ついでながら師匠東雲師の家の跡のことをいって置きましょう。

師が没せられて後私ら兄弟子三枝松政吉氏が<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>のことを私に代ってやったことは、先日話しました。東雲の二代目になる息子は、雷門の焼けた丑年生まれで、師の没せられた時は十四、五、名を<ruby><rb>栄吉</rb><rt>えいきち</rt></ruby>といって後に二代東雲となりましたが、この人、気性は父に似て至って正直で、物堅い人、また甚だ楽天家でありましたが、かなり酒量の強い方の人であった。しかしそのため他人に迷惑を掛けるというようなことは決してなかった。一時<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>株を買って大いに<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>け、従前よりも一層派出にやっていた時代もあったが、その後また都合が悪くなったということであった。あるいは株の下落したためであったことであろう。その中、未亡人も没し、政吉氏も<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>くなって、とても<ruby><rb>大店</rb><rt>おおみせ</rt></ruby>がやって行けなくなり、手元は<ruby><rb>不如意</rb><rt>ふにょい</rt></ruby>がちでついに店を人手に渡すことになりました。栄吉氏の弟に豊次郎という人があったが、これは<ruby><rb>早世</rb><rt>そうせい</rt></ruby>しました。妹のかね子という人は、女ながらなかなか<ruby><rb>確</rb><rt>しっ</rt></ruby>かりした人で、仕事も出来、手もよく書き貞女にて、<ruby><rb>千住中組</rb><rt>せんじゅなかぐみ</rt></ruby>の商家に<ruby><rb>嫁</rb><rt>とつ</rt></ruby>ぎ、<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>の没後<ruby><rb>後家</rb><rt>ごけ</rt></ruby>で店を立派にやって行き、今日も繁昌致しおります。

二代東雲の栄吉氏の子息は、祖父東雲師の技倆をそのまま受け継いだようになかなか望みある人物であります。これは私の弟子にして、丹精致しまして、目下独立して高村晴雲と号しております。三代目東雲となるべき人であります。ただ、惜しいことには、健康すぐれず、今は<ruby><rb>湘南</rb><rt>しょうなん</rt></ruby>の地に転地保養をしておりますが、健康<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>すれば、必ず祖父の名を<ruby><rb>辱</rb><rt>はず</rt></ruby>かしめぬ人となることと私は望みを嘱しております。

さて、また、彼の<ruby><rb>金谷</rb><rt>かなや</rt></ruby>おきせさん（東雲師末の妹）は良人没後再嫁し、娘が出来ました。その娘が<ruby><rb>金物商</rb><rt>かなものしょう</rt></ruby>中山家へ縁附きました。中山氏は北海道<ruby><rb>樺太</rb><rt>からふと</rt></ruby>地方に事業を起し、今日では樺太屈指の豪商となっている。で、その弟息子に金谷の家の跡を<ruby><rb>襲</rb><rt>つ</rt></ruby>がせることになっております。中山家と、私宅とは今日親密の交際を致し、同氏出京の時は必ず拙宅に訪問されております。右ようなわけにて師匠東雲師の跡はまずよろしき方で残っているわけであります。