Soranoha

雪

ゆき

中井 正一

朝から、空は暗く、チラチラ窓のふちから、雪が散りこぼれて來た。

もうすでに六十日、これから何百日ゐるかわからない留置場で、私は、この雪をめづらしい外からまぎれ込んだ、自由の世界から入つて來てくれたものゝ樣な感じで今更のやうにみつめたのであつた。

一つ一つ、きれいな結晶をしてゐた。纖細をきはめたかぼそい線ではあつたが、一つ一つが數へられる美しさでからみ合つた、精密をきはめた機構をもつてゐた。

次から次にこぼれ落ちる雪の、どの一片一片もが、一つ一つ宮殿の一部だと云つていゝほどの複雜な構成をもつてゐた。

私はもう一度、暗い空を見上げた。

暗い暗い空は、一杯の雪をはこんで、重い移動の樣に、壓するものをもつてゐた。

私は、あの一つ一つが、この精密な結晶をもつて、あの大空の奧から湧いて來るのだと思ふとき何か愕然たる驚きに搏たれた。

二万尺の大空の高さで、一厘の狂ひもない正確さで結晶したこの水滴の一つ一つが、こんなに澤山、こんなに空に滿ち滿ちて落ちて來てゐることが、恐ろしいほど不思議なことの樣に思へて來た。

この存在の中にある、深い秩序を、この覆ひかぶさつて來る暗い白いものゝ移動がかくしもつてゐる。

私は、このみちみちた精密をきはめた秩序に、みるみるうちに壓倒せられる思ひであつた。

この六十日、合理、理論の合理にのみ身をよせて、抗辯したにもかゝはらず、戰爭に反對したことより以外に何の證據もないのに、打たれたり蹴られたりしてゐる自分にとつて、この雪の中に、又大空にみちみちてゐるこの秩序は、泌透る樣にこゝろを刺貫くものをもつてゐた。

南京が陷ちたと云つて昨夜は外は騷しかつた。しかし支那事變は長期となり、やがて世界戰となり或は毒ガス細菌戰に轉移するから、絶對に反對すると云ひつゞけた自分としては、何れ何處かで、自分の死にまで連續してゐるこの度の戰に、せめて反對したことだけを滿ちたりる事としてゐたのであつた。

しかし、この雪を見てゐるうちに、私は深い憤りに身をふるはす思ひであつた。この充ち充ちてゐる秩序の中で、人間のこの秩序だけは、この一片の雪にだに、面と面をむけ得るものではないのだ。

この一片の雪に向つて、この私達の世界が顏むけならないのではないか。

雪は窓のふちに抛物線を描いて、だんだんつもつて行つた。

晝頃になつて、調室に出された私は、係官のT刑事に、

「この雪は二万尺の上から、一つ一つ結晶して落ちて來てゐるんです。この一片の雪よりも、私達の世界の方がみじめです」

と云つた。

刑事は、いつも、きつい目をしてにらみ据える人間だつたが、その時だけは、だまつて、窓に向つて歩いて行つて、じつと空をしばらく見上げてゐた。

その事があつてから、人間の愚劣に對する私の驚嘆は、日と共に深くなり、自分も同時に人間全体とすこしも變りなくその愚劣さ、氣障さ、たわいなさ、まことに口にすべからざるものであることに往生したのであつた。

その頃、中宮寺の觀音のほゝえみが妙に私の頭を往來した。何か自分のこゝろのほとりもこれに似たものがつきまとつてゐる樣であつた。

何の證據もなくても、或ひはないが故に少し長引いて丸三年間の自由をうばはれて後、戰爭のさ中、やつと、私は執行猶豫の身となつた。

しかし、私は、あの雪の日以來、大空を壓して降りて來るあの固々たる雪の中の深い秩序が、何時の雪の日にも、私のこゝろによみがへつて來る。

そして、この大都會の人の世の上に降つてくる雪が、この上もない美しいものとなつて呉れたのである。掌の上でとける雪も、あの二万尺の上から、あの結晶をはこんでくることを思つて、今も、私は涙ぐむのである。

底本 / Source edition

底本:「暮しの手帖 第十五号」暮しの手帖社
1952(昭和27)年3月1日初刷
1957(昭和32)年12月25日8版
初出:「暮しの手帖 第十五号」暮しの手帖社
1952(昭和27)年3月1日初刷
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
2007年6月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/046420_001166/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/046420_001166/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/046420_001166/

中井 正一「雪」(旧字旧仮名)、底本『暮しの手帖 第十五号』暮しの手帖社、1952年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 046420_001166, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite