Soranoha

おせん

おせん

邦枝 完二

虫むし

一

「おッとッとッと。そう乗のり出だしちゃいけない。垣根かきねがやわだ。落着おちついたり、落着おちついたり」

「ふふふ。あわててるな若旦那わかだんな、あっしよりお前まえさんでげしょう」

「叱しッ、静しずかに。――」

「こいつァまるであべこべだ。どっちが宰領さいりょうだかわかりゃァしねえ」

が、それでも互たがいの声こえは、ひそやかに触ふれ合あう草くさの草はずれよりも低ひくかった。

「まだかの」

「まだでげすよ」

「じれッてえのう、向むこう臑ずねを蚊かが食くいやす」

「御辛抱ごしんぼう、御辛抱ごしんぼう。――」

谷中やなかの感応寺かんおうじを北きたへ離はなれて二丁ちょうあまり、茅葺かやぶきの軒のきに苔こけ持もつささやかな住居すまいながら垣根かきねに絡からんだ夕顔ゆうがおも白しろく、四五坪つぼばかりの庭にわ一杯ぱいに伸のびるがままの秋草あきぐさが乱みだれて、尾花おばなに隠かくれた女郎花おみなえしの、うつつともなく夢見ゆめみる風情ふぜいは、近頃ちかごろ評判ひょうばんの浮世絵師うきよえし鈴木晴信すずきはるのぶが錦絵にしきえをそのままの美うつくしさ。次第しだいに冴さえる三日月みかづきの光ひかりに、あたりは漸ようやく朽葉色くちばいろの闇やみを誘さそって、草くさに鳴なく虫むしの音ねのみが繁しげかった。

「松まっつぁん」

「へえ」

「たしかにここに、間違まちがいはあるまいの」

「冗談じょうだんじゃござんせんぜ、若旦那わかだんな。こいつを間違まちがえたんじゃ、松まつ五郎ろうめくら犬いぬにも劣おとりやさァ」

「だってお前まえ、肝腎かんじんの弁天様べんてんさまは、かたちどころか、影かげも見みせやしないじゃないか」

「御辛抱ごしんぼう、御辛抱ごしんぼう、急せいちゃァ事ことを仕損しそんじやす」

「ここへ来きてから、もう半時近はんときちかくも経たってるんだよ。それだのにお前まえ。――」

「でげすから、あっしは浅草おくやまを出でる時ときに、そう申もうしたじゃござんせんか。松まつの位くらいの太夫たゆうでも、花魁おいらんならば売うり物もの買かい物もの。耳みみのほくろはいうに及およばず、足あしの裏うらの筋数すじかずまで、読よみたい時ときに読よめやすが、きょうのはそうはめえりやせん。半時はんときはおろか、事ことによったら一時いっときでも二時ふたときでも、垣根かきねのうしろにしゃがんだまま、お待まちンならなきゃいけませんと、念ねんをお押おし申もうした時ときに、若旦那わかだんな、あなたは何なんと仰おっしゃいました。当時とうじ、江戸えどの三人女にんおんなの随ずい一と名なを取とった、おせんの肌はだが見みられるなら、蚊かに食くわれようが、虫むしに刺さされようが、少すこしも厭いとうことじゃァない、好すきな煙草たばこも慎つつしむし、声こえも滅多めったに出だすまいから、何なんでもかんでもこれから直すぐに連つれて行いけ。その換かわりお礼れいは二分ぶまではずもうし、羽織はおりもお前まえに進呈しんていすると、これこの通とおりお羽織はおりまで下くだすったんじゃござんせんか。それだのに、まだほんの、半時はんとき経たつか経たたないうちから、そんな我儘わがままをおいいなさるんじゃ、お約束やくそくが違ちがいやす。頂戴物ちょうだいものは、みんなお返かえしいたしやすから、どうか松まつ五郎ろうに、お暇ひまをおくんなさいやして。……」

「おっとお待まち。あたしゃ何なにも、辛抱しんぼうしないたいやァしないよ。ええ、辛抱しんぼうしますとも、夜中よなかンなろうが、夜よが明あけようが、ここは滅多めったに動うごくンじゃないけれど、お前まえがもしか門違かどちがいで、おせんの家うちでもない人ひとの……」

「そ、それがいけねえというんで。……いくらあっしが酔狂すいきょうでも、若旦那わかだんなを知しらねえ家いえの垣根かきねまで、引ひっ張ぱって来くる筈はずァありませんや。松まつ五郎ろう自慢じまんの案内役あんないやく、こいつばかりゃ、たとえ江戸えどがどんなに広ひろくッても――」

「叱しッ」

「うッ」

帯おびははやりの呉絽ごろであろう。引ひッかけに、きりりと結むすんだ立姿たちすがた、滝縞たきじまの浴衣ゆかたが、いっそ背丈せたけをすっきり見みせて、颯さっと簾すだれの片陰かたかげから縁先えんさきへ浮うき出でた十八娘むすめ。ぽつんと一本ぽん咲さき初はじめた、桔梗ききょうの花はなのそれにも増まして、露つゆは紅べにより濃こまやかであった。

明和めいわ戌年いぬどし秋あき八月がつ、そよ吹ふきわたるゆうべの風かぜに、静しずかに揺ゆれる尾花おばなの波路なみじ。娘むすめの手てから、団扇うちわが庭にわにひらりと落おちた。

二

顔かおを掠かすめて、ひらりと落おちた桔梗ききょうの花はなのひとひらにさえ、音おとも気遣きづかう心こころから、身動みうごきひとつ出来できずにいた、日本橋通にほんばしとおり油町あぶらちょうの紙問屋かみどんや橘屋徳兵衛たちばなやとくべえの若旦那わかだんな徳太郎とくたろうと、浮世絵師うきよえし春信はるのぶの彫工ほりこう松まつ五郎ろうの眼めは、釘着くぎづけにされたように、夕顔ゆうがおの下したから離はなれなかった。

が、よもやおのが垣根かきねの外そとに、二人ふたりの男おとこが示しめし合あわせて、眼めをすえていようとは、夢想むそうもしなかったのであろう。娘むすめは落おちた団扇うちわを流ながし目めに、呉絽ごろの帯おびに手てをかけると、廻まわり燈籠どうろうの絵えよりも速はやく、きりりと廻まわったただずまい、器用きように帯おびから脱ぬけ出だして、さてもう一廻まわり、ゆるりと廻まわった爪先つまさきを縁えんに停とどめたその刹那せつな、俄にわかに音ねを張はる鈴虫すずむしに、浴衣ゆかたを肩かたから滑すべらせたまま、半身はんしんを縁先えんさきへ乗のりだした。

「南無なむ大願成就だいがんじょうじゅ。――」

「叱しッ」

あとには再ふたたび虫むしの声こえ。

京師けいしの、花はなを翳かざして過すごす上臈じょうろう達たちはいざ知しらず、天下てんかの大将軍だいしょうぐんが鎮座ちんざする江戸えど八百八町ちょうなら、上うえは大名だいみょうの姫君ひめぎみから、下したは歌舞うたまいの菩薩ぼさつにたとえられる、よろず吉原よしわら千の遊女ゆうじょをすぐっても、二人ふたりとないとの評判娘ひょうんばんむすめ。下谷したや谷中やなかの片かたほとり、笠森稲荷かさもりいなりの境内けいだいに、行燈あんどん懸かけた十一軒けんの水茶屋娘みずちゃやむすめが、三十余人よにん束たばになろうが、縹緻きりょうはおろか、眉まゆ一つ及およぶ者ものがないという、当時とうじ鈴木春信すずきはるのぶが一枚刷まいずりの錦絵にしきえから、子供達こどもたちの毬唄まりうたにまで持もて囃はやされて、知しるも知しらぬも、噂うわさの花はなは咲さき放題ほうだい、かぎ屋やのおせんならでは、夜よも日ひも明あけぬ煩悩ぼんのうは、血気盛けっきざかりの若衆わかしゅうばかりではないらしく、何なにひとつ心願しんがんなんぞのありそうもない、五十を越こした武家ぶけまでが、雪駄せったをちゃらちゃらちゃらつかせてお稲荷詣いなりもうでに、御手洗みたらしの手拭てぬぐいは、常つねに乾かわくひまとてないくらいであった。

橘屋たちばなやの若旦那わかだんな徳太郎とくたろうも、この例れいに漏もれず、日ひに一度どは、判はんで捺おしたように帳場格子ちょうばごうしの中なかから消きえて、目指めざすは谷中やなかの笠森様かさもりさま、赤あかい鳥居とりいのそれならで、赤あかい襟えりからすっきりのぞいたおせんが雪ゆきの肌はだを、拝おがみたさの心願しんがんに外ほかならならなかったのであるが、きょうもきょうとて浅草あさくさの、この春はる死しんだ志道軒しどうけんの小屋前こやまえで、出会頭であいがしらに、ばったり遭あったのが彫工ほりこうの松まつ五郎ろう、それと察さっした松まつ五郎ろうから、おもて飾かざりを見みるなんざ大野暮おおやぼの骨頂こっちょうでげす。おせんの桜湯さくらゆ飲のむよりも、帯紐おびひも解といた玉たまの肌はだが見みたかァござんせんかとの、思おもいがけない話はなしを聞きいて、あとはまったく有頂天うちょうてん、どこだどこだと訪たずねるまでもなく、二分ぶの礼れいと着ていた羽織はおりを渡わたして、無我夢中むがむちゅうは、やがてこの垣根かきねの外そととなった次第しだい。――百匹ぴきの蚊かが一度どに臑すねにとまっても、痛いたさもかゆさも感かんじない程ほど、徳太郎とくたろうの眼めは、野犬やけんのようにすわっていた。

「若旦那わかだんな」

「黙だまって。――」

「黙だまってじゃァござんせん。もっと低ひくくおなんなすって。――」

「判わかってるよ」

「そんならお速はやく」

「ええもういらぬお接介せっかい。――」

おおかた、縁えんから上手かみてへ一段だん降おりて戸袋とぶくろの蔭かげには既すでに盥たらいが用意よういされて、釜かまで沸わかした行水ぎょうずいの湯ゆが、かるい渦うずを巻まいているのであろうが、上半身じょうはんしんを現あらわにしたまま、じっと虫むしの音ねに聴ききいっているおせんは、容易よういに立たとうとしないばかりか、背せから腰こしへと浴衣ゆかたの滑すべり落おちるのさえ、まったく気きづかぬのであろう。三日月みかづきの淡あわい光ひかりが青あおい波紋はもんを大おおきく投なげて、白珊瑚しろさんごを想おもわせる肌はだに、吸すい着つくように冴さえてゆく滑なめらかさが、秋草あきぐさの上うえにまで映はえ盛さかったその刹那せつな、ふと立上たちあがったおせんは、颯さっと浴衣ゆかたをかなぐり棄すてると手拭てぬぐい片手かたてに、上手かみての段だんを二段だんばかり、そのまま戸袋とぶくろの蔭かげに身みを隠かくした。

「あッ」

「たッ」

辱はじも外聞がいぶんも忘わすれ果はてたか、徳太郎とくたろうと松まつ五郎ろうの口くちからは、同時どうじに奇声きせいが吐はきだされた。

三

「おせんや」

「あい」

「何なんだえ、いまのあの音おとは。――」

「さァ、何なんでござんしょう。おおかた金魚きんぎょを狙ねらう、泥棒猫どろぼうねこかも知しれませんよ」

「そんならいいが、あたしゃまたおまえが転ころびでもしたんじゃないかと思おもって、びっくりしたのさ。おまえあって、あたし、というより、勿体もったいないが、おまえあってのお稲荷様いなりさま、滅多めったに怪我けがでもしてごらん、それこそ御参詣おさんけいが、半分はんぶんに減へってしまうだろうじゃないか。――縹緻きりょうがよくって孝行こうこうで、その上うえ愛想あいそうならとりなしなら、どなたの眼めにも笠森かさもり一、お腹なかを痛いためた娘むすめを賞ほめる訳わけじゃないが、あたしゃどんなに鼻はなが高たかいか。……」

「まァお母かあさん。――」

「いいやね。恥はずかしいこたァありゃァしない。子こを賞ほめる親おやは、世間せけんには腐くさる程ほどあるけれど、どれもこれも、これ見みよがしの自慢じまんたらたら。それと違ちがってあたしのは、おまえに聞きかせるお礼れいじゃないか。さ、ひとつついでに、背中せなかを流ながしてあげようから、その手拭てぬぐいをこっちへお出だし」

「いいえ、汗あせさえ流ながせばようござんすから……」

「何なにをいうのさ。いいからこっちへお向むきというのに」

二十二で伜せがれの千吉きちを生うみ、二十六でおせんを生うんだその翌年よくねん、蔵前くらまえの質見世しちみせ伊勢新いせしんの番頭ばんとうを勤つとめていた亭主ていしゅの仲吉なかきちが、急病きゅうびょうで亡なくなった、幸こうから不幸ふこうへの逆落さかおとしに、細々ほそぼそながら人ひとの縫物ぬいものなどをさせてもらって、その日ひその日ひを過すごして早はやくも十八年ねん。十八に家出いえでをしたまま、いまだに行方ゆくえも知しれない伜せがれ千吉きちの不甲斐ふがいなさは、思おもいだす度毎たびごとにお岸きしが涙なみだの種たねではあったが、踏ふまれた草くさにも花咲はなさくたとえの文字通もじどおり、去年きょねんの梅見時分うめみじぶんから伊勢新いせしんの隠居いんきょの骨折ほねおりで、出ださせてもらった笠森稲荷かさもりいなりの水茶屋みずぢゃやが忽たちまち江戸中えどじゅうの評判ひょうばんとなっては、凶きょうが大吉だいきちに返かえった有難ありがたさを、涙なみだと共ともに喜よろこぶより外ほかになく、それにつけても持もつべきは娘むすめだと、近頃ちかごろ、お岸きしが掌てを合あわせるのは、笠森様かさもりさまではなくておせんであった。

「おせん」

「あい」

「つかぬことを訊きくようだが、おまえ毎日まいにち見世みせへ出でていて、まだこれぞと思おもう、好すいたお方かたは出来できないのかえ」

「まあ何なにかと思おもえばお母かあさんが。――あたしゃそんな人ひとなんか、ひとりもありァしませんよ」

「ほほほほ。お怒おこりかえ」

「怒おこりゃしませんけれど、あたしゃ男おとこは嫌きらいでござんす」

「なに、男おとこは嫌きらいとえ」

「あい」

「ほんにまァ。――」

この春はるまで、まだまだ子供こどもと思おもっていたおせんとは、つい食違くいちがって、一つ盥たらいで行水ぎょうずいつかう折おりもないところから、お岸きしはいまだにそのままのなりかたちを想像そうぞうしていたのであったが、ふとした物音ものおとに駆かけ着つけたきっかけに、半年振はんとしぶりで見みたおせんの体からだは、まったく打うって変かわった大人おとなびよう。七八つの時分じぶんから、鴉からすの生うんだ鶴つるだといわれたくらい、色いろの白しろいが自慢じまんは知しれていたものの、半年はんとし見みないと、こうも変かわるものかと驚おどろくばかりの色いろっぽさは、肩かたから乳ちちへと流ながれるほうずきのふくらみをそのままの線せんに、殊ことにあらわの波なみを打うたせて、背せから腰こしへの、白薩摩しろさつまの徳利とくりを寝ねかしたような弓ゆみなりには、触さわればそのまま手先てさきが滑すべり落おちるかと、怪あやしまれるばかりの滑なめらかさが、親おやの目めにさえ迫せまらずにはいなかった。

嫌きらいな客きゃくが百人にんあっても、一人ひとりは好すきがあろうかと、訊きいて見みたいは、娘むすめもつ親おやの心こころであろう。

四

「若旦那わかだんな」

「何なんとの」

「何なんとの、じゃァござんせんぜ。あの期ごに及およんで、垣根かきねへ首くびを突込つっこむなんざ、情なさけなすぎて、涙なみだが出でるじゃァござんせんか」

「おやおや、これはけしからぬ。お前まえが腰こしを押おしたからこそ、あんな態ざまになったんじゃないか、それを松まつつぁん、あたしにすりつけられたんじゃ、おたまり小法師こぼしがありゃァしないよ」

「あれだ、若旦那わかだんな。あっしゃァ後うしろにいたんじゃねえんで。若旦那わかだんなと並ならんで、のぞいてたんじゃござんせんか。腰こしを押おすにも押おさないにも、まず、手てが届とどきゃァしませんや。――それにでえいち、あの声こえがいけやせん。おせんの浴衣ゆかたが肩かたから滑すべるのを、見みていなすったまでは無事ぶじでげしたが、さっと脱ぬいで降おりると同時どうじに、きゃっと聞きこえた異様いような音声おんせい。差さし詰づめ志道軒しどうけんなら、一天てん俄にわかにかき曇くもり、あれよあれよといいもあらせず、天女てんにょの姿すがたは忽たちまちに、隠かくれていつか盥たらいの中なか。……」

「おいおい松まっつぁん。いい加減かげんにしないか。声こえを出だしたなお前まえが初はじめだ」

「おやいけねえ。いくら主しゅと家来けらいでも、あっしにばかり、罪つみをなするなひどうげしょう」

「ひどいことがあるもんか。これからゆっくりかみしめて、味あじを見みようというところで、お前まえに腰こしを押おされたばっかりに、それごらん、手てまでこんなに傷きずだらけだ」

「そんならこれでもお付つけなんって。……おっとしまった。きのうかかあが洗あらったんで、まるっきり袂たもとくそがありゃァしねえ」

「冗談じょうだんいわっし、お前まえの袂たもとくそなんぞ付つけられたら、それこそ肝腎かんじんの人ひとさし指ゆびが、本もとから腐くさって落おちるわな」

「あっしゃァまだ瘡気かさけの持合もちあわせはござせんぜ」

「なにないことがあるものか。三日みっかにあげず三枚橋まいばしへ横丁よこちょうへ売女やまねこを買かいに出でかけてるじゃないか。――鼻はながまともに付ついてるのが、いっそ不思議ふしぎなくらいなものだ」

「こいつァどうも御挨拶ごあいさつだ。人ひとの知しらない、おせんの裸はだかをのぞかせた挙句あげく、鼻はなのあるのが不思議ふしぎだといわれたんじゃ、松まつ五郎ろう立たつ瀬せがありやせん。冗談じょうだんは止よしにして、ひとつ若旦那わかだんな、縁起直えんぎなおしに、これから眼めの覚さめるとこへ、お供ともをさせておくんなさいまし」

「眼めの覚さめるとことは。――」

「おとぼけなすっちゃいけません。闇やみの夜よのない女護にょごヶ島しま、ここから根岸ねぎしを抜ぬけさえすりゃァ、眼めをつぶっても往いけやさァね」

「折角せっかくだが、そんな所ところは、あたしゃきょうから嫌きらいになったよ」

「なんでげすって」

「橘屋徳太郎たちばなやとくたろう、女房にょうぼうはかぎ屋のおせんにきめました」

「と、とんでもねえ、若旦那わかだんな。おせんはそんななまやさしい。――」

「おっと皆みなまでのたまうな。手前てまえ、孫呉そんごの術じゅつを心得こころえて居おりやす」

「損そん五も得とく七もありゃァしません。当時とうじ名代なだいの孝行娘こうこうむすめ、たとい若旦那わかだんなが、百日にちお通かよいなすっても、こればっかりは失礼しつれいながら、及およばぬ鯉こいの滝登たきのぼりで。……」

「松まつっぁん」

「へえ」

「帰かえっとくれ」

「えッ」

「あたしゃ何なんだか頭痛ずつうがして来きた。もうお前まえさんと、話はなしをするのもいやンなったよ」

「そ、そんな御無態ごむたいをおいいなすっちゃ。――」

「どうせあたしゃ無態むたいさ。――この煙草入たばこいれもお前まえに上あげるから、とっとと帰かえってもらいたいよ」

三日月みかづきに、谷中やなかの夜道よみちは暗くらかった。その暗くらがりをただ独ひとり鳴なく、蟋蟀こおろぎを踏ふみつぶす程ほど、やけな歩あゆみを続つづけて行いく、若旦那わかだんな徳太郎とくたろうの頭あたまの中なかは、おせんの姿すがたで一杯ぱいであった。

五

「ふん、何なんて馬鹿気ばかげた話はなしなんだろう。こっちからお頼たのみ申もうして来きてもらった訳わけじゃなし。若旦那わかだんなが手てを合あわせて、たっての頼たのみだというからこそ、連つれて来きてやったんじゃねえか、そいつを、自分じぶんからあわてちまってよ。垣根かきねの中なかへ突つンのめったばっかりに、ゆっくり見物けんぶつ出来できるはずのおせんの裸はだかがちらッとしきゃのぞけなかったんだ。――面白おもしろくもねえ。それもこれも、みんなおいらのせえだッてんじゃ、てんで立たつ瀬せがありゃしねえや。どこの殿様とのさまがこさえたたとえか知しらねえが、長ながい物ものにゃ巻まかれろなんて、あんまり向むこうの都合つごうが良過よすぎるぜ。橘屋たちばなやの若旦那わかだんなは、八百蔵ぞうに生いき写うつしだなんて、つまらねえお世辞せじをいわれるもんだから、当人とうにんもすっかりいい気きンなってるんだろうが、八百蔵ぞうはおろか、八百屋やの丁稚でっちにだって、あんな面つらがあるもんか。飛とんだ料簡違りょうけんちがいのこんこんちきだ」

誰だれにいうともない独言ひとりごとながら、吉原よしわらへの供ともまで見事みごとにはねられた、版下彫はんしたぼりの松まつ五郎ろうは、止度とめどなく腹はらの底そこが沸にえくり返かえっているのであろう。やがて二三丁ちょうも先さきへ行いってしまった徳太郎とくたろうの背後はいごから、浴あびせるように罵ののしっていた。

「おいおい松まっつぁん」

「えッ」

「はッはッは。何なにをぶつぶついってるんだ。三日月様みかづきさまが笑わらってるぜ」

「お前まえさんは。――」

「おれだよ。春重はるしげだよ」

うしろから忍しのぶようにして付ついて来きた男おとこは、そういいながら徐おもむろに頬冠ほおかぶりをとったが、それは春信はるのぶの弟子でしの内うちでも、変かわり者もので通とおっている春重はるしげだった。

「なァんだ、春重はるしげさんかい。今時分いまじぶん、一人ひとりでどこへ行いきなすった」

「一人ひとりでどこへは、そっちより、こっちで訊ききたいくらいのもんだ。――お前まえ、橘屋たちばなやの徳とくさんにまかれたな」

「まかれやしねえが、どうしておいらが、若旦那わかだんなと一緒しょだったのを知しってるんだ」

「ふふふ。平賀源内ひらがげんないの文句もんくじゃねえが、春重はるしげの眼めは、一里り先さきまで見透みとおしが利きくんだからの。お前まえが徳とくさんとこで会あって、どこへ行いったかぐらいのこたァ、聞きかねえでも、ちゃんと判わかってらァな」

「おやッ、行いった先さきが判わかってるッて」

「その通とおりだ、当あててやろうか」

「冗談じょうだんじゃねえ、いくらお前まえさんの眼めが利きいたにしたって、こいつが判わかってたまるもんか。断ことわっとくが、当時とうじ十六文もんの売女やまねこなんざ、買かいに行いきゃァしねえよ」

「だが、あのざまは、あんまり威張いばれもしなかろう」

「あのざまたァ何なによ」

「垣根かきねへもたれて、でんぐる返かえしを打うったざまだ」

「何なんだって」

「おせんの裸はだかを窺のぞこうッてえのは、まず立派りっぱな智恵ちえだがの。おのれを忘わすれて乗出のりだした挙句あげく、垣根かきねへ首くびを突つっ込こんだんじゃ、折角せっかくの趣向しゅこうも台だいなしだろうじゃねえか」

「そんなら重しげさん、お前まえさんはあの様子ようすを。――」

「気きの毒どくだが、根ねこそぎ見みちまったんだ」

「どこで見みなすった」

「知しれたこった。庭にわの中なかでよ」

「庭にわの中なか」

「おいらァ泥棒猫どろぼうねこのように、垣根かきねの外そとでうろうろしちゃァいねえからの。――それ見みな。鬼童丸きどうまるの故智こちにならって、牛うしの生皮なまかわじゃねえが、この犬いぬの皮かわを被かぶっての、秋草城あきくさじょうでの籠城ろうじょうだ。おかげで画嚢がのうはこの通とおり。――」

懐中ふところから取とり出だした春重はるしげの写生帳しゃせいちょうには、十数枚すうまいのおせんの裸像らぞうが様々さまざまに描かかれていた。

六

松まつ五郎ろうは、狐きつねにつままれでもしたように、しばし三日月みかづきの光ひかりに浮ういて出でたおせんの裸像らぞうを、春重はるしげの写生帳しゃせいちょうの中なかに凝視ぎょうししていたが、やがて我われに還かえって、あらためて春重はるしげの顔かおを見守みまもった。

「重しげさん、お前まえ、相変あいかわらず素すばしっこいよ」

「なんでよ」

「犬いぬの皮かわをかぶって、おせんの裸はだかを思おもう存分ぞんぶん見みた上うえに写うつし取とって来くるなんざ、素人しろうとにゃ、鯱鉾立しゃちほこだちをしても、考かんがえられる芸げいじゃねえッてのよ」

「ふふふ、そんなこたァ朝飯前あさめしまえだよ。――おいらぁ実じつァ、もうちっといいことをしてるんだぜ」

「ほう、どんなことを」

「聞ききてえか」

「聞きかしてくんねえ」

「ただじゃいけねえ、一朱しゅだしたり」

「一朱しゅは高たけえの」

「なにが高たけえものか。時ときによったら、安やすいくらいのもんだ。――だがきょうは見みたところ、一朱しゅはおろか、財布さいふの底そこにゃ十文もんもなさそうだの」

「けちなことァおいてくんねえ。憚はばかンながら、あしたあさまで持越もちこしたら、腹はらが冷ひえ切きっちまうだろうッてくれえ、今夜こんやは財布さいふが唸うなってるんだ」

「それァ豪儀ごうぎだ。ついでだ、ちょいと拝おがませな」

「ふん、重しげさん。眼めをつぶさねえように、大丈夫だいじょうぶか」

「小判こばんの船ふねでも着つきゃしめえし、御念ごねんにゃ及および申もうさずだ」

財布さいふはなかった。が、おおかた晒さらしの六尺しゃくにくるんだ銭ぜにを、内うちぶところから探さぐっているのであろう。松まつ五郎ろうは暫しばしの間あいだ、唖おしが筍たけのこを掘ほるような恰好かっこうをしていたが、やがて握にぎり拳こぶしの中なかに、五六枚まいの小粒こつぶを器用きように握にぎりしめて、ぱっと春重はるしげの鼻はなの先さきで展ひろげてみせた。

「どうだ、親方おやかた」

「ほう、こいつァ珍めずらしい。どこで拾ひろった」

「冗談じょうだんいわっし。当節とうせつ銭ぜにを落おとす奴やつなんざ、江戸中えどじゅう尋たずねたってあるもんじゃねえ。稼かせえだんだ」

「版下はんしたか」

「はんははんだが、字じが違ちがうやつよ。ゆうべお旗本の蟇がま本多ほんだの部屋へやで、半はんを続つづけて三度ど張はったら、いう目めが出でての俄にわか分限ぶんげんでの、急きゅうに今朝けさから仕事しごとをするのがいやンなって、天道様てんとうさまがべそをかくまで寝ねてえたんだが蝙蝠こうもりと一緒しょに、ぶらりぶらりと出でたとこを、浅草あさくさでばったり出遭であったのが若旦那わかだんな。それから先さきは、お前まえさんに見みられた通とおりのあの始末しまつだ。――」

「そいつァ夢ゆめに牡丹餅ぼたもちだの。十文もんと踏ふんだ手ての内うちが、三両りょうだとなりゃァ一朱しゅはあんまり安過やすすぎた。三両りょうのうちから一朱しゅじゃァ、髪かみの毛け一本ぽん、抜ぬくほどの痛いたさもあるまいて」

「こいつァ今夜こんやのもとでだからの」

「そんなら止よしなっ聞きかしちゃやらねえ」

「聞きかせねえ」

「だすか」

「仕方しかたがねえ、出だしやしょう」

すると春重はるしげは、きょろりと辺あたりを見廻みまわしてから、俄にわかに首くびだけ前まえへ突出つきだした。

「耳みみをかしな」

「こうか」

「――」

「ふふ、ほんとうかい。重しげさん。――」

「嘘うそはお釈迦しゃかの御法度ごはっとだ」

痩やせた松まつ五郎ろうの眼めが再ふたたび春重はるしげの顔かおに戻もどった時とき、春重はるしげはおもむろに、ふところから何物なにものかを取出とりだして松まつ五郎ろうの鼻はなの先さきにひけらかした。

七

足あしもとに、尾花おばなの影かげは淡あわかった。

「なんだい」

「なんだかよく見みさっし」

八の字じを深ふかくしながら、寄よせた松まつ五郎ろうの眼先めさきを、ちらとかすめたのは、鶯うぐいすの糞ふんをいれて使つかうという、近頃ちかごろはやりの紅色べにいろの糠袋ぬかぶくろだった。

「こいつァ重しげさん、糠袋ぬかぶくろじゃァねえか」

「まずの」

「一朱しゅはずんで、糠袋ぬかぶくろを見みせてもらうどじはあるめえぜ。――お前めえいまなんてッた。おせんの雪ゆきのはだから切きり取とった、天下てんかに二つと無ねえ代物しろものを拝おがませてやるからと。――」

「叱しッ、極内ごくないだ」

「だってそんな糠袋ぬかぶくろ。……」

「袋ふくろじゃねえよ。おいらの見みせるなこの中味なかみだ。文句もんくがあるンなら、拝おがんでからにしてくんな。――それこいつだ。触さわった味あじはどんなもんだの」

ぐっと伸のばした松まつ五郎ろうの手先てさきへ、春重はるしげは仰々ぎょうぎょうしく糠袋ぬかぶくろを突出つきだしたが、さて暫しばらくすると、再ふたたび取とっておのが額ひたいへ押おし当あてた。

「開あけて見みせねえ」

「拝おがみたけりゃ拝おがませる。だが一つだって分わけちゃァやらねえから、そのつもりでいてくんねえよ」

そういいながら、指先ゆびさきを器用きように動うごかした春重はるしげは、糠袋ぬかぶくろの口くちを解とくと、まるで金きんの粉こなでもあけるように、松まつ五郎ろうの掌てのひらへ、三つばかりを、勿体もったいらしく盛もり上あげた。

「こいつァ重しげさん。――」

「爪つめだ」

「ちぇッ」

「おっとあぶねえ。棄すてられて堪たまるものか。これだけ貯ためるにゃ、まる一年ねんかかってるんだ」

松まつ五郎ろうの掌てへ、おのが掌てをかぶせた春重はるしげは、あわてて相手の掌てぐるみ裏返うらがえして、ほっとしたように眼めの前まえへ引ひき着つけた。

「湯屋ゆやで拾ひろい集あつめた爪つめじゃァねえよ。蚤のみや蚊かなんざもとよりのこと、腹はらの底そこまで凍こおるような雪ゆきの晩ばんだって、おいらァじっと縁えんの下したへもぐり込こんだまま辛抱しんぼうして来きた苦心くしんの宝たからだ。――この明あかりじゃはっきり見分みわけがつくめえが、よく見みねえ。お大名だいみょうのお姫様ひめさまの爪つめだって、これ程ほどの艶つやはあるめえからの」

三日月みかづきなりに切きってある、目めにいれたいくらいの小ちいさな爪つめを、母指おやゆびと中指なかゆびの先さきで摘つまんだまま、ほのかな月光げっこうに透すかした春重はるしげの面おもてには、得意とくいの色いろが明々ありあり浮うかんで、はては傍そばに松まつ五郎ろうのいることをさえも忘わすれた如ごとく、独ひとり頻しきりにうなずいていたが、ふと向むこう臑ずねにたかった藪蚊やぶかのかゆさに、漸ようやくおのれに還かえったのであろう。突然とつぜん平手ひらてで臑すねをたたくと、くすぐったそうにふふふと笑わらった。

「重しげさん、お前まえまったく変かわり者ものだの」

「なんでよ」

「考かんがえても見みねえ。これが金きんの棒ぼうを削けずった粉こなとでもいうンなら、拾ひろいがいもあろうけれど、高たかが女おんなの爪つめだぜ。一貫目かんめ拾ひろったところで、瘭疽ひょうその薬くすりになるくれえが、関せきの山やまだろうじゃねえか。よく師匠ししょうも、春重はるしげは変かわり者ものだといってなすったが、まさかこれ程ほどたァ思おもわなかった」

「おいおい松まっつぁん、はっきりしなよ。おいらが変かわり者ものじゃァねえ。世間せけんの奴やつらが変かわってるんだ。それが証拠しょうこにゃ。願がんにかけておせんの茶屋ちゃやへ通かよう客きゃくは山程やまほどあっても、爪つめを切きるおせんのかたちを、一度どだって見みた男おとこは、おそらく一人ひとりもなかろうじゃねえか。――そこから生うまれたこの爪つめだ」

一つずつ数かぞえたら、爪つめの数かずは、百個こ近ちかくもあるであろう。春重はるしげは、もう一度ど糠袋ぬかぶくろを握にぎりしめて、薄気味悪うすきみわるくにやりと笑わらった。

朝あさ

一

ちち、ちち、ちちち。

行燈あんどんはともしたままになっていたが、外そとは既すでに明あけそめたのであろう。今いままで流ながし元もとで頻しきりに鳴ないていた虫むしの音ねが、絶たえがちに細ほそったのは、雨戸あまどから差さす陽ひの光ひかりに、おのずと怯おびえてしまったに相違そういない。

が、虫むしの音ねの細ほそったことも、外そとが白々しらじらと明あけそめて、路地ろじの溝板どぶいたを踏ふむ人ひとの足音あしおとが聞きこえはじめたことも、何なにもかも知しらずに、ただ独ひとり、破やぶれ畳だたみの上うえに据すえた寺子屋机てらこやつくえの前まえに頑張がんばったまま、手許てもとの火鉢ひばちに載のせた薬罐やかんからたぎる湯気ゆげを、千切ぎれた蟋蟀こおろぎの片脚かたあしのように、頬ほほを引ひッつらせながら、夢中むちゅうで吸すい続つづけていたのは春重はるしげであった。

