一

<ruby><rb>天保</rb><rt>てんぽう</rt></ruby>の頃、江戸に<ruby><rb>神影流</rb><rt>しんかげりゅう</rt></ruby>の達人として勇名を轟かしていた<ruby><rb>長沼正兵衛</rb><rt>ながぬましょうべえ</rt></ruby>、その門人に<ruby><rb>小机源八郎</rb><rt>こづくえげんぱちろう</rt></ruby>というのがあった。怪剣士として人から恐れられていた。

「小机源八郎のは剣法の正道ではない。邪道だ。故に免許にはいまだ致されぬが、しかし、一足二身三手四口五眼を逆に行って、彼の眼は天下無敵だ。<ruby><rb>闇夜</rb><rt>あんや</rt></ruby>の太刀の秘術を教えざるにすでに会得している。怪剣士というは彼がことである」

師の正兵衛さえ舌を巻いているのであった。

天保九年五月五日の朝。同門の若者、多くは旗本の次男坊達が寄って、小机源八郎を取囲んだ。

「ぜひどうか<ruby><rb>敵討</rb><rt>かたきうち</rt></ruby>に出掛けて貰いたい。去年の今夜でござる。その節もお願いして置いた。この<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>を討ってくれる人は貴殿よりほかにはござらぬと申したので。や、その節快く御承諾下されたので、我々共は今日の参るのを指折り数えて待っておった次第で」

「なんでござったかな、敵討なんどと、左様な大事件をお引受け致したか知らん」

「御失念では痛み入る。それ、<ruby><rb>武州</rb><rt>ぶしゅう</rt></ruby>は<ruby><rb>府中</rb><rt>ふちゅう</rt></ruby>、<ruby><rb>六所明神</rb><rt>ろくしょみょうじん</rt></ruby><ruby><rb>暗闇祭</rb><rt>くらやみまつり</rt></ruby>の夜、我等の仲間が大恥辱を取ったことについて」

「ああ、あの事でござるか」

天保八年五月五日の夜、長沼門下の旗本の若者が六人で、府中の祭に出掛けたのであった。それは<ruby><rb>神輿</rb><rt>しんよ</rt></ruby>渡御の間は、町中が一点の<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>も残さず消して真の暗闇にするために、その間において、町の女達はいうまでもなく、近郷から集って来ている女達が、喜んで神秘のお蔭を<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>りたがるという、<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>の虚実を確めずに、その実地を探りにと出掛けたのであった。

こうした<ruby><rb>敗頽</rb><rt>はいたい</rt></ruby>気分に満ちている、旗本の若き武士はその夜、府中の各所に散って、白由行動を取り、翌朝<ruby><rb>深大寺</rb><rt>じんだいじ</rt></ruby>門前の<ruby><rb>蕎麦屋</rb><rt>そばや</rt></ruby>に会して、互いに一夜の遭遇奇談を報告し合おうとの約束であった。

さて、明くる朝、定めの家に六人集って見ると、六人が六人とも、<ruby><rb>鼻頭</rb><rt>はなさき</rt></ruby>をそぎ取られていて、満足の顔の者は一人もないのであった。

「暗闇祭には怪物が出る。まさか神わざとも思われぬが、いかにしても残念。その正体を見届けて、退治て貰わなければ堪忍ならぬ」

六人が六人とも、もとより暗闇の中の事ゆえ、正体を見届けようもなかったが、何者やら知れず前に立ったと思うと、忽ち鼻を切られたのだという。ただそれだけで一同取留めた事実が無かったのだ。

「<ruby><rb>天狗</rb><rt>てんぐ</rt></ruby>の<ruby><rb>所業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>と云ってしまえばそれまでだが、いわゆる<ruby><rb>鎌鼬</rb><rt>かまいたち</rt></ruby>の<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>ではござるまいか」という説もあった。

「いや確かに人間でござった。心願あって、六所明神の祭礼に六つの鼻を切るという願掛けでも致したのではござるまいか」という説もあった。

「なれども、六人が六人とも切られたところに疑いがござる。こりゃ長沼の道場に遺恨のある者が、六人を見掛けて致したのではござるまいか」という。この説、はなはだ有力となった。

「しかし、まだほかに、鼻を切られた者があったかも知れ申さぬ。ありとすれば<ruby><rb>強</rb><rt>あなが</rt></ruby>ち、長沼の門人とのみ限られたわけでもござらぬで」という説も出て、要するに何の目的で誰がそのような悪戯をしたのやら、少しも見当がつかぬのであった。

小机源八郎も、これには多少の興味を持たぬではなかったので、

「よろしい。しからば拙者、府中へまかりこし、怪物の正体を見届け、<ruby><rb>巧</rb><rt>うま</rt></ruby>く行けば諸氏の敵も討ち申そう。しかし、まかり間違ったら拙者の鼻もいかがでござるか」

笑いながら出て行った。

二

江戸より府中までは八里。夕方前に小机源八郎は着いた。

府中はいまさら説くまでもなく、<ruby><rb>古昔</rb><rt>いにしえ</rt></ruby>の国府の所在地で、六所明神は府中の<ruby><rb>惣社</rb><rt>そうじゃ</rt></ruby>。字は<ruby><rb>禄所</rb><rt>ろくしょ</rt></ruby>が正しいという説もあるが、本社祭神は<ruby><rb>大己貴命</rb><rt>おおなむちのみこと</rt></ruby>、<ruby><rb>相殿</rb><rt>あいでん</rt></ruby>として<ruby><rb>素盞嗚尊</rb><rt>すさのおのみこと</rt></ruby>、<ruby><rb>伊弉冊尊</rb><rt>いざなみのみこと</rt></ruby>、<ruby><rb>瓊々杵尊</rb><rt>ににぎのみこと</rt></ruby>、<ruby><rb>大宮女大神</rb><rt>おおみやひめのおおかみ</rt></ruby>、<ruby><rb>布留大神</rb><rt>ふるのおおかみ</rt></ruby>の六座（現在は<ruby><rb>大国魂</rb><rt>おおくにたま</rt></ruby>神社）。<ruby><rb>武蔵</rb><rt>むさし</rt></ruby>では古社のうちへ数えられるのだ。

毎年五月三日には、<ruby><rb>競馬</rb><rt>くらべうま</rt></ruby>が社前の馬場において、暗闇の中で行われる。四日には拝殿において神楽が執行される。五日には大神事として、八基の神輿が暗闇の中を<ruby><rb>御旅所</rb><rt>おたびしょ</rt></ruby>に渡御とある。六日には御田植があって終るので、四日間ぶっ通しの祭礼を当込みに、<ruby><rb>種々</rb><rt>いろいろ</rt></ruby>の商人、あるいは<ruby><rb>香具師</rb><rt>やし</rt></ruby>などが入込み、その<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>わしさと云ったらないのであった。

源八郎は<ruby><rb>番場宿</rb><rt>ばんばじゅく</rt></ruby>の<ruby><rb>立場茶屋</rb><rt>たてばぢゃや</rt></ruby>に入って、夕飯の前に一杯飲むことにした。客はほとんど満員の有様なので、ようやく庭の隅の方の腰掛に席を取った。

「<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>は何があるな。<ruby><rb>甲州街道</rb><rt>こうしゅうかいどう</rt></ruby>へ来て新らしい魚類を所望する程野暮ではない。何か野菜物か、それとも<ruby><rb>若鮎</rb><rt>わかあゆ</rt></ruby>でもあれば<ruby><rb>魚田</rb><rt>ぎょでん</rt></ruby>が<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>いな」

「ところがお侍様、お祭中はいきの好い魚が仕入れてございます。<ruby><rb>鰈</rb><rt>かれい</rt></ruby>の煮付、<ruby><rb>鯒</rb><rt>こち</rt></ruby>ならば洗いにでも出来まする。そのほか<ruby><rb>海鰻</rb><rt>あなご</rt></ruby>の蒲焼に<ruby><rb>黒鯛</rb><rt>かいず</rt></ruby>の塩焼、<ruby><rb>鰕</rb><rt>えび</rt></ruby>の<ruby><rb>鬼殻焼</rb><rt>おにがらやき</rt></ruby>」

「まるで<ruby><rb>品川</rb><rt>しながわ</rt></ruby>へ行ったようだな」

「はい、みな品川から夜通しで廻りますので。御案内でもござりましょうが、お祭前になりますると、神主様達が揃って品川へお<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でになり、海で<ruby><rb>水祓</rb><rt>みそぎ</rt></ruby>をなさいまして、それから当日まで<ruby><rb>斎</rb><rt>いみ</rt></ruby>にお<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>りで、そういう縁故から品川の漁師達も、取立ての魚を神前へお供えに持って参りまするが、同じ持って行くのならたくさん持って行って売った方が好いなんて、いつの間にやら商売気を出してくれたのが、私達の仕合せで、<ruby><rb>多摩</rb><rt>たま</rt></ruby>の山奥から来た<ruby><rb>参詣人</rb><rt>さんけいにん</rt></ruby>などは、初めていきの好い魚を食べられるなんて、大喜びでございます」

「そう講釈を聴くと江戸では珍らしくないが、一つ海鰻を焼いて貰って、それから鯒は洗いが好いな。まあその辺で一升つけてくれ」

「一升でございますか」

「いずれ又後もつけて貰う。<ruby><rb>白鳥</rb><rt>はくちょう</rt></ruby>で大釜へつけて持って来い」

「へえへえ」

小机源八郎は長沼の内弟子。言って見れば今の苦学生だ。金は無いのだ。ところが今日は暗闇で旗本六人が鼻をそがれた敵討というので同門から金を集めてくれたので、大分<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>は温かいのだから、<ruby><rb>大束</rb><rt>おおたば</rt></ruby>を極めて好きな酒が呑めるのであった。

隣りの腰掛で最前から、一人でちびりちびり、黒鯛の塩焼で飲んでいる<ruby><rb>旅商人</rb><rt>たびあきんど</rt></ruby>らしい一人の男。前にも銚子が七八本行列をしているのだが、一向酔ったような顔はしていなかった。色は青味を帯びた、眉毛の濃く、眼の鋭い、<ruby><rb>五分</rb><rt>ごぶ</rt></ruby><ruby><rb>月代毛</rb><rt>さかやけ</rt></ruby>を<ruby><rb>生</rb><rt>はや</rt></ruby>した、一癖も二癖もありそうなのが、

「お武家様、失礼ながら、大分御酒はいけますようで」と声を掛けた。

「いや余計もやらぬが、貧乏世帯の食事道具<ruby><rb>呑位</rb><rt>のみぐらい</rt></ruby>のものじゃ」

「へえ、貧乏世帯の食事道具呑……聴いたことがございませんな。それはどういう呑み方でございますか」

「金持の道具では<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わぬが、貧乏人の台所なら高が知れておる。それに一通り酒を<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いで片っ端から呑み乾すのだ」

