Soranoha

探検実記 地中の秘密

たんけんじっき ちちゅうのひみつ

江見 水蔭

――大評判の怪窟――探檢の勢揃――失敗の第一日――二日目――迷信家の大氣㷔――大發見?――探檢の本舞臺――最初の入窟者――怪窟の構造――其結果――

大評判おほひやうばんの怪窟くわいくつ〔感嘆符三つ〕それは、東京とうきやうと横濱よこはまとの中間ちうかんで、川崎かはさきからも鶴見つるみからも一里り足たらずの處ところである。神奈川縣橘樹郡旭村大字駒岡村かながはけんたちばなごほりあさひむらおほあざこまおかむら瓢簟山ひようたんやまの東面部とうめんぶに其怪窟そのくわいくつはある。

發見はつけんしたのは、明治めいぢ四十年ねん四月ぐわつの四日かで、それは埋立工事うめたてこうじに用もちゐる爲ために、山やまの土つちを土方どかたが掘取ほりとらうとして、偶然ぐうぜんに其怪窟そのくわいくつを掘當ほりあてたのであるが、窟いはやの中なかから人骨じんこつや武器ぶきや玉類たまるゐや土器等どきなどが出でたので以もつて、圖はがらず迷信家めいしんかの信仰心しんこうしんを喚起よびおこし、或あるひは又また山師輩やましはいの乘じやうずる處ところとなつて、忽たちまちの間うちに評判ひやうばん大評判おほひやうばん『お穴樣あなさま』と呼よび『岩窟神社がんくつじんじや』と唱となへ、參詣人さんけいにん引ひきも切きらず。日ひに何なん千人にん、時ときとしては何萬人なんまんにんと數かずへられ、お賽錢さいせんだけでも日ひに何なん百圓ゑんといふ揚あがり高だかで、それに連つれて今いままでは寂さびしかつた田舍道ゐなかみちに、軒のきを並ならべる茶店ちやみせやら賣店ばいてんやら、これも新築しんちく三百餘軒よけんに達たつしたとは、實じつに驚おどろくべき迷信めいしんの魔力まりよく〔感嘆符三つ〕

面喰めんくらつたのは神奈川縣かながはけんの警察部けいさつぶで、斯かくの如ごとき迷信めいしんを、成なすが儘まゝに増長ぞうちやうさしては、保安上ほあんじやう容易よういならぬ問題もんだいであるといふので(それに濫みだりに神社呼じんじやよばはりを爲する事ことは法律はふりつの許ゆるさぬ處ところでもあるので)奉納ほうのうの旗幟はたのぼり、繪馬等ゑまとうを撤てつせしめ、窟いはやから流出りうしゆつする汚水をすいを酌取くみとるを禁きんじ、警官けいくわんを出張しゆつちやうさして嚴げんに取締とりしまりを付つけたのであるが、それでも參詣人さんけいにんは一向かう减げんじ無ない。晝夜ちうやの差別さべつなく、遠近ゑんきんから參集さんしふする愚男愚女ぐなんぐぢよは、一里りの道みちを引ひきも切きらず。

其所そこで、其その岩窟がんくつなる物ものが、抑そもそも何なんであるかを調しらべる必用ひつようを生しやうじ、坪井理學博士つぼゐりがくはかせの第だい一の探檢調査たんけんてうさとなつた。それは九月ぐわつ十二日にちであつた。

實じつは博士はかせをわざ〱勞ろうするまでも無なかつたので、これは古代こだいの葬坑さうかうで、横穴よこあなと通稱つうしようするもの。能よく調しらべたら全國ぜんこく到いたる處ところに有あるかも知しれぬ。現在げんざいに於おいては、九州しう、四國こくから、陸前りくぜん、陸奧りくおく、出羽でばの方はうまで掛かけて三十五ヶ國こくに亘わたり發見はつけんされて居ゐるので、加之しかも横穴よこあなは一ヶ所しよに群在ぐんざいする例れいが多おほいのだから、穴あなの數すうを算さんしたら、どの位くらゐ有あるか知しれぬのである。中なかで最もつとも名高なだかいのは、埼玉縣さいたまけんの吉見村よしみむらの百穴あな(實數じつすう二百四十餘よ)である。

それから、今度こんど發見はつけんされた駒岡附近こまをかふきんにも、既すでに已すでに澤山たくさん横穴よこあなが開發かいはつされてあるのだが、扨さて、果報くわはうなのは今回こんくわいのお穴樣あなさまで、意外いぐわいの人氣にんきを一個ひとりで背負せおつて、眞まことに希代きたいの好運兒かううんじ、否いな、好運穴かううんけつといふべきである。

