Soranoha

味瓜畑

あじうりばたけ

小熊 秀雄

(一)

お寺の境内の踊り場で男はさんざんに踊つた、疲れてへと〱になるほどに、呼吸がぜいぜいと鳴りだすほどに手を振つたり足を振つたりした。

その夜は月夜であつたので、踊りの輪をとりまく見物人もなかなか踊り見物を止して帰らうとしなかつたので、踊り子たちも調子づいて安心をして踊つてゐた。

一本の枯れた松の木がぎら〲白く光つて立つてゐて、その木にもたれかゝつた一人の若い娘さんの、夜眼にも白い細りとした首筋がことのほか踊つてゐる男の眼をひいた。

そこで男は手拭ひをかむつた自分の顔をなんべんも傾けてその娘さんの顔をのぞきこんで見たのであつたがどんな瞳をしてゐるか松の木の枝が邪魔になつて判らなかつた、しかし娘さんは顔色の白い乳のふくれた女であることだけが男にはつきり判つた。

男は待遠しい思ひで踊りの輪をだんだんとこの娘さんの立つてゐた松の木にちかづけて、娘さんの前を通すぎるとき、松の木にそつと三角形に指を揃へた娘さんの細い掌のどこかに自分の指をふれてみた。

なんべんとなくそんなことをやつてゐるうちに、とうとうその娘さんの注意を男はひくことが出来たし、その上この娘さんがけつして松の木に住んでゐる毛虫と同じやうに男を怖ろしがつてゐないこと、かへつて自分の手をふれることを嬉しく思つてそつと掌を動かしたことなどを知つたので男は非常に面白がつた。

娘さんは赤い前垂をしめてゐて十七歳ぐらいであつた、そして羽織の上からその前垂の紐を強くしつかりと締てゐるといふことが、いかにも厳格な家庭に育つた一人娘で、こんな淫らな盆踊りなどを見物にこられないのを、勝手仕事のひまを盗んで駈けてきたといふ、しんなりと曲がつた風情をして樹にもたれてゐた。

ことに男にとつて嬉しかつたのは娘さんの着物がすべすべとした絹物であつたことゝ、まだ肩揚げが羽織についてゐたといふことであつた。

(二)

男は娘さんの肩揚げを発見すると急になんといふこともなく元気づいて、それから二度踊つてから思ひきつて娘さんの肩のところに強く自分の肩をうちつけてみた。

娘さんはきらりと夜よの中の犬のやうに白眼を光らしたきりで、たいして男を怖ろしがる風も見えなかつたので安心をして、こんどは踊りの輪をすらりと魚のやうに脱ぬけて娘さんの立つてゐる膝のところの暗さにふいにしやがんで平気な顔をしておどりの輪を見返した、それからそつと下から空を仰ぐやうに、娘さんのあごをしげしげと見物した。

男はしやがんでゐる自分の足をながめて、けつして毛脛は男として恥べきものではない、と男の仲の善い或友人が言つた言葉をふと思ひ出して、ひとりでににや〱と笑みが連続的にこみあげてきたので、てれ隠しに頬冠の手拭ひをかむり直して鼻だけ出した。

見あげてゐる娘さんが、いかにも完全無欠な、りつぱな肉体に見える、その足もとに、しよんぼりとやすんでゐる自分の姿がいかにも、みぢめに思はれたので、男はぐつとさかんに眼球をみはつたり動かしたりして秋空の一角に、きら〱と光つてゐるいくつかの星を見あげた、しかし豆絞りの頬冠をしてゐるといふことが、いちばん気がゝりになつて悲しくなつたが、さりとてその頬を風に晒すといふことが気恥かしく思はれたのでじつと何かを鉄砲で射撃をするときのやうに、眼を片つ方だけぐつとひきしめて、びく〲頬をけいれんさした。

