Soranoha

神経

しんけい

織田 作之助

一

今年の正月、私は一歩も外へ出なかった。訪ねて来る人もない。ラジオを掛けっ放しにしたまま、浮浪者の小説を書きながら三〔小書き濁点付き片仮名カ〕日を過した。土蜘蛛のようにカサカサの皮膚をした浮浪者を書きながら、現実に正月の浮浪者を見るのはたまらなかった。浮浪者だけではない。外へ出れば到る所でいやでも眼にはいる悲しい世相を、せめて三〔小書き濁点付き片仮名カ〕日は見たくなかった。が、ラジオのレヴュ放送を聴いていると、浮浪者や焼跡や闇市場を見るよりも一層日本の哀しい貧弱さが思い知らされた。

近頃レヴュの放送が多い。元来が見るためのレヴュを放送で聴かせるというのがそもそも無理な話で、いかにも芸がなさ過ぎるが、放送局への投書によれば、レヴュ放送を喜んでいるファンもあるという。戦争中禁じられていたものを聴きたいという反動の現れだろうか。

しかし私は「想出の宝塚名曲集」などという放送を聴いて、昔見たレヴュを想い出してみたが、こんなものを禁止したのもおかしいが、あわてて復活したり放送してみたりするほどのこともあるまいと思った。女の子が短いパンツをはいて腰を振ったり足を上げたりするだけでは、大したエロティシズムもないし、豪華だとか青春の夢だとかいって騒いでいたのもおかしい。所詮は子供相手のチャチな、毒にも薬にもならぬみすぼらしい見世物に過ぎなかったのではあるまいか。あんなものを豪華だといって誇っていた戦前の日本も、結局はけちくさい貧弱な国だったのかと、改めて情けなかった。豪華といってみたところで、宝塚のレヴュなぞたかだか阪急沿線のプチブル趣味の豪華さに過ぎない。同じ貧弱なら、新宿のムーラン・ルージュや浅草のオペラ館や大阪の千日前のピエルボイズ(これも浅草から流れて来たものだが)の方が、庶民的で取り済ましてないだけまだしも感じがよい。宝塚や松竹の少女歌劇は男の俳優は一人もいないが、思慮分別のある大の男が一生を託する仕事ではあるまい。レヴュが好きで、文芸部の仕事をしたり、作曲したり装置したりしている人も少くないが、本当に男子一生の仕事と思ってやっているのだろうか、疑わしく思う。「おお!」という間投詞を入れなければ喋れないようなレヴュ俳優の科白廻しを聴いていると、たしかにこれは男子の仕事ではないという気がするのである。

科白廻しといえば、私は七つの歳にはじめて歌舞伎を見た時、何故あんな奇妙な喋り方をするのだろうかと、奇異な感がしたことを覚えている。高等学校へはいってから新劇を見たが、この時もまた、新劇の役者は何故あんなに喧嘩腰の議論調子で喋ったり、誰もかれも分別のあり過ぎるような表情をしたり声を出したりするのかと、不思議に思った。ところが、レヴュ俳優の科白廻しを聴くと、この方は分別のなさ過ぎる声だったので私は辟易してしまった。

しかし、発声法に変梃な型があるのは、歌舞伎や新劇や少女歌劇だけではない。声の芸術でそれぞれの奇妙な型に陥ることから免れた例外は一つもないのである。むしろ、それぞれの型に徹したものが一流だといわれているくらいである。新派には新派の型があり、義太夫には義太夫の型、女剣劇や映画俳優の実演にも型があり、浪花節なども近頃は浪花節専門の声色屋が出来ている。講談、落語、漫才など、いうまでもない。ラジオと来た日には、ことに型が著しい。例えば放送員の話術など、日本国中の人間の耳が一人残らずたこになってしまうくらい、十年一日の型を守っている。放送物語の新劇俳優は例によって分別臭い殊勝な声を、哀れっぽく出してどんな物語もすべて悲しいものにしてしまうし、名人といわれる徳川夢声も、仏の顔も二度三度で「風と共に去りぬ」が宮本武蔵と同じ調子に聴える。放送劇の若い娘役は、いつもやけに快活で、靴下に穴のあいたような声を出し、色気があるのかないのか、いや色気などといういい言葉が勿体ないくらいだ。政府の大官はいかなる場合にも屏風と植木鉢を聯想させるような声を出す。座談会の出席者は、討論の相手とマイクとどちらの方へ話しかけていいのかうろうろ迷っているし、共産党員は威勢ばかりで懐疑のない声だ。放送演説の名人といわれていた故永田青嵐ですら、いつ聴いても「私は砕けて喋っていますよ」といった同じ調子が見え透いてうんざりさせられるし、この人を真似た某大官の演説は、砕けすぎて気を許したのか、お国言葉の東北弁まるだしだ。