横穴よこあなは何處どこまでも横穴よこあなであるが、内部ないぶの構造かうぞうに多少たせう注意ちういすべき點てんもあり。それから瓢簟山ひようたんやまの頂上てうじやうに於おいて、埴輪土偶はにわどぐうを二個こ發見はつけんした關係くわんけいから、四ヶ處しよの隆起りうきせる山頂さんてうを以もつて、古墳こふんでは無ないかといふ疑問ぎもんを生しやうじ、若もし其その隆起りうきせる山頂さんてうが、瓢簟形ひようたんがたか或あるひは前方後圓ぜんぱうこうゑんの古墳こふんであるとすれば、其その山頂さんてうの古墳こふんと山麓さんろくの横穴よこあなと、如何いかなる關係くわんけいを有いうするであらうか。山頂さんてうのが主墳しゆふんで、山麓さんろくのが殉死者じゆんししやを葬はうむつたのでは有あるまいかといふ、斯かうした疑問ぎもんをも生しやうぜられるのである。

多おほくの例れいに於おいては古墳こふん(高塚たかつか)と横穴よこあなとは、別種べつしゆに考かんがへられて居ゐる。よしや同所どうしよに有あらうとも、同時代どうじだいとは考かんがへられて居をらぬ。高塚たかつかよりも横穴よこあなの方はうが、時代じだいに於おいて若わかいと考かんがへられ居をるので、高塚たかつかは高塚たかつかで或時代あるじだいに築きづかれ、横穴よこあなは横穴よこあなで其後そののちに造つくられると、斯かう大概たいがい考かんがへられて居ゐたのであるが、それを坪井博士つぼゐはかせは、同時代どうじだいに解釋かいしやくを下くだされたのである、少すこしく考古趣味かうこしゆみを有いうする者ものは、變へんだなと思おもはざるを得えないのであるが、それには又またそれだけの理由りゆうが有ある。

それは瓢簟山ひやうたんやまの地形ちけいである。此地形このちけいが主墳しゆふんの周圍しうゐに陪塚ばいづかを造つくるをゆるさぬ。即すなはち主人しゆじんを葬ほうむつた塚つかの近ちかくに、殉死者じゆんししやの塚つかを造つくるだけの餘地よちが無ないので、已やむを得えず山麓さんろくに横穴よこあなを造つくつたといふの説せつである。果はたして然しからば學術上がくじゆつじやうの大發見だいはつけんである。

それで、兎とも角かくも、山頂さんてうの凸起とつきする地點ちてんに調査てうさを試こゝろみ、果はたして古墳こふんであるか否いなかを確たしかめる必用ひつようを生しやうじたので、地主側ぢぬしがはの請願せいぐわんもあり、博士はかせはいよいよ十月ぐわつ七日かより數日間すうにちかん此所こゝに大發掘だいはつくつを擧行きようかうせらるゝ事こととなつた。

此豫報このよほうが一たび各新聞かくしんぶんに由よつて傳つたへられると、迷信めいしん非迷信ひめいしんに關かゝはらず、江湖こうこは大おほいなる注意ちういを之これに向むけて拂はらつた。

何なにが出でるだらう?

改あらためて余よは茲こゝに言いふ。或ある意味いみに於おいての大怪窟だいくわいくつが、學術がくじゆつの光ひかりに如何どう照てらされるであらうか。深ふかき興味きようみを以もつて此大發掘このだいはつくつを迎むかへざるを得えない。

其所そこで余よは、一方ぱうに於おいては、新聞記者しんぶんきしやの職務しよくむを以もつて、一方ぱうに於おいては、太古遺跡研究會幹事たいこゐせきけんきうくわいかんじの本分ほんぶんを以もつて、坪井博士監督つぼゐはかせかんとくの下もとに行おこなはれる所謂いはゆるお穴樣大發掘あなさまだいはつくつの參觀さんくわんに出張しゆつちやうする事こととはなつた。

東京朝日新聞とうきやうあさひしんぶんの記者きしやにして考古家中かうこかちうに嶄然ざんぜん頭角とうかくを露あらはせる水谷幻花氏みづたにげんくわしと同行どうかうして、余よは四十一年ねん十月ぐわつ七日か午前ごぜん九時じ(曇くもり)鶴見つるみの電車停留場でんしやていりうぢやうに到着たうちやくすると、間まもなく都新聞みやこしんぶんの吉見氏よしみし、中央新聞ちうわうしんぶんの郡司氏ぐんじしが來きた。