男はたいへん慌てだした、いつまでもこんな状態でしやがんでゐることができないこともわかつてゐるし、また手拭ひをぱらりと木の葉のやうに、とり除いてその頬を娘さんに見せて了ふか、手拭ひをかむつたまゝで、この娘さんの手を思ひきつて眼をつむつてぐつと一思ひに握つて了はうか、ふたつにひとつより他に分別がなかつたからであつた。

(三)

そのうちに娘さんがすらりと撫で肩である割に肥えた肩をもつてゐるといふことが男の眼をたいへんしげきしたので、よりかゝるやうに胸を動かした、はずみに乗つて力いつぱい娘さんの厚ぼつたい肩を手で押しつけてしまつてからはつたママ思つた。

しかしそのとき踊りの太鼓がいちだんと高く『とんとん』と鳴りひびき、娘さんも平気な顔をして月をながめてゐたので、男はほつと吐息をして、それから娘さんの丸い腕に添つて動かして、とうとう無事に手を握つてしまつた。

男と女とがならんで草原を散歩した。

男は河岸に来たときに、水面の月の反射を怖れて頬かむりの顔を水からそむけたが、女はいたつて平気に、水の反射と月光を正面からうけてぎら〲と頬を動かしながら、でも自分から足を暗がりの方にさつさと向けて河沿ひに歩きつゞけた。

男が河岸の斜面を歩く、せきこんだ落ちこむやうな感情に上気していまゝでたんねんに用意深く考へ

『でも妾わたしが若しあなたを嫌ひであつたら……どうして』

娘さんは小さな低い声で男の頭のてつぺんでかう言つた。

乳房のところを頭でぐんぐん動かしてゐるうちに、きつと娘さんがだまり込んでしまふときが来ることを知つてゐたので、横着に額を機械のやうに動かしてゐた男であつたが、でも娘さんの言葉が気がかりになり初めたので、念のために、娘さんの胸から不意に二三歩とびすさつて、片手を内ふところに荒つぽく襟のあたりにいれてふところの中で大きな拳骨をつくつて見た、眼は白眼ばかりにしてゐなければならないので、暫らくの間は胸苦しい呼吸いきがして娘さんがどんな顔をしてゐるのかさつぱりわからなかつた。

『刃物でおどかしたつて、駄目よ嫌ひなものは、どこまでも嫌よ』

あゝなんといふすばらしい肩揚げだらうと男は落胆をしながら、つく〲と娘さんの肩揚げをながめしぶ〲とふところから手を出して、てれ隠しに引つぱり出した皮製の万年筆いれを月にかざして見せた。

(四)

娘さんと男とは、声を揃へて黒い土の上で一度に笑つた。

『むかふに見える橋の処に行くまでに妾わたしが、あなたを好きになれたらね』

娘さんは鼻で斜めに遠望される橋をゆびさした。

夜よの中の橋が遠くに見えて、橋の下のあたりにごう〲、といふ水の流れる響きが聞えた、その橋までに七本の電信柱がつゞいて立つてゐて、そして一本おきに殆どどの電柱にも笠がなんにもなかつたり、笠があつても欠けてゐたりした電燈が、上のところにぴか〱と光つてゐた。

笠のいたんであるのは、みな河原遊びの子供が石を投げつけたのであらう、そして明りの点つてゐる電柱のつぎ〱の電柱は、ぼんやりと照らしだされて背の高い幽霊のやうにたつてゐた。

男はいろ〱の身振や、言葉使ひや、を殊更に注意をして歩きだした、こゝろもち男よりも足早に先にたつて歩いてゐる娘さんの肩のあたりの柔らかい曲線を見てゐると、それが様々の姿態をつくりだして、しまひには見てゐる男の眼がぐら〲と日射病のやうに、黄色い眩惑にをちこんでしまつたやうに思はれた。

娘さんの手や足や首や胴体これらの白いすべ〱とした肉体が離ればなれになり、着てゐる着物やら羽織やら、前垂やら、前垂の白い紐やら、半襟足袋、そして頭髪のゴムの櫛などまでが、いつぺんに散りぢりに離れて、これらの分れ分れの個体が非常な早さと勢ひこんでくる〱と回転をはじめ、これが青や赤や黄の美事に配色された唐草模様のやうになつてしまつたのかとさへ思はれた。