七軒けん長屋ながやのまん中なかは縁起えんぎがよくないという、人ひとのいやがるそんまん中なかへ、所帯道具しょたいどうぐといえば、土竈どがまと七輪りんと、箸はしと茶碗ちゃわんに鍋なべが一つ、膳ぜんは師匠ししょうの春信はるのぶから、縁ふちの欠かけた根ねごろの猫脚ねこあしをもらったのが、せめて道具どうぐらしい顔かおをしているくらいが関せきの山やま。いわばすッてんてんの着きのみ着きのままで蛆うじが湧わくのも面白おもしろかろうと、男おとこやもめの垢あかだらけの体からだを運はこび込こんだのが、去年きょねんの暮くれも押おし詰つまって、引摺ひきずりり餅もちが向むこッ鉢巻ぱちまきで練ねり歩あるいていた、廿五日にちの夜よるの八つ時どきだった。

ざっと二年ねん。きのうもきょうもない春重はるしげのことながら、二十七のきょうの若わかさで、女おんなの数かずは千人にん近ちかくも知しり尽つくくしたのが自慢じまんなだけに、並大抵なみたいていのことでは興味きょうみが湧わかず、師匠ししょうの通とおりに描かく美人画びじんがなら、いま直すぐにも描かける器用きような腕うでが却かえって邪間じゃまになって、着物きものなんぞ着きた女おんなを描かいても、始はじまらないとの心こころからであろう。自然しぜんの風景ふうけいを写うつすほかは、画帳がちょうは悉ことごとく、裸婦らふの像ぞうに満みたされているという変かわり様ようだった。

二畳じょうに六畳じょうの二間まは、狭せまいようでも道具どうぐがないので、独ひとり住居ずまいには広ひろかった。そのぐるりの壁かべに貼はりめぐらした絵えの数かずが、一目めで数かぞえて三十余あまり、しかも男おとこと名なのつく者ものは、半分はんぶんも描かいてあるのではなく、女おんなと、いうよりも、殆ほとんど全部ぜんぶが、おせんの様々さまざまな姿態したいに尽つくされているのも凄すさまじかった。

その六畳じょうの行燈あんどんの下したに、机つくえの上うえから投なげ出だされたのであろう、腰こしの付根つけねから下しただけを、幾いくつともなく描かいた紙片しへんが、十枚まい近ちかくもちらばったのを、時ときおりじろりじろりとにらみながら、薬罐やかんの湯気ゆげを、鼻はなの穴あなが開ひらきッ放ぱなしになる程ほど吸すい込こんでいた春重はるしげは、ふと、行燈あんどんの芯しんをかき立たてて、薄気味悪うすきみわるくニヤリと笑わらった。

「ふふふ。わるくねえにおいだ。――世間せけんの奴やつらァ智恵ちえなしだから、女おんなのにおいは、肌はだからじかでなけりゃ、嗅かげねえように思おもってるが、情なさけねえもんだ。この爪つめが、薬罐やかんの中なかで煮にえくり返かえる甘あまい匂においを、一度どでいいから嗅かがしてやりてえくれえのもんだ。紅べにやおしろいのにおいなんぞたァ訳わけが違ちがって、魂たましいが極楽遊ごくらくあそびに出でかけるたァこのことだろう。おまけにただの駄爪だつめじゃねえ。笠森かさもりおせんの、磨みがきのかかった珠たまのような爪様つめさまだ。――大方おおかた松まつ五郎ろうの奴やつァ、今時分いまじぶん、やけで出でかけた吉原よしわらで、折角せっかく拾ひろったような博打ばくちの金かねを、手てもなく捲揚まきあげられてることだろうが、可哀想かわいそうにこうしておせんの脚あしを描かきながらこの匂においをかいでる気持きもちァ、鯱鉾しゃちほこ立だちをしたってわかるこッちゃァあるめえて。――ふふふ。もうひと摘つかみ、新あたらしいこいつをいれ、肚はら一杯ぱいにかぐとしようか」

春重はるしげは傍かたわらに置おいた紅べにの糠袋ぬかぶくろを、如何いかにも大切たいせつそうに取上とりあげると、おもむろに口紐くちひもを解といて、十ばかりの爪つめを掌てのひらにあけたが、そのまま湯ゆのたぎる薬罐やかんの中なかへ、一つ一つ丁寧ていねいにつまみ込こんだ。

「ふふふ、こいつァいい匂においだなァ。堪たまらねえ匂においだ。――笠森かさもりの茶屋ちゃやで、おせんを見みてよだれを垂たらしての野呂間達のろまたちに、猪口ちょこ半分はんぶんでいいから、この湯ゆを飲のましてやりてえ気きがする。――」

どこぞの秋刀魚さんまを狙ねらった泥棒猫どろぼうねこが、あやまって庇ひさしから路地ろじへ落おちたのであろう。突然とつぜん雨戸あまどを倒たおしたような大おおきな音おとが窓下まどしたに聞きこえたが、それでも薬罐やかんの中なかに埋うめられた春重はるしげの長ながい顔かおはただその眉まゆが阿波人形あわにんぎょうのように、大おおきく動うごいただけで、決けっして横よこには向むけられなかった。

二

「おたき」

「え」

「隣となりじゃまた、いつもの病やまいが始はじまったらしいぜ。何なにしろあの匂においじゃ、臭くさくッてたまらねえな」

「ほんとうに、何なんて因果いんがな人ひとなんだろうね。顔かおを見みりゃ、十人にんなみの男前おとこまえだし絵えも上手じょうずだって話はなしだけど、してることは、まるッきり並なみの人間にんげんと変かわってるんだからね」

「おめえ。ちょいと隣となりへ行いって来きねえ」

「何なにしにさ」

「夜よるのこたァ、こっちが寝ねてるうちだから、何なにをしても構かまわねえが、お天道様てんとうさまが、上あがったら、その匂においだけに止やめてもらいてえッてよ。仕事しごとに行いったって、えたいの知しれぬ匂においが、半纏はんてんにまでしみ込こんでるんで、外聞げえぶんが悪わるくッて仕様しようがありやァしねえ」

「女おんなじゃ駄目だめだよ。お前まえさん行いって、かけ合あって来きとくれよ」

「だからね。おいらァ行いくな知しってるが、今いまもそいった通とおり、帳場ちょうばへ出でかけてからがみっともなくて仕様しようがねえんだ。あんな匂においの中なかへ這入へえっちゃいかれねえッてのよ」

「あたしだっていやだよ。まるで焼場やきばのような匂においだもの。きのうだって、髪結かみゆいのおしげさんがいうじゃァないか。お上かみさんとこへ結ゆいに行いくのもいいけれど、お隣となりの壁越かべごしに伝つたわってくる匂においをかぐと、仏臭ほとけくさいような気きがしてたまらないから、なるたけこっちへ、出でかけて来きてもらいたいって。――いったいお前まえさん、あれァ何なにを焼やく匂においだと思おもってるの」

「分わかってらァな」

「何なんだえ」

「奴やつァ絵えかきッて振ふれ込こみだが、嘘うそッ八だぜ」

「おや、絵えかきじゃないのかい」

「そうとも。奴やつァ雪駄直せったなおしだ」

「雪駄直せったなおし。――」

「それに違ちげえねえやな。でえいち、外ほかにあんな匂においをさせる家業かぎょうが、ある筈はずはなかろうじゃねえか。雪駄せったの皮かわを、鍋なべで煮にるんだ。軟やわらかにして、針はりの通とおりがよくなるようによ」

「そうかしら」

「しらも黒くろもありァしねえ。それが為ために、忙いそがしい時ときにゃ、夜よッぴて鍋なべをかけッ放はなしにしとくから、こっちこそいい面つらの皮かわなんだ。――この壁かべンところ鼻はなを当あてて臭かいで見みねえ。火事場かじばで雪駄せったの焼やけ残のこりを踏ふんだ時ときと、まるッきり変かわりがねえじゃねえか」

「あたしゃもう、ここにいてさえ、いやな気持きもちがするんだから、そんなとこへ寄よるなんざ、真まッ平ぴらよ。――ねえお前まえさん。後生ごしょうだから、かけ合あって来きとくれよ」

「おめえ行いって来きねえ」

「女おんなじゃ駄目だめだというのにさ」

「男おとこが行いっちゃァ、穏おだやかでねえから、おめえ行いきねえッてんだ」

「だって、こんなこたァ、どこの家うちだって、みんな亭主ていしゅの役やくじゃないか」

「おいらァいけねえ」

「なんて気きの弱よわい人ひとなんだろう」

「臭くせえからいやなんだ」

「お前まえさんより、女おんなだもの。あたしの方ほうが、どんなにいやだか知しれやしない。――昔むかしッから、公事くじかけ合あいは、みんな男おとこのつとめなんだよ」

「ふん。昔むかしも今いまもあるもんじゃねえ。隣近所となりきんじょのこたァ、女房にょうぼうがするに極きまッてらァな。行いって、こっぴどくやっ付つけて来きねえッてことよ」

壁かべ一重え隣となりの左官夫婦さかんふうふが、朝飯あさめしの膳ぜんをはさんで、聞きこえよがしのいやがらせも、春重はるしげの耳みみへは、秋あきの蝿はえの羽はばたき程ほどにも這入はいらなかったのであろう。行燈あんどんの下したの、薬罐やかんの上うえに負おいかぶさったその顔かおは、益々ますます上気じょうきしてゆくばかりであった。

三

「重しげさん。もし、重しげさんは留守るすかい。――おやッ、天道様てんとうさまが臍へその皺しわまで御覧ごらんなさろうッて真まッ昼間ぴるま、あかりをつけッ放ぱなしにしてるなんざ、ひど過すぎるぜ。――寝ねているのかい。起おきてるんなら開あけてくんねえ」

どこかで一杯ぱい引ひっかけて来きた、酔よいの廻まわった舌したであろう。声こえは確たしかに彫師ほりしの松まつ五郎ろうであった。

「ふふふふ。とうとう寄よりゃがったな」

首くびをすくめながら、口くちの中なかでこう呟つぶやいた春重はるしげは、それでも爪つめを煮込にこんでいる薬罐やかんの傍そばから顔かおを放はなさずに、雨戸あまどの方ほうを偸ぬすみ見みた。陽ひは高々たかだかと昇のぼっているらしく、今いまさら気付きづいた雨戸あまどの隙間すきまには、なだらかな日ひの光ひかりが、吹矢ふきやで吹ふき込こんだように、こまいの現あらわれた壁かべの裾すそへ流ながれ込こんでいた。

「春重はるしげさん。重しげさん。――」

が、それでも春重はるしげは返事へんじをしずに、そのまま鎌首かまくびを上あげて、ひそかに上あがりはなの方ほうへ這はい寄よって行いった。

「おかしいな。いねえはずァねえんだが。――あかりをつけて寝ねてるなんざ、どっちにしても不用心ぶようじんだぜ。おいらだよ。松まつ五郎ろう様さまの御登城ごとじょうだよ」

「もし、親方おやかた」

突然とつぜん、隣となりの女房にょうぼうおたきの声こえが聞きこえた。

「ねえお上かみさん。ここの家うちァ留守るすでげすかい。寝ねてるんだか留守るすなんだか、ちっともわからねえ」

「いますともさ。だが親方おやかた、悪わるいこたァいわないから、滅多めったに戸とを開あけるなァお止よしなさいよ。そこを開あけた日ひにゃ、それこそ生皮なまかわの匂においで、隣近所となりきんじょは大迷惑おおめいわくだわな」

「生皮なまかわの匂においってななんだの、お上かみさん」

「おや、親方おやかたにゃこの匂においがわからないのかい。このたまらないいやな匂においが。……」

「判わからねえこたァねえが、こいつァおまえ、膠にかわを煮にてる匂においだわな」

「冗談じょうだんじゃない。そんな生なまやさしいもんじゃありゃァしない。お鍋なべを火鉢ひばちへかけて、雪駄せったの皮かわを煮にてるんだよ。今いまもうちで、絵師えしなんて振ふれ込こみは、大嘘おおうそだって話はなしを。……」

がらッと雨戸あまどが開あいて、春重はるしげの辛からい顔かおがぬッと現あらわれた。

「お早はよう」

「お早はようじゃねえや。何なんだって松まつつぁんこんな早はやくッからやって来きたんだ」

「早はやえことがあるもんか。お天道様てんとうさまは、もうとっくに朝湯あさゆを済すまして、あんなに高たかく昇のぼってるじゃねえか。――いってえ重しげさん。おめえ、寝ねてえたんだか起おきてたんだか、なぜ返事へんじをしてくれねえんだ」

「返事へんじなんざ、しちゃァいられねえよ。――いいからこっちへ這入はいンねえ」

不機嫌ふきげんな春重はるしげの顔かおは、桐油とうゆのように強張こわばっていた。

「へえってもいいかい」

「帰かえるんなら帰かえンねえ」

「いやにおどかすの」

「振ふられた朝帰あさがえりなんぞに寄よられちゃ、かなわねえ」

「ふふふ。振ふられてなんざ来きねえよ。それが証拠しょうこにゃ、いい土産みやげを持もって来きた」

「土産みやげなんざいらねえから、そこを締しめたら、もとの通とおり、ちゃんと心張棒しんばりぼうをかけといてくんねえ」

「重しげさん、おめえまだ寝ねるつもりかい」

「いいから、おいらのいった通とおりにしてくんねえよ」

松まつ五郎ろうが不承無承ふしょうぶしょうに、雨戸あまどの心張棒しんばりぼうをかうと、九尺しゃく二間けんの家うちの中なかは再ふたたび元通もとどおりの夜よるの世界せかいに変かわって行いった。

「上あがンねえ」

が、松まつ五郎ろうは、次第しだいに鼻はなを衝ついてくる異様いような匂においに、そのままそこへ佇たたずんでしまった。

四

行燈あんどんはほのかにともっていたものの、日向ひなたから這入はいって来きたばかりの松まつ五郎ろうの眼めには、家うちの中なかは真まッ暗闇くらやみであった。

「松まつつぁん、何なんで上あがらねえんだ」

「暗くらくって、足あしもとが見みえやしねえ」

「不自由ふじゆうな眼まなこだの。そんなこっちゃ、面白おもしろい思おもいは出来できねえぜ」

「重しげさん、おめえ、ずっと起おきて何なにをしてなすった」

「ふふふ。こっちへ上あがりゃァ、直すぐに判わかるこッた。――まァこの行燈あんどんの傍そばへ来きて見みねえ」

漸ようやく眼めに慣なれて来きたのであろう。行燈あんどんの輪わが次第しだいに色いろを濃こくするにつれて、狭せまいあたりの有様ありさまは、おのずから松まつ五郎ろうの前まえにはっきり浮うき出だした。

「絵えをかいてたんじゃねえのかい」

「絵えなんざかいちゃァいねえよ。――おめえにゃ、この匂においがわからねえかの」

「膠にかわだな」

「ふふ、膠にかわは情なさけねえぜ」

「じゃァやっぱり、牛うしの皮かわでも煮にてるのか」

「馬鹿ばかをいわッし。おいらが何なんで、牛うしの皮かわに用ようがあるんだ。もっともこの薬罐やかんの傍そばへ鼻はなを押おッつけて、よく嗅かいで見ねえ」

「おいらァ、こんな匂においは真まァ平ぴらだ」

「何なんだって。この匂においがかげねえッて。ふふふ。世よの中なかにこれ程ほどのいい匂においは、またとあるもんじゃねえや、伽羅沈香きゃらちんこうだろうが、蘭麝らんじゃだろうが及およびもつかねえ、勿体もったいねえくれえの名香めいこうだぜ。――そんな遠とおくにいたんじゃ、本当ほんとうの香かおりは判わからねえから、もっと薬罐やかんの傍そばに寄よって、鼻はなの穴あなをおッぴろげて嗅かいで見みねえ」

「いってえ、何なにを煮にてるのよ」

「江戸えどはおろか、日本中にほんじゅうに二つとねえ代物しろものを煮にてるんだ」

「おどかしちゃいけねえ。そんな物ものがある訳わけはなかろうぜ」

「なにねえことがあるものか。――それ見みねえ。おめえ、この袋ふくろにゃ覚おぼえがあろう」

鼻はなの先さきへ付つき付つけた紅べにの糠袋ぬかぶくろは、春重はるしげの手ての中なかで、珠たまのように小ちいさく躍おどった。

「あッ。そいつを。……」

「どうだ。おせんの爪つめだ。この匂においを嫌きらうようじゃ、男おとこに生うまれた甲斐かいがねえぜ」

「重しげさん。おめえは、よっぽどの変かわり者ものだのう」

松まつ五郎ろうは、あらためて春重はるしげの顔かおを見守みまもった。

「変かわり者ものじゃァねえ。そういうおめえの方ほうが、変かわってるんだ。――四角かく四面めんにかしこまっているお武家ぶけでも、男おとこと生うまれたからにゃ、女おんなの嫌きらいな者ものッ、ただの一人ひとりもありゃァしめえ。その万人まんにんが万人まんにん、好すきで好すきでたまらねえ女おんなの、これが本当ほんとうの匂においだろうじゃねえか。成なる程ほど、肌はだの匂においもある。髪かみの匂においもある。乳ちちの匂においもあるにァ違ちげえねえ。だが、その数かずある女おんなの匂においを、一つにまとめた有難味ありがたみの籠こもったのが、この匂においなんだ。――三浦屋うらやの高尾たかおがどれほど綺麗きれいだろうが、楊枝見世ようじみせのお藤ふじがどんなに評判ひょうばんだろうが、とどのつまりは、みめかたちよりは、女おんなの匂においに酔よって客きゃくが通かようという寸法すんぽうじゃねえか。――よく聞ききなよ。匂においだぜ。このたまらねえいい匂においだぜ」

「冗談じょうだんじゃねえ。おいらァいくら何なんだって、こんな匂においをかぎたくッて、通かようような馬鹿気ばかげたこたァ。……」

「あれだ。おめえにゃまだ、まるッきり判わからねえと見みえるの。こいつだ。この匂においが、嘘うそも隠かくしもねえ、女おんなの匂においだってんだ」

「馬鹿ばかな、おめえ。――」

「そうか。そう思おもってるんなら、いまおめえに見みせてやる物ものがある。きっとびっくりするなよ」

春重はるしげはこういいながら、いきなり真暗まっくらな戸棚とだなの中なかへ首くびを突つっ込こんだ。

五

じりじりッと燈芯とうしんの燃もえ落おちる音おとが、しばしのしじまを破やぶってえあたりを急きゅうに明あかるくした。が、それも束つかの間ま、やがて油あぶらが尽つきたのであろう。行燈あんどんは忽たちまち消きえて、あたりは真しんの闇やみに変かわってしまった。

「いたずらしちゃァいけねえ。まるっきりまっ暗くらで、何なんにも見みえやしねえ」

背伸せのびをして、三尺じゃくの戸棚とだなの奥おくを探さぐっていた春重はるしげは、闇やみの中なかから重おもい声こえでこういいながら、もう一度ど、ごとりと鼠ねずみのように音おとを立たてた。

「いたずらじゃねえよ。油あぶらが切きれちゃったんだ」

「油あぶらが切きれたッて。そんなら、行燈あんどんのわきに、油差あぶらさしと火口ほくちがおいてあるから、速はやくつけてくんねえ」

「どこだの」

「行燈あんどんの右手みぎてだ」

口くちでそういわれても、勝手かってを知しらない暗やみの中なかでは、手探てさぐりも容易よういでなく、松まつ五郎ろうは破やぶれ畳たたみの上うえを、小気味悪こきみわるく這はい廻まわった。

「速はやくしてもらいてえの」

「いまつける」

探さぐり当あてた油差あぶらさしを、雨戸あまどの隙間すきまから微かすかに差さし込こむ陽ひの光ひかりを頼たよりに、油皿あぶらざらのそばまで持もって行いった松まつ五郎ろうは、中指なかゆびの先さきで冷つめたい真鍮しんちゅうの口くちを加減かげんしながら、とッとッとと、おもく落おちた油あぶらを透すかして見みたが、さてどうやらそれがうまく運はこぶと、これも足あしの先さきで探さぐり出だした火口ほくちを取とって、やっとの思おもいで行燈あんどんに灯ひをいれた。

ぱっと、漆盆うるしぼんの上うえへ欝金うこんの絵えの具ぐを垂たらしたように、あたりが明あかるくなった。同時どうじに、春重はるしげのニヤリと笑わらった薄気味悪うすきみわるい顔かおが、こっちを向むいて立たっていた。

「松まつつぁん。おめえ本当ほんとうに、女おんなの匂においは、麝香じゃこうの匂においだと思おもってるんだの」

「そりゃァそうだ。こんな生皮なまかわのような匂においが女おんなの匂においでたまるもんか」

「そうか。じゃァよくわかるように、こいつを見みせてやる」

編あめば牛蒡締ごぼうじめくらいの太ふとさはあるであろう。春重はるしげの手てから、無造作むぞうさに投なげ出だされた真まッ黒くろな一束たばは、松まつ五郎ろうの膝ひざの下したで、蛇へびのようにひとうねりうねると、ぐさりとそのまま畳たたみの上うえへ、とぐろを巻まいて納おさまってしまった。

「あッ」

「気味きみの悪わるいもんじゃねえよ。よく手てに取とって、その匂においを嗅かいで見みねえ」

松まつ五郎ろうは行燈あんどんの下したに、じっと眼めを瞠みはった。

「これァ重しげさん、髪かみの毛けじゃねえか」

「その通とおりだ」

「こんなものを、おめえ。……」

「ふふふ、気味きみが悪わるいか。情なさけねえ料簡りょうけんだの、爪つめの匂においがいやだというから、そいつを嗅かがせてやるんだが、これだって、髢かもじなんぞたわけが違ちがって、滅多矢鱈めったやたらに集あつまる代物しろものじゃァねえんだ。数かずにしたら何万本なんまんぼん。しかも一本ぽんずつがみんな違ちがった、若わかい女おんなの髪かみの毛けだ。――その中なかへ黙だまって顔かおを埋うめて見みねえ。一人一人ひとりひとりの違ちがった女おんなの声こえが、代かわり代がわりに聞きこえて来きる。この世よながらの極楽ごくらくだ。上うえはお大名だいみょうのお姫様ひめさまから、下したは橋はしの下したの乞食こじきまで、十五から三十までの女おんなと名なのつく女おんなの髪かみは、ひと筋すじ残のこらずはいってるんだぜ。――どうだ松まつつぁん。おいらァ、この道みちへかけちゃ、江戸えどはおろか、蝦夷えぞ長崎ながさきの果はてへ行いっても、ひけは取とらねえだけの自慢じまんがあるんだ。見みねえ、髪かみの毛けはこの通とおり、一本ぽん残のこらず生いきてるんだから。……」

松まつ五郎ろうの膝ひざもとから、黒髪くろかみの束たばを取とりあげた春重はるしげは、忽たちまちそれを顔かおへ押おし当あてると、次第しだいに募つのる感激かんげきに身みをふるわせながら、異様いような声こえで笑わらい始はじめた。

「重しげさん。おれァ帰けえる」

「帰けえるンなら、せめて匂においだけでも嗅かいできねえ」

が、松まつ五郎ろうは、もはや腰こしが坐すわらなかった。

六

「ああ気味きみが悪わるかった。ついゆうべの惚気のろけを聞きかせてやろうと思おもって、寄よったばっかりに、ひでえ目めに遇あっちゃった。変かわり者ものッてこたァ知しってたが、まさか、あれ程ほどたァ思おもわなかった。――あんな奴やつにつかまっちゃァ、まったくかなわねえ」

弾はじかれた煎豆いりまめのように、雨戸あまどの外そとへ飛とび出だした松まつ五郎ろうは、酔よいも一時じに醒さめ果はてて、一寸先すんさきも見みえなかったが、それでも溝板どぶいたの上うえを駆かけだして、角かどの煙草屋たばこやの前まえまで来くると、どうやらほっと安心あんしんの胸むねを撫なでおろした。

「だが、いったいあいつは、何なんだってあんな馬鹿気ばかげたことが好すきなんだろう。爪つめを煮にたり、髪かみの毛けの中なかへ顔かおを埋うめたり、気狂きちがいじみた真似まねをしちゃァ、いい気持きもちになってるようだが、虫むしのせえだとすると、ちと念ねんがいり過すぎるしの。どうも料簡方りょうけんがたがわからねえ」

ぶつぶつひとり呟つぶやきながら、小首こくびを傾かしげて歩あるいて来きた松まつ五郎ろうは、いきなりぽんと一つ肩かたをたたかれて、はッとした。

「どうした、兄あにィ」

「おおこりゃ松住町まつずみちょう」

「松住町まつずみちょうじゃねえぜ。朝あさっぱらから、素人芝居しろうとしばいの稽古けいこでもなかろう。いい若わけえ者ものがひとり言ごとをいってるなんざ、みっともねえじゃねえか」

坊主頭ぼうずあたまへ四つにたたんだ手拭てぬぐいを載のせて、朝あさの陽差ひざしを避さけながら、高々たかだかと尻しりを絡からげたいでたちの相手あいては、同おなじ春信はるのぶの摺師すりしをしている八五郎ろうだった。

「みっともねえかも知しれねえが、あれ程ほどたァ思おもわなかったからよ」

「何なにがよ」

「春重はるしげだ」

「春重はるしげがどうしたッてんだ」

「どうもこうもねえが、あいつァおめえ、日本にほん一の変かわり者ものだぜ」

「春重はるしげの変かわり者ものだってこたァ、いつも師匠ししょうがいってるじゃねえか。今いまさら変かわり者ものぐれえに、驚おどろくおめえでもなかろうによ」

「うんにゃ、そうでねえ。ただの変かわり者ものなら、おいらもこうまじゃ驚おどろかねえが、一晩中ばんじゅう寝ねずに爪つめを煮にたり、束たばにしてある女おんなの髪かみの毛けを、一本ぽん一本ぽんしゃぶったりするのを見みちゃァいくらおいらが度胸どきょうを据すえたって。……」

「爪つめを煮にるたァ、そいつァいってえ何なんのこったい」

「薬罐やかんに入いれて、女おんなの爪つめを煮にるんだ」

「女おんなの爪つめを煮にる。――」

「そうよ。おまけにこいつァ、ただの女おんなの爪つめじゃァねえぜ。当時とうじ江戸えどで、一といって二と下くだらねえといわれてる、笠森かさもりおせんの爪つめなんだ」

「冗談じょうだんじゃねえ。おせんの爪つめが、何なんで煮にる程ほど取とれるもんか、おめえも人ひとが好過よすぎるぜ。春重はるしげに欺だまされて、気味きみが悪わるいの恐おそろしいのと、頭あたまを抱かかえて帰かえってくるなんざ、お笑わらい草ぐさだ。おおかた絵えを描かく膠にかわでも煮にていたんだろう。そいつをおめえが間違まちがって。……」

「そ、そんなんじゃねえ。真正しんしょう間違まちがいのねえおせんの爪つめを紅べにの糠袋ぬかぶくろから小出こだしに出だして、薬罐やかんの中なかで煮にてるんだ。そいつも、ただ煮にてるんならまだしもだが、薬罐やかんの上うえへ面つらを被かぶせて、立昇たちのぼる湯気ゆげを、血相けっそう変かえて嗅かいでるじゃねえか。あれがおめえ、いい心持こころもちで見みていられるか、いられねえか、まず考かんがえてくんねえ」

「そいつを嗅かいで、どうしようッてんだ」

「奴やつにいわせると、あのたまらなく臭くせえ匂においが本当ほんとうの女おんなの匂においだというんだ。嘘うそだと思おもったら、論ろんより証拠しょうこ、春重はるしげの家うちへ行いって見みねえ。戸とを締しめ切きって、今いまが嬉うれしがりの真まッ最中さいちゅうだぜ」

が、八五郎ろうは首くびを振ふった。

「そいつァいけねえ。おれァ師匠ししょうの使つかいで、おせんのとこまで行いかにゃならねえんだ」

七

隈取くまどりでもしたように眼めの皮かわをたるませた春重はるしげの、上気じょうきした頬ほほのあたりに、蝿はえが一匹ぴきぽつんととまって、初秋しょしゅうの陽ひが、路地ろじの瓦かわらから、くすぐったい顔かおをのぞかせていた。

「おっといけねえ。春重はるしげがやってくるぜ」

煙草屋たばこやの角かどに立たったまま、爪つめを煮にる噂うわさをしていた松まつ五郎ろうは、あわてて八五郎ろうに目めくばせをすると、暖簾のれんのかげに身みを引ひいた。

「隠かくれるこたぁなかろう」

「そうでねえ。おいらは今いま逃にげて来きたばかりだからの。見付みつかっちァことだ」

「そんなら、そっちへ引ひっ込こんでるがいい。もののついでに、おれがひとつ、鎌かまをかけてやるから。――」

蛙かえるのように、眼玉めだまばかりきょろつかせて暖簾のれんのかげから顔かおをだした松まつ五郎ろうは、それでもまだ怯おびえていた。

「大丈夫だいじょうぶかの」

「叱しッ。そこへ来きたぜ」

出合頭であいがしらのつもりかなんぞの、至極しごく気軽きがるな調子ちょうしで、八五郎ろうは春重はるしげの前まえへ立たちふさがった。

「重しげさん、大層たいそう早はええの」

びくっとしたように、春重はるしげが爪先つまさきで立たち止どまった。

「八つぁんか」

「八つぁんじゃねえぜ、一ぺえやったようないい顔色かおいろをして、どこへ行いきなさる」

「柳湯やなぎゆへの」

「朝湯あさゆたァしゃれてるの」

「しゃれてる訳わけじゃねえが、寝ねずに仕事しごとをしてたんで、湯ゆへでも這入はいらねえことにゃ、はっきりしねえからよ」

「ふん、夜よなべたァ恐おそれ入いった。そんなに稼かせいじゃ、銭ぜにがたまって仕方しかたがあるめえ」

「だからよ。だから垢あかと一緒しょに、柳湯やなぎゆへ捨すてに行いくところだ」

「ほう、済すまねえが、そんな無駄むだな銭ぜにがあるんなら、ちとこっちへ廻まわして貰もらいてえの。おれだの松まつ五郎ろうなんざ、貧乏神びんぼうがみに見込みこまれたせいか、いつもぴいぴい風車かざぐるまだ。そこへ行いくとおめえなんざ、おせんの爪つめを糠袋ぬかぶくろへ入いれて。……」

「なんだって八つぁん、おめえ夢ゆめを見みてるんじゃねえか。爪つめだの糠袋ぬかぶくろだの、とそんなことァ、おれにゃァてんで通つうじねえよ」

「えええ隠かくしちゃァいけねえ。何なにから何なにまで、おれァ根ねこそぎ知しってるぜ」

「知しってるッて。――」

「知しらねえでどうするもんか。重しげさん、おめえの夜よあかしの仕事しごとは、銭ぜにのたまる稼かせぎじゃなくッて、色気いろけのたまる楽たのしみじゃねえか」

「そ、そんなことが。……」

「嘘うそだといいなさるのかい。証拠しょうこはちゃんと上あがってるんだぜ。おせんの爪つめを煮にる匂においは、さぞ香こうばしくッて、いいだろうの」

「そいつを、おめえは誰だれから聞ききなすった」

「誰だれから聞きかねえでも、おいらの眼めは見透みとおしだて。――人間にんげんは、四百四病びょうの器うつわだというが、重しげさん、おめえの病やまいは、別べつあつらえかも知しれねえの」

春重はるしげは、きょろりとあたりを見廻みまわしてから、一段だん声こえを落おとした。

「ちょいと家うちへ寄よらねえか。おもしろい物ものを見みせるぜ」

「折角せっかくだが、寄よってる暇ひまがねえやつさ。これから大急おおいそぎぎで、おせんの見世みせまで行いかざァならねえんだ」

「おせんの見世みせへ行いくッて、何なんの用ようでよ」

「何なんの用ようだか知しらねえが、春信師匠はるのぶししょうが、急きゅうに用ようありとのことでの」

八五郎ろうは、春信はるのぶから預あずかった結文むすびふみを、ちょいと懐中ふところから窺のぞかせた。

紅べに

一

ゆく末すえは誰だれが肌はだ触ふれん紅べにの花はな  ばせを

「おッとッと、そう一人ひとりで急いそいじゃいけねえ。まず御手洗みたらしで手てを浄きよめての。肝腎かんじんのお稲荷いなりさんへ参詣さんけいしねえことにゃ、罰ばちが当あたって眼めがつぶれやしょう」

「いかさまこれは早はやまった。こかァ笠森様かさもりさまの境内けいだいだったッけの」

「冗談じょうだんじゃごわせん。そいつを忘わすれちゃ、申訳もうしわけがありますめえ。――それそれ、何なんでまた、洗あらった手てを拭ふきなさらねえ。おせんは逃にげやしねえから、落着おちついたり、落着おちついたり」

「御隠居ごいんきょ、そうひやかしちゃいけやせん。堪忍かんにん堪忍かんにん」

「はッはッはッ、徳とくさん。お前まえの足あしッ、まるッきり、地じべたを踏ふんじァいねえの」

こおろぎの音ねも細々ほそぼそと明あけ暮くれて、風かぜに乱みだれる芒叢すすきむらに、三つ四つ五つ、子雀こすずめの飛とび交かうさまも、いとど憐あわれの秋あきながら、ここ谷中やなかの草道くさみちばかりは、枯野かれのも落葉おちばも影かげさえなく、四季しきを分わかたず咲さき競そうた、芙蓉ふようの花はなが清々すがすがしくも色いろを染そめて、西にしの空そらに澄すみ渡わたった富岳ふがくの雪ゆきに映はえていた。

名なにし負おう花はなの笠森かさもり感応寺かんのうじ。渋茶しぶちゃの味あじはどうであろうと、おせんが愛想あいそうの靨えくぼを拝おがんで、桜貝さくらがいをちりばめたような白魚しらうおの手てから、お茶ちゃ一服ぷくを差さし出だされれば、ぞっと色気いろけが身みにしみて、帰かえりの茶代ちゃだいは倍ばいになろうという。女おんなならでは夜よのあけぬ、その大江戸おおえどの隅々すみずみまで、子供こどもが唄うたう毬唄まりうたといえば、近頃ちかごろ「おせんの茶屋ちゃや」にきまっていた。

夜よるが白々しらじらと明あけそめて、上野うえのの森もりの恋こいの鴉からすが、まだ漸ようやく夢ゆめから覚さめたか覚さめない時分じぶん、早はやくも感応寺かんのうじ中門前町なかもんぜんちょうは、参詣さんけいの名なに隠かくれての、恋知こいしり男おとこの雪駄せったの音おとで賑にぎわいそめるが、十一軒けんの水茶屋みずちゃやの、いずれの見世みせに休やすむにしても、当とうの金的きんてきはかぎ屋やのおせんただ一人ひとり。ゆうべ吉原よしわらで振ふり抜ぬかれた捨鉢すてばちなのが、帰かえりの駄賃だちんに、朱羅宇しゅらうの煙管きせるを背筋せすじに忍しのばせて、可愛かわいいおせんにやろうなんぞと、飛とんだ親切しんせつなお笑わらい草ぐさも、数かずある客きゃくの中なかにも珍めずらしくなかった。

「はいお早はよう」

「ああ喉のどがかわいた」

赤あかい鳥居とりいの手前てまえにある。伊豆石いずいしの御手洗みたらしで洗あらった手てを、拭ふくのを忘わすれた橘屋たちばなやの若旦那わかだんな徳太郎とくたろうが、お稲荷様いなりさまへの参詣さんけいは二の次つぎに、連つれの隠居いんきょの台詞通せりふどおり、土つちへつかない足あしを浮うかせて、飛とび込こんで来きたおせんの見世先みせさき。どかりと腰こしをおろした縁台えんだいに、小腰こごしをかがめて近寄ちかよったのは、肝腎かんじんのおせんではなくて、雇女やといめのおきぬだった。

「いらっしゃいまし。お早はやくからようこそ御参詣おさんけいで。――」

「茶ちゃをひとつもらいましょう」

「はい、唯今ただいま」

三四人にんの先客せんきゃくへの遠慮えんりょからであろう。おきぬが茶ちゃを汲くみに行いってしまうと、徳太郎とくたろうはじくりと固唾かたずを呑のんで声こえをひそめた。

「おかしいの。居おりやせんぜ」

「そんなこたァごわすまい。看板かんばんのねえ見世みせはあるまいからの」

「だが御隠居ごいんきょ。おせんは影かげもかたちも見みえやせんよ」

「あわてずに待まったり。じきに奥おくから出でて来きようッて寸法すんぽうだろう」

「朝飯あさめしとお踏ふみなすったか」

「そうだ。それともお前まえさんのくるのを知しって、念入ねんいりの化粧けしょうッてところか」

「嬉うれしがらせは殺生せっしょうでげす。――おっと姐ねえさん。おせんちゃんはどうしやした」

「唯今ただいまちょいとお詣まいりに。――」

「どこへの」

「お稲荷様いなりさまでござんすよ」

「うむ、違ちがいない。ここァお稲荷様いなりさまの境内けいだいだっけの」

徳太郎とくたろうは漸ようやく安心あんしんしたように、ふふふと軽かるく内所ないしょで笑わらった。

二

橘屋たちばなやの若旦那わかだんな徳太郎とくたろうが、おせんの茶屋ちゃやで安心あんしんの胸むねを撫なでおろしていた時分じぶん、当とうのおせんは、神田白壁町かんだしろかべちょうの鈴木春信すずきはるのぶの住居すまいへと、ひたすら駕籠かごを急いそがせた。

「相棒あいぼう」

「おお」

「威勢いせいよくやんねえ」

「合点がってんだ」

「そんじょそこらの、大道臼だいどううすを乗のせてるんじゃねえや。江戸えど一番ばんのおせんちゃんを乗のせてるんだからの」

「そうとも」

「こうなると、銭金ぜにかねのお客きゃくじゃァねえ。こちとらの見得みえになるんだ」

「その通とおりだ」

「おれァ、一度ど、半蔵松葉はんぞうまつばの粧よそおいという花魁おいらんを、小梅こうめの寮りょうまで乗のせたことがあったっけが、入山形いりやまがたに一つ星ぼしの、全盛ぜんせいの太夫たゆうを乗のせた時ときだって、こんないい気持きもはしなかったぜ」

「もっともだ」

「垂たれを揚あげて、世間せけんの仲間なかまに見みせてやりてえくれえのものだの」

「おめえばかりじゃねえ。そいつァおいらもおんなじこッた」

「もし姐ねえさん」と、後うしろの方ほうから声こえがかかった。

「あい」

「どうでげす。駕籠かごの垂たれを揚あげさしちァおくんなさるめえか」

「堪忍かんにんしておくんなさい。あたしゃ内所ないしょの用事ようじでござんすから。……」

「折角せっかくお前まえさんを乗のせながら、垂たれをおろして担かついでたんじゃ、勿体もったいなくって仕方しかたがねえ。憚はばかンながら駕籠定かごさだの竹たけと仙蔵せんぞうは、江戸えど一番ばんのおせんちゃんを乗のせてるんだと、みんなに見みせてやりてえんで。……」

「どうかそんなことは、もういわないでおくんなさい」

「評判娘ひょうばんむすめのおせんちゃんだ。両方りょうほう揚あげて悪わるかったら、片かたッ方ぽうだけでもようがしょう」

「そうだ、姐ねえさん。こいつァ何なにも、あっしらばかりの見得みえじゃァごあんせんぜ。春信はるのぶさんの絵えで売うり込こむのも、駕籠かごから窺のぞいて見みせてやるのも、いずれは世間せけんへのおんなじ功徳くどくでげさァね。ひとつ思おもい切きって、ようがしょう」

「どうか堪忍かんにん。……」

「欲よくのねえお人ひとだなァ。垂たれを揚あげてごらんなせえ。あれ見みや、あれが水茶屋みずちゃやのおせんだ。笠森かさもりのおせんだと、誰だれいうとなく口くちから耳みみへ伝つたわって白壁町しろかべちょうまで往ゆくうちにゃァ、この駕籠かごの棟むねッ鼻ぱなにゃ、人垣ひとがきが出来できやすぜ。のう竹たけ」

「そりゃァもう仙蔵せんぞうのいう通とおり真正しんしょう間違まちげえなしの、生いきたおせんちゃんを江戸えどの町中まちなかで見みたとなりゃァ、また評判ひょうばんは格別かくべつだ。――片かたッ方ぽうでもいけなけりゃ、せめて半分はんぶんだけでも揚あげてやったら、通とおりがかりの人達ひとたちが、どんなに喜よろこぶか知しれたもんじゃねえんで。……」

「駕籠屋かごやさん」

「ほい」

「あたしゃもう降おりますよ」

「何なんでげすッて」

「無理難題むりなんだいをいうんなら、ここで降おろしておくんなさいよ」

「と、とんでもねえ。お前まえさんを、こんなところでおろした日ひにゃ、それこそこちとらァ、二度どと再ふたたび、江戸えどじゃ家業かぎょうが出来できやせんや。――そんなにいやなら、垂たれを揚あげるたいわねえから、そうじたばたと動うごかねえで、おとなしく乗のっておくんなせえ。――だが、考かんげえりゃ考かんげえるほど、このまま担かついでるな、勿体もったいねえなァ」

駕籠かごはいま、秋元但馬守あきもとたじまのかみの練塀ねりべいに沿そって、蓮はすの花はなが妍けんを競きそった不忍池畔しのばずちはんへと差掛さしかかっていた。

三

東叡山とうえいざん寛永寺かんえいじの山裾やますそに、周囲しゅうい一里りの池いけを見みることは、開府以来かいふいらい江戸えどっ子こがもつ誇ほこりの一つであったが、わけても雁かりの訪おとずれを待まつまでの、蓮はすの花はなが池面いけおもに浮うき出でた初秋しょしゅうの風情ふぜいは、江戸歌舞伎えどかぶきの荒事あらごとと共ともに、八百八町ちょうの老若男女ろうにゃくなんにょが、得意中とくいちゅうの得意とくいとするところであった。

近頃ちかごろはやり物もののひとつになった黄縞格子きじまごうしの薄物うすものに、菊菱きくびしの模様もようのある緋呉羅ひごらの帯おびを締しめて、首くびから胸むねへ、紅絹べにぎぬの守袋まもりぶくろの紐ひもをのぞかせたおせんは、洗あらい髪がみに結ゆいあげた島田髷しまだまげも清々すがすがしく、正ただしく座すわった膝ひざの上うえに、両りょうの手てを置おいたまま、駕籠かごの中なかから池いけのおもてに視線しせんを移うつした。

夜よが明あけて、まだ五つには間まがあるであろう。ひと抱かかえもあろうと想おもわれる蓮はすの葉はに、置おかれた露つゆの玉たまは、いずれも朝風あさかぜに揺ゆれて、その足あしもとに忍しのび寄よるさざ波なみを、ながし目めに見みながら咲さいた花はなの紅べにが招まねく尾花おばなのそれとは変かわった清きよい姿すがたを、水鏡みずかがみに映うつすたわわの風情ふぜい。ゆうべの夢見ゆめみが忘わすれられぬであろう。葉隠はがくれにちょいと覗のぞいた青蛙あおがえるは、今いまにも落おちかかった三角頭かくとうに、陽射ひざしを眩まばゆく避さけていた。

「駕籠屋かごやさん」

ふと、おせんが声こえをかけた。

「へえ」

「こっち側がわだけ、垂たれを揚あげておくんなさいな」

「なんでげすッて」

「花はなが見みとうござんすのさ」

「合点がってんでげす」

先棒さきぼうと後うしろとの声こえは、正まさに一緒しょであった。駕籠かごが地上ちじょうにおろされると同時どうじに、池いけに面めんした右手みぎての垂たれは、颯さっとばかりにはね揚あげられた。

「まァ綺麗きれいだこと」

「でげすからあっしらが、さっきッからいってたじゃござんせんか。こんないい景色けしきァ、毎朝まいあさ見みられる図ずじゃァねえッて。――ごらんなせえやし。お前まえさんの姿すがたが見みえたら、つぼんでいた花はなが、あの通とおり一遍ぺんに咲さきやしたぜ」

「ちげえねえ。葉ッぱにとまってた蛙かえるの野郎やろうまでが、あんな大おおきな眼めを開あきゃァがった」

「もういいから、やっておくんなさい」

「そんなら、ゆっくりめえりやしょう。――おせんちゃんが垂たれを揚あげておくんなさりゃ、どんなに肩身かたみが広ひろいか知しれやァしねえ。のう竹たけ」

「そうともそうとも。こうなったら、急いそいでくれろと頼たのまれても、足あしがいうことを聞ききませんや。あっしと仙蔵せんぞうとの、役得やくとくでげさァね」

「ほほほほ、そんならあたしゃ、垂たれをおろしてもらいますよ」

「飛とんでもねえ。駕籠かごに乗のる人ひとかつぐ人ひと、行ゆく先さきァお客きゃくのままだが、かついでるうちァ、こっちのままでげすぜ。――それ竹たけ、なるたけ往来おうらいの人達ひとたちに目立めだつように、腰こしをひねって歩あるきねえ」

「おっと、御念ごねんには及およばねえ。お上かみが許ゆるしておくんなさりゃァ、棒鼻ぼうはなへ、笠森かさもりおせん御用駕籠ごようかごとでも、札ふだを建たてて行ゆきてえくらいだ」

いうまでもなく、祝儀しゅうぎや酒手さかての多寡たかではなかった。当時とうじ江戸女えどおんなの人気にんきを一人ひとりで背負せおってるような、笠森かさもりおせんを乗のせた嬉うれしさは、駕籠屋仲間かごやなかまの誉ほまれでもあろう。竹たけも仙蔵せんぞうも、金きんの延棒のべぼうを乗のせたよりも腹はらは得意とくいで一ぱいになっていた。

「こう見みや。あすこへ行いくなァおせんだぜ」

「おせんだ」

「そうよ。人違ひとちげえのはずはねえ。靨えくぼが立派りっぱな証拠しょうこだて」

「おッと違ちげえねえ。向むこうへ廻まわって見みざァならねえ」

帳場ちょうばへ急いそぐ大工だいくであろう。最初さいしょに見みつけた誇ほこりから、二人ふたりが一緒しょに、駕籠かごの向むこうへかけ寄よった。

四

「風流絵暦所ふうりゅうえこよみどころ鈴木春信すずきはるのぶ」

水みずくきのあとも細々ほそぼそと、流ながしたように書かきつらねた木目もくめの浮ういた看板かんばんに、片枝折かたしおりの竹たけも朽くちた屋根やねから柴垣しばがきへかけて、葡萄ぶどうの蔓つるが伸のび放題ほうだいの姿すがたを、三尺じゃくばかりの流ながれに映うつした風雅ふうがなひと構かまえ、お城しろの松まつも影かげを曳ひきそうな、日本橋にほんばしから北きたへ僅わずかに十丁ちょうの江戸えどのまん中なかに、かくも鄙ひなびた住居すまいがあろうかと、道往みちゆく人ひとのささやき交かわす白壁町しろかべちょう。夏なつならば、すいと飛とびだす迷まよい蛍ほたるを、あれさ待まちなと、団扇うちわで追おい寄よるしなやかな手ても見みられるであろうが、はや秋あきの声こえ聞きく垣根かきねの外そとには、朝日あさひを受うけた小葡萄こぶどうの房ふさが、漸ようやく小豆大あずきだいのかたちをつらねた影かげを、真下ましたの流ながれに漂ただよわせているばかりであった。

池いけと名付なづける程ほどではないが、一坪余つぼあまりの自然しぜんの水溜みずたまりに、十匹ぴきばかりの緋鯉ひごいが数かぞえられるその鯉こいの背せを覆おおって、なかば花はなの散ちりかけた萩はぎのうねりが、一叢ひとむらぐっと大手おおてを広ひろげた枝えだの先さきから、今いましもぽたりと落おちたひとしずく。波紋はもんが次第しだいに大おおきく伸のびたささやかな波なみの輪わを、小枝こえだの先さきでかき寄よせながら、じっと水みずの面おもを見詰みつめていたのは、四十五の年としよりは十年ねんも若わかく見みえる、五尺しゃくに満みたない小作こづくりの春信はるのぶであった。

おおかた銜くわえた楊枝ようじを棄すてて、顔かおを洗あらったばかりなのであろう。まだ右手みぎてに提さげた手拭てぬぐいは、重おもく濡ぬれたままになっていた。

「藤吉とうきち」

春信はるのぶは、鯉こいの背せから眼めを放はなすと、急きゅうに思おもいだしたように、縁先えんさきの万年青おもとの葉はを掃除そうじしている、少年しょうねんの門弟もんてい藤吉とうきちを呼よんだ。

「へえ」

「八つぁんは、まだ帰かえって来こないようだの」

「へえ」

「おせんもまだ見みえないか」

「へえ」

「堺屋さかいやの太夫たゆうもか」

「へえ」

「おまえちょいと、枝折戸しおりどへ出でて見みて来きな」

「かしこまりました」

藤吉とうきちは、万年青おもとの葉はから掃除そうじの筆ふでを放はなすと、そのまま萩はぎの裾すそを廻まわって、小走こばしりにおもてへ出でて行いった。

「今時分いまじぶん、おせんがいないはずはないから、ひょっとすると八五郎ろうの奴やつ、途中とちゅうで誰だれかに遇あって、道草みちくさを食くってるのかも知しれぬの。堺屋さかいやでもどっちでも、早はやく来くればいいのに。――」

濡ぬれた手拭てぬぐいを、もう一度ど丁寧ていねいに絞しぼった春信はるのぶは、口くちのうちでこう呟つぶやきながら、おもむろに縁先えんさきの方ほうへ歩あゆみ寄よった。すると、その額ひたいの汗あせを拭ふきながら駆かけ込こんで来きたのは、摺師すりしの八五郎ろうであった。

「行いってめえりやした」

「御苦労ごくろう、御苦労ごくろう。おせんはいたかの」

「へえ。居おりやした。でげすが師匠ししょう、世よの中なかにゃ馬鹿ばかな野郎やろうが多おおいのに驚おどろきやしたよ。あっしが向むこうへ着ついたのは、まだ六つをちっと回まわったばかりでげすのに、もうお前まえさん、かぎ屋やの前まえにゃ、人ひとが束たばンなってるじゃござんせんか。それも、女おんな一人ひとりいるんじゃねえ。みんな、おいらこそ江戸えど一番ばんの色男いろおとこだと、いわぬばかりの顔かおをして、反そりッかえってる野郎やろうぞっきでげさァね。――おせんちゃんにゃ、千人にんの男おとこが首くびッたけンなっても、及およばぬ鯉こいの滝たきのぼりだとは、知らねえんだから浅間あさましいや」

「八つぁん。おせんの返事へんじはどうだったんだ。直すぐに来くるとか、来こないとか」

「めえりやすとも。もうおッつけ、そこいらで声こえが聞きこえますぜ」

八五郎ろうは得意とくいそうに小首こくびをかしげて、枝折戸しおりどの方ほうを指ゆびさした。

五

枝折戸しおりどの外そとに、外道げどうの面つらのような顔かおをして、ずんぐり立たって待まっていた藤吉とうきちは、駕籠かごの中なかからこぼれ出でたおせんの裾すその乱みだれに、今いましもきょろりと、団栗どんぐりまなこを見張みはったところだった。

「やッ、おせんちゃん。師匠ししょうがさっきから、首くびを長ながくしてお待まちかねだぜ」

朱しゅとお納戸なんどの、二こくの鼻緒はなおの草履ぞうりを、後うしろの仙蔵せんぞうにそろえさせて、扇おうぎで朝日あさひを避さけながら、静しずかに駕籠かごを立たち出でたおせんは、どこぞ大店おおだなの一人娘ひとりむすめでもあるかのように、如何いかにも品ひんよく落着おちついていた。

「藤吉とうきちさん。ここであたしを、待まってでござんすかえ」

「そうともさ、肝腎かんじんの万年青おもとの掃除そうじを半端はんぱでやめて、半時はんときも前まえから、お前まえさんの来くるのを待まってたんだ。――だがおせんちゃん。お前まえは相変あいかわらず、師匠ししょうの絵えのように綺麗きれいだのう」

「おや、朝あさッからおなぶりかえ」

「なぶるどころか。おいらァ惚ほれ惚ぼれ見みとれてるんだ。顔かおといい、姿すがたといい、お前まえほどの佳いい女おんなは江戸中えどじゅう探さがしてもなかろうッて、師匠ししょうはいつも口癖くちぐせのようにいってなさるぜ。うちのお鍋なべも女おんななら、おせんちゃんも女おんなだが、おんなじ女おんなに生うまれながら、お鍋なべはなんて不縹緻ぶきりょうなんだろう。お鍋なべとはよく名なをつけたと、おいらァつくづくあいつの、親父おやじの智恵ちえに感心かんしんしてるんだが、それと違ちがっておせんさんは、弁天様べんてんさまも跣足はだしの女おんなッぷり。いやもう江戸えどはおろか日本中にほんじゅう、鉦かねと太鼓たいこで探さがしたって……」

「おいおい藤とうさん」

肩かたを掴つかんで、ぐいと引ひっ張ぱった。その手てで、顔かおを逆さかさに撫なでた八五郎ろうは、もう一度ど帯おびを把とって、藤吉とうきちを枝折戸しおりどの内うちへ引ひきずり込こんだ。

「何なにをするんだ。八つぁん」

「何なにもこうありゃァしねえ。つべこべと、余計よけいなことをいってねえで、速はやくおせんちゃんを、奥おくへ案内あんないしてやらねえか。師匠ししょうがもう、茶ちゃを三杯ばいも換かえて待まちかねだぜ」

「おっと、しまった」

「おせんちゃん。少すこしも速はやく、急いそいだ、急いそいだ」

「ほほほほ。八つぁんがまた、おどけた物もののいいようは。……」

駕籠かごを帰かえしたおせんの姿すがたは、小溝こどぶへ架かけた土橋どばしを渡わたって、逃のがれるように枝折戸しおりどの中なかへ消きえて行いった。

「ふん、八五郎ろうの奴やつ、余計よけいな真似まねをしやァがる。おせんちゃんの案内役あんないやくは、いっさいがっさい、おいらときまってるんだ。――よし、あとで堺屋さかいやの太夫たゆうが来きたら、その時ときあいつに辱はじをかかせてやる」

手ての内うちの宝たからを奪うばわれでもしたように、藤吉とうきちは地駄じだン駄だ踏ふんで、あとから、土橋どばしをひと飛とびに飛とんで行いった。

鉤かぎなりに曲まがった縁先えんさきでは、師匠ししょうの春信はるのぶとおせんとが、既すでに挨拶あいさつを済すませて、池いけの鯉こいに眼めをやりながら、何事なにごとかを、声こえをひそめて話はなし合あっていた。

「八つぁん、ちょいと来きてくんな」

「何なんだ藤とうさん」

立たって来きた八五郎ろうを、睨にらめるようにして、藤吉とうきちは口くちを尖とがらせた。

「お前まえ、あとから誰だれが来くるか、知しってるかい」

「知しらねえ」

「それ見みな。知しらねえで、よくそんなお接介せっかいが出来できたもんだの」

「お接介せっかいたァ何なんのこッた」

「おせんちゃんを、先さきに立たって連つれてくなんざ、お接介せっかいだよ」

「冗談じょうだんじゃねえ。おせんちゃんは、師匠ししょうに頼たのまれて、おいらが呼よびに行いったんだぜ。――おめえはまだ、顔かおを洗あらわねえんだの」

顔かおはとうに洗あらっていたが、藤吉とうきちの眼頭めがしらには、目脂めやにが小汚こぎたなくこすり付ついていた。

六

赤あかとんぼが障子しょうじへくっきり影かげを映うつした画室がしつは、金きんの砂子すなこを散ちらしたように明あかるかった。

広々ひろびろと庭にわを取とってはあるが、僅わずかに三間まを数かぞえるばかりの、茶室ちゃしつがかった風流ふうりゆうの住居すまいは、ただ如何いかにも春信はるのぶらしい好このみにまかせて、手ていれが行ゆき届とどいているというだけのこと、諸大名しょだいみょうの御用絵師ごようえしなどにくらべたら、まことに粗末そまつなものであった。

その画室がしつの中なかほどに、煙草盆たばこぼんをはさんで、春信はるのぶとおせんとが対座たいざしていた。おせんの初うぶな心こころは、春信はるのぶの言葉ことばにためらいを見みせているのであろう。うつ向むいた眼許めもとには、ほのかな紅べにを差さして、鬢びんの毛けが二筋すじ三筋すじ、夢見ゆめみるように頬ほほに乱みだれかかっていた。

「どうだの、これは別べつに、おいらが堺屋さかいやから頼たのまれた訳わけではないが、何なんといっても中村松江なかむらしょうこうなら、当時とうじ押おしも押おされもしない、立派りっぱな太夫たゆう。その堺屋さかいやが秋あきの木挽町こびきちょうで、お前まえのことを重助じゅうすけさんに書かきおろさせて、舞台いたに上のせようというのだから、まず願ねがってもないもっけの幸さいわい。いやの応おうのということはなかろうじゃないか」

「はい、そりゃァもう、あたしに取とっては勿体もったいないくらいの御贔屓ごひいき、いや応おういったら、眼めがつぶれるかも知しれませぬが。……」

「それなら何なんでの」

「お師匠ししょうさん、堪忍かんにんしておくんなさい。あたしゃ知しらない役者衆やくしゃしゅうと、差さしで会あうのはいやでござんす」

「はッはッは、何なにかと思おもったら、いつもの馬鹿気ばかげたはにかみからか。ここへ堺屋さかいやを招よんだのは、何なにもお前まえと差さしで会あわせようの、二人ふたりで話はなしをさせようのと、そんな訳合わけあいじァありゃしない。松江しょうこうは日頃ひごろ、おいらの絵えが大好だいすきとかで、板いたおろしをしたのはもとより、版下はんしたまでを集あつめている程ほどの好すき者しゃ仲間なかま、それがゆうべ、芝居しばいの帰かえりにひょっこり寄よって、この次つぎの狂言きょうげんには、是非ぜひとも笠森かさもりおせんちゃんを、芝居しばいに仕組しくんで出だしたいとの、たっての望のぞみさ。どういう筋すじに仕組しくむのか、そいつは作者さくしゃの重助じゅうすけさんに謀はかってからの寸法すんぽうだから、まだはっきりとはいえないとのことだった、松江しょうこうが写うつしたお前まえの姿すがたを、舞台ぶたいで見みられるとなりゃ、何なんといっても面白おもしろい話はなし。おいらは二つ返事へんじで、手てを打うってしまったんだ。――そこで、善ぜんは急いそげのたとえをそのまま、あしたの朝あさ、ここへおせんに来きてもらおうから、太夫たゆうももう一度ど、ここまで出でて来きてもらいたいと、約束事やくそくごとが出来できたんだが、――のうおせん。おいらの前まえじゃ、肌はだまで見みせて、絵えを写うつさせるお前まえじゃないか、相手あいてが誰だれであろうと、ここで一時いっとき、茶のみ話ばなしをするだけだ。心持こころもよく会あってやるがいいわな」

「さァ。――」

「今更いまさら思案しあんもないであろう。こうしているうちにも、もうそこらへ、やって来きたかも知しれまいて」

「まァ、師匠ししょうさん」

「はッはッは。お前まえ、めっきり気きが小ちいさくなったの」

「そんな訳わけじゃござんせぬが、あたしゃ知しらない役者衆やくしゃしゅうとは。……」

「ほい、まだそんなことをいってるのか。なまじ知しってる顔かおよりも、はじめて会あって見みる方ほうに、はずむ話はなしがあるものだ。――それにお前まえ、相手あいては当時とうじ上上吉じょうじょうきちの女形おやま、会あってるだけでも、気きが晴はれ晴ばれとするようだぜ」

ふと、とんぼの影かげが障子しょうじから離はなれた。と同時どうじに藤吉とうきちの声こえが、遠慮勝えんりょがちに縁先えんさきから聞きこえた。

「師匠ししょう、太夫たゆうがおいでになりました」

「おおそうか。直すぐにこっちへお通とおししな」

じっと畳たたみの上うえを見詰みつめているおせんは、たじろぐように周囲しゅういを見廻みまわした。

「お師匠ししょうさん、後生ごしょうでござんす。あたしをこのまま、帰かえしておくんなさいまし」

「なんだって」

春信はるのぶは大おおきく眼めを見みひらいた。

七

たとえば青苔あおこけの上うえに、二つ三つこぼれた水引草みずひきそうの花はなにも似にて、畳たたみの上うえに裾すそを乱みだして立たちかけたおせんの、浮うき彫ぼりのような爪先つまさきは、もはや固かたく畳たたみを踏ふんではいなかった。

「ははは、おせん。みっともない、どうしたというんだ」

春信はるのぶの、いささか当惑とうわくした視線しせんは、そのまま障子しょうじの方ほうへおせんを追おって行いったが、やがて追おい詰つめられたおせんの姿すがたが、障子しょうじの際きわにうずくまるのを見みると、更さらに解げせない思おもいが胸むねの底そこに拡ひろがってあわてて障子しょうじの外そとにいる藤吉とうきちに声こえをかけた。

「藤吉とうきち、堺屋さかいやの太夫たゆうに、もうちっとの間あいだ、待まっておもらい申もうしてくれ」

「へえ」

おおかた、もはや縁先近えんさきちかくまで来きていたのであろう。藤吉とうきちが直すぐさま松江しょうこうに春信はるのぶの意いを伝つたえて、池いけの方ほうへ引ひき返かえしてゆく気配けはいが、障子しょうじに映うつった二つの影かげにそれと知しれた。

「おせん」

「あい」

「お前まえ、何なにか訳わけがあってだの」

「いいえ、何なにも訳わけはござんせぬ」

「隠かくすにゃ当あたらないから、有様ありようにいって見みな、事ことと次第しだいに因よったら、堺屋さかいやは、このままお前まえには会あわせずに、帰かえってもらうことにする」

「そんなら、あたしの願ねがいを聞きいておくんなさいますか」

「聞ききもする。かなえもする。だが、その訳わけは聞きかしてもらうぜ」

「さァその訳わけは。――」

「まだ隠かくしだてをするつもりか。あくまで聞きかせたくないというなら、聞きかずに済すませもしようけれど、そのかわりおいらはもうこの先さき、金輪際こんりんざい、お前まえの絵えは描かかないからそのつもりでいるがいい」

「まァお師匠ししょうさん」

「なァにいいやな。笠森かさもりのおせんは、江戸えど一番ばんの縹緻佳きりょうよしだ。おいらが拙まずい絵えなんぞに描かかないでも、客きゃくは御府内ごふないの隅々すみずみから、蟻ありのように寄よってくるわな。――いいたくなけりゃ、聞きかずにいようよ」

いたずらに、もてあそんでいた三味線みせんの、いとがぽつんと切きれたように、おせんは身内みうちに積つもる寂さびしさを覚おぼえて、思おもわず瞼まぶたが熱あつくなった。

「お師匠ししょうさん、堪忍かんにんしておくんなさい。あたしゃ、お母かあさんにもいうまいと、固かたく心こころにきめていたのでござんすが、もう何事なにごとも申もうしましょう。どっと笑わらっておくんなさいまし」

「おお、ではやっぱり何なにかの訳わけがあって。……」

「あい、あたしゃあの、浜村屋はまむらやの太夫たゆうさんが、死しぬほど好すきなんでござんす」

「えッ。菊之丞きくのじょうに。――」

「あい。おはずかしゅうござんすが。……」

消えも入いりたいおせんの風情ふぜいは、庭にわに咲さく秋海棠しゅうかいどうが、なまめき落おちる姿すがたをそのまま悩なやましさに、面おもてを袂たもとにおおい隠かくした。

じッと、釘くぎづけにされたように、春信はるのぶの眼めは、おせんの襟脚えりあしから動うごかなかった。が、やがて静しずかにうなずいたその顔かおには、晴はれやかな色いろが漂ただよっていた。

「おせん」

「あい」

「よくほれた」

「えッ」

「当代とうだい一の若女形わかおやま、瀬川菊之丞せがわきくのじょうなら、江戸えど一番ばんのお前まえの相手あいてにゃ、少すこしの不足ふそくもあるまいからの。――判わかった。相手あいてがやっぱり役者やくしゃとあれば、堺屋さかいやに会あうのは気きが差さそう。こりゃァ何なんとでもいって断ことわるから、安心あんしんするがいい」

八

勢きおい込こんで駕籠かごで乗のり着つけた中村松江なかむらしょうこうは、きのうと同おなじように、藤吉とうきちに案内あんないされたが、直すぐ様さま通とおしてもらえるはずの画室がしつへは、何なにやら訳わけがあって入はいることが出来できぬところから、ぽつねんと、池いけの近ちかくにたたずんだまま、人影ひとかげに寄よって来くる鯉こいの動うごきをじっと見詰みつめていた。

師しの歌右衛門うたえもんを慕したって江戸えどへ下くだってから、まだ足あしかけ三年ねんを経へたばかりの松江しょうこうが、贔屓筋ひいきすじといっても、江戸役者えどやくしゃほどの数かずがある訳わけもなく、まして当地とうちには、当代随とうだいずい一の若女形わかおやまといわれる、二代目だいめ瀬川菊之丞せがわきくのじょうが全盛ぜんせいを極きわめていることとて、その影かげは決けっして濃こいものではなかった。が、年としは若わかいし、芸げいは達者たっしゃであるところから、作者さくしゃの中村重助なかむらじゅうすけが頻しきりに肩かたを入いれて、何なにか目先めさきの変かわった狂言きょうげんを、出ださせてやりたいとの心こころであろう。近頃ちかごろ春信はるのぶの画えで一層そうの評判ひょうばんを取とった笠森かさもりおせんを仕組しくんで、一番ばん当あてさせようと、松江しょうこうが春信はるのぶと懇意こんいなのを幸さいわい、善ぜんは急いそげと、早速さっそくきのうここへ訪たずねさせての、きょうであった。

「太夫たゆう、お待遠まちどおさまでござんしょうが、どうかこちらへおいでなすって、お茶ちゃでも召上めしあがって、お待まちなすっておくんなまし」

藤吉とうきちにも、何なんで師匠ししょうが堺屋さかいやを待またせるのか、一向こう合点がってんがいかなかったが、張はり詰つめていた気持きもちが急きゅうに緩ゆるんだように、しょんぼりと池いけを見詰みつめて立たっている後姿うしろすがたを見みると、こういって声こえをかけずにはいられなかった。

「へえ、おおきに。――」

「太夫たゆうは、おせんちゃんには、まだお会あいなすったことがないんでござんすか」

「へえ、笠森様かさもりさまのお見世みせでは、お茶ちゃを戴いただいたことがおますが、先様さきさまは、何なにを知しってではござりますまい。――したが若衆わかしゅうさん。おせんさんは、もはやお見みえではおますまいかな」

「つい今いまし方がた。――」

「では何なにか、絵えでも習なろうていやはるのでは。――」

「さァ、大方おおかたそんなことでげしょうが、どっちにしても長ながいことじゃござんすまい。そこは日ひが当あたりやす。こっちへおいでなすッて。……」

ふと踵くびすを返かえして、二足あし三足あし、歩あるきかかった時ときだった。隅すみの障子しょうじを静しずかに開あけて、庭にわに降おり立たった春信はるのぶは、蒼白そうはくの顔かおを、振袖姿ふりそですがたの松江しょうこうの方ほうへ向むけた。

「太夫たゆう」

「おお、これはお師匠ししょうさんは。早はようからお邪間じゃまして、えろ済すみません」

「済すまないのは、お前まえさんよりこっちのこと、折角せっかく眠ねむいところを、早起はやおきをさせて、わざわざ来きてもらいながら、肝腎かんじんのおせんが。――」

「おせんさんが、なんぞしやはりましたか」

「急病きゅうびょうでの」

「えッ」

「血ちの道みちでもあろうが、ここへ来くるなり頭痛ずつうがするといって、ふさぎ込こんでしまったまま、いまだに顔かおも挙あげない始末しまつ、この分ぶんじゃ、半時はんとき待まってもらっても、今朝けさは、話はなしは出来できまいと思おもっての、お気きの毒どくだが、またあらためて、会あってやっておもらい申もうすより、仕方しかたがないじゃなかろうかと、実じつは心配しんぱいしている訳わけだが。……」

「それはまア」

「のう太夫たゆう。お前まえさん、詫わびはあたしから幾重いくえにもしようから、きょうはこのまま、帰かえっておくんなさるまいか」

「それァもう、帰かえることは、いつでも帰かえりますけれど、おせんさんが急病きゅうびょうとは、気きがかりでおますさかい。……」

「いや、気きに病やむほどのことでもなかろうが、何なんせ若わかい女おんなの急病きゅうびょうでの。ちっとばかり、朝あさから世間せけんが暗くらくなったような気きがするのさ」

「へえ」

春信はるのぶの眼めは、松江しょうこうを反それて、地ちに曳ひく萩はぎの葉はに移うつっていた。

雨あめ

一

「おい坊主ぼうず、火鉢ひばちの火ひが消きえちゃってるぜ。ぼんやりしてえちゃ困こまるじゃねえか」

浜町はまちょうの細川邸ほそかわていの裏門前うらもんまえを、右みぎへ折おれて一町ちょうあまり、角かどに紺屋こうやの干ほし場ばを見みて、伊勢喜いせきと書かいた質屋しちやの横よこについて曲まががった三軒目げんめ、おもてに一本柳ぽんやなぎが長ながい枝えだを垂たれたのが目印めじるしの、人形師にんぎょうし亀岡由斎かめおかゆうさいのささやかな住居すまい。

まだ四十を越こしていくつにもならないというのが、一見けん五十四五に見みえる。髷まげも白髪しらがもおかまいなし、床屋とこやの鴨居かもいは、もう二月つきも潜くぐったことがない程ほどの、垢あかにまみれたうす汚ぎたなさ。名人めいじんとか上手じょうずとか評判ひょうばんされているだけに、坊主ぼうずと呼よぶ十七八の弟子でしの外ほかは、猫ねこの子こ一匹ぴきもいない、たった二人ふたりの暮くらしであった。

「おめえ、いってえ弟子でしに来きてから、何年なんねん経たつと思おもっているんだ」

「へえ」

「へえじゃねえぜ。人形師にんぎょうしに取とって、胡粉ごふんの仕事しごとがどんなもんだぐれえ、もうてえげえ判わかっても、罰ばちは当あたるめえ。この雨あめだ。愚図々々ぐずぐずしてえりゃ、湿気しっけを呼よんで、みんなねこンなっちまうじゃねえか。速はやくおこしねえ」

「へえ」

「それから何なんだぜ。火がおこったら、直すぐに行燈あんどんを掃除そうじしときねえよ。こんな日ひァ、いつもより日ひの暮くれるのが、ぐっと早はええからの」

「へえ」

「ふん。何なにをいっても、張合はりあいのねえ野郎やろうだ。飯めしは腹はら一杯ぱい食くわせてあるはずだに。もっとしっかり返事へんじをしねえ」

「かしこまりました」

「糠ぬかに釘くぎッてな、おめえのこった。――火のおこるまで一服ぷくやるから、その煙草入たばこいれを、こっちへよこしねえ」

「へえ」

「なぜ煙管きせるを取とらねえんだ」

「へえ」

「それ、蛍火ほたるびほどの火ひもねえじゃねえか。何なんで煙草たばこをつけるんだ」

相手あいては黙々もくもくとした少年しょうねんだが、由斎ゆうさいは、たとえにある箸はしの揚あげおろしに、何なにか小言こごとをいわないではいられない性分しょうぶんなのであろう。殆ほとんど立続たてつづけに口小言くちこごとをいいながら、胡坐あぐらの上うえにかけた古ふるい浅黄あさぎのきれをはずすと、火口箱ほぐちばこを引ひき寄よせて、鉄てつの長煙管ながきせるをぐつと銜くわえた。

勝手元かってもとでは、頻しきりにばたばたと七輪りんの下したを煽あおぐ、団扇うちわの音おとが聞きこえていた。

その団扇うちわの音おとを、じりじりと妙みょうにいら立だつ耳みみで聞ききながら、由斎ゆうさいは前まえに立たてかけている、等身大とうしんだいに近ちかい女おんなの人形にんぎょうを、睨にらめるように眺ながめていたが、ふと何なにか思おもい出だしたのであろう。あたり憚はばからぬ声こえで勝手元かってもとへ向むかって叫さけんだ。

「坊主ぼうず。坊主ぼうず」

「へえ」

「おめえ、今朝けさ面つらを洗あらったか」

「へえ」

「嘘うそをつけ。面つらを洗あらった奴やつが、そんな粗相そそうをするはずァなかろう。ここへ来きて、よく人形にんぎょうの足あしを見みねえ。甲こうに、こんなに蝋ろうが垂たれているじゃねえか」

恐おそる恐おそる仕事場しごとばへ戻もどった。坊主ぼうずの足あしはふるえていた。

「こいつァおめえの仕事しごとだな」

「知しりません」

「知しらねえことがあるもんか。ゆうべ遅おそく仕事場しごとばへ蝋燭ろうそくを持もって這入はいって来きたなァ、おめえより外ほかにねえ筈はずだぜ。こいつァただの人形にんぎょうじゃねえ。菊之丞きくのじょうさんの魂たましいまでも彫ほり込こもうという人形にんぎょうだ。粗相そそうがあっちゃァならねえと、あれ程ほどいっておいたじゃねえか」

二

廂ひさしの深ふかさがおいかぶさって、雨あめに煙けむった家いえの中なかは、蔵くらのように手許てもとが暗くらく、まだ漸ようやく石町こくちょうの八つの鐘かねを聞きいたばかりだというのに、あたりは行燈あんどんがほしいくらい、鼠色ねずみいろにぼけていた。

軒のきの樋といはここ十年ねんの間あいだ、一度ども換かえたことがないのであろう。竹たけの節々ふしぶしに青苔あおこけが盛もり上あがって、その破われ目めから落おちる雨水あまみずが砂時計すなどけいの砂すなが目めもりを落おちるのと同おなじに、絶たえ間まなく耳みみを奪うばった。

への字じに結むすんだ口くちに、煙管きせるを銜くわえたまま、魅みせられたように人形にんぎょうを凝視ぎょうしし続つづけている由斎ゆうさいは、何なにか大おおきく頷うなずくと、今いまし方がた坊主ぼうずがおこして来きた炭火すみびを、十能のうから火鉢ひばちにかけて、独ひとりひそかに眉まゆを寄よせた。

「坊主ぼうず。おめえ、表おもての声こえが聞きこえねえのか」

「誰だれか来きておりますか」

「来きてる。戸とを開あけて見みねえ」

「へえ」

「だが、こっちへ通とおしちゃならねえぜ」

半信半疑はんしんはんぎで立たって行いった坊主ぼうずは、背せをまるくして、雨戸あまどの隙間すきまから覗のぞいた。

「おや、あたしでござんすよ」

「おお、おせんさん」

坊主ぼうずは、たてつけの悪わるい雨戸あまどを開あけて、ぺこりと一つ頭あたまをさげた。そこには頭巾ずきんで顔かおを包つつんだおせんが、傘かさを肩かたにして立たっていた。

「親方おやかたは」

「仕事しごとなんで。――」

「御免ごめんなさいよ」

「ぁッいけません。お前まえさんをお上あげ申もうしちゃ、叱しかられる」

「ほほほほ、そんな心配しんぱいは止やめにしてさ」

「でもあたしが親方おやかたに。――」

「坊主ぼうず」と、鋭するどい声こえが奥おくから聞きこえた。

「へえ」

「いまもいった通とおりだ。たとえどなたでも、仕事場しごとばへは通とおしちゃならねえ」

「親方おやかた」と、おせんは訴うったえるように声こえをかけた。

「どうかきょうだけ、堪忍かんにんしておくんなさいよ」

「いけねえ」

「あたしゃお前まえさんに、断ことわられるのを知しりながら、もう辛抱しんぼうが出来できなくなって、この雨あめの中なかを来きたんじゃござんせんか。――後生ごしょうでござんす。ちょいとの間あいだだけでも。……」

「折角せっかくだが、お断ことわりしやすよ。あっしゃァお前まえさんから、この人形にんぎょうを請合うけあう時とき、どんな約束やくそくをしたかはっきり覚おぼえていなさろう。――のうおせんちゃん。あの時ときお前まえは何なんといいなすった。あたしゃ死しんでる人形にんぎょうは欲ほしくない。生いきた、魂たましいのこもった人形にんぎょうをこさえておくんなさるなら、どんな辛抱しんぼうでもすると、あれ程ほど堅かたく約束やくそくをしたじゃァねえか。――江戸えど一番ばんの女形おやま、瀬川菊之丞せがわきくのじょうの生人形いきにんぎょうを、舞台ぶたいのままに彫ほろうッてんだ。なまやさしい業わざじゃァねえなァ知しれている。あっしもきょうまで、これぞと思おもった人形にんぎょうを、七つや十はこさえて来きたが、これさえ仕上しあげりゃ、死しんでもいいと思おもった程ほど、精魂せいこんを打うち込こんだ作さくはしたこたァなかった。だが、今度こんどの仕事しごとばかりァそうじゃァねえ。この生人形いきにんぎょうさえ仕上しあげたら、たとえあすが日ひ、血ちへどを吐はいてたおれても、決けっして未練みれんはねえと、覚悟かくごをきめての真剣勝負しんけんしょうぶだ。――お前まえさんが、どこまで出来できたか見みたいという。その心持こころもちァ、腹はらの底そこから察さっしてるが、ならねえ、あっしゃァ、いま、人形にんぎょうを塗ぬってるんじゃァねえ。おのが魂たましいを血ちみどろにして、死しぬか生いきるかの、仕事しごとをしてるんだからの」

由斎ゆうさいの声こえを聞ききながら、ひと足あしずつ後あとずさりしていたおせんは、いつか磔はりつけにされたように、雨戸あまどの際きわへ立たちすくんでいた。

三

ひと目めでいい、ひと目めでいいから会あいたいとの、切せつなる思おもいの耐たえ難がたく、わざと両国橋りょうごくばしの近ちかくで駕籠かごを捨すてて、頭巾ずきんに人目ひとめを避さけながら、この質屋しちやの裏うらの、由斎ゆうさいの仕事場しごとばを訪おとずれたおせんの胸むねには、しとど降ふる雨あめよりしげき思おもいがあった。

年としからいえば五つの違ちがいはあったものの、おなじ王子おうじで生うまれた幼おさななじみの菊之丞きくのじょうとは、けし奴やっこの時分じぶんから、人ひともうらやむ仲好なかよしにて、ままごと遊あそびの夫婦めおとにも、吉きちちゃんはあたいの旦那だんな、おせんちゃんはおいらのお上かみさんだよと、度重たびかさなる文句もんくはいつか遊あそび仲間なかまに知しれ渡わたって、自分じぶんの口くちからいわずとも、二人ふたりは真すぐさま夫婦ふうふにならべられるのが却かえってきまり悪わるく、時ときにはわざと背中合せなかあわせにすわる場合ばあいもままあったが、さて、吉次きちじはやがて舞台ぶたいに出でて、子役こやくとしての評判ひょうばんが次第しだいに高たかくなった時分じぶんから、王子おうじを去さった互たがいの親おやが、芳町よしちょうと蔵前くらまえに別わかれ別わかれに住すむようになったばかりに、いつか会あって語かたる日ひもなく二年ねんは三年ねん三年ねんは五年ねんと、速はやくも月日つきひは流ながれ流ながれて、辻番付つじばんづけの組合くみあわせに、振袖姿ふりそですがたの生々いきいきしさは見みるにしても、吉きちちゃんおせんちゃんと、呼よび交かわす機おりはまったくないままに、過すぎてしまったのであった。

女形おやまといえば、中村なかむら富とみ十郎ろうをはじめ、芳沢よしざわあやめにしろ、中村なかむら喜代きよ三郎ろうにしろ、または中村粂太郎なかむらくめたろうにしろ、中村松江なかむらしょうこうにしろ、十人にんいれば十人にんがいずれもそろって上方下かみがたくだりの人達ひとたちである中なかに、たった一人ひとり、江戸えどで生うまれて江戸えどで育そだった吉次きちじが、他ほかの女形おやまを尻目しりめにかけて、めきめきと売出うりだした調子ちょうしもよく、やがて二代目だいめ菊之丞きくのじょうを継ついでからは上上吉じょうじょうきちの評判記ひょうばんきは、弥いやが上うえにも人気にんきを煽あおったのであろう。「王子路考おうじろこう」の名なは、押おしも押おされもしない、当代とうだい随ずい一の若女形わかおやまと極きまって、出だし物ものは何なんであろうと菊之丞きくのじょうの芝居しばいとさえいえば、見みざれば恥はじの如ごとき有様ありさまとなってしまった。

したがって、人気役者にんきやくしゃに付つきまとう様々さまざまな噂うわさは、それからそれえと、日毎ひごとにおせんの耳みみへ伝つたえられた。――どこそこのお大名だいみょうのお妾めかけが、小袖こそでを贈おくったとか。何々屋なになにやの後家ごけさんが、帯おびを縫ぬってやったとか。酒問屋さけとんやの娘むすめが、舞台ぶたいで揷さした簪かんざしが欲ほしさに、親おやの金かねを十両りょう持もち出だしたとか。数かぞえれば百にも余あまる女おんな出入でいりの出来事できごとは、おせんの茶見世ちゃみせへ休やすむ人達ひとたちの間あいだにさえ、聞きくともなく、語かたるともなく伝つたえられて、嘘うそも真まことも取交とりまぜた出来事できごとが、きのうよりはきょう、きょうよりは明日あすと、益々ますます菊之丞きくのじょうの人気にんきを高たかくするばかり。

が、おせんの胸むねの底そこにひそんでいる、思慕しぼの念ねんは、それらの噂うわさには一切さいおかまいなしに日毎ひごとにつのってゆくばかりだった。それもそのはずであろう。おせんが慕したう菊之丞きくのじょうは、江戸中えどじゅうの人気にんきを背負せおって立たった、役者やくしゃの菊之丞きくのじょうではなくて、かつての幼おさななじみ、王子おうじの吉きちちゃんその人ひとだったのだから。――

何某なにがしの御子息ごしそく、何屋なにやの若旦那わかだんなと、水茶屋みずちゃやの娘むすめには、勿体もったいないくらいの縁談えんだんも、これまでに五つや十ではなく、中なかには用人ようにんを使者ししゃに立たてての、れッきとしたお旗本はたもとからの申込もうしこみも二三は数かぞえられたが、その度毎たびごとに、おせんの首くびは横よこに振ふられて、あったら玉たまの輿こしに乗のりそこねるかと人々ひとびとを惜おしがらせて来きた腑甲斐ふがいなさ、しかも胸むねに秘ひめた菊之丞きくのじょうへの切せつなる思おもいを、知しる人ひととては一人ひとりもなかった。

名人めいじん由斎ゆうさいに、心こころの内うちを打うちあけて、三年前ねんまえに中村座なかむらざを見みた、八百屋やお七の舞台姿ぶたいすがたをそのままの、生人形いきにんぎょうに頼たのみ込こんだ半年前はんとしまえから、おせんはきょうか明日あすかと、出来でき上あがる日ひを、どんなに待まったか知しれなかったが、心魂しんこんを傾かたむけつくす仕事しごとだから、たとえなにがあっても、その日ひまでは見みに来きちゃァならねえ、行ゆきますまいと誓ちかった言葉ことばの手前てまえもあり、辛抱しんぼうに辛抱しんぼうを重かさねて来きたとどのつまりが、そこは女おんなの乱みだれる思おもいの堪たえ難がたく、きのうときょうの二度ども続つづけて、この仕事場しごとばを、ひそかに訪おとずれる気きになったのであろう。頭巾ずきんの中なかに瞠みはった眼めには、涙なみだの露つゆが宿やどっていた。

「親方おやかた。――もし親方おやかた」

もう一度どおせんは奥おくへ向むかって、由斎ゆうさいを呼よんで見みた。が、聞きこえるものは、わずかに樋といを伝つたわって落おちる、雨垂あまだれの音おとばかりであった。

軒端のきばの柳やなぎが、思おもい出だしたように、かるく雨戸あまどを撫なでて行いった。

四

「若旦那わかだんな。――もし、若旦那わかだんな」

「うるさいね。ちと黙だまってお歩あるきよ」

「そう仰おっしゃいますが、これを黙だまって居おりましたら、あとで若旦那わかだんなに、どんなお小言こごとを頂戴ちょうだいするか知しれませんや」

「何なんだッて」

「あすこを御覧ごらんなさいまし。ありゃァたしかに、笠森かさもりのおせんさんでござんしょう」

「おせんがいるッて。――ど、どこに」

薬研堀やげんぼりの不動様ふどうさまへ、心願しんがんがあっての帰かえりがけ、黒くろ八丈じょうの襟えりのかかったお納戸茶なんどちゃの半合羽はんがっぱに奴蛇やっこじゃの目めを宗そう十郎ろう好ごのみに差さして、中小僧ちゅうこぞうの市松いちまつを供ともにつれた、紙問屋かみどんや橘屋たちばなやの若旦那わかだんな徳太郎とくたろうの眼めは、上うわずッたように雨あめの中なかを見詰みつめた。

「あすこでござんすよ。あの筆屋ふでやの前まえから両替りょうがえの看板かんばんの下したを通とおってゆく、あの頭巾ずきんをかぶった後姿うしろすがた。――」

「うむ。ちょいとお前まえ、急いそいで行いって、見届みとどけといで」

「かしこまりました」

頭あたまのてっぺんまで、汚泥はねの揚あがるのもお構かまいなく、横よこッ飛とびに飛とび出だした市松いちまつには、雨あめなんぞ、芝居しばいで使つかう紙かみの雪ゆきほどにも感かんじられなかったのであろう。七八間先けんさきを小こきざみに往いく渋蛇しぶじゃの目めの横よこを、一文字もんじに駆脱かけぬけたのも束つかの間ま、やがて踵くびすを返かえすと、鬼おにの首くびでも取とったように、喜よろこび勇いさんで駆かけ戻もどった。

「どうした」

「この二つの眼めで睨にらんだ通とおり、おせんさんに違ちがいござんせん」

「これこれ、何なんでそんな頓狂とんきょうな声こえを出だすんだ。いくら雨あめの中なかでも、人様ひとさまに聞きかれたら事ことじゃァないか」

「へいへい」

「お前まえ、あとからついといで」

目めはしの利きいたところが、まず何なによりの身上しんしょうなのであろう。若旦那わかだんなのお供ともといえば、常つねに市いちどんと朋輩ほうばいから指さされる慣ならわしは、時ときにかけ蕎麦そばの一杯ぱいくらいには有ありつけるものの、市松いちまつに取とっては、寧むしろ見世みせに坐すわって、紙かみの小口こぐちをそろえている方ほうが、どのくらい楽らくだか知しれなかった。

が、そんな小僧こぞうの苦楽くらくなんぞ、背中せなかにとまった蝿程はえほどにも思おもわない徳太郎とくたろうの、おせんと聞きいた夢中むちゅうの歩あゆみは、合羽かっぱの下したから覗のぞいている生なまッ白しろい脛すねに出でた青筋あおすじにさえうかがわれて、道みちの良よし悪わるしも、横よこッ降ぷりにふりかかる雨あめのしぶきも、今いまは他所よその出来事できごとでもあるように、まったく意中いちゅうにないらしかった。

「ちょいと姐ねえさん。いえさ、そこへ行いくのは、おせんちゃんじゃないかい」

それと呼よび止とめた徳太郎とくたろうの声こえは、どうやら勝手かってのわるさにふるえていた。

「え」

くるりと振ふり向むいたおせんは、頭巾ずきんの中なかで、眼めだけに愛嬌あいきょうをもたせながら、ちらりと徳太郎とくたろうの顔かおを偸ぬすみ見みたが、相手あいてがしばしば見世みせへ寄よってくれる若旦那わかだんなだと知しると、あらためて腰こしをかがめた。

「おやまァ若旦那わかだんな、どちらへおいででござんす」

「つい、そこの不動様ふどうさまへ、参詣さんけいに行いったのさ。――そうしてお前まえさんは」

「お母かあさんの薬くすりを買かいに、浜町はまちょうまでまいりました。」

「浜町はまちょう。そりゃァこの雨あめに、大抵たいていじゃあるまい。お前まえさんがわざわざ行いかないでも、ちょいと一言こと聞きいてれば、いつでもうちの小僧こぞうに買かいにやってあげたものを」

「有難ありがとうはござんすが、親おやに服のませるお薬くすりを人様ひとさまにお願ねがい申もうしましては、お稲荷様いなりさまの罰ばちが当あたります」

「成なる程ほど、成なる程ほど、相変あいかわらずの親孝行おやこうこうだの」

徳太郎とくたろうはそういって、ごくりと一つ固唾かたずを飲のんだ。

五

当代とうだいの人気役者にんきやくしゃ宗そう十郎ろうに似にていると、太鼓持たいこもちの誰だれかに一度どいわれたのが、無上むじょうに機嫌きげんをよくしたものか、のほほんと納おさまった色男振いろおとこぶりは、見みる程ほどの者ものをして、ことごとく虫むしずの走はしる思おもいをさせずにはおかないくらい、気障気きざけたっぷりの若旦那わかだんな徳太郎とくたろうではあったが、親孝行おやこうこうの話はなしを切きッかけに、あらたまっておせんを見詰みつめたその眼めには、いつもと違ちがった真剣しんけんな心持こころもちが不思議ふしぎに根強ねづよく現あらわれていた。

「お前まえさんは、これから何なにか、急きゅうな御用ごようがお有ありかの」

「あい、肝腎かんじんのお見世みせの方ほうを、脱ぬけて来きたのでござんすから、一刻こくも速はやく帰かえりませぬと、お母かあさんにいらぬ心配しんぱいをかけますし、それに、折角せっかくのお客様きゃくさまにも、申訳もうしわけがござんせぬ」

「お客きゃくの心配しんぱいは、別べつにいりゃァすまいがの。しかし、お母かあさんといわれて見みると。……」

「何なにか御用ごようでござんすかえ」

「なァにの。思おもいがけないところで出遭であった、こんな間まのいいことは、願ねがってもありゃァしないからひとつどこぞで、御飯ごはんでもつき合あってもらおうと思おもってさ」

「おや、それは御親切ごしんせつに、有難ありがとうはござんすが、あたしゃいまも申もうします通とおり、風邪かぜを引ひいたお母かあさんと、お見世みせへおいでのお客様きゃくさまがござんすから。――」

「この雨あめだ。いくら何なんでも、お客きゃくの方ほうは、気きになるほど行いきもしまい。それとも誰だれぞ、約束やくそくでもした人ひとがお有ありかの」

「まァ何なんでそのようなお人ひとが。――」

「そんなら別べつに、一時ときやそこいら遅おそくなったとて、案あんずることもなかろうじゃないか」

「お母かあさんが首くびを長ながくして、薬くすりを待まってでございます」

「これ、おせんちゃん」

「ああもし。――」

「お手間てまを取とらせることじゃない。ちと折おりいって、相談そうだんしたい訳わけもある。ついそこまで、ほんのしばらく、つき合あっておくれでないか」

「さァそれが。……」

「おまえ、お袋ふくろさんの、薬くすりを買かいに行いったとは、そりゃ本当ほんとうかの」

「えッ」

「本当ほんとうかと訊きいてるのさ」

「何なんで、あたしが嘘うそなんぞを。――」

「そんならその薬くすりの袋ふくろを、ちょいと見みせておくれでないか」

「袋ふくろとえ。――」

「持もってはいないとおいいだろう。ふふふ。やっぱりお前まえは、あたしの手前てまえをつくろって、根ねもない嘘うそをついたんだの、おおかた好すきな男おとこに、会あいに行いった帰かえりであろう。それと知しったら、なおさらこのまま帰かえすことじゃないから、観念かんねんおし」

「あれ若旦那わかだんな。――」

「いいえ、放はなすものか、江戸中えどじゅうに、女おんなの数かずは降ふる程ほどあっても、思おもい詰つめたのはお前まえ一人ひとり。ここで会あえたな、日頃ひごろお願ねがい申もうした、不動様ふどうさまの御利益ごりやくに違ちがいない。きょうというきょうはたとえ半時はんときでもつき合あってもらわないことにゃ。……」

押おさえた袂たもとを振ふり払はらって、おせんが体からだをひねったその刹那せつな、ひょいと徳太郎とくたろうの手首てくびをつかんで、にやり笑わらったのは、傘かさもささずに、頭あたまから桐油とうゆを被かぶった彫師ほりしの松まつ五郎ろうだった。

「若旦那わかだんな、殺生せっしょうでげすぜ」

「ええ、うるさい。余計よけいな邪間じゃまだてをしないで、引ひッ込こんでおくれ」

「はははは。邪間じゃまだてするわけじゃござんせんが、御覧ごらんなせえやし。おせんちゃんは、こんなにいやだといってるじゃござんせんか。若旦那わかだんな、色男いろおとこの顔かおがつぶれやすぜ」

過日かじつの敵かたきを討うったつもりなのであろう。松まつ五郎ろうはこういって、髯ひげあとの青あおい顎あごを、ぐっと徳太郎とくたろうの方ほうへ突つきだした。

六

「はッはッは。若旦那わかだんな、そいつァ御無理ごむりでげすよ。おせんは名代なだいの親孝行おやこうこう、薬くすりを買かいに行いったといやァ、嘘うそも隠かくしもござんすまい。ここで逢あったが百年目ねんめと、とっ捕つかまえて口説くどこうッたって、そうは問屋とんやでおろしませんや。――この近所きんじょの揚弓場ようきゅうばの姐ねえさんなら知しらねえこと、かりにもお前まえさん、江戸えど一番ばんと評判ひょうばんのあるおせんでげすぜ。いくら若旦那わかだんなの御威勢ごいせいでも、こればッかりは、そう易々やすやすたァいきますまいて」

おせんを首尾しゅびよく逃にがしてやった雨あめの中なかで、桐油とうゆから半分はんぶん顔かおを出だした松まつ五郎ろうは、徳太郎とくたろうをからかうようにこういうと、我われとわが鼻はなの頭あたまを、二三度ど平手ひらてで引ひッこすった。

腹立はらだたしさに、なかば泣なきたい気持きもちをおさえながら、松まつ五郎ろうを睨にらみつけた徳太郎とくたろうの細ほそい眉まゆは、止とめ度どなくぴくぴく動うごいていた。

「市公いちこう」

思おもいがけない出来事できごとに、茫然ぼうぜんとしていた小僧こぞうの市松いちまつが、ぺこりと下さげた頭あたまの上うえで、若旦那わかだんなの声こえはきりぎりすのようにふるえた。

「馬鹿野郎ばかやろう」

「へえ」

「なぜおせんを捕つかまえないんだ」

「お放はなしなすったのは、若旦那わかだんなでございます」

「ええうるさい。たとえあたしが放はなしても、捕つかまえるのはお前まえの役目やくめだ。――もうお前まえなんぞに用ようはない。今いますぐここで暇ひまをやるから、どこへでも行いっておしまい」

「ははは。若旦那わかだんな」と、松まつ五郎ろうが口くちをはさんだ。「そいつァちと責せめが強過つよすぎやしょう。小僧こぞうさんに罪つみはねえんで。みんなあなたの我わがままからじゃござんせんか」

「松まつつぁん、お前まえなんぞの出でる幕まくじゃないよ。黙だまってておくれ」

「そうでもござんしょうが、市いちどんこそ災難さいなんだ。何なんにも知しらずにお供ともに来きて、おせんに遭あったばっかりに、大事だいじな奉公ほうこうをしくじるなんざ、辻占つじうらないの文句もんくにしても悪過わるすぎやさァね。堪忍かんにんしてやっとくんなさい。――こう市いちどん。おめえもしっかり、若旦那わかだんなにあやまんねえ」

「若旦那わかだんな、どうか御勘弁ごかんべんなすっておくんなさいまし」

「いやだよ。お前まえは、もう家うちの奉公人ほうこうにんでもなけりゃ、あたしの供ともでもないんだから、ちっとも速はやくあたしの眼めの届とどかないとこへ消きえちまうがいい」

「消けえろとおっしゃいましても。……」

「判わからずやめ。泥どろの中なかへでも何なんでも、勝手かってにもぐって失うせるんだ」

「へえ」

尻しりッ端折ぱしょりの尾骶骨かめのおのあたりまで、高々たかだかと汚泥はねを揚あげた市松いちまつの、猫背ねこぜの背中せなかへ、雨あめは容赦ようしゃなく降ふりかかって、いつの間まにか人ひとだかりのした辺あたりの有様ありさまに、徳太郎とくたろうは思おもわず亀かめの子このように首くびをすくめた。

「もし、若旦那わかだんな」

円まるく取巻とりまいた中なかから、ひょっこり首くびだけ差さし伸のべて、如何いかにも憚はばかった物腰ものごしの、手てを膝ひざの下したまでさげたのは、五十がらみのぼて振ふり魚屋さかなやだった。

徳太郎とくたろうは、偸ぬすむように顔かおを挙あげた。

「手前てまえでございます。市松いちまつの親父おやじでございます」

「えッ」

「通とおりがかりの御挨拶ごあいさつで、何なんとも恐おそれいりますが、どうやら、市松いちまつの野郎やろうが、飛とんだ粗相そそうをいたしました様子ようす。早速さっそく連つれて帰かえりまして、性根しょうねの坐すわるまで、責せめ折檻せっかんをいたします。どうかこのまま。手前てまえにお渡わたし下くださいまし」

「おッとッとッと。父とっつぁん、そいつァいけねえ。おいらが悪わるいようにしねえから、おめえはそっちに引ひッ込こんでるがいい」

松まつ五郎ろうが親爺おやじを制せいしている隙すきに、徳太郎とくたろうの姿すがたは、いつか人込ひとごみの中なかへ消きえていた。

七

「政吉まさきち、辰蔵たつぞう、亀かめ八、分太ぶんた、梅吉うめきち、幸兵衛こうべえ。――」

殆ほとんどひといきに、二三日前にちまえに奉公ほうこうに来きた八歳さいの政吉まさきちから、番頭ばんとうの幸兵衛こうべえまで、やけ半分はんぶんに呼よびながら、中なかの口くちからあたふたと駆かけ込こんで来きた徳太郎とくたろうは、髷まげの刷毛先はけさきに届とどく、背中せなか一杯ぱいの汚泥はねも忘わすれたように、廊下ろうかの暖簾口のれんぐちで地駄じだン駄だ踏ふんで、おのが合羽かっぱをむしり取とっていた。

「へい、これは若旦那わかだんな、お早はやいお帰かえりでございます」

番頭ばんとうの幸兵衛こうべえは、帳付ちょうづけの筆ふでを投なげ出だして、あわてて暖簾口のれんぐちへ顔かおを出だしたが、ひと目め徳太郎とくたろうの姿すがたを見みるとてっきり、途中とちゅうで喧嘩けんかでもして来きたものと、思おもい込こんでしまったのであろう。頭あたまのてッ辺ぺんから足あしの爪先つまさきまで、見上みあげ見みおろしながら、言葉ことばを吃どもらせた。

「ど、どうなすったのでございます」

「番頭ばんとうさん、市松いちまつに直すぐ暇ひまをだしとくれ」

「市松いちまつが、な、なにか、粗相そそうをいたしましたか」

「何なんでもいいから、あたしのいった通とおりにしておくれ。あたしゃきょうくらい、恥はじをかいたこたァありゃしない。もう口惜くやしくッて、口惜くやしくッて。……」

「そ、それはまたどんなことでございます。小僧こぞうの粗相そそうは番頭ばんとうの粗相そそう、手前てまえから、どのようにもおわびはいたしましょうから、御勘弁ごかんべん願ねがえるものでございましたら、この幸兵衛こうべえに御免ごめんじ下くださいまして。……」

「余計よけいなことは、いわないでおくれ」

「へい。……左様さようでございましょうが、お見世みせの支配しはいは、大旦那様おおだんなさまから、一切さいお預あずかりいたして居おります幸兵衛こうべえ、あとで大旦那様おおだんなさまのお訊たずねがございました時ときに、知しらぬ存ぞんぜぬでは通とおりませぬ。どうぞその訳わけを、仰おっしゃって下くださいまし」

「訳わけなんぞ、聞きくことはないじゃないか。何なんでもあたしのいった通とおり、暇ひまさえ出だしてくれりゃいいんだよ」

駄々だだッ子こがおもちゃ箱ばこをぶちまけたように、手てのつけられないすね方かたをしている徳太郎とくたろうの耳みみへ、いきなり、見世先みせさきから聞きこえ来きたのは、松まつ五郎ろうの笑わらい声ごえだった。

「はッはッは、若旦那わかだんな、まだそんなことを、いっといでなさるんでござんすかい。耳寄みみよりの話はなしを聞きいてめえりやした。いい智恵ちえをお貸かし申もうしやすから、小僧こぞうさんのしくじりなんざさっぱり水みずに流ながしておやんなさいまし」

中番頭ちゅうばんとうから小僧達こぞうたちまで、一同どうの顔かおが一齊せいに松まつ五郎ろうの方ほうへ向むき直なおった。が、徳太郎とくたろうは暖簾口のれんぐちから見世みせの方ほうを睨にらみつけたまま、返事へんじもしなかった。

「もし、若旦那わかだんな。悪わるいこたァ申もうしやせん。お前まえさんが、鯱鉾立しゃっちょこだちをしてお喜よろこびなさる、うれしい話はなしを聞きいてめえりやしたんで。――ここで話はなしちゃならねえと仰おっしゃるんなら、そちらへ行いってお話はなしいたしやす。着物きものもぬれちゃァ居おりやせん。どうでげす。それともこのまま帰かえりやしょうか」

