Soranoha

わが文学修業

わがぶんがくしゅぎょう

織田 作之助

本当に小説の勉強をはじめたのは、二十六の時である。それまでは専ら劇を勉強していた。小説は殆んど見向きもしなかったようである。ドストイエフスキイやジイドや梶井基次郎などを読んだほかには、月月の文芸雑誌にどんな小説が発表されているかも良く知らなかった。その代り、戯曲は実によく読んだ。しかし、それも学者のようなペダンチックな読み方で、純粋戯曲の理論というものをつくりだすためにのみ読んでいたようである。こと劇に関する限り、変に理論家であったのは今考えてみるとおかしい。私の純粋戯曲理論から見ると、小説本など形式がだらだらして、なんだか汚らわしいように思われた。高等学校時代のことである。

高等学校は三高、山本修二先生、伊吹武彦先生など劇に関係のある先生がいて、一緒に脚本朗読会をやって変な声をだしていた。そういう関係から劇に志したのには無論違いないだろうけれど、しかし、中学校の三年生の時の作文に、股旅物の戯曲を書いて叱られたところを見ると、もともと好きだったのだろう。そういえば、たしか小学校の五年生の時にも対話風の綴方を書いていた。彼女だとか少女だとかいう言葉が飛び出したが、それを先生は「かのおんな」「かのおとめ」と訂正して読まれた。

戯曲ではチェーホフ、ルナアル、ボルトリッシュ、ヴィルドラック、岸田国士などが好きで、殆んど心酔したが、しかし、同じクラスに白崎礼三という詩人がいて、これと仲が良く、下宿も同じにしていたくらいだったから、その感化でランボオやヴァレリーやマラルメを読み、その雰囲気から戯曲を書いた。従って実に変梃な戯曲を書いていたようだ。十九から二十五まで七年の間に、四つ戯曲を書いた。そのうちの二つは、三高の五年生の時に、もう東京帝大へ行っている友人らとはじめた「海風」という同人雑誌に発表したが、問題にされなかった。

大学へ行かず本郷でうろうろしていた二十六の時、スタンダールの「赤と黒」を読み、いきなり小説を書きだした。スタイルはスタンダール、川端氏、里見氏、宇野氏、滝井氏から摂取した。その年二つの小説を書いて「海風」に発表したが、二つ目の「雨」というのがやや認められ、翌年の「俗臭」が室生氏の推薦で芥川賞候補にあげられ、四作目の「放浪」は永井龍男氏の世話で「文学界」にのり、五作目の「夫婦善哉」が文芸推薦になった。

こんなことなれば、もっと早く小説を書いて置けばよかったと、現金に考えた。八年も劇を勉強して純粋戯曲論などに凝っている間に、小説を勉強して置けばよかったと、私は未だ読みもせぬ小説家の数を数えて、何か取りかえしのつかぬ気がした。けれど、八年の劇勉強はさすがに私の小説の上に影響を及さなかったわけではない。

私の戯曲がものにならなかったのは純粋戯曲理論というものをまずつくって置いて、それにあてはめて書こうとしたことも一つの原因だと思った。で、私は小説の場合、あらかじめ理論をつくってそれをあてはめるというようなことはしなかった。次に、永年科白で苦労していい加減科白に嫌気がさしていたので、小説では会話をすくなくした。なお、文楽で科白が地の文に融け合う美しさに陶然としていたので会話をなるべく地の文の中に入れて、全体のスタイルを語り物の形式に近づけた。更に言えば、戯曲の一幕はたいてい三十分か一時間を克明にうつすので時間的に窮屈極まる。そこで、小説では場面場面の描写を簡略にし、年代記風のものを書きたいと思い、既に二作目の「雨」でそれをやった。してみれば、私の小説は、すくなくともスタイルは、戯曲勉強から逆説的に生れたものであると言えるだろう。私の小説の話術は、戯曲の科白のやりとりの呼吸から来ている筈だ。

「夫婦善哉」を書くまでは、一人の作家とも知己がなかった。原稿を見て貰ったことも教を仰いだこともない。間接に師と仰いだのは、前記の作家たち、ことにスタンダール、そしてそこから出ているアラン。なお、小林秀雄氏の文芸評論はランボオ論以来ひそかに熟読した。

西鶴を本当に読んだのは「夫婦善哉」を単行本にしてからである。私のスタイルが西鶴に似ている旨、その単行本を読んだある人に注意されて、かつて「雨」の形式で「一代男」をひそかに考えていたことはあるにせよ、意外かつ嬉しかった。その頃まだ「一代男」すら通読していなかった私は、あわてて西鶴を読みだし、スタンダールについでわが師と仰ぐべき作家であることを納得した。

私は「世間胸算用」の現代語訳を試み、昨年は病中ながら「西鶴新論」という本を書いた。西鶴の読み方は、故山口剛氏の著書より多くを得た。都新聞の書評で私のこの書を酷評した人があるが、私はその人たちよりは西鶴を知っている積りである。西鶴とスタンダールが似ていることを最初に言ったのは私であるが、これは他日詳しく論ずる。ただ、ここでは、私の西鶴観は「西鶴はリアリストの眼を持っていたが、書く手はリアリストのそれではなかった」というテエマから出発していることを言って置こう。これは即ち私にとっては、西鶴は大坂人であったということを意味する。もっとも、こう言ったからとて、私は西鶴を狭義の大坂人という範疇の中にせばめる積りはない。私にとって、大阪人とは地理的なものを意味しない。スタンダールもアランも私には大阪人だ。すこし強引なようだが、私は大阪人というものをそのように広く解している。義理人情の世界、経済の世界が大阪ではない。元禄の大坂人がどんな風に世の中を考え、どんな風に生きたかを考えれば判ることである。まして、東京が考えているエンタツ、アチャコだけが大阪ではない。通俗作家が大阪を歪めてしまったのである。

してみれば、私の文学修業は大阪勉強ということに外ならない。大阪は私の生れ故郷であり、そして私の師である。なお、ほかに、私には気になる作家がある。正宗白鳥氏、内田百間氏。気になる余り、暇さえあれば読んでいる。川端氏、太宰氏の作品のうらにあるものは掴めるが、ああ、やってるなと思うが、もう白鳥、百間となると、気味がわるくてならない。怖い作家だ、巧いなあと思う作家は武田麟太郎氏、しかもこの人の巧さはどぎつくない。この人の帰還がたのしみである。この人が帰れば、上京して会いたいと思う。その作家魂を私淑し、尊敬しながら、なんだか会うのが怖い作家は、室生氏である。会う機会を得た作家は、会うた順に言うと、藤沢、武田、久米、片岡、滝井、里見の諸氏。最近井上友一郎氏に会い、その大阪訛をきいて、嬉しかった。

小説の勉強をはじめてからまだ四年くらいしか経たない。わが文学修業はこれからである。健康が許せば、西鶴が小説を書いた歳まで生きられるだろう。まだ十年ある。文学修業はそれからだと思う。私は最悪の健康状態でよく今日まで生きて来られたと思っている。文学が恐らく私の生命を救って来たのだろう。常に酷評されながら、何糞と思って書いている。それで表面はぴんぴんしている。そのうち、戯曲も書こうと思う。最近、友人が「君は本職をもう捨てたのか」といった。小説は私の副職だというのである。「いや、今に戯曲も書くよ」と答えたが、その実、素人劇の脚本を昨年頼まれて書き演出もした。満更でもないと思った。いろいろ楽みで、なかなか死ねないと思う。

底本 / Source edition

底本:「定本織田作之助全集 第八巻」文泉堂出版
1976(昭和51)年4月25日発行
1995(平成7)年3月20日第3版発行
初出:「現代文学」
1943(昭和18)年4月
入力:桃沢まり
校正:小林繁雄
2007年4月25日作成
2007年8月18日修正
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書誌 / Bibliography
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織田 作之助「わが文学修業」(新字新仮名)、底本『定本織田作之助全集 第八巻』文泉堂出版、1976年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 046360_000040, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite