私は常に東北地方を愛している者であります。私は（日本中でどこが一番好きか？）という質問に対して、いつも（東北地方）と答えるのに<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>したことはありません。これは<ruby><rb>話者</rb><rt>はなして</rt></ruby>の私が東北人であるための<ruby><rb>身贔負</rb><rt>みびいき</rt></ruby>でもなく、<ruby><rb>聴者</rb><rt>ききて</rt></ruby>の皆さん方が東北人であるからお世辞を申し上げるわけでもありませんのでして、私の偽らざる感想なのであります。<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>らば（<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>そんなに東北地方が好きか？）と申されますと、これは理窟ではなく感情なのでありますから<ruby><rb>寔</rb><rt>まこと</rt></ruby>に困るのでありますが、私は何故か、優秀な文芸作品から受けると同じような、熱情的なものや、素朴なものや、思考的なものや、真実なものや、純情的なものなどの、陰影を感じさせられるからであります。明朗とか軽快とか――近頃の流行のモダンとかシックとか――いうようなものは、元より求むべくもありませんが、明朗であるよりも暗鬱である方が、軽快であるよりも鈍重である方が、さらに遙かに芸術的陰影を深めているという観点からいたしましても、東北地方は、日本中のどこよりも、私の気持ちに融合するのであります。

東北地方の地方色が、文芸作品によって紹介されましたのは、極く最近のことでありまして、東北地方を目標としての最も古い文学である<ruby><rb>芭蕉</rb><rt>ばしょう</rt></ruby>の『奥の細道』にいたしましても、僅かに二百四十年ばかり、徳川中期のことであります。それも、あのような紀行記ではあり、芭蕉の主観があまりに勝ち過ぎていて、地方色が出ているとは言い難いのであります。遠く『日本書紀』や『万葉集』や『<ruby><rb>古今集</rb><rt>こきんしゅう</rt></ruby>』などにも、既に東北地方は紹介されてはいるのでありますが、それは記録としてであり、感想としてでありまして、本当に東北地方の地方色の紹介されましたのは、やはり、明治以降というべきであります。

併し、古い時代の伝説や説話などにも、既に東北地方の東北地方らしい雰囲気――いかにも東北地方らしい味わい――というようなものが出ていまして、それが現代文学の上に縦に<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>がっているということは、興味深いことであります。

東北地方のそういう記録、伝記、昔話などのうちで、<ruby><rb>就中</rb><rt>なかんずく</rt></ruby>、黄金に関するものや、産馬に関するものや、馬鹿<ruby><rb>聟</rb><rt>むこ</rt></ruby>に関する話など、現代文学に繋がるもののうちでは最も面白いもののようでありますが、黄金に就いては「<ruby><rb>黄金</rb><rt>こがね</rt></ruby>花咲く<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みちのく</span>の……」というような歌もありますように、昔の人達は、東北地方をば自然金の産地のように思っていたようであります。黄金産出のことを記録してある最も古いものは『<ruby><rb>続</rb><rt>しょく</rt></ruby>日本紀』であろうと思いますが、それによりますと、<ruby><rb>聖武</rb><rt>しょうむ</rt></ruby>天皇の<ruby><rb>天平</rb><rt>てんぴょう</rt></ruby>二十一年の二月、<ruby><rb>百済</rb><rt>くだら</rt></ruby>の王敬福という者が、今の、宮城県遠田郡涌谷村字黄金迫の黄金神社附近から、黄金を<ruby><rb>獲</rb><rt>と</rt></ruby>って朝廷に献じたのが、日本で黄金の発見された最初のようであります。今年から千百八十四年前のことであります。このとき、天皇は大いに嘉尚し給い、幣を奉じて畿内七道の諸社に告げ、……<ruby><rb>尋</rb><rt>つい</rt></ruby>で東大寺に行幸、<ruby><rb>盧舎那仏</rb><rt>るしゃなぶつ</rt></ruby>に礼賽あり、百官の位階を進めて天下に大赦し、……天平二十一年を改めて天平感寶元年となし、……陸奥国の調庸を免ぜらるること三年、小田郡は永免となり、其の年の天下の田租を免ぜられ、獲金に関する民人には位階を授けらる。……とあります。

