Soranoha

春鳥集

しゅんちょうしゅう

蒲原 有明

櫻をばなど寢處にはせぬぞ、

花にねぬ春の鳥の心よ。

花にねぬこれもたぐひか鼠の巣。

ばせを

自序

この集には前集『獨絃哀歌』に續ぎて、三十六年の夏より今年に至るまでの諸作を載せたり。

『夏まつり』は最も舊くして、『五月靄』は最近の作なり。

『鏽斧』にはこたび引説數行を添へて表面の筋を略敍したり。われはこれを公にしたる當時、世人の看て以て頗る解し難しと爲したるを意外に感じき。引説の如きは蛇足のみ。またこの引説は文字以外の義に及ぼさず、自讃に陷らむとするを憂ふればなり。

*    *    *

詩形の研究は或は世の非議を免かれざらむ。既に自然及人生に對する感觸結想に於て曩日と異るものあらば、そが表現に新なる方式を要するは必然の勢なるべし。夏漸く近づきて春衣を棄てむとするなり。然るに舊慣ははやくわが胸中にありて、この新に就かむとするを厭へり。革新の一面に急激の流れあるは、この染心を絶たむとする努力の遽に外に逸れて出でたるなり。かの音節、格調、措辭、造語の新意に適はむことを求むると共に、邦語の制約を寛うして近代の幽致を寓せ易からしめむとするは、詢に已み難きに出づ。これあるが爲に晦澁の譏を受くるは素よりわが甘んずるところなり。

視聽等の諸官能は常に鮮かならざるべからず、生意を保たざるべからず。然らずば胸臆沈滯して、補綴の外、踏襲の外、あるは激勵呼號の外、遂に文學なからむとす。

「自然」を識るは「我」を識るなり。譬へば「自然」は豹の斑にして、「我」は豹の瞳子の如きか。「自然」は死豹の皮にあらざれば徒らに讌席に敷き難く、「我」はまた冷然たる他が眼にあらざれば決して空漠の見を容れず。「われ」に生き「自然」に輝きて、一箇の靈豹は詩天の苑に入らむとするなり。

視聽等はまた相交錯して、近代人の情念に雜り、ここに銀光の音あり、ここに嚠喨の色あり。

心眼といひ心耳といふと雖も、われ等は靈の香味をも嗅味の諸官に感ずることあり。嗅味を稱して卑官といふは官能の痛切を知らざるものの言ならむか。

時としては諸官能倦じ眠りて、ひとり千歳を廢墟に埋もれし古銅の花瓶の青緑紺碧に匂ふが如きを覺ゆることあり。或は「朱を看て碧と成し」て美を識ることあり。

一花を辨ぜずして詩を作るは謬れり。情熱に執して愛の靜光を愛せざるも亦謬れり。

これをわが文學に見るに、平安朝の女流に清少あり、新たに享けたる感觸を寫すに精しくして幽趣を極む。かの五月の山里をありくに澤水のいと青く見えわたるを敍したる筆のすゑに、『蓬の車におしひしがれたるが輪のまひたちたるに近うかかへたる香もいとをかし。』といへる如きは、清新のにほひ長しへに朽ちざるものなり。元祿期には芭蕉出でて、隻句に玄致を寓せ、凡を錬りて靈を得たり。わが文學中最も象徴的なるもの。白罌粟は時雨の花にして、鴨の聲ほのかに白く、亡母の白髮を拜しては涙ぞ熱き秋の霜を悲しみ、或は椎の花の心をたづねよといひ、或は花のあたりのあすならふを指す。「古池」に禪意ありといひ、「木槿」に教戒ありと解するは、珠玉を以て魚目と混ずるなり。

このごろ文壇に散文詩の目あり、その作るところのもの、多くは散漫なる美文に過ぎず。ボドレエル、マラルメ等の手に成りたるは果してかくの如きものか。思ふに俳文の上乘なるもののうちには、却てこの散文詩に値するものありて、かの素堂の『簔蟲の説』の類、蓋しこれなるべし。

わが文學は溌溂の氣を失はずして、此等古文古句の殘れるあり。われ等の無爲にして陳腐のうちに噞喁するをゆるさず。

物徂徠曰く、『萬古神奇悉在陳腐中、天不能舍鶯花而別爲春』と言は奇警なれども、こは自然の富を以て匱しとするに似たり。

また曰く、『其爲人拗、不師古、專而自用、喜快心、惡醞釀、喜放心、惡拘束……天生此一種人物、以轉盛趍衰、破醇就漓』と、莊重の辭、晩季の風詢に此の如きもありしならむ。然れども今日の評家、或は識者にして、この言を爲して、新に境地を拓かむとするものに擬するあらば奈何。そはたまたま隆運の萌芽を解せざるに因る。隆運は將に雲蒸飛騰せむとす。われ等は幸にこの日に會ひて、却て舊見を持する舊人の多きをあやしむものなり。

