Soranoha

日蔭の街

ひかげのまち

松本 泰

一

歳晩の寂しい午後であった。私は、青い焔をあげて勢よく燃えさかっている暖炉ストーブの前へ、椅子を寄せて、うつらうつら煙草を燻らしていた。私の身のまわりは孰いずれも見馴れたもの計りで、トランクは寝台の下に投込んであり、帽子掛には二つの帽子と数本のステッキがある。飾棚の漆塗の小箱、貝細工の一輪挿、部屋の隅に据付けてある洗面台の下の耳のとれた水差、それから二組の洋服と外套の入った洋服箪笥、それ等はあった儘に位置を変えず、灰を被ったように寂然と並んでいた。私は気易いのびのびした心持で、四辺あたりの見窄みすぼらしい石版画の額や、黄色くなった窓レースを眺め廻した。表道路に面した窓の外に素焼の植木鉢が投出してある。夏前には羊歯しだ種の草が青々と繁っていた。

私はこの宿へ来てから一年になる。その前は学校の近くの旅館にいたり、高燥なH街の某軍人の家などにおいて貰っていたが、最後に腰をすえたこの家が一番気に適いっている。性来なまけもので、その上、人づき合のわるい私は、学校友達も煩く、勤厳な家庭で、酒は飲むなの、門限は幾時だのと干渉されては迚とてもやりきれない。その点で私は現在住んでいる宿を礼讃する。宿の内儀さんは私が酔って真夜中に帰宅して廊下の壁に頭をぶつけようが、靴のままで寝台の上へ倒れてしまおうが、一向叱言もいわなければ、忠告もしない。それでこそ倫敦ロンドンも住甲斐があるというものだ。そしてまだいい事は、軍人の奥さんに支払う金額より、ここの下宿料はずっと安くて、遥かに旨いものを喰べさせてくれる。金の事にさもしくて、私を陰気にする。私は最う金はないのだ。

私の宿は繁華なV停車場通りから東へ入った、テームス川寄りの取遺されたような街にある。それは激しい活動の世界から忘れられたような日蔭の街であった。

私は卓子の上の吸い馴れた黄色い紙袋の煙草に火を点けて、汚れた窓ガラスを透してどんよりと暗くなってゆく陰気な街の空を眺めていた。

そこへ飄然と、柏かしわという友人が訪ねてきた。

「いいところへ来たよ。お祝いをやろうと思っていたんだ」

「お祝いとは豪気だな」柏はミシミシと壊れかかった藤椅子へ腰を下すと、絵具の附着ついた指先で無雑作に卓上の煙草を抜出して口へ持っていった。

「いよいよ破産なんだ。親が僕に遺していった金は基督降誕祭クリスマスこうたんさい前に銀行から引出したやつで全部だが、昨日までに消費つかい果して、見給え、ここに百円残っているきりだ。これが無くなると、厭でも日頃の君の忠告に従わなければならない」

「そう来なくてはならない。それで君も一人前の男になる訳だ。百円あれば当分暮せる。その間に適当な職業を探すのだな。働くという事はいい事だ。フン」と柏はいった。この男だってズボラにかけては退けをとらない方で、日頃私が充分な時間を持っているのを羨しがっていたから、御同様働く仲間が出来たのを喜んだのに違いない。

「いい事か、悪い事か知らんが、僕は計画があるんだ。詮つまりね、この端金を一晩でビールの泡にしてしまうというんだ。遊民生活の過去と華々しい訣別式を挙げるのさ。さアこれから一緒に出掛けよう」

「成程、君らしくって面白い、思いきりがいいや」柏は高笑いをしながらいった。

柏は猶太ユダヤ人経営の某美術商に雇われている画家で、僅か二三年の知合であるが、磊落不覊らいらくふきのうちにも、情に厚いところがあって、私とは隔てのない間柄であった。

二人は数分のうちに肩を並べて下宿を出た。百円の処分方法に就て、あれこれと意見が出たが、結局穏かにサボイ旅館で晩餐を摂る事にした。

食堂は殆んど満員で、空いた卓子は数える程しかなかった。妖艶な臙脂べに色の夜会服を纏ったスペイン人らしい若い女や、朱鷺とき色の軽羅うすものをしなやかに肩にかけている娘、その他黄紅紫白とりどりに目の覚めるような鮮な夜会服を着た美しい女達が、どの卓子にも見えていた。男達は大抵、燕尾服か、タキシードを着けている。背広服をきているのは私共の他に多くは見掛けなかったので、いくらか面羞おもはゆい心持であったが、柏は一向平気で、四辺を見廻しながら、チビリチビリ葡萄酒をやっていた。

その中彼は何を見付けたのか、急に眼を輝して、杯をもった手を何時までも宙に支えている。

「オイ、どうした。何を呆乎ぼんやりしている」私は小声でいった。

「素敵だ。俺の探していた通りの顔なんだ」柏は呻くようにいった。

「冗談じゃアない。近所の人がじろじろ見ているじゃアないか、見っともないから止して呉れ」と私は慎たしなめたが、柏は耳にも入れず、

「まア、鳥渡見ろ、この卓子の五列目で、君の真背後なんだ。ロゼッチの『愛の杯』から抜出してきたような美人だ」と熱心にいった。

如何に「愛の杯」から抜出したような美人であろうとも、私には真逆、無遠慮に振返って見るほどの興味はなかった。

やがて食事が済んで、珈琲が運ばれた時、柏は突然私の肘を掴んで、

「『愛の杯』が席を立ったよ。僕は帰る、左様なら」といいながら気忙しく立上った。

「まだ、これから計画があるんだ。今から帰ってどうする」

「あの顔の印象が薄れないうちに、家へ飛んで帰って仕事にかかるのだ。徹夜だぞ」柏の言葉の終らないうちに、私は背後に軽い絹擦の音を聞いた。と見ると、裾に銀糸で渦巻模様を刺繍した真黒な琥珀こはくの夜会服を着た若い女が、卓子の間を縫って静に歩いてきた。丁度彼女が私の傍を通過ぎた時、軽い音を立てて床に落ちたものがあった。それは目の覚めるような緋房のついた小さな象牙の扇子であった。私は素早く手を延して拾い上げると、背後で、

「お嬢様、お扇子が……」という老婦人の声がした。先に立った女はツと足を停めて振返った。彼女は美しい口許に微笑を浮べながら、私の差出した扇子を受取って、

「有難う」と仏蘭西語でいった。老婦人は乳母か、家庭教師か、二人は軽く一揖ゆうして廊下の外に姿を消してしまった。

柏は私の引止めるのもきかず、間もなく、そそくさと帰っていった。

柏に置去りを喰った私は勘定を支払って食堂を出た。食後の葉巻に火を点けて、高い廊下の窓から、火の海のような市街の光景を見下した。まだ時間は早かったし、それに飽気なく柏が帰ってしまったので、どうしても此儘、寂しい川岸の下宿へ帰る気になれなかった。目の下の大通りを数限りない自動車や、乗合自動車バスが右往左往に疾走ってゆく、両側に立並んだ、明るい飾窓ショーウィンドウの前を、黒い人影が隙間もなく、ギッシリとかたまり合って、宛然、黒い川を押流したように、動いている。じっと心を落着けると、今迄気付かなかった自動車の警笛、停車場の汽笛、その他様々な物音が相まじり合って、異様などよみをつくっている。気のせいか、何処かで管弦楽オーケストラをやっているようだ。

私はフト思いついて、廊下伝いにサボイ劇場へ入った。私は服装を遠慮してわざと二階の後方の席を買った。芝居は至極あまいもので、些しも私の感興を唆そそらなかった。平常の私なら、一幕が済むと、欠伸をして帰り仕度をするのであるが明日からは当分芝居も見られぬという境遇が、名残を惜しませるのか、寒い風の吹いている戸外へ出るのが大儀だったのか、私は夢心地に満堂の拍手の音を聞きながら、漫然と幕の上ったり、下りたりするのを眺めていた。

私の右手の空席を一つおいて、二人の男が頻りに話合っていたが、フト私と顔を合せると、

「今度の幕合は何分だね」と仏蘭西語で横柄に訊ねた。永らく英国に暮していた私は、見知らぬ他人から猥みだりに言葉をかけられるのを快く思わなかった。殊ことに態度が気に入らない。私はムッとして相手の顔を視詰めた。男は肩をすぼめて、

「日本人だ。仏蘭西語じゃア通じない」と連を顧ていった。その男は黒の上衣のポケットに純白なハンケチを覗かせた二十七八の小柄な青年である。連は中年の岩丈な船員風の男で、長い口髭を弄いじりながら、太い声で青年の言葉に合槌を打っていた。二人は以前余程親しい間柄で、久時しばらく別れていて、つい其日始めて出会ったらしかった。

若い方は頗る上調子で、

「多分そんな事と思ったよ。女が倫敦にいるとなりゃ、無論大将も近くに潜んでいる訳だ。俺は無駄骨を折って紐育ニューヨーク計り探していたが、有難い事だ。運が向いてきたんだ。厭でも応でも今度こそ結婚して貰わなくちゃアならない」

「……他にだって女はあるんだから……厭がる女の後を追うような野暮な真似はやめるがいいぜ。女は諦めて一方にかかろうじゃアないか、その方が間違いなさそうだ。へまをやると両方とも失策しくじってしまう」連の男は宥めるようにいったが、彼の顔にはありありと不快の色が浮んでいた。

「余計な事は云わぬがいい。俺は一遍思込んだ事は飜えさないのだから、まア俺の細工を見ているがいいよ。一ヶ月後には伊太利イタリーの海岸から新婚旅行の絵ハガキでも送る事になるだろうよ。然し運ってやつは不思議なものさ。煙草屋の店先で君に会おうとは思掛けなかったよ。六ヶ月間も行方を晦くらましてひとり占めをしようなんて、君も中々凄腕だよ」