それから、源平時代になりますと、牛若丸が京都の鞍馬山を出まして平泉に行きますときに、牛若丸を平泉まで<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行ってやったというあの<ruby><rb>金売吉次</rb><rt>かねうりきちじ</rt></ruby>の父親も、宮城県栗原郡高清水附近の産で、高清水近辺から沢山の自然金を持って京都へ<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>ったという伝説があります。即ち、京都の或るお姫さまが、<ruby><rb>清水谷観音</rb><rt>きよみずだにかんのん</rt></ruby>の（汝の夫たるべき男は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みちのく</span>にいる）というお告げで、<ruby><rb>遙々</rb><rt>はるばる</rt></ruby>と東北まで来て見ましたが、そんな男はどこにも見当たりませんし、そのうち<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>を迷って山へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>りますと、炭焼き小屋がありまして、そこの炭焼き男に一夜の宿を乞うたのでありますが、その男が炭俵を編むのに使っている<ruby><rb>帙櫨</rb><rt>ちつろ</rt></ruby>は、黄金の<ruby><rb>塊</rb><rt>かたまり</rt></ruby>だったのであります。そこでお姫さまが（これは黄金と言って貴重なものだ）と申しますと、炭焼き男は（こんなものは裏の山には幾らでもがす）と言って、小屋の裏へ伴れて行ったのでありますが、そこには自然金がごろごろ<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がっていましたので、お姫さまは（この男こそ私の夫たるべき人だ）と考えまして、早速結婚をし、その自然金を馬に積んで京都へ上ったというのであります。そして、黄金を見て、早速結婚をする気になったこの近代的お姫さまから生まれたのが、<ruby><rb>金売吉次</rb><rt>かねうりきちじ</rt></ruby>だというのでありますが、これは単なる伝説のようでありまして、どこまで信じていいかわかりませんけれども、東北地方を金産地としての伝説としては、<ruby><rb>寔</rb><rt>まこと</rt></ruby>に面白い話であります。

産馬の方では、佐々木四郎高綱の、宇治川の先陣のときの<ruby><rb>池月</rb><rt>いけづき</rt></ruby>（生𠷩）の話が最も有名でありますが、池月と並び称されている<ruby><rb>磨墨</rb><rt>するすみ</rt></ruby>もまた、南部<ruby><rb>三戸</rb><rt>さんのへ</rt></ruby>の産だったということであります。或る記録によりますと「源頼朝のとき宇治川先陣に有名な磨墨は三戸の産。生𠷩は七戸上野村より出で、熊谷直美の子小次郎の乗馬<ruby><rb>西樓</rb><rt>せいろう</rt></ruby>は三戸に産す。」とありますが、生𠷩の産地は、宮城県玉造郡一栗村字池月の池月神社附近の方が、本当のようであります。陸奥や出羽から良馬の出たことは、『続日本紀』や『<ruby><rb>類聚三代格</rb><rt>るいじゅうさんだいきゃく</rt></ruby>』などにも見えていますし、とにかく、東北地方から良馬を産出したことは早くから知られていまして、藤原俊成なども『長秋詠藻』の中で「みちのくのあらのの牧の駒だにもとればとられてなれ行くものを」と詠んでいます。

昔話とか馬鹿聟話とかいうようなものは、風俗学や民俗学の方により多くの<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>がりを持ちまして、文学の方にはあまり<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来ていないようであります。柳田国男氏などは、特殊な研究家でありまして、郷土文芸の発生を、それらの昔話の中に見出そうとしているようであります。<ruby><rb>仍</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち、その昔話こそ、郷土に於ける唯一の文学であるという見方であります。

東北地方の地方色が、曲がりなりにも、文学の上に現れましたのは、やはり、芭蕉の『奥の細道』に於いてのそれを最初のものとしなければなりますまい。

「五月朔日の事也。其夜飯塚にとまる。温泉あれば湯に入て宿をかるに、土坐に莚を敷てあやしき貧家也。灯もなければ、ゐろりの火かげに寐所をまうけて臥す。夜に入りて、雷鳴、雨しきりに降て、臥る上よりもり、<ruby><rb>蚤蚊</rb><rt>のみか</rt></ruby>にせゝられて眠らず持病さへおこりて消入斗になん。」

