## 一

武士の魂。大小の二刀だけは腰に差して、手には何一つ持つ間もなく、草履突掛けるもそこそこに、<ruby><rb>磯貝竜次郎</rb><rt>いそがいりゅうじろう</rt></ruby>は裏庭へと<ruby><rb>立出</rb><rt>たちいで</rt></ruby>た。

「<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>ような事が有ろうとも、今日こそは思い切って出立致そう」

武者修行としても一種特別の願望を以て江戸を出たので有った。<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>くに目的を達して今頃は江戸に帰り、喜ぶ恩師の顔を見て、一家相伝の極意秘伝を<ruby><rb>停滞</rb><rt>とどこおり</rt></ruby>なく受けていなければ成らぬのが、意外な<ruby><rb>支障</rb><rt>さわり</rt></ruby>に<ruby><rb>引掛</rb><rt>ひきかか</rt></ruby>って、三月余りを殆ど<ruby><rb>囚虜</rb><rt>とらわれ</rt></ruby>の身に<ruby><rb>均</rb><rt>ひと</rt></ruby>しく過ごしたのであった。

<ruby><rb>常陸</rb><rt>ひたち</rt></ruby>の国、<ruby><rb>河内郡</rb><rt>こうちごおり</rt></ruby>、<ruby><rb>阿波</rb><rt>あんば</rt></ruby>村の<ruby><rb>大杉</rb><rt>おおすぎ</rt></ruby>明神の近くに、恐しい妖魔が住んでいるので有った。それに竜次郎は捕って、水鳥が霞網に<ruby><rb>搦</rb><rt>からま</rt></ruby>ったも同然、<ruby><rb>如何</rb><rt>いかん</rt></ruby>とも仕難くなったのであった。一と夏を其妖魔の家に心成らずも日を過して、今朝の秋とは成ったので有った。

大杉明神は<ruby><rb>常陸坊海尊</rb><rt>ひたちぼうかいそん</rt></ruby>を祀るともいう。俗に<ruby><rb>天狗</rb><rt>てんぐ</rt></ruby>の荒神様。其附近に名代の魔者がいた。<ruby><rb>生縄</rb><rt>いきなわ</rt></ruby>のお<ruby><rb>鉄</rb><rt>てつ</rt></ruby>という女侠客がそれなのだ。

<ruby><rb>素</rb><rt>もと</rt></ruby>より田舎の事とて泥臭いのは<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>だが、<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に角常陸から<ruby><rb>下総</rb><rt>しもうさ</rt></ruby>、<ruby><rb>利根川</rb><rt>とねがわ</rt></ruby>を股に掛けての縄張りで、<ruby><rb>乾漢</rb><rt>こぶん</rt></ruby>も掛価無しの千の数は揃うので有った。お鉄の亭主の<ruby><rb>火渡</rb><rt>ひわた</rt></ruby>り<ruby><rb>甚右衛門</rb><rt>じんえもん</rt></ruby>というのが、お上から朱房の十手に捕縄を預った御用聞きで、是れが二足の<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>を穿いていた。<ruby><rb>飯岡</rb><rt>いいおか</rt></ruby>の<ruby><rb>助五郎</rb><rt>すけごろう</rt></ruby>とは兄弟分で有った。

その火渡り甚右衛門が病死しても、後家のお鉄が男まさりで、まるで女の御用聞きも同然だという処から、未だ朱房の十手を預っているかのように人は忌み恐れていた。

「生縄のお鉄は男の捕物に掛けては天下一で、あれに捕ったら往生だ。罪の有る無しは話には成らぬ。世にも不思議な拷問で、もう五六人は殺されたろう。阿波の<ruby><rb>高市</rb><rt>たかまち</rt></ruby>に来た旅役者の<ruby><rb>嵐雛丸</rb><rt>あらしひなまる</rt></ruby>も殺された。<ruby><rb>越後</rb><rt>えちご</rt></ruby>の<ruby><rb>縮売</rb><rt>ちぢみうり</rt></ruby>の若い者も殺された。それから<ruby><rb>京</rb><rt>きょう</rt></ruby>の旅画師に<ruby><rb>小田原</rb><rt>おだわら</rt></ruby>の渡り大工。<ruby><rb>浮島</rb><rt>うきしま</rt></ruby>の<ruby><rb>真菰大尽</rb><rt>まこもだいじん</rt></ruby>の次男坊も引懸ったが、どれも三月とは持たなかった。あれが世にいう悪女の深情けか。まさか<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby><ruby><rb>破天連</rb><rt>ばてれん</rt></ruby>でも有るまいが、あの眼で一寸睨まれたら、もう体が痺れて<ruby><rb>如何</rb><rt>どう</rt></ruby>する事も出来ないのだそうな」

<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>うした<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>は至る処に立っていた。

とは知らぬ磯貝竜次郎、武者修行に出て利根の夜船に乗った時に、江戸帰りのお鉄と一緒で有った。<ruby><rb>年齢</rb><rt>とし</rt></ruby>は既に四十近く、姥桜も散り過ぎた大年増。重量は二十貫の上もあろう程の肥満した体。色は浅黒く、髪の毛には波を打ったような癖が目立って、<ruby><rb>若</rb><rt>しか</rt></ruby>も<ruby><rb>生端</rb><rt>はえぎわ</rt></ruby>薄く、それを無造作に<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>も櫛巻きにしていた。鼻は低く、口は大きく、<ruby><rb>腮</rb><rt>あご</rt></ruby>は二重に見えるので有ったが、如何にも其眼元に愛嬌が<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れていた。<ruby><rb>然</rb><rt>そ</rt></ruby>うして云う事<ruby><rb>為</rb><rt>す</rt></ruby>る事、如才無く、総てがきびきびとして気が利いていた。若い時には斯うした風のが、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って男の心を動かしたかも知れぬのだ。

「大杉様へ御参詣なら、是非手前共へお立ち寄りを」

<ruby><rb>押砂河岸</rb><rt>おしすながし</rt></ruby>で夜船を上って、阿波村に行く途中の<ruby><rb>蘆原</rb><rt>あしはら</rt></ruby>で、急に竜次郎が腹痛を覚えた時に、お鉄は<ruby><rb>宛如</rb><rt>まるで</rt></ruby>子供でも扱うようにして、軽々と背中に負い、半里足らずの道を担いで吾家に帰り、それから親身も及ばぬ介抱をして<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れたまでは好かったが、<ruby><rb>其儘</rb><rt>そのまま</rt></ruby>一歩も外に踏出させぬには、此上も無い迷惑なので有った。

竜次郎の腹痛は直ぐ治ったが、折角元の健康に復したのも、二日か三日で又衰え始めて、されば、何処が不良という事無しに、唯ぶらぶらの病に均しく、腑抜けのように日を暮らしていた。<ruby><rb>月代毛</rb><rt>さかやき</rt></ruby>も延びた。顔色も蒼白く成った。眼の窪んだのが自分ながら驚かれるので有った。正しく妖魔の<ruby><rb>囚虜</rb><rt>とりこ</rt></ruby>と成ったので有った。

今日こそはと大勇猛心を出して、お鉄の不在を幸いに、裏庭から崖を降りて稲田伝いに<ruby><rb>福田</rb><rt>ふくだ</rt></ruby>村の方へ出ようと考えたので有った。

## 二

良心の<ruby><rb>呵責</rb><rt>かしゃく</rt></ruby>は一歩毎に強く加わるので有った。年上で、身分<ruby><rb>賤</rb><rt>いや</rt></ruby>しく、格別美しくも無い一婦人の為に、次男ながらも旗本五百石の家に産まれた天下の直参筋、剣道には<ruby><rb>稀有</rb><rt>けう</rt></ruby>の腕前、是<ruby><rb>天禀</rb><rt>てんぴん</rt></ruby>なりとの評判を<ruby><rb>講武所</rb><rt>こうぶしょ</rt></ruby>中に轟かした磯貝竜次郎が、まるで掌の内に円め込められて三月の間は<ruby><rb>玩具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>の如く扱われて<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>ったのだ。