其所そこへ坪井博士つぼゐはかせは、石田理學士いしだりがくし、大野助手おほのぢよしゆ、野中事務員のなかじむゐんを同行どうかうして、電車でんしやで來こられた。續つゞいて帝室博物館員ていしつはくぶつくわんゐん、高橋たかはし、平子ひらこ、和田わだ、紀きの諸氏しよしが來くる。新聞記者しんぶんきしやとしては、國民こくみんの松崎まつざき、平福ひらふく、郡司ぐんじの三氏し、時事じじの左氏さし、東京毎日とうきやうまいにちの井上氏ゐのうへし、毎日電報まいにちでんぱうの近藤氏こんどうし、やまとの倉光氏くらみつし、日本にほんの中村氏なかむらし、萬朝まんてうの曾我部そがべ山岡やまをか二氏し、報知はうちの山村氏やまむらし、城南じやうなんの高橋氏たかはしし、其他そのた讀賣よみうり、二六、東京日日等とうきやうにちにちとう、悉こと〲く揃そろつた。

これに出迎でむかへの村長そんちやう、地主ぢぬし、有志家等いうしかとう、大變たいへんな人數にんずである。それが瓢形ひさごがたに駒岡こまをかと記入きにふしたる銀鍍金ぎんめつきの徽章きしやうを一樣やうに着つけ、同おなじ表しるしの小旗こはたを立たてた俥くるまに乘揃のりそろつて、瓢簟山ひようたんやまへと進軍しんぐん?したのは、なか〱のお祭まつり騷さはぎ〔感嘆符三つ〕

一先ひとまづ一同どうは、地主ぢぬしの一人にんたる秋山廣吉氏あきやまひろきちしの宅たくに着つき、其所そこから徒歩とほで、瓢簟山ひようたんやまへ行いつて見みると、山やまの周圍しうゐに鐵條網てつでうもうを張はり、警官けいくわん十餘名よめい、嚴重げんぢゆうに警戒けいかいして、徽章きしやうなき者ものは出入しゆつにふを禁きんじてある。

山麓さんろくには、紅白こうはくだんだらの幕まくを張はり、天幕テントを吊つり、高等官休憩所かうとうくわんきうけいじよ、新聞記者席しんぶんきしやせき、參觀人席さんくわんにんせきなど區別くべつしてある。別べつに喫茶所きつさじよを設まうけてある。宛然まるで園遊會場えんいうくわいぢやうだ。

其所そこへ、周布神奈川縣知事すふかながはけんちじが來くる。橋本警務長はしもとけいむちやうが來くる。田中代議士たなかだいぎし、樋口郡長ひぐちぐんちやう、曰いはく何なに、曰いはく何なに、斯かういふ時ときには肩書かたがきが必用ひつようと見みえる。高等野次馬かうとうやじうまの數かず、無慮むりよ百餘名よめいと註ちうせられた。

其所そこで、第だい一の探檢たんけんが所謂いはゆるお穴樣あなさまの内部ないぶである。前まへには此横穴このよこあなの前まへまで、參詣人さんけいにんを寄よせたのであるが、それでは線香せんかうで燻くすべたり、賽錢さいせんを投付なげつけたりするので、横穴よこあなの原形げんけいの毀損きそんする虞おそれが有ある爲ために、博士はかせは取調上とりしらべじやうの必用ひつようから、先日せんじつ警察けいさつに交渉かうしようし、入口いりぐちから三間許げんばかり隔へだてて、棒杭ぼうぐひを打うち、鐵條てつでうを張はり、人ひとを入いらしめぬ樣やうに警戒けいかいを依頼いらいされたのだ。

今日けふは併しかし、其博士そのはかせが先導せんだうであるから、我々われ〱は自由じいうに内部ないぶまで入いるを得えた。但たゞし、五六人宛にんづゝ交代かはりがはりである。

穴あなは間口まぐち七尺しやく五寸すんに、奧行おくゆき八尺しやくの、高たかさ四尺しやく、長方形ちやうはうけいの岩室がんしつで、それに柄えを附つけた樣やうに入口いりぐちの道みちがある。突當つきあたりに一段だん高たかい處ところがあつて、それから周圍しうゐと中央ちうわうとに淺あさい溝みぞが掘ほつてある。之これは水みずの流出りうしゆつを謀はかつたのであらう。

右みぎの如ごとく純然じゆんぜんたる古代こだいの葬坑さうかうで、住居跡すまゐあとなんどいふのは愚説ぐせつの甚はなはだしいのである。横穴よこあなの中なかでも格別かくべつ珍めづらしい構造かうぞうでは無ないが、床ゆかと溝みぞとが稍やゝ形式けいしきに於おいて異ことなつて居ゐる位くらゐで、之これを信仰しんかうするに至いたつては、抱腹絶倒はうふくぜつたうせざるを得えない。

