一

お婆さんはもう我慢がしきれなくなって来た。けれども彼女は、しばらくの間を薄い<ruby><rb>襤褸</rb><rt>ぼろ</rt></ruby>布団の中で、ただ、もじもじしていた。

厚い板戸を隔てた台所の<ruby><rb>囲炉裏端</rb><rt>いろりばた</rt></ruby>では、誰か客があるらしく、しきりと太い話し声がやりとりされている。折々大きな笑い声も洩れて来る。<ruby><rb>慥</rb><rt>たし</rt></ruby>かに誰かが来ているらしい。お婆さんは布団からそおうっと顔を出して見た。併しお婆さんは、また<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>した。そして室の中を見廻した。

<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の中にも晩秋の<ruby><rb>寂寥</rb><rt>せきりょう</rt></ruby>は感じられた。障子の上には、二尺ぐらいの高さのところまで、かんかんと<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>があたっている。死に残った四五匹の蠅が、陽のあたった白い部分で、ぶぶうっと紙に突きあたっている。ところどころの、破れて垂れ下がった紙の上には、薄黒く埃が溜まっていた。

台所の囲炉裏端からは、再び大きな笑いの声が起こった。

「本当、豆でも買って、まめになんねえで、どうもこうも……」

ひどく<ruby><rb>嗄</rb><rt>しゃが</rt></ruby>れた、老人らしい声であった。

「ほんでえ、<ruby><rb>俺家</rb><rt>おらえ</rt></ruby>の<ruby><rb>婆様</rb><rt>ばんさま</rt></ruby>にも豆買いでもさせんべかな。」とお婆さんの<ruby><rb>伜</rb><rt>せがれ</rt></ruby>の治助は笑いながら言った。

「<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>の家の<ruby><rb>婆様</rb><rt>ばんさま</rt></ruby>なんか、何が……りっきとした息子があんのに。」

老人らしい声は、語調を<ruby><rb>力</rb><rt>つと</rt></ruby>めて言った。

<ruby><rb>慥</rb><rt>たし</rt></ruby>かに誰かが来ている。――とお婆さんは思った。そう思った瞬間、客があるという意識で、お婆さんは小児のような心理状態に置かれた。

「松！　松！　松はいねえがあ？」

お婆さんは、<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>に引っ掛かるような声を<ruby><rb>搾</rb><rt>しぼ</rt></ruby>って、二番目の孫娘を呼んだ。併し、それにはなんの答えもなかった。

「松！　水一杯呑ませで<ruby><rb>呉</rb><rt>け</rt></ruby>ろちゃ。」と、お婆さんは続けた。そして咽喉をごくりと言わせた。

やはり、なんの答えも返っては来なかった。一時<ruby><rb>杜絶</rb><rt>とだ</rt></ruby>えた囲炉裏端の話し声は、再びひそひそと続けられているらしかった。お婆さんは、青い静脈の浮いている<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>を静かに閉じた。そして唇を動かした。また咽喉がごくりと鳴った。

「駄目だ駄目だ。水なんか呑ませじゃ駄目だ。婆様は水を呑ませっとすんぐに寝小便だから……」

こう言っている声を、たしかにそう言っている声をお婆さんは聞いたように思った。

<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>い<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>の<ruby><rb>陰</rb><rt>かげ</rt></ruby>には、いろいろな場面が<ruby><rb>繰</rb><rt>く</rt></ruby>り<ruby><rb>展</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げられた。六十幾年間の自分自身の苦闘の姿であった。そこには、寝小便ばかりではない。食事最中にまで、自分の<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>で<ruby><rb>糞</rb><rt>うんこ</rt></ruby>をした伜や孫がいた。そして、一旦老衰の床に就くと、一杯の水さえ自由に与えられない自分自身の姿が、自分の瞼の裏に描かれていた。

障子の上で、ぶぶうっと紙に突き当たっていた蠅が一匹、お婆さんの瞼へ来てとまった。お婆さんは閉じたままの瞼をひくひくと微動させた。蠅はすぐに飛び去った。<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>の間には、小粒の<ruby><rb>涙滴</rb><rt>るいてき</rt></ruby>が、一列に<ruby><rb>繁叩</rb><rt>しばたた</rt></ruby>き出された。

二

お美代が<ruby><rb>土瓶</rb><rt>どびん</rt></ruby>と飯茶碗とを持ってはいって来た。足音でお婆さんは布団の襟に眼をこすりつけた。

「<ruby><rb>婆</rb><rt>ばば</rt></ruby>さん、ほら、水持って来したで。」

「うむ、水！――どうも眼が<ruby><rb>霞</rb><rt>かす</rt></ruby>んで。」

お婆さんは口まであけて、<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>をこすりつけているように、顔を布団に埋めながら低い声で言った。

「あ、お美代が？　今朝来たのが？」

「うむ、今朝。」と、うなずきながら、お美代は茶碗に水を注ぎ満たした。

「<ruby><rb>大変</rb><rt>おっかねえ</rt></ruby>まだ早ぐ来たで。――どんな風だ大崎の方は？　仕事の早い処だぢ、<ruby><rb>田畑</rb><rt>たはた</rt></ruby>の仕事は片付いてしまったがあ。」

お婆さんは静かに寝がえりながら、低い消え入るような声で吐切れ吐切れに言った。お美代は茶碗を取ってお婆さんの方へ出した。お婆さんは布団の中から、痩せた青筋の<ruby><rb>節</rb><rt>ふし</rt></ruby>くれだった大きな手を出したが、手はなかなか伸びそうもない。手よりも先に、<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>の方が出て行った。

「なんだけえ、まず、お美代。<ruby><rb>汝</rb><rt>にし</rt></ruby>の手は……」

お婆さんは、ごくりごくりと<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を鳴らしながら水を呑んだ。お美代はすぐに眼を伏せて、膝の上の自分の手を見た。<ruby><rb>玄</rb><rt>くろ</rt></ruby>い肌には一面の赤い<ruby><rb>皸</rb><rt>ひび</rt></ruby>だった。<ruby><rb>節々</rb><rt>ふしぶし</rt></ruby>は、<ruby><rb>垢切</rb><rt>あかぎれ</rt></ruby>に捲かれた膏薬で折り曲げもならぬほどであった。

「<ruby><rb>新田</rb><rt>にいだ</rt></ruby>の方はそんなに仕事がひどえのがあ、お美代。――新田さ嫁に行ぐが、<ruby><rb>鉈</rb><rt>なた</rt></ruby>で顔剃らせるが――って話は聞いでいだげっとも。」

「なじょして、この<ruby><rb>辺</rb><rt>へん</rt></ruby>の男達よりも、もっと荒仕事しさせられんのだもの、新田の方では。」

「女の仕事の荒いの、新田のようだって言ってるぐらいだから……」

お婆さんは、また枕に頭を横たえた。電話口へ耳をあてるようにして。

「おらは、どこさも行がねえもは、婆さん。一生家にいで、<ruby><rb>独身</rb><rt>ひとりみ</rt></ruby>で、叔母様ではあ、この家にいで稼いで助けるもは。おら、どこさも行がねは。」

「うむ？　それさな。――やっぱり、新田さ行ぐより、町さ行った方がよがったがな。」

お婆さんは、自分がこの老衰の床に就く一月ほど前、町の方へ嫁に行くことに話が<ruby><rb>纒</rb><rt>まと</rt></ruby>まりかけていたお美代を、無理矢理に新田へ、土地の<ruby><rb>素封家</rb><rt>そほうか</rt></ruby>だと言うことだけで、いろいろと口説き落とした自分であったことを、ぼんやり思い出した。

「やっぱり、町さ行った方がよがったがな。財産など、なんぼあったところで、お墓の中さまで持ってがれるもんでねえし……」とお婆さんの話は、なんだか自分のことを言っているようでもあった。

お美代は前掛けの端を噛んでいた。そして、その前掛けで折々眼を押さえた。

「俺も、<ruby><rb>若</rb><rt>わけ</rt></ruby>え時、牛馬のように――やっぱり、町の方さでも片付けば……」

「町さもどこさも、おらどこさも、一生どこさも行かねえは、<ruby><rb>婆</rb><rt>ばば</rt></ruby>さん。」

お美代は到頭、両手で<ruby><rb>掩</rb><rt>お</rt></ruby>うた顔を、お婆さんの布団の端に伏せた。やがて<ruby><rb>欷</rb><rt>すす</rt></ruby>り<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>きは、声にまでなって来た。

