Soranoha

道成寺不見記

どうじょうじふけんき

夢野 久作

恩師の一世一代という意味ばかりではない。喜多六平太の道成寺なるものを一度も見なかったせいばかりではない。喜多六平太氏の葵上を見て、怨霊ものとしての凄絶さに圧倒された体験のある筆者は、恩師六平太師をただ葵上と道成寺を舞うために生まれて来た人である。従ってこの道成寺は前後百年を通じて又見られない筈のものである。むしろ空前絶後と言いたいくらいに考えていた筆者であった。実さんもその他の友達も、是非見て置けと言った。当日ドンナ事になるか後で聞いて唸っても間に合わないぞ。折角生まれ合わせた甲斐にこの道成寺を見ない奴があるか……とさえ言われた。だから土に噛り付いても見る積りでいた。

それが、どうしても見られなくなった無念さをドコにどうして訴えたらいいだろう。

二十八日の当日は香椎の山の中で、ステキに早く眼が醒めた。何故そんなに早く眼が醒めたかわからなかったが、そのうちに今日が二十八日と気が付くと、立ってもいてもいられなくなった。見るもの聞くものイライラチラチラして来るので一日中、奥歯を噛みしめてジッとしていた。筆なんぞ執る気は無論しないから、古い自分の作品を読んで午睡にかかったが、どうしてもねむれない。頭の中がシュルリアリズムの絵みたいに冴えかえって、自分の作品が単なる活字の行列に見える向うに、四谷の舞台と釣鐘が見える。急の舞いの太鼓が聞こえる。烏帽子えぼしがキリキリキリと虚空に回転して飛んで行く。鐘がグーッと下って来る。ああたまらない。ビッショリと汗を掻いて起き上る。トテも睡れない。

午後になるのを待ちかねて、野球を見に行ったが、そのうちにやっと落着いて家に帰れた。

あとから聞くと、一日中機嫌が悪くて、妻子が弱ったそうであるが、自分は極力ニコニコしている積りであった。何かしら非常に疲れていたようで、早くからグッスリと睡った。日記も当日は白紙になっている。

二、三日してから先輩江戸川乱歩氏と大下宇陀児氏から道成寺の感想を知らせて来た時には非常に嬉しかった。あんまり嬉しかったので実さんに頼んで「喜多」に掲載して貰うことにした。それに続いて坂元雪鳥さんが朝日に書かれた能評を、同じく能キチガイの従妹が切り抜いて送ってくれたので、スッカリ当日の印象がまとまってしまった。乱拍子の中で身体を曲げて鐘を見た。鐘が手に届かない位高かったのを見事に飛んだ……云々の二項で、当日の出来がゾッとするほどハッキリとわかった。六平太氏の覚悟と実さんの覚悟が、決死以上に陶酔していた心境が、今でも背中をゾクゾク匍いまわっている位よくわかった。或る意味で自分が見た以上に満足した。これは決して負け惜しみでない。と、いう理由は左の通りである。

現代の文士とか批評家とか、又は学者、その他の芸術研究家、もしくは芸術愛好者の類で、時々「能」にチョッカイを出す人があるが、筆者の思うほどに「能」に突込んでくれる人が一人もいない。皆、真偽のわからない掛物に対する鑑定家みたいに、いい加減な否定や肯定ばかりしている。自分のボロを出さないように警戒しいしい「ハハア。成る程」とか「結構ですな」とか何とか言い言い腮を撫でている態度である。又は、鳥仏師の彫刻を、幾何学的に割り出した曲線や直線に当てはめようとする美学家のように、自分の得た極めて平面的な、死理、死論によって能の定義を作ろうとする痴識万能信者ばかりである。

みんな「能」に負けない気でいるからおかしい。能に恐れ入っては――又――能がわからないでは、見識にかかわると思っているからおかしい。アワよくば能を鼻でアシラって遣ろう。能楽の内兜を見透かして、能楽師を恐れ入らして遣ろう……ぐらいの了簡で、初めからわかったような高慢な顔をして楽屋を覗きに来る馬鹿が多い。

能は学問や知識でわかるものでない。全く無学な人間が、全くの生命がけで演出する芸術である。植物や動物が、無知無学なまま生きよう生きようとする切ない努力によって、今日のように美しい形態にまで進化して来たように、能は芸術的に生きよう生きようという絶体絶命の努力のうちに、世間の一切を無視した全くの無知無学のまま今日の程度にまで進化して、まだまだ進化して行きつつ在る舞台芸術である。だから能を見る人も自分の一切を棄てて草木、禽獣と同様の無知無学の痴呆になって、生命がけで見なければわからない恐ろしい芸術である。利いた風な了簡で覗きに来る連中には百年経ったってわかりっこない。

そのうちに吾が探偵文壇の双星のこうした批評を得たことは近来の痛快事である。

こんな風に能を本当に見得る人間は探偵文壇にだけしかいないのであろうか。純素人として、全霊を裸体にして能と四ツに取り組んで、能の真実の力に打ちひしがれて満足し得る芸術愛好者、もしくは芸術研究家は、この尖端芸術とか、大衆芸術とか言って差別待遇を受けている吾々の仲間以外にいないのであろうか。

両氏とも非常に謙遜した評をしているようである。しかも、その評は現代の能楽界そのものの弱点と、能の心臓とも言うべき処にグングン突込んでいる。ことにワキ師の無気力と、チョコチョコ技芸を無用視している処なぞ、思わず襟を正すものがある。白紙の力である。無意識の権威である。

乱歩氏の分は私信を無断で公表させて貰った。それだけの罪を負う価値があると思ったからである。併せて先輩を晒し物にして批判した罪も謹しんで負う。道成寺を見なかったムシャクシャ腹で言うのではない。

底本 / Source edition

底本:「夢野久作全集7」三一書房
1970(昭和45)年1月31日第1版第1刷発行
1992(平成4)年2月29日第1版第12刷発行
初出:「喜多」
1935(昭和10)年6月
入力:川山隆
校正:土屋隆
2007年7月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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夢野 久作「道成寺不見記」(新字新仮名)、底本『夢野久作全集7』三一書房、1970年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 046699_000096, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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