１

「い」とあなたがいうと

「それから」と母様は<ruby><rb>仰言</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>った。

「ろ」

「それから」

「は」

あなたは母様の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>に抱っこされて居た。そとでは<ruby><rb>凩</rb><rt>こがらし</rt></ruby>が<ruby><rb>恐</rb><rt>おそろ</rt></ruby>しく<ruby><rb>吼</rb><rt>ほ</rt></ruby>え狂うので、地上のありとあらゆる草も木も悲しげに泣き叫んでいる。

その時あなたは<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>えながら、母様の<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>へしっかりとしがみつくのでした。

凩が<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じく吼え狂うと、<ruby><rb>洋燈</rb><rt>ランプ</rt></ruby>の光が明るくなって、<ruby><rb>卓</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の上の<ruby><rb>林檎</rb><rt>りんご</rt></ruby>はいよいよ<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>く暖炉の火はだんだん<ruby><rb>暖</rb><rt>あたたか</rt></ruby>くなった。

あなたの<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上には絵本が置かれ、悲しい<ruby><rb>語</rb><rt>はなし</rt></ruby>のところが開かれてあった。それを母様は読んで下さる。――それはもうまえに百遍も読んで下さった物語であった。――その時の母様の顔色の<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>は沈んで、声は低く悲しかった。あなたは<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>をころして一心に聴入るのでした。

<ruby><rb>誰</rb><rt>た</rt></ruby>ぞ、<ruby><rb>駒鳥</rb><rt>こまどり</rt></ruby>を殺せしは？

<ruby><rb>雀</rb><rt>すずめ</rt></ruby>はいいぬ、われこそ！　と

わがこの弓と矢をもちて

わが駒鳥を殺しけり。

これがあなたの虐殺者というものを聴知った最初であった。

あなたはこの恐ろしい光景を残りなく胸に描き得た。この憎むべき矢に<ruby><rb>射貫</rb><rt>いぬ</rt></ruby>かれた美しい暖い紅の胸を、この刺客の手に<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>れた<ruby><rb>憐</rb><rt>あわ</rt></ruby>れな柔かい小鳥の<ruby><rb>骸</rb><rt>むくろ</rt></ruby>を。

<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>が急に<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がって、涙があなたの眼に浮かぶ。一滴また一滴、それが<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>を伝って流れては、熱いしかも悲しい滴りが、絵本のうえに雨だれのように落ちた。

「母様、駒鳥は<ruby><rb>可哀</rb><rt>かあい</rt></ruby>そうねエ」

「坊や、泣くんじゃないよ」

「でも母様、雀が……雀が……こ……殺しちゃったんだもの」

「ああ、そうなの。雀が殺してしまったのよ。本にはそう書いてありますけれど、坊やは聞いたことがありますか」

「<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>あに」

絵本は、その悲しい話の半面を語ったに過ぎなかった。他の半面は母様が知っていなさった。駒鳥は殺された。殺されて<ruby><rb>冷</rb><rt>つめた</rt></ruby>い<ruby><rb>血汐</rb><rt>ちしお</rt></ruby>のなかに<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>わったことは事実であった。けれども慈悲深い死の翼あるその矢のために、駒鳥は正直な鳥の、常に行くべき<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>へ行った。そしてそこで――ああ<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しい――彼は先へ行って居た自分の最愛の妻と子にそこで<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>ったのでした。

「駒鳥の親子は、今はみんなそこに居るんですよ。この世に住んだうちでは一番しあわせな駒鳥なんだよ」と母様はあなたの涙に<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れた頬にキッスしながら<ruby><rb>仰言</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>った。

大きく見ひらいたあなたの眼には、もう涙は消えていた。あなたは正直な鳥の行くべき処に居る駒鳥のことを遠く思いやった。駒鳥の眼、駒鳥の<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>い胸は再び輝いて居た。彼は<ruby><rb>囀</rb><rt>さえず</rt></ruby>り、歌い、そして妻子を連れて枝から枝へと飛び移った。小さい話を繕うことも、小さい人の心を繕うことも、小さい靴下を繕うことのように母様は実にお手に入ったものであった。こんな時にはいつも、あなたの靴下からは膝小僧が<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いて居た。日の暮れには、きまって靴下に穴があいて、そこから泥だらけな<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>が見えるのでした。