明治三十八年五月著者識

日のおちぼ

日の落穗おちぼ、月のしたたり、

殘りたる、誰たれか味ひ、

こぼれたる、誰かひろひし、

かくて世は過ぎてもゆくか。

あなあはれ、日の階段きざはしを、

月の宮――にほひの奧を、

かくて將はた蹈めりといふか、

たはやすく誰か答へむ。

過ぎ去りて、われ人知らぬ

束の間や、そのひまびまは、

光をば闇に刻みて

音おともなく滅えてはゆけど、

やしなひのこれやその露、

美稻うましねのたねにこそあれ、――

そを棄てて運命さだめの啓示さとし、

星領しらす鑰かぎを得むとか。

えしれざる刹那せつなのゆくへ

いづこぞと誰か定めむ、

犧牲にへの身を淵にしづめて

いかばかりたづねわぶとも、

底ふかく黒暗くらやみとざし、

ひとつ火びの影にも遇あはじ。

痛いたきかな、これをおもへば

古夢ふるゆめの痍きずこそ消えね、

永劫とことはよ、脊に負ふつばさ、

彩羽あやはもてしばしは掩おほへ、

新しきいのちのほとり、

あふれちる雫むすばむ。

靜かにさめしたましひの

靜かにさめしたましひの

一日ひとひは花とにほひ咲く、

ゆふべにねむる花なれば

贈らむすべはなけれども、

わが戀ふる人、君をこそ、

君が眼をこそ慕ひ咲け。

いかにひらきてたましひの

花となりけむ知らねども、

この曉の水を出で、

一日ひとひのすがたゆるされて、

一夜ひとよに消ゆるこの花の

さだめもすでにつたなしや。

高き臺うてなのあらばあれ、

光みがける欄干おばしまに

垂れてかからむすべもなく、

底ひもわかぬ青淵あをぶちの

浪に流るるひもすがら、

君にむかひて咲けるのみ。

靜かにひらく花なれど

花の頸うなじは傾きぬ、

夕ばえ小島巖いはほかげ

彩帆あやほあげゆく鳥船とりふねの

すがたはあらで、さびしくも

ゆらぎてたてる花の性さが。

いにしへ一代ひとよ、后土おほつちの

いまだ焔と燃えし時、

火の海原うなばらの母の貝、

殼からの双葉もろはに晶玉しやうぎよくを

いつか産うみしと人知らぬ

それにも似たるたましひの花。

朝なり

朝なり、やがて濁川にごりかは

ぬるくにほひて、夜よるの胞えを

ながすに似たり。しら壁に――

いちばの河岸かしの並なみ藏ぐらの――

朝なり、濕める川の靄。

川の面もすでに融とけて、しろく、

たゆたにゆらぐ壁のかげ、

あかりぬ、暗きみなぞこも。――

大川おほかはがよひさす潮しほの

ちからさかおすにごりみづ。

流るゝよ、ああ、瓜うりの皮、

核子さなご、塵わら。――さかみづき

いきふきむすか、靄はまた

をりをりふかき香かをとざし、

消えては青く朽ちゆけり。

こは泥ひぢばめる橋ばしら

水ぎはほそり、こはふたり、――

花か、草びら、――歌女うたひめの

あせしすがたや、きしきしと

わたれば嘆く橋の板。

いまはのいぶきいとせめて、

饐すえてなよめく泥どろがはの

靄はあしたのおくつきに

冷ひえつつゆきぬ。――鴎鳥かもめどり

あげしほ趁おひて、はや食あさる。

濁にごれど水はくちばみの

あやにうごめき、緑みどり練ねり、

瑠璃の端はひかり、碧あをよどみ、

かくてくれなゐ、――はしためは

たてり、揚場あげばに――女めの帶や。

青ものぐるま、いくつ、――はた、

かせぎの人ら、――ものごひの

空手むなで、――荷足にたりのたぶたぶや、

艫ともに竿さをおし、舵かぢとりて、

舳へに歌を曳ひく船ふなをとこ。

朝なり、影は色めきて、

かくて日もさせにごり川、――

朝なり、すでにかがやきぬ、

市ばの河岸かしの並なみぐらの

白壁しらかべ――これやわが胸か。

遺曲

小引――

こは昔春のさかりの

廢すたれゆくあはれをこめて、

百合姫の夏のみかどに

傳へたる遺曲のひとつ。

嚴いつくしや、若草野邊を

稚國わかぐにとしろしめす君、

御冠みかむりに黄金こがねを鐫ゑりて、

御座みくらをばみどりに裝よそふ。

そを見れば壽いのちも虧かけず、

日も朽ちぬ驕樂けうらくの宮。

后きさいひめ、――名は須美禮姫すみれひめ、

花姫の中にもわけて、

うるはしく、すぐれて清き

そのすがた。嗚呼そのかみや、

いかなれば折ふしごとの

移りゆく夢の青淵あをぶち、

その底にさかりのかげを

あともなく渦うづまきいるる。

倒れにき、春野はるの若ぐに、

大王おほきみの重き冠も

しらみゆく星とあらけぬ、

姫が身もいつ荒土あらつちと

いづくにか埋もれはてし。

殘りたる瑠璃るりの礎いしずゑ、

瑯玕らうかんの柱も、日々に、

碎け墜ち、墜ちて聲なき

荊棘路おどろみち、今は夏なる

日のひかりさしそひぬれど、

『あな、暗し、ものう』といひて、

焔なき燭しよくを手に執とり、

うらぶれて迷ふ大羽子おほばこ、

かなたには唇あせて

にほひなき姿はづるや、

衰へてたどる袁杼理をどり子、

そのかみはともに樂部がくぶの

よろこびにあくがれし友、――

歌うたひ、琴彈ひき、舞ひて、

大宮の春を頌たたへき。

『柳かげくづをれはてて、

おもひでも、今か、荒すさまむ。

ほのかには聞けど、南に

百合姫の朝廷みかどはありと、――

ああ、されど、つかれたる身に

行く路のなどしも遠き。

箜篌くごとりて、夏のしらべを

古ふりにたる指のちからの

さはやかにいかで、奏かなでむ。』――

悲しみに堪たへぬものから、

伏しまろび、胸乳むなぢおさへて、

すすり泣く、あはれ、袁杼理子。

大羽子よ、いかにと見れば

愁ひある眼まなざししめり、

『天津日あまつひも盲めしひたるらし、

往いにし世の姿を、花の

欄干おばしまを、などやさながら、

まのあたり映うつし出さぬ。

濃紫こむらさきゆかりの譜ふをば

いとせめて闇路やみぢながらに

歌はまし、いざと思へど、

あやなくに玉の緒みだる。

今にして眞夏まなつの臺うてな

夢にいり、こころに染しむ』と、

羽翼つばさなき大羽子の身は

たそがるる狹霧さぎり路岐ちまたを

頸うなじ垂れ、まどひかなしみ、

また更に小夜さよをおどろき、

『曉あかつきをいづこの野べに

むかへむ』と大羽子いへば、

袁杼理子は『この世の空そらに

東雲しののめをふたたび見じ』と

聲あはせ、手を執とりゆきぬ。

たちまちに夜よみちおちいり、

窈冥門かぐろどのとざしに遇あへり。

をののけるこころしづめて

聳そびえたつ扉とびらたさぐり、

『百合姫の音おとに聞きつる

夏城なつしろはここか』と問ひて

もろ聲にあやしみあへど、

こだまさへ傳へぬ眞やみ。

寂寞じやくまくや、これをたとへば

影青き月のむくろを

かき載せし柩車ひつぎぐるまの

水のごとめぐりたゆたひ、

浮ぶとも、沈むともなく

消えてゆくそれにも似たり。

ややあれば黒鐵くろがねの戸の

隙ひますきて物こそ見ゆれ、

立ちつくす女人をみなご二人ふたり

細腕ほそかひなあげて、此時

そぞろかに、誘さそはれよれば、

こは昔、宴樂うたげのゆふべ、

霞焚たきし瑪瑙の香爐かうろ。

ややあれば影はかがやき、

あふぎ見るそのまじろぎの

束のまを、にほひ浮べる

腓こむらつき清げの姫や、

華乳はなちぶさ胸にやすらひ、

弱肩よわがたの膚はだへ眞白く

日の光ここにあつまり、

香かをふくむ唇ふるへ、

まなざしはをぐらき森に

豹へうの斑ふの射るにも似たる――

神々かうがうし、その立姿たちすがた。

『百合姫か、夏のみかどの

君か』とぞ二人よりそひ、

姫が踏む土にくちづけ、

つかれたる身をもわすれぬ。

海ちかき山あひの風

吹きおこるおとなひおぼえ、

歌のこゑ、それかと聞ゆ、――

『ますらをよ、とく漕ぎかへれ、

海の外そと、小島をじまの眞洞まほら、

君をひく白波の手の

なきにしもあらぬこの世や。』

潮うしほうつ櫂かいのひまびま

益荒夫ますらをはこゑうちあげて、

『少女子よ、しのびて待て』と

答ふらむ遠音とほねを聞きて、

大羽子は魂もあくがれ、

袁杼理子は夢かとまどひ、

眼めも眩くれて僵たふれ寄る身の

闇の戸にふるる時しも、

嗚呼、ここに幻影まぼろしたえて、

寂寞じやくまくの關のとざしは

雷いかづちの音おとにひらきぬ。

『黄泉國よもつぐに、奈落ならくの大城おほき、――

黄泉王よもつぎみいまし等召す』と

門守かどもりは責めとどろかし、

かくてこそ二つの影は

とこしへに沈みゆきけれ、

歌もなく、なげきもあらず、

春もなく、夏もなき世に。

五月靄

ひとつびとつに君も見よ

菖蒲さうぶの葉ごと、葉のさきに

露ありて、すがりゆらめきぬ。

(ああ、くるる戸どを觸ふるる音おと。)

その露のたまひとつびとつ

燦きらめきぬ、はたつぶたちて

浮藻うきもには添ふ水の泡。

(くるるの音はきしめきぬ。)

水はよどみて、五月靄さつきもや

かをれる朝を、魂と身と、――

身やわれ、魂や君か、そも。

(くるるはひびく、なめらかに。)

水を忘れし水草の

花かも君は、――げにしばし

戀をはなれし戀の花。

(見よ、くるる戸どのしろがねを。)

われからならぬ手たにぎりや、――

豹へうの斑ふをこそめでにしか、

誰たがかきのせし豹の肩。

(くるるをめぐる火のしらべ。)

あやしの森の濃く青き

常蔭とかげか、あらず、五月靄さつきもや

褪あせゆく水際みぎはを君とわれ。

(聞きね、くるるのくろがねを。)

菖蒲さうぶの葉ごと露ありき、――

わが名をも、いざ、君も問へ、

君が眼め、あはれ、君が名よ。

(ああ、くるる戸どの消ゆる音おと。)

『今宵のあるじ』

銘器『今宵のあるじ』は友の家に珍藏する古銅の花瓶なり

古代こだいなる花がめ、

花のつゆしづきて、

みどりなる古銅こどうの

さびや、いとうるはし。

たとふれば寂寞しじまの

谿たにのおく、垂れてぞ

さきぬべき夕月ゆふづき、

その青き一瓣ひとよか。

こだいなる花がめ、

花にこそ四季しきあれ、

人にこそさかりの

榮はえ、くらきおとろへ。

人の世は、ああ、これ

『宿命すくめい』の花がめ、

ここにしてしをるる

にほひ、日にまた夜よに。

よろこびの、愁ひの

雫しづくしたたり添ひ、

そのおもに殘せる

痕あとをだに、見よ、いざ。

いと古き花がめ、

花の魂たまやどりて

誰たれを招をぐ『今宵の

あるじ』、――ああ、まらうど。

わがおもひ

わがおもひ――垢膩くにか、かたゐか、

土つちの灰はひ、十日とをかひでりの

ほこり路みち、いやしき民の

蒸むしぐるし衢ちまた日中ひなかを、

喉のぞ渇かわき、くろぶしやけて

よろめけるさまにも似たり。

たまたまはかたへに避よきて、

『信しん』の井ゐの龍頭りうづより、なほ、

噴ふく水にうるほひ享うけて

跣足すあし、踵くびす、洗ひ淨きよむれ。――

かかる時、あはれ、ふたたび、

おぼゆるは小ちさきわが身の

ちからづき、生せいの火のまた

よみがへり、直路ただぢにたちて、

やや支ささへ、ささふるきほひ。

おぼゆるは、さもあれ、更に

偉おほいなる呵責かしやくの力、――

わが脊せ捬うつ翅つばさかくやく、

その羽はねは石絨いしわたなして、

その骨に刻きざむ燧石すゐせき、

しづやかに瞳ひとみをかへす

高天たかあめの一いちの日の鳥。

かくてわが命いのちは増しぬ、

地ちのけがれ、蠍さそりもなにぞ。――

たとふれば、こはこれひくき

燈明とうみやうの油はつはつ、

ひとしづく焔と照れば

その影を、永劫とはに、智惠ちゑ慈悲じひ

無量光むりやうくわう護まもる不思議ふしぎの

莊嚴さうごんや。――そのみすくひに

あふぎ見れば、さすがに天あめは

強つよし、烈はげし、あまりに眩はゆし、

眼めをとぢて光を吸すへば

醉ゑひごこち、よろしき靈たまの

みたみらが讃頌さんしようのこゑ

つらなりて起おこるを聞くよ。

ここにてはなよびの花の

しぼむらむ憂ひなり、はた

つかれなり、うまし盞さかづき

もつ手よりすべらむ日なり、

ただ賜たまへ、眞夏まなつ麻耶姫まやひめ、

無憂樹むいうじゆの枝の一葉ひとはを、

光明くわうみやうの途みちにかざして

さらば、今、慣れぬさかひに。

銀杏樹

なべての樹にまさる

銀杏樹いてふよ、くるほしき

北風きたかぜ葉をふるへ、

汝なが枝えださすや、唯これ北にのみ。

銀杏樹いてふは北を壓おす

南の砦とりで。――ああ、

なべての樹きのなかに

今の日いやしめる往いにし代よのさま。

なよびは花むろに、

弱きは盡きて、ここ

小ちさきはひしめける

さやぎを知るや、いさ、汝なが天あまそそり。

銀杏樹いてふよ、(ときめきぬ

わが胸。)あぶら火びの

くゆれる、そを嘲あざみ、

ひとりか蝋らふの香かの焔かかぐる。

劫初ごふしよの浪に、いと

けだかき大洋わたづみの

枝より、貝の葉の

碎けしそれか、汝なが落葉おちばのゆくへ。

思へばしづかなり

散ちるとき、立てるとき、

思へば汝なが幹みきは

かの跡あと世にたちし巨象きよざうのねぶり。

汝なが身は汝なが設まけし

おくつき、復また活いきて、

汝なが日に甦よみがへる

眞夏まなつを白鵠びやくこふの歌かなしまむ。

みなといり

浪喘あへぐ灣いりうみなかば

萎なゆる帆のふかきはためき、

ものうかるさまや、大船おほふね、

ちからなく翅つばさ垂れぬる。

常夏とこなつの小島をじまを離かれて、

いく波折なをり、いく日、わたづみ、――

水手かこはいま眼まなこをあげぬ、

さがあしきこの港みなといり。

うるはしき積つみじろ――眞だま、

奇鳥くしどりの羽はね、あるはまた

香かにたかき果實このみ、びやくだん――

いやさらに、かくてものうげ。

天人てんにんの食じき、つらき世に、――

はたくらきこの日よそほひ

かざらむの命いのちのふねや、――

眞帆ぞ、ああ、喘ぎはためく。

底にごる江えの波暮れて

澪みをびきのこゑあをじろし、

黒曜こくえうの石をみがける

あだ矢こそ飛ばめ、この時。

もたらしし光けおされ、

わきがたし眞帆と水手かことを、

いづこにか泊はてつる船ぞ、

まばゆかるま闇のおくが。

繋縛

繋縛いましめ人を責むとか、黒鐵くろがねをも

黄金こがねと耀かがやかしなば、その鎖くさりに、

かの天あめ走る宮路みやぢの星のごとく、

つながれ行きてぞ妙音よきね世をばふるふ。

身肉しんにく愛をさへぎる白埴しらはにとか、

ああ、また罪の芽やどす汚穢けがれか、そは、――

清きを、わかき熱きを盛もりなす時、

靈れいの手これ將た讃ほむる日の高杯たかつき。

かかる世、かかる身をこそ、われ等二人ふたり、

再び保たもちがたしと樂しむなれ。

大華おほはな生羽いくはたまたま肩よりぬき、

まことや、君がかへたる口づけには

岩根いはねに凝こりて埋みしわれ玉髓ぎよくずゐ

光明ひかりにいつしか融とけて流れ出でぬ。

これに充てむ

素燒すやきの、ああわが命いのち、輕き小甕をがめ、

誰たが手か轉まろがしおける、想ひ見れば

古ふりし代よ埴安姫はにやすひめが手たすさびより、

夏の日、一日ひとひ、南の山そばにて

製つくれる埴瓮はにべの遺物かたみ――それかあらぬ。

また見る、姫が小指をゆびの痕あと、花うづ、

新たにきのふ享うけたる戀のごとく

かがやき面おもてに浮び透すきただよふ。

歡樂よろこび今なほあらばこれに充みてむ、――

八千歳やちとせすでに往ゆきしか、星月夜の

宵よひの間ま短かき宴うたげすぎ去りしか、

姫神かつては嘗なめしかの釀酒かみざけ、

その香かの高きに、あはれ、この命いのちの、

(空あだなり。)かくて渇かわきて缺かけもやする。

秋

夕暮『秋』はしばしがひま、やさしき

眼めをあげ、微笑ゑみさへ浮べ、やすらふとき、

鴿はとあり、めぐし、かたへの水盤すゐばんより

玉水たまみづをりをり羽はうつ、いとかすかに。

あな、姫、――階段きざはし、石の夢驚き

にほふや――裾ふみたがへ支ささふるとて

手てを解とくひまを、緒琴をごとの面おもより、見よ、

異形いぎやうの象かたこそ照らせ、花のななつ。

おぼゆるこの思ひをば、人には、今、

いかにか説きもつくさむ。雲やうやう

黄金こがねにあかりぬ、花柏さはらこだちのうへ

ただよふ姫が歌ごゑ。風あふぎて

繁葉しげはのしづく墜おつれば、青淵あをぶちなす

大地おほつち虹の環わ染めてゆらぎ出でぬ。

樂しや、さあれ

今日けふこそいと樂しけれ、君を得ては

わが眼めも、げにみなづきの黄きなる石と

やけにしものを、うるほひ充みちたらへり、

げによろこびなり、君が胸のにほひ。

夢さへ翅つばさたたみてつつましくも

青浪あをなみ花さく岸にたたずむとき、

かがやく希望のぞみの海や、ほたて貝の

帆あげて沖にそひゆく二人ふたりならむ。

樂しや、さあれうれたし、葬はふりのをり

火ともす蝋らふの香かくゆり、あわただしく

鐃鈸ねうはちさそふ。――今こそ告ぐれ君に、

きのふの『ねたみ』は亡うせぬ、遺骸なきがらをば

送りし『愛』は涙の友なり、ああ、

黒衣こくえを、見よ、まとひては僧そうのつとめ。

沙門『不淨』

『おもひ』は經へつや荊棘いばらの路みちを、今し

乾かわける土に埋れてめしひぬれど、

ただ聞く、凶まがの沼水ぬまみづ缺かけかたぶき、

をぐらきまむしの谿間たにまたぎちゆきて

ひしめき溢るるさやぎ、――將はたまた聞く、

あだ人きほへる夜よるの森かげより

篝かがりの火枝ほえだ啄ついばみ滅しめし去ると

舞ひ來こし天あめの眞鳥まとりの悲しきこゑ。――

かくしも聞くと、わが身にあやし『おもひ』