講武所に学びては、主として<ruby><rb>今堀摂津守</rb><rt>いまぼりせっつのかみ</rt></ruby>の指南を受けていたが、其他に、<ruby><rb>麻布</rb><rt>あざぶ</rt></ruby><ruby><rb>古川端</rb><rt>ふるかわばた</rt></ruby>に浪居して<ruby><rb>天心独名流</rb><rt>てんしんどくめいりゅう</rt></ruby>から更に一派を開きたる<ruby><rb>秋岡陣風斎</rb><rt>あきおかじんぷうさい</rt></ruby>に愛され、一師一弟の別格稽古を受け、<ruby><rb>八方巻雲</rb><rt>はっぽうまきぐも</rt></ruby>の剣法の極意を相続する位地にまで進んだので有った。

「その伝授の前に、必ずそれは武者修行に出て、一度は廻国して来なければ相成らぬ。と云った処で、<ruby><rb>普通</rb><rt>ただ</rt></ruby>の道場破りをして来いと申すのでは無い。先ず<ruby><rb>香取</rb><rt>かとり</rt></ruby><ruby><rb>鹿島</rb><rt>かしま</rt></ruby>及び<ruby><rb>息栖</rb><rt>いきす</rt></ruby>の三社、それに<ruby><rb>流山</rb><rt>ながれやま</rt></ruby>在の<ruby><rb>諏訪</rb><rt>すわ</rt></ruby>の宮、常陸は阿波村の大杉明神、<ruby><rb>立木村</rb><rt>たつきむら</rt></ruby>の<ruby><rb>蛟𧍑</rb><rt>みずち</rt></ruby>神社、それ等の神々に詣で、身も心も二つながら清めて、霊剣一通り振り納め、全く邪心を去って来れば好い。其他の神詣では追々の事として苦しゅう無い」

秋岡陣風斎から一師一弟、八方巻雲の剣法を授かる為に、竜次郎の廻国は始ったので有った。処が大杉明神で停滞したので有った。それは併し<ruby><rb>如何</rb><rt>どう</rt></ruby>考えても不思議というより他は無かった。

押砂河岸に上る前に、<ruby><rb>木下</rb><rt>きおろし</rt></ruby>河岸で朝早く売りに来た弁当を買った。それの刻み<ruby><rb>鯣</rb><rt>するめ</rt></ruby>に<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>って腹痛を感じたとのみは思えなかった。其前に船中の人いきれに、喉の乾きを覚えた時、お鉄が呉れた湯冷しというに、何やら異臭が有った。邪推して見れば毒薬でも<ruby><rb>服</rb><rt>の</rt></ruby>まされたか知れなかった。

それからお鉄の家に引取られてというものは、血が濁り、筋が緩み、気力が衰えて、<ruby><rb>如何</rb><rt>どう</rt></ruby>にも斯うにも成らなかった。痴呆の如くに成るのみで有った。

お鉄の家は代々の目明しで有った。祖父が別して名高かった。火渡り甚右衛門は養子なので有った。それで捕物に就いての知識は<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってお鉄の方が<ruby><rb>委</rb><rt>くわ</rt></ruby>しかった。

「<ruby><rb>捕縄</rb><rt>とりなわ</rt></ruby>の掛け方なら、私に及ぶ者は常陸下総<ruby><rb>上総</rb><rt>かずさ</rt></ruby>にも有りますまい」

お鉄の自慢はそれだけの実力が有り余っていた。女ながらも掛縄、投縄、引縄、釣縄、抜縄、何でもそれは熟練していた。捕縄の掛け方に就いても、<ruby><rb>雁字搦</rb><rt>がんじがら</rt></ruby>み、<ruby><rb>亀甲繋</rb><rt>きっこうつな</rt></ruby>ぎ、松葉締め、<ruby><rb>轆轤巻</rb><rt>ろくろまき</rt></ruby>、高手、小手、片手上げ、逆結び、有らゆる掛け方に通じていた。

<ruby><rb>総角</rb><rt>あげまき</rt></ruby>、<ruby><rb>十文字</rb><rt>じゅうもんじ</rt></ruby>、<ruby><rb>菱</rb><rt>ひし</rt></ruby>、<ruby><rb>蟹</rb><rt>かに</rt></ruby>、<ruby><rb>鱗</rb><rt>うろこ</rt></ruby>、それにも<ruby><rb>真行草</rb><rt>しんぎょうそう</rt></ruby>の三通り<ruby><rb>宛</rb><rt>ずつ</rt></ruby>有った。流儀々々の細説は、写本に成って家に伝わっていた。

竜次郎は其捕縄に就いても興味を持ち、退屈凌ぎに写本は残らず読んで、それから益々研究心を起こして、実地をお鉄に就いて学んだので有った。

「これでも一子相伝ですが、<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>にですから伝授しましょう。併し昼間はどんな事が有っても授けられぬと、ちゃんと禁じて有りますから、真夜中に教えて上げましょう」

教える為にはお鉄が捕縄を<ruby><rb>捌</rb><rt>さば</rt></ruby>いて、竜次郎を縛りもした。又お鉄が竜次郎に縛られもした。

「縄抜けの法は泥棒ばかりでは有りません。御武家でも覚えて置いて好いと思います。敵に<ruby><rb>俘虜</rb><rt>とりこ</rt></ruby>に成った時に、役に立ちますからね」

肥満したお鉄の豊かな肉に喰入る本縄の緊縛も、身を<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>えさせて、肩に風を切り、下腹に波を打たせている間に、見事に抜けて自由の体に成るので有った。竜次郎は真底から驚嘆せずにはいられなかった。

斯うしている間に竜次郎は、始終無形の縄に縛られて、<ruby><rb>緊</rb><rt>きつ</rt></ruby>く繋がれたような気持がして、一歩も外へ踏み出せぬので有った。又お鉄が<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど附切りで、近き大杉明神へも参詣させぬ。お鉄が<ruby><rb>無拠</rb><rt>よんどころなく</rt></ruby>外出する時には、<ruby><rb>乾漢</rb><rt>こぶん</rt></ruby>をして見張らせるので有った。

其代り<ruby><rb>痒</rb><rt>かゆ</rt></ruby>い処へ手の届かずという事なく、有らゆる優待はするので有った。

「生縄一家の用心棒、磯貝先生は、話に今も<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>っている<ruby><rb>笹川繁蔵</rb><rt>ささがわしげぞう</rt></ruby>の処の<ruby><rb>平手酒造</rb><rt>ひらてみき</rt></ruby>よりも<ruby><rb>豪</rb><rt>えら</rt></ruby>い方だ」

持上げられるだけ持上げられても、其実<ruby><rb>入牢</rb><rt>じゅろう</rt></ruby>させられたも同様で有った。

「斯うしていては、秋岡先生に相済まぬ」

竜次郎は全部魂が腐敗し切ってもいなかった。良心の呵責に耐え切れず、漸く見出した隙間を見て、お鉄の家の裏庭から、<ruby><rb>崕</rb><rt>がけ</rt></ruby>を雑草に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りながら、谷地の稲田の<ruby><rb>畦路</rb><rt>あぜみち</rt></ruby>にと降りた。

やれ嬉しやと思う間もなく、パッと上から<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>が落ちた。左脇の下から右の肩上に掛ったと思うと、キュッと締められた。と早や一気に釣上げられた。身は宙にぶら下った。

「先生、何んだって<ruby><rb>這</rb><rt>こ</rt></ruby>んな真似をなさるの。どんな事が有っても逃がしませんよ」

上には憤怒に<ruby><rb>上釣</rb><rt>かみづ</rt></ruby>ったお鉄の声がガンガンと響いた。

## 三

僅かの差で帰って来たお鉄が早速の投縄で、竜次郎の脱走を<ruby><rb>留</rb><rt>と</rt></ruby>めたので有った。高手小手に縛り上げて、裏の中二階に転がし放しにして、其<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>でお鉄はやけからの茶碗酒を<ruby><rb>呷</rb><rt>あお</rt></ruby>りながら、さも口惜しそうに口を切った。

