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        <title type="main" xml:lang="ja">小説家の俳句</title>
        <title type="reading" xml:lang="ja-Hira">しょうせつかのはいく</title>
        <title type="sub" xml:lang="ja">俳人としての芥川竜之介と室生犀星</title>
        <title type="sub-reading" xml:lang="ja-Hira">はいじんとしてのあくたがわりゅうのすけとむろうさいせい</title>
        <author><persName xml:lang="ja"><surname>萩原</surname><forename>朔太郎</forename><idno type="aozora-person-id">000067</idno></persName><persName xml:lang="ja-Hira"><surname>はぎわら</surname><forename>さくたろう</forename></persName><persName xml:lang="ja-Latn"><surname>Hagiwara</surname><forename>Sakutaro</forename></persName></author>
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        <bibl><title>日本の名随筆　別巻25　俳句</title><publisher>作品社</publisher><date>1993（平成5年）3月25日</date><note type="input-edition">1993（平成5年）3月25日第1刷</note><note type="proof-edition">1993（平成5年）3月25日第1刷</note></bibl>
        <bibl type="first-publication">「俳句研究」1938（昭和13）年3月号</bibl>
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      <classDecl><taxonomy xml:id="ndc"><bibl>日本十進分類法 (Nippon Decimal Classification), as recorded by <title>青空文庫</title> in its 分類番号 field.</bibl></taxonomy><taxonomy xml:id="aozora-orthography"><bibl><title>青空文庫</title> 文字遣い種別: the orthographic style Aozora Bunko records for the transcription.</bibl></taxonomy></classDecl>
      <refsDecl xml:id="source-spans"><p>A note of type source-span has an xml:id of the form source-START-END, giving the extent in UTF-8 bytes of the decoded primary text identified in sourceDesc. <ptr target="https://w3id.org/soranoha/ns/tei"/></p></refsDecl>
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      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">芥川龍之介氏とは、生前よく俳句の話をし、時には意見の相違から、激論に及んだことさへもある。それに氏には「余が俳句観」と題するエツセイもある程なので、さだめし作品が多量にあることだと思ひ、いつかまとめて読んだ上、俳人芥川龍之介論を書かうと楽しみにしてゐた。然るに今度全集をよみ、意外にその寡作なのに驚いた。全集に網羅されてる俳句は、日記旅行記等に挿入されているものを合計して、僅かにやつと八十句位しかない。これではどうにも評論の仕方がない。しかしこの少数の作品を通じて、大体の趣味、傾向、句風等、及び俳句に対する氏の主観態度が、朧げながらも解らないことはない。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">前にも他の小説家の俳句を評する時に言つた事だが、一体に小説家の詩や俳句には、アマチユアとしてのヂレツタンチズムが濃厚である。彼等は皆、その中では真剣になつて人生と取組み合ひ全力を出しきつて文学と四つ角力をとつてるのに、詩や俳句を作る時は、乙に気取つた他所行きの風流気を出し、小手先の遊び芸として、綺麗事に戯むれてゐるといふ感じがする。室生犀星氏がいつか或る随筆で書いてゐたが、仕事の終つた後で、きれいに机を片づけ、硯に墨をすりながら静かに句想を練る気持は、何とも言へない楽しみだと。つまりかうした作家たちが、詩や俳句を作るのは、飽食の後で一杯の紅茶をのんだり、或は労作の汗を流し、一日の仕事を終つた後で、浴衣がけに着換へて麻雀でもする気持なのだ。したがつて彼等の俳句には、芭蕉や蕪村の専門俳人に見る如き、真の打ち込んだ文学的格闘がなく、作品の根柢に於けるヒユーマニズムの詩精神が殆んどない。言はばこれ等の人々の俳句は、多く皆「文人の余技」と言ふだけの価値に過ぎず、単に趣味性の好事としか見られないのである。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">芥川龍之介は一代の才人であり、琴棋書画のあらゆる文人芸に達した能士であつたが、その俳句は、やはり多分にもれず文人芸の上乗のものにしか過ぎなかつた。僕は氏の晩年の小説（歯車、西方の人、河童等）を日本文学中で第一位の高級作品と認めてゐるが、その俳句に至つては、彼の他の文学であるアフオリズム（侏儒の言葉）と共に、友情の割引を以てしても讃辞できない。むしろこの二つの文学は、彼のあらゆる作品的欠点を無恥に曝露したものだと思ふ。即ち「侏儒の言葉」は、江戸ツ子的浮薄な皮肉とイロニイとで、人生を単に機智的に揶揄したもので、パスカルやニイチエのアフオリズムに見る如き、真の打ち込んだ人生熱情や生活体感が何処にもない。「侏儒の言葉」は、言はば頭脳の機智だけで――しかも機智を誇るために――書いた文学で才人としての彼の病所と欠点とを、露骨に出したやうな文学であつたが、同じやうにまた彼の俳句も、その末梢神経的の凝り性と趣味性とを、文学的ヂレツタンチズムの衒気で露出したやうなものであつた。その代表的な例として二三の作品をあげてみよう。</p>
      <div type="layout" source="#source-3974-4165" style="padding-inline-start: 3em">
        <p><seg source="#source-4009-4053">蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな</seg></p>
        <p><seg source="#source-4053-4088">暖かや蕊に臘ぬる造り花</seg></p>
        <p><seg source="#source-4088-4129">臘梅や雪うち透かす枝のたけ</seg></p>
      </div>
      <div>
        <p>「蝶の舌」の句は、ゼンマイに似ているといふ目付け所が山であり、比喩の奇警にして観察の細かいところに作者の味噌があるのだらうが、結果はそれだけの機智であつて、本質的に何の俳味も詩情もない、単なる才気だけの作品である。次の二つの句もやはり同じやうに観察の細かさと技巧の凝り性を衒つた句で、末梢神経的な先鋭さはあるとしても、ポエヂイとしての真実な本質性がなく、やはり頭脳と才気と工夫だけで造花的に作つた句である。彼は芭蕉の俳句中で</p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-4809-4918" style="padding-inline-start: 3em">
        <p><seg source="#source-4844-4882">ひらひらと上る扇や雲の峯</seg></p>
      </div>
      <div>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-4922-5260">を第一等の名作として推賞してゐたが、上例の如き自作の句を観照すると、芥川氏の芭蕉観がどのやうなものであつたかが、およそ想像がつくであらう。つまり彼は、芭蕉をその末梢的技巧方面に於て、本質のポエヂイ以上に買つてゐたのである。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">いつか前に他の論文で書いたことだが、芥川龍之介の悲劇は、彼が自ら「詩人」たることをイデーしながら、結局気質的に詩人たり得なかつたことの宿命にあつた。彼は俳句の外に、いくつかの抒情詩と数十首の短歌をも作つてゐるが、それらの詩文学の殆んど全部が、上例の俳句と同じく、造花的の美術品で、真の詩がエスプリすべき生活的情感の生々しい熱意を欠いてる。つまり言へば彼の詩文学は、生活がなくて趣味だけがあり、感情がなくて才気だけがあり、ポエヂイがなくて知性だけがあるやうな文学なのだ。そしてかかる文学的性格者は、本質的に詩人たることが不可能である。詩人的性格とは、常に「燃焼する」ところのものであり、高度の文化的教養の中にあつても、本質には自然人的な野生や素朴をもつものなのに、芥川氏の性格中には、その燃焼性や素朴性が殆んど全くなかつたからだ。そこで彼が自ら「詩人」と称したことは、知性人のインテリゼンスに於てのみ、詩人の高邁な幻影を見たからだつた。それは必ずしも彼の錯覚ではなかつた。だがそれにもかかはらず、彼の宿命的な悲劇であつた。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">室生犀星氏は、性格的にも、芥川氏の対照に立つ文学者である。彼は知性の人でなくして感性の人であり、江戸ツ子的神経の都会人でなくして、粗野に逞しい精神をもつた自然人であり、不断に燃焼するパツシヨンによつて、主観の強い意志に生きてる行動人である。そこで室生犀星氏は、生れながらに天稟の詩人として出発した。しかし後に小説家となり、その方の創作に専念するやうになつてからは、彼のポエヂイの主生命が、悉く皆散文の形式の中に盛り込まれて、次第に詩文学から遠ざかるやうになつてしまつた。彼は今でも、時に尚思ひ出したやうに詩を書いてる。しかし彼が自ら言ふ通り、今の彼が詩を書く気持は、昔のやうに張り切つたものではなくつて、飽食の後に一杯の紅茶をすすり、労作の後に机を浄めて、心の余裕を楽しむ閑文学の風雅にすぎない。そしてこの詩作の態度は、彼の他の詩文学であるところの、俳句の場合に於ても同様である。即ち他の多くの小説家の例にひとしく、彼の俳句もまた「文人の余技」である。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-7928-9202">しかしながら彼の場合は、芥川氏等の場合とちがつて、余技が単なる余技に止まらず、余技そのものの中に往々彼の作物を躍如とさせ、生きた詩人の肉体を感じさせるものがある。すべて人はその第一義的な仕事に於て、思想と情熱の全意力を傾注し、第二義的な仕事即ち余技に於ては、単に趣味性のみを抽象的に遊離して享楽する。室生氏の場合も亦これと同じく、彼の句作の態度には、趣味性の遊離した享楽（ヂレツタンチズム）が多分にある。だがそれにも拘らず、彼はその趣味性の享楽を生活化し、ヂレツタンチズムを肉体化することによつて、不思議な個性的芸術を創造するところの、日本茶道精神の奥義を知つてる。例へば彼が陶器骨董を愛玩する時、その趣味性の道楽が直ちに彼の文学となり、陶器骨董の触覚や嗅覚がそれ自ら彼の生きた肉体感覚となるのである。そして彼が石を集め、苔を植ゑて庭を造り楽しむ時、しばしばその自己流の道楽芸が専門の庭園師を嘆息させるほど、真にユニイクな芸術創作となるのである。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-9202-9245">そこで彼の俳句を見よう。</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-9245-9562" style="padding-inline-start: 3em">
        <p><seg source="#source-9280-9321">凧のかげ夕方かけて読書かな</seg></p>
        <p><seg source="#source-9321-9359">夕立やかみなり走る隣ぐに</seg></p>
        <p><seg source="#source-9359-9400">沓かけや秋日にのびる馬の顔</seg></p>
        <p><seg source="#source-9400-9444">鯛の骨たたみにひらふ夜寒かな</seg></p>
        <p><seg source="#source-9444-9485">秋ふかき時計きざめり草の庵</seg></p>
        <p><seg source="#source-9485-9526">石垣に冬すみれ匂ひ別れけり</seg></p>
      </div>
      <div>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">彼の俳句の風貌は、彼の人物と同じく粗剛で、田舎の手織木綿のやうに、極めて手触りがあらくゴツゴツしてゐる。彼の句には、芭蕉のやうな幽玄な哲学や寂しをりもなく、蕪村のやうな絵画的印象のリリシズムもなく、勿論また其角、嵐雪のやうな伊達や洒落ツ気もない。しかしそれでゐて何か或る頑丈な逞しい姿勢の影に、微かな虫声に似た優しいセンチメントを感じさせる。そして「粗野で逞しいポーズ」と、そのポーズの背後に潜んでゐる「優しくいぢらしいセンチメント」とは、彼のあらゆる小説と詩文学とに本質してゐるものなのである。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">俳人としての室生犀星は、要するに素人庭園師としての室生犀星に外ならない。そしてこのアマチユアの道楽芸が、それ自らまた彼の人物的風貌の表象であり、併せて文学的エスプリの本質なのだ。故にこれを結論すれば、彼の俳句はその造庭術や生活様式と同じく、ヂレツタントの風流であつて、然も「人生そのもの」の実体的表現なのだ。彼がかつて風流論を書き、風流生活、風流即芸術の茶道精神を唱導した所以も此処にあるし、句作を余技と認めながら、しかも余技に非ずと主張する二律反則の自己矛盾も、これによつて疑問なしに諒解できる。</p>
      </div>
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        <note type="source-attribution" source="#source-11073-11366"><seg type="source-line">底本：「日本の名随筆　別巻25　俳句」作品社</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1993年（平成5年）3月25日第1刷発行</seg><lb/><seg type="source-line">底本の親本：「萩原朔太郎全集　第八巻」小学館</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1943（昭和18）年12月</seg><lb/><seg type="source-line">初出：「俳句研究」</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1938（昭和13）年3月号</seg></note>
        <note type="transcriber-note" source="#source-11366-11689"><seg type="source-line">入力：斎藤由布子</seg><lb/><seg type="source-line">校正：noriko saito</seg><lb/><seg type="source-line">2006年11月1日作成</seg><lb/><seg type="source-line">青空文庫作成ファイル：</seg><lb/><seg type="source-line">このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫（http://www.aozora.gr.jp/）で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。</seg></note>
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