やどりて眠り、埋れて耳たつれば、

惱みてわれは扉とを守もる沙門『不淨ふじやう』、

いつける愛の金堂こんどうここに壞つひえ、

ねたみや、悔くいや、丹にの雨、瑠璃るりのあらし、

忽ち燃えそふ戀のこれや阿蘭若あらんにや。

君にささぐ

消えゆく影あり、しばし日の高琴たかごと、

まだきに靈たまをしおくる音ねをなたてそ、

木このもと微草をぐさに、渚なぎさなみのはなに、

わが世に、ふたたび、姿さそはまほし。

さはあれ皐月さつきさかりの裝よそほひ棄すて

天あめゆく影の手弱女たをやめ、これをかぎり、

まことの戀の宮居みやゐの新園守にひそのもり、

君のやひと目、光にしづく眞珠またま。

豹へうの斑ふおせしにも似る追憶おもひでもて

『こころ』を、いで、こは香爐かうろ、君に捧ぐ、――

そは幾いくしほの涙に青みゆかむ、

人見て、なほ歡樂よろこびの器うつはとせば、

ましろき『命いのち』を据すゑて、君が瞳ひとみ

照らせしわが身みながら炷たきてあらむ。

末世に

末世まつせに佛ぶつえん離かれしかの晶しやうぎよく、

熱沙ねつしやの膏あぶらに凝これるこの寶石はうせき、

こがねの塵ちりになべては舞ひいでつつ、

照りては、また音おともなく消けぬるけはひ。

色なる小篋こばこに巣すくひ、じやかうの香かに

したしみねぶる比翼ひよくの燕つばくらめよ、

南の夢にや倦うみし、北のみやこ

あだめく世のくろがみに添ひなむとて。

たをやめ、をみな、ここには榮はえ短かし、

輝く汝なが羽はねかすめ飛び交かふまに

おとろへおとなふ初夜そやの恨みあらむ。

ああ、媚なまめく戀の日は夏のうてな

なかばにねびて傾き沈むを見む、――

はかなし、汝なが巣すも墜おちて人とともに。

人は人とて

わが身をはじめ遠とほのきて

わが手の外そとをめぐれども、

星は星なる空そらの道、

鴿はとは鴿なる環わをあゆむ。

鴿は頸うなじをかたぶけて、

頸をさらにあぐるとき、

誘さそひひく手をうち拂ふ

白きつばさの撫なづるごと。

かくても媚こびて、家鴿いへはとの

やうやうなづむそのさまや、

片羽かたはあげても移れかし、

いざ、掌底たなぞこの宮のうへ。

燃ゆるこころの火のつばさ、

それにはあらね、眞白羽ましらばの――

ああ、今、姫よ、――飛びうつる

その眞白羽の君が鴿。

ささげておもふ、水盤すゐばんに

これや溢れむ神の水――

鳥は鳥とて羽はづくろひ、

人は人とてものおもふ。

姫が曲

この曲は材をギル氏(W. W. Gill)が編せる「南太平洋諸島の神話及歌謠」(Miths and Song from South Pucific.「Miths and Song from South Pucific.」はママ)中、「泉の精」(The Fairy of the Fountain.)と題せる一章に採れり。ラロトンガ(Rarotonga)の傳説なり。泉の名をヴァイティピ(Vaitipi)といふ。滿月の後、この泉より出でて、椰樹芭蕉の葉かげに遊ぶ水精の女あり、酋長アティ(Ati)、一夜人に命じて禽を捕ふるが如くして、この女を拉し來らしむ。女はこれより懷孕せり。嘆きて曰く、「腹部を剖きて子を出し、おのが亡骸をば土に埋めよ」と。既にして子を産みぬ。また曰く、「人界にて一子を設くる時、水國の母は悉く死なむ」と。アティはこの後、女の手を執りて、共に泉底に下らむとしてえせず。とこしなへに水精の女とわかれぬ。

わがこの曲は南國の王の水精の女と共に泉に下らむとするを、未だその女の子を産まぬ前、臨月の苦悶時におきぬ。

『何處いづこへ汝いまししのびて』と、

南の宮の大足日おほたるひ

まよひ、なげきに堪へかねて、

多麻姫たまひめの手を手に執とらす。

(嗚呼うたかたや、

惜しむとき、消ゆるとき。)

『何處へいまし出でゆく』と、

大椰樹おほやししげる國の王、

南の國の王なれど

今はまどひの園のくさ。

(嗚呼うたかたや、

浮ぶとて、痛むとて。)

姫はこのとき黒檀こくたんの

きざはしひとつ降おりなづみ、

大君あふぎためらへば

日は香木かうぼくの戸を刻きざむ。

(嗚呼うたかたや、

ためらへど、とどむれど。)

姫が棄てたる沓くつにこそ

晶玉しやうぎよくあそべ黄羽胡蝶きばこてふ、

姫が素足すあしのすずしさは

瑠璃座るりざに匂ふ白蓮華びやくれんげ。

(嗚呼うたかたや、

匂ふとも、棄つるとも。)

『應答いらへせずや』と、大足日

姫をひかへて問ひよれば、

かがやきいでし生華いくはなの

垂れなす姫が柔頸やさうなじ。

(嗚呼うたかたや、

問ひよれば、垂れなせば。)

『ことに身ごもる姫が身の

いづこへひとり出でゆく』と、

責むれば暗き眼眸まなざしや、

ふかき瞳子ひとみに火ぞ燃ゆる。

(嗚呼うたかたや、

燃ゆるとや、責むるとや。)

『濃こまやかなりし一歳ひととせの

ちぎりをいかにおもへりや、

姫よ』と、王のかく言へば、

姫は『今こそ語らめ』と。

(嗚呼うたかたや、

今はこそ、さらばこそ。)

黄金こがねの鈎かぎに龍王りうわうの

懸鈴かけすずたかくかかりたる、――

王は鈴索すずなは手にとらす、

姫は『今こそ語らめ』と。

(嗚呼うたかたや、

語らめと、また更に。)

おもひに姫の沈むとき、

鈴は音おとなき海の色、

燈火ともしびあぐる龍宮りうぐうの

少女をとめを彫ゑりてうかび出づ。

(嗚呼うたかたや、

浮びいで、沈み去り。)

あるひは鈴の音ねにたたば

階段きざはしのまへ㦸ほこの華はな、――

多麻姫、王のすそに伏し、

三度みたび『今こそ語らめ』と。

(嗚呼うたかたや、

咽むせぶなり、三たびなり。)

香爐かうろの猊ししやうながせる、――

姫はうちいづ、『君が手に

わが手をそへて炷たきもしつ、

白檀びやくだんの香かう、沈ぢんの香かう。』

(嗚呼うたかたや、

手に手とか、香と香。)

姫はまたいふ、『大宮おほみやの

榮華はえをば誰たれかいとはむ』と、――

姫が聲こわねは睡蓮すゐれんの

水にゆらるる夜よるのこゑ。

(嗚呼うたかたや、

夜の聲、花の聲。)

またいふ、『悔くいて、うちわびて、

さびしくひとり歸らむ』と、

その言ふふしをあやしみて、

王は『いづこへ歸るとか。』

(嗚呼うたかたや、

うちわびて、あやしみて。)

『水より湧わきし水の泡、

泉の底に生おひたちぬ、

君は南の國の王、

わが身もとより水の精せい。』

(嗚呼うたかたや、

水の精、水の泡。)

姫はまたいふ、『一歳ひととせや、

さきの夜よと、このけふの日や、

かの夜よに君はわかくして

王座わうざに即つきし夜よの宴樂うたげ。

(嗚呼うたかたや、

さきの夜と、けふの日と。)

王はかこちぬ、『げにさなり、

かの日に榮はえし日の王座。』

姫はまたいふ、『膏油かうゆ燃え、

黄蝋わうらふ照りし夜よの宴樂うたげ。』

(嗚呼うたかたや、

夜の宴樂、日の王座。)

さてしも、王が前にして、

『嗚呼愛慾あいよくと、驕樂けうらくと、

かの夜よこの身をさそひき』と、

ひざまづきてぞ姫のいふ。

(嗚呼うたかたや、

愛慾と、驕樂と。)

姫はまたいふ、『大宮の

ひかりこめたるかの夜半よはに

泉をいでし少女をとめわれ、

歡喜女天くわんぎによてんを祈りき』と。

(嗚呼うたかたや、

祈より、泉より。)

見よ、今、姫がひざまづく

衣ころものあやに影を添へ、

檳榔樹びらうじゆ下おりぬ、紫金羽しこんばの

碧みどり胸毛むなげの垂尾鳥たれをどり。

(嗚呼うたかたや、

影の瑞さが、鳥の文あや。)

姫はまたいふ、『かの夜よすぎ、

七日なぬかすぎにしその朝あした、

御狩みかりにたたす國王こくわうの

われを泉に見たまへり。』

(嗚呼うたかたや、

かの夜よすぎ、七日すぎ。)

『そのとき汝いまし白銀しろがねの

わが弓とりて隨したがへり。』

『嗚呼、その日より宮のうち、――

この身もとより水の精。』

(嗚呼うたかたや、

誘いざなへり、隨したがへり。)