バイオリンの天才少女の辻久子は、八つか九つの時、豆腐屋のラッパの音を聴いただけで、もう耳を押えて、ああ耳が痛い耳が痛いと泣き叫んだということである。私は辻久子ほど音というものに敏感ではないが、声の型にはいやになるくらい敏感なのか、ラジオを聴いていて、十年一日の如き紋切型に触れると、ああ耳が痛い耳が痛いと耳を押えたくなることが屡〻である。

ことに戦争中はそれがひどかった。ラジオの情報放送を毎日毎夜聴いていた頃、私は情報の内容よりも、その紋切型が気になってならなかった。毎日やっているのだから、自然に型が出来るのは当然だし、型など構っていられないという弁解も成り立っただろうが、毎日くりかえされる同じ単語、同じ声の調子、同じ情報の型を聴いていると、うんざりさせられた。戦争が終って間もなく、ある野外音楽会の実況放送があったが、紹介の放送員はさすがに戦争中と異った型を出そうとしたらしく、「ここ何々の音楽堂の上の青空には、赤トンボが一匹スイスイと飛んでおりまして、まことに野外音楽会にふさわしい絶好の秋日和でございます」と猫撫声に変っていた。私は世の中も変ったものだと感心しながら聴いていたが、その放送中赤トンボが三度も飛ばされたのには些か閉口した。しかし放送員の新機軸は認めることにした。ところが、あとでその時の音楽会に出演した人にきくと、その日はどんより曇っていて、赤トンボなぞ一匹も飛んでいなかったということである。私は興冷めしてしまった。新機軸を出そうとした放送員は、芸もなく昔の野球放送の型を踏襲していたに過ぎなかったのだ。

新機軸というものはむつかしい。世に新しいものはないのだろうか。声の芸術家たちは十年一日の古い紋切型の殻を脱け切れず、殻の中で畳の目を数えているような細かい上手下手にかまけているのであろう。しかしこれはただ声の芸術だけではない。美術、舞踊、文学、すべて御多分に洩れず、それぞれの紋切型があり、この型を逸れることはむつかしいのである。小説のような自由な形式の芸術でも、紋切型がある。ジェームスジョイスなどこの紋切型を破ろうとして大胆不敵な「ユリシイズ」を書いたが(「……」と彼は言った)などという月並みな文章がやはりはいっていて、何から何まで小説の約束から逸れるというわけには参らなかったようだ。詩人で劇作家で、作曲もしバンドの指揮もし、デザインをやるという奇術師のようなジャン・コクトオですら、小説を書けば極くあたり前の紋切型の小説を書いている。描写があり会話があり説明がありしめくくりがあり、ジャン・コクトオも小説となると滅茶苦茶な型破りは出来なかったのであろう。

人生もまたかくの如し。生きて行くにはいやが応でも社会の約束という紋切型を守って行かねばならない。足で歩くのが紋切型でいやだといって、逆立ちして歩けば狂人扱いにされるのだ。極道をし尽したある老人がいつか私に、「私は沢山の女を知って来たが、女は何人変えても結局同じだ」といったことがある。「抱いてみれば、どの女の身体も同じで、性交なんて十年一日の如き古い型のくりかえしに過ぎない。変態といっても、人間が思いつく限りの変態などたかが知れていると見えて、やはり変態には変態の型がある」とその老人は語っていたが、数多くの女を知らない私にもその感想の味気なさは同感された。

人生百般すべて紋切型があるのだ。型があるのがいけないというわけではないが、紋切型がくりかえされると、またかと思ってうんざりすることはたしかである。ベルグソンは笑の要素の一つに「くりかえし」を挙げているが、たしかにくりかえされる紋切型は笑の対象になるだろう。滑稽である。レヴュの女優の科白廻しなども、軽佻浮薄めいているからいけないというのではない。私はジンメルの日記に「人は退屈か軽佻か二つのうちの一方に陥ることなくして、一方を避けることは出来ない」という言葉を見つけた時、これあるかなと快哉を叫んだくらいだから、軽佻を攻撃する気は毛頭持ち合わせていない。レヴュ女優の科白廻しに辟易したのは、その紋切型が滑稽であったからである。ほかにもっと言い廻しようがあろうと思ったのである。しかし紋切型というものはファンに言わせると、紋切型であるために一層魅力があるのかも知れない。レヴュのファンはあの奇妙な科白廻しの型に憧れているのであろう。