「ひとり占めだなんて、そんな事があるものか、俺も気心の知れた相手が欲しいと思っていた矢先なんだ」

二人は極めて小声で囁合っているが、私には不思議と聞取る事が出来た。彼等は一体何事に就て語合っているのか、要領を得ないが、兎に角この二人は只ものでないと思った。次の幕が開いたが、私は舞台より隣席の二人の挙動に興味を牽かれるようになった。若い方の男は紙片に何やら認めて、廊下に立っている案内人に手渡していた。それからの二人の言葉は一言半句も聞取る事は出来なかった。然しながら察するところ、二人はある婦人に対して異った主張を固守しているらしかった。而もその婦人というのは、どうであろう、柏の所謂いわゆる「愛の杯」の主人公で、例の扇子の持主ではないか。私の胸は異常な驚愕と好奇の念に奇あやしく跳った。私の眼は絶えず筋向うのボックスに注がれた。そこには思い做なしか、愁わしげな様子で、じっと舞台を見下している彼女の横顔が真紅のカーテンを背景に美しい線を描いていた。

やがて最後の幕合がきた。私はその時まで忘れていた煙草を思出して廊下へ出た。私は人々の間を縫って、引つけられるように彼女のボックスの方へ歩いていった。品位ひんのいい容貌、優雅な物越し、附添いの老婦人の態度などから推して、彼女はどうしても身分のある家の令嬢に違いないと、私はひとり極めにしてしまった。それにしても私の隣席の仏蘭西人とどのような関係があるのであろう。私はそんな事を思いながら、廊下を歩いていたが、暫時して席へ戻ると、其処には既う先刻の仏蘭西人は見えなかった。私は出抜かれたような気持で、直ぐ筋向うのボックスに眼をやった時、思わず、

「オヤ」と叫んだ。ボックスは空である。つい今しがたまでいた彼女と老婦人の姿は、掻消すようになくなっていた。

このようにして問題の人々は、いつ迄経っても姿を見せなかった。もともと芝居には最初から興味を感じていなかった私はそうなると一刻も辛抱しておられない。

私は間もなく戸外へ出た。劇場地のストランドも、裏へ出ると、遉さすがに芝居の閉場はねる前は寂蓼を極めていた。薄霧のかかった空には、豆ランプのホヤを被せたような星が、朧に光っていた。その通りには更に裏通りへ通ずる石畳を敷いた急勾配の露路が幾つもあった。それ等は孰れも両側の高い建物に挟まれて黒い陰の中に埋っていた。

私は下宿まで歩いて帰る積りで、人通りの稀れな、明るい街路を靴音を立てながら、歩いていった。とある露路の角に差かかった時、突然、啻ただならぬ女の叫声をきいたので、驚いて足を駐めると、不意に真暗な露路から飛出してきた女と危く衝突ぶつかりそうになった。私は蹌踉よろめきかかった女をしっかり抱きとめて、

「どうかしましたか」といったが、街灯の光に照出された白蝋のような女の顔を見ると、余りの驚愕に私は言葉が閊つかえてしまった。それは夕方以来、私を悩ましていた、あの美しい女である。

「早く、何卒、タクシーを呼んで下さい。早く、早く」女は激しく息をはずませながらいった。

私は彼女を抱くようにして、夢中で大通りの四辻まで走っていって、折よく通りかかった空車を呼止めた。

彼女を乗せた自動車が雑鬧ざっとうのうちを無事に疾走り去ってしまうのを見届けると、私はホッとして元の道路へ引返した。

その時は既に数個の黒い人影がバラバラと露路の方へ走ってゆくところであった。物見高い群衆が刻々に謂集あつまってきて、狭い露路は倏忽たちまち黒山のようになった。私は人垣の間を潜って、ようやく前へ出た。見ると、十数分前にサボイ劇場で、私の隣席にいた若い仏蘭西人が恐ろしい形相をして仰向に仆たおれている。真白なシャツの胸からカラーにかけて、生々しい鮮血が流れていた。

「心臓をやられたのだ」と誰かがいった。

「ナイフで一突にやったらしい」それに応えるものがあった。

「どけどけ、医者が来たんだ」私の傍にいた男は露路の外に停った自動車の音をきいて、後を振向いた途端、男の携もっていた懐中電灯がパッと私の足下を照らしていった。その瞬間私は自分の右足のわきに、見覚えのある彼女の扇子についていた緋房を発見した。それを見ると私は我事のように胸を跳らせた。そして人々が犇ひしめき合っているうちに、大決心をもって落ちている緋房をそっと拾って掌に丸めこむと素知らぬ様子で、其場を立去った。

二

翌日は日曜であった。私は寝台の上で丸太を倒したように、前後も知らず睡り続けていた。眼を覚すと、窓を洩れてくる薄光が、壁の石版画の額縁にさしていた。私は床の上へ起上って煙草を吸ったが、無数の縄を後頭部にくくりつけられているようで、ボンヤリと昨夜の夢を追っていた。

「昨夜の事件は何だろう」私はハッキリ、暗い露路の中で仰向けに仆れていた男の姿を思い浮べた。誰があの男を殺したのだろう、只の一突きで心臓をやられている。あれだけの事をやるには余程の力と、胆力がなくてはならぬ。そして不意に露路を飛出してきたあの時の彼女の慌て方、それから現場に落ちていた緋房、それは何事を語るものだろう。……でも私はあの高貴な、美しい顔を考えると、どうしても彼女を疑う気にはなれなかった。

時計を見ると、十二時を過ぎている。扉の外においてある水差の湯は冷くなっていた。私は苦笑しながら手早く衣物を着換えて戸外へ出た。

日曜の事であるから職業紹介所へいっても休みである。私は先ず停車場へいって新聞を買い、簡単に食事でもして来ようと思った。酒場の前を曲って遊園地の横手へ出ると、擦り切れた箒子ほうきを傍に立かけて、呆乎ぼんやり鉄柵に凭りかかっていた見窄すぼらしい様子をした老人が、

「旦那様、今日は」と叮嚀に挨拶をした。それはいっつもこの界隈を根城にして、通りかかりの人々から合力を受けている見知越の男である。これ迄も私は特別不機嫌な時を除いて、顔を見る度に一つ二つの銅貨を遣っていたものだ。その日も私は立止って無意識にポケットへ手を入れた。昨夜の中に消費果してしまう筈の金が、まだ幾許か残っていたので、どうせ貧乏になりついでだと思って、掴出した貨幣を老人の古帽子の中へ投入れてやった。その時、指先にからまって出てきた緋房がバサリと敷石の上へ落ちた。

「これは……」と思う間に老人は故意か偶然か、大きな破れ靴の下に緋房を踏かくしてしまった。私は鳥渡当惑して、取返したものか、それとも其儘にしたものか、思案に迷った。要するに私は気負けがしたのである。靴の下の緋房を問題にして騒ぎ立てるのは後日に面倒を惹起する基となりはせぬかというような弁疏いいわけを考えて、後に心を残しながら、老人の傍を離れた。

私はV停車場の構内で、新聞の正午版を買った。社会欄の下段に前夜ストランドの裏小路に起った殺人事件の顛末が掲げてあった。私は息も吐かず、その記事を読終ると、安堵の思いをした。被害者は旅廻りの伊太利曲芸団のひとりであるという事である。中には無論「彼女」という文字も、「緋房」という文字もなかった。

私は停車場の前通りの店で粗末な食事を済すと、西へ廻った緯日よこひの黄色くさしている敷石の上を戻っていった。

遊園地の鉄柵にはもう老人の姿は見えなかった。無論私の落した緋房などはなかった。

其晩、私はじっと下宿に落着いている事が出来なかった。夜食を済せるとフラフラと殺人のあったストランドを廻り歩いて夜更けて宿へ帰った。

翌日も、翌日も、私は恐ろしいその夜の出来事計り考えていたが、それでも職業紹介所へ行ったり、新聞社へ寄って求職の広告を出したりした。職業紹介所ではホテルの皿洗いの口と、郊外の某家の下男の口と、倫敦から三十哩マイル程離れた華族の別荘の犬ボーイの口があった。最後の口がよさそうなので、こちらは日本人の事であるから、一応手紙で照会して貰う事にした。紹介所を出ると、二三日前遊園地のわきで緋房を踏み隠した老人が扉口に凭りかかっていたが、私を見て叮嚀に挨拶をした。

「こんな遠くまで来ているのかね」

「ヘイ、いいお天気で誠に結構でございます。ヘッヘッヘ」老人は頓珍漢な挨拶をして愛想笑いをした。

三日目の新聞にも、ストランドの路上の殺人事件に就ては、一行の後報もなかった。柏が私が何をしているかと思って覗きに来たのはその晩であった。

「どうだ職業は見付かりそうかね」

「犬ボーイの口がある。先方から返事のあり次第直ぐ出掛ける事になっている」

「犬ボーイとは恐入ったね。その決心はいいとして、ここにこんな広告が出ている」柏はポケットから新聞を引出して広告欄を指差した。

求秘書

東洋の人情風俗に精通せる、係累けいるいなき青年紳士を求む、当方住込、

履歴書を添え申出られたし。(姓名在社三六〇号)

「結構な話だが、競争者が多いだろうし、それにこっちは日本人ときているから、先ず採用される見込はないね」私は気の乗ない返事をした。

「そんな心掛けだからいけない。注文通り係累はないし、東洋の事情には通じ過ぎているじゃアないか。物は試しだ。兎に角手紙を出して当って見るがいい」柏は熱心にいった。この男は自分のいいと思った事は、何事に拘らず他人に強いる癖がある。無下に断れば気を悪くするに極っているので、云わるるままに履歴書を認め、希望条件はなしと記した。

「これで上等だ。俺が投函してきてやる」といって柏はフイと表へ出ていったが、それっきり、何時まで待っても帰って来なかった。

三

翌日の午後、私は思掛けぬ手紙を受取った。それは前日の広告主からの返事である。

――拝啓、

貴書拝見仕候、御面談致し度に付この状着次第下記へ御来訪相成度候。

倫敦市南区グレー街十番

ガスケル家

飯田保次いいだやすつぐ殿

「こりゃ意外だ」私は思わず呟いた。斯う雑作なく職業にありつくのは聊いささか飽気ないような気がするが、満更悪いものでもない。私は間もなく家を出た。

道々私を奇異に感じさせたのは、広告主があまりに近いところに住んでいるという事であった。考えて見れば世の中には随分就職難に苦しんでいるものが多い。然しながら需要と供給は案外目と鼻の間にあっても、うまくぶつかり合わないものだ。私の場合は非常に幸運な機会チャンスであらねばならない。

グレー街というのは大通りを二つ越した閑静な一劃で、十番のガスケル家は木立の多い邸宅である。その家ならば散歩のゆき帰りによく前を通った事があるが、ついぞ御用聞の出入さえ見掛けた事のない家である。私は高い石段を上って、緑色に塗った玄関の厚い扉の前に立った。案内を乞うと、稍久時しばらくして廊下の奥の方から重い足音が聞えてきた。ガチリと扉を開けて痩せた婆さんが顔を出した。

「お前さん。何用です」婆さんは迂散臭うさんくさそうにいった。

私は黙って婆さんの鼻先へ手紙を突出して見せた。婆さんは霎時私の顔と、手紙を見較べていたが、大きく頷首いて私を室内へ導き入れた。

「ここで待っていて下さい」婆さんは私をガランとした火の気のない客間へ残して奥の方へ引込んだ。

部屋は往来に面していたが、焦茶色のカーテンが外の光を遮って暗く陰気であった。永く使わないと見えて飾棚の上にも、椅子の肘にもザラザラと塵挨が積っていた。間もなく先刻の婆さんが扉をあけて、

「旦那様がすぐお目にかかるそうですから、どうぞこちらへ来て下さい。旦那様は御病人で、お気が短いから気をつけて下さいよ」といった。

階段の下から廊下を右へ曲って、とある奥まった部屋の前までゆくと、戸口を指さしてクルリと引返していった。

婆さんの姿が廊下の曲り角に消えてしまうまで私は後を見送っていたが、詮方なく教えられた戸を軽く叩くと、内から返事があった。

細長い大きな部屋の一隅にホロホロと暖炉ストーブを焚いて深い凭より椅子に埋まっていた老人は、私を見ると杖を挙げて、

「もっとこっちへ来るがいい。儂はこの通りの㾱疾者でな。立って歩く事が出来ない」見た様子の割に若々しい声でいった。私はいわれるままに側へ寄って、自分を名乗った。

「儂の世話はアグネスという女中が見てくれるので、君の暇は充分ある。君の手紙には希望条件はないとあったが、ない事はあるまい。一年の給料は?」

「実は私はまだ給料というものを他人から貰った事がありませんし、それに私の仕事の性質も伺っていないので見当がつかないのです」

「よろしい。では給料の点は儂に任まかしておくがいい、それから君は何日何時でも旅行に出られるだろうね。儂が新聞広告で係累けいるいのない人間を求めたのはそうした理由だよ」

「すぐ其場から、何処へでも飛出してゆけます。然し私の仕事は?」

「仕事などは誰にでも出来る事だから、心配せんでもよろしい。ところで儂の方に条件があるが、それを聞いた上で返事をして貰わねばならぬ。

第一は儂の命令がない限り、如何なる用事があろうとも絶対にこの部屋へ入る事はならぬ。

第二は夜間九時以後は庭先を歩かぬ事。儂は寝付が不良わるくって困っておるのでな、夜分庭先などを歩かれると、気になって仕方がないのだよ」老人は微笑いながら更に言葉を続けて、

「それから飯田保次という君の姓だがね、呼び悪にくいからヒギンスと名乗って貰いたい」そのような他愛のない条件なら、何でもない。私は異議なく承知した。老人は気が早い。彼は満足気に私の手を堅く握って、

「家の晩餐は七時だから、それ迄に引移ってくるがいい」といった。

ガスケル老人との会見は三十分程で済んだ。

私は広い街路を夕陽を一杯に浴びながら、下宿へ帰った。地下室の家族の食堂へ下りていって、揉手をしながら立っている内儀さんに、私はこんな意味の事をいった。――詮つまり、これから自活する決心で今晩から某家へ雇われる事になった。永く辛抱が出来ればいいが、未来の事は誰にも判らない。不良わるかったら何時でも帰ってくるから、その時はまた面倒をかけますよ。――内儀さんは眼をしょぼしょぼさせながら黙って私の言葉を聞いていたが、

「いやになったら遠慮なしに帰っていらっしゃい」と自分の息子を送り出すような調子でいった。何としても内儀さんとは一年越の馴染である。朝夕寝起きをした部屋にも名残が惜まれた。荷物をまとめてタクシーに積込み、住馴れた家を後にした時は不思議に淋しい気がした。

四

初ての夜であったせいか、翌日は平常より余程早く目覚めた。木立の多い裏庭の樹木の繁みに小鳥の影がチラチラ動いていた。灌木の間を貫いている明るい小径の突あたりに、終日、青空の白雲を映しているような古い池がある。庭園はさして広くはないが、三方の煉瓦塀の上に常盤樹が覆いかぶさるように枝を交えている様は、市中の住居とは思われない程であった。

フト気がつくと、窓の下の横通りに面した庭木戸が二寸計り開いていて、屋根を離れた朝日が戸の隙間を赤くしていた。

「誰かが庭口から出入りしたのだな、然し植木屋が入っている訳でなし、家族のものが枯木を積重ねたあのような庭口から出入りする筈はないが……」とそんな事を漠然と思耽っていると、突然静まり返った階下から無気味な食事の鐘が聞えてきた。

私は手早く衣服を着けて食堂へ下りると、老人はとっくに食卓に就いていた。

「今日はS街の国民銀行へいって、十二番の窓口へこの書類を差出し、そこで用紙に署名をしてきて貰いたい」老人は私に銀行宛の厚い状袋を渡した。

国民銀行はS街の辻にあった。私が食事を済して銀行へついたのは九時半であった。窓口へ書類を差出して前の椅子に控えていると、商人体の男達や、白手袋に杖ステッキを持った気取った男や、三つ釦のこくめいなモーニングを着た律義らしい老人、其他とりどりに盛装した若い女達が、広い構内をざわざわと歩いていた。

私は夫等の人達が入替り立替り、重い押戸を開けて出てゆく姿を眺めているうちに、思掛けなく雑鬧のうちに、先夜サボイで見掛けた老婦人とぱったり視線を合せた。私は思わず声を出して馳寄ろうとしたが、不良い工合に私の番がきて、窓口から顔を出した行員が頻りに、

「ヒギンスさん、ヒギンスさん」と私の仮名を呼んだ。そうなっては仕方がない。私は行員の差出した紙片を引たくるようにして、手早く、ワイ・ヒギンスと署名した。私は自分の用事を済してから根気よく人々の間を泳いで探し廻ったが、問題の老婦人の姿は既もう何処にも見えなかった。

それから間もなく私は銀行を出た。アスファルトを敷いた舗道に早春の太陽がきらきらと躍っていた。そこには十数台の自動車が、ずらりと一列に並んでいて、その一番端れの自動車の横手に、又しても私の下宿の居まわりで見掛ける例の老人が、その自動車の中へ首を突込んで親しげに何事か話合っていた。

「オヤオヤ」と思う瞬間、銀行から先刻の老婦人が出てきて、小走りに舗道を横切ってその自動車へ乗った。

同時に自動車は粗末な服装をした老人を後に残して、商家の立並んだ大通へ疾走はしっていった。

私は自分でも意識せずに傍に停っている空車に片足を掛けていた。私の乗った自動車は強く一揺れ揺れて一散に、先へゆく自動車を追った。自動車は、雑鬧した街を折れ曲って百貨店の横をB街まで上っていった、が更に大迂廻をして公園の下へ出た。慥に私の車が後を尾行つけているのを知って、どうにかして巻こうとしているらしかった。その中、先の車は何と思ったか急に速力を弛めて、とある家の前で停った。

「此処でよろしい」私は半丁計り手前で車を飛下りた。と見ると、空色のアフターヌウンに黒い毛皮の外套を着た若い婦人と、先刻銀行で顔を合せた老婦人が、飛鳥のような素早さで自動車から下りて、石段を馳上るなり、厚い扉の裡に姿を隠してしまった。毛皮の外套を着た若い婦人は紛れもなく、先夜の「愛の杯」の主人公であった。

私は久時して何気ない様子で、二人の入った家の前を通って見た。それは表通りの窓を悉ことごとく塗りつぶしてある、古風な家で小さな金具に一〇一番と記してあった。

家の前を通り過ぎた時、顔をあげると、高い三階の窓掛けがチラと動いた。誰かが窓掛けの後から覗いていたらしかった。私は水をかけられるようにハッとして、二軒目の家から街灯の柱の立っている、最初の横町を曲ってしまった。

何かしら私はすっかり重荷を下したような心持で、敷石の上を歩いていると、すぐ背後に気忙しい小刻みの靴音が聞え、続いて、

「モシモシ、失礼ですが、鳥渡……」という婦人の声がした。振返ると、何時の間にか先刻の老婦人が立っている。

「いつぞや、サボイの食堂でお目にかかりましたね。あの時のお方でしょう」と彼女は微笑いながらいった。

「エエ、私です。あの節は失礼いたしました」

「どう致しまして……ホホホ……貴郎あなたが失礼をなすったのは、たった今でしょう。貴郎は銀行の前から、わざわざ私共を尾行けていらっしてね。何という物好きな方でしょうと、お嬢様と二人でお噂をしていたのですよ」老婦人は相変らず片頬に微笑を浮べながらいった。