姫はまたいふ、『夜よの空そらに

かかりて月の滿つるごと、

階段きざはし高き一歳ひととせや、

みごもりみちぬ胎たいの月。』

(嗚呼うたかたや、

盈みつるにか、虧かくるにか。)

遽にはかに姫はをののきて、

滿ちてもゆくか胎たいの月、――

泉の底の咒咀じゆそのこゑ

日として聽かぬ日ぞなき』と。

(嗚呼うたかたや、

かの咒のろひ、この愁ひ。)

『水の國なる法章のりおきて――

人の世に來て、人の子を

一人ひとり産うむとき、生兒うまれごの

千人ちたりは死しなむ水底みなぞこに。』

(嗚呼うたかたや、

千人ちたりとや、一人ひとりとや。)

姫はささやく、『千人子ちたりごの

泉のくにの血に叫なけば、

夜よは夜よの輪わがね輾きしりおち、

晝ひるは日の軸ぢく折れ朽つ』と。

(嗚呼うたかたや、

たふれ朽ち、輾りおち。)

またいふ、『かくて水底みなぞこに

かへりて罪を重ねじ』と、

その言の葉のあと趁おひて、

王は『われこそともなはめ。』

(嗚呼うたかたや、

重ねじと、離れじと。)

南の國の大足日

多麻姫の手を手にとらし、

二人ふたりしのびて黒檀こくたんの

きざはし終つひに降おりたたす。

(嗚呼うたかたや、

手をとらし、降おりたたし。)

紫斑むらさきふあるにほひ百合、

花は泉の戸のしるし、

二人ふたりしのびてたどりつき、

二人うかがふ水の國。

(嗚呼うたかたや、

水の國、戀の園。)

王は湧わきわく水を嘗なめ、

『いざ、この水をとことはに

かつぎてゆかむ水の底、――

今こそ棄つれ日の王座』

(嗚呼うたかたや、

束の間を、とことはを。)

弱肩よわがた白き戀の魚うを、

姫は衣ころもをかい遣やりぬ、――

衣の文あやのきらめきは

瑪瑙めなう海うみゆく孔雀船くじやくぶね。

(嗚呼うたかたや、

孔雀ぶね、戀の魚。)

たちまち青き水の空そら

王が身もまた沈みゆく、

王はとぢたる眼めをひらき、

ひとたび姫がすがた見つ。

(嗚呼うたかたや、

姫かそも、泡かそも。)

その手を王はとりたれど、

泉ゆらゆら湧き上のぼり、

姫が胸乳むなぢもさながらに

くだけちり敷しく雲母雲きららぐも。

(嗚呼うたかたや、

湧きのぼり、碎けちり。)

王はこのとき眼めも眩くれつ、

まろび去るとぞおぼえたる、

今また深き水を出で

耳には姫の聲を判わく。

(嗚呼うたかたや、

姫のこゑ、ふかき水。)

泉のくちにうかびいで、

めざめし王が髮をわけ、

姫はうちいづ、『かなしくも

水には慣なれぬ君がさま。』

(嗚呼うたかたや、

慣れぬさま、王が髮。)

姫はまたいふ、『水みなぞこは

水の少女をとめの星月夜ほしづきよ、

日の驕樂けうらくは君にあれ、

いざ』と、いひさし微笑ほほゑみぬ。

(嗚呼うたかたや、

そのゑまひ、このねがひ。)

姫はほほゑみ下くだりゆく、

ひとりうかがふ王が眼めに

象牙ざうげかたどる絃月げんげつの、

たとへば、沈む水の空そら。

(嗚呼うたかたや、

惜しむとき、消ゆるとき。)

緑のかげ

女のうたへる

緑のかげとおもひしは

みづからなせる惱みのかげ。

青野あをのの旅に憩いこふとは

つかれのやみに墜おつるその日。

泉は鳴りて、しろがねの

盞さかづきたとへさそひひくも、

あだなる野ぢのすずしさは

天津みそらも黄泉よみの荊棘いばら。

つかれなやみの纒まつはれる

みどりのかげを遠く去りて、

ただ君が手の掌たなぞこの

そのかげに入り、あくがれゆかむ。

夢の花

女のうたへる

緒琴をごととはこれ名のみにて

彈ひくは培つちかふ小指をゆびなり、

つちかひ彈ひけば、あやしくも

琴柱ことぢにかかる夢の花。

彈ひけども、音ねなく、調しらべなき、

ああ、それさへもことわりや、

百年ももとせの桐きり琴となり、

琴は今宵こよひの土と朽つ。

百年ももとせの土、二十はたとせの

憂をこめていたはれば、

ここにわが眼めのうるほひを

うつしてさくか夢の花。

歡樂よろこび――それは曩さきの日の

みどりの浪と流れ去り、

緒琴に生おひし花草の

こよひ短かき香かに堪へず。

夢のみだれか、まぼろしの

まよひか、うつつ、つちかふと

見しはをゆびのすががきか、

ああ百年ももとせか、二十はたとせか。

『君がこよひの物のねの

なにゆゑかくはせまりぬ』と、

問ふ人ありて肩おさへ、

問ふ人ありて手をとるも、

『こよひわが彈ひく物のねは

朽ちゆく琴のにほひにて、

あやしき花の面影を

見き』と、さながらいかで答へむ。

沈丁花

艶なる夜よるの黒髮は

月にきえぎえうつろひぬ、

香にほひに洩れて沈丁花ぢんちやうげ、

なほ、祕ひめつつむ花のふえ。

朧のかげはゆらめきぬ、

膚はだへに物の音ねぞしづく、――

たとへば浪のうねうねを

春は櫂かいうつ夢小舟ゆめをぶね。

照らしぬ、融とけぬ、あめつちは

宴うたげまどかにうるほひて、

月にはうかぶ月の暈かさ――

ああ、新妻にひつまの新室にひむろや。

風は紋羅もんらの浮織うきおりに

人と草との舞のあや――

ほのに映うつれる花姿はなすがた、

弱肩よわがた、それとさだめなく。

燭しよくの火ひくゆる聖殿せいでんに

いつく女天によてんをさながらの

春に、こよひは、をみなごの

よき名をささげまつらむよ。

戀のみぞ知る深き夜の

祈祷いのりは永劫とはに金泥こんでいの

紺紙こんしにきえぬ世のまこと、――

あだしごころのえこそわかたね。

束の間なりき

貴あでなるかげや、﨟らふたき

白衣びやくえほのぼの――

ああ、今なえし眼めよぎり

にほふは姫か、びやくえの

花の香かいぶき。

白玻瓈はくはりふかくおほひて、

燭しよくはその手に、

盡きざる膏油あぶら玉髓ぎよくずゐ、

消えせぬ焔ほのほ紅玉こうぎよく、

あるひはこれか。

夢こそひかり、ひまなく

まぼろしうごく、

こは何なに、ここに緑の

星かと孔雀くじやく舞ひいで、

わが身をさそふ。

貴あでなる姫よ、しばしは

その手の燭を、

しばしは掩へ。――ああ世に

わが身ぞ命いのちすべなき

ちりひぢ水漚みなわ。

ほほゑみ、光、まぼろし、

『時』のたはふれ、

束のまなりき、これさへ、

やがては眞闇まやみおくつき、――

白衣びやくえきえゆく。

宿命

花の門かどならね、胸の戸を

黄なる羽はねうち、碧あをき露

したたるひまを、眞夜まよ、眞晝まひる、

夢か、花ぞの、――とく知りぬ

その園ぬちに石人せきじんの

すがたを、われは。

あこやの貝の日はしんじゆ、

それかとまがふかがやきの

かぎろひわたり、花草は

浪としぶきぬ、いかなれば

かくもむなしき、石人の

瞳子ひとみ、まなざし。

臺座だいざをたたむ石を鐫ゑり、

見れば眞白き石ごとに

姫神、龍たつのみ車を

馳はせてこそゆけとことはに、

嗚呼誰たがたくみ、石人の

御座みくらを、かくは。

今、龍たつの羽ははうち撓み、

みくるま前を、今、なびき、

しりへに墮おつる姫神や、

右に、ひだりに、眼めもまよひ、

狂くるほし、こころ、石人の

かげにこの時。

このときいとど花草は

浪とみだれぬ、眼まのあたり

ほのほのあらしまろがりて

ゆくにか、あはれうらがなし、

わが魂たまなやむ、石人の

あやしさかひに。

こころはここにつながれて、

身は沈みゆく埴はにの星。

幻師げんしやすゑし妖えうの座ざの

あたりさりあへずわれは聽く、

光に朽つる石人の

『刹那せつな』の蠧魚しみを。

くぐもる殼からは生おひかはり、

翅つばさ掩へる當來たうらいの

鳥座とぐらぞとほき。――眞夜まよ、まひる、

まぼろし、夢の憂うかる世を、

嗚呼破やりがたし、石人の

領しらす囚獄ひとやは。

あまりりす

水盤すゐばんに

あまき露うけむ、

君がゑみ

花とさくその日。

胸に蒸す

にほひ眼めにうつり、

君がゑみ

眞晝かがやける。

あやしうも

あでに、睡蓮すゐれんの

夜よをかをす

ほこりには似じな。

わが戀の

たとへ、また、(榮はえの

古跡ふるあとや)