二

レヴュ女優の紋切型に憧れて一命を落した娘がある。

もう十年も昔のことである。千日前の大阪劇場の楽屋の裏手の溝のハメ板の中から、ある朝若い娘の屍体が発見された。検屍の結果、死後四日を経ており、暴行の形跡があると判明した。勿論他殺である。犯行後屍体をひきずって溝の中にかくしたものらしい。

身許を調べると、両親のない娘で、伯母の家に引き取られていたのだが、レヴュが好きで、レヴュ通いを伯母にとがめられたことから伯母の家を飛び出し、千日前の安宿に泊って、毎日大阪劇場へレヴュを見に通っていたらしいと判った。不良少年風の男と一緒に歩いていたのを見たと言う人があり、警察では加害者をその男だと睨んで、千日前界隈の不良を虱つぶしに当ってみたが、遂に犯人は見つからず、事件は迷宮に入った。そして十年後の今日に到るも、なお犯人は見つからず、恐らく永久に迷宮に入ったままであろう。

宿屋の女将にいわせると、所持金ももう乏しくなっていたらしく、身なりもよれよれの銘仙にちょこんと人絹の帯を結んだだけだというし、窃盗が目的でなく、また込み入った情事があったとも思えない。レヴュ小屋通いをしているところを、不良少年に目をつけられ、ひきずり廻されたあげく、暴行され、発覚をおそれて殺されたのであろう。

「うちにもチョイチョイ来てましたぜ。いや、たしかにあの娘はんだす」

事件が新聞に出た当時、「花屋」という喫茶店の主人はそう私に言った。

「花屋」は千日前の弥生座の筋向いにある小綺麗な喫茶店だった。「花屋」の隣は「浪花湯」という銭湯である。「浪花湯」は東京式流しがあり、電気風呂がある。その頃日本橋筋二丁目の姉の家に寄宿していた私は、毎日この銭湯へ出掛けていたが、帰りにはいつも「花屋」へ立ち寄って、珈琲を飲んだ。「花屋」は夜中の二時過ぎまで店をあけていたので、夜更かしの好きな私には便利な店だった。それに筋向いの弥生座はピエルボイズ専門のレヴュ小屋で、小屋がハネると、レヴュガールがどやどやとはいって来るし、大阪劇場もつい鼻の先故、松竹歌劇の女優たちもファンと一緒にオムライスやトンカツを食べに来る。千日前界隈の料亭の仲居も店の帰りに寄って行く。銭湯の湯気の匂いも漂うて来る。浅草の「ハトヤ」という喫茶店に似て、それよりももっとはなやかで、そしてしみじみした千日前らしい店だった。

殺された娘も憧れのレヴュ女優の素顔を見たさに、「花屋」へ来ていたのであろう。小柄で、ずんぐりと肩がいかり、おむすびのような円い顔をしたその娘は、いつも隅のテーブルに坐って、おずおずした視線をレヴュ女優の方へ送り、サインを求めたり話しかけたりする勇気もないらしかった。女優と同じテーブルに坐ることも遠慮していたということである。そのくせ、女優たちが出て行くまで、腰を上げようとしなかった。

それほどのレヴュ好きの彼女が、死後四日間も楽屋裏の溝の中にはいっていたとは何かの因縁であろう。溝のハメ板の中に屍体があるとは知らず、女優たちは毎日その上を通っていたのである。娘としては本望であったかも知れない。

しかし、事件が新聞に出ると、大阪劇場の女優たちは気味悪がった。「花屋」へ来る女優たちは皆その娘の噂をしていた。いつも一階の前から三筋目の同じ席に来ていたので、いつか顔を見知っていただけに、一層実感が迫るのであろう。

「皆で金出し合うて、地蔵さんを祀ったげよか」

「そやそや、それがええ。祀ったげぜ、祀ったげぜ」

そんな話をしている隣のテーブルでは、ピエルボイズの男優たちが、弥生座の楽屋から見える連込宿の噂をしていた。連込宿の二階の窓にはカーテンが掛っているが、彼等は楽屋の窓から突き出した長い竿の先で、そっとそのカーテンをあけると内部の容子が手にとるように見えるというのであった。彼等は舞台の合間にその楽屋に上って来ては、宿の二階を覗く。何にも知らぬ若いレヴュガールを無理矢理その楽屋の窓へ連れて来て、見せると、泣きだす娘がある――その時の噂をしていた。