「何んだって先生、逃げ掛ったのです。一寸私が油断してる<ruby><rb>間</rb><rt>うち</rt></ruby>に……それも他の用で私は出たのでは有りませんよ。<ruby><rb>須賀津</rb><rt>すがつ</rt></ruby>の<ruby><rb>溜</rb><rt>たまり</rt></ruby>から<ruby><rb>胡麻鰻</rb><rt>ごまうなぎ</rt></ruby>を取って来て、丸煮で先生に差上げて、少しでも根気を附けて上げましょうと、それは私の一心からで、人手にも掛けず<ruby><rb>選</rb><rt>よ</rt></ruby>りに行ったのですよ。それをまあ何事です」

お鉄は<ruby><rb>涙含</rb><rt>なみだぐ</rt></ruby>んでさえいるので有った。

竜次郎は斯うして縛り放しにされている意気地無さ。我と吾身に愛想の尽きるので有った。之も皆師に<ruby><rb>叛</rb><rt>そむ</rt></ruby>いた罰だ。堕落した為だ。<ruby><rb>然</rb><rt>そ</rt></ruby>ういう風に悔いながら、

「姉御、どうか許して呉れ。<ruby><rb>如何</rb><rt>どう</rt></ruby>しても一度江戸へ行って来ねば相成らぬで」

「草深い田舎に飽いてで御座んすか。いや、私という者に愛想が尽きて、お逃げ出しで御座んすかよ」

「決して左様な訳ではない。行って見て、安心したら直ぐ帰る。実は毎夜の夢見、どうも心配で心配で耐え難いで」

「夢見？」

「夢は五臓のつかれとやら。そう云って了えばそれ迄だが、余りに一つ夢を何度も何度も繰返すので気に懸って相成らぬ。それは恩師秋岡陣風斎先生が瀕死の重態。されば先生には誰一人身寄りが無い。看病する者が居らぬ筈。孤独の<ruby><rb>御生活</rb><rt>おくらし</rt></ruby>、殊に偏屈という御性癖で、弟子というても斯くいう竜次郎より他には持たれぬのだ。それが一師一弟の特別の稽古、その八方巻雲の秘伝をお授け下さるという事は、いつぞや姉御にも話して置いた」

「それは確かに聴きました」

「万一先生、御他界の間に合わぬ時は、折角の秘伝は消滅して、残念ながら此世には<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>り申さぬ。それが<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも惜しゅうて成らぬ。や、それは又それとしても、義理人情の薄う成り過ぎた此頃、恩師を唯一人のたれ死も同然にさせたと有っては、磯貝竜次郎の一分が立たぬ。師弟の間柄が<ruby><rb>宛如</rb><rt>さながら</rt></ruby>商売取引のように成ったのを、悉く不満に存じ居る折柄、是非先生の御看病を……」

「先生は本統に御病気なのですかえ」

「それは分らぬ。併し毎夜の如く続けて夢に見る。<ruby><rb>如何</rb><rt>どう</rt></ruby>も気に成って耐え難い。どうか姉御、一度江戸へ<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って貰いたい。いや江戸へ帰らして呉れとは云わぬ。行かして呉れ。先生御無事ならば、<ruby><rb>直様</rb><rt>すぐさま</rt></ruby><ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>へ帰って来る。もし正夢で御病気ならば、御看病申上げて、其後は<ruby><rb>屹</rb><rt>きっ</rt></ruby>と帰る。<ruby><rb>金打</rb><rt>きんちょう</rt></ruby>致して誓い申す」

真心は竜次郎の眼に涙と成って浮ぶので有った。これには生縄お鉄も感動せずにはいられなかった。人間の至誠が完全に表現されるのは、必ずしも多弁を要しないので有った。

「そんな事なら何も私にだんまりで、裏から逃げ出さなくっても好いでは有りませんか。私だって<ruby><rb>普通</rb><rt>ただ</rt></ruby>の女では無いんですからね。筋路さえ通った事なら、機嫌<ruby><rb>克</rb><rt>よ</rt></ruby>く御見送りしますよ」と意外に理解が早いので有った。然うして急いで竜次郎の<ruby><rb>縛</rb><rt>いまし</rt></ruby>めを解いて、縄の喰入った痕を、血の通うように<ruby><rb>撫</rb><rt>さす</rt></ruby>ってやるのであった。

「それは幾重にも詫びるが、今朝は別して師匠の事が気に掛って何んだか一刻半刻を争うように思われたので……一足違いで師の臨終に逢えないような気がしたので、それで姉御の帰りをも待たず、飛出したような次第。どうか悪く思わないで……」

と竜次郎は手足を遠慮がちに伸ばすので有った。

「何、私は、話さえ分れば後はさっぱりです。何んとも思いはしませんが、併し先生、本当に帰って来て下さいましょうね」

「必ず帰る」

「此間の夜も。しみじみ云いました通り、私が以前に<ruby><rb>水戸</rb><rt>みと</rt></ruby>の<ruby><rb>藤田</rb><rt>ふじた</rt></ruby>先生の御存命中に承わった処では、今に世の中がどんでん返しをして、<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>する程変ってくる。だから武家も、別して旗本衆などは、余程考えていなければ成らないので、大概なら剣道とか槍術とか、そんな方は見切りをつけて、砲術を学んだ方が為に成る。それには一度毛唐人の国へ行って来た方が好いとのお話……私は、実は貴郎に、<ruby><rb>米利堅</rb><rt>メリケン</rt></ruby>へでも、<ruby><rb>和蘭陀</rb><rt>オランダ</rt></ruby>へでも渡航して頂きたい位に考えて居りますのです。失礼ながら金は祖父の代から溜め込んで有るんですからね。二千や三千の金なら、何時でも耳が揃えられるんです」

「外国渡航に就ては、国禁も有り、<ruby><rb>吉田松陰</rb><rt>よしだしょういん</rt></ruby>の失敗もあり、併し追々は渡行出来ようで、是非一度は外国に渡り、見聞を弘くし、又砲術なども授って参りたいで、是非姉御の力を借らねば成らぬ故、必ず<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>へ戻って来る」

「それに<ruby><rb>最</rb><rt>も</rt></ruby>一つ私は念を押して置きますよ。久々で江戸へ帰ったとて、女という女は、どんな女とでも、仲好くすると承知しませんよ」

猛烈な嫉妬心を、其肥満の<ruby><rb>体躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>全部に貯えているのが生縄のお鉄で有った。

## 四

旅装束何から何まで行き届かして、機嫌<ruby><rb>克</rb><rt>よ</rt></ruby>くお鉄は送り出して呉れた。

鉄無地の<ruby><rb>道行</rb><rt>みちゆき</rt></ruby><ruby><rb>半合羽</rb><rt>はんがっぱ</rt></ruby>、<ruby><rb>青羅紗</rb><rt>あおらしゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>柄袋</rb><rt>つかぶくろ</rt></ruby>、<ruby><rb>浅黄</rb><rt>あさぎ</rt></ruby><ruby><rb>甲斐絹</rb><rt>かいき</rt></ruby>の<ruby><rb>手甲脚半</rb><rt>てっこうきゃはん</rt></ruby>、<ruby><rb>霰小紋</rb><rt>あられこもん</rt></ruby>の<ruby><rb>初袷</rb><rt>はつあわせ</rt></ruby>を裾短かに着て、袴は穿かず、鉄扇を手に持つばかり。斯うすると竜次郎の男振りは、<ruby><rb>一入</rb><rt>ひとしお</rt></ruby>目立って光るのであった。

「途中でも女と道連れになんか成らないようにして下さいよ。よござんすか。私の<ruby><rb>乾漢</rb><rt>こぶん</rt></ruby>は何処にでもいますからね。ちゃんと見ていますよ」

「大丈夫だ。今は唯師の身の上を思うばかり……それに次いでは御身の事を」

竜次郎はそう喜ばせて置いて、いよいよ前途を急ぎ出した。福田の台地を越して<ruby><rb>市崎</rb><rt>いちざき</rt></ruby>へ出たのは、ほんの一息で有った。

自由の身と成りながらも未だ強力な或物に後髪を引かれるように思われて成らなかった。お鉄の勢力の絶倫な為に、如何に今まで圧迫されていたか分るので有った。

釣られた魚の<ruby><rb>魚畚</rb><rt>びく</rt></ruby>を出て、再び大河に泳ぐような気が、次第次第に加わって来た。今度は江戸の方へ引附けられて行くので有った。

「少しも早く師の許へ」

師の陣風斎という人は、実際<ruby><rb>轗軻</rb><rt>かんか</rt></ruby>不遇の士。考えれば考える程気の毒で成らなかった。<ruby><rb>斎藤弥九郎</rb><rt>さいとうやくろう</rt></ruby>、<ruby><rb>千葉周作</rb><rt>ちばしゅうさく</rt></ruby>、<ruby><rb>桃井春蔵</rb><rt>ももいしゅんぞう</rt></ruby>、それ等の剣道師範に比べて、敢て腕前は劣らぬのだ。けれど他が何千という弟子を取り、幕府或は諸侯から後援せられているに関らず、秋岡陣風斎は浪宅に貧窮の生活をつづけていて、弟子と云っては実に自分一人だ。其処が併し偉い点だ。わざと<ruby><rb>然</rb><rt>そ</rt></ruby>うした運命に身を潜めたのかも知れないのだが、何んにしても其恩には、充分報じなければ成らないのだ。

途中でお鉄の為に抑留されて、神前霊剣の修業を中止していた罪。それは何処までも詫びて掛ろう。然うして砲術稽古の為外国行きの事をも相談しよう。だが、夢見の通り重態で有っては成らぬと、何につけても道を急ぐので有った。

<ruby><rb>布川</rb><rt>ふかわ</rt></ruby>から<ruby><rb>布佐</rb><rt>ふっさ</rt></ruby>へ、それから<ruby><rb>中峠</rb><rt>なかびょう</rt></ruby>から<ruby><rb>我孫子</rb><rt>あびこ</rt></ruby>へ出て行く竜次郎の見込みで有ったので、市崎から、<ruby><rb>椎塚下</rb><rt>しいづかした</rt></ruby>、畑や田の間の抜路々々と急いだので有った。もう<ruby><rb>文間台</rb><rt>もんまだい</rt></ruby>の立木の森が、近くに見える頃、気が着くと、自分の後から、一人の娘が附いて来るので有った。

それは決して<ruby><rb>普通</rb><rt>ただ</rt></ruby>の農家の娘とは見えなかった。髪は文金高島田に結って間もなく、一筋の<ruby><rb>乱</rb><rt>ほつ</rt></ruby>れ毛も無いので有った。

お白粉から口紅、行き届いた厚化粧。それで無くても<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>いつく程の美しさ。江戸にも珍らしい<ruby><rb>別嬪</rb><rt>べっぴん</rt></ruby>で有った。

それが又<ruby><rb>如何</rb><rt>どう</rt></ruby>したのか。<ruby><rb>垢染</rb><rt>あかじ</rt></ruby>み過ぎた蝶散らしの染浴衣。白地の多いだけに秋も初めとは云いながら、冷や冷やと見すぼらしく。帯も細く皺だらけで、貧弱さと云ったら無いので有った。<ruby><rb>頭髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>の結び方と顔の化粧振りとに対して、余りに<ruby><rb>扮装</rb><rt>なり</rt></ruby>が粗末なので、全く調和が取れなかった。これでは誰の眼にも<ruby><rb>謎</rb><rt>なぞ</rt></ruby>で有ろう。

未だ其上に<ruby><rb>可怪</rb><rt>おか</rt></ruby>しいのは、此上天気に紺蛇の目の雨傘を持っていた。其癖素足に藁草履を穿いて、ピタピタと路を踏むので有った。

<ruby><rb>女化ケ原</rb><rt>おなばけはら</rt></ruby>の狐が娘に化けて、たぶらかしに附いて来るのか。昼間化ける位だから、余程<ruby><rb>官禄</rb><rt>かんろく</rt></ruby>の有る狐だろうとも、戯れに考えたい位で有った。

急げば急ぎ、休めば休んだ。まるで影のように附いて来るので有った。振向いた時にはにっこり向うから笑うのであった。竜次郎は気味を悪くも覚え出した。

「御武家様は、江戸へ<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>らっしゃいますのでしょう」

稲田の畦中、流れ<ruby><rb>灌頂</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>の有る辺で、後から到頭声を掛けた。

「左様」とのみ竜次郎は答えて、後を何んとも云わなかった。

「私も江戸へ参ります」と問わず語りを娘がした。

「左様か」とやはり竜次郎は<ruby><rb>素気</rb><rt>そっけ</rt></ruby>なく答えた。

「今夜のお泊りは布佐で御座いますか。それとも我孫子までお<ruby><rb>伸</rb><rt>の</rt></ruby>し成さいますか」

泊ると云ったら合宿を頼みたそうなのだ。竜次郎は警戒せずにはいられなかった。<ruby><rb>譬</rb><rt>たと</rt></ruby>いお鉄との約束が無いにしても、此娘と親しく成りたくは無いので有った。いくら美しくても素性の怪しい女。どんな間違いが生ぜぬとも限らぬと思って。

「いや、私は夜道をする。大病人を見舞の為だ。事に依ると<ruby><rb>早駕籠</rb><rt>はやかご</rt></ruby>にするか。兎に角夜通しで江戸へ行く」と答えた。これなら閉口すると思ったのだ。

「あら左様ですか。私も大病人がありますので、夜通しで行こうと思って居りました」

「女の身で夜道をする覚悟だと」

「ええ、仕方が有りませんから……旦那様が夜道を成さるのは私に取って何よりも心丈夫で御座います。お邪魔に成らないように、お後から附いて参ります」

「それはお前の随意だ」

後から附いて来るというのだから、どうもそれを止めようも無かった。迷惑には考えても仕方が無かった。それに大病人を見舞の為というのが、竜次郎の心の一部にぴんと響かずにはいなかった。

「誰が病気なのだえ」とつい<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>からも問わずにはいられなかった。

「大師匠が大病……という夢ばかり見つづけましたので、<ruby><rb>耐</rb><rt>たま</rt></ruby>らなく成って私だけ、斯うして飛出して来ましたんですよ」

「えっ、大師匠が病気の夢……」

竜次郎はぎょっとせずにはいられなかった。

## 五

交通不便の時代には、隔絶している人の安否を気遣うのが、今よりも深甚に迫るので有った。電信電話郵便の無い世の中では、自然に想像を走らせる場合が多かった。連れて迷信を<ruby><rb>昂</rb><rt>たかぶ</rt></ruby>らせずにはいられなかった。

<ruby><rb>占者</rb><rt>うらない</rt></ruby>の言葉とか。夢見とか。烏蹄きとか。下駄の鼻緒の切れた事にも、凶兆として心配するので有った。それ故、夢見の悪さにそれを事実でも有るかの如く、遠くから見舞に立つという事は、決して突飛でも<ruby><rb>軽忽</rb><rt>けいこつ</rt></ruby>でも無いので有った。

竜次郎は自分が其夢見の為に江戸へ行くのだから、娘の事にも疑いは挟まなかった。<ruby><rb>然</rb><rt>そ</rt></ruby>うして同じ境遇という点に於て、急に同情の念を生じて来た。