荒すさむ野となるも、

わがこころ

ここに、なほ、清き

水盤の

花のつゆうけむ。

夏に添ふ

花やあまりりす、

君がゑみ

花とさくその日。

夏がは

みづぐさ青み、夏川の

(妖まよはしのこれ影か夢)

水のとばりの奧ふかく

ゆららに洩るる姫が髮。

眞晝まひる青岸あをぎし、ひたぶるに

(妖のこれ眞鏡まかがみか)

いのりて更にまじろがず、

伏してながむる水の面おも。

いかなる姫か、ひもすがら、

(妖のこれ妖か)

いかなる姫が細髮くはしがみ、――

顏かほばせのはた見まほしき。

河浪のこゑ、水のこゑ、

(妖のこれはかなさか)

こゑごゑ溢れあざわらふ、

『花のおもては見がたし』と。

水草みづくさなびき、夏川の

(妖のこれその望み)

水のとばりのさはりなく

いつかは、清き面影を。

姫がくろ髮、ひもすがら

(妖のこれそのちから)

夢とも消えで、はてのはて

にほひにこもる姫が眼めよ。

さあれ、瑠璃宮るりみや歡樂よろこびの

(妖のこれそのをはり)

姫にひかれて、常夏とこなつを

百合ゆりのいづみのひとしづく。

夢のむすめ

夢のむすめ、とこをとめの

眞白手ましらでもてともなひゆけ、

永劫とはに問はじ汝いましが名は、

いづくはあれ、ともなひゆけ。

夢のむすめ、永劫とはに遠く、

いましが手の、われ左に、

右には花。――ひかる瑠璃の

花のかげにつつみて往いね。

十歳ととせは虹霓にじ、千とせはこれ

月日の瀬にめぐる燄、

夢のむすめ、古りにし代よの、

ああ、何ゆゑ舞ひかがやく。

命いのちの芽めはかのほのほに、

生葉いくはの戀虹霓にじにまとふ

たのしきこの一時ひとときをば

いましに、今日けふ、また見むとは。

夢のむすめ、にほひの姫、

風にも似つその黒髮、

その眼めはまたいとしづかに

かの色鳥いろどりあそぶけはひ。……

夢のむすめ、嗚呼さはあれ、

われをかへせ再び世に、

いましが胸むなしきまを

うつつの世にわれや生いきむ。

古墟ふるつかにも闇の小草をぐさ、

知るや、その根いだきそへば

瑪瑙の膸ずゐとけもやせむ、――

ここにひとり命いのちぞある。

夢のむすめ、うつつにいざ、

いましもまたうつつの姫、

いでやかしこ、夏にあふれ、

秋にしづくまことの日に。

海のさち

(青木繁氏作品)

あらぶる巨獸きよじうの牙きの、角つぬのひびき、――

(色あや今音ねにたちぬ。)否、潮うしほの

あふるるちからの羽はぶり、――はた、さながら

自然の不壞ふゑにうまれしもののきほひ。

すなどり人びとらが勁つよき肩たゆまず、

胸肉むなじし張りて足たらへる聲ぞ、ほこり、

よろこびなるや、たまたまその姿は

天なる爐ろを出でそめし星に似たり。

かれらが海はとこしへ瑠璃るり聖殿せいでん、

わたづみ境さかひを領しらす。さればこの日

手に手にくはし銛もりとる神の眷屬うから、

丈たけにもあまる大鮫おほざめひるがへるや

魚なの腹碧あをき光を背せに負ひつつ、

上のぼるはいづこ、劫初ごふしよの砂子いさご濱べ?

琴天會に寄す

美酒うまざけ、ほほゑみ、ともに匂ひかはし、

甕かめより、はた面おもてよりあふれいでぬ。

擧あぐるは玻瓈はりの盞さかづき、それのみかは、

藝げいの日照らす宮居みやゐを彫ゑりちりばめ、

ましろき膚はだへかがやくみ姿をば

浮べて世にも奇くすしき高坏たかつきこそ、

想おもふに、一夜ひとよまとゐの中にはあれ、

さてしも歡樂よろこび、人を醉はしむるや。

たをやめしのべば花の巴里パリの園生そのふ、――

朽ちせぬ光のべたるみ空そら趁おへば、

なつかし、伊太利イタリの旅路たびぢ、精舍しやうじやの壁。

言の葉小舟をぶねいつしかわれを載せて、

曉、夕と移る物がたりの

舵かぢとり、帆あげてくだるせいぬ、あるの。

三十六年十月

それゆゑに

日は照りぬ、

そしらぬけはひ、――

日は今雲に舞ひうかぶ、

よしさもあれや

そしらぬけはひ、――

それゆゑに君を戀ふ。

著莪しやがさきぬ、

そしらぬけはひ、――

また花さきぬ花あやめ、

わりなくも君、

そしらぬけはひ、――

君やかく、君やなぞ。

著莪すでに、

また花あやめ

すでにしをれき、六月みなづきの

百合こそさかめ、

そしらぬけはひ、――

君はただひとり行く。

百合さきぬ、

そしらぬけはひ、――

百合はにほひて弱肩よわがたの

君が丈たけなる、

おもかげ似たり

わがゑし園の百合。

君はなぞ

そしらぬけはひ、――

百合はくづれぬ、みなづきの

戀やみながら

あだなるねがひ、

あだなる日われひとり。

魂の夜

午後四時まへ――黄きなる

冬の日、影うすく

垂れたり、銀行の

戸は今とざしごろ、

あふれし人すでに

去り、この近代ちかつよの

榮さかえの宮は今、

さだめや、戸ざしころ――

いつかは生せいの戸も。

かくてぞいやはてに

あき人びと、負債おひめある

身の、足たづたづと

出でゆくそびらより、

黄金こがねの音おと走はしり

傳へぬ、こは虚むなし、

きらめく富とみのうた、

惱みの岸嘲あざみ

輝く波のこゑ。

見よ、籍册ほさつの金字きんじ――

星なり、運命うんめいの

卷々まき〱音おともなし。

一ぢやう、おひめある

ともがら(われもまた)

償つぐなふたよりなさ、

囚獄ひとやの暗やみふかき

死しの墟つか、――いかならむ、

嗚呼、その魂たまの夜よる。

誰かは心伏せざる

煙は鈍にばむ日に、

映うつりて、くらきむらさき、

ながれぬ、霜の壓おす

弓かとひくく撓たわみぬ。

悶もだゆるけぶり、世の

底なるいぶきか壞くゑくゑ

うづまき去るかなた、

ねびてぞ墜おつる日黄きなる。

夕ぞらよどむとき、

靜かに、重おもし、すさまじ、

巷ちまたを空むなぐるま

まろびてゆくに似たらず。

見よ、今煤すすばめる

「工廠こうしやう」いくむねどよみ、

その脊せをめぐらすや

いさ、かの天あめの耀光えうくわう。

聖せいなるちからには

后土おほつちとどろき、蒸して

騰あがれるゆげには

うるはし花こそこもれ。――

かからむ花はまた

世になし、ひらめくひかり

遽にはかに牕まどを洩れ、

強き香か照らす束のま。

鳥啼なく――ああ鐵槌つちの

ひびきよ、かぎろひけぶる

ただなか、戰たたかひの

胸肉むなじし刻きざむ聲なり。

誰たれかはこのほとり

ゆく時こころ伏せざる、――

痍きずにか、身に逼せまる

道にか、高き御名みなにか。

三十八年三月

家根のくさ

家根やねのくさひでりにかわく、

かわくとて垂るる頸うなじや、

露もなき葉ずゑの眼もて

燒やくる見よ、甍いらかの波の。

家根の草かくて乾くか、

夏はこれさかりのみやこ、

棟と軒、甍と瓦、

蒸されつつ人はひそめり。

かの瓦照りてたはむれ、

この甍やけてほほゑむ、

人の世はそのかげに、――今、

轍わだち鳴なり、人はそよめく。

ただ悶もだえ、ものの朽ちゆく

にほひのみ、(さればぞ天あめの

光あれ)人はいつより

ちりづかのかげの弱なよぐさ

家根の草つひにかわきか

かわくとも、これや黄金こがねの

髮おほひ漲みなぎるなかに

きえてゆく紅玉こうぎよくのはえ。

譯詩三章

○

甘睡うまいよ、をぐらき、ふかき、

掩ひねわが身のうへを、

願望ねがひはあだのみ、うまい、

うまいよ、あくがれそれも。

いま、われ盲目めしひとなりぬ、

今、また惡あしけく、善よけく、

そのかげこころに滅えぬ……

ああうらがなしきしらべ。

懸床つりどこゆららと、われは

墳塋おくつきごもりて搖ゆする、

こわねもひそめて、去いねよ、

寂寞じやくまくただこひもとむ。(ヱルレエヌ)