「まあちょっと御覧なさい、たった今洗ってあげたばかりじゃありませんか」といって、母様はあなたがおよる前に、湯殿へ連れておいでになる。あなたは大きな<ruby><rb>盥</rb><rt>たらい</rt></ruby>の縁に腰かけて、脚で水をぼちゃぼちゃいわせながら、母様の横顔を見ていた。

「まあ汚い<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>だねえ」と<ruby><rb>仰言</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>って、母様はあなたの生傷のついてる<ruby><rb>真黒</rb><rt>まっくろ</rt></ruby>な膝を洗っておやりになった。そして<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>になったところで、いつでもこう言いなさる。

「まあ、うちの光る児！」

そしてあなたの靴下は、あなたが朝お<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>を飛出す時にはいくら綺麗であっても、夕方またお家へ帰って来る時には、もう見るかげもなく汚れているのでした。そこで例によって、それ糸巻はどこにある？　糸は？　針は？　という騒ぎが始まるのです。

夏の朝、母様は庭の離れでお針箱を<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>へ置いて縫物をなさるのが常だった。太陽は網の目のようになって居る木木の緑を<ruby><rb>透</rb><rt>とお</rt></ruby>して<ruby><rb>金色</rb><rt>こんじき</rt></ruby>の光を投げた。鳥も<ruby><rb>囀</rb><rt>さえず</rt></ruby>りに<ruby><rb>倦</rb><rt>あ</rt></ruby>き、風もまどろむおやつの時にも、母様はなおやめずに針を動かしておいでだった。日が暮れてお<ruby><rb>夕餉</rb><rt>ゆうはん</rt></ruby>が済んでもなお母様は、黄色い<ruby><rb>洋燈</rb><rt>ランプ</rt></ruby>の光のしたに針を動かしておいでだった。

「母様はなぜそんなにチクチクばかりしてるの？」

「坊やには青い水兵服と、嬢には紫のお被布を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えてあげようと思ってさ」

「母様はチクチクが好きなの？」

「そうとも思わないけれどね」

「だって……母様は飽きないの？」

「ああ、そりゃ時時はねえ」

「じゃお休みなさいよ。ねえ母様」

「お休みって？　坊や。ああ休みましょう。いま少し縫って、そしたら遊びましょう」

「だって、母様は、いま少し、いま少しって、一日かかっちまうんだもの、ねえ、母様てば、母様」

あなたは少し考えて

「もう縫わなくってもいいのよ」

「もういいって？　この児は」と母様はお笑いなすった。あなたも笑った。

後にあなたは、

「母様とは私の面倒を見て下さって、私を<ruby><rb>可愛</rb><rt>かあい</rt></ruby>がって、そして、いま少し、もう少しって――<ruby><rb>終日</rb><rt>いちにち</rt></ruby>――縫物をして居る人です」

と人人に話してきかせたのでした。そうすると、その人達は、母様が子供達の面倒を見て下さるからには、子供<ruby><rb>達</rb><rt>たち</rt></ruby>もまた母様の<ruby><rb>為</rb><rt>ため</rt></ruby>にしてあげなければなりません。とあなたに話しました。そして、あなたは実にその言葉の通りにやった。母様のまえに<ruby><rb>立塞</rb><rt>たちふさが</rt></ruby>って、あなたは勇ましく<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>を握りしめた。

「私の母様に触っちゃいけません！」

あなたの唇はわななき、<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>は<ruby><rb>怒</rb><rt>いかり</rt></ruby>と涙で輝いて居た。けれども、母様はあなたをかばいながら、

「パパさんは、<ruby><rb>串談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>なんですよ」母様はあなたを胸に抱きよせて、

「御覧よ、パパは笑ってらっしゃるよ」と<ruby><rb>仰言</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>った。

パパは

「やアい、こわっぱ、パパは串談でやってるんだよ」

母様は、ほほえみながら、しかもほこりがに、あなたの涙を<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>っておやりになった。あなたは、あなたの方へ手を差出して居るパパを、いぶかしげに見やった。そして母様に押されながら、おずおずとパパのところへ行った。

パパは仰言った。

「お前はいつでも今のように母様に尽さなければなりません。そしてパパが居ない時には、<ruby><rb>誰</rb><rt>だれ</rt></ruby>でも<ruby><rb>他処</rb><rt>よそ</rt></ruby>の人に、母様がいじめられないようにするんですよ」

母様はあなたの額にキッスして、

「母様を<ruby><rb>護</rb><rt>まも</rt></ruby>る軍人なんだもの」

そしてこれからのちは、あなたが近くに居る時には、母様に心配はなかった。

「ああ、あの<ruby><rb>荒木</rb><rt>あらき</rt></ruby>の奥さん、あれにはまた弱って仕舞うねえ」

と母様は低い声で仰言ったけれど、あなたはそれをきき逃さなかった。そして小さい全精神をあげて荒木夫人を憎んだ。ついにその奥さんの勘定日が来て、奥さん自身やって来た。母様は庭に居て聞きつけなかった。あなたは自分で<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>に出た。

「母様には、今日は、<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>えやしないよ」あなたがしゃちこばっていうと

「それは変ですねえ」と荒木夫人は一足進んで言った。

「駄目だい」あなたは力一杯にドアにつかまって、声を張りあげた。

「駄目だよ。<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>っちゃいけないよ」

「おせっかいだっちゃありゃしない」荒木夫人は、<ruby><rb>威</rb><rt>おど</rt></ruby>しつけるようにいったけれど、あなたは、めげずに<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>めつけて、声を張りあげ、

「もう、僕の母様にゃ<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>えやしないよ」

と<ruby><rb>断乎</rb><rt>きっと</rt></ruby>して繰りかえした。

「<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>ですか？　承りたいものですが」と<ruby><rb>荒木</rb><rt>あらき</rt></ruby>夫人はみるみるふくれあがった。

「いったい<ruby><rb>如何</rb><rt>どう</rt></ruby>してなのです？　それを聞きましょう」

「何故って、父様がいない時には母様の面倒を坊やが見てあげるんだい。母様が逢いたくないような<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>に母様がいじめられないようにしろって父様が言ったんだもの」

文句が長かったので、一息でいってしまうのは大抵の事ではなかった。

荒木夫人は干からびたような<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>わらい</rt></ruby>を<ruby><rb>洩</rb><rt>もら</rt></ruby>して

「ああそういうんですか？　それでお前さんは、何故お前さんのお母様が私に逢いたくないのか、その訳を知っていなさるかえ？」

「だって――母様、そう言ったもの！」

あなたの言ったことはきれぎれで<ruby><rb>恰度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>「いろは」の御本を読むようだったので、荒木夫人は<ruby><rb>呑込</rb><rt>のみこ</rt></ruby>めなかったかもしれなかった。

しかし、<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>、うまく行った。荒木夫人は火のように怒って、鼻息を荒くしながら、<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を<ruby><rb>蹴返</rb><rt>けかえ</rt></ruby>して帰って行った。

「もう決して決して」といって、門の戸をピシャリと閉めた。

あなたは静かにドアをしめた。

<ruby><rb>戦</rb><rt>たたかい</rt></ruby>は勝てり！

あなたは庭へ引返した。

「もう済んだ、もう済んじゃった。」

「何がもう済んだっての、坊や」

「荒木の奥さん」とあなたは答えた。

こんな風にあなたは母様に尽した。母様はますますあなたを<ruby><rb>可愛</rb><rt>かあい</rt></ruby>がり、あなたもますます母様に尽したのでした。この<ruby><rb>日頃</rb><rt>ひごろ</rt></ruby>あなたは病気ではあったものの、なお<ruby><rb>且</rb><rt>かつ</rt></ruby>機嫌がよかった。何故って母様がおいしい物を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えては、お<ruby><rb>茶碗</rb><rt>ちゃわん</rt></ruby>に<ruby><rb>散蓮華</rb><rt>ちりれんげ</rt></ruby>を添えて持って来て下さるたんびに、お代りのいるほど食べた――死なないって証拠のように。そうしては柔かい<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>をして母様が手づから拵えたツギハギの丹前を掛けて横になった。枕もとには母様が嫁入の時に着たキモノの絹の小さなキレや、母様がずっと昔、まだ桃割を結ってた時分の、<ruby><rb>他処行</rb><rt>よそゆき</rt></ruby>のお羽織の紺青色のキレがあった。まだまだお<ruby><rb>祖母</rb><rt>ばあ</rt></ruby>さんのキモノの柔かい<ruby><rb>鼠色</rb><rt>ねずみいろ</rt></ruby>のキレや、春さんののであったピカピカ光る桃色ののや、父様が若かった男盛の<ruby><rb>頃</rb><rt>ころ</rt></ruby>のネクタイだった<ruby><rb>條</rb><rt>すじ</rt></ruby>のあるのや、<ruby><rb>藍色</rb><rt>あいいろ</rt></ruby>ののや黄色いのもあった。病に疲れてものうく、<ruby><rb>眠</rb><rt>ね</rt></ruby>む<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>がさして、うっとりとして来るにつれて、その嫁入衣裳のキレは冷たい<ruby><rb>真白</rb><rt>まっしろ</rt></ruby>な雪に変る。すると<ruby><rb>橇</rb><rt>そり</rt></ruby>の鈴の音が聞えて来る。