「チャー坊はまだ子供だからな」

「そうかな。俺アもうチャー坊は一切合財知ってると思ってたんだが……」

「しかし、まだ十七だぜ」

「十七っていったって、タカ助の奴なんざア、あら、今夜はシケねなんて、仰有ってやがらア。きゃつめ、あの二階を見るのがヤミつきになりやがって、太えアマだ」

「太えアマは昨日の娘だ。ありゃまだ二十前だぜ」

「二十前でも男をくわえ込むさ」

「ところが、一糸もまとわぬというんだから太えアマだ」

「淫売かも知れねえ」

「莫迦、淫売がそんな自堕落な、はしたないことをするもんか。素人にきまってらア」

「きまってるって、ははあん、こいつ、一糸もまとわさなかった覚えがあるんだな。太え野郎だ」

そんなみだらな話を聴いていると、ふと私は殺された娘のことが想い出された。楽屋裏の溝の中で死んでいたのは、レヴュ好きの彼女には本望であったかも知れないなどとは、いい加減な臆測だ。犯されたままの恥しい姿で横たわっているのは、殺されるよりも辛いことであったに違いない……。

「花屋」を出ると、私は手拭を肩に掛けたまま千日前の通りをブラブラ歩いて、常盤座の前の「千日堂」で煙草を買った。

「千日堂」は煙草も売っているが、飴屋であった。間口のだだっ広いその店の屋根には「何でも五割安」という看板が掛っていて、「五割安」という名前の方が通っていた。夏は冷やし飴も売り、冬は饀巻きを焼いて売っていたが、飴がこの店の名物になっていて、早朝から夜更くまで売れたので、店の戸を閉める暇がなく、千日前で徹夜をしているたった一軒の店であった。

「千日堂」でも殺された娘の噂をしていた。

「毎日飴買いに来てました。いや、きっとあの娘はんに違いおまへん」

買って来た飴をしゃぶりながら、安宿の煎餅蒲団にくるまって、レヴュのプログラムを眺めていたのかと、私は不憫に思った。

その「五割安」の飴は、私も子供の頃買ったことがある。その頃千日前で尾上松之助の活動写真を上映しているのは、「千日堂」の向いの常盤座であった。上町に住んでいた私は、常盤座の番組の変り目の日が来ると、そわそわと源聖寺げんしょうじ坂を降りて、西横堀川に架った末広橋を渡り、黒門市場を抜けて千日前へかけつけると、まず「千日堂」で二銭の紫蘇しそ入りの飴を買うてから常盤座へはいるのだった。その飴はなめていると、ふっと紫蘇の香が漂うて、遠い郷愁のようだった。

紫蘇入りの飴には想出がある。京都の高等学校へはいった年のある秋の夜、私ははじめて宮川町の廓で一夜を明かした。十二時過ぎから行くと三円五十銭で泊れると聴いたので、夜更けの京極や四条通をうろうろして時間を過し、十二時になってから南座の横の川添いの暗い横丁へ折れて行った。暗い道を一丁行き、左へ五六間折れると、もうそこは宮川町の路地で、赤いハンドバッグをかかえた妓がペタペタと無気力な草履の音を立てて青楼の中へはいって行くのを見た途端、私はよほど引き返そうと思ったが、もうその時には私の黒マントの端が、

「貫一つぁん、お上りやす」

と掴まれていた。高等学校の生徒だから金色夜叉の主人公の名で呼んだのであろうと思いながら、私はズルズルと引き上げられた。

「お馴染みはんは……?」

「ない」

「ほな、任しとくれやすか」

「うん」

私は乾いた声で言って、塩の味のする茶を飲んだ。

「ほな、おとなしい、若いええ妓こ呼んで来まっさかい、お部屋で待っとくれやすか」

「うん」

通されたのは三階の、加茂川に面した狭い三畳の薄汚い部屋だった。鈍い裸電燈が薄暗くともっている。

「ここでねンねして、待ってとくれやす。直きお出いやすさかい」

垢だらけの白い敷蒲団の上に赤い模様の掛蒲団が、ぺったりと薄く汚くのっていた。まるで自動車にひかれた猫の死骸のような寝床であった。

「うん」

答えたものの、さすがにその中へはいる気はせず、私は川に面した廊下へ出て、煙草を吸いながら、妓おんなの来るのを待った。

そこからは加茂川の河原が見え、靄に包まれた四条通の灯がぼうっと霞んで、にわかに夜が更けたらしい遠い眺めだった。私はやがて汚れて行く自分への悔恨と郷愁に胸を温めながら、寒い川風に吹かれて、いつまでも突っ立っていた。京阪電車のヘッドライトが眼の前を走って行った。その時、階段を上って来る跫音が聴えた。

「おおけに、お待っ遠さんどした。カオルはんどす」

という声に振り向くと、色の蒼白い小柄な妓が急いで階段を上って来たのであろう、ハアハア息を弾ませて、中腰のまま、

「おおけに……」

と頭を下げた。すえたような安白粉の匂いがプンとした。

「まア、廊下イ出とういやしたんだか。寒おっせ。はよ閉めて、おはいりやすな」

そして、「――ほな、ごゆっくり……」と遣手が下へ降りると、妓はぼそんと廊下へ来て私の傍へ並んで立つと、袂の中から飴玉を一つ取り出して、黙って私の掌へのせた。

「なんだ、これ。――ああ飴か」

「昼間京極で買うたんどっせ」

「京極へ活動見に行ったの?」

「ううん」

と、細い首を振って、

「飴買いに行ったんどっせ」

「飴買いに……? 飴だけ買うたの? あはは……」

ふっと安心できる風情だった。放蕩の悔恨は消え、幼な心に温まって、私はその飴玉を口に入れた。紫蘇の味がした。

「おや、こりゃ紫蘇入りだね」

「美味おいしおっしゃろ?」

妓はすり寄って来た。私はいきなり抱き寄せて、妓の口へ飴を移した。

……川の音で眼を覚した。ふと傍を見ると、妓はまだ眠れぬらしく、飴をしゃぶりながら婦人雑誌の口絵を見ていた。

「君は飴が好きだね」

「好きどっせ。こんどお出やす時、飴持って来とおくれやすか」

「うん。持って来る」

そう言ったが、私はそれ切りその妓に会わなかった。――

大阪劇場の裏で殺されていた娘が「千日堂」へ飴を買いに来たと聴いた時、私はその妓のことを想い出したのである。

妓の肢は痩せて色が浅黒かった。殺された娘も色の黒い娘だったという。金で買うたというものの、私は妓を犯したのだ。飴をくれるような優しい妓の心を欺したのだ。私の悔恨は殺された娘の上へ乗り移り、洋菓子やチョコレエトを買わず、駄菓子の飴を買うて、それでわびしい安宿の仮寝の床の寂しさをまぎらしていたところに、その娘の悲しい郷愁が感じられるような気がし、ふと私は子守歌を聴く想いだった。

死んでから四日も人に知られずに横たわっていたのも、その娘らしい悲しさだった。

大阪劇場の女優たちが間もなく楽屋裏の空地の片隅に、その娘の霊を葬う地蔵を祀ったと聴いた時、私はわざわざ線香を上げに行った。

三

戦争がはじまると、千日前も急にうらぶれてしまった。

千日前の名物だった弥生座のピエルボイズも戦争がはじまる前に既に解散していて、その後弥生座はセカンド・ランの映画館になったり、ニュース館に変ったり、三流の青年歌舞伎の常打小屋になったりして、千日前の外れにある小屋らしくうらぶれた落ちぶれ方をしてしまった。

小綺麗な「花屋」も薄汚い雑炊食堂に変ってしまった。

「浪花湯」も休んでいる日が多く、電気風呂も東京下りの流しも姿を消してしまった。

「千日堂」はもう飴を売らず、菱の実を売ったり、とうもろこしの菓子を売ったり、間口の広い店の片隅を露天商人に貸して、そこではパンツのゴム紐や麻の繩紐を売ったりしていた。向いの常盤座は吉本興業の漫才小屋になっていた。

大阪劇場の裏の地蔵には、線香の煙の立つことが稀になり、もう殺された娘のことも遠い昔の出来事だった。

夜は警防団員のほかに猫の子一匹通らぬ淋しい千日前だった。私は戦争のはじまる前から大阪の南の郊外に住んでいたが、もうそんな千日前は何か遠すぎた。

ところが去年の三月十三日の夜、弥生座も「花屋」も「浪花湯」も大阪劇場も「千日堂」も常盤座も焼けてしまったが、地蔵だけは焼け残った。しかし焼け残ったのがかえって哀れなようだった。

その日から十日程たって、千日前へ行くと「花屋」の主人がせっせと焼跡を掘りだしていて、私の顔を見るなり、

「わては焼けても千日前は離れまへんねん」

防空壕の中で家族四人暮しているというのである。

「――鰻の寝間みたいな狭いとこでっけど、庭は広おまっせ」

千日前一面がうちの庭だと、「花屋」の主人は以前から洒落の好きな人だった。

暫らく立ち話して「花屋」の主人と別れ、大阪劇場の前まで来ると、名前を呼ばれた。振り向くと、「波屋」の参さんちゃんだった。「波屋」は千日前と難波を通ずる南海通りの漫才小屋の向いにある本屋で、私は中学生の頃から「波屋」で本を買うていて、参ちゃんとは古い馴染だった。参ちゃんはもと「波屋」の雇人だったが、その後主人より店を譲って貰って「波屋」の主人になっていた。芝本参治という名だが、小僧の時から参ちゃんの愛称で通っていた。参ちゃんも罹災したのだ。

私は参ちゃんの顔を見るなり、罹災の見舞よりも先に、

「あんたとこが焼けたので、もう雑誌が買えなくなったよ」

と言うと、参ちゃんは口をとがらせて、

「そんなことおますかいな。今に見てとくなはれ。また本屋の店を出しまっさかい、うちで買うとくなはれ。わては一生本屋をやめしめへんぜ」

と、言った。

「どこでやるの」

と、きくと、参ちゃんは判ってまっしゃないかと言わんばかしに、

「南でやりま。南でやりま」

と、即座に答えた。南というのは、大阪の人がよく「南へ行く」というその南のことで、心斎橋筋、戎橋筋、道頓堀、千日前界隈をひっくるめていう。

その南が一夜のうちに焼失してしまったことで、「亡びしものはなつかしきかな」という若山牧水流の感傷に陥っていた私は、「花屋」の主人や参ちゃんの千日前への執着がうれしかったので、丁度ある週刊雑誌からたのまれていた「起ち上る大阪」という題の文章の中でこの二人のことを書いた。しかし、大阪が焦土の中から果して復興出来るかどうか、「花屋」の主人と参ちゃんが「起ち上る大阪」の中で書ける唯一の材料かと思うと、何だか心細い気がして、「起ち上る大阪」などという大袈裟な題が空念仏みたいに思われてならなかった。

ところが、一月ばかりたったある日、難波で南海電車を降りて、戎橋筋を真っ直ぐ北へ歩いて行くと、戎橋の停留所へ出るまでの右側の、焼け残った標札屋の片店が本屋になっていて、参ちゃんの顔が見えた。

「やア、到頭はじめたね」

と、はいって行くと、参ちゃんは、

「南で新刊を扱ってるのは、うちだけだす。日配でもあんたとこ一軒だけや言うて、激励してくれてまンねん」

と言い、そして南にあった大きな書店の名を二つ三つあげて、それらの本屋が皆つぶれてしまったのに「波屋」だけはごらんの通りなっているという意味のことを、店へはいっている客がびっくりするほどの大きな声で、早口に喋った。

しかし、パラパラと並べられてある書物や雑誌の数は、中学生の書棚より貧弱だった。店の真中に立てられている「波屋書房仮事務所」という大きな標札も、店の三分の二以上を占めている標札屋の商品の見本かと見間違えられそうだった。

「あ、そうそう、こないだ、わてのこと書きはりましたなア。殺生だっせエ」

参ちゃんは思いだしたようにそう言ったが、べつに怒ってる風も見えず、

「――花屋のおっさんにもあの雑誌見せたりました」

「へえ? 見せたのか」

「花屋も防空壕の上へトタンを張って、その中で住んだはりま。あない書かれたら、もう離れとうても千日前は離れられんいうてましたぜ」

そう聴くと、私はかえって「花屋」の主人に会うのが辛くなって、千日前は避けて通った。焼け残ったという地蔵を見たい気も起らなかった。もう日本の敗北は眼の前に迫っており、「波屋」の復活も「花屋」のトタン張り生活も、いつ何時なんどきくつがえってしまうかも知れず、私は首を垂れてトボトボ歩いた。

帰りの電車で夕刊を読むと、島ノ内復興聯盟が出来たという話が出ていて、「浪花ッ子の意気」いう見出しがついていたが、その見出しの文句は何か不愉快であった。私は江戸ッ子という言葉は好かぬが、それ以上に浪花ッ子という言葉を好かない。焦土の中の片隅の話をとらえて「浪花ッ子の意気」とは、空景気もいい加減にしろといいたかった。「起ち上る大阪」という自分の使った言葉も、文章を書く人間の陥り易い誇張だったと、自己嫌悪の念が湧いて来た。

四

ところが、戦争が終って二日目、さきに「起ち上る大阪」を書いた同じ週刊雑誌から、終戦直後の大阪の明るい話を書いてくれと依頼された時、私は再び「花屋」の主人と参ちゃんのことを書いた。言論の自由はまだ許されておらなかったし、大阪復興の目鼻も終戦後二日か三日の当時ではまるきり見当がつかず、長い戦争の悪夢から解放されてほっとしたという気持よりほかに書きようがなかったので「花屋」のトタン張りの壕舎にはじめて明るい電燈がついて、千日前の一角を煌々と照らしているとか、参ちゃんはどんな困苦に遭遇しても文化の糧である書籍を売ることをやめなかったとか、毒にも薬にもならぬ月並みな話を書いてお茶をにごしたのである。