三

「こっちの<ruby><rb>婆様</rb><rt>ばんさま</rt></ruby>も、弱ってるぢでねえが？」

声と一緒に、外から障子を引き開けたのは、豆腐を売って歩く弥平爺だった。お婆さんはすぐ眼をあけたが、太陽の光線を受けて<ruby><rb>眼叩</rb><rt>まばた</rt></ruby>きを繰り返した。寝た位置がよかったので、ちょうど障子の間から出した顔と対していた。

「なんだ婆様、ひどく弱ったでねえが……」

弥平は、<ruby><rb>頬骨</rb><rt>ほおぼね</rt></ruby>の突き出た白髪の頭をお婆さん方へ寄せた。けれども、お婆さんは、<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しそうに眼を開いたまま何も答えなかった。

「<ruby><rb>婆</rb><rt>ばば</rt></ruby>さん、弥平<ruby><rb>爺様</rb><rt>じんつぁま</rt></ruby>だ。豆腐屋の弥平爺様だ。」

お美代は布団を軽く叩いてやりながら言った。お美代の顔には血の気がいっぱい上がっていた。

「<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しいんだ。眩しいんだ。」と弥平爺は、自分の顔でお婆さんの顔へ日蔭をつくった。

「うむ。珍しい人が来なしたで……」

お婆さんは、遠い遠い昔の記憶を呼び起こすようにして、頬の上に微かな笑いの線をうごめかした。

「それさな。こっちの家の姉様が、こんなに大っきくなって、<ruby><rb>嫁御</rb><rt>よめご</rt></ruby>に行ってるぢのだがら。」

「仙台の方さ行って、<ruby><rb>大変</rb><rt>おっかねえ</rt></ruby>儲けだぢ話聞いだっけ……」

「なあにな。俺もな婆様、ひでえ<ruby><rb>長患</rb><rt>ながわずら</rt></ruby>いしてしまって、儲げだ銭どこでなぐ使ってな。」

「ほうお、爺様も<ruby><rb>患</rb><rt>わずら</rt></ruby>ったのがね。俺もこれ、この<ruby><rb>大</rb><rt>お</rt></ruby>っき孫、嫁にやってがら、こうして床に就いたきりで……」とお婆さんは眼を閉じた。

「それに爺様も亡くなったぢね？　こっちの爺様は面白い人でなあ。爺様に、頭の髪さ赤い<ruby><rb>布片</rb><rt>きれ</rt></ruby>でも縛って、少しの間、<ruby><rb>廉</rb><rt>やす</rt></ruby>ぐ売って歩いで見ろ――って言われたごとあったが、俺なあ婆様、そうして見だのしゃ。ほうしたら、売れで売れで、凍り豆腐は、あの爺様のでねえげ駄目だぢ評判で、随分儲げだのだげっとも……<ruby><rb>長患</rb><rt>ながわずら</rt></ruby>いして、残した銭も、しっかり使ってしまって、またこうしてこれ……」

弥平爺は、声を低くして哀れっぽい調子に語尾を引いた。

「ほんでも、まだ丈夫になったようですてや。丈夫で何よりだ。」

お婆さんは、また眼を開けて弥平爺の顔を見た。

「さっきの話であ、おめえ、頭の髪も、髪さ結び付けた赤い<ruby><rb>布片</rb><rt>きれ</rt></ruby>も皆鼠に喰われでしまって、ほんで駄目なったのだ――って話だっけ……」

お美代は、囲炉裏端で弥平が、人を笑わせ自分も笑おうという意識で話したこの話を思い出して、手で口を掩うて笑った。

「そう言うごとにでもしねえげ……」と弥平は、淋しい笑いを笑おうとした。併しそれは、笑いにはならずに、僅かに口辺の線が<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>められたきりであった。

三人とも口を<ruby><rb>緘</rb><rt>ふう</rt></ruby>じられた。どしんと大きな沈黙を横たえられた感じだった。お婆さんは眼を開いて弥平の<ruby><rb>老</rb><rt>お</rt></ruby>い<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れた淋しい顔に視線を据えていたが、それも長くは続かなかった。すぐまた眼を閉じてしまった。

「さあ、俺もそろそろ<ruby><rb>帰</rb><rt>けえ</rt></ruby>るとするがな。」

弥平爺は、しばらくの沈黙の後、腹掛けの<ruby><rb>丼</rb><rt>どんぶり</rt></ruby>を探りながら言った。そして、<ruby><rb>鞣革</rb><rt>なめしがわ</rt></ruby>の大きな財布を取り出した。

「婆様、さあ、これで何が味っぽいものでも――爺の病気見舞だ。」

弥平爺は、五銭白銅貨を二三枚お婆さんの枕元へ<ruby><rb>撰</rb><rt>と</rt></ruby>り出した。

「あ、爺様や、こんなごどしねえだって。」

「ほんとに少しばりだげっとも。――ほう、かれこれ<ruby><rb>正午</rb><rt>おひる</rt></ruby>だ。どうも日が短けくて。」

「まるで、馬の<ruby><rb>手綱</rb><rt>たづな</rt></ruby>のような……」とお美代は、弥平爺の財布の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>の太いのを笑った。

障子を押し開いて、お美代は縁側に弥平爺を見送った。お婆さんは、額縁に<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>められた風景画のような秋色の一隅を、ぼんやりと、<ruby><rb>潤</rb><rt>うる</rt></ruby>んだ眼に映していた。

「ね、おめえも、早く<ruby><rb>帰</rb><rt>けえ</rt></ruby>んでえすぞ。俺も<ruby><rb>若</rb><rt>わけ</rt></ruby>え時、<ruby><rb>婿</rb><rt>むこ</rt></ruby>に行ったどこ逃げ出した罰で、今になってこれ……」

庭先で弥平爺は、こう、お美代に言っていた。

「なんぼ貧乏しても、田作る百姓、飯だけ喰えんだから。ね、早く帰って、<ruby><rb>辛</rb><rt>つれ</rt></ruby>えくっても、<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>くて死ぬようなごとねえんだから、悪いごど言わねえ、辛抱していんでえす。」

弥平爺は、この言葉を、お美代のために言い残して帰って行った。併し、この言葉は、お婆さんも遠い昔の記憶の上に、現実とかけはなれた不思議な<ruby><rb>韻</rb><rt>いん</rt></ruby>で聞き返すことが出来た。

四

その晩、お美代が隣の風呂から帰って来た時、お婆さんは雨戸を<ruby><rb>繰</rb><rt>く</rt></ruby>り<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>けて、縁側に<ruby><rb>蹲</rb><rt>しゃが</rt></ruby>んでいた。月光に濡れて、お婆さんの顔はなお、<ruby><rb>一入</rb><rt>ひとしお</rt></ruby>蒼白かった。

「そんなところで、何しているの？　<ruby><rb>婆</rb><rt>ばば</rt></ruby>さんは。」

お美代は、雨戸に手をかけてその後ろに立った。

「柿の葉も、皆落ちでしまったなは。」

お美代も、お婆さんと一緒に戸外の景色を眺めた。――実をもぎ取られた柿の樹は、その葉も大方振り落として、黒い枝が奇怪なくねりを大空に拡げていた。柿の樹の下に並んだ<ruby><rb>稲鳰</rb><rt>いなにお</rt></ruby>の上に、落ち散った柿の葉が、きらきらと月光を照り返している。桐の葉や桑の葉は、微風さえ無い<ruby><rb>寂寞</rb><rt>せきばく</rt></ruby>の中に、はらはらと枝をはなれている。遠くの木立ちは、すべて<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>黒く、煙りだっていた。そして、丘裾の部落部落を、深い<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>が<ruby><rb>立</rb><rt>た</rt></ruby>ち<ruby><rb>罩</rb><rt>こ</rt></ruby>めていた。

「婆さん。<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>引ぐど大変だから。」

お美代は、いつまでも戸外の風景に眼を据えているお婆さんを<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>した。

「うむ。――今年は、<ruby><rb>稲鳰</rb><rt>いなにお</rt></ruby>、六つあげだようだな。小作米出した残りで、<ruby><rb>来春</rb><rt>らいはる</rt></ruby>までは食うにいがんべな。」

「鳰一つがら、五俵ずつ<ruby><rb>穫</rb><rt>と</rt></ruby>れでも……婆さん、そんな心配までしねえだって。さあ、風邪引ぐがら。」

「うむ。小便しさ起ぎだのだげっとも、動がれなくなったはあ。――俺、米の無くならねえうぢに死にでぇんだ……」

「そんなごと言って、まだ死んでられめちゃ、婆さん。」

お美代は、<ruby><rb>蹲</rb><rt>しゃが</rt></ruby>んでいるお婆さんを、後ろから、室の中に抱き入れた。

床の中は冷たくなっていた。夜の冷気は<ruby><rb>犇々</rb><rt>ひしひし</rt></ruby>と身に迫って来た。お婆さんは、両足を<ruby><rb>縮</rb><rt>ちぢ</rt></ruby>めて、小さくなって見たが、やはりぞくぞくするばかりであった。だが、寝床の中で震えながらも三十分間ばかり我慢して見た。

併し、お婆さんは、いつまで経っても、もう寝床に親しむことが出来なかった。このまま凍り付いてしまいそうにさえ思われた。

「松！　松！　松やあ！」

お婆さんは、お美代を起こす気にはなれなかった。

「松やあ！　お湯わかして呑ませで<ruby><rb>呉</rb><rt>け</rt></ruby>ろ。」

併し、誰も返事をしてくれるものは無かった。お婆さんはまた自分の寝小便を思い出した。眼だけが温かくなって来た。

しばらくすると、誰か<ruby><rb>囲炉裏</rb><rt>いろり</rt></ruby>の方へ起きて行く気配がした。お婆さんは耳を澄ました。足音は戸外へ出て行った。ごくりと唾を<ruby><rb>嚥</rb><rt>の</rt></ruby>み<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>して、お婆さんは出来るだけ小さく身を縮めた。

<ruby><rb>静寂</rb><rt>せいじゃく</rt></ruby>な闇の中に、やがてハリハリと杉の枯れ葉の燃える音がした。続いて枯れ柴のパチパチと燃え上がる音がして来た。

「<ruby><rb>婆</rb><rt>ばば</rt></ruby>さん、今すぐわぐがらね。」

お美代が、自分の家で<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えた粗末な燭台を手にして<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来た。お婆さんは、感謝の念だけで口がきけなかった。その灰色にまで<ruby><rb>垢染</rb><rt>あかじ</rt></ruby>みた枕は、ぐっしょり濡れていた。

「なんだけな婆さんは、枕、こんなに濡らして……」

お美代はこう言って、お婆さんの白髪頭を持ち上げ、濡れた枕を裏返しにしてやった。

「すぐわぐがら……」

お美代はすぐ囲炉裏端へ引き返した。

台所で器物を探す音がしばらくしていた。そしてお美代の持って来た茶碗の中には、その底にぽっつり味噌が入っていた。

「味噌湯の方、<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby><ruby><rb>温</rb><rt>あった</rt></ruby>まっていがんべから……」

お婆さんは床の上に起きかえって、茶碗を、両手で捧げるような手付きで、フウフウと吹きさましながら、続けて二杯も呑んだ。

「ああ、<ruby><rb>美味</rb><rt>うま</rt></ruby>がった。<ruby><rb>甦</rb><rt>いきげ</rt></ruby>えったようだちゃ。身体も<ruby><rb>温</rb><rt>あった</rt></ruby>まって……」

「ほんでは、これでいいが婆さん。」

お美代は、持ち上げられて隙間の出来た布団を、上から押し付けてやった。

「死んでも忘れねえぞ、お美代。」

「寒ぐねえが、婆さん。」

「なあ、お美代、大崎さは行ぐなよ。なんでもいいから、楽の出来っとごさ行げ。俺死ぬ時、<ruby><rb>汝</rb><rt>にし</rt></ruby>は、町場さ嫁にやるように<ruby><rb>遺言</rb><rt>ゆいごん</rt></ruby>して死ぬがら……」

「俺、大崎など、死んでも行がねえ。婆さんは、まだ枕こんなに濡らして。」

お婆さんの枕は、またぐっしょりになっていた。お美代は自分の手拭いを四つに折って敷いてやった。彼女の眼にも熱いものが湧いて来た。<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>の会話の中に、鼠の走る音と、家人の<ruby><rb>鼾</rb><rt>いびき</rt></ruby>の音とが折々はさまれていた。

五

感激が<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>って、お婆さんは夜明けまで興奮し続けた。うつらうつらとまどろみかけたのは、それからであった。

「ナア！　ナア！」いう細い消え入るような声で、眼が覚めた時には、短い日はもう十時を廻っていた。

枕元には、いま障子の破れ穴から飛び込んで来た三毛が、ぶるぶるっと<ruby><rb>毛繕</rb><rt>けづくろ</rt></ruby>いして、ものほしそうに鳴いていた。猫の鼻先には、<ruby><rb>粥</rb><rt>かゆ</rt></ruby>の土鍋と梅干の器物が置かれてあった。廊下の<ruby><rb>日向</rb><rt>ひなた</rt></ruby>には、善三が、猫の午睡所を占領していた。

「善三があ？　善三。」

お婆さんは、低い<ruby><rb>嗄</rb><rt>しゃが</rt></ruby>れた声で、障子にうつる影に呼びかけた。

善三は、青い<ruby><rb>篠竹</rb><rt>しのだけ</rt></ruby>を三本切って来て、何か<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えようとしているのであった。昨日の午後、お婆さんから蜜柑を買って来るように言い付かって、五銭白銅を二枚持って出て行ったきり、そのままお婆さんのところへ寄り付かなかったのであったが、もうそのことも忘れているらしかった。

「昨日な頼んだ蜜柑はやあ？　善三。」

「蜜柑、どこにも、<ruby><rb>無</rb><rt>ね</rt></ruby>がった。」

「蜜柑が無がったあ？　ほして、銭はやあ？」

「蜜柑が無がったがら、俺、<ruby><rb>飴玉</rb><rt>あめっこ</rt></ruby>買った。」

「<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>渇いて仕様ねえがら、蜜柑買わせっさやったのに、飴玉など買って……ほして、その飴玉はやあ？　<ruby><rb>汝</rb><rt>にし</rt></ruby>あ、一人で食ってしまったのがあ？」

お婆さんは、<ruby><rb>粥鍋</rb><rt>かゆなべ</rt></ruby>の方へ行こうとする三毛の足を引っ張りながら、ぶつぶつとこぼした。

「一人で<ruby><rb>食</rb><rt>か</rt></ruby>ねえちゃ。貞ど菊さもやったちゃ。」

「この野郎は、ほうに、仕様のねえ野郎だ。」

その言葉の中には、幾分の愛情が<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>められていた。

「ほだって、蜜柑が<ruby><rb>無</rb><rt>ね</rt></ruby>えもの……」

善三は、一生懸命に竹を削りながら、ずるずるっと<ruby><rb>洟</rb><rt>はな</rt></ruby>をすすりあげた。

「ほんじゃ、水持って来て呑ませろ。蜜柑買って来ねえ代わりに。」

「<ruby><rb>厭</rb><rt>や</rt></ruby>んだ。<ruby><rb>父</rb><rt>おど</rt></ruby>に怒られっから厭んだ。」

「ほんとに、この野郎まで、なんとしたごったやなあ！……」

お婆さんの言葉には、悲壮、というような<ruby><rb>余韻</rb><rt>よいん</rt></ruby>があった。

「お美代姉はやあ？　善三。」

しばらくしてから、お婆さんは言った。

「今朝早ぐ、<ruby><rb>父</rb><rt>おど</rt></ruby>と一緒に、大崎さ行ったは。」

「大崎さ？　まだ行ったのが？」

お婆さんの顔には、悲哀の表情が浮かんだ。悲哀というよりも、むしろ悲壮といいたい表情、歯を喰いしばるようにして眼を閉じたのであった。<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>がひくひくと微動していた。

「美代姉は、<ruby><rb>厭</rb><rt>や</rt></ruby>んだって言ったの、<ruby><rb>父</rb><rt>おど</rt></ruby>、行がねえごったら、<ruby><rb>首</rb><rt>くびた</rt></ruby>さ、縄つけでも<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>せで行ぐどて。お美代姉、泣いでいだけ。」

お婆さんは眼を閉じたまま、なんにも答えなかった。そして、しばらくしてから、<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り<ruby><rb>言</rb><rt>ごと</rt></ruby>に<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

「あのがきも、生きでるうぢは、楽など出来めえ、牛馬のように……」

言葉は、涙に<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>られて、低く語尾を引いた。

こうは言ったが、お婆さんは、お美代の身の上を哀れに思うよりも、お美代を失った自分の身の、死期までの寂しさ、すべての不自由を思わずにはいられなかった。

――昭和二年（一九二七年）『随筆』二月号――