「へえ、それでは、まあ茶碗に皿、小鉢、丼鉢、椀があるとして、親子三人暮しに積ったところで、大概知れたもんでございますな。手前でもそれなら頂けそうでございます」

「ところが、拙者は茶碗や皿などは数には入れておらん。いくら貧乏世帯でも鍋釜はあるはず。それまで一杯注いで置いて呑む」

「こいつあ恐れ入りました」

まさか小机源八郎、それ程呑めもしないのだが、<ruby><rb>座興</rb><rt>ざきょう</rt></ruby>を混ぜて吹飛ばしたのだ。

話が面白くなって酒も大分はずんで来た。

「や、拙者は当所の御祭礼は初めてだが、なんでも昨年は、暗闇の間に、余程奇怪な事が行われたと申すが、それはほんの噂に過ぎぬのか。それも本統にあった事かな」

源八郎はこの旅商人が去年の祭にも来ていたというのからして、探りを入れて見たのであった。

旅商人は少し<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>になって、

「旦那のお聴きになったのは、どんな出来事でございましたね」と問い入れた。

「されば、なんでもどこかの侍が数人とも顔面を何者にか知れず傷つけられたと申す事で」と<ruby><rb>明白</rb><rt>あからさま</rt></ruby>には源八郎云わなかった。

「や、それは私として、初耳でございますが、私の聴きましたのは、ちっと違いますので」

「どんな話か、肴に聴きたいもんだな」

そう云いつつ、<ruby><rb>猪口</rb><rt>ちょこ</rt></ruby>代用の茶碗をさした。

三

旅商人は<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>に気を配り、声を低めて、

「実は旦那、去年には限りません、毎年この暗闇祭には、怪しい事があるんでございますよ。ですが、それをぱっとさせた日には、忽ちお祭がさびれっちまうので、土地の者は秘し隠しにして居りますがね。昨年のはちっと念入りでございましたよ。女がね、お<ruby><rb>臀</rb><rt>しり</rt></ruby>の肉を斬られたんでね。なんでも十二三人もやられたらしいんで。<ruby><rb>大道臼</rb><rt>だいどううす</rt></ruby>のようなのは、随分斬り出があったろうと思います」と語り出した。

「ふむ、それは<ruby><rb>怪</rb><rt>け</rt></ruby>しからん。女の<ruby><rb>臀部</rb><rt>でんぶ</rt></ruby>を斬るとは一体何の為だか。いずれ馬鹿か、<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>の<ruby><rb>所業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>であろうな」と源八郎も新事実を聴いてちょっと驚いた。

「まだほかに何があったか知れませんが、それはただ私達の耳に入らねえだけのことだと思います。今夜もきっと何かあるだろうと思われますよ。何しろ諸方から大勢人が入込んで居りますから……それに、昨年は、<ruby><rb>信州</rb><rt>しんしゅう</rt></ruby>のある大名のお部屋様が、<ruby><rb>本町宿</rb><rt>ほんちょうじゅく</rt></ruby>の<ruby><rb>本陣</rb><rt>ほんじん</rt></ruby><ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>にお泊りで、そこにもなんだか変な事があったそうで、それについては私は<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く存じませんがね」

「大名のお部屋が泊っていても、矢張神輿渡御の刻限には火を消さずばなるまいな」

「それはもうどちら様がお泊りでも、火を<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けることはできますまい」

源八郎は考えた。六人の旗本の鼻を削ったのと、十数人の女の臀部を斬ったのと、又大名の<ruby><rb>愛妾</rb><rt>あいしょう</rt></ruby>を襲ったのと、同一人物の手であるかどうか。これは研究物だと心着いたのであった。

この時、旅商人は急に心づいた様子で、

「や、御武家様、私に限らず今夜はもうとてもこの<ruby><rb>宿</rb><rt>しゅく</rt></ruby>へは泊れません、どこも一杯です。それで私は<ruby><rb>布田</rb><rt>ふだ</rt></ruby>までのして置きまする。へえ、甲州へ絹を仕入れに行った帰りでございます。御免下さいまし」

勘定を済ましてせっせと先に行ってしまった。源八郎はその旅商人を、どうも怪しいと<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>まずにはいられなかった。

道中の<ruby><rb>胡麻</rb><rt>ごま</rt></ruby>の<ruby><rb>灰</rb><rt>はい</rt></ruby>形の男にも見えた。あるいは又<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すり</span>稼ぎのために入込んだ者のようにも思われた。あいつが仕事のついでに、<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>をして廻るのではあるまいか。そんな疑念をも生じたのであった。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すり</span>は一種特異の刃物を掌中に持っている。それで<ruby><rb>巾着</rb><rt>きんちゃく</rt></ruby>を切ることもあり、仕事の邪魔をした者に復讐的に顔面を傷つけるという話は聴いている。あの旅商人が巾着切とすれば、どうも鼻そぎ臀切りの犯人が、あいつのように思われてならぬのであった。

あいつ<ruby><rb>真</rb><rt>しん</rt></ruby>に甲州へ絹の仕入れに行き、江戸へ帰るべく今夜布田に泊る者とすれば、もうこの土地に姿を見せぬはず。もしあいつが暗闇の前後に、まだ府中の土地を踏んでいるとすれば、もう確かだ。引捕えて白状さして、今度はこっちから鼻を落してやると、源八郎はそういう決心をして、酒は一升で打ち切り、勘定済まして立場茶屋を出た。

まだ神輿出御の刻限には間があったので、源八郎は群集を避けて、本社の背後へと廻って見た。

有名な<ruby><rb>乳房銀杏</rb><rt>ちぶさいちょう</rt></ruby>から<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>には杉松その他の木が繁っていて、昼も暗いくらいだから、夜はまだ燈明を消さぬ間から暗いのであった。

源八郎にはしかし、少しもそれが暗くないのであった。<ruby><rb>透</rb><rt>すか</rt></ruby>せば<ruby><rb>朧気</rb><rt>おぼろげ</rt></ruby>に立木の数も数えられるのであった。源八郎の眼は長沼正兵衛すらも驚いているのであった。

小机源八郎は、武州<ruby><rb>橘樹郡</rb><rt>たちばなごおり</rt></ruby><ruby><rb>小机村</rb><rt>こづくえむら</rt></ruby>の郷士の子で、子供の時に眼を患ったのを、廻国の六十六部が祈祷して、薬師の水というのを付けてくれた。それで全治してから<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>は、不思議に夜目が利くようになったのであった。

野獣の眼が暗夜に輝くという、そこまでには至らずとも、とにかく普通の者に比べると、薄々ながら見えるのであった。

四

何心なく源八郎は裏山の方を透して見た。すると大きな大きな<ruby><rb>欅</rb><rt>けやき</rt></ruby>の樹の、すでに立枯れになっているのが、妖魔の王の突立つ如くに目に入った。その<ruby><rb>根下</rb><rt>ねもと</rt></ruby>に、怪しい人影が一個認められた。

気になるので<ruby><rb>密</rb><rt>そっ</rt></ruby>と立木の間を縫って、近寄って見ると、意外にもそれは例の旅商人であった。

いよいよ以て怪しいと思って、源八郎は忍び足に近寄ろうとすると、旅商人はすでにそれと感付いたらしく、立上って逃げようとした。

「おいおい、お前はまだここにいたんだな。布田の方へは行かなかったのか」

源八郎は声を掛けた。

「おやっ」

少からず旅商人は驚いた。

「旦那は、能くこの暗いのに、私ということが分りましたね」

「お前は又拙者が忍んで近寄ったのに、能く分ったの」

向うも驚いたが、こちらでも驚いたのであった。

「へえ、私は、昼間より、夜分の方が眼が能く見えますんで」

「なに、その方も夜目が利くのか。拙者も実は夜目が利くのだ」

「おや、旦那も夜目がねぇ、へえ、そうでございますかい。じゃあ矢張、お稼ぎになるんですね」

「稼ぐとは何を」

「へへへへ」

「何を稼ぐと申すのか」

「なに、ちょっと、その」

「拙者を<ruby><rb>白浪</rb><rt>しらなみ</rt></ruby>仲間とでも感違いを致したのか」

「まあ、その、ちょっとね。へへへへ、夜目が利くと<ruby><rb>仰有</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>いましたので……どうも相済みません」

「するとその方は、確かに泥棒だな」

「御免なすって下さいまし。隠しゃぁ致しません。全く私は花婿仲間でございます」

「花婿仲間とはなんだ」

「<ruby><rb>夜目取</rb><rt>よめど</rt></ruby>りで。へへへ、嫁取りに<ruby><rb>文字</rb><rt>もじ</rt></ruby>ったので」

「江戸の者は泥棒まで<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>っ<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>があるな。面白い。そこでその方は、毎年暗闇祭には稼ぎに来るんだな」

「実は旦那、稼ぐというのは二の次で、遊び半分、まあ毎年来て居ります。私ばかりじゃぁございません。仲間の者がみな腕試しやら眼試しのために」

「腕試しというのはあるが、眼試しとはなんだ」

「この泥棒稼業に一番大事なのは眼でございます。暗闇で物を見るようにならなければ、好い稼ぎができません。それで泥棒、と云っても、それぞれ筋があるのでございますが、私達の仲間の古老からみな教わったのでございますが、<ruby><rb>食忌</rb><rt>しょくい</rt></ruby>みをして、ある秘薬を三年の間<ruby><rb>服</rb><rt>の</rt></ruby>みつづけまして、それから又暗闇の中で眼を光らかす修業を二三年致します。泥棒になるんだって本統になろうと思うと、修業に骨が折れて楽ではございません。もちろんこれは昔の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すっぱ</span>の家から伝わった法が土台になっておるそうで……そこで、まあ私もその修業の法は早く済ましてしまいまして、闇夜でも手紙が読めるくらいまでには行っております。異名を<ruby><rb>五郎助七三郎</rb><rt>ごろすけしちさぶろう</rt></ruby>と申しますが、七三郎が本名で五郎助は<ruby><rb>梟</rb><rt>ふくろう</rt></ruby>の<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>き声から取ったのでございますがね」

「それで今、お前の仲間は」

「仲間は日本国中にどのくらいあるか知れませんが、関東だけでざっと五百二十人ばかり、でも本統に夜目の利く<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>は、僅かなもので、ようやく五人でございました。今から六年前のちょうど今月今日召捕られまして、八月十九日に<ruby><rb>小塚</rb><rt>こづか</rt></ruby>っ<ruby><rb>原</rb><rt>ぱら</rt></ruby>でお仕置を受けました<ruby><rb>鼠小僧次郎吉</rb><rt>ねずみこぞうじろきち</rt></ruby>なんか、その五人の中には入って居りません。あんな野郎はまだ駆出しで」

「その五人というのは……」

「そう申しては口幅っとうございますが、先ずこう申す五郎助七三郎が筆頭で、それから<ruby><rb>夜泣</rb><rt>よな</rt></ruby>きの<ruby><rb>半次</rb><rt>はんじ</rt></ruby>、<ruby><rb>逆</rb><rt>さか</rt></ruby>ずり<ruby><rb>金蔵</rb><rt>きんぞう</rt></ruby>、<ruby><rb>煙</rb><rt>けむり</rt></ruby>の<ruby><rb>与兵衛</rb><rt>よへえ</rt></ruby>、<ruby><rb>節穴</rb><rt>ふしあな</rt></ruby>の<ruby><rb>長四郎</rb><rt>ちょうしろう</rt></ruby>。それだけでございます」