そして、そんな話しか書けぬ自分に愛想がつきてしまった。私は元来実話や美談を好かない。歴史上の事実を挙げて、現代に照応させようとする態度や、こういう例があるといって、特殊な例を持ち出して、全体を押しはかろうとする型の文章や演説を毛嫌いする。ところが、私は「花屋」の話や参ちゃんの話を強調して、無理矢理に大阪の前途の明るさをほのめかすというバラック建のような文章を書いてしまったのだ。はっきり言えば、ものの一方しか見ぬリアリティのない文章なのだ。「花屋」の壕舎も「波屋」の軒店もただ明るいというだけでは済まされぬ。むしろ悲しい大阪の姿かも知れない。私はその悲しさを見て見ぬ振りした自分の美談製作気質にいや気がさしたのである。

それから四ヵ月がたち、浮浪者とインフレと闇市場の噂に昭和二十年が慌しく暮れて行き、奇妙な正月が来た。

三〔小書き濁点付き片仮名カ〕日は一歩も外へ出なかった私も、三〔小書き濁点付き片仮名カ〕日が済むと、はじめて外出し、三月振りに南へ出掛けた。レヴュの放送を聴いて、大阪劇場の裏で殺されていた娘のことを思いだしたためだろうか、一つには「波屋」へ行って、新しく出た雑誌の創刊号が買いたかったのだ。

難波へ出るには、岸ノ里で高野線を本線に乗りかえるのだが、乗りかえが面倒なので、汐見橋の終点まで乗り、市電で戎橋まで行った。

戎橋の停留所から難波までの通りは、両側に闇商人が並び、屋号に馴染みのないバラックの飲食店が建ち、いつの間にか闇市場になっていた。雑閙に押されて標札屋の前まで来た時、私はあっと思った。標札屋の片店を借りていた筈の「波屋」はもうなくなっていたのである。中学生の本箱より見すぼらしい本屋ではとても立ち行かぬと思って、商売がえでもしたのだろうかと、私はさすがに寂しく雑閙に押されていた。

戎橋筋の端まで来て、私は南海通へ折れて行った。南海通にもあくどいペンキ塗りのバラックの飲食店や闇商人の軒店や街頭賭博屋の屋台が並んでいて、これが南海通かと思うと情けなく急ぎ足に千日前へ抜けようとすると、続けざまに二度名前を呼ばれた。声のする方をひょいと見ると、元「波屋」があった所のバラックの中から、参ちゃんがニコニコしながら呼んでいるのだ。元の古巣へ帰って、元の本屋をしているのだった。バラックの軒には「波屋書房芝本参治」という表札が掛っていた。

「やア、帰ったね」

さすがになつかしく、はいって行くと、参ちゃんは帽子を取って、

「おかげさんでやっと帰れました。二度も書いてくれはりましたさかい、頑張らないかん思て、戦争が終ってすぐ建築に掛って、やっと去年の暮れここイ帰って来ましてん。うちがこの辺で一番はよ帰って来たんでっせ」

と、嬉しそうだった。お内儀さんもいて、「雑誌に参ちゃん、参ちゃんて書きはりましたさかい、日配イ行っても、参ちゃん参ちゃんでえらい人気だっせ」

そしてこちらから言いだす前に「改造」や「中央公論」の復刊号を出してくれた。

「文春は……?」

「文芸春秋は貰ったからいい」

「あ、そうそう、文春に書いたはりましたな。グラフの小説も読みましたぜ。新何とかいうのに書いたはりましたンは、あ、そうそう、船場の何とかいう題だしたな」

お内儀さんは小説好きで、昔私の書いたものが雑誌にのると、いつもその話をしたので、ほかの客の手前赤面させられたものだったが、しかし、今そんな以前の癖を見るのもなつかしく、元の「波屋」へ来ているという気持に甘くしびれた。本や雑誌の数も標札屋の軒店の時よりははるかに増えていた。