扨さて坪井博士つぼゐはかせは、石田學士いしだがくし大野助手等おほのぢよしゆらと共ともに、豫かねて集合しうがふさしてある赤鉢卷あかはちまきの人夫にんぷ三十餘名よめいを督とくして、いよ〱山頂さんちやうの大發掘だいはつくつに取掛とりかゝり、又また一分隊ぶんたいを派はして、瓢箪山西面ひようたんやませいめんに、半なかば埋うづもれたる横穴よこあな、三箇この發掘はつくつを開始かいしされたが、間まの惡わるい時ときには何處どこまでも惡わるいもので、東面とうめんの地主ぢぬしと西面せいめんの地主ぢぬしとは、感情かんじやうの衝突しようとつか何なにか有あつて、西面せいめんの方はうへ無斷だんで手てを附つけるとは怪けしからんとか何なにとか、少すこしの手違てちがひに突入つきいつて喰くつて掛かゝり、山上さんじやうで大激論だいげきろんが始はじまり、警務長けいむちやうや郡長ぐんちやうや代議士だいぎしなどが仲なかに入いつて、兎とも角かくも歪ゆがみなりの圓滿ゑんまん?に局きよくを結むすび、一時じ中止ちうしして居ゐた發掘はつくつを續つゞける事こととなつたが、西面北部せいめんほくぶの横穴よこあなは、乞食こじきが曾かつて住すんで居ゐた事ことがあり、西面南部せいめんなんぶの二箇こには、子供こどもが入はいつて遊あそんだ事こともある。然さうして二箇こは内部ないぶで連絡れんらくして居ゐるといふ事ことが分わかつたので、何なんだか張合はりあひは拔ぬけて來くる。小雨こさめは降ふり出だす。新聞記者連しんぶんきしやれんはそろ〱惡口わるくちを始はじめる。地主連ぢぬしれんはまご〱して居ゐる。惰氣滿々だきまん〱たる此時このときに、南部なんぶの横穴よこあなの方かたで、坪井博士つぼゐはかせは、一聲せい高たかく。

『出でた〔感嘆符三つ〕出でた〔感嘆符三つ〕』

忽たちまち全山ぜんざんの高等野次馬かうとうやじうまは、我われおくれじと馳付はせつけて見みると、博士はかせは笑わらひながら、古靴ふるぐつの片足かたあしを、洋杖すてつきの先さきに懸かけて示しめされた。塵ごみと一處しよに穴あなの中なかへ落おちて居ゐたのを、博士はかせが戯たはむれに取出とりだされたので、之これは一抔ぱい頂戴てうだいしたと、一同どうクツ〱笑わらひ。

這こんな事ことで一向かうに要領えうりやうを得えず、山頂さんてうの方はうでは、僅わづかに埴輪はにわの破片はへん(雲珠うず、鞆等ともなど)を見出みいだしたのみ、それで大發掘だいはつくつの第だい一回くわいを終をはつた。

余よは折角せつかく着込きごんで行いつた探檢服たんけんふくに、少すこしも泥どろを附つけずして宅たくへと引揚ひきあげた。大學連中だいがくれんぢうは皆みな泊とまり込こみである。

八日か(曇後晴くもりのちはれ)余よは午前ごぜん十時頃じごろに瓢箪山ひようたんやまへ到着たうちやくして見みると、發掘はつくつは既すでに進行しんかうして赤鉢卷隊あかはちまきたいは活動くわつどうして居ゐるが、一向かうに變かはつた事ことは無ない。

それでも、西面南部せいめんなんぶの二箇この横穴よこあなは、大概たいがい發掘はつくつを終をはり、其岩壁そのがんぺきが欠壞けつくわいして、奧おくで貫通くわんつうして居ゐる事ことが判明はんめいし、又また石灰分せきくわいぶんが岩面がんめんの龜裂きれつの部分ぶぶんから漏出らうしゆつして、小鐘乳石せうしやうにふせきを垂下すいかして居ゐるのを發見はつけんした。

一時じは天井てんぜうから骨ほねがぶら下さがつて居ゐるの、セメントで内部ないぶが塗ぬつて有あるのと、高等野次馬かうとうやじうまの騷さはぎと云いつたら無なかつた。

それから一方ぱうの小せうなる横穴よこあなのシキからは、人ひとの大腿骨だいたいこつと指骨しこつの一小部分せうぶぶんとが出いで、直刀ちよくたうの折片せつべん、鍔つば(鐵製てつせい、寶珠形ほうじゆがた、透すかし)脛巾金はゞき、及および朱塗しゆぬりの土器どき(彌生式土器やよひしきどきに類似るゐじす)等とうが出いでた。これとても一向かう珍めづらしくは無ない。