隅っこの方に小さな教会のついて居るクリスマスカードが見える。その教会の塔は凍って居たけれど、その窓はクリスマスの輝きで明るく暖かかった。

つぎに紺青色のは空であった。

そして、それを見て居ると、小鳥や、星や、三月<ruby><rb>弥生</rb><rt>やよい</rt></ruby>のことなどが思い出されるのであった。

もしお<ruby><rb>祖母</rb><rt>ばあ</rt></ruby>様ののであった<ruby><rb>鼠色</rb><rt>ねずみいろ</rt></ruby>のキレに<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>を移すならば、緑色だった空は<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち暗くなって雨が降って来る。

けれどもお春さんののであった桃色のキレや、父様のだった藍色ののや黄色のを見さえすれば、すぐに花が咲いた、お日様がまた輝くのでした。

やがていろんな色がごっちゃになって、こんがらがってしまう、<ruby><rb>蒲公英</rb><rt>たんぽぽ</rt></ruby>がちゃらちゃらと鳴ったり、橇の鈴や<ruby><rb>菫</rb><rt>すみれ</rt></ruby>が雪のなかで花を開いたり。そしてあなたは眠ります。その眠りが小さな子供を健康にするのでした。

２

春が来た。

桜の枝には<ruby><rb>蜂</rb><rt>はち</rt></ruby>と風とが<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>を立てて居る。庭にはあなたと母様と二人きり白い花弁が雪のように音もなく散りかかる。

小鳥は朝の輝きのうちに<ruby><rb>囀</rb><rt>さえず</rt></ruby>っていた。

あなたは躍り、笑い、<ruby><rb>且</rb><rt>かつ</rt></ruby>歌った。

あなたの大きくみひらいた眼には、果てなき大空の藍色と見渡す草原の緑とが映り紅を<ruby><rb>潮</rb><rt>さ</rt></ruby>した<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>には日の光と<ruby><rb>微風</rb><rt>そよかぜ</rt></ruby>とが知られた。

「母様見て御覧なさい、坊やが飛上りますよ」

「まあ」

「今度は逆立ち」

「まあ、お上手だこと」

「母様、坊やは大きくなってから何になるか知ってますよ」

「何になるの」

「曲馬師になるの」

「まあ」

「大きい白い馬に乗って、ねえ母様」

「まあいいことね」

「そしてお月様なんか飛越しっちまうんだ」

「お月様を、まあ」

「ええお月様を、見て御覧なさい」と言ってあなたはそとにあった<ruby><rb>熊手</rb><rt>くまで</rt></ruby>の柄を飛越えた。

それがお月様を飛越す<ruby><rb>下稽古</rb><rt>したげいこ</rt></ruby>でした。

「けども坊やは曲馬師にはならないかも知れないの、きっと、ねえ母様」

「曲馬師にならないって」

「ぼくは、ジョージ、ワシントンのように大統領になるの、父様がなれるっていいましたもの、なれるでしょうか、え、母様」

「そうね、なれましょうよ、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>か」

「だけども<ruby><rb>次郎坊</rb><rt>じろうぼう</rt></ruby>なんかなれやしませんね、母様」

「<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>次郎さんはなれないの」

「だって次郎坊は約束してもすぐ<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>いうんだもの。ぼくは言わないの、ジョージ、ワシントンも言わなかったから」

「そうそうその方がいいんですよ、曲馬師と大統領とはまるで<ruby><rb>較</rb><rt>くら</rt></ruby>べものになりません」

「ぼくは母様、ぼくきっと大統領になりますよ」

「まあいいこと、<ruby><rb>屹度</rb><rt>きっと</rt></ruby>なるんですよ」

母様は離れで縫物を始めなさる。

「母様」

「はあい」

「今から歌を歌いますよ」

ほどよい庭へ<ruby><rb>真直</rb><rt>まっすぐ</rt></ruby>に立ち、<ruby><rb>踵</rb><rt>きびす</rt></ruby>を<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>へ両手を真直に垂れて「気を付け」の姿勢であなたは歌いはじめた。

天はゆるさじ良民の

自由をなみする虐政を

十三州の血はほとばしり

「もう少し静かにお歌いなさいな」と母様が<ruby><rb>仰言</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>った。

天はゆるさじ良民の……

「それじゃあ聞えやしないわ」と母様はお笑いになった。あなたはちょっと、妙な笑いかたをしてまた声を張りあげる。

自由をなみする虐政を

十三州の血はほとばしり

ここに立ちたるワシントン

「まあお上手だねえ」と母様は<ruby><rb>仰言</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>る。

「さあ今度は母様の番だよ。母様何かお<ruby><rb>噺</rb><rt>はなし</rt></ruby>」

「お噺」

「ええあの<ruby><rb>菫</rb><rt>すみれ</rt></ruby>のお噺」

「菫の」といって母様は、夢見るように針の手をとめて、

「青い青い菫が――」

「空のように青いのねえ、母様」とあなたは口を入れた。

「空のように青い、そう昔はね、この世界に菫が一つも無かったの」

「それからお星様もねえ、母様」

「ええ菫もお星様もこの世界になかったの。そこでねえ坊や、青い空をすこしばかり分けて<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>ってそれを世界中に<ruby><rb>輝</rb><rt>かがやか</rt></ruby>したものがあるの。それが菫の一番はじまりなんだよ」

「それからお星様は？」

「坊やは知ってるじゃありませんか。お星様はね、青い空の小さな穴ですよ。そこから天の光が輝く小さな穴ですよ」

「ほんとう、母様」とあなたは言って母様を見あげる。

母様の<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>は菫のように青く、星の様に輝いて居た。<ruby><rb>天</rb><rt>そら</rt></ruby>の光が輝いて居ったから。

母様は世界中で一番不思議な人であった。

母様は<ruby><rb>嘗</rb><rt>かつ</rt></ruby>て悪い事をしたことがなかった。そしていろんな事を知って居た。夜も昼も子供のことを見ておいでなさる神様をも知って居た。また神様はあなたの髪の毛の数さえも知っておいでなさるのみならず、子鳥が死ぬのをも一羽だっても、神様の知って居なさらぬことはないと母様は話してきかせなされた。

「そんならねえ母様、神様は、あの<ruby><rb>駒鳥</rb><rt>こまどり</rt></ruby>の死んだ時をも知っているの？」

「知ってなさるとも」

「それじゃあ、ぼくが指を傷めた時をも、知っているの？」

「ああ、何でも知っていなさいますよ」

「そんなら、ぼくが指を傷めた時には、<ruby><rb>可愛</rb><rt>かあい</rt></ruby>そうと思ったでしょうか、え母様」

「それは可愛そうだと思いなされたともね」

「じゃ、<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>神様はぼくの指を傷める様になされたの？」

<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く母様は黙っておいでだった。

「まあ坊やは、それは母様には<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らないわ。神様より外には<ruby><rb>誰</rb><rt>だれ</rt></ruby>も知らない事が沢山あるのです」

あなたは母様の言葉をあやしみながら、母様の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>のうえに抱かれて居た。

空のどこかに、雲のうえの輝き渡る大きなお宮の中に、金の冠を<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>いた神様がいらっしゃることをあなたは知って居た。そしてその下の緑の世界には、小鳥が死んだり、小さな子供が指を傷めて、母様に抱かれて泣いたりするのです。

神様はすべての事、すべての人を<ruby><rb>視</rb><rt>み</rt></ruby>ていらっしゃった。けれどもそれを助けはなさらなかった。

あなたは、母様の<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>に両手をまわして母様の胸に<ruby><rb>噛</rb><rt>かじ</rt></ruby>りついた。

「母様！　ぼく神様はいや、神様はいや！」

「何故坊やはそんな事いうの？　神様は坊やを可愛がってらっしゃるのに」

「だって、だって、母様、母様がなさる様じゃないもの、神様は母様のようじゃないんだもの」

<ruby><rb>蜂</rb><rt>はち</rt></ruby>と風とは<ruby><rb>林檎</rb><rt>りんご</rt></ruby>の枝に音を立てて居た。もう五月になったのだ。庭にはあなたと母様とただ二人、<ruby><rb>真白</rb><rt>まっしろ</rt></ruby>な花びらが雪のように乱れて散る。あなたはお<ruby><rb>祖父</rb><rt>じい</rt></ruby>様が<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えて下すったブランコに乗った。

青葉の影はそよ風につれて揺れる。あなたの心はあなたの夢みるままに揺れた。

風は林檎の枝に歌い、花のたわわな枝は風に揺れ、風に<ruby><rb>撓</rb><rt>しな</rt></ruby>った。

あなたの頭上はすべてこれ空飛ぶ鳥と、鳥の歌。あなたの<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>はすべてこれ、風に光る草の原であった。

あなたはブランコが揺れるままに、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>かしら、<ruby><rb>藍色</rb><rt>あいいろ</rt></ruby>のキモノに身を包んで藍色の大海原を帆走る一個の<ruby><rb>船夫</rb><rt>かこ</rt></ruby>であった。

風は帆綱に鳴り、白帆は十分風を<ruby><rb>孕</rb><rt>はら</rt></ruby>んだ。船は<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>く<ruby><rb>飛沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>を飛ばして<ruby><rb>駛</rb><rt>は</rt></ruby>せた。<ruby><rb>鴎</rb><rt>かもめ</rt></ruby>は鳴いて大空に輪を<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>いた。そうしてあなたは、海の風に髪をなぶらせつつ、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>までもと、ひた駛せに駛せた。

船は<ruby><rb>錨</rb><rt>いかり</rt></ruby>を下した。

動揺は止んだ。

あなたはもとの子供であった。

「母様」

と夢心地であなたは静かに言った。声はまだ眠そうだった。母様は聞きつけなかった。母様はやはり離れで笑いながら<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っておいでなされた。針の手は鈍って縫物が<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>からすべり落ちそうであった。

あなたの母様は世界で一番優しい人、あなたはその母様の秘蔵っ子であったことを、今こそ知っては居るものの、あなたはその時まだそれを知らなかった。

母様の庭で、母様の膝の上で、母様の手に抱かれて、母様の<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>にあなたは両手をあてながら、母様の<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>の<ruby><rb>藍色</rb><rt>あいいろ</rt></ruby>の床しさをあやしみつつ見詰めた。そして情あふれる母様の声を<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しくきいた。

「<ruby><rb>可愛</rb><rt>かあ</rt></ruby>いい坊や」

「え」

「私の<ruby><rb>大切</rb><rt>だいじ</rt></ruby>な大切な可愛いい坊や」

といって母様はあなたを胸に抱きよせて、頬ずりをなさる。

「<ruby><rb>何日</rb><rt>いつ</rt></ruby>かねえ、このお庭で、この離れで母様は坊やの夢を見たのよ」

「坊やの夢を？　えッ母様」

「ああ坊やの。<ruby><rb>恰度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>この庭でね、そこの月見草が花盛りで鳥が鳴いて居たの。母様は、坊やが小さな赤ん坊だったところを夢に見たの。ああ、その時に風は月見草の花に歌をうたってきかせて居ましたよ。母様はねえ。坊やにねんねこ歌を歌ってきかせたのよ。そうするとねえ、坊やが私の方へ手を伸べて笑ったの、それから……ねえ、坊や……」

「でも母様、それは夢だったの」

「それはほんとの夢だったの、そしてそれがほんとうになったの。それは六月のある晩にほんとうになったの。――六月のおついたちに……」

「ぼくの誕生日に」

「坊やの誕生日に」

息もつがずあなたは言った。

「母様、美しい夢ね」