被かぶっていた桐油とうゆを、見世みせの隅すみへかなぐり棄すてて、ふところから取出とりだした鉈豆煙管なたまめぎせるへ、叺かますの粉煙草こなたばこを器用きように詰つめた松まつ五郎ろうは、にゅッと煙草盆たばこぼんへ手てを伸のばしながら、ニヤリと笑わらって暖簾口のれんぐちを見詰みつめた。

「松まつつぁん」

「へえ」

「若旦那わかだんなが、こっちへとおいなさる」

「そいつァどうも。――」

「おっと待まった。その足あしで揚あがられちゃかなわない。辰たつどん、裏うらの盥たらいへ水みずを汲くみな」

番頭ばんとうの幸兵衛こうべえは、壁かべの荒塗あらぬりのように汚泥はねの揚あがっている松まつ五郎ろうの脛すねを、渋しぶい顔かおをしてじっと見守みまもった。

「ふふふ、松まつ五郎ろうは、見みかけに寄よらねえ忠義者ちゅうぎものでげすぜ」

独ひとり言ごとをいって顎あごを突出つきだした松まつ五郎ろうの顔かおは、道化方どうけかたの松島茂平次まつしまもへいじをそのままであった。

八

行水ぎょうずいでもつかうように、股ももの付根つけねまで洗あらった松まつ五郎ろうが、北向きたむきの裏うら二階かいにそぼ降ふる雨あめの音おとを聞ききながら、徳太郎とくたろうと対座たいざしていたのは、それから間まもない後あとだった。瓦かわらのおもてに、あとからあとから吸すい込こまれて行いく秋雨あきさめの、時ときおり、隣となりの家いえから飛とんで来きた柳やなぎの落葉おちばを、貼はり付つけるように濡ぬらして消きえるのが、何なにか近頃ちかごろはやり始はじめた飛絣とびがすりのように眼めに映うつった。

銀煙管ぎんぎせるを握にぎった徳太郎とくたろうの手ては、火鉢ひばちの枠わくに釘着くぎづけにされたように、固かたくなって動うごかなかった。

「ではおせんにゃ、ちゃんとした情人いろがあって、この節せつじゃ毎日まいにち、そこへ通かよい詰づめだというんだね」

「まず、ざっとそんなことなんで。……」

「いったい、そのおせんの情人いろというのは、何者なにものなんだか、松まっつぁん、はっきりあたしに教おしえておくれ」

「さァ、そいつァどうも。――」

「何なにをいってんだね。そこまで明あかしておきながら、あとは幽霊ゆうれいの足あしにしちまうなんて、馬鹿ばかなことがあるもんかね。――お前まえさんさっき、何なんといったい。若旦那わかだんなが鯱鉾立しゃっちょこだちして喜よろこぶ話はなしだと、見世みせであんなに、大おおきなせりふでいったじゃないか。あたしゃ口惜くやしいけれど聞きいてるんだよ。どうせその気きで来きたんなら、あからさまに、一から十まで話はなししておくれ。相手あいての名なを聞きかないうちは、気の毒だが松まっつぁん、ここは滅多めったに動うごかしゃァしないよ」

「ちょ、ちょいと待まっとくんなさい、若旦那わかだんな。無理むりをおいいなすっちゃ困こまりやす」

「何なにが無理むりさ」

「何なにがと仰おっしゃって、実じつァあっしゃァ、相手あいての名前なまえまじァ知しらねえんで。……」

「名前なまえを知しらないッて」

「そうなんで。……」

「そんなら、名前なまえはともかく、どんな男おとこなんだか、それをいっとくれ。お武家ぶけか、商人あきんどか、それとも職人しょくにんか。――」

「そいつがやっぱり判わからねえんで。――」

「松つぁん」

徳太郎とくたろうの声こえは甲走かんばしった。

「へえ」

「たいがいにしとくれ。あたしゃ酔狂すいきょうで、お前まえさんをここへ通とおしたんじゃないんだよ。おせんが隠かくれて逢あっているという、相手あいての男おとこを知しりたいばっかりに、見世みせの者ものの手前てまえも構かまわず、わざわざ二階かいへあげたんじゃないか。名なを知しらないのはまだしものこと、お武家ぶけか商人あきんどか、職人しょくにんか、それさえ訳わけがわからないなんて、馬鹿ばかにするのも大概たいがいにおし。――もうそんな人ひとにゃ用ようはないから、とっとと消きえて失うせとくれよ」

「帰けえれと仰おっしゃるんなら、帰けえりもしましょうが、このまま帰けえっても、ようござんすかね」

「なんだって」

「若旦那わかだんな。あっしゃァなる程ほど、おせんの相手あいてが、どこの誰だれだか知しっちゃいませんが、そんなこたァ知しろうと思おもや、半日はんにちとかからねえでも、ちゃァんと突つきとめてめえりやす。それよりも若旦那わかだんな。もっとお前まえさんにゃ、大事だいじなことがありゃァしませんかい」

「そりゃ何なんだい」

「まァようがす。とっとと消きえて失うせろッてんなら、あんまり畳たたみのあったまらねえうちに、いい加減かげんで引揚ひきあげやしょう。――どうもお邪間じゃまいたしやした」

「お待まち」

「何なんか御用ごようで」

「あたしの大事だいじなことだという、それを聞きかせてもらいましょう」

が、松まつ五郎ろうはわざと頬ほほをふくらまして、鼻はなの穴あなを天井てんじょうへ向むけた。

帯おび

一

祇園守ぎおんまもりの定紋じょうもんを、鶯茶うぐいすちゃに染そめ抜ぬいた三尺じゃくの暖簾のれんから、ちらりと見みえる四畳半じょうはん。床とこの間まに揷さした秋海棠しゅうかいどうが、伊満里いまりの花瓶かびんに影かげを映うつした姿すがたもなまめかしく、行燈あんどんの焔ほのおが香こうのように立昇たちのぼって、部屋へやの中程なかほどに立たてた鏡台きょうだいに、鬘下地かつらしたじの人影ひとかげがおぼろであった。

所ところは石町こくちょうの鐘撞堂新道かねつきどうしんみち。白紙はくしの上うえに、ぽつんと一点てん、桃色ももいろの絵えの具ぐを垂たらしたように、芝居しばいの衣装いしょうをそのまま付つけて、すっきりたたずんだ中村松江なかむらしょうこうの頬ほほは、火桶ひおけのほてりに上気じょうきしたのであろう。たべ酔よってでもいるかと思おもわれるまでに赤あかかった。

「おこの。――これ、おこの」

鏡かがみのおもてにうつしたおのが姿すがたを見詰みつめたまま、松江しょうこうは隣座敷となりざしきにいるはずの、女房にょうぼうを呼よんで見みた。が、いずこへ行いったのやら、直すぐに返事へんじは聞きかれなかった。

「ふふ、居おらんと見みえるの。このようによう映うつる格好かっこうを、見みせようとおもとるに。――」

松江しょうこうはそういいながら、きゃしゃな身体からだをひねって、踊おどりのようなかたちをしながら、再ふたたび鏡かがみのおもてに呼よびかけた。

「おせんが茶ちゃをくむ格好かっこうじゃ、早はよう見みに来きたがいい」

「もし、太夫たゆう」

暖簾のれんの下したにうずくまって、髷まげの刷毛先はけさきを、ちょいと指ゆびで押おさえたまま、ぺこりと頭あたまをさげたのは、女房にょうぼうのおこのではなくて、男衆おとこしゅうの新しん七だった。

「新しん七かいな」

「へえ」

「おこのは何なにをしてじゃ」

「さァ」

「何なんとしたぞえ」

「お上かみさんは、もう一時ときも前まえにお出でかけなすって、お留守るすでござります」

「留守るすやと」

「へえ」

「どこへ行いった」

「白壁町しろかべちょうの、春信はるのぶさんのお宅たくへ行いくとか仰おっしゃいまして、――」

「何なんじゃと。春信はるのぶさんのお宅たくへ行いった。そりゃ新しん七、ほんまかいな」

「ほんまでござります」

「おこのがまた、白壁町しろかべちょうさんへ、どのような用事ようじで行いったのじゃ。早はよう聞きかせ」

「御用ごようの筋すじは存ぞんじませぬが、帯おびをどうとやらすると、いっておいででござりました」

「帯おび。新しん七。――そこの箪笥たんすをあけて見みや」

あわてて箪笥たんすの抽斗ひきだしへ手てをかけた新しん七は、松江しょうこうのいいつけ通どおり、片かたッ端ぱしから抽斗ひきだしを開あけ始はじめた。

「着物きものも羽織はおりも、みなそこへ出だして見みや」

「こうでござりますか」

「もっと」

「これも」

「ええもういちいち聞きくことかいな。一度どにあけてしまいなはれ」

ぎっしり、抽斗ひきだし一杯ぱいに詰つまった衣装いしょうを、一枚まい残のこらず畳たたみの上うえへぶちまけたその中なかを、松江しょうこうは夢中むちゅうで引ひッかき廻まわしていたが、やがて眼めを据すえながら新しん七に命めいじた。

「おまえ、直すぐに白壁町しろかべちょうへ、おこのの後あとを追おうて、帯おびを取とって戻もどるのじゃ」

「何なんの帯おびでござります」

「阿呆あほうめ、おせんの帯おびじゃ。あれがのうては、肝腎かんじんの芝居しばいがわやになってしまうがな」

剃そりたての松江しょうこうの眉まゆは、青あおく動うごいた。

二

その時分じぶん、当とうのおこのは、駕籠かごを急いそがせて、月つきのない柳原やなぎはらの土手どてを、ひた走はしりに走はしらせていた。

欝金うこんの風呂敷ふろしきに包つつんで、膝ひざの上うえに確しっかと抱かかえたのは、亭主ていしゅの松江しょうこうが今度こんど森田屋もりたやのおせんの狂言きょうげんを上演じょうえんするについて、春信はるのぶの家いえへ日参にっさんして借かりて来きた、いわくつきのおせんの帯おびであるのはいうまでもなかった。

鉄漿おはぐろも黒々くろぐろと、今朝けさ染そめたばかりのおこのの歯はは、堅かたく右みぎの袂たもとを噛かんでいた。

当時とうじ江戸えどでは一番ばんだという、その笠森かさもりの水茶屋みずぢゃやの娘むすめが、どれ程ほど勝すぐれた縹緻きりょうにもせよ、浪速なにわは天満天神てんまんてんじんの、橋はしの袂たもとに程近ほどちかい薬種問屋やくしゅどんや「小西こにし」の娘むすめと生うまれて、何なにひとつ不自由ふじゆうも知しらず、我わがまま勝手かってに育そだてられて来きたおこのは、たとい役者やくしゃの女房にょうぼうには不向ふむきにしろ、品ひんなら縹緻きりょうなら、人ひとには引ひけは取とらないとの、固かたい己惚うぬぼれがあったのであろう。仮令たとえ江戸えどに幾いく千の女おんながいようともうちの太夫たゆうにばかりは、足あしの先さきへも触ふらせることではないと、三年前ねんまえに婚礼早々こんれいそうそう大阪おおさかを発たって来きた時ときから、肚はらの底そこには、梃てこでも動うごかぬ強つよい心こころがきまっていた。

この秋あきの狂言きょうげんに、良人おっとが選えらんだ「おせん」の芝居しばいを、重助じゅうすけさんが書かきおろすという。もとよりそれには、連つれ添そう身みの異存いぞんのあろうはずもなく、本読ほんよみも済すんで、愈いよいよ稽古けいこにかかった四五日にちは、寝ねる間まをつめても、次つぎの間まに控ひかえて、茶ちゃよ菓子かしよと、女房にょうぼうの勤つとめに、さらさら手落ておちはなく過すぎたのであったが、さて稽古けいこが積つんで、おのれの工夫くふうが真剣しんけんになる時分じぶんから、ふと眼めについたのは、良人おっとの居間いまに大事だいじにたたんで置おいてある、もみじを散ちらした一本ぽんの女帯おんなおびだった。

買かった衣装いしょうというのなら、誰だれに見みしょうとて、別べつに邪間じゃまになるまいと思おもわれる、その帯おびだけに殊更ことさらに、夜寝よるねる時ときまで枕許まくらもとへ引ひき付つけての愛着あいちゃくは、並大抵なみたいていのことではないと、疑うたがうともなく疑うたがったのが、事ことの始はじまりというのであろうか。おこのが昼ひるといわず夜といわず、ひそかに睨にらんだとどのつまりは、独ひとり四畳半じょうはんに立籠たてこもって、おせんの型かたにうき身みをやつす、良人おっとの胸むねに巻まきつけた帯おびが、春信はるのぶえがくところの、おせんの大事だいじな持物もちものだった。

カッとなって、持もち出だしたのではもとよりなく、きのうもきょうもと、二日二晩ふつかふたばん考かんがえ抜ぬいた揚句あげくの果はてが、隣座敷となりざしきで茶ちゃを入いれていると見みせての、雲隠くもがくれれが順じゅんよく運はこんで、大通おおどおりへ出でて、駕籠かごを拾ひろうまでの段取だんどりりは、誰一人だれひとり知しる者ものもなかろうと思おもったのが、手落ておちといえばいえようが、それにしても、新しん七が後あとを追おって来きようなぞとは、まったく夢ゆめにも想おもわなかった。

「駕籠屋かごやさん。済すまんが、急いそいどくれやすえ」

「へいへい、合点がってんでげす。月つきはなくとも星明ほしあかり、足許あしもとに狂くるいはござんせんから御安心ごあんしんを」

「酒手さかてはなんぼでもはずみますさかい、そのつもりで頼たのンます」

「相棒あいぼう」

「おお」

「聞きいたか」

「聞きいたぞ」

「流石さすがにいま売うりだしの、堺屋さかいやさんのお上かみさんだの。江戸えどの女達おんなたちに聞きかしてやりてえ嬉うれしい台詞せりふだ」

「その通とおり。――お上かみさん。太夫たゆうの人気にんきは大たいしたもんでげすぜ。これからァ、何なんにも恐こわいこたァねえ、日ひの出での勢いきおいでげさァ」

「そうともそうとも、酒手さかてと聞ききいていうんじゃねえが、太夫たゆうはでえいち、品ひんがあるッて評判ひょうばんだて。江戸役者えどやくしゃにゃ、情なさけねえことに、品ひんがねえからのう」

「おや駕籠屋かごやさん。左様さようにいうたら、江戸えどのお方かたに憎にくまれまッせ」

「飛とんでもねえ。太夫たゆうを誉ほめて、憎にくむような奴やつァ、みんなけだものでげさァね」

「そうとも」

柳原やなぎはらの土手どてを左ひだりに折おれて、駕籠かごはやがて三河町かわちょうの、大銀杏おおいちょうの下したへと差さしかかっていた。

夜よは正まさに四つだった。

三

白壁町しろかべちょうの春信はるのぶの住居すまいでは、今いましも春信はるのぶが彫師ほりしの松まつ五郎ろうを相手あいてに、今度こんど鶴仙堂かくせんどうから板いたおろしをする「鷺娘さぎむすめ」の下絵したえを前まえにして、頻しきりに色合いろあわせの相談中そうだんちゅうであったが、そこへひょっこり顔かおを出だした弟子でしの藤吉とうきちは、団栗眼どんぐりまなこを一層いっそうまるくしながら、二三度ど続つづけさまに顎あごをしゃくった。

「お師匠ししょうさん、お客きゃくでござんす」

「どなたかおいでなすった」

「堺屋さかいやさんの、お上かみさんがお見みえなんで」

「なに、堺屋さかいやのお上かみさんだと。そりゃァおかしい。何なにかの間違まちがいじゃねえのかの」

「間違まちがいどころじゃござんせん。真正証銘しんしょうしょうめいのお上かみさんでござんすよ」

「お上かみさんが、何なんの用ようで、こんなにおそく来きなすったんだ」

ついに一度ども来きたことのない、中村松江なかむらしょうこうの女房にょうぼうが、訪たずねて来きたと聞きいただけでは、春信はるのぶは、直すぐさまその気きになれなかったのであろう。絵えの具ぐから眼めを離はなすと、藤吉とうきちの顔かおをあらためて見直みなおした。

「何なんの御用ごようか存ぞんじませんが、一刻こくも早はやくお師匠ししょうさんにお目めにかかって、お願ねがいしたいことがあると、それはそれは、急いそいでおりますんで。……」

「はァてな。――何なんにしても、来きたとあれば、ともかくこっちへ通とおすがいい」

藤吉とうきちが、あたふたと行いってしまうと、春信はるのぶは仕方しかたなしに松まつ五郎ろうの前まえに置おいた下絵したえを、机つくえの上うえへ片着かたづけて、かるく舌したうちをした。

「飛とんだところへ邪間じゃまが這入はいって、気きの毒どくだの」

「どういたしやして、どうせあっしゃァ、外ほかに用ようはありゃァしねえんで。……なんならあっちへ行いって待まっとりやしょうか」

「いやいや、それにゃァ及およぶまい。話はなしは直すぐに済すもうから、構かまわずここにいるがいい」

「そんならこっちの隅すみの方ほうへ、まいまいつぶろのようンなって、一服ぷくやっておりやしょう」

ニヤリと笑わらった松まつ五郎ろうが、障子しょうじの隅すみへ、まるくなった時ときだった。藤吉とうきちに案内あんないされたおこのの姿すがたが、影絵かげえのように縁先えんさきへ現あらわれた。

「師匠ししょう、お連つれ申もうしました」

「御免やすえ」

「さァ、ずっとこっちへ」

欝金うこんの包つつみを抱かかえたおこのは、それでも何なにやら心こころが乱みだれたのであろう。上気じょうきした顔かおをふせたまま、敷居際しきいぎわに頭あたまを下さげた。

「こないに遅おそう、無躾ぶしつけに伺うかがいまして。……」

「どんな御用ごようか、遠慮えんりょなく、ずっとお通とおりなさるがいい」

「いいえもう、ここで結構けっこうでおます」

行燈あんどんの灯ひが長ながく影かげをひいた、その鼠色ねずみいろに包つつまれたまま、石いしのように硬かたくなったおこのの髪かみが二筋すじ三筋すじ、夜風よかぜに怪あやしくふるえて、心こころもち青あおみを帯おびた頬ほほのあたりに、ほのかに汗あせがにじんでいた。

「そうしてお上かみさんは、こんな遅おそく、何なんの用ようでおいでなすった」

「拝借はいしゃくの、おせん様さまの帯おびを、お返かえし申もうしに。――」

「なに、おせんの帯おびを。――」

「はい」

「それはまた何なんでの」

春信はるのぶは、意外いがいなおこのの言葉ことばは、思おもわず眼めを瞠みはった。

「御大切おたいせつなお品しなゆえ、粗相そそうがあってはならんよって、速はようお返かえし申もうすが上分別じょうふんべつと、思おもい立たって参さんじました」

「では太夫たゆうはこの帯おびを、芝居しばいにゃ使つかわないつもりかの」

「はい。折角せっかくながら。……」

おこのは、そのまま固かたく唇くちびるを噛かんだ。

四

「ふふふふ、お上かみさん」

じっとおこのの顔かおを見詰みつめていた春信はるのぶは、苦笑くしょうに唇くちびるを歪ゆがめた。

「はい」

「お前まえさんもう一度ど、思おもいい直なおして見みなさる気きはないのかい」

「おもい直なおせといやはりますか」

「まずのう」

「なぜでおます」

「なぜかそいつは、そっちの胸むねに、訊きいて見みたらば判わかンなさろう。――その帯おびは、おせんから頼たのまれて、この春信はるのぶが描かいたものにゃ違ちがいないが、まだ向むこうの手てへ渡わたさないうちに、太夫たゆうが来きて、貸かしてくれとのたッての頼たのみ、これがなくては、肝腎かんじんの芝居しばいが出来できないとまでいった挙句あげく、いや応おうなしに持もって行いかれてしまったものだ。おせんにゃもとより、内所ないしょで貸かして渡わたした品物しなもの、今更いまさら急きゅうに返かえす程ほどなら、あれまでにして、持もって行いきはしなかろう。お上かみさん。お前まえ、つまらない料簡りょうけんは、出ださないほうがいいぜ」

「そんならなんぞ、わたしがひとりの料簡りょうけんで。……」

「そうだ。これがおせんの帯おびでなかったら、まさかお前まえさんは、この夜道よみちを、わざわざここまで返かえしにゃ来きなさるまい。太夫たゆうが締しめて踊おどったとて、おせんの色香いろかが移うつるという訳わけじゃァなし、芸人げいにんのつれあいが、そんな狭せまい考かんがえじゃ、所詮しょせんうだつは揚あがらないというものだ。余計よけいなお接介せっかいのようだが、今頃いまごろ太夫たゆうは、帯おびの行方ゆくえを探さがしているだろう。お前まえさんの来きたこたァ、どこまでも内所ないしょにしておこうから、このままもう一度ど、持もって帰かえってやるがいい」

「ほほほ、お師匠ししょうさん」

おこのは冷つめたく額ひたいで笑わらった。

「え」

「折角せっかくの御親切ごしんせつでおますが、いったんお返かえししょうと、持もって参さんじましたこの帯おび、また拝借はいしゃくさせて頂いただくとしましても、今夜こんやはお返かえし申もうします」

「ではどうしても、置おいて行いこうといいなさるんだの」

「はい」

「そうかい。それ程ほどまでにいうんなら、仕方しかたがない、預あずかろう。その換かわり、太夫たゆうが借かりに来きたにしても、もう二度どと再ふたたび貸かすことじゃないから、それだけは確しかと念ねんを押おしとくぜ」

「よう判わかりました。この上うえの御迷惑ごめいわくはおかけしまへんよって。……」

「はッはッはッ」と、今いままで座敷ざしきの隅すみに黙だまりこくっていた松まつ五郎ろうが、急きゅうに煙管きせるをつかんで大笑おおわらいに笑わらった。

「どうした松まつつぁん」

「どうもこうもありませんが、あんまり話はなしが馬鹿気ばかげてるんで、とうとう辛抱しんぼうが出来できなくなりやしたのさ。――師匠ししょう、ひとつあっしに、ちっとばかりしゃべらしておくんなせえ」

「何なんとの」

「身みに降ふりかかる話はなしじゃねえ。どうせ人様ひとさまのことだと思おもって、黙だまって聴きいて居おりやしたが。――もし堺屋さかいやさんのお上かみさん、つまらねえ焼やきもちは、焼やかねえ方ほうがようがすぜ」

「なにいいなはる」

「なにも蟹かにもあったもんじゃねえ。蟹かになら横よこにはうのが近道ちかみちだろうに、人間にんげんはそうはいかねえ。広ひろいようでも世間せけんは狭せめえものだ。どうか真まッ直すぐ向むいて歩あるいておくんなせえ」

「あんたはん、どなたや」

「あっしゃァ松まつ五郎ろうという、けちな職人しょくにんでげすがね。お前まえさんの仕方しかたが、あんまり情なさけな過すぎるから、口くちをはさましてもらったのさ。知しらなきゃいって聞きかせるが、笠森かさもりのおせん坊ぼうは、男嫌おとこぎらいで通とおっているんだ。今いまさらお前まえさんとこの太夫たゆうが、金鋲きんびょうを打うった駕籠かごで迎むかえに来きようが、毛筋けすじ一本ぽん動うごかすような女おんなじゃねえから安心あんしんしておいでなせえ。痴話喧嘩ちわげんかのとばっちりがここまでくるんじゃ、師匠ししょうも飛とんだ迷惑めいわくだぜ」

松まつ五郎ろうはこういって、ぐっとおこのを睨にらみつけた。

五

暗やみの中なかを、鼠ねずみのようになって、まっしぐらに駆かけて来きた堺屋さかいやの男衆おとこしゅう新しん七は、これもおこのと同おなじように、柳原やなぎはらの土手どてを八辻つじヶ原はらへと急いそいだが、夢中むちゅうになって走はしり続つづけてきたせいであろう。右みぎへ行いく白壁町しろかべちょうへの道みちを左ひだりへ折おれたために、狐きつねにつままれでもしたように、方角ほうがくさえも判わからなくなった折おりも折おり、彼方かなたの本多豊前邸ほんだぶぜんていの練塀ねりべいの影かげから、ひた走はしりに走はしってくる女おんなの気配けはい。まさかと思おもって眼めをすえた刹那せつな瞼まぶたににじんだ髪かみかたちは、正まさしくおこのの姿すがただった。

新しん七は、はッとして飛とび上あがった。

「おお、お上かみさん」

「あッ。お前まえはどこへ」

「どこへどころじゃござりません。お上かみさんこそ今時分いまじぶん、どちらへおいでなさいました」

「わたしは、お前まえも知しっての通とおり、あの絵師えしの春信はるのぶさんのお宅たくへ、いって来きました」

「そんならやっぱり、春信師匠はるのぶししょうのお宅たくへ」

「お前まえがまた、そのようなことを訊きいて、何なんにしやはる」

「手前てまえは太夫たゆうからのおいいつけで、お上かみさんをお迎むかえに上あがったのでござります」

「わたしを迎むかえに。――」

「へえ。――そうしてあの帯おびをどうなされました」

「何なに、帯おびとえ」

「はい。おせんさんの帯おびは、お上かみさんが、お持もちなされたのでござりましょう」

「そのような物ものを、わたしが知しろかいな」

「いいえ。知しらぬことはございますまい。先程さきほどお出でかけなさる時とき、帯おびを何なんとやら仰おっしゃったのを、新しん七は、たしかにこの耳みみで聞ききました」

「知しらぬ知しらぬ。わたしが春信はるのぶさんをお訊たずねしたのは帯おびや衣装いしょうのことではない。今度こんど鶴仙堂かくせんどうから板いたおろしをしやはるという、鷺娘さぎむすめの絵えのことじゃ。――ええからそこを退のきなされ」

「いいや、それはなりません。お上かみさんは、確たしかに持もってお出いでなされたはず。もう一度ど手前てまえと一緒しょに、白壁町しろかべちょうのお宅たくへ、お戻もどりなすって下くださりませ」

「なにいうてんのや。わたしが戻もどったとて、知しらぬものが、あろうはずがあるかいな。――こうしてはいられぬのじゃ。そこ退のきやいの」

おこのが払はらった手てのはずみが、ふと肩かたから滑すべったのであろう。袂たもとを放はなしたその途端とたんに、新しん七はいやという程ほど、おこのに頬ほほを打うたれていた。

「あッ。お打うちなさいましたな」

「打うったのではない。お前まえが、わたしの手てを取とりやはって。……」

「ええ、もう辛抱しんぼうがなりませぬ。手前てまえと一緒しょにもう一度ど、春信はるのぶさんのお宅たくまで、とっととおいでなさりませ」

ぐっとおこのの手首てくびをつかんだ新しん七には、もはや主従しゅじゅうの見みさかいもなくなっていたのであろう。たとえ何なんであろうと、引ひきずっても連つれて行いかねばならぬという、強つよい意地いじが手伝てつだって、荒々あらあらしく肩かたに手てをかけた。

「これ、新しん七、何なにをしやる」

「何なにもかもござりませぬ。あの帯おびは、太夫たゆうが今度こんどの芝居しばいにはなくてはならない大事だいじな衣装いしょう、手前てまえがひとりで行いったとて、春信はるのぶさんは渡わたしておくんなさいますまい。どうでもお前様まえさまを一緒しょに連つれて。――」

「ええ、行いかぬ。何なんというてもわしゃ行いかぬ」

星ほしのみ光ひかった空そらの下したに、二つのかたちは、犬いぬの如ごとくに絡からみ合あっていた。

「ふふふふ。みっともねえ。こんなことであろうと思おもって、後あとをつけて来きたんだが、お上かみさん、こいつァ太夫たゆうさんの辱はじンなるぜ」

「えッ」

「おれだよ。彫職人ほりしょくにんの松まつ五郎ろう」

六

留とめるのもきかずに松まつ五郎ろうが火ひのようになって出でて行いってしまった後あとの画室がしつには、春信はるのぶがただ一人ひとりおこのの置おいて行いった帯おびを前まえにして、茫然ぼうぜんと煙管きせるをくわえていたが、やがて何なにか思おもいだしたのであろう。突然とつぜん顔かおをあげると、吐はきだすように藤吉とうきちを呼よんだ。

「藤吉とうきち。――これ藤吉とうきち」

「へえ」

いつにない荒あらい言葉ことばに、あわてて次つぎの間まから飛とんで出でた藤吉とうきちは、敷居際しきいぎわで、もう一度どぺこりと頭あたまを下さげた。

「何なにか御用ごようで」

「羽織はおりを出だしな」

「へえ。――どッかへお出でかけなさるんで。……」

「余計よけいな口くちをきかずに、速はやくするんだ」

「へえ」

何なにが何なにやら、一向こう見当けんとうが付つかなくなった藤吉とうきちは、次つぎの間まに取とって返かえすと、箪笥たんすをがたぴしいわせながら、春信はるのぶが好このみの鶯茶うぐいすちゃの羽織はおりを、捧ささげるようにして戻もどって来きた。

「これでよろしいんで。……」

それには答こたえずに、藤吉とうきちの手てから羽織はおりを、ひったくるように受取うけとった春信はるのぶの足あしは、早はやくも敷居しきいをまたいで、縁先えんさきへおりていた。

「師匠ししょう、お供ともをいたしやす」

「独ひとりでいい」

「お一人ひとりで。……そんなら提灯ちょうちんを。――」

が、春信はるのぶの心こころは、やたらに先さきを急いそいでいたのであろう。いつもなら、藤吉とうきちを供ともに連つれてさえ、夜道よみちを歩あるくくには、必かならず提灯ちょうちんを持もたせるのであったが、今いまはその提灯ちょうちんを待まつ間まももどかしく、羽織はおりの片袖かたそでを通とおしたまま、早はやくも姿すがたは枝折戸しおりどの外そとに消きえていた。

「藤吉とうきち。――藤吉とうきち」

「へえ」

奥おくからの声こえは、この春はるまで十五年ねんの永ながい間あいだ、番町ばんちょうの武家屋敷ぶけやしきへ奉公ほうこうに上あがっていた。春信はるのぶの妹いもうと梶女かじじょだった。

「ここへ来きや」

「へえ」

お屋敷者やしきものの見識けんしきとでもいうのであろうか。足あしが不自由ふじゆうであるにも拘かかわらず、四十に近ちかい顔かおには、触ふれれば剥はげるまでに濃こく白粉おしろいを塗ぬって、寝ねる時ときより外ほかには、滅多めったに放はなしたことのない長煙管ながぎせるを、いつも膝ひざの上うえについていた。

「お兄様にいさまは、どちらにお出でかけなされた」

「さァ、どこへおいでなさいましたか、つい仰おっしゃらねえもんでござんすから。……」

「何なにをうかうかしているのじゃ。知しらぬで済すもうとお思おもいか。なぜお供ともをせぬのじゃ」

「そう申もうしたのでござんすが、師匠ししょうはひどくお急いそぎで、行いく先さきさえ仰おっしゃらねえんで。……」

「直すぐに行いきゃ」

「へ」

「提灯ちょうちんを持もって直すぐに、後あとを追おうて行いきゃというのじゃ」

「と仰おっしゃいましても、どっちへお出でかけか、方角ほうがくも判わかりゃァいたしやせん」

「まだ出でたばかりじゃ。そこまで行いけば直すぐに判わかろう。たじろいでいる時ときではない。速はよう。速はよう」

この上うえ躊躇ちょうちょしていたら、持もった煙管きせるで、頭あたまのひとつも張はられまじき気配けはいとなっては、藤吉とうきちも、立たたない訳わけには行いかなかった。

提灯ちょうちんは提灯ちょうちん、蝋燭ろうそくは蝋燭ろうそくと、右みぎと左ひだりに別々べつべつにつかんだ藤吉とうきちは、追おわれるように、梶女かじじょの眼めからおもてに遁のがれた。

七

鏡かがみのおもてに映うつした眉間みけんに、深ふかい八の字じを寄よせたまま、ただいらいらした気持きもちを繰返くりかえしていた中村松江なかむらしょうこうは、ふと、格子戸こうしどの外そとに人ひとの訪おとずれた気配けはいを感かんじて、じッと耳みみを澄すました。

「もし、今晩こんばんは。――今晩こんばんは」

(おお、やはりうちかいな)

そう、思おもった松江しょうこうは、次つぎの座敷ざしきまで立たって行いって、弟子でしのいる裏うら二階かいへ声こえをかけた。

「これ富江とみえ、松代まつよ、誰だれもいぬのか。お客きゃくさんがおいでなされたようじゃ」

が、先刻せんこく新しん七におこのの後あとを追おわせた隙すきに、二人ふたりとも、どこぞ近所きんじょへまぎれて行いったのであろう。もう一度ど呼よんで見みた松江しょうこうの耳みみには、容易よういに返事へんじが戻もどっては来こなかった。

「ええけったいな、何なんとしたのじゃ。お客きゃくさんじゃというのに。――」

口小言くちこごとをいいながら、自みずから格子戸こうしどのところまで立たって行いった松江しょうこうは、わざと声音こわねを変かえて、低ひくく訊たずねた。

「どなた様さまでござります」

「わたしだ」

「へえ」

「白壁町しろかべちょうの春信はるのぶだよ」

「えッ」

驚おどろきと、土間どまを駆かけ降おりたのが、殆ほとんど同時どうじであった。

「お師匠ししょうさんでおましたか。これはまァ。……」

がらりと開あけた雨戸あまどの外そとに、提灯ちょうちんも持もたずに、独ひとり蒼白あおじろく佇たたずんだ春信はるのぶの顔かおは暗くらかった。

「面目次第めんぼくしだいもござりませぬ。――でもまァ、ようおいでで。――」

「ふふふ。あんまりよくもなかろうが、ちと、来きずには済すまされぬことがあっての」

「そこではお話はなしも出来できませんで。……どうぞ、こちらへお通とおり下くださりませ」

「しかし、わたしが上あがっても、いいのか」

「何なにを仰おっしゃいます。狭苦せまくるしゅうはござりますが、御辛抱ごしんぼうしやはりまして。……」

「では遠慮えんりょなしに、通とおしてもらいましょうか。……のう太夫たゆう」

座敷へ上あがって、膝ひざを折おると同時どうじに、春信はるのぶの眼めは険けわしく松江しょうこうを見詰みつめた。

「今更いまさらあらためて、こんなことを訊きくのも野暮やぼの沙汰さただが、おこのさんといいなさるのは、確たしかにお前まえさんの御内儀ごないぎだろうのう」

「何なんといやはります」

松江しょうこうのおもてには、不安ふあんの色いろが濃こい影かげを描えがいた。

「深ふかいことはどうでもいいが、ただそれだけを訊きかしてもらいたいと思おもっての。あれが太夫たゆうの御内儀ごないぎなら、わたしはこれから先さき、お前まえさんと、二度どと顔かおを合あわせまいと、心こころに固かたく極きめて来きたのさ」

