Soranoha

露伴先生

ろはんせんせい

斎藤 茂吉

昭和九年の冬に、岩波茂雄さんの厚意によつてはじめて露伴先生にお目にかかり、その時は熱海ホテルで数日を楽しく過ごした。

それ以来、月に数回、或あるひは一二回ぐらゐづつお邪魔に参上して先生から教を受け、終戦の年までつづいたのであつた。

教を受けるといつても、こちらの予備が無いと何にもならないのである。実はさういふ日の方が私には多かつた。けれどもお邪魔にあがつて一二時間費し、門を辞する時には、まことに安楽な、何かに充みたされたやうな心持になるのが常であつた。

そのころ先生は支那の文字、金石について興味を有もたれてゐた。一部破壊されたといふか、磨滅したといふか、さういふ欠陥のあるところを幾日も幾日もかかつて、新しく補充せられて居られたりした。先生はこれを老人の遊びなどと笑つて居られたが、実に静謐せいひつな精到な学風のやうな感じを得て帰り帰りした。

また支那文字の古いところを調べられて、古の文字は実に不思議である。二本引くところを三本引いたり、四つ打つところを五つも打つたり。これ見給へ、いくら何だつてこれぢや議論にも何にもなるまいぢやないか。かういふ大家の字がこんな風で、平然として居られてみると、僕のやうな、まあ自由主義といつたやうな奴にも、結論がつきにくいね。

かういふお話がつづくのである。この場合にもこちらの予備が出来てゐず、支那に於おけるその方面の大家の名などが幾人も出てくるのであるが、やはりぼんやりとして聞いてゐるといふ有様であつた。それでも露伴的丁寧親切の学風ともいふべきものをそれとなく感じて帰り帰りしたものである。

底本 / Source edition

底本:「斎藤茂吉選集 第十二巻」岩波書店
1982(昭和57)年2月26日第1刷発行
初出:「斎藤茂吉全集 第10巻」岩波書店
1954(昭和29)年1月
入力:しだひろし
校正:門田裕志
2006年10月18日作成
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書誌 / Bibliography
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斎藤 茂吉「露伴先生」(新字旧仮名)、底本『斎藤茂吉選集 第十二巻』岩波書店、1982年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 046468_001059, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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