「変な名だな。それがみな、暗闇祭へ来たのか」

「揃って来たこともありましたが、近在の百姓衆の<ruby><rb>財袋</rb><rt>さいふ</rt></ruby>を抜いたところで高が知れております。しかし、まあ、<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>をするのが面白いんで、たとえば神様のいらっしゃる境内をも<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>らず、暗闇を幸いに、男女が密談などしているのを見付けては、知らない間に二人の<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>をちょん切って置いたりなんかして、脅かしてやりまして、以後そんな不謹慎な事をしないように<ruby><rb>誡</rb><rt>いまし</rt></ruby>めてやりますので」

「去年も五人揃って参ったか」

「それが旦那、それからがお話でございます。夜泣きの半次は御用になりまして、まだ御牢内に居ります。煙の与兵衛は上方へ行って居りまして、一昨年には節穴の長四郎と、逆ずり金蔵と、私と、三人連れで参りましたがね。その時に、えらい目に<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>いましてねえ」

五

奇怪極まる五郎助七三郎の話に、小机源八郎はすっかり聴き惚れてしまったのであった。

「どんな目に遭ったのか」

五郎助七三郎は少しく興奮して、

「あんなのを天狗とでも云いましょうか。夜目の利く私達よりも、もっと夜目の利く山伏風の大男がね。三人で、ちょうどこの裏山で、抜き取った品物を出し合って勘定をしていたところへ、不意に現われて、金剛杖のような物で滅茶滅茶です。三人もじっとして打たれるようなのじゃあありません。<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>に呑んでいた<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>で、<ruby><rb>魂限</rb><rt>こんかぎ</rt></ruby>り立ち向ったんですが、とても<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>いませんでしてね。三人とも半殺しの目に遭わされました。それが原因で逆ずり金蔵は二月ばかり患って死んでしまいました。節穴の長四郎と私は<ruby><rb>湯治</rb><rt>とうじ</rt></ruby>に行くてえような有様で……そこで去年、その敵討というので、すっかり準備をして、長四郎と二人でね、暗闇祭に来ましたがね」

「どんな準備をして」

「目つぶしです。目つぶしを仕入れて、それを叩きつけてから<ruby><rb>斬付</rb><rt>きりつ</rt></ruby>ける手筈でしたが、矢張いけませんでした。長四郎があべこべに眼を潰されて了いました」

「向うから目潰しを投げたのか」

「いいえ、指を眼の中へ突込みやあがったので」

「<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>い事をするな」

「とうとう私一人になってしまいました。今年は口惜しいから、どうしても私一人で<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>を討つ了簡で、実は<ruby><rb>種ヶ島</rb><rt>たねがしま</rt></ruby>を忍ばせているんでございます」

「去年も矢張山伏姿か」

「左様でございました」

「そいつではないか。去年、武家の顔面を傷つけたのは……」

「さあそうかも知れません」

「<ruby><rb>臀肉</rb><rt>でんにく</rt></ruby>を切ったというのは、その者ではあるまいか」

「多分そうかも知れませんな」

「七三郎とやら、お前、拙者に隠してはいかんぞ。お前と長四郎とで、旗本六人の鼻の<ruby><rb>頭</rb><rt>さき</rt></ruby>を斬ったのじゃあないか」

「いや隠しません。隠すくらいなら初めからなんにも云いません。や、白状ついでだから一つは云いますが、本陣へ忍び込んで、大名のお部屋様の小指を切って逃げたのは私です。その女は私の<ruby><rb>稚</rb><rt>おさな</rt></ruby>友達だったのですから」

「じゃあ全く、その方、旗本の鼻や、女の臀を切ったのではないのだな」

「前には男女の髪は切りましたが、昨年は、お部屋様のほかにはなんにも致しませんでございました」

「そうか。実は拙者……」かくかくの次第と、旗本六人の敵討に来たことを物語った。

五郎助七三郎は喜んだ。

「や、長沼先生の御高弟、小机先生でございましたか。そういうことならぜひどうかお力添えを願います。お旗本の鼻を削ったのも、怪しい山伏に相違ございませんぜ」

この時大欅の枝の上で、

「あっはっはっはっはっ」と高笑いがした。

さすがの小机源八郎もびっくりした。五郎助七三郎などは飛上って驚いた。

透して見るとそこに人が登っていた。<ruby><rb>朧気</rb><rt>おぼろげ</rt></ruby>ではあるが山伏の姿であった。

「なんだ、そんな所にいて、我々の話を黙って聴いていたのか」と源八郎は呼ばわった。

「夜目が利くの、<ruby><rb>闇夜</rb><rt>あんや</rt></ruby>の太刀を心得ておるのと、高慢なことを申しても<ruby><rb>和主達</rb><rt>おぬしたち</rt></ruby>は駄目だ。俺がここにいるのが見えなかったろう」と、樹上の怪人は<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>り気味に云った。

「ぐずぐず云わずとここへ降りて来い」

「降りても好い。だが、貴様達がそこにいては降りられない」

「こわくって降りられんのか」

「いや、そうじゃあない。俺は一足飛びにそこへ飛んで降りるのだが、ちょうど足場の好い所へ二人並んでいやあがる。邪魔だ」

「馬鹿を云うな。二人の前でも、後でも、右でも、左でも、空地はある。どちらへでも勝手に飛降りろ」

「だから貴様等の夜目は役に立たないんだ。まだ暗闇が見えるというところまでに達して居らない。貴様達の後には犬の<ruby><rb>糞</rb><rt>くそ</rt></ruby>がある。それが貴様達には見えないだろう。前には山芋を掘った穴がある。能く貴様等は落ちなんだものだ。右には木の根が張っている。左には石や瓦の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かけ</span>が<ruby><rb>散</rb><rt>ちらか</rt></ruby>っている。みな飛降りるのに都合が悪い。ちょうど貴様達二人のいる所が、草の生え具合から土の柔かみで、足場が持って来いだ。それをこの二丈五六尺から高い樹の上から、暗闇の中にちゃんと見分けることのできる俺だのに、貴様達にはそれができぬ。夜目について威張った口を利くのは<ruby><rb>止</rb><rt>よ</rt></ruby>せっ」