「その大師匠というのは……」と竜次郎は問うた。<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>行手を急ぎながらで有った。

「私は旅廻りの軽業師の、竹割り一座の者で御座いまして、<ruby><rb>小虎</rb><rt>ことら</rt></ruby>と申しますが、一緒に巡業に歩いています師匠は<ruby><rb>竹割</rb><rt>たけわ</rt></ruby>り<ruby><rb>虎松</rb><rt>とらまつ</rt></ruby>、その又師匠は竹割り<ruby><rb>虎太夫</rb><rt>とらだゆう</rt></ruby>と申しまして、此道の大師匠で御座います」と娘は初めて身の上を打明けた。

「ほう、竹割り一座というのは聞いていた」

「虎太夫は中気で、<ruby><rb>本所</rb><rt>ほんじょ</rt></ruby><ruby><rb>石原</rb><rt>いしはら</rt></ruby>の<ruby><rb>火</rb><rt>ひ</rt></ruby>の<ruby><rb>見横町</rb><rt>みよこちょう</rt></ruby>に長らく寝ていますが、私は此大師匠に拾われました捨児で、真の親という者を知りませんのです。私には大師匠夫婦が<ruby><rb>生</rb><rt>うみ</rt></ruby>の親も同然。お神さんの方は先年<ruby><rb>死亡</rb><rt>なく</rt></ruby>なりまして、今では大師匠一人なんですが、今の師匠の虎松は、実子で有りながら、どうも<ruby><rb>邪慳</rb><rt>じゃけん</rt></ruby>で、ちっとも大師匠の面倒を見ませんので、私は<ruby><rb>猶更</rb><rt>なおさら</rt></ruby>気の毒で成りません。夢見の悪さがつづくので、江戸へ見舞に帰るとしても、そんな事で私を手放すような虎松では御座いませんから、私は<ruby><rb>密</rb><rt>そっ</rt></ruby>と抜け出して来たので御座います。<ruby><rb>江戸崎</rb><rt>えどざき</rt></ruby>の興行先からでは、此方へ廻っては道が損かも知れませんが、行方を晦ますのに都合が好いものですから」

この小虎の物語で、すべての疑問が解けたので有った。<ruby><rb>頭髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>と<ruby><rb>扮装</rb><rt>なり</rt></ruby>との不調和も、芸人の脱走としては、有り得る事と<ruby><rb>点頭</rb><rt>うなずか</rt></ruby>れた。

「や、拙者も同じく剣道の師匠の身の上を案じてだ。兎に角互いに急ごう。秋の日は<ruby><rb>釣瓶</rb><rt>つるべ</rt></ruby>落しとやら。暮れるに早いで、<ruby><rb>責</rb><rt>せ</rt></ruby>めて布川から布佐への本利根の渡しだけは、明るい間に越して置きたい」

「此辺は水場で、沼とか、川とか、堀割とか、どちらへ行っても水地ばかり、本利根へ掛る前に、未だ新利根の渡しも御座います」

「おう、新利根の渡しは、もう直きだなあ」

<ruby><rb>寛文</rb><rt>かんぶん</rt></ruby>年間に、<ruby><rb>蚕飼川</rb><rt>こかいがわ</rt></ruby>から<ruby><rb>平須沼</rb><rt>ひらすぬま</rt></ruby>へ掛けて、新たに五十間幅に掘割られた新利根川。それは<ruby><rb>立木</rb><rt>たつき</rt></ruby>の<ruby><rb>台下</rb><rt>だいした</rt></ruby>に横わっているので有った。

程もなく二人は其<ruby><rb>渡頭</rb><rt>わたし</rt></ruby>にと<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>り着いた。此辺は誠に寂しい処で有った。台下にはちらりほらり、貧しそうな農家は有るが、新利根川<ruby><rb>端</rb><rt>べり</rt></ruby>には一軒も無く、唯<ruby><rb>蘆荻</rb><rt>あし</rt></ruby>や<ruby><rb>楊柳</rb><rt>かわやなぎ</rt></ruby>が繁るのみで、それも<ruby><rb>未</rb><rt>ま</rt></ruby>だ枯れもやらず、いやに<ruby><rb>鬱陶</rb><rt>うっとう</rt></ruby>しく陰気なので有った。

<ruby><rb>此所</rb><rt>ここ</rt></ruby>の渡しというのは、別に渡し守がいるのではなく、船だけ備えて有るばかりで、世に云う手繰り渡しに成っているのだ。それは両岸に高く材木を三本組合せて立て、それに<ruby><rb>藤蔓</rb><rt>ふじづる</rt></ruby>を<ruby><rb>綯</rb><rt>な</rt></ruby>って引張って置き、それに小さな<ruby><rb>針鉄</rb><rt>はりがね</rt></ruby>の輪を<ruby><rb>箝</rb><rt>は</rt></ruby>めて、其輪に綱を結んで、田船の<ruby><rb>舳</rb><rt>みよし</rt></ruby>に繋いで有るのだ。田船の舳と<ruby><rb>艫</rb><rt>とも</rt></ruby>とには、又別に麻縄が長く結付けてあって、どちらも両方の岸にまで届く程の長さがある。つまり田船の中に乗った者が、自分で舳の縄を手繰れば、向岸へ着く。其後へ又来た者が、其空船を<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>へ呼戻す時には、岸から艫の縄を手繰ると、人は無くても船は房って来る、然ういう甚だ元始的の方法で有った。

「この渡しを越すと越さぬとでは、<ruby><rb>道程</rb><rt>みちのり</rt></ruby>に大変な損得が有るそうな」と竜次郎は云った。

「生憎、船は向河岸に着いていますが、縄さえ手繰れば此方へ戻って来ましょう」と小虎も此所は心得ていた。

「此所の麻縄は私が世話になっていた阿波の甚右衛門の家から、代々捕縄の古く成ったのを寄進するという。<ruby><rb>三河</rb><rt>みかわ</rt></ruby>の<ruby><rb>宝蔵寺</rb><rt>ほうぞうじ</rt></ruby>産の麻の上物を<ruby><rb>酢煮</rb><rt>すに</rt></ruby>にして、三<ruby><rb>繰</rb><rt>く</rt></ruby>りにしたのを<ruby><rb>彼</rb><rt>あ</rt></ruby>の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>では用いているのだが、成程これは普通のとは違って丈夫だ」

然う云いながら竜次郎は手繰り始めた。罪有る者とは云え、兎に角人の自由を奪うべく縛り上げた捕縄を、人助けの渡しの綱に遣うというのは、廃物利用にも殊に意味深く覚えられるので有った。

「あれ、私が手繰りますわ」

小虎が代って手繰ろうとした。

「いや、女に力を出させては気の毒、それに袖を濡らすと宜しく無い」

竜次郎はそれを<ruby><rb>遮切</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>って、矢張自分で手繰るので有った。それを小虎も手伝った。船は向河岸を離れて、空の<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>七八間、藤蔓の輪を滑らせながら動き出した。

## 六

此時、突然、向河岸の蘆間に、大入道の姿が出現した。<ruby><rb>鼠地</rb><rt>ねずみじ</rt></ruby>の<ruby><rb>納所着</rb><rt>なっしょぎ</rt></ruby>に幅細の白くけ帯を前結びにして、それで尻からげという<ruby><rb>扮装</rb><rt>なり</rt></ruby>。坊主頭に<ruby><rb>捻鉢巻</rb><rt>ねじはちまき</rt></ruby>をしているさえ奇抜を通越した<ruby><rb>大俗</rb><rt>だいぞく</rt></ruby>さ。それが片手に水の滴たる手桶を提げて、片手に鰻掻きの長柄を杖に突いていた。破戒無残なる堕落坊主。併し其眉毛は濃く太く、眼光は鋭く、額には三ヶ月形の<ruby><rb>刀痕</rb><rt>とうこん</rt></ruby>さえ有った。

<ruby><rb>水滸伝</rb><rt>すいこでん</rt></ruby>の<ruby><rb>花和尚</rb><rt>かおしょう</rt></ruby><ruby><rb>魯智深</rb><rt>ろちしん</rt></ruby>も<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>くやと見えるのであった。

「畜生、若い男と若い女とで、<ruby><rb>縺</rb><rt>もつれ</rt></ruby>れるように<ruby><rb>巫山戯</rb><rt>ふざけ</rt></ruby>ながら、船を呼ぼうとしやあがるな。誰が<ruby><rb>狗鼠</rb><rt>くそ</rt></ruby>、遣るもんか」

五十間も隔たる向河岸ながら、手に取るように其<ruby><rb>独言</rb><rt>つぶやき</rt></ruby>が響くと間もなく、手桶を置いて片手ながら、反対に<ruby><rb>舳</rb><rt>みよし</rt></ruby>の縄をぐっと引いた。

二人掛りのが<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち、片手に敗けて、出掛った船は、逆戻りをした。

「あっ、和尚さん、お頼みだ。病人見舞に一足を争う処。臨終に間に合うか合わぬか、二人に取っては大事の処故、船は<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>へ願いまする」と竜次郎は声高に嘆願した。

「駄目だっ、畜生」

片手ながら力一杯。悪僧がぐっと引いた。二人も一生懸命力の限り引いた。<ruby><rb>少時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>綱引きの力競べになった。空船は途中で迷っていたが、坊主がうんと頑張る途端に、<ruby><rb>艫</rb><rt>とも</rt></ruby>の縄がぷつりと切れて、二人掛りの方が敗けた。船は全く坊主の手で向河岸に引付けられた。もう空船を此方へ引寄せようは無く成ったのだ。

「<ruby><rb>醜態</rb><rt>ざま</rt></ruby>あ見やあがれ。さあ大廻りしろ。此近くに渡しはねえのだ。俺はこれで溜飲が下ったぞ。これですっかり好い気持だ。どれどれ<ruby><rb>最</rb><rt>も</rt></ruby>少し鰻を掻き上げねえと、酒代が出て来ねえや」

悪僧は再び手桶を提げて、蘆の間に<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>と姿を隠した。何んという無慈悲な坊主だろう。人を助ける出家の身が、鰻掻きをして殺生戒を破るさえ無茶苦茶なのに、彼岸に達する<ruby><rb>救世</rb><rt>ぐせい</rt></ruby>の船。それを取上げて<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>ったので有った。一体何寺の何んという坊主だろう。憎さも憎しと竜次郎は、<ruby><rb>歯軋</rb><rt>はぎし</rt></ruby>りをして口惜しがった。併し新利根川の堀割を隔てているのて、<ruby><rb>如何</rb><rt>どう</rt></ruby>する事も出来なかった。

「此上は他の渡しのある処まで廻り路でも行くの他は無い。ちぇっ、憎っくき坊主<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>」と憤慨した。

「旦那様、御心配なさいますな。私が船を取って参ります。向河岸まで行くのは、何んの仔細は御座いません」と事も<ruby><rb>無気</rb><rt>なげ</rt></ruby>に小虎が云った。

「えっ、船を取りに向河岸へ行く」

「私は女軽業師、幸い斯うして、<ruby><rb>彼方</rb><rt>あちら</rt></ruby>から<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>へ、藤蔓が引渡して御座いますから、それを伝って行けば何んでも無い事で御座います」

「成程なあ」

普通の者には出来ぬ芸だが、女軽業師の小虎としては、何んの造作も無いので有った。一座を脱出する時に、変り易い秋の空を気遣って、手当り次第に雨傘を持出したのが、図らず此所で役に立った。太夫身支度の間今一<ruby><rb>囃子</rb><rt>はやし</rt></ruby>、そんな景気を附けるでもなく、唯浴衣の裾を端折っただけで有った。赤の色褪めた<ruby><rb>唐縮緬</rb><rt>とうちりめん</rt></ruby>の腰巻が、新堀割の濁った水の色や、小堤下の泥の色に反映して、意外に美しく引立って見えるので有った。

忽ち手繰り船の<ruby><rb>親杭</rb><rt>おやぐい</rt></ruby>の上に<ruby><rb>攀</rb><rt>よ</rt></ruby>じ登った。

「気を着けないと危いよ」と、下から竜次郎は声を掛けた。

「大丈夫で御座いますよ」と小虎は云いつつ<ruby><rb>颯</rb><rt>さ</rt></ruby>と紺蛇の目の雨傘を開いた。それと同時に腰巻の唐縮緬から、血の<ruby><rb>飛沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>が八方へ散ったと見たのは、今まで藤蔓に止まっていた<ruby><rb>赤蜻蛉</rb><rt>あかとんぼ</rt></ruby>が、驚いて逃げたので有った。

名は新利根でも、五十間の堀割。手繰り渡しの藤蔓を綱渡りの足取りで越すので有った。それは実に見事なもので、大道を<ruby><rb>普通</rb><rt>なみ</rt></ruby>の人が歩くのと異らなかった。

折柄の<ruby><rb>夕陽</rb><rt>せきよう</rt></ruby>は<ruby><rb>横斜</rb><rt>よこはす</rt></ruby>に小虎の半身を赤々と照らした。それが流れの鈍い水の<ruby><rb>面</rb><rt>おも</rt></ruby>にも写るので有った。上にも小虎、下にも小虎、一人が二人に割れて見えた。垢染みた浴衣の<ruby><rb>扮装</rb><rt>いでたち</rt></ruby>も、斯うすると光輝を放って見えるので有った。<ruby><rb>況</rb><rt>ま</rt></ruby>してや舞台好みの文金高島田、化粧をした顔の<ruby><rb>美艶</rb><rt>びえん</rt></ruby>、竜次郎は<ruby><rb>恍惚</rb><rt>こうこつ</rt></ruby>たらざるを得なかった。もう途中で落ちはせぬかという懸念は無く成ったが、あの儘自分だけで渡り終って、先を急ぐとて<ruby><rb>独</rb><rt>ひとり</rt></ruby>で行って了いはせぬか。それが気遣われるばかりで有った。

やがて其半途まで綱渡りを進めた。両岸からは<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>に高く藤蔓を張っても、其中心に当る点は、自然々々にたるみが出来て水面近く垂れているので有った。それに人の身の<ruby><rb>重量</rb><rt>おもみ</rt></ruby>が加わったので、危く水に漬りそうにまで成った。それすら小虎は巧みに越した。もう其難場は越したので、一息<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>くかと思う頃。

「あっ」

小虎の鋭い叫びと殆ど同時に、<ruby><rb>巌畳</rb><rt>がんじょう</rt></ruby>に<ruby><rb>綯</rb><rt>な</rt></ruby>ってある藤蔓縄が、ぷつりと<ruby><rb>断</rb><rt>き</rt></ruby>れた。小虎は水音凄まじく新利根の堀割に落ちた。竜次郎の驚きは絶頂に達した。

## 七

「<ruby><rb>巫山戯</rb><rt>ふざけ</rt></ruby>た真似をしやあがる。俺が渡さねえようにして置いたのに、船を取りに綱渡りで来やあがるなんて畜生、<ruby><rb>醜態</rb><rt>ざま</rt></ruby>あ見やあがれ」

向河岸の楊柳の間に、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間にやら<ruby><rb>以前</rb><rt>もと</rt></ruby>の悪僧が再現して手に<ruby><rb>鰻裂</rb><rt>うなぎさき</rt></ruby>の小庖丁を持っていた。<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>を睨んだ眼の凄さと云ったら無かった。<ruby><rb>此奴</rb><rt>こいつ</rt></ruby>が正しく藤蔓を断ったのだ。

「私、少しは泳げます。大丈夫で御座います」

小虎は然う云いながら、傘を捨て、平泳ぎに掛った。<ruby><rb>一手二手</rb><rt>ひとてふたて</rt></ruby>でも其水泳に熟達しているのが見えたので竜次郎は安心して、「兎に角此方へ……」と、<ruby><rb>麾</rb><rt>さしまね</rt></ruby>いた。

女が泳げると見て向河岸の悪僧は、頭から湯気の立つ程<ruby><rb>赫怒</rb><rt>かくど</rt></ruby>して、

「やい、女、新堀割の人喰い藻を知らねえか。此所へ落ちたらそれ<ruby><rb>限</rb><rt>ぎ</rt></ruby>りだ。藻や<ruby><rb>菱</rb><rt>ひし</rt></ruby>が手足に<ruby><rb>搦</rb><rt>から</rt></ruby>んで、どうにも斯うにも動きが取れなく成るんだぞ。へへ、鯉でさえ、<ruby><rb>鮒</rb><rt>ふな</rt></ruby>でさえ、大きく成ると藻に搦まれて、往生するという魔所だ。おぬし一人で渡るのなら、何も<ruby><rb>這</rb><rt>こ</rt></ruby>んな<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>はせんのだが、若い男と連れなのが癪なんだ。其所で女<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>、死んで了えっ……それとも俺に助けて呉れというか。頼めば船を出してやるが……」と其<ruby><rb>憎体</rb><rt>にくてい</rt></ruby>さと云ったら無いので有った。

「何んだ<ruby><rb>狗鼠</rb><rt>くそ</rt></ruby>坊主、死ねばとて貴様なんかに、助けて貰うものかよ。これ、此通り、泳げるわいな。人喰い藻が何んだえ」

小虎は<ruby><rb>華手</rb><rt>はで</rt></ruby>に抜手まで切って見せた。併しそれは僅かの間であった。坊主の云ったのは確実で、忽ち細長い藻の先が足に搦んだ。それはぬらぬらと気味悪く、妖魔の手でも有るかのように、<ruby><rb>水草</rb><rt>すいそう</rt></ruby>にも血が通い、脈が打っているかと怪しまれる程。それに掛っては<ruby><rb>既</rb><rt>も</rt></ruby>う<ruby><rb>如何</rb><rt>どう</rt></ruby>にも成らなかった。いつしか左右の手にも藻は搦んだ。腰にも、腕にも、脇の下から<ruby><rb>斜</rb><rt>はす</rt></ruby>に肩へ掛けても<ruby><rb>犇々</rb><rt>ひしひし</rt></ruby>と搦んだ恐ろしい<ruby><rb>性</rb><rt>しょう</rt></ruby>の悪い藻で有った。

斯う見ては竜次郎、<ruby><rb>如何</rb><rt>どう</rt></ruby>しても見殺しには出来なかった。併し<ruby><rb>木乃伊</rb><rt>みいら</rt></ruby>取りが木乃伊に成るという事を考えずにはいられなかった。此方から飛込んでも、小虎の溺れている処まで行く身の、同じく人喰い藻に掛らずにはいない筈だ。

それよりも先ず悪僧が憎くて成らなかった。悪戯にも程がある。<ruby><rb>岡焼</rb><rt>おかやき</rt></ruby>としても念が入り過ぎた。狂か、痴か、いずれにしても今又自分が飛込んだら、どんな邪魔をするか知れないのだ。

竜次郎は咄嗟に覚悟をした。

「えいっ」と早技。力一杯に手裏剣を打った。それは刀の小柄を抜いたのだ。五十間飛ばしたのは見事で有った。<ruby><rb>若</rb><rt>しか</rt></ruby>も命中して、悪僧の眉間に<ruby><rb>白毫</rb><rt>びゃくごう</rt></ruby>を刻する如く突立った。

「わっ」と一声。後ざまに打倒れて、姿は此方から見えなく成った。何んとも云えぬ好い気味で有った。

竜次郎は手早く衣類を脱いだ。手甲、脚半とまでは届かなかった。小刀を下帯に後差しにして、新利根の堀割へと飛込んだ。

五間六間は何んでもなかったが、十間十四五間と進むに連れて、思ったよりも藻の繁りは多かった。手に搦み、足に搦み、それは恐るべき魔力の有るのに驚かされた。藻にも菱にも霊が有って、執念深く<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>をするものとしか取れなかった。裸体でさえ<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>だから、衣類を着ている小虎は、<ruby><rb>嘸</rb><rt>さぞ</rt></ruby>泳ぎ難いだろうと思い<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>った。

字の如く藻掻き藻掻き又一二間は進んだけれど、もう<ruby><rb>如何</rb><rt>どう</rt></ruby>しても前に出られなくなった。<ruby><rb>恰</rb><rt>あたか</rt></ruby>も本縄の<ruby><rb>雁字搦</rb><rt>がんじがらみ</rt></ruby>に掛ったように感じられた。

「おう、然うだっ」

竜次郎は心着いた。生縄のお鉄から教わった縄抜け縄切りの法を、<ruby><rb>此所</rb><rt>ここ</rt></ruby>に早速応用するのだ。それが一番の上策だと考えた。

小刀を水中で抜いた。泳ぎながら、片手切りに水草を切払った。忽ち活路は開けたのであった。

苦心を重ねて人喰い藻と闘いつつ、漸く小虎の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>まで行った。

「おう、旦那様っ」

小虎此時は早や疲労し切っていた。けれども水練知らぬ者のように、<ruby><rb>突如</rb><rt>いきなり</rt></ruby>救いの人へ抱きつくような危険はしなかった。

## 八

小虎の全身に搦んでいる<ruby><rb>種々</rb><rt>くさぐさ</rt></ruby>の藻の種類。それを切払って<ruby><rb>水妖</rb><rt>すいよう</rt></ruby>の囚われから救おうとする竜次郎の苦心。それは実際一通りでは無かった。

自分も片手で泳がなければならぬ。片手に待つ小刀も水中の事とて、思う様には遣えぬのだ。注意を少しでも怠ると、小虎の身体に傷を付けるかも知れないのだ。指一本斬り落したからとて、それは大変なので有った。

「<ruby><rb>焦慮</rb><rt>あせ</rt></ruby>ってはならぬ。少しの間の辛抱だ」

眠れる竜の鼻の先、珠を取った<ruby><rb>海士</rb><rt>あま</rt></ruby>よりも、危い芸をつづけた竜次郎は、漸く水草を切払って、小虎を自由の身たらしめた。

「命の親。この御恩は忘れません」と小虎は真底から感謝した。

「それ処か。少しも早く上陸を」と竜次郎は先に立って、再び邪魔な水草を切払いながら、元の岸へ泳ぎ戻るので有った。前にも既に大分切ったので、今度は大変に楽で有った。

二人は矢張り元の岸へ戻った。竜次郎は着衣類や大の腰の物を残したからだ。小虎は又先へ行くには、人喰い藻が切開いて無いのみならず、自分ばかり先へ行くのは、恩人に対して悪いからで有った。

岸に上って二人はほっとした。

竜次郎は<ruby><rb>不図</rb><rt>ふと</rt></ruby>小虎の方を見て<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>した。女の手足の数ヶ所から、黒血をだくだくと吹出しているのだ。<ruby><rb>扨</rb><rt>さて</rt></ruby>は小刀の切先が当って傷を付けたかと思ったのだ。併しそれは<ruby><rb>蛭</rb><rt>ひる</rt></ruby>が吸いついているのと知れて、安心した。

「さあ、もう、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>うした難癖の附いた処は渡るまい。廻り路はしても、他から」と竜次郎は云った。

「それが宜しゅう御座います」と小虎は然う云いながら、濡れた<ruby><rb>衣物</rb><rt>きもの</rt></ruby>を絞るので有った。

「おやっ」

竜次郎は叫びを立てずにはいられなかった。その訳で、脱ぎ捨てた半合羽から、袷、<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>から、帯まで無く成っていた。それのみならず残して置いた大刀や、懐中物から手拭鼻紙まで、紛失していた。