ふいに躍りかゝつて、この唐草模様をそこの暗闇にねぢ倒してその上に馬乗りになつて了ひたい逆上した血が頭の上の方にぐん〲とのぼり、ことに太くなつた血脈が両足の爪先から胸のあたりに弓のつるを鳴らしたときのやうに、強く大きく鳴りだした。

『あゝ、大変なことになりかゝつてきた、女はだん〲と河原におりてゆく、女の足を夜風に冷やしたり、河の水のちかくを歩かせては、いまゝでの苦心がみなふいになつて了ふ、あの女の両足をこの辺の乾いた土の道路にひつ張りあげなければ駄目だ』

男はかう考へたので女の肩に自分の肩をならべて、それで河風をさいぎつて、堤の上の乾いた土の道路の上に女を歩かせようと、すくなからずいら〱と努力しながら、肩を櫓皿のやうにぐり〲と女の肩に動かした。

『娘さんよ、河のあまり近くに行つては危険ですよ、河原の石がころ〱してゐますからね、こつちへいらつしやいな、柔らかい地面を選んで坐りませうよ』

と男が熱心に呼びかけると女はちよつとふり返つたなりで、ぐん〲と男の先にたつて足早にあるくのが男を激しくいら〱させた、男は追ひすがるやうに女の丸い肩に両手をかけて、地べたにむかつて静かに押へつけたので女は白い二本の足をきちんと揃へて草の上に坐つてしまつた。

(五)

足を女の足のしろさとならべてつま先のところをじつと男がみつめてゐると幾分地面が傾斜になつてゐることに気がついた、そして背中にすく〱と暗の中に新鮮な青い樹木のやうなかたちが大きな掌をひろげて男をどんと突いたので、危くがつくりと前のめりに娘さんの膝の上に頭を落してしまふところであつた。

それと殆ど同時に後のくらがりに『ぽきり』とすばらしい大きな響きがして、娘さんの白い腕が男の眼にいつぱいはまりこんで、長く伸びた太い白い線が重々しいまん丸い何かの物体をママ男の膝の上に落ちてきたので、男はぎよつと気味悪く思ひながら、じつと自分の膝の上のその丸い品を見極めようとした。

じつと遠くどこか未来のやうなところから娘さんの笑ふ声が聞えたと思ふうちに、こんどは耳のすぐ傍で破われるやうな大きな鉄線をたゝきつけるふるへた娘さんの笑ひが起つた。

『おあがりなさいな、こんな大きな味瓜が鈴のやうになつてます、後に手が届きますよ』

娘さんはかう云つて続けさまにぽきん〱と味瓜の蔓を折る音をまぢかにさせた。

ふり返つてみると、くらやみの中にことさらに黒味を帯びた、ちやうど谷間の深淵のよどみをたてかけたやうな深みが、じつとみつめてゐると見とをしができるやうに思はれて、そしてまた壁のやうな不透明な幾つにも切断されて盛りあげられた影がふたりの背後にならんでゐた。

最初はその黒い影が、だん〲と不安な冷たいものと変つてきてしまいには黒味に一点の白をさしその白が無数に殖へだし散らばつて見事に銀色のマリのやうにふくれだし、果てはあつちにもこつちにも、はつきりとした線をもつてまんまるい味瓜が描きだされた。

『味瓜を喰べてはいけませんよ、味瓜を喰べてはいけませんよ、味瓜は冷たい冷たい』

男はなにかの歌でもうたふやうな調子で女の手から小さな二つの味瓜をひつたくつた、そしてたくさんの御追従笑ひをした。

『ね、なぜ喰べてはいけないのかしら、こんなに沢山あるのにね、盗んだのだから、口にいれるのがあなたは怖ろしい気がしてゐるのでせう、臆病ね』

『女が南瓜や味瓜をたべるのはよくないのです、血が荒れるといふ話ですよ、ざくざくになつてしまうんでせう』

『血が荒れたつてざく〲になつても喰べて見たい、こんなに美味しさうにふくれてゐるんですもの、妾わたしなんかとつくに荒れてしまつてゝよ、かまふものですか』

『そんなことはありません、娘さんちよつとお手を拝見しませう』

からだをゆすぶつてゐる、娘さんの手を男はそつと握つた、自分の掌の上に娘さんの重たい掌をのせてみると、どつしりとした厚ぽつたく動かない魚のやうに、またいかにも金目のなにかの貴金属でものせてゐるやうにも思はれた。

(六)

『味瓜は後から悠つくりとおあがりなさい、私もいつしよに喰べます、後からですよ、ふたりで仲善く、こんなに冷たいものをあなたに今喰べらせる位でしたら、私は最初からあなたと散歩なんかしません』

男はぷんとふくれて、切ない言葉を女の白い顔にふきかけると女はいかにも火のやうな呼吸いきをかけられたかのやうに、ちよつと顔をそむけた。

街にはこの娘さんと同じやうな娘さんがきれいに彩色された着物をきて歩いてゐる、ことに夏の夜のむし暑い頃になれば、こゝの河原や公園地の池の畔を、とかげの花嫁のやうにぞろぞろと散歩をしてゐる、こゝにゐるものもその一匹であつて、どこかの遠い背よりもたかい草原の中にも、きつと同じやうな幾組もの動物が死んだやうに動かないでゐるだらう、もつとも哀しいひとりぼつちの娘さんよ、(一字欠字)が散歩をするといふことは、その情熱を風に冷やすためにすることです、水々しい果実のやうな白い二本の脚は、性慾の凝結してゐるかのやうに、はちきれるほど肥えてゐる毒々しくあぶらこい。

彼女達がしづと坐つてゐたり横になつてゐたり、立ちどまつてゐたりすると、彼女自身の猛烈な性慾の醗酵でトマトのやうに溶けてしまふ、川岸を歩いたりボートに乗りたがつたり、林檎や味瓜などの冷たいものを喰べることも彼女達の心臓に氷袋をあてゝやるやうなものだ、男はこんないろいろのことを想ひながら、いつこくも早くこんな冷たい川風の吹く崖の近くや、味瓜畑から娘さんを誘おびきだして、土室のやうな黄色く重くるしいどこかの土手の窪みか、柔らかい青草の林の中に連れこまなければならないとあせりだした。

『お止しなさいよ、退のいて下さいつたら、だまつて味瓜をおあがんなさい、温和しく』

娘さんは男の手をはらひのけたので、男は猫のやうに眼をつむつて両手を前にさしだした。

『娘さん、私を悪者と憎んで下さい、わたしはあなたを誘惑したのです、どうか今度は想ひきつてあなたの白い歯で私の舌を噛みきつて殺して下さい』

『さうぢやなくつてよ、わたしを誘惑したのはあなたぢやない、こゝに味瓜畑のあることは、妾わたしちやんと知つてゐたんですもの』

『そんな事を云はないで下さい、わたしは寂しくなる、どんなに此処まであなたを連れてくるのに苦心をしたかを、あなたは察してくださらない』

『こゝの畠は妾の部屋の窓からよく見えますの』

『やつぱりわたしは悪者に違ひない、あなたは弱々しい娘さんですものそしてあなたも素直に、わたしに、こんな処へ誘惑されて、口惜しいつて、女らしく処女らしい身振をしてさめざめと泣いて下さいよ』

(七)

男はなんべんも女の顔を覗き込むやうにして、こゝろから恥いつたといふ表情をした、だが事実はこの男がもつとも、これまでに誇らしげに、そつと秘めておいた自分のそれは華やかな童貞をいま無造作に捨てるといふことについてそれは神経質に相手の娘さんの微細な動作にまで、真剣な注意の眼を働かせた。

廻つてゐる火のやうな春が、これまでの季節に横たはつてゐたのであるが、男はじつと腰に両手を支へて、如何にも沈勇な歩調で、悠つくりと貞操な英雄のやうに通りすぎてきたことが奇跡的にも思はれた。

『あゝ、こんな夏になつてから、私は一人の娘さんを見つけました、あなたそれは貴女あなたなのですよ、肩揚のある、私の相手にふさはしい娘さんそうでせうね』

娘さんは寂しさうな顔の半面を月の光りに照らしながら、まだ未練さうにどこかの味瓜に白眼をつかつてゐる様子であつた。

どこからともなく、不意に男の胸に小さな、熱した風のやうなものが、そつとさはつてすぎた。

いつたん男はぐる〲と周囲を念入りに見廻してから、じつと後の青くねむつてゐる地べたを這ひ廻つてゐる味瓜の黒い影を見つめた。

すると味瓜畑の両端が真白い娘さんの右と左の手をひろげたように、そして黒い影がだん〲と青く燃えだし、白い手はしだいに前かゞみに男を抱きしめるやうに思はれた。

男はハッとした、ひろげられた味瓜畑は、その娘さんの白い両手はいつの間にか男の茶色にたくましい指と変り、だん〲と娘さんをそこの夜露のいつぱいしめつた草原に夢のやうにしめつけてゐた。

はれやかな季節に生れでた児供のやうに、男と女は草原から軽快に立ちあがつた、でも男は女の気持をはかりかねて、どんなに心づかひをしたか知れなかつた。

『明日も、ゐらつしやらない? 味瓜を盗みにさ、をどりがすんだら妾毎晩来てよ』

『あゝ、来てもいゝな』

『でもわたし、明日からもうあなたとは遊ばないわ』

『あゝ、遊んで貰はなくてもよいよ、あすからはどんなに沢山味瓜を喰べたつて止とめやしないから』

男は無造作にかう言つたが、どきんと激しく胸をつかれたやうな思ひがした、自分自身が少しも女に対してざんげをしなければならない、醜い過去を持つてゐないことを心強く思つた。

『僕だつてさうだよ、明日からあなたは処女ぢやないんだらう、だから、これまでよりも瞳に太陽がキラ〱としみるんだ』

『名前もなにも聞かないで、あなたは別れようとするんでせう』

『それは卑怯でもなんでもないよ、だから明日の晩もこゝに味瓜を喰べにきたらいゝんだと言つてるのだよ』

男は急に幸福を感じた。

(八)

一人の処女と一人の童貞とを、石ころを投げ捨るやうに、畑の茂みの中にほうり投てきたといふことに、どんなに娘さんが浮気であつたとしても、をそらくは明日の朝までは、男の魂のなかにとけこんでゐる、男の独占の喜ばしい感激がいつぱい湧いてきた。

あそこの味瓜畑の泥にまみれた二つのもぎとられた味瓜が、だん〲と夜更の露に洗清められてゐるやうな情景が、ふつと眼に映つた。が次の瞬間童貞を捨たといふ荒ら〱しい悔恨が頭をもたげてきたので彼はげら〲と笑らひながら不意に女を突き離した。

『娘さん、驚いちやいけないんだよ、さ驚いちや駄目だよ僕はね、だが私はあなたに謝まつてはゐない』

『ねえ、どうしたつて言ふの』

『私がどんな悪魔の正体をうちあけても吃驚びつくりしてはいやだよ』

『言つちまつたらいゝわ』

女はちよつと好奇心の眼を光らした。

『娘さんよ、貴女は私を童貞だと思つてをいでゞすか』

男はしやべりながら、飛んでもないことを言ひ出す自分の悪魔的な感情に、ひとりでに微笑がしみじみと湧いて来た、なんといふ素晴らしい自分であらうかと思つた、この娘さんをあくまでも征服し背後の梢の頂上てつぺんに烏のやうに、とまつてゐて、自由自在にこの娘さんの、初心うぶな感情を操つてゐたならば、どんなに愉快に安眠ができるかと言ふことを想像をし続けた。

盆踊りのたつた一夜の友人、明日の朝は永久に離ればなれになつて了ふ二人、対手の名も処も知らぬままに袂別をしようとするふたり、そして淫な野合の対手たとへ彼女が清浄であつたとしても男としては自らの分身を、未知であるこの歩いて居る娘さんに、無造作に奪ひ去られるといふ不安が急にこみあげてきた。

『あなたが童貞でなくつても、なんでもないわ、男なんてみな信用ををけないのが当り前のことなんでせう』

『そりや、その点では女よりも男の方が自由でせう、だが私はもつと、もつと怖ろしい出来事なんです、しやべつたらきつと驚くことなんですよ』

『さあ、言つて御覧なさいよ』

男は草のしげみに片足を踏み入れた。

『僕は猛烈な梅毒患者なんですよ』

かう言つて眼をぎろ〲光らして男は女の上唇のけいれんするのを今かいまかと待つてゐた、だが彼女は平気な顔をしながら空に頬を晒しながら歩きつゞけた。

『まあ、そんなことぢや、わたしも梅毒患者よ、だからお似合ね』

女は少しも男の言葉に不安を感じないと言つた笑ひを含んだ蓮つ葉なものゝ言ひ方をしながら、せつせと歩きつゞけた。

男は目算ががらりとはづれたので意外に思つた。男にしてみれば対手の女に、別れ際に梅毒の暗示を投げかけて、兎のやうに横路にそれて女と別れて了はふといふ計画であつたのが、案外な女のゆつたりとした態度に、かへつて逆捻さかねぢを食つたやうな、抜きさしのならない破目に陥つてしまつたので、こんどはなにかしら女に引ずられてゐるやうな気持で女の足音のとほりに歩かなければならなくなつた。

(九)

『さよなら』

先にたつて歩いてゐた娘さんはふり返つて不意にかう優しく言ひくらがりの中にめがけて、とんとんと二三歩前にのめつた。

その時男は歩くことも、また凝つとして立ちどまつてゐることもしやべることも、なにもかも苦痛になつてしまつてゐたので、陰気にうつむいて歩いてゐたのが、娘さんの『さよなら』の言葉をきいて、ぎくりと水を浴びたやうに飛びあがつた。

しかし今更娘さんを引止めたりすることも、つまらないことであるし、それに室の窓からさつきの味瓜畑を見をろすことのできると言つた、娘さんの家にとう〱着いたのだなと、思つたので顔もあげずにあきらめて、うつむいて歩いた。

『さよなら』

また娘さんは三間さきでかう言つた。娘さんの履物のひびきが小刻みになつたのでいらいらしだしたが、男はさいぜんの『梅毒患者の暗示』の失敗にむしやくしやしてゐたので、強情にして顔をあげなかつた。

それよりも男の驚いたのは黒い影にゆきあたつたと思ふうちに、いままでの暗がりとはうつて変つた、まつかな光線が頭上や胸に睜つてきた。

ちやうど火焔の中に落こんだやうな周囲の赤さであつたので男は思はず顔をあげると、娘さんはその真赤な空気のなかに、なにかの水虫のやうな、すいすいと伸びた足取で、細長くなつて消えてしまつた。

頭上の黒い丸太の門柱に赤い瓦斯燈がひかり、ほとんど門柱いつぱいと思はれる背の高い看板が流れてゐるかのやうに赤い光線の中に、とくべつ白く浮いてゐた。

男は胸を締つけられた、両方に突立つてゐる門柱と門柱とに挾まれたのではないかと思はれるほど咽喉に圧迫をかんじ、ひとりでに涙が湧いてきた、うすぼんやりとした夜の路を、両足がちぐはぐにならうが、手拭が風に吹きとばされようが、娘さんに呼びかけられようが、いまは男の夢中な気持にはさらに感じない、新しい大きな世界から、古ぼけてせまくるしい小路に迷ひこみ、飛びこむやうな感情で眼にいつぱい涙を浮かべて走つた。