これには二人とも驚いた。<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>しく天狗だ。いでその鼻の高いのを、降りて来て見ろ、斬落してくれるぞと、云い合さねど互いに待構えた。

六

「さあ、飛ぶぞ。<ruby><rb>退</rb><rt>ど</rt></ruby>かなけりゃあ片足を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すり</span>の頭の上に、片足を三ぴんの頭の上に、乗っけて立つように飛んで見せるぞ」

そう云いながら樹上の怪山伏は、一気に二丈五六尺の高さから飛降りた。

「えいっ」

待構えていた小机源八郎は飛降りてまだ立直らないところを、度胆を抜くつもりで刀の<ruby><rb>背打</rb><rt>むねうち</rt></ruby>を食わせようとした。

「はっはっはっ」

<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の方で又例の高笑いがした。

前に飛んだのは、大きな<ruby><rb>幣束</rb><rt>へいそく</rt></ruby>であった。後に山伏は早や立っていた。

何しろ大男だ。顔までは能く分らなかったが、丈は雲を突くばかり、手には金剛杖を持っていた。

「生意気な山伏<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>。さあ小机源八郎の闇夜の太刀先を受けて見ろっ」

「いくらでも受けるが、俺の姿が見えるかっ」と山伏は<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>あざわら</rt></ruby>った。

「何っ」

一刀両断は神影流の第一義。これ、実の実たる剣法であったのを、見事に身を交わされて、虚の虚とさせられた。

「おのれっ」

二度の打込は虚の実。二段の剣法。正面急転右替の胴切と出たところを、巧みに金剛杖で受留められた。

杖に鉄条でも入っているのか、その杖さえも切落せぬので、源八郎もこれは手ごわいと、先ず気を呑まれた。

源八郎危しと見て、五郎勘七三郎は、種ヶ島の短銃を取出し……までは、好かったが、その時代のは点火式で、火打石で火縄へ火を付けて、その又火縄で口火へ付けるという、二重三重の手間の掛かる間に、金剛杖でぐわんと打たれて、手に持っていた火打鎌が、どこへ飛んだか、夜目自慢の七三郎も、こうなると<ruby><rb>面食</rb><rt>めんくら</rt></ruby>って、見付けられず、手探りに探っている間に、何度頭を金剛杖で<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>られたか、数知れず、後には気絶して突伏してしまった。

鋭く斬込んで来る源八郎を扱いながら、その<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>に七三郎を参らしたのだから、どの位腕が利くか、ほとんど分らなかった。

「もう止せ。とても俺には敵うまい。ぐずぐずしていると貴様の命はなくなるぞ。や、それでは少し借しい。それに貴様達は考え違いをしておる。俺は旗本六人の鼻も切らねば、十数名の女の臀部も切らぬ」

「えっ」

「それについて実は俺も不思議に思っているところなんだ。さあ<ruby><rb>勝敗</rb><rt>しょうぶ</rt></ruby><ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めて話し合って見ようじゃあないか」

止めるも止めぬもない。小机源八郎すでにへとへとで、ただ青眼に構えているだけで、四方八方隙間だらけだ。

「うーむ」

「唸らなくっても好い。まあ木の根にでも腰を掛けろ。おっとそこの木の根には毛虫が這ってる。貴様には見えまいが、俺には見える」

「何、毛虫がいたって構わん」

源八郎、<ruby><rb>敗</rb><rt>ま</rt></ruby>けぬ気を出したわけではない。ほかの木の根を探すよりも、早く休みたいからであったのだ。

七

「一体、貴公は何者だ」と小机源八郎は、ようやく息を納めてから問うた。

「俺は本当の天狗だ。天狗にもいろいろあるが、俺のは正札付きの天狗だ。ただし昔話にある<ruby><rb>羽団扇</rb><rt>はうちわ</rt></ruby>を持った、鼻の高い、赤い顔の、あんなのではない。普通の人間で、ちゃんと両親もある、兄弟もある。武州<ruby><rb>御岳山</rb><rt>おんたけさん</rt></ruby>で生れたんだ。代々山伏だ。俺の先祖は<ruby><rb>常陸坊海尊</rb><rt>ひたちぼうかいそん</rt></ruby>。それから血統正しく十八代伝わっている。長命が多いので、百歳以上まで生きたのが二三人ある。代々夜目が利くんだ。俺は<ruby><rb>大竜院泰雲</rb><rt>だいりゅういんたいうん</rt></ruby>という者だ」

なる程天狗だ。大天狗だ。

「それがどうして一昨年と昨年と、二年つづきで七三郎の仲間を、半殺しの目に遭わされたか」

「当り前じゃあないか。<ruby><rb>神祭</rb><rt>かんまつり</rt></ruby>の際に悪事を働くなんど怪しからん奴等だから、懲らしめのために二年つづきで<ruby><rb>遣付</rb><rt>やっつ</rt></ruby>けてやった。今年で<ruby><rb>根絶</rb><rt>ねだや</rt></ruby>しに致すところなんだ」

「それでは、旗本六人の鼻は」

「や、それは本統に知らん。俺は全くそんな事はしらない。女の臀部を切ったのも<ruby><rb>全</rb><rt>まる</rt></ruby>で知らん。ほかにあるに違いない。俺は暗闇を幸に悪事をする奴を懲らしめるために、毎年下山して来ておるが、どうも去年のだけは見当がつかぬ」

「すると、ほかにあるんだな。何者だろうか」

「や、面白い。どうだ、源八郎。貴様のようなのでも、とにかく夜目の利く一人だ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すり</span>の野郎も先ず先ず夜目が少しは見える。今夜はこの三人で暗闇の中を見廻って、左様な悪戯をする者を引捕え、以来手を出させぬように致してやろうではないか」