それで西面せいめんの横穴よこあなには斷念だんねんして、山頂さんてうの主墳探しゆふんさがしに全力ぜんりよくを盡つくす事こととなつたが、相變あひかはらず埴輪圓筒はにわゑんとうの破片はへんや、埴輪土馬はにわどばの破片等はへんとうが出でる位くらゐで、更さらに石槨せきくわくに突當つきあたらぬ。如何どうも古墳こふんは無ないらしい。有あつたかも知しれぬが、今いまは無ないのが本統ほんとうらしい。

大野助手おほのぢよしゆの顏色がんしよくは、朱塗しゆぬりに成なつたり祝部色いはひべいろに成なつたりして居ゐる。

余よは其間そのうちに、最も一度ど『お穴樣あなさま』を探檢たんけんする必用ひつようを感かんじて、東面とうめんの彼かの參詣者さんけいしやの前まへから横穴よこあなの中なかに入いり、調査てうさを終をはつて外そとへ出でると、鐵條網てつでうもうに隔へだてられた參詣人さんけいにんの中なかから。

『野郎やらう、俺おれが今いま投なげたお賽錢さいせんを踏ふめアがツて、太ふてえ奴やつだ。ぶン毆なぐるから然さう思おもへツ』と呼よばはる。

なる程ほど、彼等かれらが信仰心しんかうしんを以もつて、遠とほく此所こゝまで來きたりながら、肝腎かんじんのお穴あなには接近せつきんする事ことを得えず。漸やうやく鐵條網てつでうもうの外そとからお賽錢さいせんを投なげたのを、變へんな男子をとこがノコ〱來きて、敬禮けいれいも爲せず、無遠慮むゑんりよに、穴あなに入はいつて加之あまつさへお賽錢さいせんを踏ふんだのだから、先方せんばうの身みになると腹はらの立たつのも最もつとも千萬ばん。此奴こいつ毆なぐられては大變たいへんだと余よはコソ〱と逃にげ出だした。

此日このひは鐵條網てつでうもうに就ついて博士對警官はかせたいけいくわんの小衝突せうしやうとつが有あつたが、勿論もちろん警官側けいくわんかはの誤解ごかいに出いでたので、程ほどなく落着らくちやくした。

這こんな事ことで第だい二日目かめも失敗しつぱい。

余よは、毎電まいでん、東京毎日とうきやうまいにち、やまと、日本にほんの記者きしやと共ともに、山越やまごしをして、駒岡貝塚こまをかかひづか、末吉貝塚すゑよしかひづかの遺跡ゐせきを過すぎ、鶴見つるみに出でて歸宅きたくした。

九日か(晴はれ)昨さくの如ごとく到着たうちやくして見みると、新聞連しんぶんれんも今日けふは少すくない。坪井博士つぼゐはかせも歸京ききやうの準備じゆんびをして居をられる。博物館はくぶつくわんからは、和田氏わだし一人ひとりだけだ。併しかし、高等野次馬かうとうやじうまは非常ひじやうに多おほい。

東面山麓とうめんさんろくの山土さんどの崩壞ほうくわいして堆積たゐせきしたる一部ぶに、祝部高坏土器いはひべたかつきどきを發見はつけんしたので、如何どうも此所ここが怪あやしいと、人類學者じんるゐがくしやならぬ土方どかたの船町倉次郎ふなまちくらじらうといふのが、一生懸命しやうけんめいに掘ほり進すゝんで居ゐる他ほか、赤鉢卷隊あかはちまきたいは全力ぜんりよくを山頂さんてうに向むかつて注そゝぎ、山全體やまぜんたいを取とりくづすといふ勢いきほひで遣やつて居ゐる間うちに、鍬くはの先さきにガチリと音おとして何なにか當あたつた。

『出でたぞ〱』

『當あたつたぞ〱』と山頂さんてうは大歡呼だいくわんこである。余等よらは夢中むちうに成なつて、驅上かけあがつて見みると、出でたのは出でたが、古墳こふんには無關係物むくわんけいぶつで、石器時代せきゝじだいの遺物ゐぶつたる、石棒頭部せきぼうとうぶ(緑泥片岩りよくでいへんがん)源平時代げんぺいじだいの五輪塔りんとうの頭部とうぶ。足利時代あしかゞじだいの寶篋印塔ほうきよういんとうの一部等ぶとうで、主墳しゆふんには古過ふるすぎたり、新あたらし過すぎたり。好いい具合ぐあひに適合てきがふせぬので、又またもや大失望だいしつばう。

坪井博士つぼゐはかせは、正午過しやうごすぎ、用事ようじの爲ため、歸京ききやうされたので、後あとを大野助手おほのぢよしゆが主任しゆにんで監督かんとくして居ゐると、午後ごご二時頃じごろに至いたつて、船町倉次郎ふなまちくらじらう受持うけもちの山麓さんろくから、多數たすうの圓石まるいしを發見はつけんした。

