私は結婚後<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く親の家へ帰っていた。ちょうどそれを境にして<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の金谷おきせさんは穀屋の店を畳んで<ruby><rb>堀田原</rb><rt>ほったわら</rt></ruby>の家に世帯を引き取りました。

この家は私が戸主で、養母が住んでいるけれども、それはほんの名義だけのことであるから、万事は師匠の意見、またお悦さんおきせさんなど<ruby><rb>姉妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>の都合の好いままに任せ、私は自分の家なる前回<ruby><rb>度々</rb><rt>たびたび</rt></ruby>申した彼の源空寺門前の親たちの家にいることになりました。

もうこの頃では北清島町という町の名前など附いていた頃であった。

師匠東雲師の住居は駒形にあったが、その時分蔵前の<ruby><rb>北元町</rb><rt>きたもとまち</rt></ruby>四番地へ転宅することになった。

この家は旧<ruby><rb>札差</rb><rt>ふださし</rt></ruby>の<ruby><rb>作</rb><rt>こしら</rt></ruby>えた家で、間口が四<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>に二間半の<ruby><rb>袖蔵</rb><rt>そでぐら</rt></ruby>が付いており、奥行は十間、総二階という建物で、<ruby><rb>木口</rb><rt>きぐち</rt></ruby>もよろしく立派な建物であったが、一時牛肉屋になっていたので随分<ruby><rb>甚</rb><rt>ひど</rt></ruby>く荒らしてあった。これが売り物に出たのを師匠が買い取ったのであるが、その頃の売り買いが四百円であったとはいかに家屋の値段が安かったかということが分ります。地面は浅草<ruby><rb>茅町</rb><rt>かやちょう</rt></ruby>の大隅という人のものであった。師匠の手に渡ると、造作を<ruby><rb>仕直</rb><rt>しなお</rt></ruby>し充分に手入れを致しましたが、これらの費用一切を精算して七百円で上がりました。当時江戸の仏師の店としてはなかなか立派なものでありました。

私は毎日弁当をもって北清島町からこの蔵前の家へ通っておった。<ruby><rb>道程</rb><rt>みちのり</rt></ruby>がかなりにあることで、雨や雪の降る時は<ruby><rb>草鞋穿</rb><rt>わらじば</rt></ruby>きなどで通うこともある。朝は早く、夕方は手元の見えなくなるまで仕事をして、それからてくてく家に帰り、夜食を済まし、一服する間もなく<ruby><rb>又候</rb><rt>またぞろ</rt></ruby>夜なべに取り掛かるという始末であった。これというもとにかく仕事に精を出さないでは、一日の手間二十五銭では一家四人暮しの<ruby><rb>世帯</rb><rt>しょたい</rt></ruby>を張っていては、よし父には父の取り前もあるとはいっても、老人の事で私の心がどうも不安であるから、決まっている手間の上に夜業をして余分にいくばくかを働いたようなわけであって、ほとんど二六時中、仕事のことに没頭していることであり、また朝夕の行き帰りの道もなかなか遠くもある処から随分とそれは骨が折れました。そうして<ruby><rb>小</rb><rt>こ</rt></ruby>一年もこういう状態が続いて明治九年も暮れてしまいましたが、その年か翌年であったか、私たち一家が全部堀田原の家へ転宅することになりました。

これは金谷のおきせさんが一旦世帯を堀田原へ移して一人でいましたが、まだそうお婆さんになったというではなく、再縁のはなしが出て或る家へ嫁入りすることになったので、したがってお悦さんが一人になること故、この方は蔵前の師匠の方へ手伝いがてら一緒になるということになり、堀田原の家が<ruby><rb>明</rb><rt>あ</rt></ruby>くによって、師匠は私に<ruby><rb>其家</rb><rt>それ</rt></ruby>へ来てくれてはどうだという。私の方も堀田原へ移れば家もこれまでよりは手広になるし、通う<ruby><rb>道程</rb><rt>みちのり</rt></ruby>も四分の一位になって都合もよいので、師匠の意のままに堀田原へ全部移転したのであった。

私に取って思い出の多かった源空寺門前の家とは、これで縁が切れたことになるのです。