○

丘をか、かきね、疾とく飛とびすがへば

薔薇さうびだつ緑ひとつら、

はた黄きなる車の燈火ともし

うつら眼めになべてを混まじふ。

たそがるる谷村たにむらのをち

ややに黄金こがねあからみゆきぬ、

ちさき木々きぎたひらにわたり、

よわき音に啼く鳥もあり。

いつくしき、やはらこの秋、

かなしともなくて、うるはし、

なしのまま倦うんぜるわが身

軟風なよかぜにゆられて夢む。(おなじく)

○

樹立こだちの額ぬかのうへ

ながむる月青く、

枝ごとに

たゆたふ曲ふしや

幽かすけき吐息といき……

ああ、あくがれごこち。

柳の木のふたつ

なみだち、かつ嘆く、

ひとつは微風そよかぜに

ひとつは河みづの

鏡の深き底……

夢みて夢をわれら。

むりやうの

圓寂ゑんじやく

しととに降るや、白き

夜霧よぎりの、月そそぐ

影に彩あやなすあたり……

移らざれ、『時』のまどけさや。

(おなじく)

夏まつり

一

金きんの屏風びやうぶをめぐらして

祭物見まつりものみのしつらひや。

金の屏風の繪模樣ゑもやうは

光琳もやう、花もやう。

花は紫、かきつばた

水もあやなる雙鴛鴦つがひをし。

祭物見まつりものみの大店おほだなの

塵だにすゑぬしめやかさ。

縁えんじやのさきの美うつくしき

顏もそろひし女客をんなきやく、――

見ればとりどり水草の

祭の浪に誘さそはれし

それとはかはる身だしなみ、

清らやここの中なかむすめ、

ことし十五の初夏と

うちそやさるる娘まゆ、

かひな、肩つき、たをやかに

をどりのふりの裾さばき。

をりもをりとて町内ちやうないの

屋臺やたいちかよる絃いとのねや、

足あしなみ浮うかれ行く人の

表おもてどほりの賑ひに、

眉ねすこしくうちひそめ、

そむけがほなるそのけはひ。

十五初夏、くろがみの

艶つやに厭ふか町の塵。

さなそむけそよ花の顏、

慕ひよる眼めのなからずや、

しばしの興きようにことよせて

手をとるひまもなからずや。

君を慕ふがわかさにて

七人ななたりきそふ夏まつり、

君を慕ひて隣町となりまち、

われや數かずにも入らざらむ。

派手はでなるそろひ肩ぬぎて

聲張りあぐるこころ意氣いき、

そのすがた見てくらぶれば

戀にふさはぬわが思。

君を慕ひて、よろこびの

花笠はながさいつかかざさむと

夏の日ざかり人ごみの

なかにまぎれて立てるとき、

生憎あやにくさわぐ胸のさき

警固けいごの杖のとどろとどろ。

二

たとへば、君が優姿やさすがた

夏は水際みぎはの花あやめ、

むかしおぼゆる大江戸おほえどの

水の香かながく君に添ふ。

われも氏子うぢこの、君もまた

おなじゆかりの氏神うぢがみや、

神の祭の日に遇あひて

ふたり手をとるこのえにし。

戀はわが眼めの瞳ひとみかげ、

情なさけは君が花とさく。

眞ひるは人め避さけたれど

夜街よまちを君は厭はじな。

かけつらねたる挑燈てうちんの

巴繪ともゑづくしの華はなやかさ。

灯ほかげあふるる夜の道、

いざいざ戀の神の道。

二人伴ともなふ一歩ひとあしに

みやこの土もよろこばむ。

ふたり歌はむ一節ひとふしは

なかばを君にゆづらまし。

いざいざ戀の神の道、

夜の灯ほかげに君とたどらむ。

三十六年六月

鏽斧

(夫の伊佐奈、妻の止利)

夫の伊佐奈、妻の止利といふは海山に親しき名を擇びたるに過ぎず。伊佐奈は海の人なり、壯時橘の樹蔭に蜑の少女を慕ひて、戀の敵なるその友を殺せり。されど少女の意は彼に嚮はずして、亡き人の後を逐ひて海に沈みき。伊佐奈はこれより山中にさまよひ、迅雷の一夜、端しなくも宿りし家の女と相結ぶに至る。妻の止利といふはこの女なり。海の紀念なる珊瑚と眞珠とは止利が念珠を飾れり。唯橘の實を祕して、私かに門邊に埋めおきぬ。橘は芽ざしてより既に四十年を經たれども、未だ曾て花さかず實らず。こはまた宛ら伊佐奈の胸中なり。海知らぬ止利が嫉妬はこの祕密に萌して、婚後一年、伊佐奈が携へ來し妖鏡を偸見して、始めて鏡裏に海波橘樹を窺ひ、白影漸く凝りては少女が姿を知り、少女が手を執る夫を嫉みぬ。たまたま尼僧來りて鏡をとれば、妖影消えて、ただ剃髮したる少女を見たり。尼僧は懺悔の功徳を言へり。伊佐奈はなほ祕密を持して老齡に達しぬ。橘を咀はむといひて手に斧を取り、止利と相對し、夫の斧を下さむとするを妻とどめ、「來む歳ぞ實らむ、やよ待て」と言はしむ。伊佐奈はこの時はじめて胸中を洩らしぬ。白き少女の影は遽かに止利の眼を遮りて、夫が咀ひの言葉に答へず。斧は下りて、橘は根より僵れ、伊佐奈も亦呼息絶えたり。この中鏡のことはわが邦の傳説に據りたり。もと夫が鏡裏に見るは亡き父の面影なり。果樹を咀ふは今もなほ所々に行はるる古來の習俗なり。