これが芭蕉の眼に映じた飯塚辺の農家――たぶん農家だろうと思いますが――の有り様であります。そのような、貧しい農家の有り様は、今にして、東北地方の暗鬱な空気が感じられます。そのような暗鬱な生活の中にある生活は、真山青果氏も『南小泉村』の中で、如実に言っています。

「百姓ほど<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みじめ</span>なものは無い。取分け奥州の小百姓はそれが<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>い、<ruby><rb>襤褸</rb><rt>ぼろ</rt></ruby>を着て<ruby><rb>糅飯</rb><rt>かてめし</rt></ruby>を食つて、子供ばかり産んで居る。丁度、その壁土のやうに泥黒い、汚い、光ない生涯を送つて居る。地を這ふ<ruby><rb>爬虫</rb><rt>むし</rt></ruby>の一生、<ruby><rb>塵埃</rb><rt>ごみ</rt></ruby>を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めて生きてゐるのにも<ruby><rb>譬</rb><rt>たと</rt></ruby>ふれば譬へられる。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">からだ</span>は立つて歩いても、心は多く地を這つて居る。」

青果はこう言っているのであります。私もこれには同感であります。同時にまた、東北地方の農家の<ruby><rb>炉端</rb><rt>ろばた</rt></ruby>を歌ってよくその地方色を出している詩として、佐伯郁郎君の『故里の爐辺を想ふ』をも見逃すことは出来ない。

「故里の爐辺を想ふと

心が明るくなる。

呑助の夫を助けて来た老婆の手

長い間土を掘つて来た老爺の手

多数の家族を抱へて苦闘してゐる若者の手

ずんぐりして　荒れてはゐるがみずみずしい娘の手、

取入れも済んで

木枯が吹く頃になると

今まで離れ離れであつたそれ等の手が一緒に爐辺に集まるのだ、

大根漬を噛み

渋茶を啜つて

<ruby><rb>作物</rb><rt>さく</rt></ruby>の出来不出来

陽気の加減を語り合ひ

ぼんぼんと燃える焚火にあつたまるのだ、

喜びも　悲しみも

みんなそこで語り合ひ

みんなそこから生れるのだ、

故里の爐辺を想ふと心が明るくなる。」

佐伯郁郎君はそう歌っています。これは東北地方特有の風景であります。東北独特の地方色であります。

芭蕉の『奥の細道』の中に松島の風光が詳しく記されてあります。

「抑ことふりにたれと　松嶋は扶桑第一の好風にして　凡洞庭西湖を<ruby><rb>恥</rb><rt>はじ</rt></ruby>ず　東南より海を入て　江の中三里　逝江の潮をたたふ　嶋々の数を盡して　<ruby><rb>欹</rb><rt>そばたつ</rt></ruby>ものは天を指ふすものは波に匍匐　あるは二重にかさなり　三重に畳みて　左にわかれ　右につらなる　負るあり　抱るあり　兒孫愛すかことし　松の緑こまやかに枝葉汐風に吹たはめて　屈曲をのつからためたるかことし　其気色<ruby><rb>窅</rb><rt>よう</rt></ruby>然として　美人の顔を粧ふ　ちはや振神のむかし　大山すみのなせるわさにや　造化の天工　いつれの人か筆をふるひ詞を盡さむ」

芭蕉はこう記してありますが、これは、単にその風景の形態だけを描いているもので、そこには何等の色彩――地方色――をも出ていないように思います。私はむしろ島崎藤村の『松島だより』を執りたく思います。島崎藤村は、『松島だより』の中で、松島を描くと同時に、東北地方の地勢のことにも触れていますが、これなどは、その地方色をよく描き出しているということが出来ましょう。

島崎藤村『松島だより』

「東北の地勢は広濶なる原野なり。山嶽の偉大なるもの相比肩して互に馳せ互に没するは中国の<ruby><rb>奇葩</rb><rt>きは</rt></ruby>、東北の山脉はしからず、寧ろ広大なる丘陵の原野を走るが如き観をなせり。山もとより少なからず、しかも変幻出没して雲表に豪然たる偉容を作れるは少なし。中国の山は立てり、東北の山は横はれり、<ruby><rb>紫苑</rb><rt>しおん</rt></ruby>の花萩の花女郎花もしくは秋草野花をもてかざりとなせる宮城野の一望千里雲烟の間に限り無きが如きは、独り東北の地勢にして中国に見るべからざるの広野なり。この地勢に作られこの原野にさそはれて、吾国第一勝の松島は成れり。」