「申訳ありません。実はご推察の通りです。銀行で貴女をお見掛けしましたので、若しやお嬢様と御一緒ではないかと思い、せめてお住居だけでもと存じましたのです」

「まア御熱心ですのね。お嬢様は東洋の美術品に大層興味を持っていらっしゃるので、日本の紳士とお近付になるのをお喜びですの。毎日午後はお宅にいらっしゃるから、いつでもお話しにいらっしゃいませ。そうそう他にお約束がありませんでしたら、今夕五時半のお茶にいらっしゃったら如何?」

「今夕の五時半に私がお嬢様をお訪ねしてもよろしいと仰有るのですか」思掛けぬ老婦人の言葉に私は、自分の耳を疑う程であった。

「お待ち申しております」と老婦人はいった。

何という奇蹟のような機会であろう。余りによすぎる話に先方の意こころを計りかねて、しばらく躊躇したが、結局厚かましく招待に応ずる事にした。

後刻を期して老婦人に別れた私は、限りない歓喜にうなだれながら、何処をどう通ったか、殆んど夢心地にグレー街へ帰りついた。五時半、五時半には何事があろうというのか。

五

銀行前で見掛けた例の見窄らしい老人は、何の為に不自由な体躯であんなところにいたのか、怪しむべき限りであるが、異様な喜悦に魅せられている私の胸に、チラと疑惑の白い雲を投げただけで、そのまま消えてしまった。

グレー街の三階の部屋へ戻った時には、まだガラス窓に黄色い薄日が漣波さざなみのように慄えていた。広い家の中はカタリともせず真夜中のように寂しずかであった。私は暖炉の前の長椅子に身を投げて、石炭の燃える快い音をきいているうちに、いつかグッスリと睡入ってしまった。

夫から何時間経過たったか、眼を覚した時は部屋の中はすっかり昏くなって、窓の外に白っぽい霧が濛々と立罩めていた。私は周章てて机の上の時計を見ると、約束の五時半には僅に数分を余すのみであった。睡っている間も、ベーカー街一〇一番を忘れなかった私は、美しい幻を趁おいながら、仕度もそこそこに家を飛出した。

附近の停車場前の溜場からタクシーに乗って一〇一番の家の前で下りると、重い扉の前に立って躊躇しながら呼鈴を押した。二分――三分と時が異様に過ぎていったが、何とも応えはなかった。極りの悪いような心持と、軽い不安が私の胸に覆いかかってきた。もしこうした事が運命なら、この重い扉は永久に開かれなくともよいなどと思ったが、それは只思っただけで、私の手はスッと延びて扉の中央についている金具をコツコツと叩いてしまった。

扉の内側が急にざわざわして、廊下を往ったり、来たりする絹ずれの音が聞えてきた。誰かが声を潜ひそめて何事か話合っている。間もなくそれ等の物音はパッタリと歇やんでしまった。私は石段の上でマゴマゴしているうちに、扉を細目にあけて、その隙間から顔を出したのは先前の老婦人であった。彼女は酷く狼狽あわてているらしかったが、私を見るといくらか安心したらしく、

「よくいらっしゃいました。さアどうぞお入り下さい」と裏庭に面した書斎へ導いた。

「このような火もないところへお通しして済みませんが、お客間が片付くまで、書物でもご覧になっていて下さい」

「有難う、どうぞ、御ゆっくり」

「お嬢様はすぐお目にかかりますから、暫時お待ち下さいまし」老婦人は部屋を閉めて出て去いった。

本棚の横手には頑丈なマホガニーの卓子があって、その上に緑色の敷布のかかった電灯が置いてある。暖炉は滅多に使用った事はないと見えて、真鍮の金具が燦然と輝いている。飾棚の置時計の横に新刊の小説本などが積んであった。何気なしに時計の面を見ると、針が四時半を指している。私は喫驚して自分の懐中時計と較べ合せた。自分のも矢張り四時半になっている。何の事だ。私は仮睡うたたねから覚めて飛起きた時、周章あわてて時計を見誤って約束の五時半より一時間早くこの家を訪問した次第である。何という粗忽者そこつものであろう。時間を生帖面に守る英国人の家へ来て、それも初めての訪問に一時間も早く来てしまった事は恐縮の至りである。成程客間の片付かないのも、老婦人の周章てたのも無理はない。私は甚だ間の悪さを感じた。それでゆっくり腰を据えて、その埋合せに幾時間でも待つ気になった。

グレー街のガスケル家に劣らない程、寂かな家だ。広い一〇一番のこの家は、現世にたった一つ取遺された建物のように深い寂寞のうちに沈んでいる。

置時計の単調な針が進むにつれて、湿っぽい夜気が犇々と迫ってきた。

五時十分にコトコトと階段を下りてくる靴音をきいた。私は救われたように椅子から立上ったが、靴音は書斎の前を通り過ぎてフット消えてしまった。何処かで扉の閉る音がした。

夫それから又、永い三十分が過ぎた。私は耐らなくなって、扉をあけて廊下へ出ると、恐る恐る正面の階段を上っていった。二階にも三階にも三つずつの部屋がある。私は一つ一つ扉を叩いて部屋を覗いて見たが、誰もいない。三階は殊に家具のない裸部屋であった。二階の表部屋だけに僅ながら暖炉の石炭が燃えている。急に逆のぼせ上ったように顔が熱ほてってきた。私はこま鼠のように、階段を上ったり下りたりして家人を探そうとした。ある恐ろしい予感が私の心にかげをさしていた。私は最後に残された玄関わきの暗い客間へ入って見た。其処にも人のいる気配はなかったが、暖炉の前の長椅子に何か置いてある。窓外の薄明りに、黒い輪廓が見えた。思切って電灯のスイッチを捻った瞬間、思わず声を挙げて後へ飛退いた。そこには紺サージの服を着た男が、仰向に椅子に凭もたれたまま、ダラリと四肢てあしを踏延ふみのばしている。私は少時、棒立になって立竦んでいたが、怖々ながら側へ寄って顔を覗込んだ。男は先夜サボイ劇場で、私の隣りにいた肥った中年の仏蘭西人で、後頭部を椅子の角へ凭せかけて口から涎を流している。私はこの有様を見て、何故この家の人達が姿を隠したかが朧気ながら首肯うなずかれるように思った。この仏蘭西人はこの家の歓迎されない不意の訪問客であったに違いない。先夜サボイ劇場で彼等仏蘭西人が密談していた事実に徴しても男はこの家の喜ばれない客である事は明白である。そして予め来訪が分っていたならば、五時半のお茶に私を招待する筈はなかった。部屋にはこれといって目星めぼしい調度はない。卓子の上に灰皿と煙草があった。男の足下に新聞と、立消えになった巻煙草の呑さしが落ちている。その吸殻と卓上の煙草とは同一のマークがついている。吸殻は黄色く燻ぶっていた。煙草に魔睡薬が仕込んであるに違いない。私はそれを自分のポケットへ蔵しまった。新聞紙は男のもってきたもので、この家のものでない事はポケット大に折り畳んだ折目がついているので直ぐ判った。題字わきの余白に鉛筆で El 32と記してあるのは、El は町名の頭字で、数字は家の番地である。即ち Elizabeth Street 三十二番に相違ないが、私の知っているだけでも倫敦にエリザベス街と名のつく町が二つある。倫教案内でも見れば、その他にも多くのエリザベス街があるかも知れぬ。この鉛筆の文字は新聞の取次店がそれぞれ配達前に覚書をしておくものである。私は後日何かの必要の場合を思って新聞紙もポケットに押込んだ。

ストランド街の露路の殺人事件に就てこの男はなくてはならぬ重要な関係者である。卒直に私の心持をいえばこの男こそ最も有力な嫌疑者であらねばならぬ。そう思っている心のすぐ奥に、彼の令嬢のもっていた緋房が現場に落ちていた事を思浮べた。彼の令嬢を付狙っていて殺された男、その加害者? の肥満ふとった男、その男に魔睡薬を用いて逃去ったあの令嬢と老婦人、そう考えてくると私には薩張さっぱり訳が分らなくなる。私は昏睡状態にある男が、今にも覚めはせぬかと気遣いながらも、短時間に出来るだけの事実を知って置こうと思った。実のことをいうと、私はその男に就いてより、令嬢の身の上を知る事に時間の大部分を費したのであるが、そういう方面に才能のない私の如き素人には、何等手懸りとなるらしいものを発見し得なかった。そのうちに私は誰もいない家に、それも初めてまぐれ込んできた不思議な家で、万一斯こうした事件にかかり合うような事があっては大変だと思った。私は誰にも見咎られずにそっと一〇一番の家を出た。往来には数人の男が通っていた計りであったが、気のせいか、向い側の葉の涸落ちた行路樹の陰を歩いていた男が自分を見張っていたように思われてならない。賑かなピカデレー街へ出た。それから裏通りを引返してボンド街へ出ると、先前の男は既う見えなかった。

ボンド街のギャラリイでは絵画の展覧会をやっている。閉場後で鉄柵に広告ビラが立てかけてあった。私は酒場の角を曲って暗い横町へ入った。三人ほどの男が並んで酒場を出てきたが、そのうちの一人は私の姿を見て急に足をとめた。いよいよ本ものの探偵だなと私の胸は早鐘を衝くように鳴出した。私は暗い道を一目散に逃げた。そして首尾よく公園前の十字路へ出ると、遮二無二に乗合自動車へ飛乗った。