『夫せの伊佐奈イサナ、翁おきなよ。』『それや

しわみたる曲嘴まがはしの妻めの

止利トリよ、など、さやは囀づる――

夫の伊佐奈、翁と――措おきね。』

『さもあらば汝なれ古ふる伊佐奈、

潮うしほ鳴る海坂うなさかのぼり、

喘あへぎつつ、白泡しらあわふける

老おいくぢら、翁よ、それか。』

『今日けふもまた宵よひやみならで、

祥さがなくも怪鳥けてう叫びぬ、

あきはてぬ、この深山みやまはや、

嘴太はしぶとの、妻めよ、死烏しにがらす。』

『死鯨しにくぢら。』『やよ、老おいがらす。』

『嗚呼、わが夫せ、口ぎたなくも

罵ののしれり、おもへばわかき

日のつやも失うせにし言葉。』

『わかき日を汝なれも戀ふるや、

ただ戀し、われは古里ふるさと、

親おやの國、母の渚べ、――』

『戀の舟――それのみならじ。』

『なほ嫉ねため、――舵かぢの枕か

は、は。』と夫せの伊佐奈の言へば、

妻めの止利は『年月としつき汝なれが

海がたり、また磯がたり。』

『黒水くろみづの晝はよどみて、

朽沼くちぬまの夜よるの怪火あやしび、

山小菅やまこすげなびかす風は

磯の香かのひろきを知らず。』

『夫せの伊佐奈、汝なれとあひ見て

はや四十よその年月かさね、

海がたり、また磯がたり、

海を見ぬおのれも飽きぬ。』

『倦うみにしか、はや、わが胸の

底をしもとめざるひまに。』

『汝なはいへり、彼處かしこには舟

眞帆あげて笑ゑみつつすすむ。』

『げにさなり。』『汝なはまた言へり、

かしこには潮うしほと潮、

干ひてはまた滿つよ朝ゆふ、

雄をの浪は雌めの浪趁おふと。』

『げにさなり、されどまた、』『ああ、

けふこそはわが海がたり

はや聞きて、はや飽きてあれ、

その海を。彼處かしこにはまた――』

夫せの伊佐奈今は默もだしぬ、

『かしこには鴎てふ鳥、――

青浪あをなみに白鳥しらとり映うつり、

千重ちへの浪、百千ももちの鴎。』

夫せの伊佐奈うちほほゑめば、

妻めの止利はいと誇らしげ、

『金色こんじきの如來によらい阿彌陀あみだの

御經みきやうをも誦ずんずるわが身、

『さればまた弛たゆくはあれど、

夫せが淨土じやうど、海としいへば

夜よがたりの片帆かたほ、片羽かたはの

ふしぶしもつばらに知りぬ。』

『それこそは、止利、曲嘴まがはしの

えうもなき空囀からさへづりよ、

ごくらくの妙音鳥めうおんてうも

汝なが聲にひるみやすらむ。』

『さな言ひそ、わが夫せの伊佐奈、

海の人、伊佐奈は海の

美魚うましうを、鮪しびつく銛もりを

若わかうしていしくもうちき。』

『その銛もりを、星のごとくに

射いてもゆくその銛を、止利、』――

夫せの伊佐奈妻めの止利見すゑ、

『その銛を何とか知れる。』

『鮪しびつくと汝なはいふ、さあれ

わすれたり二人ふたりは今日けふを、

みのらざる門かどの橘

咀のろはむと言ひにしものを。』

夫せの伊佐奈手には鏽斧さびをの、

乾からびたる腕かひなに重く、

たゆたひて、『ああただ一樹ひとき、

橘もかの日のかたみ。』

『實みのらざる、何の紀念かたみぞ、

むなしかる夢や。』『さな、さな、

妻めの止利よ、さな啄ついばみそ、

汝なが口は老おいて鋭するどし。』

『實みのらざる、否いな咀はむと、

橘を、――むかしのかたみ――

汝なれこそは言ひも出でつれ。』

『げに紀念かたみ、古里の種子たね。』

『汝なれこそはいくばくもなき

この命いのちつきぬその間に

橘の花さく見むと、

花にほひ、實みのるを見むと――』

『橘はにほはざりきな、

海の郷さと離かれて山國やまぐに、

谷あひの日影をわびて、

わがごとく年をへしのみ。』

夫せの伊佐奈また言ひつぎぬ、

『汝なれを見しその日のはじめ、

迷ひ來こし谷村たにむらの夜よる、

この山にいかづち裂さけぬ。』

『亡なき母はつねに語らく、――

雷電らいでんの社やしろの神は

えうなくば人を痛いためず、

神怒かむいかり、蹇者あしなへも起つ。』

『火ひは走はしり、焔は飛びき、

かの夜よに』と伊佐奈のいへば

妻めの止利は『神の結びし

えにしこそ四十よその年月。』

『そのをりにわが祕ひめし玉

三つぞ、ああ、白きは眞珠しんじゆ――

海の月、赤きは珊瑚さんご――

これや日か、海の月と日。』

妻の止利は『げにその二つ

汝なが手よりわが手に傳へ、

今もかくる念珠ねんじゆの薏苡よくい、

山の實みを照らす日と月。』

『そのひとつ汝なれには祕ひめて

この門かどべ埋めおきたる、

橘のこれぞ生珠いくたま、

芽ざしし日、はじめて告げぬ。』

『などや、夫せの伊佐奈よ、惜しみ

祕ひめにけむ。』『あはれ妻めの止利、

埋めしは胸のひめごと、

生おひたちし木にも花なし。』

『花もなく、また實みもなきや、

夫せの伊佐奈。』『いざ咀はなむ、

來む年ぞ繁葉しげはの海の

浪の華はな枝にかかりて、

『くだけちるにほひを知らむ、――

海ちかき籬まがきのけはひ、

浪洗ふ沙いさごの光。』

妻めの止利はただ聽きに聽く。

『妻めの止利よ、いざ咀はなむ、

鏽斧さびをのをわが手にあげて

橘の根をうたむとき、

しばし待て、やよと汝なは言へ。

『何ゆゑとわが問とはむとき、

來こむ年ぞ花はさきなむ、

あやまたず實みのりはせむに、

橘となだめて言ひね。』

妻めの止利は老おいの眼めほそめ、

老おいの口ゆがめてあれど、

夫せの伊佐奈鏽斧さびをのとりて

ほほゑまず、はたまじろがず。

橘をうたむとあげし

さび斧は、やよ待まて――と妻めの

止利のまだ言ひもあへぬに

力ちからなく夫せの手すべりぬ。

夫せのまへに白き影ゆき

手をおくと妻めの止利は見て、

妻めのまへにゆたにまひろき

海を夫せの伊佐奈は戀へり。

夫せの聲は潮うしほのしぶき、――

『汝なれと見し一年ひととせの後のち、

呪女のろひめの咀のろひをこめし

古鏡ふるかがみわれぞもて來し。』

夫せの聲はうづしほのこゑ、――

『呪女のろひめは麓ふもとの村に、

古かがみ映うつりしは何、――

海戀ひし、母の渚べ。』

夫せの聲は雄をの血、雌めの血の

ささやきか、――『ああ、父のかげ、

母のさま、――映りしは何、

浪の夢、磯のまぼろし。』

夫せの聲は荒浪を裂さく

銛もりの音おと、――『愛はしきわが妻めよ、

まぼろしのその古鏡

偸ぬすみ見て、さてこそ汝なれは――』

『われはげに、われは嫉みぬ、

尊たふとかる淨土の寺の

尼君あまぎみの來きまさざりせば

身み亡うせけむ、おのれその時。』

『妻めの止利よ、見きとは何の

影なりし。』『涯はてなきは海、

浪ぞゆく、空そらはにほへり、

ふくよかに海は處女をとめの――』

『海はげに處女をとめの胸か。』

『やがてまた青き樹蔭こかげの

籬まがきみち。』『ああ、妻めの止利よ、

青葉こそもとの橘。』

『その樹こかげ、夢は花さく、

黒髮くろがみのわかき手弱女、

あらはなる踵くびすもねたし。』

『妻めの止利よ、そはわがもとの――』

『そは知らじ、その手弱女の

手をとりて、いましは涙、

そのをりよ、(ああ嫉きかな。)

尼君はここに來きましき。』

妻めの止利はさらに口疾とく、

『尼の君鏡見すかし、――

たをやめは頭髮かしらおろしぬ、

あな尊たふと、懺悔ざんげと言へり。』

『ああ、懺悔。』『その古かがみ

尼君の寺にをさめし

その日より映うつす白鵠びやくこふ、

孔雀、鸚鵡あうむ、淨土のすがた。』

『古鏡さもあらばあれ、

この老おいの胸をばいかに、――

わが銛もりは友を斃しき、

戀がたき――眞鮪ましびや、あはれ。

『その銛を、星のごとくに

射てもゆくその銛を、止利、』――

夫せの伊佐奈妻めの止利見すゑ、

『その銛を何とか知れる。』

妻めの止利を夫せは見すゑつつ、

『たをやめは彼が後あと逐ひ、

深海ふかうみの底そこに沈みき、

われは、ああ、いかに、汝なが言ふ

『老鯨おいくぢら山に乾からびぬ、

さあれ戀し、戀の古里、

たちばなの青き樹こかげの

籬みち、母の渚べ。』

妻めの止利はひとりおどろき

あやしみぬ、更に嫉みぬ、

その海を、手弱女を。――夫せの

伊佐奈いふ、『過すぎしは空むなし。』

夫せの伊佐奈鏽斧さびをのとりて、

『橘をいざ咀はなむ、

さきにわが契りおきつる

言の葉を、妻の止利、いひね。』

夫せのまへに白き影ゆき

ささやくと妻めの止利は見て

默もだすとき、斧は下くだりぬ。

橘は根より僵たふれぬ。

あなや斧、あなや橘、

花もなく、つひに實みもなし。――

『あなや妻めの止利』と言ひて、

夫せの伊佐奈呼息いきたえ果はてぬ。

(明治三十八年七月刊)

底本 / Source edition

底本:「日本現代文學全集 22 土井晩翠・薄田泣菫・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨集」講談社
1968(昭和43)年5月19日初版第1刷発行
1969(昭和44)年10月1日第2刷
底本の親本:「春鳥集」本郷書院
1905(明治38)年7月
入力:広橋はやみ
校正:荒木恵一
2014年11月14日作成
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TEI
/works/046161_001055/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/046161_001055/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/046161_001055/

蒲原 有明「春鳥集」(旧字旧仮名)、底本『日本現代文學全集 22 土井晩翠・薄田泣菫・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨集』講談社、1968年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 046161_001055, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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