「それは結構。三人で暗闇の中を探して見よう」

「じゃあ、その<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すり</span>を活かしてやろう」

大竜院泰雲が、七三郎に活を一つ入れた。

「うーむ」と七三郎は唸り出した。

「しっかりしろっ」と源八郎が呼ばわった。

「もうたくさんです」

「安心しろ、もう撲らん」

ここで三人が約束して、三方に散って、暗闇祭の中を縫い歩き、鼻切り臀切りの犯人を捕えたら、一先ずこの大欅の根下まで連れて来るということにした。

「誰が捕えるか、眼力くらべだ。敗けた者に酒を<ruby><rb>奢</rb><rt>おご</rt></ruby>らせることにしようではないか」と源八郎が云い出した。

「や、それは御免だ。眼力も眼力だが、もし運が悪ければ見付けられない。俺が敗けたとなると貧乏山伏だから、酒代は出せぬ。そこで酒は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すり</span>が人の金を取ってたくさん持っているだろうから、誰が見付けたに関らず、七三郎、貴様<ruby><rb>一樽</rb><rt>ひとたる</rt></ruby>買えっ。その代りだ、見付けた者が一番威張るということにして、敗けた二人は仕方がない、お辞儀をする。そうして一つ<ruby><rb>拳固</rb><rt>げんこ</rt></ruby>で頭をこつん。これくらいの余興がないと面白くない」と泰雲が主張した。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すり</span>の上前を跳ねて、酒を呑もうなんて、えらい奴もあったものだ。

こうして、遺伝性で夜目の利く大竜院泰雲。奇蹟的に夜目の利く小机源八郎。練習の功で夜目の利く五郎助七三郎。この三人は社後の林を出て、思い思いに三方に散った。

八

いよいよ暗闇祭の時は来た。神宮<ruby><rb>猿渡何某</rb><rt>さるわたりなにがし</rt></ruby>が神殿において<ruby><rb>神勇</rb><rt>かむいさめ</rt></ruby>の<ruby><rb>大祝詞</rb><rt>おおのりと</rt></ruby>を捧げ終ると同時に、<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>を打消し、八基の神輿は粛々として練り出されるのであった。

七基は二の鳥居前より甲州街道の大路を西に渡り、一基は<ruby><rb>随身門</rb><rt>ずいしんもん</rt></ruby>の前より左に別れ、本町宿の方から共に番場宿の<ruby><rb>角札辻</rb><rt>かどふだつじ</rt></ruby>の御旅所にと向うのであった。

三人は三人互いに姿を<ruby><rb>晦</rb><rt>くら</rt></ruby>まして、どちらに向ったか知れぬのであった。

＊　　　　　　　＊　　　　　　　＊

くさくさの式も首尾好く終って<ruby><rb>鼕々</rb><rt>とうとう</rt></ruby>と打鳴らす太鼓の音を合図に、暗黒世界は忽ち光明世界に急変するのであった。家々の高張、<ruby><rb>軒提燈</rb><rt>のきぢょうちん</rt></ruby>は云うも更なり、四ヶ所の<ruby><rb>大篝火</rb><rt>おおかがりび</rt></ruby>は天をも<ruby><rb>焦</rb><rt>こ</rt></ruby>がすばかりにて、森の鳥類を一時に驚かすのであった。

「又遣られたっ」

「今年は耳を切られた者が三人」

「鼻をそがれたのも五六人あるそうな」

「女は相変らずお臀だそうな」

群集の中で、あちらこちらに怪事件を語り伝えるのであった。

＊　　　　　　　＊　　　　　　　＊

社後の裏山大欅の下に、真先に帰って来たのは怪山伏泰雲であった。はなはだ機嫌が悪く、ぶつぶつ<ruby><rb>独語</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>をつぶやきながら、金剛杖で立木を撲りなどしていた。

そこへ怪剣士小机源八郎が、ぼんやりした顔で帰って来た。

「やあお前も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しけ</span>か」

「どうも見付からなかった」

「しかし、矢張、やられた者があるようだな」

「我々で見廻って発見されないのだから、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すり</span>の野郎にはとても駄目だろう。今にしょげながら帰って来るよ」

そう話し合っているところへ、<ruby><rb>怪巷賊</rb><rt>かいこうぞく</rt></ruby>五郎助七三郎が帰って来た。背中に黒髪振乱したる若い娘の、血に染ったのを背負って来た。

「はっはっはっ曲者が見付からないので、埋合せに美人を生捕って来たな。酒の酌でもさせようというのであろうが、それはよろしくない。帰してやれ。おや、ぐったりしているじゃあないか。気絶しているのか」

七三郎は黙ってそこへ娘を下した。そうして片手の平で鼻を一つ<ruby><rb>擦</rb><rt>こす</rt></ruby>り上げて、<ruby><rb>腮</rb><rt>あご</rt></ruby>をしゃくって反り身になり、

「さあどうだ。二人とも<ruby><rb>地面</rb><rt>じびた</rt></ruby>に手を<ruby><rb>仕</rb><rt>つ</rt></ruby>いて、お辞儀をしなせえ。拳固で一つ頭をこつんだ。もちろん酒は私が<ruby><rb>奢</rb><rt>おご</rt></ruby>ってやる」と馬鹿に威張り出した。