さア今度こんどは本統ほんとうだ。いよ〱掘當ほりあてた。けれども矢張やつぱり横穴よこあなであらう。主墳しゆふんでは有あるまいが、人氣にんきの緩ゆるんで居ゐる折柄をりがらとて、學者がくしやも、記者きしやも、高等野次馬かうとうやじうまも、警官けいくわんも、悉こと〲く此所こゝへ集あつまつて、作業さくげふの邪魔じやまとなる事こと夥多おびたゞしい。未まだ穴あなの口くちが開あかぬのに是これなのであるから、横穴よこあな發見はつけんとなつたら、どんな混亂こんらんを生しやうずるか分わからぬといふので、警戒區域内けいかいくゐきないに更さらに又また一小區せうくを劃くわくし、此所こゝには誰たれも入いれぬ事ことにして、それから入窟にふくつの順序じゆんじよを豫あらかじめ定さだめた。

大野おほの――和田わだ――野中のなか――それから新聞記者しんぶんきしやを代表だいへうして、水谷みつたに及および余よといふ順番じゆんばんである。

大得意だいとくいの船町倉次郎ふなまちくらじらうは、更さらに勇いうを皷こして圓石まるいしを取除とりのぞくと、最初さいしよの地面ぢづらより一丈ぢやう三尺餘じやくよの前面ぜんめんに於おいて、ぽかりと大穴おほあなへ突拔つきぬけた。

一同どうは大動搖だいどうえうを始はじめた。早はやく中なかが見みたいからである。けれども永ながく密閉みつぺいせられてある岩窟がんくつの内部ないぶには、惡瓦斯あくぐわすを發生はつせいして居ゐるに相違さうゐない。不用意ふよういに入いると窒息ちつそくして死しぬ恐おそれがあるので、先まづ蝋燭らうそくの火ひをさし入いれる必用ひつようがある。人足にんそくが一人ひとり進すゝんで、穴あなの中なかに片手かたての火ひをさし入いれると、火ひは次第しだいに小ちいさく成なつて、後のちには、ふツと消きえた。

『危險きけん〔感嘆符三つ〕危險きけん〔感嘆符三つ〕』といふので未まだ誰だれも入いらうと爲せぬ。

余よは此時このとき、探檢服たんけんふくの輕裝けいさうで、手てに龕燈がんどうを携たつさへて居ゐた。中なかに入いるのは危險きけんであらうが、龕燈がんどうの光ひかりを射さし向むけて、入口いりくちから内部ないぶを照てらし見みるには差支さしつかへなからうと考かんがへ、單身たんしん横穴よこあなの入口いりくちまで進すゝんだ。

然さうして龕燈がんどうを持もつ手てを横穴よこあなに突出つきだして、内部ないぶを照てらして見みやうとしたが、其その光ひかりの當あたる部分ぶぶんは、白氣はくき濛々もう〱として物凄ものすごく、何なにが何なにやら少すこしも分わからぬ。

漸やうやく見定みさだめると、龕燈がんどうの光ひかりが奧壁おくかべに突當つきあたつて、朧月おぼろつきの如ごとく寫うつるのである。

未まだ併しかし入いるには危險きけんであるから、窟内くつないに酢すを散布さんぷして、然さうして後のちに入いるが好よからう。それに、第だい一番ばんには大野氏おほのしが入いる筈はづだからと考かんがへながら、猶なほ今いま一度ど窟いはやの底部ていぶを照てらして見みやうとして、龕燈がんどうを持直もちなほす途端とたんに、余よの足あしは入口いりくちのくづれたる岩面いはづらを踏ふんだので、ツル〱と穴あなの中なかへ濘すべり落おちた。

はツと思おもつたが、最もう仕方しかたが無ない。余よは既すでに一歩ぽを横穴よこあなに踏入ふみいれて居ゐるのだ。斯かうなると日頃ひごろの探檢氣たんけんきが生しやうじて、危險きけんを思おもはず、更さらに奧おくの方はうへ進すゝむと、這こは如何いかに、足下あしもとに大々蜈蜙だい〲むかでがのたくツて居ゐる――と思おもつたのは束つかの間まで、龕燈がんどうの火ひで照てらして見みると、岩いはの隙間すきまから入いつた草くさの蔓つるであつた。

更さらに氣きを取直とりなをして、暗黒々あんこく〱の岩窟内がんくつないを照てらし見みると、奧壁おくかべ近ちかくに當あたつて有ある、有ある、人ひとの骨ほねらしい物ものが泥土でいどに埋うまりながら横よこたはつて見みえる。然さうして其その枕元まくらもとの方はうに、錆さびて𣏓木くちきの如ごとくなる直刀ちよくとうが二本ほん置おいてある。