藤村の眼は鋭いと思います。

仙台を取り入れているものでは徳富健次郎の『<ruby><rb>寄生木</rb><rt>やどりぎ</rt></ruby>』があります。

徳富健次郎『寄生木』

「出れば停車場の広小路。人の声、車の<ruby><rb>響</rb><rt>おと</rt></ruby>、電燈、<ruby><rb>洋燈</rb><rt>らんぷ</rt></ruby>の光、賑やかで、眩しくて、美しくて、良平は<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>を潰した。眼前には<ruby><rb>巍々堂々</rb><rt>ぎぎどうどう</rt></ruby>たる洋館、仙台ホテル、陸奥ホテル、和風では針久、大泉、其他数知らぬ旅館がある。懐淋しい良平は、毛布包をかゝへて、芒然として広小路に立つて居た。「御得意の阪本でござい。毎度御引立難有う御座りやす。<ruby><rb>奈何</rb><rt>いかが</rt></ruby>ですか旦那、大分夜も遅うござりますぞ。<ruby><rb>精々</rb><rt>せいぜい</rt></ruby>勉強して一泊二十五銭、いかゞでがす」宿引が良平の顔を覗き込むだ。二十五銭は案外<ruby><rb>廉</rb><rt>やす</rt></ruby>いと思つて居ると、宿引は良平の毛布包を引たくつて、卵提燈片手に『お客様』と店先に駈け込んだ。」

これは、徳富蘆花の『寄生木』の一節でありますから、発表されたのは明治四十二年でありますが、これを描写したのは、作中の主人公篠原良平が仙台へ飛び出して来たときのことでありまして、篠原良平が少年の眼で見たときの仙台だといたしますと、明治二十年代の有り様でありますから、今の仙台は、<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>く変わってしまっていますが、それでも、四十年前の仙台を想像させるものは十分あるように思います。

岩手県の渋民村辺を描いているものに石川啄木の『<ruby><rb>天鵞絨</rb><rt>びろうど</rt></ruby>』があります。

石川啄木『天鵞絨』

「村といつても<ruby><rb>狭</rb><rt>せま</rt></ruby>いもの。盛岡から青森へ、北上川に<ruby><rb>縺</rb><rt>もつ</rt></ruby>れて<ruby><rb>逶迤</rb><rt>うねうね</rt></ruby>と北に走つた、坦々たる其一等道路（と村人が呼ぶ）の、五六町並木の松が断絶えて、両側から傾き合つた茅葺勝の家並の数が、唯九十何戸しか無いのである。村役場と駐在所が<ruby><rb>中央</rb><rt>なか</rt></ruby>程に向合つてゐて、役場の隣が作右衛門店、萬荒物から酢醤油石油<ruby><rb>莨</rb><rt>たばこ</rt></ruby>、罎詰の酒もあれば、前掛半襟にする<ruby><rb>布帛</rb><rt>きれ</rt></ruby>もある。箸で<ruby><rb>断</rb><rt>ちぎ</rt></ruby>れぬ程堅い豆腐も売る。其隣の郵便局には、此村に唯一つの軒燈がついてゐるけれども、毎晩<ruby><rb>黙火</rb><rt>とも</rt></ruby>る譯ではない。」

この一節の中で、最も興味を引くのは、役場の隣の店の「……箸で<ruby><rb>断</rb><rt>ちぎ</rt></ruby>れぬ程堅い豆腐も売る……」というところであります。このような部落の風景や、このような居酒屋は、他の地方にも無いとは言い難いのでありますが、堅い豆腐は東北の名物ともいうべき独特のものであります。

東北の冬を描いて雪を取り入れない人は殆んどいないようです。

久米正雄『雪の驛路』

「雪を被つた、そして処々眞黒な屋根々々が、不揃ひに並んだＳ町の向うには、狭い町幅をすぐ越えて、一面の田野が処々に杜を黒ませたり、畔のやうな区畫を見せたりして、広く続いてゐた。そして其盡きるあたりに、黒い帯を曳いて、可なり大きな川が流れてゐた。それから先きは丘上りに、段々高くなつて行つて、其向うを劃つてゐるのは、襞の多い屏風のやうな連山だつた。その山々の頂は斜に洩れた日を受けて、寒さうにきらきら光つてゐた。」