市街は白い霧に包まれている。その中を重い自動車は素晴しい音響を立てて疾走している。川岸の工場のわきで私は車を下り、寂しいC町へ向った。私は柏を訪ねてあの夜以来の事件を一切打明けて、力を借りようと思ったのである。私は家の前に立って高い窓を仰いだ。表道路に面した三階の彼の画室は電灯が点いている。私は開放しになっている玄関をぬけて、案内もなく勝手を知った三階へ上っていった。

部屋には灯火が点いている計りで柏の姿は見えなかった。相変らず部屋は乱雑である。毀れかかった椅子の上に服が脱ぎすててあったり、穢れたシャツやカラーが寝台の下に投込んであったりするのはいつもの通りであるが、部屋の真中に磨上げた靴と、一輪ざしの花瓶がじかにおいてあってカアネーションが挿してあり、そのわきにフライ鍋が投出してあるのが、何だか謎々のようである。私は斯うしたまじめな場合におりながらも微笑を禁じ得なかった。私は余程軽い気持になっていた。これで柏の顔を見て一時間もお饒舌をすれば先夜来の重荷もすっかり軽くなるだろうと思った。

待てども、待てども柏は容易に帰って来ない。恐らく近所のカフェへ珈琲でも飲みにいっているのだろうと思ったけれども、気紛れな柏の事だから、カフェの帰りに何処へ飛んでいったか分らない。私は煙草を三本も四本も飲んでから、待ち倦あぐんで戸外へ出た。

グレー街の家へ帰って、塵挨を被ったような電灯のついている暗い廊下を通って、主人の居間の方へ行こうとすると、階段のところで、バッタリ雇人の婆さんと顔を合わせた。

「そっちへいってはいけませんよ。旦那様はお加減が不良いとかで、今しがたお寝みになったところですよ」

「では明朝お目に掛るとしよう」私は二つの階段を上って、三階の寝室へ入った。

私は電灯を消すと、窓のブラインドを一ぱいにあけて、床へ入った。私は疲労つかれきっていた。それでいて頭脳は妙に冴返っていて、朝からの出来事が非常にハッキリと、そして素晴しい迅速はやさで、次々と脳裡に映っていった。ああした事情で、親しく令嬢に会う機おりを喪ったけれども、彼女が一度でも自分如きに会ってやろうと思ってくれた事だけは確であったに違いない。それだけでも私は嬉しかった。

たった一つ彼女の事を除いては、私には現世に何のひきつけるものはない。おこの沙汰ではあるが、私は奇あやしきまでに女の美しい姿に引つけられた。私はどうしても彼女を尋ね出そうと堅く決心した。

夜中に一度目を覚した。戸外にはいつか風が出て裏庭の木立を騒がせていた。私は枕をかえして寝返りをした時、墓穴のように静まりかえった階下で、誰かが咳をするのをきいた。続いて床を歩く人の跫音がした。マッチを摺って枕元の時計を見ると午前一時である。私は床の上へ起上って耳を欹そばだてた。私はそっと部屋の外へ出て、階段の上から下を覗いた。寸時歇やんでいた跫音がまた聞えてきた。怪しい物音に釣込まれて、私は怖々ながら一番下の廊下まで下りた。跫音は確に老人の居間から起った。老人の居間の扉の上のガラス戸に室内の電灯が明るく映っていた。夜前の雇婆さんの話によると老人は身体の工合が悪くて臥ている筈である。それを斯うした遅い時間に、而も歩行の不自由な㾱疾者インバリットが起きて歩いているとすれば啻事ただごとでない。

「盗賊かな、それとも医者かな」私は念の為に老人の居間を検めて見ようと思ったが、この家に雇われた時の約束を思出して躊躇した。それっきり、跫音も咳しわぶきもパッタリ歇んでしまったので、思返して部屋へ戻って、毛布の中へ潜込んでしまった。

六

翌日は朝から陰鬱な雨が降っている。雇婆さんが朝飯を食卓に乗せて私の寝室へ運んできた。

「旦那様はまだお加減が悪いので、食堂へはおでになりませんから、貴殿はここで召上って下さい」

「そんなに悪いのですか。昨夜は遅くまで起きていらっしったようですが、医者でも来ていたのですか」

「医者などは来る筈はありません。御主人は医者が酷くお嫌いなのです。昨日は日が暮れると、じきにお臥寝やすみになってしまいましたよ」

婆さんは私が夢でも見たのだろうというような顔付をして、卓子の上へ食事をおくと、さっさと部屋を出て去った。

どう考えてもこの婆さんは単なる普通の雇人ではなかった。私はこの家へ来て以来、幾度となくこの老婦人と顔を合せたが、老婦人と主人のガスケル氏が話をしているのを一度だって見掛けた事はなかった。それでいて婆さんはいつも老主人の意志を私に伝えている。その日も食事を済してから主人の病気を見舞いに行こうとすると、

「旦那様は大分およろしいようですがね。ご用があったら、お呼びをするから、貴殿は御自分の御用をなさるようにとそう仰有っていらっしゃいました」婆さんは階段の下で、またガスケル氏の言葉を伝えた。

「裏の庭木戸が、昨朝も今朝も開いていたようですが、差支えないのですか」いくらか気掛りだったので次手ついでに訊いて見た。婆さんは鳥渡喫驚したように、まじまじ私の顔を視守っていたが、

「そうでしたか、私は少しも気がつきませんでしたよ。錠が破損こわれたままで、まだ修繕もせずに抛ってあるんですよ。尤もあんなところが開いていたって格別の事はありません」婆さんは事もなげにいった。

私は其日は終日在宅して、久振りで柏に手紙を書いた。無論私は手紙にあの晩以来の出来事を書くような無謀な事はしなかった。

次の朝、私は老人と顔を合せた。彼は相変らず弱々しい体躯を凭椅子に埋めて新聞を読んでいたが、音声こえだけはいつものように元気だった。

「すっかり、なおったよ。年をとると、から意気地がなくなって、いつ風邪を引込むか分らず、それに永びいて困る。そんな時は二日でも五日でも人間の顔を見ずに、床に入っているに限る。それが儂には最上の療法なんだよ」と笑いながらいった。私は振出人ヒギンスの署名で、無記名一千円の小切手を書かせられた。老人は私からそれを受取って手提金庫へ蔵うと、扉続きの隣室へ入って私を手招きした。そこは寂として骨董品の展覧会のように、東洋の陶器類、支那、ジャバ、及び日本の能狂言の面、瑪瑙めのうや翡翠ひすいでこしらえた花生の鉢、其の他さまざまの道具が所狭きまでに置並べてある。

「君の用事は厄介だよ。目録を作らにゃならんのだが、面倒でも一つやって下さらんかね。品物には番号と年代が記入したカードがついている筈だから、それを番号順に列記して下さい」と老人は命じた。

「承知致しました。然しよくこれ程お蒐集になりましたね。この春信はるのぶなどは逸品だと思います」私は驚胆の声を漏らした。老人は満足らしく頷首いた。

それから数日の間、私は目録の製作に没頭した。ベーカー街の令嬢の事、昏睡状態に陥っていた仏蘭西人の事が気にかからないではなかったが、その晩一〇一番の家の前に立っていた怪しい男や、ボンド街の酒場から出てきた三人連のひとりや、それ等の無気味な尾行者? を思出して余熱ほとぼりの冷めるまで引籠っている事にした。

土曜日の朝、柏から手紙がきた。ボンド街のXギャラリーへ絵画を出品したら、当選したから見にきてくれ、と例の如く至極簡単に記してある。その日は私の休日であったが、一二時間も仕事をすれば、手都合のいいところまで形付いてしまうので、朝から部屋へ入ってせっせと仕事にかかった。一しきり仕事のくぎりがついた時、私は何かの用で境の扉をあけて老人の居間へ入ると、ガスケル氏は凭椅子を離れて、部屋の隅にある卓の前にスックリと立っていた。彼は人の入ってくる気勢に、卓の上のものを手早く抽出へ投込んで、いつになく恐ろしい顔をして振返った。

「いかん、いかん、君は何だってことわりもなく儂の部屋へ入るのだ。どのような用件があろう共、儂の許可なくして断じてこの部屋へ入る事は出来ないという規則ではないか」老人は苦りきっている。

私はその時、老人が卓の抽出しに隠したものを目敏く見付けた。それは燃えるように真赤な緋房ではないか。サボイ旅館の食堂で令嬢の持っていたものが、その晩殺人事件のあった現場に墜おちており、それを拾って帰った私は破れ靴を穿いた乞食老爺の靴の裏に踏かくされてしまった。その緋房がどういう理由でガスケル氏の手許にあるのであろう。

老人は不興気な様子で、探るように私の眼を凝視ていたが、じき穏かになった。老人の態度が異様であっただけに、私はその謎の緋房に就いて、一層疑惑の念を高めた。

私はそれから三十分後に、ボンド街Xギャラリーへ入っていった。妍爛けんらん目を奪うような展覧会の、奥まった三号室へ入ったとき、一番最初に目についたのは「歓の泉」と題する柏の絵画であった。それは柏の所謂「愛の杯」から其儘抜出してきたような彼女が白衣の軽羅うすものを纏って、日ざしの明るい森を背にして睡蓮の咲く池畔に立っている妖艶ようえんな姿であった。サボイの食堂でたった一目見た印象から、まるでモデルをつかって描いたように、斯くまで描上げた柏の伎倆に私は感嘆した。柏を探したが見当らないので、係員に訊ねると、

「毎日自分の絵を見に来ている、あの日本人の画家ですか、それなら先刻帰りましたよ」

私は男の言葉を背後にきき流して直に柏の宿へ向った。玄関へ入ると出会頭に鼠色の中折帽子を被った男に擦違った。彼だ! サボイ劇場で見掛け、一〇一番の家で椅子の上に仆れていたあの男だ! 私は思わず足を停めて声をかけた。男はチラと振向くなり、逃げるように立去ってしまった。私は三階へ馳上った。