此時このとき余よは一種しゆ言いふ可べからざるの凄氣せいきに打うたれたのである。此所こゝは是これ、千數すう百年前ねんぜんの人ひとを葬ほうむつた墳墓ふんぼである。其その内部ないぶに余よは生いきながら入いつて立たつのである。白骨はくこつ生いけるにあらぬか。余よは死しせるにあらぬかといふ、夢幻むげんの境きやうにさまよひ、茫然ばうぜんとして動うごかずに居ゐる後うしろから、突然とつぜん、一箇この黒影くろかげが出現しゆつげんした。

吃驚びつくりして見みるとそれは野中氏のなかしだ。

それから余よは氣きを取直とりなほして。

『最もう大丈夫だいぢやうぶだ。諸君しよくん、來給きたまへ』と呼よばはつた。

窟外くつぐわいからは、角燈かくとう、蝋燭らふそくなんど、點火てんくわして、和田わだ、大野おほの、水谷みづたにといふ順序じゆんじよで入來いりきたつた。

それから五人にん、手分てわけをして、窟内くつないを隈くまなく調査てうさして見みると、遺骨ゐこつ、遺物ゐぶつ、續々ぞく〲として發見はつけんされる。それを過あやまつて踏ふみさうに爲する。大騷おほさはぎだ。

今いまこの岩窟がんくつを説明せつめいするに、最もつとも解かいし易やすからしめるには、諸君しよくんの腦裡のうりに、洋式ようしきの犬小屋いぬごやを畫ゑがいて貰もらふのが一番ばんだ。

地中ちちうに犬小屋式いぬごやしきの横穴よこあなが穿うがつてあつて、其その犬小屋いぬごやの如ごどき岩窟がんくつの入口いりくちまでは、一丈ぢやう三尺餘しやくよの小墜道せうとんねるを通とほるのだ。扨さて、犬小屋いぬごやの如ごとき横穴よこあなの入口いりくちは、幅はゞ三尺じやく六寸すん、高たかさが三尺じやく八寸すんある。だから犬いぬが犬小屋いぬごやに入はいる時ときに腹這はらばふと同おなじく、人ひとが横穴よこあなに入いる時ときも、餘程よほと窮屈きうくつだ。

其所そこで、入口いりくちを入いると、其所そこの横幅よこはゞが九尺しやく四寸すんある。それから突當つきあたりの奧壁おくかべまで一丈ぢやう四尺しやくの長ながさがある。奧壁おくかべの處ところの横幅よこはゞは、入口いりくちより少すこしく延のびて一丈ぢやう一尺しやく五寸すんある。下したには小石こいしが一面めんに敷詰しきづめてある。天井てんぜうの高たかさは中央部ちうわうぶは五尺しやく四寸ずんあるが。蒲鉾式かまぼこしきに圓まるく張はつて居ゐるので、四隅すみはそれより自然しぜんに低ひくい。扨さて其他そのたには、彼かの第だい一の穴あなにもある如ごとく、周圍しうゐと中央ちうわうとに、幅はゞ四五寸すんの溝みぞが穿うがつてあるが、彼かの如ごどく床壇ゆかだんは設もうけて無ない。其代そのかはりに奧壁おくかべから一尺しやく二寸ずん隔へたてて、一列れつに石いしが並ならべてあり、それから三尺じやくを隔へだてて、又また第だい二列れつの石いしが列ならべてある。其間そのあひだに、人骨じんこつの腐蝕ふしよくしたのが二三體たい泥どろの如ごどくなつて横よこたはつて居ゐる。鐵鏃てつぞくがある。直刀ちよくたうが二本ほん交叉かうさしてある。鐵環てつくわん。轡くつわ。槍先やりさき。祝部いはひべ、土器等どきとうが、其所此所そここゝに置おかれてある。

これを調しらべるには、和田氏わだしが卷尺まきしやくを持もつ、余よが一方ぱうに其端そのはしを持もち、一方ぱうに燈器とうきを持もつ。大野氏おほのしが一々いち〱圖づを取とるといふ役目やくめで、然さうして居ゐる間うちに、頭あたまと尻しりと衝突しやうとつする。足あしを踏ふむ。手てを突つく。遺物ゐぶつを踏ふみ掛かける。遺骨ゐこつを踏ふみ掛かける。窮屈千萬きうくつせんばんだ。

遺骨ゐこつは三四體たい、合葬がつそうした形跡けいせきがある。其所そこにも此所こゝにも人骨じんこつが横よこたはつて居ゐるが、多年たねん泥水どろみづに浸したされて居ゐたので、手てに觸ふれると宛然まるで泥どろの如ごどく、形かたちを全まつたく取上とりあげる事ことは出來できぬ。