「何者が、持去ったかっ」

磯貝竜次郎は裸にされて了ったのだ。小刀だけは残っても武士の魂たる大刀をまで、何者にか奪われたのだ。

「まあ、私をお助け下さる為に、旦那様に此御難儀を掛けまして、申訳が御座りませぬ」と小虎まで蒼く成った。

「藻切りに心奪われて、<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>には気が着かなんだが、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間に、何者が」と竜次郎憤激しても、<ruby><rb>如何</rb><rt>どう</rt></ruby>しようも無いので有った。

遠寺の鐘さえ鳴り出した。<ruby><rb>一瞬</rb><rt>ひとまたた</rt></ruby>き毎に<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>は暗く成るのであった。冷たい風は二人の肌に迫るので有った。

「兎に角、人家のある方へ廻って、<ruby><rb>其方</rb><rt>そなた</rt></ruby>の濡れた着物も乾そう、拙者の紛失物も人手を加えて探して見よう。誰か盗人の姿を見た者が有るかも知れぬで」と竜次郎は先に、立木台下の方へと蘆原を進んだ。小虎も後から附いて来た。

手甲脚半の他は裸の竜次郎、下帯に小刀をさした風は、醜態此上も有らぬ。奇禍とは云いながら、何んという有様。皆<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>剣道の師の命令に<ruby><rb>叛</rb><rt>そむ</rt></ruby>き、女侠客の為に抑留されて、心ならずも堕落していた身から出た<ruby><rb>錆</rb><rt>さび</rt></ruby>。斯う成るのも自業自得と、悔悟の念が犇々と迫った。

台下の農家、取着きのに先ず入ったが、夜に入っては旅の人に取合わぬ此土地の<ruby><rb>淀</rb><rt>おきて</rt></ruby>と云い張って、<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>から内へは入れなかった。事情を訴えても聴くので無かった。

次の一軒、其所は大急ぎで戸を締めて、呼べど叩けど答えも無かった。其他三四軒を訪れたが、<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く断わられた。

途方に暮れて竜次郎と小虎とは、再び元の渡し口まで帰った。もう夜に<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>って宵月が出て居った。

「皆此身の不覚からだ。此分では江戸へ帰ったとて、よしや師が健在でも、面目無さに顔が合されぬ。思案を之れは仕替えねば相成らぬで、さあ<ruby><rb>如何</rb><rt>どう</rt></ruby>か小虎。お前は拙者に構わず、先へ行きやれ」

「そんな事が出来ますものか」

小虎の声は真剣で有った。

「失礼ながら私は、腹巻の中に、少しは貯えが御座います。布川の町まで行けば、古着屋も御座りましょう。夜を幸い、さあ一息」

竜次郎の手を引いて、堀割端を行こうとした。

「まあ、お待ちよ」

蘆の間に女の声がした。それは生縄のお鉄なので有った。

## 九

「着物を取上げたのは私です。腰の物から何から残らず私が隠したのよ」

お鉄は竜次郎と小虎とを手荒に引放して、其中間に立って<ruby><rb>怒吼</rb><rt>どな</rt></ruby>り付けた。

小虎は<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>して<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>え出した。竜次郎はお鉄と知れては、口を利く事が出来なかった。<ruby><rb>蝦蟇</rb><rt>ひきがえる</rt></ruby>に見込まれた蚊も同然で有った。

「<ruby><rb>這</rb><rt>こ</rt></ruby>んな事が有るだろうと思って、お前さんが身支度をしている<ruby><rb>間</rb><rt>うち</rt></ruby>に<ruby><rb>乾漢</rb><rt>こぶん</rt></ruby>を走らして道筋々々へ、先廻りして、身内の者に網を張らして置いたのよ。然うして後から私も化け込んで、見え隠れに附けているとも知らず、<ruby><rb>此女</rb><rt>こいつ</rt></ruby>とお前さんは道連れに成って仲好くして、縺れぬばかりに田圃路を歩きなすった。<ruby><rb>案山子</rb><rt>かがし</rt></ruby>まで見て<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>や</rt></ruby>いていたじゃあないか」

お鉄の語る処では、此所の渡場を見張っていたのは、古い乾漢の<ruby><rb>阿法陀羅権次</rb><rt>あほだらごんじ</rt></ruby>。博徒が本職の偽坊主で有った。

立木台下の農家が悉く二人に無情なのも、皆お鉄の声が掛ったからと分った。

「さあ、私の威勢は<ruby><rb>這</rb><rt>こ</rt></ruby>んなものですよ。それだのにお前さんは、這んな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めそっ子</span>と道行をするんですか。濡れたん坊と裸では、<ruby><rb>余</rb><rt>あんま</rt></ruby>り<ruby><rb>粋</rb><rt>いき</rt></ruby>じゃあ有りませんぜ」

盲目的、病的嫉妬に燃える一心には、理も情も通らぬので有った。

「いや、決して二人は、仲の好いの悪いのと、左様な間では御座らぬ」と竜次郎は弁解に掛った。

「おかみさん、どうか悪く思わないで下さいまし」と小虎からも<ruby><rb>言解</rb><rt>いいと</rt></ruby>きに掛った。

「えっ、お<ruby><rb>玉杓子</rb><rt>たまじゃくし</rt></ruby>が何を云うんだい。私という女ながらも大親分に、じかに口が利けるもんか。黙って引込んでいやあがれ」と、お鉄は<ruby><rb>突如</rb><rt>いきなり</rt></ruby>小虎を突飛ばした。

転んだ小虎は古杭で、横腹を打って、<ruby><rb>顛倒</rb><rt>てんとう</rt></ruby>した。それをお鉄は執念深くも、<ruby><rb>足蹴</rb><rt>あしげ</rt></ruby>にして、<ruby><rb>痰唾</rb><rt>たんつば</rt></ruby>まで吹掛けた。竜次郎はつくづく此お鉄の無智な圧迫に耐えられなく成った。この女と一緒にいては、<ruby><rb>迚</rb><rt>とて</rt></ruby>も一生成功は見られぬと考えた。けれども今更<ruby><rb>如何</rb><rt>どう</rt></ruby>する事も出来なかった。

「や、もう江戸行は<ruby><rb>止</rb><rt>よ</rt></ruby>す。<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>から阿波へ帰る。其上で身の潔白を立てよう。兎に角、衣類を」と云った。

お鉄が喜んだ事は一通りでなかった。

「これ此通り。ちゃんと私が持っている。さあ風邪を引くと悪い。早くお着きなさいよ」

子供の湯上りに母親が衣類を着せるようにして着せ掛った。竜次郎が小刀を、下帯から抜いて、<ruby><rb>路傍</rb><rt>みちばた</rt></ruby>に置いたのは勿論で有った。

それを倒れていた小虎が<ruby><rb>密</rb><rt>そっ</rt></ruby>と取った。抜くや、<ruby><rb>突然</rb><rt>いきなり</rt></ruby>、お鉄の横腹へ突立てた。お鉄の悲鳴は唯一声であった。

「女の意地ですわ。私だって竹割り小虎。さあ旦那様、江戸までお供致しましょう」

血刀をお鉄の袖で拭いて、元の鞘に納めて返すので有った。

<ruby><rb>迚</rb><rt>とて</rt></ruby>も一通りや二通りで、解決の着くべき問題では無かったのを、小虎の為に簡単に<ruby><rb>捌</rb><rt>さば</rt></ruby>かれたので有った。竜次郎は唯只運命の奇なるに驚くのみで有った。

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明治中期まで警視庁第一の捕物老刑事として名の高かった○○○○○氏こそは、この磯貝竜次郎の後身なので有った。其前の妻女は正しく小虎で有ったが、それは明治初年に病死したという。竜次郎が陣風斎から、八方巻雲の秘伝を授かったか<ruby><rb>如何</rb><rt>どうか</rt></ruby>か。それに就ては遺憾ながら伝わらぬ。