「波屋」を出て千日前通へ折れて行こうとすると、前から来た男からいきなり腕を掴まれた。みると「花屋」の主人だった。

「花屋」の主人は腕を離すと妙に改まって頭を下げ、

「頑張らせて貰いましたおかげで、到頭元の喫茶をはじめるところまで漕ぎつけましてん。今普請してる最中でっけど、中頃には開店させて貰いま」

そして、開店の日はぜひ招待したいから、住所を知らせてくれと言うのである。住所を控えると、

「――ぜひ来とくれやっしゃ。あんさんは第一番に来て貰わんことには……」

雑誌のことには触れなかったが、雑誌で激励された礼をしたいという意味らしかった。

二つとも私自身想いだすのもいやな文章だったが、ひょんなところで参ちゃんと「花屋」の主人を力づける役目をしたのかと思うと、私も、

「ぜひ伺います」

と、声が弾んで、やがて「花屋」の主人と別れて一人歩く千日前の通はもう私の古里のようであった。この二人に同時に会えたというのも偶然といえば偶然だが、しかしそれだけに千日前が身近かに寄って来たという感じだった。

焼けた大阪劇場も内部を修理して、もう元通りの映画とレヴュが掛っていた。常盤座ももう焼けた小屋とは見えず、元の姿にかえって吉本の興行が掛っていた。

その常盤座の前まで、正月の千日前らしい雑閙に押されて来ると、またもや呼び停められた。

見れば、常盤座の向いのバラックから「千日堂」のお内儀さんがゲラゲラ笑いながら私を招いているのだった。

「やア、あんたとこも……」

帰って来たのかとはいって行くと、

「素通りする人がおますかいな。あんたはノッポやさかい、すぐ見つかる」

首だけ人ごみの中から飛び出ているからと、「千日堂」のお内儀さんは昔から笑い上戸だった。

「あはは……。ぜんざい屋になったね」

「一杯五円、甘おまっせ。食べて行っとくれやす」

「よっしゃ」

「どないだ、おいしおますか。よそと較べてどないだ? 一杯五円で値打おますか」

「ある。甘いよ」

しかし砂糖の味ではなかった。そのことをいうと、

「ズルチンつこてまんねン。五円で砂糖つこたら引き合えまへん。こんなちっちゃな餅でも一個八十銭つきまっさかいな。小豆も百二十円になりました」

京都の闇市場では一杯十円であった。

「あんたとこは昔から五割安だからね」

というと、お内儀さんはうれしそうに、

「千日堂の信用もおますさかいな、けったいなことも出来しめへん。――まアこの建物見とくなはれ。千日前で屋根瓦のあるバラックはうちだけだっせ。去年の八月から掛って、やっと暮の三十一日に出来ましてん。元日から店びらきしょ思て、そら天手古舞しましたぜ」

場所がいいのか、老舗であるのか、安いのか、繁昌していた。

「珈琲も出したらどうだね。ケーキつき五円。――入口の暖簾は変えたらどうだ、ありゃまるでオムツみたいだからね」

私は出資者のような口を利いて「千日堂」を出た。

「チョイチョイ来とくなはれ」

「うん。来るよ」

千日前へ来るのがたのしみになったよと、昔馴染に会うたうれしさに足も軽く私は帰った。

ところが、四五日たったある朝の新聞を見ると、ズルチンや紫蘇糖は劇薬がはいっているので、赤血球を破壊し、脳に悪影響がある、闇市場で売っている甘い物には注意せよという大阪府の衛生課の談話がのっていた。

私は「千日堂」はどうするだろうか、砂糖を使うだろうか、砂糖を使って引き合うだろうか、第一そんなに沢山砂糖が入手できるだろうかと心配した。「花屋」も元の喫茶店をやるそうだが、やはり、ズルチンを使うのだろうかと、ついでに「花屋」のことも気になった。

しかし翌日、再び千日前へ行くと、人々はそんな新聞の記事なぞ無視して、甘いものにむらがっていた。「千日堂」のぜんざいも食べてみると後口は前と同じだった。しかし人々は平気で食べている。私はズルチンの危険を惧れる気持は殆んどなかった。

私たちはもうズルチンぐらい惧れないような神経になっていたのか。ズルチンが怖いような神経ではもう生きて行けない世の中になっているのか。

千日前へ行くたびに一度あの娘の地蔵へ詣ってやろうと思いながら、いつもうっかりと忘れてしまうのだった。

底本 / Source edition

底本:「定本織田作之助全集 第五巻」文泉堂出版
1976(昭和51)年4月25日発行
1995(平成7)年3月20日第3版発行
初出:「文明 春季号」
1946(昭和21)年4月
入力:桃沢まり
校正:小林繁雄
2007年4月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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織田 作之助「神経」(新字新仮名)、底本『定本織田作之助全集 第五巻』文泉堂出版、1976年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 046304_000040, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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