これは久米正雄氏の『雪の驛路』という小説の中の一節であります。東北には相違ないのですが、果たしてどこかということは<ruby><rb>判然</rb><rt>はっきり</rt></ruby>しませんけれども、私は福島地方だと思います。地勢から申しましても、家並みや杜の様子からいたしましても、東北独特の地方色を出しています。いかにも東北の冬を感じさせるものがあります。

白鳥省吾氏にもまた『雪の馬上』という東北の積雪の日を歌った詩があります。

白鳥省吾『雪の馬上』

「大きいマントを身に纒ひ

雪の馬上に跨れば

<ruby><rb>僕</rb><rt>しもべ</rt></ruby>は曳きて門を出づ

二尺に餘る堅き雪

霏々としてまた雪が降る。

車通らず人行かず

見渡す野山一色に

雪を飾りて音もなく

空に綾織る雪の舞

病を得たる身にかなし。

停車場までは路三里

その半ばにて雪霽れぬ

眩ゆき聖き<ruby><rb>荘</rb><rt>おごそ</rt></ruby>かの

雪の世界をざくざくと

歩む馬こそわが身こそ

現世ならぬ尊さよ。」

東北の積雪の感じは出ていると思います。

秋田地方の地方色は、金子洋文氏の『鴎』とか『赤い湖』とかいうような短篇の中によく出て来ますが、私は『牝鶏』という戯曲の背景の中に、如実にそれを見ることが出来ると思います。

金子洋文『牝鶏』

「春の黄昏近く、

東北にある湖畔の百姓家。

春の黄昏近く、開けつぱなした広い土間から美しい八郎潟の景色がみられる。

謙吉が土間に轉つてゐる木<ruby><rb>臼</rb><rt>うす</rt></ruby>に腰かけて、湖の方に眼をやりながら、ぼんやり考へこんでゐる。近くにお銀が立つてゐる。

間――。

遠く湖面を帆かけた小舟がのんびり通りすぎる。

蛙の声。」

これは『牝鶏』の冒頭の説明でありまして、これだけでは地方色も何もありませんが、舞台の背景となりまして私達の眼の前に<ruby><rb>展</rb><rt>ひら</rt></ruby>けますと、私達はそこから<ruby><rb>判然</rb><rt>はっきり</rt></ruby>とその地方色を感じさせられます。

金子洋文『鴎』

「<ruby><rb>鯡</rb><rt>にしん</rt></ruby>船が河に十数艘<ruby><rb>入港</rb><rt>はい</rt></ruby>つた、鯡がピラミツド型に波止場の各所に積みあげられた。

鴎が海を越えて何処からとなく集つて来た、そして低い空をきやんきやん鳴きながら飛びまはつた。その下で古川町の子供等が鯡を盗んだ。

日曜で好い天気であつた、風が相変らず冷たかつたが、柳小路の奥の土藏が三つ額をあつめてゐる空地は、雪を吸ひこんだ新しい土がぽかついて、いいにほひがしてゐた。

子供等は一人もしくじらなかつた。前掛の中にそれぞれ四疋の鯡をしのばせて帰つて来た。そこで空き地に遊んでゐた鳩を追ひ拂つて、そこへ藁莚を敷いて皆が坐ることにした。

三郎といふ女のやうにきれいな子が自家の店棚から清酒の四合壜を一本盗んで来た。それから廻船附船屋の吉太郎が、銅貨箱から盗んで、赤い下帯へかくしておいた二銭銅貨で、豆腐と葱を買つた、醤油や、七輪や鍋は空地に一番近い豊公の家から持ち運んで来た。」

これも金子洋文氏の『鴎』という短篇の一節で、ここには、土崎港辺の海岸の地方色が、<ruby><rb>判然</rb><rt>はっきり</rt></ruby>と出ています。

約束の三十分が参りましたから、私の「文学に現れたる東北地方の地方色」は、これぐらいにいたして置きます。

――昭和七年（一九三二年）八月二十八日放送――