「今出ていった男は何だ、何しに来たのだ」

私は何より先に問いかけた。

「あれか? 別に僕の絵が欲しいようでもないが、僕の出品した例の『歓の泉』を激賞して、モデルは何処からきたかなどと頻りに訊いていたっけ。矢張り僕と同じく彼女の崇拝者かも知れない」

「僕もあの絵を観てきた。近来の傑作だね。君は今朝も会場へいっていたんだってね。一足違いだったよ」

「会場へなんかまだ行くものか、昨日は風邪をひいて臥ていたし、今日は出掛ようとしているところへ、あいつが来たんで……」

柏の言葉が終らないうちに、けたたましく呼鈴が鳴った。窓際に立っていた私はカーテンの陰から下を覗くと、玄関の石段の上に制服巡査と、大黒帽を被った自動車の運転手らしい男が立っていた。それは先夜彼女を乗せて逃した折の、自動車の運転手であった。

「これはいけない、何処か隠れ場所はないか、屋根裏? 便所?」私はオロオロしながら叫んだ。

七

呆気に取られている柏を押飛ばすようにして私は廊下へ出た。突当りは便所で行止りであるし、屋根裏へ遁にげる梯子も見当らなかったので、又部屋へ戻ってガリガリと古戸棚を開けたりした。寝台の下へ潜ろうとした。

そこへ扉を叩いて、警官と運転手が入ってきた。絶体絶命である。運転手は私を指差して、

「この方です。この方が暮の二十九日の晩に、ストランドの裏通りから駆けてきて、あの女を私の自動車へ乗たのです」

「一体どうしたんです。女とは誰です? 私の友人と何の関係があるんです」私が言葉を発する前に、気早な柏は一足前へ進み出ていった。

「お騒がせして相済みません。実は御承知かも知れませんが、暮の二十九日の晩、ストランドの裏小路で、殺人事件があったのです。被害者の身許も知れず、又犯人の手掛りもつかないのですが、この運転手が当夜自動車へ乗せたという婦人に嫌疑がかかっているのです。ところが今日、この運転手はボンド街の展覧会から出てきたこの方を見て尾行けて来たのです。私がここへ来ましたのは、ストランドの辻から自動車で遁げた婦人とこの方と、どういう関係があるのか、それをお訊ねする為です」と警官は割合に叮嚀にいった。運転手は顔の寸の短つまったいっこくらしい男である。彼は警官が柏に説明している間も、猜疑深い調子で、じろじろと私を睨廻ねめまわしていた。

「私は芝居の帰りに偶然出会った若い婦人が、何か頻りに帰途を急いでおられ、お困りの様子でしたから、タクシーを呼んであげた計りです。名前も知りませんし、無論何処へ帰ったのかも知りません」私は運転手などを相手にせず、警官に向って最初の言葉を開いた。

「婦人を自動車に乗せてから、貴殿が運転手に行先をいったそうではありませんか」

「ピムリコまでと運転手に命じました。それは、婦人が私にいったからです」

柏は話の経緯すじみちが了解のみこめないので、不思議そうに吾々三人の顔を見較べていた。運転手は掴みかかるような権幕で、私の前へ躍出した。

「おい、本統の事をいうがいい。ピムリコなんかへ行けばとんだ事になったっけね。中途で婦人は気がついて、V停車場の西口で降りてしまったよ。お前達のような奴がくるから、倫敦が悪くなるんだ」

「馬鹿野郎! 俺の友達に対して何をいうんだ」柏は運転手の暴言を買って出て、相手の胸を小突いた。

「乱暴しちゃアいかん。兎に角ここで争っても仕方がない。御迷惑でしょうが、署まで同行して下さい。この事件は近来での怪事件で、スコットランドヤードでは、非常な努力で犯人を挙げようとしているところですから、仮りに貴殿方が多少でも、この事件にひっかかりがあるとすれば、それが手掛りとなって、犯人の逮捕に、どんな便宜を与えるかも知れんですよ」警官は対話の間に、私共は同じ東洋人でも、日本人である事を知って、言葉にも、態度にも、親しげな様子を見せてきた。被害者が東洋人であれば格別、相手が縁の遠い仏蘭西人ときているので、常識から考えても私共と被害者と直接の関係はないと思ったらしい。

警官の言葉に従って、私達は倶々に警視庁へいった。柏は付添人という格である。

私共は窓の外にウエストミンスターの塔の見える広い部屋で、カクストンという部長の訊問を受けた。私はそこで勢いボンド街の展覧会へ柏の絵画を観にいった事を話さねばならぬ破目になったが、劇場で彼女と二人のフランス人を見掛けた事と、又ベーカー街に彼女を訪ねた事も、凡て彼女に関する事は口にしなかった。

然しカクストン氏は、柏の描いた絵が彼女である事を知っていたので、巧みにしらを切ろうとした事が、少しぐれはまになってきた。何にも知らぬ柏は正直に、暮の二十九日にサボイの食堂で彼女を見掛けた事、それからヒントを得て製作にかかったという順序を述べた。柏は余り上手くない英語で彼女を最上級の形容詞で嘆美して、私をハラハラさせ、係員を微笑させた。ここでは完全に「日本人は見掛けによらぬ狡猾カンニングだ」という彼等の観念を覆えおおせた。

「どうも御苦労でした。又何かの機会でその婦人にお会いにならぬとも限りませんから、そんな事があったら直ぐ知らせて下さい」とカクストン氏はいった。そこへ電話がかかってきたので、氏は眼で挨拶をしながら、私共が室外へ出てゆくのを見送っていたが、

「鳥渡お待ちなさい。展覧会で絵画を盗まれたのです。それが君の出品した絵のようだ。確か君の画題は、『歓の泉』とかいいましたね」と呼びかえした。

「私の絵が盗まれましたって? それはいつです。飯田君がつい先刻見てきた計りじゃアありませんか」

柏と私は愕然として顔を見合せた。白昼衆人環視の中で、そのような大胆な行為が行われようとは到底想像も出来なかった。

「早速、会場へ行きましょう」カクストン氏に促されて、私共はボンド街に向った。

会場の前では大勢の人々が凝かたまり合って喧しく盗難事件の噂をしていた。一時閉場された会場の非常口から入ってゆくと、係員達が空間になった壁の前に立って、善後策を評議中であった。

「会場に誰もいなかったのですか?」カクストン氏が人々を見廻しながらいった。

「いないどころではありません。一番混雑こんでいる最中でした。尤も看守人は丁度隣室を見廻っていた時でした」世話人のひとりが答えた。

「入場者は絵画が現場から運び去られるのを見ていたのだそうですが、犯人が余り落着払っていたので、出品者が何かの都合で、自分の絵を外してゆくのだと思ったという事です。その男は絵画の前に集っていた人々に、愛想よく会釈しながら、ニコニコして担いでいったそうです」ともう一人の紳士が述べた。

「すると、犯人は東洋人だったのですね」とカクストン氏が訊ねると、その朝私と言葉を交えた係員が、

「その男は展覧会が開会された日から、いつもあの絵画の前に立っていましたから、私は出品者の柏さんという日本人かと思っていました。今になって考えて見ると、あれは支那人だったかも知れません。Rの音を皆なLのように発音していました。普通日本人の方だと、Lの発音が旨くゆかないようですね」とちらと私共の方を見ながらいった。事実私共はLとRの発音では、下宿の内儀さんからまで、やかましく云われていたのである。私の頭脳の中には柏の下宿の入口で擦れ違った仏蘭西人の顔が浮んでいた。屹度あいつが支那人を手先に使って盗ませたに違いないと思った。然し私がここで仏蘭西人の事などを手柄顔に持出すと、ついそれからそれへと糸をひいて、彼女の事にまで云い及ばねばならぬ破目になると思って、秘密の上に、また秘密を重ねてしまった。その代り私は柏の為に素人探偵の役を勤めて、必ずあの仏蘭西人を探出して絵を取戻そうと決心した。私はどうしてもあの仏蘭西人を犯人とひとりぎめにしていたのである。

私共はカクストン氏を遺して会場を出た。柏はすっかり気抜けがしたように呆乎ぼんやりしていて、碌に私の言葉に返事もしなかった。私は最初柏を下宿まで送っていって、気持を引立ててやろうと思ったが、私には考える事があったので、公園の角で、

「おい、そう悄気しょげるなよ。二三日見て居給え、君の絵は屹度探し出して見せるよ」と彼の肩を叩いて別れた。

睡ったような沈滞した午後であった。高い建物の間々から幾筋も往来へ射込んでいる赤い西日の中で、黄色い塵埃が金粉を吹飛したように躍っていた。

私は塵埃をかぶった靴の先を視詰めながら、様々な事を考え耽っていた。その一つは矢張り「彼女」の事であった。「彼女」は何故あの晩、私に行先をピムリコと云わせておいて、中途からV駅の西口で降りたのであろう。矢張り私にまで行先を晦ます為であったのであろうか。「彼女」の住居はベーカー街であるのに、それと全く反対な方向へ逃げていったのはどういう理由であろう!

