことにありがたい。

直ちに、電気ブランを一升仕入れた。しかし変わらず店に客は少ないのであるから、私は毎日電気ブランばかり呑んでいた。十五日間ばかり続けて呑んだら、顔が丸くぶよぶよにむくんで、青灰色に化けた。(昭和二十一年三月中旬記)

底本 / Source edition

底本:「『たぬき汁』以後」つり人ノベルズ、つり人社
1993(平成5)年8月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2006年12月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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佐藤 垢石「烏恵寿毛」(新字新仮名)、底本『『たぬき汁』以後』つり人ノベルズ、つり人社、1993年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 046738_001248, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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