「おいおい、血迷っちゃいかん。切られた娘を連れて来たって何になるか。切った奴を連れて来なけりゃあ駄目だ」と源八郎が笑いながら云った。

「ところがこの娘が今夜も遣ったんで、去年のも多分そうでしょう」

「えっ」

「お前さん達は男ばかり目を付けて廻ったから逃がしたんで、あっしは女に目を付けたんで奴と分った。当身で気絶さして、引担いで来たんです。御覧なさい、着物に血が着いている。手にも着いてるでしょう。帯の間に<ruby><rb>血塗</rb><rt>ちまみ</rt></ruby>れの<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>が手拭に巻いて<ruby><rb>捻込</rb><rt>ねじこ</rt></ruby>んであります」

「うーむ」

今度は大竜院泰雲が唸り出した。

気絶している娘を三人で介抱して、蘇生さして、<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>しつ<ruby><rb>透</rb><rt>すか</rt></ruby>しつ取調べた。

最初は泣いてばかりいて、どうしても白状しなかったが、絶対にこの事実は秘密にしてやるという条件が<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>いて、娘は奇怪なる犯罪の事実を告白に及んだ。

娘は<ruby><rb>社家</rb><rt>しゃけ</rt></ruby>、<ruby><rb>葛城藤馬</rb><rt>かつらぎとうま</rt></ruby>の長女で<ruby><rb>稲代</rb><rt>いなよ</rt></ruby>というのであった。

神楽殿の舞姫として清浄なる役目を勤めていたのであったが、五年前の暗闇祭の夜に、荒縄で腹巻した神輿かつぎの若者十数人のために、乳房銀杏の蔭へ引きずられて行き、聴くに忍びぬ悪口雑言に、侮辱の極みを浴びせられたのであった。

余りの無念<ruby><rb>口惜</rb><rt>くちお</rt></ruby>しさ。それに因果な身をも<ruby><rb>耻</rb><rt>はじ</rt></ruby>入りて、多摩川に身を投げて死のうとしたことが八たびに及んだ。それを発狂と見られて、土蔵の中を座敷牢にして、三年ばかり入れられていた。この裏面には継母の<ruby><rb>邪曲</rb><rt>よこしま</rt></ruby>も潜むのであった。

既に<ruby><rb>定</rb><rt>さだま</rt></ruby>っていた良家への縁談は腹違いの妹にと移された。

稲代はかかる悲運に<ruby><rb>陥</rb><rt>おとし</rt></ruby>いれた種蒔の若者達を、極悪の<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>と呪わずにはいられなかった。けれどもどこの誰やら暗闇の出来事とて、もとより知れようはずがなかった。

復讐、それは誰に向って遂げようもない。悲劇中の悲劇であった。<ruby><rb>終</rb><rt>つい</rt></ruby>には世の中を呪い出した。人間を呪い出した。別して若い男、若い女、それを無上に呪い出した。

三年の座敷牢。土蔵の中の暗さに馴れて、夜目が恐しく利くようになったのを幸、去年の暗闇祭に紛れて、男の鼻をそぎ、女の臀を切ったのであった。

そのために非常な快感を覚えたのであった。今年もまたそれを企てたのであった。これでは矢張<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>なのであった。家人が座敷牢から自由にしたのが間違っているのであった。

不思議な事実を聴いて三人とも、娘稲代に同情して、好いか悪いか分らなかった。

「これではなるほど、犯人が分らなかったわけだ」と源八郎は云った。

「それを見付けたのは五郎助七三郎だ。や、いくら夜目が利くからって、お前さん達は本統の目先が利かねえのだから駄目の皮だ。そこへ行くと矢張江戸っ子でなくっちゃあ通用しねえ。この犯人を女と睨んだところが全く気の利いているところなんだ」と無闇に七三郎威張り出した。

「なんだ。貴様、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すり</span>の癖に、生意気な事を云うなっ」と泰雲が<ruby><rb>赫</rb><rt>かっ</rt></ruby>となった。

「いや約束だ。酒は私が奢る。これも約束だ。見付けた者が威張れるだけ威張って、後の二人が地面に手を<ruby><rb>仕</rb><rt>つ</rt></ruby>いてお辞儀と<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>ってるんだ。そこで私は、相談だ。山伏の奴は俺の友達の<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>なんだから、拳骨で頭をこつんというのを、小机さんの分と一緒にして、二つ殴らせて貰いてえね。それは逆ずり金蔵と、節穴長四郎との二人の敵討に当ててえので。それさえ済んだら後は笑って、機嫌よく飲んで別れようではありませんか」

「小机の代理に俺が一つ余計に<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>たれるなんて、そんな馬鹿馬鹿しいことはないが。まあ好い。どの道殴られるんだ。一つも二つも同じだ。ただし、俺の頭は石よりも固いから、打つ方が痛いぞ」

「なんだって好い。打ちせえすりゃあ、講釈で聴いて知っている<ruby><rb>晋</rb><rt>しん</rt></ruby>の<ruby><rb>予譲</rb><rt>よじょう</rt></ruby>の<ruby><rb>故事</rb><rt>ふるごと</rt></ruby>とやらだ。敵討の筋が通るというもんさ」

大正の現代人には馬鹿馬鹿しく思われる事も、この時代には大概の場合にも茶番気が付いて廻っていて、それをしかも滑稽にせず、真面目に遣って<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けるのであった。

泰雲、頭巾を取って、頭を出すと、七三郎、拳骨の先に唾を付けて力一杯、こつん！　こつん！

「これで胸がさっぱりした」

この変な敵討をよそに、小机源八郎は<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りに考え込んでいたが、やがて決心した<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>で、

「や、拙者はこの稲代殿を嫁に貰い受けたい」と云い出した。

これには泰雲も七三郎もびっくりした。余りにそれは突然に過ぎたからであった。源八郎は単に稲代の境遇に同情したばかりではないのであった。泰雲の夜目の利くのが代々であるというのから考えて夜目の利く男と、同じく夜目の利く女との相婚の結果、その子により以上夜目を利かして見たいという、そうした腹から出たのであった。