私は識らず識らず、V駅の西口まで来てしまった。尤もそこから私の住んでいるガスケル家へゆくには、さして遠廻りでもなかった。淋しい街を一つ越えると、すぐそこはグレー街であった。

私の第一の仕事は、いまのところ例の仏蘭西人の居所を突止める事であった。私はそれに就いて何一つ手掛りは持っていなかったが、唯一つベーカー街の彼女の家で彼の足下から拾ってきた新聞の文字だけが頼りであった。それには El 32という文字があったのをよく記憶している。ELを頭字にしたエリザベス街はそこからグレー街へゆく途中であった。

私の訪ねあてた32番の家は表扉を緑色に塗った三階の煉瓦建であった。擦り空へった石段の上に立った私は襟のつまった黒い服を着た老婦人に、仏蘭西人の事を訊ねると、

「ああ、貴郎の仰有るのはルゲナンシェさんの事ですか。あの方は久時私の許にいらっしゃいましたが、一週間前に議事堂の裏手のクインス旅館とかへお移りになりました。手紙が来たら受取っておいてくれ、土曜日に取りにくるからと仰有ってでした」といって老婦人は玄関の卓子に乗っていた一通の手紙を見せた。私の眼は手紙の表に記された、美しい女文字を見遁さなかった。

「この通り、手紙が待っているのですから、今日あたりお見えになるかも知れません」

私はそれだけきくと、横飛びにクインス旅館へ馳付けた。

「ルグナンシェさんは居りますか」私は帳場で二三の男と立話をしている若い番頭に問いかけた。

「ルグナンシェさんなら、たった今、その辺にいたっけ。部屋は五階の65番ですよ」

番頭はちらと私の方を見ただけで、すぐ向うをむいてしまった。

丁度紅茶の時間であった。古い、疲労れたような、建築で凡てが重く煤けていたが、却ってそれ等が由緒ありげに見えた。人々が絶えず出たり、入ったりしている。玄関の外には数台の自動車が駐っていた。

私は広間の食堂を、一通り見てきてから、昇降機にはよらずに根気よく五階へ上った。65番は二側目の廊下で、すぐ判った。ルグナンシェはいなかったがそのまま帰るのも何となく業腹だったので、四度目に最後のノックをしてから、把手を廻して扉を押すと、鍵がかかっていないで、思掛けなく内側に扉が開いた。

私はそこまできて、本能的に鳥渡躊躇したけれども、何かを探り出そうとする本来の目的の為にのぼせていたせいか、次の瞬間には案外落着いた気持で、吸込まれるように部屋へ入った。

確に例の仏蘭西人の部屋である。帽子掛にかかっている鼠色の中折帽子にも見覚えがある。私は一わたり部屋を見渡した後で、引手のついている化粧台の抽出しを立続けて開けると、襟飾ネクタイの入っている箱の中に一葉の写真を見付けた。

「彼女の写真だ。いよいよ怪しいぞ」と私は心の中で叫んだ。それは数年前に撮った紛れもない彼女の写真だった。ナタールのダアバン市で撮ったもので、裏面に親愛なるマキシム嬢へ、モニカよりと記してあった。

「モニカ、モニカ、何という優しい名前であろう」私は初めて知った彼女の名前を繰返した。

私がその部屋にとどまっていたのは非常に長い間のように感じたが、実はごく短時間であったかも知れない。そうしているうちに、私は他人の部屋にいる事が耐らなく不安になってきた。私は手にもった写真を幾度かポケットに入れようとしたが、思切って元の抽出しに投込んだまま、廊下へ飛出した。

せかせかと呼吸をきって三階まで下りてくると、階段の湾曲カーブのところで下から馳上ってくる絹擦れの音をきいて驚いて足を停めた。どうして婦人が昇降機によらずに裏階段を馳上ってくるのであろうと不思議に思った。それよりも、もっと驚いた事は夢にも忘れた事のない美しいモニカが、私の眼前に現われた事である。

「まア!」モニカの唇から微かに驚愕の叫びが洩れた。

「矢張り、僕を臆えていて下すったのですか」私はすっかりあがってしまって、しどろもどろにいった。

「いつぞやの事はどうぞお許し下さいませ。止むを得ない事情があって、あんな事になったのでございますから……貴郎はここへ何しにいらっしたのですの。何誰どなたかをお訪ねなのですか?」モニカは私の顔を覗込むようにして親しげにいった。

「貴女も御存知でいらっしゃいましょう。ルグナンシェという仏蘭西人を訪ねてきたのです」

「ルグナンシェ? 貴郎はどうしてあんな恐ろしい男を知ってらっしゃるのです。あの男がこの旅館にいるのですか?」モニカは顔色を変えた。

「知っている訳ではありませんけれども、あの男にはいろいろな疑惑をかけているのです。その一つは私の友人の絵が展覧会で盗まれたのです。事件の起った少し前に、あの男は私の友人のところへいって頻りに貴女の事を訊ねていました」

モニカは絵の紛失した事に就ては、余り興味を持っていないと見えて、深くは訊ねなかったが、

「あの男がここにいるとは、ちっとも存知ませんでした。私どうしましょう。あんな男に会ったら大変でございます」モニカは後へ引返そうとした。

「いいえ、ルグナンシェは部屋におりません。随分待っていましたが、帰って来ませんでした」

「それはいい塩梅でした。あんな男には決してお会いにならない方がよろしゅうございます。兎に角、こんな危険なところは一刻も早く逃げましょう。私は上までいって昇降機で、真直に下りますから、貴郎は此方からお帰り遊ばせ。またいつか好い機会にお目にかかりましょう」モニカは軽く会釈をして階段を上っていってしまった。

私はモニカの言葉ほど、ルグナンシェに対して恐怖も不安も持っていなかったが、彼女と恐怖を倶にしてここを逃出すという事は何か嬉しいような気がした。出来れば昇降機より早く階下へ馳け下りて、もう一度彼女と会う機会を作りたいと考えた。

私は一気に階段の下へ着いて、前額に集ってくる汗を拭いながら、広間の方を見廻したが、私の眼に入ったのは美しいモニカの姿ではなくて、ひよら長いカクストン探偵であった。

氏は私を見ると、すぐ手をあげて呼んだ。

「君も、ルグナンシェを怪しいと思っているのか。丁度いいところだ。吾々もあの男を張りに来ているのだが、ルグナンシェという男が果して柏君を訪ねてきた仏蘭西人かどうか見てくれ給え」

私はカクストン氏がどうしてルグナンシェと私との関係を嗅出したのかと思って、悸ぎょっとしたが、柏云々という言葉で、多分柏からあの日の出来事だけを聞いたのであろうと思って、いくらか安堵した。

私共はそこで、小一時間も見張していたが、竟ついにルグナンシェは姿を見せなかったので、五階の彼の部屋へいって見る事にした。私は無論その前に部屋へ入った事は、おくびにも出さずにカクストン氏の後に従った。

「畜生! 狐のような奴だ。既う嗅付けてしまった」先に立って入口の扉をあけたカクストン氏は吐棄てるように呟いた。主のない部屋は窓も箪笥の抽出も開放しになって、彼の所持品は悉く紛失なくなっていた。

「君は柏君の描いた婦人の絵を、特にルグナンシェが盗んだという推理をどう説明するね」

カクストン氏は意味あり気にいった。私はそれを説明する理由を沢山持っていたが、

「さア……」と曖昧な応答をしておいた。

私はそれから間もなく、カクストン氏に別れて、グレー街へ帰った。その街はいつものように寂しく睡っていた。どこの家も老人計りの棲家のように、窓に厚いカーテンを下している。敷石の上を照すのは、街灯の光だけである。

ガスケル家の前には、見馴れぬ貨物自動車が一台並んでいた。

「何だろう!」私は急に歩調を早めた。

貨物自動車には箱詰になった荷物や、トランクが満載してあった。もう一台の方には二人の男が暗闇の中で、黙々と荷物を積込んでいた。私は石段を馳上ってゆくと、玄関先に立っていた婆さんが、

「旦那様がこのお手紙を貴郎に遺していらっしゃいました。貴郎も早く御自分の荷物を出して下さい」といって、分厚な角封筒を渡した。

ガスケル老人の手紙には簡単に――急に米国へ向け出発する事になった。お前の旅券及び乗船券等は既すでに用意してある。俺は一足先にリバプールへ赴く。出帆は明日午後三時半である。お前は明朝七時、秘密にソーホー街八十八番を訪ね、品物を受取り、直にユーストン駅よりリバプール港行の列車に乗れ――と認したためてあった。そして小遣いとして思掛けぬ莫大な金が封入してあった。

私は余り突然の事で、少し躊躇したが、最初ガスケル家に雇われる時の条件の一つに、いつ何時でも老人に随行して旅行するという事があったのを思出した。予々かねがね世界を旅行するという事は私の大きな希望であった。

私にとってこんないい条件はない。然しながらこれ程の幸運に面しながら、私の心が浮立ないのは、恐らくモニカのことが頭脳の何処かに潜んでいたせいであろう。とはいえガスケル老人に従ってゆくという事は、私の生活である。性来なまけものの私は、この米国行を断って新に職を求むる為に努力する程の気力はなかった。

私は自分の全財産を詰めた貧しい二個のトランクを運送屋に渡すと、先ずこの事を柏に告げる為に再び家を出た。私は絵画を失って悄気返っている柏に、自分だけのいい話をしにゆくのを、少し可哀相だと思っていたが、部屋へ入ると、柏は調子外れなヴィオリンを弾きながら、陽気に流行唄を歌っていた。

「おい、飯田! 今日は奢るぞ」柏は楽器を寝台の上へ投出して勢よくいった。

「どうした。絵が出てきたのか?」

「盗んだ奴が金を届けてくれたんだ。誰だか名前は判らないが、有難い事だ。千円あれば当分内職なんかせずに絵を描いて暮せる」私は柏の為に金が入った事を喜ぶと共に、不思議な買主の事を考えさせられた。どうせ金を払う位なら、何故危険を冒して会場から絵を持ち出したのであろう。柏は私の米国行をきいて、

「お互に幸運が向いてきたんだよ」と心から喜んでくれた。彼は私が不意に出発する事に就ても、自分の手許に何者からか金が送られた事に就ても、格別奇異に感じていないらしかった。尤もこの男は世の中の出来事を何一つ不思議がった験ためしはなかった。たとえ私が伯爵の嗣子よつぎになったといっても怪まないであろう。私は夜が更けてから家へ帰って、ぐっすり寝込んでしまった。

翌朝はいつになく早起きをしたので、窓に近い栗の木に黒鳥が笛のような声で囀っていた。扉の外にはまだ洗面の湯がきていなかったので、私は昨日の使い残りの水で顔を洗った。身仕度をして食堂へ下りていったが、食事の用意もしてなく、暖炉も焚いてなかった。その辺の様子を見ると、昨夜この家へ泊ったのは、どうも私ひとりらしい。

出帆時間の事を考えると、愚図愚図しておられないので、すぐ附近のカフェへいって軽い朝食を摂取とった。丁度六時半である。それからソーホー街へ出掛ければいい時間である。煙草に火を点けて外へ出た私は、不意にカクストン氏に呼止められた。

「飯田さん、大変お早いですね。何処へ」

「鳥渡、柏のとこまで……」立入った事を問われて、私は少し不愉快を感じたが、秘密の要件を持っているので、口から出任せを答えた。

「それは丁度いい、私も柏君を訪ねるところだから、御一緒にゆきましょう」

私は詰らない事をいったと思って悔んだが、今更どうする事も出来ず、時間を気にしながら、柏の家までついていった。私は先に立ったカクストン氏が階段に足をかけた時、

「煙草を買ってきますから」といい棄てて私は四辻まで後も見ずに走った。兎に角、ソーホー街と反対の方向に来ているので、非常に急がないと時間に後れてしまう。私はカクストン氏の思惑などを考慮かんがえる暇がなかった。

自動車がソーホー街の八十八番へ着いた時は、予定の七時を余程過ぎていた。案内を乞わないうちに、玄関の扉をあけて、支那服を着た老人が、引擦り込むように、私を屋内へ導いた。

「早く、早く、裏口から出なさい。表に厭な奴が見張っている」といって、屏風のような大きな荷物を渡した。地下室から裏庭へ出て、煉瓦塀に沿った小径をぬけるとそこは裏通りになっていた。私は通りかかったタクシーに乗ってユーストン駅へ急いだ。

残念な事には、僅か数分の違いで七時半の汽車に乗り遅れてしまった。私は呆乎と待合室で次の列車を待った。間に合っても、間に合わなくても、兎に角港まで行って見ようと思ったのである。

其日の夕方、汽車は遠い見知らぬ港へ私を運んでくれた。私の乗る筈であった米国行のダイアナ号は、一時間前に港を出てしまった。大荷物を抱えた私は、積重なった古船材の端に腰を下して、白っぽく光っている水平線を視詰めていた。遥に見える一条の煙は、恐らく私を取遺していったダイアナ号であろう。

湿った潮風が、私の心を吹きぬけていった。私は米国行の機会を失ったのを悲しんでいるのではなかった。淋しい夕暮の港に佇たって、遠ざかってゆく汽船を見送る時に、誰もが味うような、核心のない侘しさを感じていたのである。その寂しさの奥に倫敦の紅い灯火が滲んでいた。そこにはモニカがいる。美しいモニカがいる。

私は影のように停車場へ戻っていった。

八

一晩中、汽車に揺られ通して、翌朝倫敦へ着くと、恐ろしい霧の日が私を待っていた。私の懐中にはつつましくすれば二年間は暮せるだけの金があったが、衣類其他を全部ダイアナ号に積込んでしまったので、着のみ着のままであった。

私は霧の中を彷徨い歩いて、ようやくグレー街のガスケル家に着いた。老人の落着先が判れば托された品を次の便船で送り届ける事が出来ると思ったからである。

黄色い霧に鎖された家の窓には売家と書いた赤い札が貼ってあった。凡てが遠い遠い昔の出来事のように思われた。昨日まで、私の暮していた大きな建物は、私とは何の交渉もないように冷かに立っている。

頭の上には光輝を失った太陽が、赤い提灯のように懸っていた。往来の人影も、車も、馬も、影絵のように動いていた。何も彼も嘘のようである。

私は公園の鉄柵に沿って、柏の宿を訪ねた。

「君、米国行は止めにしたのか。その荷物は何だい」ようやく起きた計りの柏は、眼を擦りながらいった。私は昨日以来の出来事を語って、その荷物は二三日中にソーホー街八十八番の家へ返しにゆく積りだといい添えた。

「絵画のようだね。開けて見ようじゃあないか」柏は私の返事も待たずに荷物を解きにかかった。最後の包紙を脱とった時、

「おや!」私と柏は同音に叫んだ。私共二人の眼を驚かせたのは、展覧会で盗難に遭った「歓の泉」であった。

「何だ、この絵を盗ませたのはガスケル老人なのか。随分変り者だと聞いていたが、詰らない人騒がせをしたものだね」柏は失われた絵が無事に戻ってきたので、小供のように喜んだ。

「君、これは僕のだよ。ガスケル老人が取りにくる迄、僕が預って置く」私は思掛けずにモニカの肖像を手に入れたので再び彼女に邂逅めぐりあう前兆のような気がして嬉しかった。

私が再び日蔭の街の下宿へ戻ってから、二ヶ月余り経過たった。倫敦には春がきた。穏かな街にラベンダア売りの古風な呼声が聞えていた。

其日も空しく歩き廻った私は、橋向うのバタミー公園を抜けて、監獄のあるB街の方へ歩いていった。場末らしい、塵埃ぽい街の角に、「世の終り」という看札を掲げた酒場があった。私は毎日のように斯うしてモニカを捜し歩いているのである。そしてとうとう「世の終り」まで来てしまったと思って、苦笑しながら、疲労れた足を引擦って中へ入っていった。

私は肥満った亭主から受取った麦酒のコップをもって、隅の椅子に就くと、不意に肩を句たたいたものがあった。それはグレー街の附近でよく見掛けた、乞食の爺さんであったが、職業にでも就いたと見えて、ちゃんとした服装をしていた。

「お前さんは、籤を引き損こなったね」老人は私の傍へ腰を下した。

「何の籤です」私は老人の海の底のような、紫色の瞳を視つめながら問返した。

「運命の籤さ。あの日お前さんが時間に遅れた計りに、皆の嫌っていたルグナンシェがお前さんの代りに汽船へ乗ってしまった」

「皆というのは誰です」

「ガスケル老人と、モニカ嬢さ」

「ええ? モニカ? ハハハ……」私は声を挙げて笑った。失望して泣く訳にもゆかない。驚くのも間が抜けている。けれども私の胸には驚愕と失望と、悲哀とが錯綜していた。私の哄笑は、それ等の気持を憫む笑であった。

老人は低声で語った。

「ガスケルさんとモニカ嬢が、急に米国行を思立ったのはルグナンシェから遁れる為であった。それだのに、運命という悪戯者はモニカ嬢とルグナンシェとを結婚させてしまった」

「そんな馬鹿な事はない。倫敦を出発ったのはルグナンシェを遁れる為だったのじゃあないか」

「だが、あの仏蘭西人はガスケル家の秘密を握っていた。今から二十年前に、濠洲のシドニーにガスケル兄弟商会という大きな雑穀商があった。或日ガスケル兄弟は商用で三十哩マイル計り離れた市へ出掛けていったが、その帰途に兄は進行中の列車から墜落して惨死してしまったのさ。ところがこれは過失でなくして弟が兄を突落したのであろうという事になって、法廷に持出される程の問題となったのだ」

「ではあのガスケル老人が兄殺しをしたのですか」

「無論、ガスケルさんは人殺しなんかしなかったが。証拠を立てる事が出来なかった。それというのは、前の晩自分だけ先に町へ帰ってきて、人目を忍んで嫂の許へいっていたからさ。詮り自分の証明を立てようとすれば、嫂の名誉を傷けるようになるからなのだ。いいかね。二人は兄の目を盗んでいた仲だったのだよ」

「その事件と、ルグナンシェはどういう関係があるのです」

「其頃店員であったルグナンシェは主人を救う為に、法廷で偽りの証言をしたのだ。ガスケルさんはそれで牢へ入らずに済んだが、その代りルグナンシェから、金を強請られていたのですよ。段々それが嵩じてきたので、嫂さんが死去なくなると間もなく、モニカ嬢を連れて、南アフリカのナタールへ逃げていったのです。ルグナンシェはそれで始終ガスケルさんの後を追い廻していたのですよ。ストランドの露路で殺された男ですか、あれはルグナンシェの仲間で、お嬢様に夢中になっていたんですよ。つまり、ルグナンシェに取っては邪魔な奴なんです。俺は昔からガスケル家に大変お世話になったもので、もとからの乞食ではありませんよ。いろいろな悪い奴等が御主人やお嬢様を付狙つけねらっているから、ああやって戸外で見張っていたのです。あの時貴郎が時間に遅れずに波止場へ来て呉れたらよかったのだが、ルグナンシェの奴が嗅付けてやってきた為に、すっかり番狂わせになってしまいましたっけ」老人は語り終ると、泡の消えたスタウトを呑乾して、ふらふらと店を出ていった。

ガスケル家に於ける私の十数日は、完全に夢となって消えてしまった。

公園の青空で、太陽が過去った冬の日を笑っている。世はもう春である。誰も陰惨な霧の日のことなどを思出す者はない。

(「探偵文藝」一九二六年一、二、四月号)

底本 / Source edition

底本:「幻の探偵雑誌5 「探偵文藝」傑作選」光文社文庫、光文社
2001(平成13)年2月20日初版1刷発行
初出:「探偵文藝 第二巻第一、二、四号」奎運社
1926(大正15)年1、2、4月号
入力:川山隆
校正:土屋隆
2006年12月31日作成
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書誌 / Bibliography
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松本 泰「日蔭の街」(新字新仮名)、底本『幻の探偵雑誌5 「探偵文藝」傑作選』光文社文庫、光文社、2001年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 046589_000308, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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