夜よのなかにどうどうといふ冷たいものゝ気配が静かな風鳴りとこんがらがつて遠くに聞こえた。

男はその響きのするところまで駈けようとするのであつたが、いくらも走らないうちに呼吸いきがきれぎれになつてしまつた。

(十)

男は体操でもしてゐるかのやうに両手をかつきりとした角度に腰を押へつけ、くるりくるりと絶えず舞つてゐるかのやうに、足もとの石ころや、木の根につまづいて体を躍らしながら、冷たいものゝ方に向つて走つた。

瀬の早いながれにかけられてゐる橋の上に男は立ち止まつてはぢめて後を振かへつて見た。

娘さんのはひつて行つた黒い大きな洋館の壁にボッとあかるく四角な光りの窓ができあがつた、娘さんがきつといま室の電燈をともしたのであらう。

髪の毛がはつきり三本ほどカーテンに映つたかのやうに思はれたがたちまち窓はまつくらになつた。

『娘さんよ、今更わたしは、私の童貞をとり戻して欲しいとは泣きごとは言ひたくはないけれども、せめて私があなたに捧げた真実だけをくみとつて下さいよ。

その真実だけを、りつぱに着飾つた青春をね、あのとき梅毒患者だといつたことを信じないでくださいませ』

橋板の上にたつて男はしみじみと空虚を感じた。

『ええ、どうにでもなつてしまへ畜生、肩揚のある騙かたり娘、畑の中であのとき何を出しやがつた、袂のなかから脱脂綿なんか出しやがつて』

黒い四角な遠くの洋館に、眼をみはりながら男はなんべんも橋のてすりを慈しむやうに、手で撫でながら高い声の独語を繰返した、

『ね、娘さん私はなんとも思つちやゐませんから、どうかあの時の私を信じて下さい。どうぞどうぞ梅毒を患らつてゐたなどとは、こけおどかしで、出鱈目であつたといふことを、まさかに娘さんがあの赤い瓦斯燈のともつた、駆黴院のお客さんであるとは想像もしなかつたのですから』

ふたゝび男は誰もゐない橋の上で遠くの娘さんに哀願をしたがふつと『△△駆黴院』の三等病室のまつ白い壁の中にねむつてゐる娘さんの顔を眼に浮べた。

そしてその枕元にはきちんと丁寧に折畳まれた、肩揚のある大柄の羽織が見えたので、泣き笑ひに似た狂暴なうめきがよみがへつた。

『どうしようとするのだ、淫売奴首を縊る真似をして見せろとぬかすのだらう、そんな真似はたやすいんだよ、流行り歌もうたへないといふのか、そんなことも容易たやすいんだ』

男は顔をまつ赤に上気させた。それは全身の力を下腹に集中させたからである、それから殆ど臍のあたりまで勢ひよく着物をめくりあげたので、猿股をはいてゐない素つ裸の股にひや〱とした河風がふいた。

それから両足をできるだけ大きくひろげ、精いつぱい腹に力をこめた。

『騙娘の黴菌を水に流してしまふんだ』

そよそよと河風は股をくぐる彼はそこでけんめいになつて、神様にでもお祈りでもしてゐるかのやうに白眼をして、高い橋の上から小便をした。

いくつにも切断された小便の水面に落る賑やかなひびきをききながら、しわがれた呼吸いきづまつた咽喉を振り振り

『とてとて……とてと』

とやつとの思ひで喇叭節をこれだけ歌つた。

底本 / Source edition

底本:「新版・小熊秀雄全集第一巻」創樹社
1990(平成2)年11月15日新版第1刷発行
底本の親本:「旭川新聞」旭川新聞社
1925(大正14)年3月26日~4月3日、5日
初出:「旭川新聞」旭川新聞社
1925(大正14)年3月26日~4月3日、5日
入力:八巻美恵
校正:浜野 智
2006年2月26日作成
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TEI
/works/046194_000124/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/046194_000124/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/046194_000124/

小熊 秀雄「味瓜畑」(新字旧仮名)、底本『新版・小熊秀雄全集第一巻』創樹社、1990年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 046194_000124, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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