以上いじやうの如ごどく、大體だいたいの調査てうさは濟すんだのであるが、猶なほ細こまかに、小石こいしや、泥どろを渫さらへ出だして見みたら、玉類たまるゐ金環類きんくわんるゐの發見はつけんもあるのだらうが、それは坪井博士つぼゐはかせが來こられてからにして、兎とも角かくも既發見きはつけんの遺物いぶつだけ外そとに持出もちだし、跡あとは明日あすまで封鎖ふうさするが好よからうと、一决けつし、各新聞記者かくしんぶんきしや及および少數せうすうの人ひとに窟内くつないを一見けんさした後のち、余等よら五人にんは穴あなから出でる事ことにした。

其時そのとき、余よは、俵形たはらがたの土器どきを兩手りやうてに持もつて、眞先まつさきに穴あなから飛出とびだすと、高等野次馬かうとうやじうまは聲こゑを揃そろへて。

『萬歳ばんざい〔感嘆符三つ〕』の叫さけび。

地下坑道ちかかうだうから進すゝんで敵砲臺てきほうだいを陷落かんらくせしめた勇士いうしも斯かくやと、我われながら大得意だいとくいであつた。

余よは此日このひ限かぎり、既もう探檢たんけんには行ゆかなかつた。何故なにゆゑならば、迚とても主墳發見しゆふんはつけんの見込みこみが無ないからであつた。

大學側だいがくがはでも、其その翌日よくじつ、新發見しんはつけんの横穴よこあなに就つひて調査てうさを續つゞけられたのみで、それ限かぎり、他たの發掘はつくつを中止ちうしされ、十一日にちには坪井博士つぼゐはかせの講演かうえんがあつたゞけで、瓢箪山大發掘ひやうたんやまだいはつくつの一段落だんらくは著ついた。

余よは殘念ざんねんながら、博士はかせの講演かうえんを拜聽はいちやうするを得えなかつたので、博士はかせが瓢箪山ひやうたんやま及および新發見しんはつけんの横穴よこあなに就つひて、如何どういふ説せつを發表はつぺうされたか、余よは知しらぬが、(新聞しんぶんには講演かうえんの梗概かうがいが出でて居ゐたが、余よは新聞しんぶんの記事きじには、信用しんようを拂はらはぬ一人にんであるので、證しようとせぬ)余よは余よとして、生意氣なまいきながら左さの如ごとき説せつを持じするのである。

(一)瓢箪山ひようたんやまの頂上ちやうじやうに曾かつて古墳こふんの有ありし事ことを承認しようにんす。

(二)山頂さんちやうの古墳こふんと山麓さんろくの横穴よこあなとは時代じだいに於おいて無關係むくわんけいなる事こと。

(三)第だい二の横穴よこあなに數人すうにんを合葬がつそうしたるは主人しゆじん及および殉死者じゆんししやを入いれたりと解釋かいしやくせず。身分みぶんに格別かくべつの隔絶かくぜつなき武人ぶじんの、同日どうじつの戰死者せんししやを合葬がつそうしたる者ものと考證かうしようす。

これを一々論ろんずるのは、探檢記たんけんきの主意しゆいで無ないので、之これで筆ふでを擱おく。

最後さいごに此新横穴このしんよこあなからの發見物はつけんぶつに就つひて、最もつとも注意ちういすべき點てんを附記ふきして置おく。それは、供物ぐぶつらしき魚骨ぎよこつの發見はつけんと、俵形土器ひやうけいどきの中なかから、植物しよくぶつらしき物ものの出でた二事じである。他たに例れいの無なかつたのを今回こんくわい見出みだしたのだ。俵形ひやうけいの土器どきから植物しよくぶつを探さがし出だしたのは、實じつに余よである。危あやうく人夫にんぷが捨すてやうとしたのを、引取ひきとつて調しらべたからである。

底本 / Source edition

底本:「探檢實記 地中の秘密」博文館
1909(明治42)年5月25日発行
※底本では、「ひょうたん」の「たん」に、「箪(底本における字体は「※[#「竹かんむり/單」、第3水準1-89-73]。)」と「簟」をあててある。このファイルでは、「簟」を誤植とみることはせず、二つを底本通り入力した。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:岡山勝美
校正:岩澤秀紀
2012年2月9日作成
2015年5月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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TEI
/works/046185_000448/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/046185_000448/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/046185_000448/

江見 水蔭「探検実記 地中の秘密──29 お穴様の探検」(旧字旧仮名)、底本『探檢實記 地中の秘密』博文館、1909年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 046185_000448, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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