「えッ。ではやはり。……」

「太夫たゆう。つまらない面つらあてでいう訳わけじゃないが、お前まえさんは、いいお上かみさんを持もちなすって、仕合しあわせだの。――帯おびはたしかにわたしの手てから、おせんのとこへ返かえそうから、少すこしも懸念けねんには、及およばねえわな」

「どうぞ堪忍かんにんしておくれやす」

「お前まえさんにあやまらせようと思おもって、こんなにおそく、わざわざひとりで出でて来きた訳わけじゃァさらさらない。詫わびなんぞは無用むようにしておくんなさい」

「なんで、これがお詫わびせいでおられましょう。愚ぐなおこのが、いらぬことを仕出来しでかしました心こころなさからお師匠ししょうさんに、このようないやな思おもいをおさせ申もうしました。堺屋さかいや、穴あながあったら這入はいりとうおます」

松江しょうこうは、われとわが手てで顔かおを掩おおったまま、暫しばし身みじろぎもしなかった。

霜しもの来こぬ間まに、早はやくも弱よわり果はてた蟋蟀こおろぎであろう。床下ゆかしたにあえぐ音ねが細々ほそぼそと聞きかれた。

月つき

一

「――そら来きた来きなんせ、土平どへいの飴あめじゃ。大人おとなも子供こどもも銭ぜに持もっておいで。当時とうじ名代なだいの土平どへいの飴あめじゃ。味あじがよくってでがあって、おまけに肌理きめが細こまこうて、笠森かさもりおせんの羽は二重肌えはだを、紅べにで染そめたような綺麗きれいな飴あめじゃ。買かって往ゆかんせ、食たべなんせ。天竺渡来てんじくとらいの人参飴にんじんあめじゃ。何なんと皆みなの衆しゅう合点がってんか」

もはや陽ひが落ちて、空そらには月つきさえ懸かかっていた。その夕月ゆうづきの光ひかりの下したに、おのが淡あわい影かげを踏ふみながら、言葉ことばのあやも面白おもしろおかしく、舞まいつ踊おどりつ来懸きかかったのは、この春頃はるごろから江戸中えどじゅうを、隈くまなく歩あるき廻まわっている飴売土平あめうりどへい。まだ三十にはならないであろう。おどけてはいるが、どこか犯おかし難がたいところのある顔かおかたちは、敵かたき持もつ武家ぶけが、世よを忍しのんでの飴売あめうりだとさえ噂うわさされて、いやが上うえにも人気にんきが高たかく、役者やくしゃならば菊之丞きくのじょう、茶屋女ちゃやおんななら笠森かさもりおせん、飴屋あめやは土平どへい、絵師えしは春信はるのぶと、当時とうじ切きっての評判者ひょうばんものだった。

「わッ、土平どへいだ土平どへいだ」

「それ、みんな来こい、みんな来こいやァイ」

「お母っかァ、銭ぜにくんな」

「父ちゃん、おいらにも銭ぜにくんな」

「あたいもだ」

「あたしもだ」

軒端のきばに立たつ蚊柱かばしらのように、どこからともなく集あつまって来きた子供こどもの群むれは、土平どへいの前後左右ぜんごさゆうをおッ取とり巻まいて、買かうも買かわぬも一様ようにわッわッと囃はやしたてる賑にぎやかさ、長屋ながやの井戸端いどばたで、一心不乱しんふらんに米こめを磨といでいたお上かみさん達たちまでが、手てを前まえかけで、拭ふきながら、ぞろぞろつながって出でてくる有様ありさまは、流石さすがに江戸えどは物見高ものみだかいと、勤番者きんばんものの眼めの玉たまをひっくり返かえさずにはおかなかった。

「――さァさ来きた来きた、こっちへおいで、高たかい安やすいの思案しあんは無用むよう。思案しあんするなら谷中やなかへござれ。谷中やなかよいとこおせんの茶屋ちゃやで、お茶ちゃを飲のみましょ。煙草たばこをふかそ。煙草たばこふかして煙けむだして、煙けむの中なかからおせんを見みれば、おせん可愛かあいや二九からぬ。色気いろけ程ほどよく靨えくぼが霞かすむ。霞かすむ靨えくぼをちょいとつっ突ついて、もしもしそこなおせん様さま。おはもじながらここもとは、そもじ思おもうて首くびッたけ、烏からすの鳴なかぬ日ひはあれど、そもじ見みぬ日ひは寝ねも寝ねつかれぬ。雪駄せったちゃらちゃら横眼よこめで見みれば、咲さいた桜さくらか芙蓉ふようの花はなか、さても見事みごとな富士ふじびたえ。――さッさ買かいなよ買かわしゃんせ。土平どへい自慢じまんの人参飴にんじんあめじゃ。遠慮えんりょは無用むようじゃ。買かわしゃんせ。買かっておせんに惚ほれしゃんせ」

手振てぶりまでまじえての土平どへいの唄うたは、月つきの光ひかりが冴さえるにつれて、愈いよいよ益々ますます面白おもしろく、子供こどもばかりか、ぐるりと周囲しゅういに垣かきを作つくった大方おおかたは、通とおりがかりの、大人おとなの見物けんぶつで一杯ぱいであった。

「はッはッはッ。これが噂うわさの高たかい土平どへいだの。いやもう感心かんしん感心かんしん。この咽のどでは、文字太夫もじだゆうも跣足はだしだて」

「それはもう御隠居様ごいんきょさま。滅法めっぽう名代なだいの土平どへいでござんす。これ程ほどのいい声こえは、鉦かねと太鼓たいこで探さがしても、滅多めったにあるものではござんせぬ」

「御隠居ごいんきょは、土平どへいの声こえを、始はじめてお聞ききなすったのかい」

「左様さよう」

「これはまた迂濶うかつ千万ばん。飴売あめうり土平どへいは、近頃ちかごろ江戸えどの名物めいぶつでげすぜ」

「いや、噂うわさはかねて聞きいておったが、眼めで見みたのは今いまが初はじめて。まことにはや。面目次第めんぼくしだいもござりませぬて」

「はははは。お前様まえさまは、おなじ名代なだいなら、やっぱりおせんの方ほうが、御贔屓ごひいきでげしょう」

「決けっして左様さような訳わけでは。……」

「お隠かくしなさいますな。それ、そのお顔かおに書かいてある」

見物けんぶつの一人ひとりが、近ちかくにいる隠居いんきょの顔かおを指さした時ときだった、誰だれかが突然とつぜん頓狂とんきょうな声こえを張はり上あげた。

「おせんが来きた。あすこへおせんが帰かえって来きた」

二

「なに、おせんだと」

「どこへどこへ」

飴売あめうり土平どへいの道化どうけた身振みぶりに、われを忘わすれて見入みいっていた人達ひとたちは、降ふって湧わいたような「おせんが来きた」という声こえを聞きくと、一齊せいに首くびを東ひがしへ振ふり向むけた。

「どこだの」

「あすこだ。あの松まつの木きの下したへ来くる」

斜ななめにうねった道角みちかどに、二抱ふたかかえもある大松おおまつの、その木きの下したをただ一人ひとり、次第しだいに冴さえた夕月ゆうづきの光ひかりを浴あびながら、野中のなかに咲さいた一本ぽんの白菊しらぎくのように、静しずかに歩あゆみを運はこんで来くるほのかな姿すがた。それはまごう方かたない見世みせから帰かえりのおせんであった。

「違ちげえねえ。たしかにおせんだ」

「そら行いけ」

駆かけ出だす途端とたんに鼻緒はなおが切きれて、草履ぞうりをさげたまま駆かけ出だす小僧こぞうや、石いしに躓つまずいてもんどり打うって倒たおれる職人しょくにん。さては近所きんじょの生臭坊主なまぐさぼうずが、俗人ぞくじんそこのけに目尻めじりをさげて追おいすがるていたらく。所詮しょせんは男おとこも女おんなもなく、おせんに取とっては迷惑千万めいわくせんばんに違ちがいなかろうが、遠慮会釈えんりょえしゃくはからりと棄すてた厚あつかましさからつるんだ犬いぬを見みに行ゆくよりも、一層そう勢きおい立たって、どっとばかりに押おし寄よせた。

「いやだよ直なおさん、そんなに押おしちゃァ転ころンじまうよ」

「人ひとの転ころぶことなんぞ、遠慮えんりょしてたまるもんかい。速はやく行いって触さわらねえことにゃ、おせんちゃんは帰かえッちまわァ」

「おッと退どいた退どいた。番太郎ばんたろうなんぞの見みるもンじゃねえ」

「馬鹿ばかにしなさんな。番太郎ばんたろうでも男おとこ一匹ぴきだ。綺麗きれいな姐ねえさんは見みてえや」

「さァ退どいた、退どいた」

「火事かじだ火事かじだ」

人ひとの心こころが心こころに乗のって、愈いよいよ調子ちょうしづいたのであろう。茶代ちゃだいいらずのその上うえにどさくさまぎれの有難ありがたさは、たとえ指先ゆびさきへでも触さわれば触さわり得どくと考かんがえての悪戯いたずらか。ここぞとばかり、息いきせき切きって駆かけ着つけた群衆ぐんしゅうを苦笑くしょうのうちに見守みまもっていたのは、飴売あめうりの土平どへいだった。

「ふふふふ。飴あめも買かわずに、おせん坊ぼうへ突つッ走ぱしったな豪勢ごうせいだ。こんな鉄錆てつさびのような顔かおをしたおいらより、油壺あぶらつぼから出でたよなおせん坊ぼうの方ほうが、どれだけいいか知しれねえからの。いやもう、浮世うきよのことは、何なにをおいても女おんなが大事だいじ。おいらも今度こんどの世よにゃァ、犬いぬになっても女おんなに生うまれて来くることだ。――はッくしょい。これァいけねえ。みんなが急きゅうに散ちったせいか、水みずッ洟ぱなが出でて来きたぜ。風邪かぜでも引ひいちゃァたまらねから、そろそろ帰かえるとしべえかの」

「おッと、飴屋あめやさん」

「はいはい、お前まえさんは、何なんであっちへ行いきなさらない」

「行いきたくねえからよ」

「行いきたくないとの」

「そうだ。おいらはこれでも、辱はじを知しってるからの」

「面白おもしろい。人間にんげん、辱はじを知しってるたァ何なによりだ」

「何なにより小こより御存ごぞんじよりか。なまじ辱はじを知しってるばかりに、おいらァ出世しゅっせが出来できねえんだよ」

「お前まえさんは、何なにをしなさる御家業おかぎょうだの」

「絵えかきだよ」

「名前なまえは」

「名前なまえなんざあるもんか」

「誰だれのお弟子でしだの」

「おいらはおいらの弟子でしよ。絵えかきに師匠ししょうや先生せんせいなんざ、足手あしでまといになるばッかりで、物ものの役やくにゃ立たたねえわな」

そういいながら、鼻はなの頭あたまを擦こすったのは、変かわり者ものの春重はるしげだった。

三

「おッとッとッと、おせんちゃん。何なんでそんなに急いそぎなさるんだ。みんながこれ程ほど騒さわいでるんだぜ。靨えくぼの一つも見みせてッてくんねえな」

「そうだそうだ。どんなに待まったか知しれやァしねえよ。おめえに急いそいで帰かえられたんじゃ、待まってたかいがありゃァしねえ」

それと知しって、おせんを途中とちゅうに押おッ取とりかこんだ多勢おおぜいは、飴屋あめやの土平どへいがあっ気けに取とられていることなんぞ、疾とうの昔むかしに忘わすれたように、我われ先さきにと、夕ゆうぐれ時どきのあたりの暗くらさを幸さいわいにして、鼻はなから先さきへ突出つきだしていた。

が、いつもなら、人ひとにいわれるまでもなく、まずこっちから愛嬌あいきょうを見みせるにきまっていたおせんが、きょうは何なんとしたのであろう。靨えくぼを見みせないのはまだしも、まるで別人べつじんのようにせかせかと、先さきを急いそいでの素気すげない素振そぶりに、一同どうも流石さすがにおせんの前まえへ、大手おおでをひろげる勇気ゆうきもないらしく、ただ口くちだけを達者たっしゃに動うごかして、少すこしでも余計よけいに引止ひきとめようと、あせるばかりであった。

「もし、そこを退どいておくんなさいな」

「どいたらおめえが帰かえッちまうだろう。まァいいから、ここで遊あそんで行ゆきねえ」

「あたしゃ、先さきを急いそぎます。きょうは堪忍かんにんしておくんなさいよ」

「先さきッたって、これから先さきァ、家うちへ帰かえるより道みちはあるめえ。それともどこぞへ、好すきな人ひとでも出来できたのかい」

「なんでそんなことが。……」

「ねえンなら、よかろうじゃねえか」

「でもお母っかさんが。――」

「お袋ふくろの顔かおなんざ、生うまれた時ときから見みてるんだろう。もう大概たいがい、見みあきてもよさそうなもんだぜ」

「そうだ、おせんちゃん。帰けえる時ときにゃ、みんなで送おくってッてやろうから、きょう一いちン日ちの見世みせの話はなしでも、聞きかしてくんねえよ」

「お見世みせのことなんぞ、何なんにも話はなしはござんせぬ。――どうか通とおしておくんなさい」

「紙屋かみやの若旦那わかだんなの話はなしでも、名主なぬしさんのじゃんこ息子むすこの話はなしでも、いくらもあろうというもんじゃねえか」

「知しりませんよ。お母っかさんが風邪かぜを引ひいて、独ひとりで寝ねててござんすから、ちっとも速はやく帰かえらないと、あたしゃ心配しんぱいでなりませんのさ」

「お袋ふくろさんが風邪かぜだッて」

「あい」

「そいつァいけねえ。何なんなら見舞みまいに行いってやるよ」

「おいらも行いくぜ」

「わたしも行いく」

「いいえ、もうそんなことは。――」

少すこしも長ながく、おせんを引ひき止とめておきたい人情にんじょうが、互たがいの口くちを益々ますます軽かるくして、まるく囲かこんだ人垣ひとがきは、容易よういに解とけそうにもなかった。

すると突然とつぜん、はッはッはと、腹はらの底そこから絞しぼり出だしたような笑わらい声ごえが、一同どうの耳許みみもとに湧わき立たった、

「はッはッは。みんな、みっともねえ真似まねをしねえで、速はやくおせんちゃんを、帰かえしてやったらどんなもんだ」

「おめえは、春重はるしげだな」

「つまらねえ差さし出口でぐちはきかねえで、引ひッ込こんだ、引ひッ込こんだ」

「ふふふ。おめえ達たち、あんまり気きが利きかな過すぎるぜ。おせんちゃんにゃ、おせんちゃんの用ようがあるんだ。野暮やぼな止とめだてするよりも、一刻こくも速はやく帰かえしてやんねえ」

「馬鹿ばかァいわッし。そんなお接介せっかいは受けねえよ」

一同どうの視線しせんが、春重はるしげの上うえに集あつまっている暇ひまに、おせんは早はやくも月つきの下影したかげに身みを隠かくした。

四

「お母っかさん」

「おや、おせんかえ」

「あい」

猫ねこに追おわれた鼠ねずみのように、慌あわただしく駆かけ込こんで来きたおせんの声こえに、折おりから夕餉ゆうげの支度したくを急いそいでいた母ははのお岸きしは、何なにやら胸むねに凶事きょうじを浮うかべて、勝手かっての障子しょうじをがらりと明あけた。

「どうかおしかえ」

「いいえ」

「でもお前まえ、そんなに息いきせき切きってさ」

「どうもしやァしませんけれど、いまそこで、筆屋ふでやさんの黒くろがじゃれたもんだから。……」

「ほほほほ。黒くろが尾おを振ふってじゃれるのは、お前まえを慕したっているからだよ。あたしゃまた、悪わるいいたずらでもされたかと思おもって、びっくりしたじゃァないか。何なにも食くいつくような黒くろじゃなし、逃にげてなんぞ来こないでも、大丈夫だいじょうぶ金かねの脇差わきざしだわな。――こっちへおいで。頭あたまを撫なで付つけてあげようから。……」

「おや、髪かみがそんなに。――」

母ははの方ほうへは行いかずに、四畳半じょうはんのおのが居間いまへ這入はいったおせんは、直すぐさま鏡かがみの蓋ふたを外はずして、薄暮はくぼの中なかにじっとそのまま見入みいったが、二筋すじ三筋すじ襟えりに乱みだれた鬢びんの毛けを、手早てばやく掻かき揚あげてしまうと、今度こんどはあらためて、あたりをぐるりと見廻みまわした。

「お母っかさん」

「あいよ」

「あたしの留守るすに、ここに誰だれか這入はいりゃしなかったかしら」

「おやまァ滅相めっそうな。そこへは鼠ねずみ一匹ぴきも滅多めったに入はいるこっちゃァないよ。――何なんぞ変かわわったことでもおありかえ」

「さァ、ちっとばかり。……」

「どれ、何なにがの。――」

障子しょうじの隙間すきまから、顔かおを半分はんぶん窺のぞかせた母親ははおやを、おせんはあわてて遮さえぎった。

「気きにする程ほどでもござんせぬ。あっちへ行いってておくんなさい」

「ほんにまァ、ここへは来くるのじゃなかったッけ」

三日前みっかまえの夜よるの四つ頃ごろ、浜町はまちょうからの使つかいといって、十六七の男おとこの子こが、駕籠かごに乗のった女おんなを送おくって来きたその晩ばん以来いらい、お岸きしはおせんの口くちから、観音様かんのんさまへの願がんかけゆえ、向むこう三十日にちの間あいだ何事なにごとがあっても、四畳半じょうはんへは這入はいっておくんなさいますな。あたしの留守るすにも、ここへ足あしを入いれたが最後さいご、お母っかさんの眼めはつぶれましょうと、きつくいわれたそれからこっち、何なにが何なにやら分わからないままに、おせんの頼たのみを堅かたく守まもって、お岸きしは、鬼門きもんへ触さわるように恐おそれていた座敷ざしきだったが、留守るすに誰だれかが這入はいったと聞きいては、流石さすがにあわてずにいられなかったらしく、拵こしらえかけの蜆汁しじみじるを、七厘りんへ懸かけッ放ぱなしにしたまま、片眼かためでいきなり窺のぞき込こんだのであろう。

部屋へやの中なかは、窓まどから差さすほのかな月つきの光ひかりで、漸ようやく物もののけじめがつきはするものの、ともすれば、入いれ換かえたばかりの青畳あおだたみの上うえにさえ、暗くらい影かげが斜ななめに曳ひかれて、じっと見詰みつめている眼先めさきは、海うみのように深ふかかった。

母ははは直すぐに勝手かってへ取とって返かえしたと見みえて、再ふたたび七厘りんの下したを煽あおぐ渋団扇しぶうちわの音おとが乱みだれた。

暗くらい、何者なにものもはっきり見みえない部屋へやの中なかで、おせんはもう一度ど、じっと鏡かがみの中なかを見詰みつめた。底光そこびかりのする鏡かがみの中なかに、澄すめば澄すむ程ほどほのかになってゆく、おのが顔かおが次第しだいに淡あわく消きえて、三日月形みかづきがたの自慢じまんの眉まゆも、いつか糸いとのように細ほそくうずもれて行いった。

「吉きちちゃん。――」

ふと、鏡かがみのおもてから眼めを放はなしたおせんの唇くちびるは、小ちいさく綻ほころびた。と同時どうじに、すり寄よるように、体からだは戸棚とだなの前まえへ近寄ちかよった。

「済すみません。ひとりぽっちで、こんなに待またせて。――」

そういいながら、おせんのふるえる手ては襖ふすまの引手ひきてを押おさえた。

五

部屋へやの中なかは益々ますます暗くらかった。

その暗くらい部屋へやの片隅かたすみへ、今いましもおせんが、辺あたりに気きを配くばりながら、胸むね一杯ぱいに抱かかえ出だしたのは、つい三日前みっかまえの夜よる、由斎ゆうさいの許もとから駕籠かごに乗のせて届とどけてよこした、八百屋やお七の舞台姿ぶたいすがたをそのままの、瀬川菊之丞せがわきくのじょうの生人形いきにんぎょうであった。

おせんは抱かかえた人形にんぎょうを、東ひがしに向むけて座敷ざしきのまん中なかに立たてると、薄月うすづきの光ひかりを、まともに受うけさせようがためであろう。音おとせぬ程ほどに、窓まどの障子しょうじを徐しずかに開あけ始はじめた。

庭にわには虫むしの声こえもなく、遠とおくの空そらを渡わたる雁かりのおとずれがうつろのように、耳みみに響ひびいた。

「吉きちちゃん。――いいえ、太夫たゆう、あたしゃ会あいとうござんした」

生いきた相手あいてにいう如ごとく、如何いかにもなつかしそうに、人形にんぎょうを仰あおいだおせんの眼めには、情なさけの露つゆさえ仇あだに宿やどって、思おもいなしか、声こえは一途ずにふるえていた。

「――朝あさから晩ばんまで、いいえ、それよりも、一生涯しょうがい、あたしゃ太夫たゆうと一緒しょにいとうござんすが、なんといっても、お前まえは今いまを時ときめく、江戸えど一番ばんの女形おやま。それに引ひき換かえあたしゃそこらに履はき捨すてた、切きれた草鞋わらじもおんなじような、水茶屋みずぢゃやの茶汲ちゃくみ娘むすめ。百夜ももよの路みちを通かよったとて、お前まえに逢あって、昔話むかしばなしもかなうまい。それゆえせめての心こころから、あたしがいつも夢ゆめに見みるお前まえのお七を、由斎ゆうさいさんに仕上しあげてもらって、ここまで内緒ないしょで運はこんだ始末しまつ。お前まえのお宅たくにくらべたら、物置小屋ものおきごやにも足たりない住居すまいでござんすが、ここばっかりは、邪間じゃまする者ものもない二人ふたりの世界せかい。どうぞ辛抱しんぼうして、話相手はなしあいてになっておくんなさいまし、――あたしゃ、王子おうじで育そだった十年前ねんまえも、お見世みせへ通かようきょうこの頃ごろも、心こころに毛筋程けすじほどの変かわりはござんせぬ。吉きちちゃんと、おせんちゃんとは夫婦ふうふだと、ままごと遊あそびにからかわれた、あの春はるの日ひが忘わすれられず、枕まくらを濡ぬらして泣なき明あかした夜よるも、一度どや二度どではござんせんし。おせんも年頃としごろ、好すきなお客きゃくの一人ひとりくらいはあろうかと、折節おりふしのお母っかさんの心配しんぱいも、あたしの耳みみには上うわの空そら。火ひあぶりで死しんだお七が羨うらやましいと、あたしゃいつも、思おもいい続つづけてまいりました。――太夫たゆう、お前まえは、立派りっぱなお上かみさんのその外ほかに、二つも寮りょうをお持もちの様子ようす。引ひくてあまたの、御贔屓筋ごひいきすじもござんしょうが、あたしゃこのままこがれ死しんでも、やっぱりお前まえの女房にょうぼうでござんす」

思おもわず知しらず、我われとわが袖そでを濡ぬらした不覚ふかくの涙なみだに、おせんは「はッ」として首くびを上あげたが、どうやら勝手許かってもとの母ははの耳みみへは這入はいらなかったものか、まだ抜ぬけ切きらぬ風邪かぜの咳せきが二つ三つ、続つづけざまに聞きこえたばかりであった。

しばしおせんは、俯向うつむいたまま眼めを閉とじていた。その眼めの底そこを、稲妻いなづまのように、幼おさない日ひの思おもい出でが突つッ走ぱしった。

「おせんや」

母ははの声こえが聞きかれた。

「あい」

「この暗くらいのに、行燈あんどんもつけずに」

「あい。さして暗くらくはござんせぬ」

「何なにをしておいでだか知しらないが、支度したくが出来できたから御飯ごはんにしようわな」

「あい、いまじきに」

「暗くらい所ところに一人ひとりでいると、鼠ねずみに引ひかれるよ」

隣座敷となりざしきでは、母ははが燈芯とうしんをかき立たてたのであろう。障子しょうじが急きゅうに明あかるくなって、膳立ぜんだてをする音おとが耳みみに近ちかかった。

よろめくように立上たちあがったおせんは、窓まどの障子しょうじに手てをかけた。と、その刹那せつな、低ひくいしかも聞きき慣なれない声こえが、窓まどの下したから浮うき上あがった。

「おせん」

「えッ」

「驚おどろくにゃ当あたらねえ。おいらだよ」

おせんは、火箸ひばしのように立たちすくんでしまった。

六

「ど、どなたでござんす」

「叱しっ、静しずかにしねえ。怪あやしいものじゃねえよ。おいらだよ」

「あッ、お前まえは兄あにさん。――」

「ええもう、静しずかにしろというのに。お袋ふくろの耳みみへへえッたら、事ことが面倒めんどうンなる」

そういいながら、出窓でまどの縁えんへ肘ひじを懸かけて、するりと体からだを持もちちあげると、如何いかにも器用きように履はいた草履ぞうりを右手みぎてで脱ぬぎながら、腰こしの三尺帯じゃくおびへはさんで、猫ねこのように青畳あおだたみの上うえへ降おり立たったのは、三年前ねんまえに家いえを出でたまま、噂うわさにさえ居所いどころを知しらせなかった兄あにの千吉きちだった。――藍微塵あいみじんの素袷すあわせに算盤玉そろばんだまの三尺じゃくは、見みるから堅気かたぎの着付きつけではなく、殊ことに取とった頬冠ほおかむりの手拭てぬぐいを、鷲掴わしづかみにしたかたちには、憎にくいまでの落着おちつきがあった。

まったく夢想むそうもしなかった出来事できごとに、おせんは、その場ばに腰こしを据すえたまま、直すぐには二の句くが次つげなかった。

「おせん。おめえ、いくつンなった」

「十八でござんす」

「十八か。――」

千吉きちはそういって苦笑くしょうするように頷うなずいたが、隣座敷となりざしきを気にしながら、更さらに声こえを低ひくめた。

「怖こわがるこたァねえから、後あとずさりをしねえで、落着おちついていてくんねえ。おいらァ何なにも、久ひさし振ぶりに会あった妹いもうとを、取とって食くおうたァいやァしねえ」

「あかりを、つけさせておくんなさい」

「おっと、そんな事をされちゃァたまらねえ。暗やみでもてえげえ見みえるだろうが、おいらァ堅気かたぎの商人しょうにんで、四角かくい帯おびを、うしろで結むすんで来きた訳わけじゃねえんだ。面目めんぼくねえが五一三分六ごいちさぶろくのやくざ者ものだ。おめえやお袋ふくろに、会あわせる顔かおはねえンだが、ちっとばかり、人ひとに頼たのまれたことがあって、義理ぎりに挟はさまれてやって来きたのよ。おせん、済すまねえが、おいらの頼たのみを聞きいてくんねえ」

「そりゃまた兄あにさん、どのようなことでござんす」

「どうのこうのと、話はなせば長なげえ訳合わけあいだが、手てッ取早とりばやくいやァ、おいらァ金かねが入用いりようなんだ」

「お金かねとえ」

「そうだ」

「あたしゃ、お金かねなんぞ。……」

「まァ待まった。藪やぶから棒ぼうに飛とび込こんで来きた、おいらの口くちからこういったんじゃ、おめえがかぶりを振ふるのももっともだが、こっちもまんざら目算もくさんなしで、出でかけて来きたという訳わけじゃねえ。そこにゃちっとばかり、見みかけた蔓つるがあってのことよ。――のうおせん。おめえは通油町とおりあぶらちょうの、橘屋たちばなやの若旦那わかだんなを知しってるだろう」

「なんとえ」

「徳太郎とくたろうという、始末しまつの良よくねえ若旦那わかだんなだ」

「さァ、知しってるような、知しらないような。……」

「ここァ別べつに白洲しらすじゃねえから、隠かくしだてにゃ及およばねえぜ。知しらねえといったところが、どうでそれじゃァ通とおらねえんだ。先さきァおめえに、家蔵いえくら売うってもいとわぬ程ほどの、首くびッたけだというじゃねえか」

「まァ兄にいさん」

「恥はずかしがるにゃァ当あたらねえ。何なにもこっちから、血道ちみちを上あげてるという訳わけじゃなし、おめえに惚ほれてるな、向むこう様さまの勝手次第かってしだいだ。――おせん。そこでおめえに相談そうだんだが、ひとつこっちでも、気きのある風ふうをしちゃあくれめえか」

「えッ」

「おめえも十八だというじゃァねえか。もうてえげえ、そのくれえの芸当げいとうは、出来できても辱はじにゃァなるめえぜ」

千吉きちは、たじろぐおせんを見詰みつめながら、四角かくく坐すわって詰つめ寄よった。

七

「もし、兄あにさん」

月つきは雲くもに覆おおわれたのであろう。障子しょうじを漏もれる光ひかりさえない部屋へやの中なかは、僅わずかに隣となりから差さす行燈あんどんの方影かたかげに、二人ふたりの半身はんしんを淡あわく見みせているばかり、三年ねん振ぶりで向むき合あった兄あにの顔かおも、おせんははっきり見極みきわめることが出来できなかった。

その方暗かたやみの中なかに、おせんの声こえは低くふるえた。

「兄あにさん」

「え」

「帰かえっておくんなさい」

「何なんだって。おいらに帰けえれッて」

「あい」

「冗談じょうだんじゃねえ。用ようがありゃこそ、わざわざやって来きたんだ。なんでこのまま帰けえれるものか。そんなことよりおいらの頼たのみを、素直すなおにきいてもらおうじゃねえか。おめえさえ首くびを縦たてに振ふってくれりゃァ、からきし訳わけはねえことなんだ。のうおせん。赤あかの他人たにんでさえ、事ことを分わけて、かくかくの次第しだいと頼たのまれりゃ、いやとばかりゃァいえなかろう。おいらァおめえの兄貴あにきだよ。――血ちを分わけた、たった一人ひとりの兄貴あにきだよ。それも、百とまとまった金かねが入用いりようだという訳わけじゃねえ。四半分はんぶんの二十五両りょうで事ことが済すむんだ」

「二十五両りょう。――」

「みっともねえ。驚おどろく程ほどの高たかでもあるめえ」

「でも、そんなお金かねは。……」

「だからよ。初手しょてからいってる通とおり、おめえやお袋ふくろの臍へそくりから、引ひっ張ぱり出だそうたァいやァしねえや。狙ねらいをつけたなあの若旦那わかだんな、橘屋たちばなやの徳太郎とくたろうというでくの棒ぼうよ。ふふふふ。何なんの雑作ぞうさもありァしねえ。おめえがここでたった一言ひとこと。おなつかしゅうござんす、とかなんとかいってくれさえすりァ、おいらの頼たのみァ聴きいてもらえようッてんだ。お釈迦しゃかが甘茶あまちゃで眼病めやみを直なおすより、もっとわけねえ仕事しごとじゃねえか」

「それでもあたしゃ。心こころにもないことをいって。……」

「そ、その料簡りょうけんがいけねえんだ。腹はらにあろうがなかろうが、武士ぶしは戦略せんりゃく、坊主ぼうずは方便ほうべん、時ときと場合ばあいじゃ、人ひとの寝首ねくびをかくことさえあろうじゃねえか。――さ、ここに筆ふでと紙かみがある。いろはのいの字じとろの字じを書かいて、いろよい返事へんじをしてやんねえ」

千吉きちがふところから取出とりだしたのは、巻紙まきがみと矢立やたてであった。

おせんは、あわてて手てを引ひッ込こめた。

「堪忍かんにんしておくんなさい」

「何なにもあやまるこたァありゃァしねえ。暗くらくッて書かけねえというンなら、仕方しかたがねえ。行燈あんどんをつけてやる」

「もし。――」

今度こんどはおせんが、千吉きちの手てをおさえた。

「何なにをするんだ」

「あたしゃ、どうでもいやでござんす」

「そんならこれ程ほどまでに、頭あたまをさげて頼たのんでもか」

「外ほかのこととは訳わけが違ちがい、あたしゃ数かずあるお客きゃくのうちでも、いの一番ばんに嫌きらいなお人ひと、たとえ嘘うそでも冗談じょうだんでも、気きの済すまないことはいやでござんす」

「おせん。おめえ、兄貴あにきを見殺みごろしにするつもりか」

「何なんとえ」

「おめえがいやだとかぶりを振ふりゃァ、おいらは人ひとから預あずかった、大事だいじな金かねを落おとしたかどで、いやでも明日あしたは棒縛ぼうしばりだ。――そいつもよかろう。おめえはかげで笑わらっていねえ」

「兄あにさん」

「もう何なんにも頼たのまねえ。これから帰けえって縛しばられようよ」

千吉きちは、わざとやけに立上たちあがって窓辺まどべへつかつかと歩あゆみ寄よった。

突然とつぜん隣座敷となりざしきから、お岸きしのすすり泣なく声こえが、障子越しょうじごしに聞きこえて来きた。

文ふみ

一

「若旦那わかだんな、もし、油町あぶらちょうの若旦那わかだんな」

「おお、お前まえは千吉きちつぁん」

「そんなに急いそいで、どこへおいでなせえやす」

「お前まえのとこさ」

「何、あっしンとこでげすッて。――あっしンとこなんざ、若旦那わかだんなにおいでを願ねがうような、そんな気きの利きいた住居すまいじゃござんせん。火口箱ほくちばこみてえな、ちっぽけな棟割長屋むねわりながやなんで。……」

「小ちいさかろうが、大おおきかろうが、そんなことは考かんがえちゃいられないよ」

「何なんと仰おっしゃいます」

「あたしゃお前まえに頼たのんだ返事へんじを、聞きかせてもらいに、往ゆくところじゃないか」

「はッはッは。それでわざわざお運はこび下くださろうッてんでげすか。これぁどうも恐おそれいりやした。そのことなら、どうかもう御心配ごしんぱいは、御無用ごむようになすっておくんなさいまし」

「おお、そんなら千吉きちさん、おせんの返事へんじを。――」

「憚はばかりながら、いったんお引ひき受うけ申もうしやした正直しょうじき千吉きち、お約束やくそくを違たがえるようなこたァいたしやせん」

「済すまない。あたしはそうとは思おもっていたものの、これがやっぱり恋心こいごころか。ちっとも速はやく返事へんじが聞きき度たくて、帳場格子ちょうばこうしと二階かいの間あいだを、九十九度ども通かよった挙句あげく、とうとう辛抱しんぼうが出来できなくなったばっかりに、ここまで出向でむいて来きた始末しまつさ。そうと極きまったら、どうか直すぐに色いろよい返事へんじを聞きかせておくれ」

「ま、ま、待まっておくんなせえやし。そんなにお急せきンならねえでも、おせんの返事へんじは、直すぐさまお聞きかせ申もうしやすが、ここは道端みちばた、誰だれに見みられねえとも限かぎりやせん。筋すじの通とおったいい所ところで、ゆっくりお目めにかけようじゃござんせんか」

「そりゃもう、いずれおまんまでも食たべながら、ゆっくり見みせてもらおうが、まず文ふみの上書うわがきだけでも、ここでちょいと、のぞかせておくれでないか」

「御安心ごあんしんくださいまし。上書うわがきなんざ二の次つぎ三の次つぎ、中味なかみから封ふうじ目めまで、おせんの手てに相違そういはございません。あいつァ七八つの時分じぶんから、手習てならいッ子この仲間なかまでも、一といって二と下さがったことのねえ手筋自慢てすじじまん。あっしゃァ質屋しちやの質しちの字じと、万金丹まんきんたんの丹たんの字じだけしきゃ書かけやせんが、おせんは若旦那わかだんなのお名前なまえまで、ちゃァんと四角かくい字じで書かけようという、水茶屋女みずぢゃやおんなにゃ惜おしいくらいの立派りっぱな手書てがき。――この通とおり、あっしがふところに預あずかっておりやすから、どうか親船おやぶねに乗のった気きで、おいでなすっておくんなせえやし」

「安心あんしんはしているけれど、ちっとも速はやく見みたいのが人情にんじょうじゃないか。野暮やぼをいわずに、ちょいとでいいから、ここでお見みせよ」

「堪忍かんにんしておくんなさい。道みちッ端ぱたではお目めにかけねえようにと、こいつァ妹いもうとからの、堅かたい頼たのみでござんすので。……」

「はてまァ、何なんという野暮やぼだろうのう」

「どうか察さっしておやンなすって。おせんにして見みりゃ、自分じぶんから文ふみを書かいたな始はじめての、いわば初恋はつこいとでも申もうしやしょうか。はずかしい上うえにもはずかしいのが人情にんじょうでげしょう。道みちッ端ぱたで展ひろげたとこを、ひょっと誰だれかに見みられた日ひにゃァ、それこそ若旦那わかだんな、気きの弱よわいおせんは、どんなことになるか、知しれたもんじゃござんせん。野暮やぼは承知しょうちの上うえでござんす。どうか、ここンところをお察さっしなすって……」

谷中やなかから上野うえのへ抜ぬける、寛永寺かんえいじの土塀どべいに沿そった一筋道すじみち、光琳こうりんの絵えのような桜さくらの若葉わかばが、道みちに敷しかれたまん中なかに佇たたずんだ、若旦那わかだんな徳太郎とくたろうとおせんの兄あにの千吉きちとは、折おりからの夕陽ゆうひを浴あびて、色いろよい返事へんじを認したためたおせんの文ふみを、見みせろ見みせないのいさかいに、しばし心こころを乱みだしていたが、この上うえの争あらそいは無駄むだと察さっしたのであろう。やがて徳太郎とくたろうは細ほそい首くびをすくめた。

「あたしゃ気きが短みじかいから、どこへ行ゆくにしても、とても歩あるいちゃ行いかれない。千吉きちつぁん、直すぐに駕籠かごを呼よんでもらおうじゃないか」

「合点がってんでげす」

千吉きちは二ふたつ返事へんじで頷うなずいた。

二

徳太郎とくたろうと千吉きちとが、不忍池畔しのばずちはんの春草亭しゅんそうていに駕籠かごを停とめたのは、それから間まもない後あとだった。

徳太郎とくたろうは女中じょちゅうの案内あんないも待またず、駆かけ込こむように千吉きちの手てをとって、奥おくの座敷ざしきへ連つれ込こんだ。

「さ、千吉きちさん」

「へえ」

「早はやくお見みせ」

「何なにをでござんす」

「おや、何なにをはあるまい。おせんのふみじゃないか」

「おそうだ。これはすっかり忘わすれて居おりやした」

「お前まえは道端みちばたじゃ見みせられないというから、わざわざ駕籠かごを急いそがせて、ここまで来きたんだよ。さ大事だいじな文ふみを、少すこしでも速はやく見みせてもらいましょう」

「お見みせいたしやす」

「口くちばっかりでなく、速はやくお出だしッたら」

「出だしやす。――が、ちょいとお待まちなすっておくんなさい。その前まえに、あっしゃァ若旦那わかだんなに、ひとつお願ねがい申もうしてえことがござんすので。……」

「何なんだえ、あらたまって。――」

「実じつァその、おせんの奴やつから。……」

「なに、おせんから、あたしに頼たのみとの」

「へえ」

「そんならなぜ、もっと早はやくいわないのさ」

「申上もうしあげたいのは山々やまやまでござんすが、ちと厚あつかましい筋すじだもんでげすから、ついその、あっしの口くちからも、申上もうしあげにくかったような訳わけでげして」

「馬鹿ばかな。つまらない遠慮えんりょなんか、水臭みずくさいじゃないか。そんな遠慮えんりょはいらないから、いっとくれ。あたしでかなうことなら、どんな願ねがいでも、きっと聞きいてあげようから。……」

「そりゃどうも。おせんに聞きかしてやりましたら、どれ程ほど喜よろこぶか知しれやァしません。――ところで若旦那わかだんな」

「なにさ」

「そのお願ねがいと申もうしますのは」

「その頼たのみとは」

「お金かねを。――」

「何なんのことかと思おもったら、お金かねかい。憚はばかりながら、あたしァ江戸えどでも人様ひとさまに知しられた、橘屋たちばなやの徳太郎とくたろう、おせんの頼たのみとあれば、決けっしていやとはいわないから、かまわずにいって御覧ごらん。たとえどれ程ほどの大金たいきんでも、あれのためなら、首くびは横よこにゃ振ふらないつもりだよ」

「へえへえ、どうも恐おそれれいりやした。いやもう、おせん、おめえよく捕とったぞ。これ程ほどの鼠ねずみたァ、まさか思おもっちゃ。……」

「これ千吉きちつぁん、何なにをおいいだ。あたしのことを鼠ねずみとは。……」

「ど、どういたしやして、鼠ねずみなんぞた申もうしゃしません。若旦那わかだんなにはこれからも、鼠ぬずみのように、チウ義ぎをおつくし申もうせと、こう申もうしたのでございます」

「お前まえは口くちが上手じょうずだから。……」

「口くちはからきし下手へたの皮かわ、人様ひとさまの前まえへ出でたら、ろくにおしゃべりも出来できる男おとこじゃござんせんが、若旦那わかだんなだけは、どうやら赤あかの他人たにんとは思おもわれず、ついへらへらとお喋しゃべりもいたしやす。――ねえ若旦那わかだんな。どうかおせんに、二十五両りょうだけ、貸かしてやっておくんなせえやし」

「何なに、二十五両りょう。――」

「江戸えどで名代なだいの橘屋たちばなやの若旦那わかだんな。二十五両りょうは、ほんのお小遣こづかいじゃござんせんか」

千吉きちはそういいながら、ふところ深ふかくひそませた、おせんのふみを取とりだした。

ありがたく存ぞんじ候そうろう かしこ

せん  より

若旦那わかだんなさま

ふみのおもては、ただこれだけだった。

三

朝あさっぱらの柳湯やなぎゆは、町内ちょうないの若わかい者ものと、楊枝削ようじけずりの御家人ごけにんと道楽者どうらくものの朝帰あさがえりとが、威勢いせいのよしあしを取とりまぜて、柘榴口ざくろぐちの内うちと外そととにとぐろを巻まいたひと時ときの、辱はじも外聞がいぶんもない、手拭てぬぐい一本ぽんの裸絵巻はだかえまきを展ひろげていたが、こんな場合ばあい、誰だれの口くちからも同おなじように吐はかれるのは、何吉なにきちがどこの賭場とばで勝かったとか、どこそこのお何なにが、近頃ちかごろ誰だれにのぼせているとか、さもなければ芝居しばいの噂うわさ、吉原よしわらの出来事できごと、観音様かんのんさまの茶屋女ちゃやおんなの身みの上うえなど、おそらく口くちを開ひらけば、一様ようにおのれの物知ものしりを、少すこしも速はやく人ひとに聞きかせたいとの自慢じまんからであろう。玉たまのような汗あせを額ひたいにためながら、いずれもいい気持きもちでしゃべり続つづける面白おもしろさ。中なかには、顔かおさえ洗あらやもう用ようはねえと、流ながしのまん中なかに頑張がんばって、四斗樽とだるのような体からだを、あっちへ曲まげ、こっちへ伸のばして、隣近所となりきんじょへ泡あわを飛とばす暇ひまな隠居いんきょや、膏薬こうやくだらけの背中せなかを見みせて、弘法灸こうぼうきゅうの効能こうのうを、相手あいて構かまわず吹ふき散ちらす半病人はんびょうにんもある有様ありさま。湯屋ゆやは朝あさから寄合所よりあいしょのように賑にぎわいを見みせていた。

「長兄ちょうあにイ。聞きいたか」

「何なにを」

「何なにをじゃねえ、千吉きちがしこたま儲もうけたッて話はなしをよ」

「うんにゃ。聞きかねえよ」

「迂濶うかつだな」

「だっておめえ、知しらねえもなァ仕方しかたがねえや。――いってえ、あの怠なまけ者ものが、どこでそんなに儲もうけやがったたんだ」

「どこッたっておめえ、そいつが、てえそうないかさまなんだぜ」

「ふうん、奴やつにそんな器用きようなことが出来できるのかい」

「相手あいてがいいんだ」

「椋鳥むくどりか」

「ちゃきちゃきの江戸えどっ子こよ」

「はァてな、江戸えどっ子こが、奴やつのいかさまに引ひッかかるたァおかしいじゃねえか」

「いかさまッたって、おめえ、丁半ちょうはんじゃねえぜ」

「ほう、さいころじゃねえのかい」

「女おんなが餌えさだ」

「女おんな。――」

「相手あいてを釣つって儲もうけたのよ」

「そいつァ尚更なおさら初耳はつみみだ。――その相手あいてッてな、どこの誰だれよ」

「油町あぶらちょうの紙問屋かみどんや、橘屋たちばなやの若旦那わかだんなだ」

「ほう、そいつァおもしれえ」

「あれだ。おもしれえは気きの毒どくだぜ。千吉きちは妹いもうとのおせんを餌えさにして、若旦那わかだんなから、二十五両りょうという大金たいきんをせしめやがったんだ」

「なに二十五両りょうだって」

「どうだ。てえしたもんだろう」

「冗談じょうだんじゃねえ。二十五両りょうといやァ、小判こばんが二十五枚まいだぜ。こいつが二両りょうとか、二両りょう二分ぶとかいうンなら、まだしも話はなしの筋すじが通とおるが、二十五両りょうは飛とんでもねえ。あいつの首くびを引換ひきかえにしたって、借かりられる金かねじゃァねえぜ。冗談じょうだんも休やすみ休やすみいってくんねえ」

「ふん、知しらねえッてもなァおッかねえや。おいらァ現げんにたった今いま、この二つの眼めで、睨にらんで来きたばかりなんだ。山吹色やまぶきいろで二十五枚まい、滅多めったに見みられるかさじゃァねえて」

「ふふふふ、金きんの字じ。その話はなしをもうちっと委くわしく聞きかせねえか」

そういいながら、柘榴口ざくろぐちから、にゅッと首くびを出だしたのは、絵師えしの春重はるしげだった。

「春重はるしげさん、お前まえさんいたのかい」

「いたから顔かおを出だしたんだがの。大分だいぶ話はなしが面白おもしろそうじゃねえか」

春重はるしげは、もう一度どニヤリと笑わらった。

四

「ふふふふ、金きんの字じ、なんで急きゅうに唖おしのように黙だまり込こんじゃったんだ。話はなして聞きかせねえな。どうせおめえの腹はらが痛いたむ訳わけでもあるめえしよ」

柘榴口ざくろぐちから流ながしへ出でて来きた春重はるしげの様子ようすには、いつも通とおりの、妙みょうな粘ねばりッ気けが絡からみついていて、傘屋かさやの金蔵きんぞうの心持こころもちを、ぞッとする程ほど暗くらくさせずにはおかなかった。

「てえした面白おもしれえ話はなしでもねえからよ」

「なに面白おもしろくねえことがあるもんか。二十五両りょうといやァ、おいらのような貧乏人びんぼうにんは、まごまごすると、生涯しょうがいお目めにゃぶら下さがれない大金たいきんだぜ。そいつをいかさまだかさかさまだかにつるさげて、物ものにしたと聞きいちゃァ、志道軒しどうけんの講釈こうしゃくじゃねえが、嘘うそにも先さきを聞きかねえじゃいられねえからの。――相手あいてが橘屋たちばなやの若旦那わかだんなだったてえな、ほんまかい」

「おめえさん、それを聞きいてどうしようッてんだ」

顔かおをしかめて、春重はるしげを見守みまもったのは、金蔵きんぞうに兄あにイと呼よばれた左官さかんの長吉ちょうきちであった。

「どうもしやァしねえがの。そいつがほんまなら、おいらもちっとばかり、若旦那わかだんなに借かりてえと思おもってよ」

「若旦那わかだんなに借かりるッて」

「まずのう。だが安心あんしんしなよ。おいらの借りようッてな、二十五両りょうの三十両りょうのという、大だいそれた訳わけのもんじゃねえ。ほんの二分ぶか一両りょうが関せきの山やまだ。それも種たねや仕しかけで取とるようなけちなこたァしやァしねえ。真証しんしょう間違まちがいなしの、立派りっぱな品物しなものを持もってって、若旦那わかだんなの喜よろこぶ顔かおを見みながら、拝借はいしゃくに及およぼうッてんだ」

「そいつァ駄目だめだ」

「なんだって」

「駄目だめッてことよ。橘屋たちばなやの若旦那わかだんなは、たとえお大名だいみょうから拝領はいりょうの鎧兜よろいかぶとを持もってッたって、金かねァ貸しちゃァくれめえよ。――あの人ひとの欲ほしい物ものァ、日本中にほんじゅうにたったひとつ、笠森かさもりおせんの情なさけより外ほかにゃ、ありゃァしねッてこった」

「だから、そのおせんの、身みから分わけた物ものを、おいらァ買かってもらいに行いこうッてえのよ」

「身みから分わけた物もの。――」

「そうだ。他ほかの者ものが望のぞんだら、百両りょうでも譲ゆずれる品しなじゃねえんだが、相手あいてがおせんに首くびッたけの若旦那わかだんなだから、まず一両りょうがとこで辛抱しんぼうしてやろうと思おもってるんだ」

「春重はるしげさん。またお前まえ、つまらねえ細工物さいくものでもこしらえたんだな」

「冗談じょうだんじゃねえ、こしらえたもンなんぞた、天てんから訳わけが違うンだぜ」

「訳わけが違ちがうッたって、そんな物ものがざらにあろうはずもなかろうじゃねえか」

「ところが、あるんだから面白おもしれえや」

「そいつァいってえ、なんだってんだい」

「爪つめよ」

「え」

「爪つめだってことよ」

「爪つめ」

「その通とおりだ。おせんの身みについてた、嘘偽うそいつわりのねえ生爪なまづめなんだ」

「馬ば、馬鹿ばかにしちゃァいけねえ。いくらおせんの物ものだからッて、爪つめなんざ、何なんの役やくにもたちゃァしねえや。かつぐのもいい加減かげんにしてくんねえ」

「ふん、物ものの値打ねうちのわからねえ奴やつにゃかなわねえの。女おんなの身体からだについてるもんで、年ねんが年中ねんじゅう、休やすみなしに伸のびてるもなァ、髪かみの毛けと爪つめだけだぜ。そのうちでも爪つめの方ほうは、三日みっか見みなけりゃ目立めだって伸のびる代物しろものだ。――指ゆびの数かずで三百本ぽん、糠袋ぬかぶくろに入いれてざっと半分はんぶんよ。この混まじりッけのねえおせんの爪つめが、たった小判こばん一枚まいだとなりゃ、若旦那わかだんなが猫ねこのように飛とびつくなァ、磨とぎたての鏡かがみでおのが面つらを見みるより、はっきりしてるぜ」

春重はるしげのまわりには、いつか、ぐるりと裸はだかの人垣ひとがきが出来できていた。

五

「千の字じ。おめえ、いい腕うでンなったの」

「ふふふ」

「笑わらいごっちゃねえぜ。二十五両りょうたァ、大束おおたばに儲もうけたじゃねえか」

「どこで、そいつを聞きいた」

「壁かべに耳みみありよ。さっき、通とおりがかりに飛とび込こんだ神田かんだの湯屋ゆやで、傘屋かさやの金蔵きんぞうとかいう奴やつが、てめえのことのように、自慢じまんらしく、みんなに話はなして聞きかせてたんだ」

「あいつ、もうそんな余計よけいなことを喋しゃべりゃがったかい」

「喋しゃべったの、喋しゃべらねえの段だんじゃねえや。紙屋かみやの若旦那わかだんなをまるめ込こんで。――」

下総武蔵しもふさむさしの国境くにざかいだという、両国橋りょうごくばしのまん中なかで、ぼんやり橋桁はしげたにもたれたまま、薄汚うすぎたない婆ばあさんが一匹ぴき五文もんで売うっている、放はなし亀かめの首くびの動うごきを見詰みつめていた千吉きちは、通とおりがかりの細川ほそかわの厩中間うまやちゅうげん竹たけ五郎ろうに、ぽんと背中せなかをたたかれて、立たて続つづけに聞きかされたのが、柳湯やなぎゆで、金蔵きんぞうがしゃべったという、橘屋たちばなやの一件けんであった。

が、もう一度ど竹たけ五郎ろうが、鼻はなの頭あたまを引ひッこすって、ニヤリと笑わらったその刹那せつな、向むこうから来きかかった、八丁堀ちょうぼりの与力よりき井上藤吉いのうえとうきちの用ようを聞きいている鬼おに七を認みとめた千吉きちは、素速すばやく相手あいてを眼めで制せいした。

「叱しッ。いけねえ。行いっちめえねえ」

「合点がってんだ」

するりと抜ぬけるようにして、竹たけ五郎ろうが行いってしまうと、はやくも鬼おに七は、千吉きちの眼めの前まえに迫せまっていた。

「千吉きち。おめえ、こんなとこで、何なにをうろうろしてるんだ」

「へえ。きょうは親父おやじの、墓詣はかめえりにめえりやした。その帰けえりがけでござんして。……」

「墓詣はかまいり」

「へえ」

「いつッから、そんな心こころがけになったんだ」

「どうか御勘弁ごかんべんを」

「勘弁かんべんはいいが、――丁度ちょうどいい所ところでおめえに遭あった。ちっとばかり訊ききてえことがあるから、つきあってくんねえ」

「へえ」

「びくびくするこたァありゃしねえ。こいつあこっちから頼たのむんだから、安心あんしんしてついて来きねえ」

鬼おに七と呼ばれてはいるが、名前なまえとはまったく違ちがった、すっきりとした男前おとこまえの、結ゆいたての髷まげを川風かわかぜに吹ふかせた格好かっこうは、如何いかにも颯爽さっそうとしていた。

折柄おりからの上潮あげしおに、漫々まんまんたる秋あきの水みずをたたえた隅田川すみだがわは、眼めのゆく限かぎり、遠とおく筑波山つくばやまの麓ふもとまで続つづくかと思おもわれるまでに澄渡すみわたって、綾瀬あやせから千住じゅを指さして遡さかのぼる真帆方帆まほかたほが、黙々もくもくと千鳥ちどりのように川幅かわはばを縫ぬっていた。

その絵巻えまきを展ひろげた川筋かわすじの景色けしきを、見みるともなく横目よこめで見みながら、千吉きちと鬼おに七は肩かたをならべて、静しずかに橋はしの上うえを浅草御門あさくさごもんの方ほうへと歩あゆみを運はこんだ。

「千吉きち、おめえ、おせんのところへは出でかけたろうの」

「どういたしやして。妹いもうとにゃ、三年ねんこの方かた、てんで会あやァいたしません」

「ふふふ。つまらねえ隠かくし立だては止やめねえか。いまもいった通とおり、おいらァおめえを、洗あらい立たてるッてんじゃねえ。こっちの用ようで訊ききてえことがあるんだ。悪わるいようにゃしねえから、はっきり聞きかしてくんねえ」

「どんな御用ごようで。……」

「おせんのとこへ、菊之丞はまむらやが毎晩まいばん通かようッて噂うわさを聞きき込こんだんだが、そいつをおめえは知しってるだろうの」

こう訊ききながら、鬼おに七の眼めは異様いように光ひかった。

六

鬼おに七の問といは、まったく千吉きちには思おもいがけないことであった。――子供こどもの時分じぶんから好すきでこそあれ、嫌きらいではない菊之丞きくのじょうを、おせんがどれ程ほど思おもい詰つめているかは、いわずと知しれているものの、今いまでは江戸えど一番ばんの女形おやまといわれている菊之丞きくのじょうが、自分じぶんからおせんの許もとへ、それも毎晩まいばん通かよって来きようなぞとは、どこから出でた噂うわさであろう。岡焼半分おかやきはんぶんの悪刷わるずりにしても、あんまり話はなしが食くい違ちがい過すぎると、千吉きちは思おもわず鬼おに七の顔かおを見返みかえした。

「何なんで、そんな不審ふしんそうな顔かおをするんだ」

「何なんでと仰おっしゃいますが、あんまり親方おやかたのお聞ききなさることが、解げせねえもんでござんすから。……」

「おいらの訊きくことが解げせねえッて。――何なにが解げせねえんだ」

「浜村屋はまむらやは、おせんのところへなんざ、命いのちを懸かけて頼たのんだって、通かよっちゃくれませんや」

「おめえ、まだ隠かくしてるな」

「どういたしやして、嘘うそも隠かくしもありゃァしません。みんなほんまのことを申もうし上あげて居おりやすんで。……」

「千吉きち」

「へ」

「おめえ、二三日前にちまえに行いった時とき、おせんが誰だれと話はなしをしてえたか、そいつをいって見みねえ」

「話はなしでげすって」

「そうだ。おせん一人ひとりじゃなかったろう。たしか相手あいてがいたはずだ」

「お袋ふくろが、隣座敷となりざしきにいた外ほかにゃ、これぞといって、人ひとらしい者ものァいやァいたしません」

「ふふふ、お七はいなかったか」

「お七ッ」

「どうだ、お七の衣装いしょうを着きた浜村屋はまむらやが、ちゃァんと一人ひとりいたはずだ。おめえはその眼めで見みたじゃねえか」

「ありゃァ親方おやかた。――」

「あれもこれもありゃァしねえ。おいらはそいつを訊きいてるんだ」

「人形にんぎょうじゃござんせんか」

「とぼけちゃいけねえ。人間にんげんを人形にんぎょうと見違みちがえる程ほど、鬼おに七ァまだ耄碌もうろくしちゃァいねえよ。ありゃァ菊之丞きくのじょうに違ちげえあるめえ」

「確たしかにそうたァ申上もうしあげられねえんで。……」

「おめえ、眼めが上あがったな。判わかった。――もういいから帰けえンな」

「有難ありがとうござんすが、――親方おやかた、あれがもしか浜村屋はまむらやだったら、どうなせえやすんで。……」

「どうもしやァしねえ」

「どうもしねンなら、何なにも。――」

「聞ききてえか」

「どうか、お聞きかせなすっておくんなせえやし」

「浜村屋はまむらやは、役者やくしゃを止やめざァならねえんだ」

「何なんでげすッて」

「口くちが裂さけてもいうじゃァねえぞ。――南御町奉行みなみおまちぶぎょうの、信濃守様しなののかみさまの妹御いもうとごのお蓮様れんさまは、浜村屋はまむらやの日本にほん一の御贔屓ごひいきなんだ」

「ではあの、壱岐様いきさまからのお出戻でもどりの。――」

「叱しっ。余計よけいなこたァいっちゃならねえ」

「へえ」

「さ、帰けえンねえ」

「有難ありがとうござんす」

千吉きちは、ふところの小判こばんを気きにしながら、ほっとして頭あたまを下さげた。

襟えりに当あたる秋あきの陽ひは狐色きつねいろに輝かがやいていた。

七

無理むりやりに、手習てならいッ子こに筆ふでを握にぎらせるようにして、たった二行ぎょうの文ふみではあったが、いや応おうなしに書かかされた、ありがたく存ぞんじ候そうろうかしこの十一文字もじが気きになるままに、一夜やをまんじりともしなかったおせんは、茶ちゃの味あじもいつものようにさわやかでなく、まだ小半時こはんときも早はやい、明あけたばかりの日差ひざしの中なかを駕籠かごに揺ゆられながら、白壁町しろかべちょうの春信はるのぶの許もとを訪おとずれたのであった。

弟子でしの藤吉とうきちから、おせんが来きたとの知しらせを聞きいた春信はるのぶは、起おき出でたばかりで顔かおも洗あらっていなかったが、とりあえず画室がしつへ通とおして、磁器じきの肌はだのように澄すんだおせんの顔かおを、じっと見詰みつめた。

「大たいそう早はやいの」

「はい。少すこしばかり思おもい余あまったことがござんして、お智恵ちえを拝借はいしゃくに伺うかがいました」

「智恵ちえを貸かせとな。はッはッは。これは面白おもしろい。智恵ちえはわたしよりお前まえの方ほうが多分たぶんに持合もちあわせているはずだがの」

「まァお師匠ししょうさん」

「いや、それァ冗談じょうだんだが、いったいどんなことが持上もちあがったといいなさるんだ」

「あのう、いつもお話はなしいたします兄あにが、ゆうべひょっこり、帰かえって来きたのでござんす」

「なに、兄にいさんが帰かえって来きたと」

「はい」

「よく聞きくお前まえの話はなしでは、千吉きちとやらいう兄にいさんは、まる三年ねんも行方ゆくえ知しれずになっていたとか。――それがまた、どうして急きゅうに。――」

「面目次第めんぼくしだいもござんせぬが、兄にいさんは、お宝たからが欲ほしいばっかりに、帰かえって来きたのだと、自分じぶんの口くちからいってでござんす」

「金かねが欲ほしいとの。したがまさか、お前まえを分限者ぶげんじゃだとは思おもうまいがの」

「兄にいさんは、あたしを囮おとりにして、よその若旦那わかだんなから、お金かねをお借かり申もうしたのでござんす」

「ほう、何なんとして借かりた」

「いやがるあたしに文ふみを書かかせ、その文ふみを、二十五両りょうに、買かっておもらい申もうすのだと、引ひッたくるようにして、どこぞへ消きえ失うせましたが、そのお人ひとは誰だれあろう、通油町とおりあぶらちょうの、橘屋たちばなやの徳太郎とくたろうさんという、虫むしずが走はしるくらい、好すかないお方かたでござんす」

「そんなら千吉きちさんは、橘屋たちばなやの徳とくさんから、その金かねを借かりて。――」

「はい。今頃いまごろはおおかた、どこぞお大名屋敷だいみょうやしきのお厩うまやで、好すきな勝負しょうぶをしてでござんしょうが、文ふみを御覧ごらんなすった若旦那わかだんなが、まッことあたしからのお願ねがいとお思おもいなされて、大枚たいまいのお宝たからをお貸かし下くださいましたら、これから先さきあたしゃ若旦那わかだんなから、どのような難題なんだいをいわれても、返かえす言葉ことばがござんせぬ。――お師匠ししょうさん。何なんとしたらよいものでござんしょう」

まったく途方とほうに暮くれたのであろう。春信はるのぶの顔かおを見みあげたおせんの瞼まぶたは、露つゆを含ふくんだ花弁かべんのように潤うるんで見みえた。

「さァてのう」

腕うでをこまねいて、あごを引ひいた春信はるのぶは、暫しばし己おのが膝ひざの上うえを見詰みつめていたが、やがて徐おもむろに首くびを振ふった。

「徳とくさんも、人ひとの心こころの読よめない程ほど馬鹿ばかでもなかろう。どのような文句もんくを書かいた文ふみか知しらないが、その文ふみ一本ぽんで、まさか二十五両りょうの大金たいきんは出だすまいよ」

「それでも兄にいさんは、ただの二字じでも三字じでも、あたしの書かいた文ふみさえ持もって行いけば、お金かねは右みぎから左ひだりとのことでござんした」

「そりゃ、いつのことだの」

「ゆうべでござんす」

おせんがもう一度ど、顔かおを上あげた時ときであった。突然とつぜん障子しょうじの外そとから、藤吉とうきちの声こえが低ひくく聞きこえた。

「おせんさん、大変たいへんなことができましたぜ。浜村屋はまむらやの太夫たゆうが、急病きゅうびょうだってこった」

おせんは「はッ」と胸むねが詰つまって、直すぐには口くちが听きけなかった。

夢ゆめ

一

子ね、丑うし、寅とら、卯う、辰たつ、巳み、――と、客きゃくのない上あがりかまちに腰こしをかけて、独ひとり十二支しを順じゅんに指折ゆびおり数かぞえていた、仮名床かなどこの亭主ていしゅ伝吉でんきちは、いきなり、息いきがつまるくらい荒あらッぽく、拳固げんこで背中せなかをどやしつけられた。

「痛いてッ。――だ、だれだ」

「だれだじゃねえや、てえへんなことがおっ始ぱじまったんだ。子丑寅ねうしとらもなんにもあったもんじゃねえ。あしたッから、うちの小屋こやは開あかねえかも知しれねえぜ」

火事場かじばの纏持まといもちのように、息いきせき切きって駆かけ込こんで来きたのは、同おなじ町内ちょうないに住すむ市村座いちむらざの木戸番きどばん長兵衛ちょうべえであった。

伝吉でんきちはぎょっとして、もう一度ど長兵衛ちょうべえの顔かおを見直みなおした。

「な、なにがあったんだ」

「なにがも、かにがもあるもんじゃねえ、まかり間違まちがや、てえした騒さわぎになろうッてんだ。おめえンとこだって、芝居しばいのこぼれを拾ひろってる家業かぎょうなら、万更まんざらかかり合あいのねえこともなかろう。こけが秋刀魚さんまの勘定かんじょうでもしてやしめえし、指ゆびなんぞ折おってる時ときじゃありゃァしねえぜ」

「いってえ、どうしたッてんだ、長ちょうさん」

「おめえ、まだ判わからねえのか」

「聞きかねえことにゃ判わからねえや」

「なんて血ちのめぐりが悪わるく出来できてるんだ。――浜村屋はまむらやの太夫たゆうが、舞台ぶたいで踊おどってたまま倒たおれちゃったんだ」

「何なんだッてそいつァおめえ、本当ほんとうかい」

「おれにゃ、嘘うそと坊主ぼうずの頭あたまァいえねえよ。――仮かりにもおんなじ芝居しばいの者ものが、こんなことを、ありもしねえのにいって見みねえ。それこそ簀巻すまきにして、隅田川すみだがわのまん中なかへおッ放ぽり込こまれらァな」

「長ちょうさん」

「ええびっくりするじゃねえか。急きゅうにそんな大おおきな声こえなんざ、出ださねえでくんねえ」

「何なにをいってるんだ。これがおめえ、こそこそ話ばなしにしてられるかい。おいらァ誰だれが好きだといって、浜村屋はまむらやの太夫たゆうくれえ、好すきな役者衆やくしゃしゅうはねえんだよ。芸げいがよくって愛嬌あいきょうがあって、おまけに自慢気じまんげなんざ薬くすりにしたくもねえッてお人ひとだ。――どこが悪わるくッて、どう倒たおれたんだか、さ、そこをおいらに、委くわしく話はなして聞きかしてくんねえ」

どやしつけられた、背中せなかの痛いたさもけろりと忘わすれて、伝吉でんきちは、元結もとゆいが輪わから抜ぬけて足元あしもとへ散ちらばったのさえ気付きづかずに夢中むちゅうで長兵衛ちょうべえの方ほうへ膝ひざをすり寄よせた。

「丁度ちょうど二番目ばんめの、所作事しょさごとの幕まくに近ちけえ時分じぶんだと思おもいねえ。知しっての通とおりこの狂言きょうげんは、三五郎ろうさんの頼朝よりともに、羽左衛門うざえもんさんの梶原かじわら、それに太夫たゆうは鷺娘さぎむすめで出でるという、豊前ぶぜんさんの浄瑠璃じょうるりとしっくり合あった、今度こんどの芝居しばいの呼よび物ものだろうじゃねえか。はねに近ちかくなったって、お客きゃくは唯ただの一人ひとりだって、立たとうなんて料簡りょうけんの者ものァねえやな。舞台ぶたいははずむ、お客きゃくはそろって一寸すんでも先さきへ首くびを出だそうとする。いわば紙かみ一重えの隙すきもねえッてとこだった。どうしたはずみか、太夫たゆうの踊おどってた足あしが、躓つまずいたようによろよろっとしたかと思おもうと、あッという間まもなく、舞台ぶたいへまともに突つッ俯ぷしちまったんだ。――客席きゃくせきからは浜村屋はまむらやッという声こえが、石いしを投なげるように聞きこえて来くるかと思おもうと、御贔屓ごひいきの泣なく声こえ、喚わめく声こえ、そいつが忽たちまち渦巻うずまきになって、わッわッといってるうちに、道具方どうぐかたが気きを利きかして幕まくを引ひいたんだが、そりゃおめえ、ここでおれが話はなしをしてるようなもんじゃァねえ、芝居中しばいじゅうがひっくり返かえるような大騒おおさわぎだ。――そのうちに頭取とうどりが駆かけ着つける、弟子達でしたちが集あつまるで、倒たおれた太夫たゆうを、鷺娘さぎむすめの衣装いしょうのまま楽屋がくやへかつぎ込こんじまったが、まだおめえ、宗庵先生そうあんせんせいのお許ゆるしが出でねえから、太夫たゆうは楽屋がくやに寝ねかしたまま、家うちへも帰けえれねえんだ」

「よし、お花はな、おいらに羽織はおりを出だしてくんねえ」

伝吉でんきちは突然とつぜんこういって立上たちあがった。

二

「お前まえさん、どこへ行ゆくんだよ。真まッ昼間ぴるまッからお見世みせを空あけて出でて行いったんじゃ、お客様きゃくさまに申訳もうしわけがないじゃないか。太夫たゆうさんとこへお見舞みまいに行ゆくなら、日ひが暮くれてからにしとくれよ。――ようッてば」

下剃したぞり一人ひとりをおいて出でられたのでは、家業かぎょうに障さわると思おもったのであろう。一張羅ちょうらの羽織はおりを、渋々しぶしぶ箪笥たんすから出だして来きたお花はなは、亭主ていしゅの伝吉でんきちの袖そでをおさえて、無理むりにも引止ひきとめようと顔かおを窺のぞき込こんだ。

が、伝吉でんきちは、いきなり吐はきだすようにけんのみを食くわせた。

「馬鹿野郎ばかやろう。何なにをいってやがるんだ。亭主ていしゅのすることに、女おんななんぞが口くちを出だすこたァねえから黙だまって引ひッ込こんでろ。外ほかのことならともかく、太夫たゆうが急病きゅうびょうだッてのを、そのままにしといたんじゃ、世間せけんの奴等やつらになんていわれると思おもうんだ。仮名床かなどこの伝吉でんきちの奴やつァ、ふだん浜村屋はまむらやが好すきだの蜂はちの頭あたまだのと、口幅くちはばッてえことをいってやがるくせに、なんてざまなんだ。手間てまが惜おしさに見舞みまいにも行ゆかねえしみッたれ野郎やろうだ、とそれこそ口くちをそろえて悪わるくいわれるなァ、加賀様かがさまの門もんよりもよく判わかってるぜ。――つまらねえ理屈りくつァいわねえで、速はやく羽織はおりを着きせねえかい。こうなったり一刻こくだって、待まてしばしはねえんだ」

お花はなの手てから羽織はおりを引ひッたくった伝吉でんきちは、背筋せすじが二寸すんも曲まがったなりに引ひッかけると、もう一度どお花はなの手てを振ふりもぎって、喧嘩犬けんかいぬのように、夢中むちゅうで見世みせを飛とび出だした。

「待まちねえ、伝でんさん」

長兵衛ちょうべえは背後うしろから声こえをかけた。

「何なんの用ようだ」

「用ようじゃァねえが、おかみさんもああいうンだから、晩ばんにしたらどうだ。どうせいま行いったって、会あえるもんでもねえンだから。――」

「ふん、おめえまで、余計よけいなことはおいてくんねえ。おいらの足あしでおいらが歩あるいてくんだ。どこへ行いこうが勝手かってじゃねえか」

「ほう、大おおまかに出でやァがったな。話はなしをしたなァおれなんだぜ。行ゆくんなら、せめておれの髯ひげだけでもあたッてッてくんねえ」

「髯ひげは帰けえって来きてからだ」

「帰かえって来きてからじゃ、間まに合あわねえよ」

「間まに合あわなかったら、どこいでも行いって、やってもらって来くるがいいやな。――ええもう面倒臭めんどうくせえ、四の五のいってるうちに、日ひが暮くれちまわァ」

前つぼの固かたい草履ぞうりの先さきで砂すなを蹴けって、一目散もくさんに駆かけ出だした伝吉でんきちは、提灯屋ちょうちんやの角かどまで来くると、ふと立停たちどまって小首こくびを傾かしげた。

「待まてよ。こいつァ市村座いちむらざへ行ゆくより先さきに、もっと大事だいじなところがあるぜ。――そうだ。まだおせんちゃんが知しらねえかもしれねえ。こんな時ときに人情にんじょうを見みせてやるのが、江戸えどッ子この腹はらの見みせどこだ。よし、ひとつ駕籠かごをはずんで、谷中やなかまで突つッ走ぱしってやろう」

大おおきく頷うなずいた伝吉でんきちは、折おりから通とおり合あわせた辻駕籠つじかごを呼よび止とめて、笠森稲荷かさもりいなりの境内けいだいまでだと、酒手さかてをはずんで乗のり込こんだ。

「急いそいでくんねえよ」

「ようがす」

「急病人きゅうびょうにんの知しらせに行ゆくんだからの」

「合点がってんだ」

返事へんじは如何いかにも調子ちょうしがよかったが、肝腎かんじんの駕籠かごは、一向こう突つッ走ぱしってはくれなかった。

「ちぇッ。吉原よしわらだといやァ、豪勢ごうせい飛とびゃァがるくせに、谷中やなかの病人びょうにんの知しらせだと聞きいて、馬鹿ばかにしてやがるんだろう。伝吉でんきちァただの床屋とこやじゃねえんだぜ。当時とうじ江戸えどで名高なだけえ笠森かさもりおせんの、襟えりを剃あたるなァおいらより外ほかにゃ、広ひろい江戸中えどじゅうに二人ふたりたねえんだ」

伝吉でんきちが駕籠かごの中なかで鼻はなの頭あたまを引ひッこすってのひとり啖呵たんかも、駕籠屋かごやには少すこしの効きき目めもないらしく、駕籠かごの歩あゆみは、依然いぜんとして緩ゆるやかだった。

三

床屋とこやの伝吉でんきちが、笠森かさもりの境内けいだいへ着ついたその時分じぶん、春信はるのぶの住居すまいで、菊之丞きくのじょうの急病きゅうびょうを聞きいたおせんは無我夢中むがむちゅうでおのが家いえの敷居しきいを跨またいでいた。

「お母っかさん」

「おやおまえ、どうしたというの、何なにかお見世みせにあったのかい」

今いまごろ帰かえって来こようとは、夢ゆめにも考かんがえていなかったお岸きしは、慌あわただしく駆かけ込こんで来きたおせんの姿すがたを見みると、まず、怪我けがでもしたのではないかと、穴あなのあく程ほどじッと見詰みつめながら、静しずかに肩かたへ手てをかけたが、いつもと様子ようすの違ちがったおせんは、母ははの手てを振ふり払はらうようにして、そのまま畳たたみざわりも荒あらく、おのが居間いまへ駆かけ込こんで行いった。

「どうおしだよ、おせん」

「お母っかさん、あたしゃ、どうしよう」

「まァおまえ。……」

「吉きちちゃんが、――あの菊之丞きくのじょうさんが、急病きゅうびょうとの事ことでござんす」

「なんとえ。太夫たゆうさんが急病きゅうびょうとえ。――」

「あい。――あたしゃもう、生いきてる空そらがござんせぬ」

「何なにをおいいだえ。そんな気きの弱よわいことでどうするものか。人ひとの口くちは、どうにでもいえるもの。急病きゅうびょうといったところが、どこまで本当ほんとうのことかわかったものではあるまいし。……」

「いえいえ、嘘うそでも夢ゆめでもござんせぬ。あたしゃたしかに、この耳みみで聞きいて来きました。これから直すぐに市村座いちむらざの楽屋がくやへお見舞みまいに行いって来きとうござんす。お母っかさん、そのお七の衣装いしょうを脱ぬがせておくんなさいまし」

「えッ、これをおまえ」

「吉きちちゃんが、去年きょねんの芝居しばいが済すんだ時とき、黙だまって届とどけておくんなすったお七の衣装いしょう、あたしに着きろとの謎なぞでござんしょう」

「それでもこれは。――」

「お母っかさん」

おせんは、部屋へやの隅すみに立たてかけてある人形にんぎょうの傍そばへ、自分じぶんから歩あゆみ寄よると、いきなり帯おびに手てをかけて、まるで芝居しばいの衣装着いしょうつけがするように、如何いかにも無造作むぞうさに衣装いしょうを脱ぬがせ始はじめた。

「お止よし」

「いいえ、もう何なんにもいわないでおくんなさい。あたしゃお七とおんなじ心こころで、太夫たゆうに会あいに行ゆきとうござんす」

ばらりと解といたお七の帯おびには、夜毎よごとに焚たきこめた伽羅きゃらの香かおりが悲かなしく籠こもって、静しずかに部屋へやの中なかを流ながれそめた。

「ああ。――」

おせんはその帯おびを、ずッと胸むねに抱だきしめた。

「おせんや」

お岸きしは優やさし眼めをふせた。

「あい」

「おまえ、一人ひとりで行いく気きかえ」

「あい」

衣装いしょうを脱ぬがせて、襦袢じゅばんを脱ぬがせて、屏風びょうぶのかげへ這入はいったおせんは、素速すばやくおのが着物きものと着換きかえた。と、この時とき格子戸こうしどの外そとから降ふって湧わいたように、男おとこの声こえが大おおきく聞きこえた。

「おせんさん、仮名床かなどこの伝吉でんきちでござんす。浜村屋はまむらやの太夫たゆうさんが、急病きゅうびょうと聞きいて、何なにより先さきにお知しらせしてえと、駕籠かごを飛とばしてやってめえりやした。笠森様かさもりさまにおいでがねえんでこっちへ廻まわって来きやした始末しまつ。ちっとも速はやく、葺屋町ふきやちょうへ行いっとくンなせえやし」

「親方おやかた、その駕籠かごを、待またせといておくんなさい」

「合点がってんでげす」

おせんの声こえは、いつになく甲高かんだかかった。

四

人目ひとめを避さけるために、わざと蓙巻ござまきを深ふかく垂たれた医者駕籠いしゃかごに乗のせて、男衆おとこしゅうと弟子でしの二人ふたりだけが付添つきそったまま、菊之丞きくのじょうの不随ふずいの体からだは、その日ひの午近ひるちかくに、石町こくちょうの住居すまいに運はこばれて行いった。

が、たださえ人気にんきの頂点ちょうてんにある菊之丞きくのじょうが、舞台ぶたいで倒たおれたとの噂うわさは、忽たちまち人ひとから人ひとへ伝つたえられて、今いまは江戸えどの隅々すみずみまで、知しらぬはこけの骨頂こっちょうとさえいわれるまでになっていた。他目はためからは、どう見みても医者いしゃの見舞みまいとしか想おもわれなかった駕籠かごの周囲まわりは、いつの間まにやら五人にん十人にんの男女だんじょで、百万遍まんべんのように取囲とりかこんで、追おえば追おう程ほど、その数かずは増まして来くるばかりであった。

「ちょいとお前まえさん、何なんだってあんなお医者いしゃの駕籠かごに、くッついて歩あるいているのさ」

「なんだ神田かんだの、明神様みょうじんさまの石いしの鳥居とりいじゃないが、お前まえさんもきがなさ過すぎるよ。ありゃァただのお医者様おいしゃさまの駕籠かごじゃないよ」

「だってお辰たっつぁん、どう見みたって。……」

「叱しッ、静しずかにおしなね。あン中なかにゃ、浜村屋はまむらやの太夫たゆうさんが乗のってるんだよ」

「浜村屋はまむらやの太夫たゆうさん。――」

「そうさ。きのう舞台ぶたいで倒たおれたまま、今いまが今いままで、楽屋がくやで寝ねてえたんじゃないか。それをお前まえさん、どうでも家うちへ帰かえりたいと駄々だだをこねて、とうとうあんな塩梅式あんばいしきに、お医者いしゃと見みせて帰かえる途中とちゅうだッてことさ」

「おやまァ、そんならそこを退どいとくれよ」

「なぜ」

「あたしゃ駕籠かごの傍そばへ行いって、せめて太夫たゆうさんに、一言ことでもお見舞みまいがいいたいンだから。……」

「何なにをいうのさ。太夫たゆうは大病人だいびょうにんなんだよ。ちっとだッて騒さわいだりしちゃァ、体からだに障さわらァね。一緒しょについて行ゆくなァいいが、こッから先さきへは出でちゃならねえよ」

「いいから退どいとくれッたら」

「おや痛いたい、抓つねらなくッてもいいじゃないか」

「退どかないからさ」

「おや、また抓つねったね」

髪結かみゆいのお辰たつと、豆腐屋とうふやの娘むすめのお亀かめとが、いいのいけないのと争あらそっているうちに、駕籠かごは更さらに多おおくの人数にんずに取巻とりまかれながら、芳町通よしちょうどおりを左ひだりへ、おやじ橋ばしを渡わたって、牛うしの歩あゆみよりもゆるやかに進すすんでいた。

菊之丞きくのじょうの駕籠かごを一町ちょうばかり隔へだてて、あたかも葬式そうしきでも送おくるように悵然ちょうぜんと首くびを垂たれたまま、一足毎あしごとに重おもい歩あゆみを続つづけていたのは、市村座いちむらざの座元ざもと羽左衛門うざえもんをはじめ、坂東ばんどう彦ひこ三郎ろう、尾上おのえ菊きく五郎ろう、嵐あらし三五郎ろう、それに元服げんぷくしたばかりの尾上松助おのえまつすけなどの一行こうであった。

いずれも編笠あみがさで深ふかく顔かおを隠かくしたまま、眼めをしばたたくのみで、互たがいに一言ごんも発はっしなかったが、急きゅうに何なにか思おもいだしたのであろう。羽左衛門うざえもんは、寂さびしく眉まゆをひそめた。

「松助まつすけさん」

「はい」

「お前まえさんは、折角せっかくだが、ここから帰かえる方ほうがいいようだの」

「なぜでございます」

「不吉ふきつなことをいうようだが、浜村屋はまむらやさんはひょっとすると、あのままいけなくなるかも知しれないからの」

「ええ滅相めっそうな。左様さようなことがおますかいな」

そういって眼めをみはったのは嵐あらし三五郎ろうであった。

「いや、わたしとて、太夫たゆうに元もとのようになってもらいたいのは山々やまやまだが、今いままでの太夫たゆうの様子ようすでは、どうも難むずかしかろうと思おもわれる。縁起えんぎでもないことだが、ゆうべわたしは、上下じょうげの歯はが一本ぽん残のこらず、脱ぬけてしまった夢ゆめを見みました。情なさけないが、所詮しょせん太夫たゆうは助たすかるまい」

羽左衛門うざえもんはそういって、寂さびしそうに眉まゆをひそめた。

五

夢ゆめから夢ゆめを辿たどりながら、更さらに夢ゆめの世界せかいをさ迷まよい続つづけていた菊之丞はまむらやは、ふと、夏なつの軒端のきばにつり残のこされていた風鈴ふうりんの音おとに、重おもい眼めを開あけてあたりを見廻みまわした。

医者いしゃの玄庵げんあんをはじめ、妻つまのおむら、座元ざもとの羽左衛門うざえもん、三五郎ろう、彦ひこ三郎ろう、その他たの人達ひとたちが、ぐるりと枕許まくらもとに車座くるまざになって、何なにかひそひそと語かたり合あっている声こえが、遠とおい国くにの出来事できごとのように聞きこえていた。

「おお、あなた。――」

最初さいしょにおむらが、声こえをかけた。が、菊之丞きくのじょうの心こころには、声こえの主ぬしが誰だれであるのか、まだはっきり映うつらなかったのであろう。きょろりと一度ど見廻みまわしたきり、再ふたたび眼めを閉とじてしまった。

玄庵げんあんは徐しずかに手てを振ふった。

「どなたもお静しずかに。――」

「はい」

急きゅうに水みずを打うったような静しずけさに還かえった部屋へやの中なかには、ただ香こうのかおりが、低ひくく這はっているばかりであった。

玄庵げんあんは、夜着よぎの下したへ手てを入いれて、かるく菊之丞きくのじょうの手首てくびを掴つかんだまま首くびをひねった。

「先生せんせい、如何いかがでございます」

「脈みゃくに力ちからが出でたようじゃが。……」

「それはまァ、うれしゅうござんす」

「だが御安心ごあんしんは御無用ごむようじゃ。いつ何時なんどき変化へんかがあるか判わからぬからのう」

「はい」

「お見舞みまいの方々かたがたも、次つぎの間まにお引取ひきとりなすってはどうじゃの、御病人ごびょうにんは、出来できるだけ安静あんせいに、休やすませてあげるとよいと思おもうでの」

「はいはい」と羽左衛門うざえもんが大おおきくうなずいた。「如何いかにも御ごもっともでございます。――では、ここはおかみさんにお願ねがい申もうして、次つぎへ下さがっていることにいたしましょう」

「それがようござる。及およばずながら愚老ぐろうが看護かんごして居いる以上いじょう、手落ておちはいたさぬ考かんがえじゃ」

「何分共なにぶんともにお願ねがい申上もうしあげます」

一同どうは足音あしおとを忍しのばせて、襖ふすまの開あけたてにも気きを配くばりながら、次つぎの間まへ出でて行いった。

暫しばし、鉄瓶てつびんのたぎる音おとのみが、部屋へやのしじまに明あかるく残のこされた。

「御内儀ごないぎ」

玄庵げんあんの声こえは、低ひくく重おもかった。

「はい」

「お気きの毒どくでござるが、太夫たゆうはもはや、一時ときの命いのちじゃ」

「えッ」

「いや静しずかに。――ただ今いま、脈みゃくに力ちからが出でたようじゃと申上もうしあげたが、実じつは他たの方々かたがたの手前てまえをかねたまでのこと。心臓しんぞうも、微かすかに温ぬくみを保たもっているだけのことじゃ」

「それではもはや」

おむらの、今いままで辛抱しんぼうに辛抱しんぼうを重かさねていた眼めからは、玉たまのような涙なみだが、頬ほほを伝つたわって溢あふれ落おちた。

やがて、香煙こうえんを揺ゆるがせて、恐おそる恐おそる襖ふすまの間あいだから首くびを差出さしだしたのは、弟子でしの菊彌きくやだった。

「お客様きゃくさまでございます」

「どなたが」

「谷中やなかのおせん様さま」

「えッ、あの笠森かさもりの。……」

「はい」

「太夫たゆうは御病気ごびょうきゆえ、お目めにかかれぬと、お断ことわりしておくれ」

するとその刹那せつな、ぱっと眼めを開あいて菊之丞きくのじょうの、細ほそい声こえが鋭するどく聞きこえた。

「いいよ。いいから、ここへお通とおし。――」

六

初霜はつしもを避さけて、昨夜さくや縁えんに上あげられた白菊しらぎくであろう、下葉したはから次第しだいに枯かれてゆく花はなの周囲しゅういを、静しずかに舞まっている一匹ぴきの虻あぶを、猫ねこが頻しきりに尾おを振ふってじゃれる影かげが、障子しょうじにくっきり映うつっていた。

その虻あぶの羽音はおとを、聞きくともなしに聞ききながら、菊之丞きくのじょうの枕頭ちんとうに座ざして、じっと寝顔ねがおに見入みいっていたのは、お七の着付きつけもあでやかなおせんだった。

紫むらさきの香煙こうえんが、ひともとすなおに立昇たちのぼって、南向みなみむきの座敷ざしきは、硝子張ギヤマンばりの中なかのように暖あたたかい。

七年目ねんめで会あった、たった二人ふたりの世界せかい。殆ほとんど一夜やのうちに生気せいきを失うしなってしまった菊之丞きくのじょうの、なかば開ひらかれた眼めからは、糸いとのような涙なみだが一筋すじ頬ほほを伝つたわって、枕まくらを濡ぬらしていた。

「おせんちゃん」

菊之丞きくのじょうの声こえは、わずかに聞きかれるくらい低ひくかった。

「あい」

「よく来きてくれた」

「太夫たゆうさん」

「太夫たゆうさんなぞと呼よばずに、やっぱり昔むかしの通とおりり、吉きちちゃんと呼よんでおくれな」

「そんなら、吉きちちゃん。――」

「はい」

「あたしゃ、会あいとうござんした」

「あたしも会あいたかった。――こういったら、お前まえさんはさだめし、心こころにもないことをいうと、お想おもいだろうが、決して嘘うそでもなけりゃ、お世辞せじでもない。――知しっての通とおり、あたしゃどうやら人気にんきも出でて、世間様せけんさまからなんのかのと、いわれているけれど、心こころはやっぱり十年前ねんまえもおなじこと。義理ぎりでもらった女房にょうぼうより、浮気うわきでかこった女おんなより、心しんから思おもうのはお前まえの身みの上うえ。暑あついにつけ、寒さむいにつけ、切せつない思おもいは、いつも谷中やなかの空そらに通かよってはいたが、今いまではお前まえも人気娘にんきむすめ、うっかりあたしが訪たずねたら、あらぬ浮名うきなを立たてられて、さぞ迷惑めいわくでもあろうかと、きょうが日ひまで、辛抱しんぼうして来きましたのさ」

「勿体もったいない、太夫たゆうさん。――」

「いいえ、勿体もったいないより、済すまないのはあたしの心こころ。役者家業やくしゃかぎょうの憂うさ辛つらさは、どれ程ほどいやだとおもっても、御贔屓ごひいきからのお迎むかえよ。お座敷ざしきよといわれれば、三度どに一度どは出向でむいて行いって、笑顔えがおのひとつも見みせねばならず、そのたび毎ごとに、ああいやだ、こんな家業かぎょうはきょうは止よそうか、明日あすやめようかと思おもうものの、さて未練みれんは舞台ぶたい。このまま引ひいてしまったら、折角せっかく鍛きたえたおのが芸げいを、根ねこそぎ棄すてなければならぬ悲かなしさ。それゆえ、秋あきの野のに鳴なく虫むしにも劣おとる、はかない月日つきひを過すごして来きたが、……おせんちゃん。それもこれも、今いまはもうきのうの夢ゆめと消きえるばかり。所詮しょせんは会あえないものと、あきらめていた矢先やさき、ほんとうによく来きてくれた。あたしゃこのまま死しんでも、思おもい残のこすことはない。――」

「もし、吉きちちゃん」

「おお」

「しっかりしておくんなさい。羞はずかしながら、お前まえがなくてはこの世よの中なかに、誰だれを思おもって生いきようやら、おまえ一人ひとりを、胸むねにひそめて来きたあたし。あたしに死しねというのなら、たった今いまでも、身代みがわりにもなりましょう。――のう吉きちちゃん。たとえ一夜やの枕まくらは交かわさずとも、あたしゃおまえの女房にょうぼうだぞえ。これ、もうし吉きちちゃん。返事へんじのないのは、不承知ふしょうちかえ」

一膝ひざずつ乗出のりだしたおせんは、頬ほほがすれすれになるまでに、菊之丞きくのじょうの顔かおを覗のぞき込こんだが、やがてその眼めは、仏像ぶつぞうのようにすわって行いった。

「吉きちちゃん。――太夫たゆうさん。――」

「お、せ、ん――」

「ああ、もし」

おせんは、次第しだいに唇くちびるの褪あせて行ゆく菊之丞きくのじょうの顔かおの上うえに、涙なみだと共ともに打うち伏ふしてしまった。

隣座敷となりざしきから、俄にわかに人々ひとびとの立たつ気配けはいがした。

七

二代目だいめ瀬川菊之丞せがわきくのじょうの死しが報ほうぜられたのは、その日ひの暮くれ方がた近ちかくだった。江戸えどの民衆みんしゅうは、去年きょねんの吉原よしわらの大火たいかよりも、更さらに大おおきな失望しつぼうの淵ふちに沈しずんだが、中なかにも手中しゅちゅうの珠たまを奪うばわれたような、悲かなしみのどん底ぞこに落おち込こんだのは、菊之丞きくのじょうでなければ夜よも日ひもあけない各大名かくだいみょうや旗本屋敷はたもとやしきの女中達じょちゅうたちだった。

殊ことに、この知しらせを受うけて、天地てんちが覆くつがえった程ほどの驚愕きょうがくを覚おぼえたのは、南町奉行みなみまちぶぎょう本多信濃守ほんだしなののかみの妹いもうとお蓮れんであろう。折おりから夕餉ゆうげの膳ぜんに対むかおうとしていたお蓮れんは、突然とつぜん手てにした箸はしを取落とりおとすと、そのまま狂気きょうきしたように、ふらふらッと立上たちあがって、跣足はだしのまま庭先にわさきへと駆かけ降おりて行いった。

二三人にんの侍女じじょが、直すぐさまその後あとを追おった。

「もし、お嬢様じょうさま。お危あぶのうござります」

「何なにをするのじゃ。放はなしや」

「どちらへおいで遊あそばします」

「知しれたことじゃ。これから直すぐに、浜村屋はまむらやの許もとへまいる」

「これはまあ、滅相めっそうなことを仰おっしゃいます」

「何なにが滅相めっそうなことじゃ、わらわがまいって、浜村屋はまむらやの病気びょうきを癒なおして取とらせるのじゃ。――邪間じゃまだてせずと、そこ退のきゃ」

「なりませぬ」

「ええもう、退のきゃというに、退のかぬか」

手荒てあらく突つき退のけられた一人ひとりの侍女じじょは、転ころびながらも、お蓮れんの裾すそを確しかと押おさえた。

「お嬢様じょうさま。お気きをお静しずめ遊あそばしまして。……」

「いらぬことじゃ。放はなせ」

「いいえお放はなしいたしませぬ。今頃いまごろお出でまし遊あそばしましては、お身分みぶんに係かかわりまする。もしまた、たってお出でまし遊あそばしますなら、一応おうわたくし共どもから御家老ごかろうへ、その由よしお伝つたえいたしませねば。……」

「くどいわ。放はなせというに、放はなさぬか」

夢中むちゅうで振ふり払はらったお蓮れんの片袖かたそでは、稲穂いなほのように侍女じじょの手てに残のこって、惜おし気げもなく土つちを蹴けってゆく白臘はくろうの足あしが、夕闇ゆうやみの中なかにほのかに白しろかった。

「もし、お嬢様じょうさま。――」

池いけを廻まわって、築山つきやまの裾すそを走はしるお蓮れんの姿すがたは、狐きつねのように速はやかった。

「それ、向むこうから。――」

「あちらへお廻まわり遊あそばしました」

男気おとこけのない奥庭おくにわに、次第しだいに数かずを増ました女中達じょちゅうたちは、お蓮れんの姿すがたを見失みうしなっては一大事だいじと思おもったのであろう。老おいも若わかきもおしなべて、庭にわの木戸きどへと歩ほを乱みだした。

が、必死ひっしに駆かけ着つけた庭にわの木戸きどには、もはやお蓮れんの姿すがたは見みられなかった。

「お嬢様じょうさま。――」

「お待まち遊あそばせ」

しかも、年ねんに一度ども、駆かけたことなどのないお蓮れんは、庭木戸にわきどを出では出でたものの、既すでに脚あしが釣つるまでに疲つかれ果はてて、口くちの中なかで菊之丞きくのじょうの名なを呼よびながら、今いまはもはや堪たえられない歩あゆみを、いずくへとのあてもなしに、無理むりから先さきへ先さきへと運はこんでいた。

「――浜村屋はまむらや、待まちや。わらわを置おいて、そなたばかりがどこへ行ゆく。――そりゃ聞きこえぬぞ。わらわも一緒しょじゃ。そなたの行ゆきやるところなら、地獄じごくの極はてへなりと、いといはせぬ。連つれて行ゆきゃ。速はよう連つれて行ゆきゃ」

二十一で坂部壱岐守さかべいきのかみへ嫁とついで八年目ねんめに戻もどって来きた。既すでに三十の身みではあったが、十四五の頃ころから早はやくも本多小町ほんだこまちと謳うたわれたお蓮れんは、まだ漸ようやくく二十四五にしか見みえず、いずれかといえば妖艶ようえんなかたちの、情熱じょうねつに燃もえた眼めを据すえて、夕闇ゆうやみの中なかを音おともなく歩あるいてゆく様さまは、ぞッとする程ほど凄すごかった。

八

いずこの大名だいみょう旗本はたもとの屋敷やしきに、如何いかなる騒さわぎが持上もちあがっていようとも、それらのことは、まったく別べつの世界せかいの出来事できごとのように、菊之丞きくのじょうの家うちは、静しずかにしめやかであった。

座元ざもとをはじめ、あらゆる芝居道しばいどうの人達ひとたちはいうまでもなく、贔屓ひいきの人々ひとびと、出入でいりのたれかれと、百を越こえる人数にんずうは、仕切しきりなしに押おし寄よせて、さしも豪奢ごうしゃを誇ほこる住居すまいも所ところ狭せまきまでの混雑こんざつを見みていたが、しかも菊之丞きくのじょうの冷たいむくろを安置あんちした八畳じょうの間まには、妻女さいじょのおむらさえ入いれないおせんがただ一人ひとり、首くびを垂たれたまま、黙然もくねんと膝ひざの上うえを見詰みつめていた。

ふと、おせんの固かたく結むすんだ唇くちびるから、低ひくい、微かすかな声こえが漏もれた。

「吉きちちゃん。おかみさんや、ほかの人達ひとたちにお願ねがいして、あたしがたった一人ひとり、お前まえの枕許まくらもとへ残のこしてもらったのは、十年前ねんまえの、飯事遊ままごとあそびが、忘わすれられないからでござんす。――みんなして、近所きんじょの飛鳥山あすかやまへ、お花見はなみに出でかけたあの時とき、いつもの通とおり、あたしとお前まえとは夫婦ふうふでござんした。幔幕まんまくを張はりめぐらした、どこぞの御大家ごたいけの中なかへ、迷まよい込こんだあたし達たちは、それお前まえも覚おぼえてであろ。絵えにあるような綺麗きれいな、お嬢様じょうさまに何なにやかやと御馳走ごちそうを頂戴ちょうだいした挙句あげく、お化粧直けしょうなおしの幕まくの隅すみで、あたしはお前まえに、お前まえはあたしに、互たがいにお化粧けしょうをしあって、この子達こたち、もう小こ十年ねんも経たったなら、きっと惚ほれ惚ぼれするように美うつくしくなるであろうと、お世辞せじにほめて頂いただいた、あの夢ゆめのような日ひのことが、いまだにはっきり眼めに残のこって……吉きちちゃん。あたしゃ今こそお前まえに、精根せいこんをつくしたお化粧けしょうを、してあげとうござんす。――紅白粉べにおしろいは、家いえを出でる時とき袱紗ふくさに包つつんで持もって来きました。あたしの遣つかいふるしでござんすが、この紅筆べにふでは、お前まえが王子おうじを越こす時ときに、あたしにおくんなすった。今では形見かたみ。役者衆やくしゃしゅうの、お前まえのお気きに入いるように出来できますまいけれど、辛抱しんぼうしておくんなさい。せめてもの、あたしの心こころづくしでござんす」

北きたを枕まくらに、静しずかに眼めを閉とじている菊之丞きくのじょうの、女おんなにもみまほしいまでに美うつくしく澄すんだ顔かおは、磁器じきの肌はだのように冷つめたかった。

白粉刷毛おしろいばけを持もったおせんの手ては、名匠めいしょうが毛描けがきでもするように、その上うえを丹念たんねんになぞって行いった。

眼め、口くち、耳みみ。――真白まっしろに塗ぬりつぶされたそれらのかたちが、間まもなく濡手拭ぬれてぬぐいで、おもむろにふき清きよめられると、やがて唇くちびるには真紅しんくのべにがさされて、菊之丞きくのじょうの顔かおは今いまにも物ものをいうかと怪あやしまれるまでに、生々いきいきと蘇よみがえった。

おせんは、じッとその顔かおに見入みいった。

「吉きちちゃん。――もし、吉きちちゃん」

次第しだいにおせんの声こえは、高たかかった。呼よべば答こたえるかと思おもわれる口許くちもとは、心こころなしか、寂さびしくふるえて見みえた。

「――あたしゃ、これから先さきも、きっとおまえと一緒しょに、生いきて行ゆくでござんしょう。おまえもどうぞ、魂たましいだけはいつまでも、あたしの傍そばにいておくんなさい。あたしゃ千人にん万人まんにんの人ひとからいい寄よられても、死しぬまで動うごきはいたしませぬ。――もし、吉きちちゃん。……」

ぽたりと落おちたおせんの涙なみだは、菊之丞きくのじょうの頬ほほをぬらした。

「これはまァ折角せっかくお化粧けしょうしたお顔かおへ。……」

おせんはもう一度ど、白粉刷毛おしろいばけを手てに把とった。と、次つぎの間まから聞きこえて来きたのは、妻女さいじょのおむらの声こえだった。

「おせんさん」

「は、はい。――」

「お焼香しょうこうのお客様きゃくさまがお見みえでござんす。よろしかったら、お通とおし申もうします」

「はい、どうぞ。――」

あわてて枕許まくらもとから引ひき下さがったおせんの眼めに、夜叉やしゃの如ごとくに映うつったのは、本多信濃守ほんだしなののかみの妹いもうとお蓮れんの剥はげるばかりに厚化粧あつげしょうをした姿すがただった。

おせん (おわり)

底本 / Source edition

底本:「大衆文学代表作全集 19 邦枝完二集」河出書房
1955(昭和30)年9月初版発行
1955(昭和30)年11月30日8刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:伊藤時也
校正:松永正敏
2007年4月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/046687_001261/

邦枝 完二「おせん」(新字新仮名)、底本『大衆文学代表作全集 19 邦枝完二集』河出書房、1955年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 046687_001261, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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